クローチェへの旅 その1

クローチェへの旅 その1

クローチェ

いま手元にベネチット・クローチエ 『美学』(『世界大思想全集』46巻)春秋社 昭和5年のリプリント版がある。(世界言語学名著選集 第1巻 クローチェ『美学』、ゆまに書房)。彼はイタリアの思想を考えるときには不可欠の人物であり、戦前から日本に紹介され最近でも時々日本語で紹介がなされるイタリア思想界の大物であり、美学の研究者だ。これからクローチェを巡る旅を始めたい。

21世紀になって思想の中心がフランスからイタリアに移りつつあるという。実際ハイデガーやベンヤミン、メルロー=ポンティをいまの状況に照らし合わせながら丁寧に読み直して新しい解釈を生み出している面白い思想家はイタリアに多い。その多くが美学者だ。美学というと哲学の一部門のような気がするが、イタリアにおける美学は政治経済科学芸術すべてにわたって価値判断を行う専門家という位置つけで大学の中に哲学の一部の専門家というわけではなくて美学の専門の先生が独立して講座をもっている。日本でよく知られているウンベルト・エーコもそうした美学の先生である。したがってどのような分野にも美学という立場から発言する。その状況については下記のURLのblogにまとめておいた。

イタリア現代思想 美学を考える

イ タリア現代思想 美学を考える その2

インタラクションデザインを考えていくときにもイタリアのデザインや思想の背後にある美学の動向は目が離せない。というわけで、ちょっと前からイタリアデザイン史の再構築を今試みている。このあたりは下記で紹介した。

イタリアデザインモダニズムを再考する

イタリアモダニズム研究メモ2010年9月7日版

イタリアンモダンデザイン論 第1巻「感覚の機能主義」 目次完成

イタリアモダニズムデザイン研究第2巻「速度の美学」

イタリアにおける美学の独特の位置はクローチェによって確立されたと言ってもいい。彼の知のあり方の全貌を知りたいというのがこの旅の目的だ。膨大な著作がある人で半端なことでは全体が理解出来ない。日本語では倉科 岳志氏の『クローチェ 1866-1952 』がでているが、もうすこし美学よりで考えたい。

そんなことをいまイタリアのデザインの研究を一緒に行なっている倉西幹雄さんに相談していたら、彼が修士論文でクローチェを論じたときに参考にしたGian N. G. Orsini  Benedetto Croce Philospher of  Art and Literary Critic (1961)を紹介してくれた。「古い本だから手に入るかなあ?」というのでAmazonで検索したらなんと1ドル!送料を払っても非常に安価に入手できた。

大学の図書館から処分された本で非常に状態がいい。あと書物としての構成もいわゆる「学術書」で謝辞、序論、本論、付録、注、索引という構成もしっかりしている。この構造を守って書いてあると右から左に(英語だから左から右か)に理解できるんだよね。文体も明晰なアカデミズムのスタイルで慣れ親しんだものだ。というわけでまずはこの一冊を読んで次のステップに進めたいと思った次第である。

メルロー=ポンティへの旅 その4

ハイデッガー 解釈学的現象学 その1


フッサールからハイデガーへと旅を進めていきたい。そのまえに少し復習。フッサールは分析の道具をたくさん作っている。ちょっとまとめておこう。


現象学の道具箱 フッサール現象学の整理


自然的態度 natural attitude

妥当性

現象学的還元

超越論的還元

形相的還元

想像力

自由変更

理念型

道具

明証性 intelligibility

静態的現象学

発生論的現象学


Ideationを超えて


フッサールの現象学は思考の道具をたくさんつくっている。これを使ってイノベーションの方法としてデザイン思考を整理してみると面白いことがわかる。デザイン思考は3つの層からなっている。第1の層はフィールドにおける観察つまり見る(観る、視る)ことである。視ることによって人々が自然的態度をとっている状態の「スイッチ」を切る。これが現象学的還元であり、存在の問題まで考えたときには超越論的還元となる。第2の層では還元したものを想像力にまかせて自由に変更していく。Ideationである。想像力による自由変更は頭だけではなく様々な素材を使って行われる。これを現象学の視点からみると、フッサールは『論理学研究』から『イデーン』にかけて直観の優位性を唱えていた。自由に想像力をつかって自由変更をおこなうことを   Ideation(本質視)と呼んだ。これが形相的還元である。つまり自由にアイデアを創りだしていくのだ。視ることとと自由変更の組み合わせは静態的現象学である。


