フィリピン訪問レポート

March 28, 2006

jyouei

*2005年10月に訪問したフィリピンの訪問レポートをこれまでに2度お届けしてきました。今日はその第3弾です。

日本では、人口の4分の3が既に戦後生まれであると言われています。戦争は過去のものになりつつあると言われ、社会の核となる世代も戦後世代が大半を占めるようになりました。
一方、中国や韓国では徹底した歴史教育の下、未だに色々な論争が戦わされているのは周知の事実です。同じように戦争の犠牲となったフィリピンでは、若い世代の声はなかなか報道されません。一体どのような認識を抱いているのでしょうか。

大学生だった2000年にフィリピンを訪問した際、私は自分より年下の高校生から「日本人は怖い民族だと思っていた。戦時中の残虐行為について、祖父母から聞いていたら怖かった。でもあなた達に会って印象が変わった」と言われました。同世代、または少し下の世代でさえ、私達日本人よりも歴史を語り継いでいる印象を受けました。

それから6年後の昨年10月、私は再びフィリピンを訪問しました。
数年前と同じように、自分達より年下の世代でさえ歴史のことを知っている、そう思っての再訪でした。しかし、今回はいくつか異なる出来事に遭遇します。

戦跡を巡っていた時のこと。貸切バスに乗った学生集団がやってきました。何やら奇声を発して大騒ぎ。お祭りなどでは大いに盛り上がりを見せるフィリピンでは珍しい光景ではありませんでしたが、そこは戦跡です。一緒に戦跡巡りをしていたフィリピン人のおじいちゃんが寂しそうな顔で、一言こう言いました。
「若い世代はわかっちゃいないんだ」

日本と同じだ。そう感じた瞬間です。その後も、今回の訪問で元日本兵のビデオメッセージを見たフィリピン人の若者の中には「昔のことでよくわからない」という反応もありました。

その反応を見て、とても危機的なものを感じたのは言うまでもありません。中国や韓国のように、いつまでも語り継いでいくことの方が健全に思えたのです。加害国も、犠牲国も、その歴史的事実を忘れてしまったら、一体どうなるでしょう。同じ事を繰り返し兼ねません。

日本だけではなく、フィリピンでも同じ問題がおき始めています。それに対して、若い世代同士でつながっていける仕組みはないものか。そう私は考え始めました。来年の春の訪問時には、ビデオメッセージを若い世代にも見てもらうことで、日本とフィリピンが連携をしながら戦争を語り継ぐ方法を模索していきたいと思っています。



(22:52)

February 23, 2006

15089172.jpg2005年10月、元日本兵のインタビューを戦争の傷跡が未だに癒えないフィリピンへ届ける、ということを目的にした私の旅は始まりました。マニラの空港に到着後、一番最初に訪問した島はコレヒドール島。

コレヒドール島は、マニラから高速船で約1時間の位置。マニラ湾の入り口ともいえる島で、戦時中、戦略上重要な島でした。居住が認められておらず、現在も戦争の傷跡を生々しく残す島です。

日本軍の爆撃を受けた建物が、そのままの状態で保存されています(画像は行政施設だった建物。画像をクリックすると拡大します)。戦争を記録する博物館やモニュメントがあり、フィリピン人の学生の修学旅行や、国外からの訪問者が絶えません。毎年訪問しているという元日本兵の方もいます。昨年は死ぬ前にもう一度コレヒドール島を訪ねたかった、という85歳の日本人男性の訪問があったそうです。

私も戦争の傷跡を目に焼き付けたい、という想いで訪問しました。
島を訪ねた目的をホテルの支配人に伝えると、「日本人の若い人が、そんな想いでわざわざフィリピンまで…」と感心してくださり、島の案内を申し出てくださいました。

最もつらかったのは、日本軍が自決したというトンネルを案内してもらったこと。
島内を張り巡らせるかのように、地下に続くトンネルです。戦時中は米軍の基地として機能しており、中には食堂や医務室、宿泊所など見事なまでのトンネルがありました。マッカーサーが逃亡した時に使ったという秘密通路もありました。日本軍によるバズーカ砲による弾痕も生々しく残っていました。米軍を一斉攻撃しようと撃った跡です。しかし、その攻撃もむなしく、日本軍はその勢力の脆弱さから負けが明らかになり、そのトンネルの中で集団自決したと聞きました。暗く、冷たいトンネルの中、その遺骨はなんと戦後30年近く放置されていたそうです。

