2012年06月17日
わたしたちの変わらないニッポン
以下は、昨年9月に刊行されたアンソロジーのために書いた解説、
「『遅れ』のナショナリズム」の冒頭部分です。明白な誤植を訂し、
傍点部分は〈 〉に括った以外、そのままです。1年経っても、自
分の考えとしてはそんなに書き換える必要がない感じですね……。
*
本書は、2011年3月11日午後に発生した、東北地方太平洋沖を震源とするマグニチュード9.0の大地震、高さ30メートル超という大津波、そして沿海に林立する福島第一原子力発電所での全交流電源喪失、水素爆発、炉心溶融といった複合的な大災害に触発され、企画されたものだ。
福島第一原発の事故については、同年8月1日現在、政府の予断とはまったく裏腹に、収束の見通しが立っていない。動画サイトで現地の定点観測映像をみていると、ときおり白煙が立ちのぼっていることもあるが、その煙が、なぜ、なんのために発生しているのか、といった情報すら与えられないまま、われわれは「安全」という名の欺瞞的な日常を生かされているのである。
このかんしばしば、「この日を境に日本は変わってしまった」という発言をみかけるが、いったいなにが変わったのだろうか。大災直後から発生した「がんばろうニッポン」の大合唱。しずかに蔓延した「自粛」ムード。飲食物や日用品の眼にあまる買い占め。昭和天皇歿直後の、あのうすら寒く居心地の悪い一時期を想起したひともすくなくはないのではないか。電力資本と自民党政権、そして〈マス〉コミによる「原発犯罪」を、なぜ総動員体制で糊塗しなければならないのか。多くの人間が亡くなったという事実のまえだと、なぜ右に倣えのことしか語ることができないのか。そんなことすら質せない時間が経過したのである。
こうした現象によってだけでも、かえって今回の災害が本質的に「想定外」の「事故」などではなく、「権力犯罪」であることを証明してしまっているように思えてならなかった。たとえば昭和天皇の死は、喜味こいしや和田勉ような長命の芸能人の死とさえひとしなみではありえず、あくまで政治的な死であったからこそ「自粛」が暗黙の強制となったように、今回の東北・関東大震災をめぐる複合災害も、単なる「事故」や「災害」なのではなく政治的事件なのであり、「権力犯罪」であるからこそ、われわれニッポンに居住する人間はニッポン人として「がんば」らねばならず、「自粛」しなければならなかったのだ。それこそ寺田寅彦がいみじくも語っているように、「『愛国』の精神の具体的な発現方法」(「津波と人間」)にほかならない。つまり、この20数年を経て——どころか寺田寅彦の1933年以来、この国はちっとも変わってはいないし、変わっていないのでなければいっそう劣化したのである。劣化したのでなければ、満洲事変直後の「非常時ニッポン」にレイドバックしたのだ。2011年3月11日からこのかた、そういう確信ばかりを深めたのである。
しかし、この半年あまりのことを振り返ると、〈なにかが変わった〉とはいえないまでも、これまで潜在的潜伏的に予感されていたことが一挙に〈あらわになった〉、とはいえるのではないか。その予感を予感としてしか認識できなかったところに、明確に原発反対を主張することもなく電力文化を享受してきた自分自身もまた、この原発犯罪の共犯者なのではないか、という居心地の悪さ、気持ちの悪さを感じずにはいられない。その感覚の遠因は、しかし、単にいま現在の、一過性の「事故」に求められるものではないのではないか。というのも、今回の震災によって、これまで曖昧にされ〈隠蔽されてきた〉数々の事実が、われわれの目にもみえるように浮上し、鮮明になったのは、たとえばマグニチュード9.0のような巨大地震は現実に起こりうるのだ——とか、高さ30メートルの大津波というのは、なにも百数十年前の歴史的事実としてだけではないのだ——とか、原発が安全だなんて虚妄に過ぎないことが証明されたではないか——といった個別のケースを指していうのではない。つまり、災害を災害として把握してゆく人間の認識力のことであり、その後につづく人間存在のことなのである。