フッサールはここまで考えを進めて、興味の対象を現象学的還元を繰り返して獲得した「理念型」あるいは 「自己同一的なもの」の起源を求める現象学、つまり発生論的現象学へと興味を移していく。歴史的なコンテキストに興味が動くのだ。歴史的コンテキストのことを解釈学では歴史学的地平と呼ぶ。これは時間性の次元である。同時代的な社会的なコンテキスト(これは解釈学では現在的地平という)も考察の対象になる。デザイン思考ではコラボレーションをおこなう第3の層になる。他者とコミュニケーションをして歴史と社会の地平を共有していくのだ。



問題は静態的現象学から発生論的現象学へと、つまり時間軸を扱うことができる現象学へとどのように展開させるか、である。フッサールの弟子であるハイデッガーはフッサールが『イデーン』で試みた方法には納得がいかなかった。彼は『存在と時間』(1927)において、フッサールの現象学が我々の精神的な世界と日常世界での経験の間にある深遠な関係を説明しえないとした。フッサールが外部の物理的な世界にこだわって思索を展開する態度を変えないことを批判した。フッサールの現象学は物理的な存在を視ることを前提としているからだ。つまり物理的な世界と精神的な経験を別のものとしているのだ。これは言うまでもなくデカルト心身二元論のままである。考える事と存在することは別としているのだ。ハイデッガーは考えるためには存在しなくてはならないとする。存在(Being)が先行するのだ。


我々が世界の中にどのように存在しているかが世界を理解することに深く関わってくる。つまり考える事と存在することは深くからみあっている。こう考えることでハイデッガーは現象学を知識に関する学問      epistemology からいま現象として存在している形やカテゴリーについて考える学問 ontology に変換するべきだと主張したのである。我々が世界に関わったときに世界はどのように現れてくるかが大切だとしたのである。



デカルト以来哲学者は人間の精神は理性と意味を司っているとしてきた。精神が世界を観察して、それに意味を与える。現象を観察して抽象化して意味を明らかにして行動の計画をたてる。ハイデッガーはこの伝統的な考え方を180度ひっくり返した。意味は精神の中にあるのではなくて世界の中にある。これがハイデッガーの主張だ。意味が生まれるのは我々が社会のなかで実践的に行動をしたときのみである。我々は世界と出会いインタラクションを行う中で意味を形成していく。理解は世界の解釈の積み重ねである。これが彼の現象学が解釈学的現象学と言われる所以である。


したがって「私」は個ではなくて社会の中に埋め込まれて存在している、つまり ドイツ語でDasein, 英語で  being-in-the-world, 日本語では世界内存在なのだ。なにか目的をもって社会と関わっているときに意味が生まれる。そして人間が世界と関わりあう時に道具がうまれてくる。

メルロー=ポンティへの旅 その3

メルロー=ポンティへの旅 その3


なかなか道は険しくて前に進まないが、今回もフッサールの話をしたい。


フッサール 『イデーン』の時代


さて、ここからが本番。根源へと向かう方法をフッサールは還元と呼んだわけだが、デカルトがとった方法は「真・偽」の判定だった。彼の懐疑は真偽判定なのだ。一方、フッサールの還元は我々が真理だと感じていることへの判断停止を求める方法である。われわれは普通に経験している現象を自然な現象と勘違いしてしまう。それはその現象に慣れ親しんでしまっているからだ。フッサールはそれを自然的態度 natural attitudeと呼んだ。この世界にいる限りものごとは自明だ。世界がどのように成り立っているかが不問になる世界である。この判断を停止することが必要なのだ。これをエポケーと呼んだ。括弧に入れるとも言う。現象学的還元ではその「妥当性」を停止させられるのだ。これをメルロー=ポンティは世界が成り立っている仕組みの「スイッチを切ること」と見事に説明したという。(斉藤、75ページ)これが現象学的還元だ。


フッサールの哲学で興味をひくのは丁寧というか、ゆっくりとした作業プロセスを積み重ねていくところである。まず、志向性という枠組みをつくって、限界まで思考し、次に現象学還元という枠組みをつくってnatural attitude を可能にしている仕組みの「スイッチ」をきるが、そこでまた限界にぶつかり、次のステップの模索が始まる。判断を停止して中立化してしまっては先に進まないのである。スイッチを切っても存在しているものを考える方法が必要になる。そこには何が現象しているのか。斉藤氏は次のように述べる。