そんな話を聞きながら、真っ暗なトンネルを懐中電灯を片手に歩きました。そのトンネルを案内してもらった夜、私は全く寝つくことができませんでした。一瞬眠りに落ちたとき、物寂しい顔で、痩せこけた元日本兵が夢に出てきました。何の言葉も発しませんでしたが、その悲しい眼は今でも脳裏に焼きついています。夢を見てしまうほど、私にとって、そのトンネルは戦争の悲しさ、悲惨さを教えてくれたようです。

MA LINTAトンネルと名付けられたそのトンネルは、1976年にようやくフィリピン、アメリカ、日本の技術者によって、その修復作業が始められました。一番最初にそのトンネルを開けた際、死臭が立ち込め、そこにわいた虫がどっと出てきたと言います。フィリピンの言葉でたくさん(MA)の虫(LINTA)という意味で、このトンネルが名付けられたそうです。

その復旧作業を機に、爆撃で丸裸となり、廃墟となっていたコレヒドール島は政府によって植林が行われました。以降、「戦争を語り継ぐ」ための島として、居住を許さず、攻撃を受けた建物はそのまま手付かずとされ、現在の形を保っています。

観光客が容易に足を踏み入れてしまったら事故につながりかねない、と思われるような形で建物が未だに残されている訳ですが、それを見た者の衝撃は、どんな言葉で語るよりも重いものがあります。コレヒドール島は、戦争の傷跡を目に焼き付けたいという私の目的を十分過ぎるほど、身をもって教えてくれました。

元日本兵の夢を見た翌朝、ホテルの支配人に頼んでまたそのトンネルに連れて行ってもらいました。そして、日本から持参したお線香をそのトンネルの中であげてきました。



(22:34)

January 09, 2006

*2005年10月、フィリピンを訪れた際、現地に住んでいる先輩にとてもお世話になりました。その彼女から、帰国後感想を頂きましたので転載させていただきます。

今回は話を聞くことの大切さを実感することとなりました。

最近は忙しさのあまり、人と話をする時間が減っています。フィリピンにいても、日本的な働き方をしてしまっていました。私だけでなく、SDMの皆にとっても、年配の人々の体験を聞くいい機会になったと思います。とくに私も含め、フィリピン人で通訳をしていた人々は一言一言を聞かなければならず、悲しい話を訳すのは大変でした。時には訳せないこともありました。日本人に聞いてもらったのは始めてだというおじいちゃんもいました。こうして話を聞くということは、お互いの距離を本当に近くし、友好を築く一歩であるとわかっていつつ、自分は後回しにしていました。神さんたちのおかげで多くの話を私も聞く時間をもつことができました。

SDMの若い人々(中学生くらい)はそういう話を聞いておらず、興味も示さず、その辛さを感じることもないようでした。話をおじいちゃんたちから直接きいている世代とそうでない世代との差がはっきりわかれてみえました。直接聞いている人々はその辛さやひどさを感じていましたが、若い世代は笑いも起こるほどであり、日本もフィリピンも若い世代XYZに変わりありません。今回はいただいたクレヨンなどを利用してお面を作り、内の自分を外の自分があること、そのコミュニケーションのダイナミックス(争いと分かり合う難しさ)などについて考えたり、平和の歌をつくって踊ったりして、考える時間を作りだそうとしました。