もっとも皮相でわかりやすかったのは、これまでことあるごとに言及されてきたように、原子力発電所の「安全神話」なるものが神なき時代の「神話」でしかなく、それも各電力会社やそこに寄生する企業・経済団体、あるいは政府政党やその関係機関、そして御用学者(だけでなく、〈文化人〉をふくむ御用人間たち)が結託して持ちあげてきた虚構でしかなかった、というファルスに集約的にあらわれている。これまでは学会だの講座だの研究室だのといったごくごく狭い空間でのみ大きな顔をしていたらしい存在が、本当に大きな顔をしているのだということを、わたしたちはあらゆるメディアで見物することができた。「専門性」が崩壊し、大学なるものがすでに解体しきっていたことを、じつに端的に証明してくれたのである。「専門家」と呼ばれる存在〈だけ〉が、大地震—大津波—原発事故による危機感とはまったく無縁に、のんべんだらりと、嗤うべき安心、惨憺たる安全を説いていたのだった。まさにこの世は〈平〉にして〈成〉ではないか。
このように原発事故に集約され、〈あらわに〉なってきた今回の地震津波原発災害を、近代日本、あるいは資本主義国家日本そのものの問題として考えること。それを、〈明治〉、〈大正〉の文学表現にさかのぼって考えてみたいというのが、このアンソロジーを編むうえでのモティーフである。続きを読む
「『遅れ』のナショナリズム」の冒頭部分です。明白な誤植を訂し、
傍点部分は〈 〉に括った以外、そのままです。1年経っても、自
分の考えとしてはそんなに書き換える必要がない感じですね……。
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本書は、2011年3月11日午後に発生した、東北地方太平洋沖を震源とするマグニチュード9.0の大地震、高さ30メートル超という大津波、そして沿海に林立する福島第一原子力発電所での全交流電源喪失、水素爆発、炉心溶融といった複合的な大災害に触発され、企画されたものだ。
福島第一原発の事故については、同年8月1日現在、政府の予断とはまったく裏腹に、収束の見通しが立っていない。動画サイトで現地の定点観測映像をみていると、ときおり白煙が立ちのぼっていることもあるが、その煙が、なぜ、なんのために発生しているのか、といった情報すら与えられないまま、われわれは「安全」という名の欺瞞的な日常を生かされているのである。
このかんしばしば、「この日を境に日本は変わってしまった」という発言をみかけるが、いったいなにが変わったのだろうか。大災直後から発生した「がんばろうニッポン」の大合唱。しずかに蔓延した「自粛」ムード。飲食物や日用品の眼にあまる買い占め。昭和天皇歿直後の、あのうすら寒く居心地の悪い一時期を想起したひともすくなくはないのではないか。電力資本と自民党政権、そして〈マス〉コミによる「原発犯罪」を、なぜ総動員体制で糊塗しなければならないのか。多くの人間が亡くなったという事実のまえだと、なぜ右に倣えのことしか語ることができないのか。そんなことすら質せない時間が経過したのである。
こうした現象によってだけでも、かえって今回の災害が本質的に「想定外」の「事故」などではなく、「権力犯罪」であることを証明してしまっているように思えてならなかった。たとえば昭和天皇の死は、喜味こいしや和田勉ような長命の芸能人の死とさえひとしなみではありえず、あくまで政治的な死であったからこそ「自粛」が暗黙の強制となったように、今回の東北・関東大震災をめぐる複合災害も、単なる「事故」や「災害」なのではなく政治的事件なのであり、「権力犯罪」であるからこそ、われわれニッポンに居住する人間はニッポン人として「がんば」らねばならず、「自粛」しなければならなかったのだ。それこそ寺田寅彦がいみじくも語っているように、「『愛国』の精神の具体的な発現方法」(「津波と人間」)にほかならない。つまり、この20数年を経て——どころか寺田寅彦の1933年以来、この国はちっとも変わってはいないし、変わっていないのでなければいっそう劣化したのである。劣化したのでなければ、満洲事変直後の「非常時ニッポン」にレイドバックしたのだ。2011年3月11日からこのかた、そういう確信ばかりを深めたのである。
しかし、この半年あまりのことを振り返ると、〈なにかが変わった〉とはいえないまでも、これまで潜在的潜伏的に予感されていたことが一挙に〈あらわになった〉、とはいえるのではないか。その予感を予感としてしか認識できなかったところに、明確に原発反対を主張することもなく電力文化を享受してきた自分自身もまた、この原発犯罪の共犯者なのではないか、という居心地の悪さ、気持ちの悪さを感じずにはいられない。その感覚の遠因は、しかし、単にいま現在の、一過性の「事故」に求められるものではないのではないか。というのも、今回の震災によって、これまで曖昧にされ〈隠蔽されてきた〉数々の事実が、われわれの目にもみえるように浮上し、鮮明になったのは、たとえばマグニチュード9.0のような巨大地震は現実に起こりうるのだ——とか、高さ30メートルの大津波というのは、なにも百数十年前の歴史的事実としてだけではないのだ——とか、原発が安全だなんて虚妄に過ぎないことが証明されたではないか——といった個別のケースを指していうのではない。つまり、災害を災害として把握してゆく人間の認識力のことであり、その後につづく人間存在のことなのである。