「(純粋現象は)もはやそれ以上に遡ることのできない最終的な地盤であるがままで、全くの不確実性と両立していることになる。別の言い方をすれば、それは全く不確実なものでありながら、そこから以外には世界は始まりようがないという意味で(世界のすべてはそこから始まっているという意味で)普遍的なのである。」(斉藤、96ページ)


現象学的還元で世界が成り立っている現象の構成を知る。これを構成分析という。これはわかる。だがその現象に先立って「純粋な現象」が成立しているところはどのように説明すればいいのか。フッサールはこれを超越論的還元という。カントは経験に先行する先験的なモノに関する学を考えそれを超越論的と呼んだ。フッサールは還元を経て獲得された純粋経験が超越的だとしたのだ。


だが、これだけでは現象の外部に絶対者・独裁者を想定した状況とかわらない。純粋現象とは何かを考える作業が必要になる。フッサールはこれを「形相的還元」と呼んだ。この議論に進む前に先ほど触れた「構成分析」について説明しておこう。まず物理的な存在を考える。ウサギをウサギとして認識出来るのは「実質を伴って現象している」ノエマ(noema)とウサギの本質について考えるはたらき作用ノエシス(Noesis)の相関作用があるからである。たが知覚にはものの知覚と行為の知覚がある。この第2の分離に関してはインタラクションデザインに現象学を持ち込んだPaul Dourishが The Where the Action is: Foundations of Embodied Interaction(2001)において説明しているが、ウサギを見ている現象を考えると、ウサギをみてうさぎだなあと思っている静態的現象学に加えて、ウサギを見ているという行為を時間的流れの中で意識している面もある。「本質」と対象がどのように構成されてくるかを考える方法をフッサールは発生的現象学と呼んで分けた。(斉藤116p,Dorish 105p)


形相的還元」とは、前述したように意識しているものをnoema、ものを経験している意識をnoesisと呼び、この枠組をつかうことで日常生活の中で生じている現象を我々はどのように認識しているかを探る。斉藤氏は机を例にあげている。いま私の目の前に「私には机とおもわれる」ものとして目の前に物体が現象しているとする。だが机とは「何であるか」つまり本質について我々は明確な意識を持っているわけではない。だが「机」が何であるかを知らないわけでもない。「机」の「本質」は私が「机」をそこに見ているときに何らかの形で理解されている。それをはっきりさせるには想像力を使う。机を変更してみるのだ。目の前の机が天板が丸で足が3本、茶色で木製だする。だが天板を四角にして足を4本にして色を黒にと変形してもまだ「机」だ。材料をプラスチックや金属にかえても机だ。


一方で天板がボコボコだったり足がイビツで天板が傾斜していたり材料がやわらかすぎたとしたらそれは使い物にならなくて机ではなくなる。など想像力を使っていろいろと変化させてみる。そのうち、机が机である「理念型」を満たすには「それを使って人が本を読むなり、パソコンを操作したり、ものを書いたりするための道具」という本質であることがわかる。(119ページ)こうした作業を繰り替えていているうちに、私は机が何だあるかをありありと直接に捉えることができる。この状態をフッサールは明証性intelligibility)と呼んだ。本質が明証性において直感されているという。現象学は知覚をもとにして明証性を獲得する方法なのだ。


形相的還元は明証性が獲得されたあとで行われる。斎藤氏の説明を引用しておく。


このような「明証性」(それは、現象である限りの現象がすでに有しているものである)の内で、現象するものの「本質」を想像による「自由変更」をとおしてあらためて明確な直感にまでもたらすこと(「本質直感」ないし「本質看取」、あるいは「理念視」ー「理念」としての「本質」をみてとることーと呼ばれる)、これが形相的還元である。(123ページ)


スイッチを切った状態の還元が超越論的還元であり、スイッチをきったものを自由に変更していくのが形相的還元だ。ものと意識の関係に注目するのが静態的現象学で、現象が生まれてくる時間に注目するのが発生論的現象学だ。どちらを先におこなってもよい。二つの還元をおこなうことで「すべての存在妥当と真理妥当を停止されて純粋に『私には〜と思われる』という仕方で保持された『現象』が、その『何であるか』において明確な直感に与えられている」と斉藤氏はまとめている。(128ページ)


ようやくここまで来た。これから時間の問題を考えていかなくてはいけない。メルロー=ポンティがフッサールを読みながらたどった道をなぞっていくような旅になってきた。







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