話を聞くことによってその物語に入ることができ、新しい物語を作り出していくということを実際にすることが私はできたと思います。話を聞くことで、また老人にとっては話をすることで、ばらばらになった話を、少しでしたが、つなぎあわせることができたと思います。また、それを若い世代の参加により、新しい歴史、物語を作っていくことができたように思います。とくに、SDMでは、多くの交流があり、神さんたちの訪問により、また新しい物語ができました。貧困について、戦争について、そのものの体験はできなかったでしょうが、似た体験をし、ともに感じ、考えました。それは再構築、交流という平和の物語であったと思います。感情を殺していた私でしたが、神さんたちが瞬間的にいなかったSDMでのお祈りの会での分かち合いで、私は、問題はまだまだあるが、すでに築きつつあるいい関係を、罪悪感でいっぱいな戦争体験者に見てもらいたいと話をし、感極まって泣いてしまいました。いつもSDMに訪問者があるときはそうですが、ユースから年代の違う皆が集いあい、一つになるよい雰囲気があります。今回は特に、平和について考えるきっかけを作ってくださっていた、・欧如△気蕕法・譴弔砲覆蹐Δ箸いΠ媚屬・犬濬个気譴燭隼廚い泙后・垢任忙笋燭舛録靴靴ぁ・・靴なク譴鬚弔・蠅弔弔△襪覆△伴卒兇気擦蕕譴泙靴拭

話を聞いていると悲惨な話の中にも、一つの光があったように思いました。日本兵がおいてきて自分の子どもと同じくらいの子どもを可愛がっていた話、友情が芽生えたという話などあります。死体を感情なく踏んでいかなければならなかったというような悲惨な爆撃と打ち合いの中で生き残った少女。非情な悪の中でも生き残った命と善を感じました。今の世界で起こっている暴力を思うとき、暗く、悲しくなりますが、それに負けず、必ずあるであろう、光を見つけて、また、光を生み出していきたいと思いました。

また、今回、過去を知ることなり、私自身、日本人であることを意識した瞬間でした。

過去を知るということは、私を日本人として定義づける助けになります。日本人とはどういうことをいうのか、といわれても、最近はよく分からなくなります。こちらの言葉をある程度話し、食事もなんでもよくなり、性格も楽観的になってきて、時間にも遅れるようになり、日本の伝統的な文化も知らず、他の国からの人々と仲良くなり、自分が何人かなんて関係なくなってきました。日本人としてのidentityというのがどういうことかわからなくなっています。神さんたちの訪問を助けていて、日本人としてということの一つに、私が生まれた土地の人々が戦争をおこし他の土地の人々に迷惑をかけたという事があると思いました。歴史、過去を知ることにより、自分の生まれた土地のこと、またその社会の成り立ちをしることができます。それによって、自分が知らず知らずに持っている感情や差別などの発祥の由来をしることもできると思いました。

同時に、今回関わってくれたフィリピン人はじめ、さまざまな国からの留学生や活動家との絆を強くすることができ、国籍を超えた、人と人との協力ということを実感できました。日本人という枠にとらわれず、世界、人間一般という大きなネットワークがありました。

私はこの戦争の償いというのは日本での活動が問題であると思います。フィリピン人に与えてしまったトラウマを私たちが癒そうというのはかなりの時間と技術が必要で、難しいことです。私はネグロスにいますから、話を聞くということにより、こちらで活動することが可能ですが、日本にある、罪悪感について、歴史認識について、平和教育については日本で何か行動を起こすことが大切だと思います。私たち一人一人に与えられている自分たちの環境でがんばらなくてはならないように思います。今回、神さんたちがビデオに証言をとって持ってかえっていってくれています。11月の始め4日か5日にフェリス大の文化祭で見せるそうです。彼らがもってかえってくれたのは、ほんの一握りの話ですが、それが、日本の人々の心に何か響いてくれればいいなあと思います。平和教育とは、WWIIだけに限るのではなく、今起こっている身の回りの争い、暴力について考えて、行動していこうということだと思っています。貧困支援も、女性へのサポートも平和への活動だと思います。周囲との協力のネットワークの中で働きつつも、自分自身から行動していくことが大切だと思うのです。

神さんたちのステートメントにもありましたが、日本がその史実を認め、受入れ、武力で紛争を解決するのではなく、弱肉強食の関係ではなく、分かち合いともに生きる関係を推進しけるような国にしていかなければなりません。それには一人一人が変わるということ、他者を非難するのではなく、毎日の自分の生き方でもって周囲に肯定的な輪を広げていくことが大切だと、私は思います。



