ナオミが映画レビューする!

ナオミが映画レビューするブログです。日本映画、海外映画、アニメ映画などジャンルは色々。個人的な感想が満載の「なんちゃって」レビューです!

creepy

頭からつま先まで、ピンと張り詰めた緊張感、長回しや、多分ドローンを用いたのであろう、空撮の「引きの画」など監督らしい表現方法と、ひとりの役者のいつもながらの役の作り込みに、引っ張られて見終わりました。

西島秀俊さん扮する、元警官で、今は、大学の犯罪心理学者高倉は、警察勤務時代の部下の東出クンの依頼もあって、6年前の一家失踪事件の生残りの川口春奈から聞き取りを始め、事件の真相を追っていく。

高倉は、同時期、郊外の新居に移ったばっかりで、竹内結子さん扮する妻の康子は、専業主婦らしく、近所づきあいも如才なく務めようとするのだが、どこか噛みあわない香川照之さん扮する西野との係わりが、増えていく。

失踪事件の闇に、高倉が、近づく間に、一見善良な隣人に見える西野の奇行が目立ち始めると同時に、康子は心身のバランスを崩す。

高倉は、失踪事件の闇と、身近に迫る危機との「対峙」を迫られる。


目を覆うショッキングな描写は無かったので、冷静に、堪能することが出来ました。

新人賞の原作を脚色した、サイコ・サスペンス・ミステリーなので、描写を取り上げて、モノ申す訳に行かないのが、歯がゆいのですが。

フトしたきっかけで、身近の人の「常軌を逸した」部分を目覚めさせてしまった事を後悔するうえで、香川さんの「作り込んだ」演技は、充分お釣りが出ます。

もう、後半は、独壇場。

半沢直樹の例の常務の時もそうだったけど、あの眉の動きって、どうやって、鍛錬するんだろうなぁ。

劇中、誰かの「目線」での撮り方になると、不意に、あの顔つきが、画面に現れるんじゃないかって、何回か構えてしまいました。



jiisans

ジーサン万歳!

いやはや、なんとも気持ちがいい、老人讃歌でした。


モーガン・フリーマンが出演していた『ラスト・ベガス』も、人生の黄昏を謳歌するジーサンたちを、ハリウッドのベテラン俳優陣が演じていた、痛快なお祭り映画でしたが、今作もまた、モーガン・フリーマン、マイケル・ケイン、アラン・アーキンという名優たちが、老体にムチ打ちながら華麗に強盗計画を実行してみせるという、痛快な娯楽映画でした。

大作映画ではないので、決して派手ではないのですが、丁寧に作られていて、96分という上映時間がちょうどいい、愛しい良作という感じ。



長年勤めていた工場が買収され、新興国ベトナムに移ることになり、失業し、当てにしていた年金を止められてしまった。

おまけに愛する娘はシングルマザーで…という、マイケル・ケインの設定には、トランプ政権を誕生させた、アメリカのブルーカラーの現実、不景気が反映されているのかな、と感じました。


銀行強盗ものならではの計画準備のワクワク、どんでん返しはもちろん爽快ですが、仲良しジーサンズの友情、バーサンとの恋愛、老いた身体への不安、ジーサンズそんな計画で大丈夫かよというハラハラ。

これだから年寄りはと馬鹿にされる屈辱、年の功とプライド、親切にされる嬉しさなどなど、ドラマ部分も楽しめました。

子世代や孫世代へのメッセージが詰まっているあたりも見ごたえがありました。


『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で有名なクリストファー・ロイドが出演していて、すっかりおじいちゃんになっていて、びっくり。

kensan

200本以上の膨大な映画出演歴の中、私が見て来た高倉健さんは、どちらかと云うと晩年期にあたって、私より先輩の方達が、熱い眼差しで焼き付けた「動」の部分が欠落している分、ただ、多くを語らず、ムッツリいや、禁欲的かつ実直なキャラクターが、記憶のなかで強調されています。

高倉健さんが、チャン・イーモー監督の「単騎、千里を走る」で共演した、当時素人同然だった、中国人俳優を「案内役」として、大阪通天閣にある、名画座の銀幕で、敵を叩き切る任客の若き高倉健さんに対面。

「刺青」も映える、引き締まった上半身の裸体。

舞台でもないのに、客席から発せられる掛け声。場内は、任侠映画全盛の1960年中頃で止まったかの熱気。

自作自演のナンバーで世界を席巻していたビートルズの来日と、一方、敵を叩き切る懲悪のパターンを、年何十本もこなして、ファンの期待に応え続けた俳優。革新と定石が混在した、日本の高度成長期。


活躍期の時代背景をサラッと捉えて、当時を知る馴染みの俳優や、撮影所の裏方の証言から、晩年は、厳格な役者と見なされた、高倉さんの「お茶目」な部分から敷居を低くして始まりますが、役者高倉健を、個人である小田剛一が、客観的に見据え、多くの人達にとって、望まれる「高倉健」へと、導いていったかの様な印象へと、替わっていきます。


ドキュメンタリーらしく、昔からの付き人の方や、実妹さんからの供出された、プライベートな映像から、知られざる素顔も垣間見えますが、ただ、ウケを取ろうとか、歓心を買うのではなく、ごく、真っ当に、作品の中に「たたずもう」と、任侠映画での狂騒を経て、映画に相対していったのでした。

フィクションなのに、映画で「人を殺めて」罪にまみれた己を見直すために、瀧に打たれて修行をしたとか。

それで、東映を後にして、やがて、山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」との出逢いも、自らが引き寄せたみたいで、理に叶っています。

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