(12:30)
*2005年10月、フィリピンを訪れた際、現地に住んでいる先輩にとてもお世話になりました。その彼女から、帰国後感想を頂きましたので転載させていただきます。

今回は話を聞くことの大切さを実感することとなりました。

最近は忙しさのあまり、人と話をする時間が減っています。フィリピンにいても、日本的な働き方をしてしまっていました。私だけでなく、SDMの皆にとっても、年配の人々の体験を聞くいい機会になったと思います。とくに私も含め、フィリピン人で通訳をしていた人々は一言一言を聞かなければならず、悲しい話を訳すのは大変でした。時には訳せないこともありました。日本人に聞いてもらったのは始めてだというおじいちゃんもいました。こうして話を聞くということは、お互いの距離を本当に近くし、友好を築く一歩であるとわかっていつつ、自分は後回しにしていました。神さんたちのおかげで多くの話を私も聞く時間をもつことができました。

SDMの若い人々(中学生くらい)はそういう話を聞いておらず、興味も示さず、その辛さを感じることもないようでした。話をおじいちゃんたちから直接きいている世代とそうでない世代との差がはっきりわかれてみえました。直接聞いている人々はその辛さやひどさを感じていましたが、若い世代は笑いも起こるほどであり、日本もフィリピンも若い世代XYZに変わりありません。今回はいただいたクレヨンなどを利用してお面を作り、内の自分を外の自分があること、そのコミュニケーションのダイナミックス(争いと分かり合う難しさ)などについて考えたり、平和の歌をつくって踊ったりして、考える時間を作りだそうとしました。

話を聞くことによってその物語に入ることができ、新しい物語を作り出していくということを実際にすることが私はできたと思います。話を聞くことで、また老人にとっては話をすることで、ばらばらになった話を、少しでしたが、つなぎあわせることができたと思います。また、それを若い世代の参加により、新しい歴史、物語を作っていくことができたように思います。とくに、SDMでは、多くの交流があり、神さんたちの訪問により、また新しい物語ができました。貧困について、戦争について、そのものの体験はできなかったでしょうが、似た体験をし、ともに感じ、考えました。それは再構築、交流という平和の物語であったと思います。感情を殺していた私でしたが、神さんたちが瞬間的にいなかったSDMでのお祈りの会での分かち合いで、私は、問題はまだまだあるが、すでに築きつつあるいい関係を、罪悪感でいっぱいな戦争体験者に見てもらいたいと話をし、感極まって泣いてしまいました。いつもSDMに訪問者があるときはそうですが、ユースから年代の違う皆が集いあい、一つになるよい雰囲気があります。今回は特に、平和について考えるきっかけを作ってくださっていた、・欧如△気蕕法・譴弔砲覆蹐Δ箸いΠ媚屬・犬濬个気譴燭隼廚い泙后・垢任忙笋燭舛録靴靴ぁ・・靴なク譴鬚弔・蠅弔弔△襪覆△伴卒兇気擦蕕譴泙靴拭

話を聞いていると悲惨な話の中にも、一つの光があったように思いました。日本兵がおいてきて自分の子どもと同じくらいの子どもを可愛がっていた話、友情が芽生えたという話などあります。死体を感情なく踏んでいかなければならなかったというような悲惨な爆撃と打ち合いの中で生き残った少女。非情な悪の中でも生き残った命と善を感じました。今の世界で起こっている暴力を思うとき、暗く、悲しくなりますが、それに負けず、必ずあるであろう、光を見つけて、また、光を生み出していきたいと思いました。

また、今回、過去を知ることなり、私自身、日本人であることを意識した瞬間でした。

過去を知るということは、私を日本人として定義づける助けになります。日本人とはどういうことをいうのか、といわれても、最近はよく分からなくなります。こちらの言葉をある程度話し、食事もなんでもよくなり、性格も楽観的になってきて、時間にも遅れるようになり、日本の伝統的な文化も知らず、他の国からの人々と仲良くなり、自分が何人かなんて関係なくなってきました。日本人としてのidentityというのがどういうことかわからなくなっています。神さんたちの訪問を助けていて、日本人としてということの一つに、私が生まれた土地の人々が戦争をおこし他の土地の人々に迷惑をかけたという事があると思いました。歴史、過去を知ることにより、自分の生まれた土地のこと、またその社会の成り立ちをしることができます。それによって、自分が知らず知らずに持っている感情や差別などの発祥の由来をしることもできると思いました。

同時に、今回関わってくれたフィリピン人はじめ、さまざまな国からの留学生や活動家との絆を強くすることができ、国籍を超えた、人と人との協力ということを実感できました。日本人という枠にとらわれず、世界、人間一般という大きなネットワークがありました。

私はこの戦争の償いというのは日本での活動が問題であると思います。フィリピン人に与えてしまったトラウマを私たちが癒そうというのはかなりの時間と技術が必要で、難しいことです。私はネグロスにいますから、話を聞くということにより、こちらで活動することが可能ですが、日本にある、罪悪感について、歴史認識について、平和教育については日本で何か行動を起こすことが大切だと思います。私たち一人一人に与えられている自分たちの環境でがんばらなくてはならないように思います。今回、神さんたちがビデオに証言をとって持ってかえっていってくれています。11月の始め4日か5日にフェリス大の文化祭で見せるそうです。彼らがもってかえってくれたのは、ほんの一握りの話ですが、それが、日本の人々の心に何か響いてくれればいいなあと思います。平和教育とは、WWIIだけに限るのではなく、今起こっている身の回りの争い、暴力について考えて、行動していこうということだと思っています。貧困支援も、女性へのサポートも平和への活動だと思います。周囲との協力のネットワークの中で働きつつも、自分自身から行動していくことが大切だと思うのです。

神さんたちのステートメントにもありましたが、日本がその史実を認め、受入れ、武力で紛争を解決するのではなく、弱肉強食の関係ではなく、分かち合いともに生きる関係を推進しけるような国にしていかなければなりません。それには一人一人が変わるということ、他者を非難するのではなく、毎日の自分の生き方でもって周囲に肯定的な輪を広げていくことが大切だと、私は思います。



(12:30)

December 08, 2005

簡単な報告を帰国直後にアップしました。 今後、以下のとおり数回にわたって訪問レポートをお届けしたいと思っています。現地では日本兵による残虐行為の話もたくさん耳にしました。それをお伝えすることも可能ですが、それらはどちらかといえば日本にいても、知る気になれば情報として得られるものだと思います。
私は、今回遭遇した状況や感じたことを自分なりにお届けしたいと思っています。

●Part1.プロジェクトの根っこにあるもの
○Part2.悲島-コレヒドール島で見た元日本兵の夢
●Part3.若い世代の戦後 〜フィリピン人の認識〜
○Part4.フィリピンの貧困を前に、どう語り継いでいくか

初回の今日は「プロジェクトの根っこにあるもの」。
10月のフィリピンへの旅も半ばを過ぎたころ、日記に書いていた言葉があります。
このプロジェクトを私がやっている意味が「自分の中でストンと落ちてきた」と。 よく人に、なんでこのテーマを一生懸命扱っているのか、と質問を受けることもありました。そんな時、「5年前に未だ苦しんでいるフィリピン人に出会ったから」と当たり前のように答えていましたが、他にも理由があるということが、自分の中で理解できた瞬間に書いた日記です。

「向き合う」という言葉から、皆さんはどんなイメージを持ちますか。
私はとっても大切なこと、欠かせないことと認識しています。 どこの家にでも何らかの形で生じるであろう家庭内の問題、私の身にもありました。そのことに対して逃げたり、なかった事にするのではなく、「向き合う」ということが解決策になり得るということ、それなしに一歩踏み出すことはできないということを、様々な出会いを通じて実感していました。そして、その過程には私自身もそうだったように、誰かつないでくれる人が必要、ということも。

亡くなる直前まで自分のくだした残虐行為を悔やみながら話していた元日本兵の話を聞いた時、いたたまれない気持ちになると同時に、もっと早く向き合うきっかけがあったらよかったのに、と思わずにはいられなかったのです。

フィリピンでも、戦後60年も経って、ようやく過去の戦争で受けたトラウマに向き合い始めた方と出会いました。2,3年前から、戦後初めて当時何が起こったか、ということを書き始めたと言います。少しずつ、少しずつ。
自分がやろうとしていたことが、間違っていなかったかもしれない…。
「向き合う」作業を始めた人との出会いは、このプロジェクトに対する確信を強いものにしてくれました。

また、訪問時、87歳のフィリピン人の痴呆のおばあちゃんが「日本兵が街にたくさんいる。怖い」と急に当時の回想を始めました。普段は戦争のことを話すこともないのに、日本人の訪問でよみがえってしまったようで、家族の方も少し驚いていました。そのおばちゃんとの出会いは、 向き合うという作業を「早い段階」でする必要があるということを私に気づかせてくれました。記憶が曖昧な状態で、心の清算はもはやできないからです。専門家に言わせると、痴呆の状態で記憶を蘇らせてしまうことには危険性もあると聞きます。

確かに、たとえ年を重ねていなくとも、記憶を掘り起こすということは、嫌な思い出を蘇らせてしまうことでもあります。それでもなお、私が継続したのは前述の通り、忌まわしい心の傷に向き合うことこそ、その人自身の解放につながるという自分の体験からくる確信があったということです。

お節介といえば確かにそうです。でも、私にとってこのプロジェクトの根っこにあるもの、それは私自身が生きていく上で大切だと思っている「向き合う」というプロセスそのものなんだ…と フィリピンで改めて気づかされました。
なぜこのテーマを一生懸命扱っているか、もちろん5年間の未だ癒されることのない戦争の傷跡を抱えたフィリピン人に出会ったということは勿論のこと、さらにはこれまでの経験を踏まえて、自分自身のためにもやっている、そんなことがすんなり理解できました。

まだまだ自分自身も発展途上。
そんな中で、自分が求めているもの、大切だと思っていることを具体的に表すこと、それ自体がこのプロジェクトなんじゃないかなと改めて思うこの頃です。今後訪問レポートをお送りするにあたり、まずこの大前提を知って 頂きたいと思って言葉にしてみました。

次回は、フィリピンの旅の最初に訪問したコレヒドール島の報告をお届けします。


(01:51)
フィリピンから戻りました!
今回のフィリピンでのビデオメッセージ上映会。どの会もとても心に残る
会合となり、たくさんの収穫と出会いがありました。

お伝えしたいことは山ほどありますが、今後時間をかけて私自身も体験して
きたことにじっくり向き合いながら少しずつご報告していきたいと思いますので、
今日は簡単なご報告にとどめておこうと思います。

元日本兵のビデオメッセージを見た戦争の犠牲者の方が口にしてくださった
言葉。今日はこれだけのご報告にします。

「60年経っても、元日本兵もいまだに苦しんでいる。そのことを知ってびっくり
しました。彼らが口を開いてくれたことに感謝します。」
「彼らも犠牲者だったんだ。為政者に言われるままに戦地に赴いた。本では
読んでいたけれど、実際に聞くことができてよかったです。」
「私たちはクリスチャンだからもう彼らを許している。元日本兵の人にも、ぜひ
一度フィリピンに足を運んでほしいな。」
「未亡人になったのはフィリピン人だけではなかったんだ。日本にも同じような
人がたくさんいたんですね。同じだと感じました。」(婚約者を亡くした日本人
女性のビデオメッセージを見て)

もちろん、好意的な反応ばかりではありませんでした。
「市民かゲリラかの区別がつかなかったというけれど、無抵抗の子どもを
銃剣で殺したのはなぜ?」こう泣きながら質問してきた方もいらっしゃいました。

今回うかがったことを元日本兵の方に届けると同時に、幅広い世代の方々
にも見ていただき、平和を模索する糸口にできればと思っています。今日は
記しませんが、当然のことながらお金を要求してくる方もいらっしゃいました。
戦後補償のことなど向き合わざるを得ない状況にもありましたが、帰国して
数日が経ち、今振り返ってみてもたとえ地道な作業であったとしても、必要な
プロセスは何かということが見えてきたような気がしています。



(01:38)