もっとも皮相でわかりやすかったのは、これまでことあるごとに言及されてきたように、原子力発電所の「安全神話」なるものが神なき時代の「神話」でしかなく、それも各電力会社やそこに寄生する企業・経済団体、あるいは政府政党やその関係機関、そして御用学者(だけでなく、〈文化人〉をふくむ御用人間たち)が結託して持ちあげてきた虚構でしかなかった、というファルスに集約的にあらわれている。これまでは学会だの講座だの研究室だのといったごくごく狭い空間でのみ大きな顔をしていたらしい存在が、本当に大きな顔をしているのだということを、わたしたちはあらゆるメディアで見物することができた。「専門性」が崩壊し、大学なるものがすでに解体しきっていたことを、じつに端的に証明してくれたのである。「専門家」と呼ばれる存在〈だけ〉が、大地震—大津波—原発事故による危機感とはまったく無縁に、のんべんだらりと、嗤うべき安心、惨憺たる安全を説いていたのだった。まさにこの世は〈平〉にして〈成〉ではないか。
このように原発事故に集約され、〈あらわに〉なってきた今回の地震津波原発災害を、近代日本、あるいは資本主義国家日本そのものの問題として考えること。それを、〈明治〉、〈大正〉の文学表現にさかのぼって考えてみたいというのが、このアンソロジーを編むうえでのモティーフである。続きを読む
naovalis68 at 11:58|Permalink││ブンガクなんてもう終わりだ
2011年09月02日
近刊予告『天変動く:大震災と作家たち』
いやー、ずいぶん放置してしまいましたが、ツイッターその他の媒体より、ブログがいちばん性にあってるみたい。好き放題に書けるからなあ。ちゃんと更新していきたいのだけれど、このかんまったく物理的心理的余裕がなかったのであった。
そういうわけで、5月の織田作之助のアンソロジー(都甲さん、読売の 書評 ありがとう!)に続いて、こんなのを編みました。週明け5日頃から全国書店に配本になるそうです。7月末には、早々に朝日新聞の書評欄に 広告 も出してもらってたのでした。
----
天変動く――大震災と作家たち インパクト選書5
悪麗之介[編・解説] カバー装画:下地秋緒
ISBN978-4-7554-0216-6 定価2300円+税 インパクト出版会刊
これはもう《内戦》だ!
1896年の三陸沖大津波、そして1923年の関東大震災を、
表現者たちはどう捉えたか。
復興と戦争の跫音が聞こえてくる、21世紀の大災後にアクチュアルなアンソロジー。
『文芸倶楽部増刊 海嘯義捐小説』『改造』『婦人公論』『文章倶楽部』から
ミニコミまで、多彩なメディアから精選した貴重な証言。
[I] 1896年――三陸沖大津波
津浪と人間◎寺田寅彦
問答のうた◎森鴎外
火と水(抄)◎大橋乙羽
海嘯遭難実況談◎山本才三郎
一夜のうれい◎田山花袋
片男波◎小栗風葉
破靴◎山岸薮鴬
神の裁判◎柳川春葉
やまと健男◎依田柳枝子
櫂の雫◎佐佐木雪子
電報◎三宅花圃
のこり物◎斎藤緑雨
厄払い◎徳田秋声
『遠野物語』より◎柳田国男
[II] 1923年――関東大震災
天変動く◎与謝野晶子
震災後の感想◎村上浪六
天災に非ず天譴と思え◎近松秋江
日録◎室生犀星
鎌倉震災日記◎久米正雄
大震災記◎芥川龍之介
災後雑感◎菊池寛
牢獄の半日◎葉山嘉樹
その夜の刑務所訪問◎布施辰治
平沢君の靴
『震災画報』より◎宮武外骨
燃える過去◎野上弥生子
不安と騒擾と影響と◎水守亀之助
われ地獄路をめぐる◎藤沢清造
サーベル礼讃◎佐藤春夫
運命の醜さ◎細田民樹
夜警◎長田幹彦
同胞と非同胞◎柳沢健
朝鮮人のために弁ず◎中西伊之助
甘粕は複数か?◎廣津和郎
鮮人事件、大杉事件の露国に於ける輿論◎山内封介
『種蒔く人 帝都震災号外』より
一年後の東京◎夢野久作
[解説]「遅れ」のナショナリズム 悪麗之介
---
今回の地震 - 津波 - 原発事故について書きたいことを書かせていただいた「解説」はともかく(ブログに書かないでこっちに書いたようなものか)、カバーの装画に使わせていただいた 下地秋緒さん の作品の、なんと美麗なこと!(現物はもっとあざやかな発色です)。これはじつにうれしかったなー。ぜひぜひ書店で手にとっていただければ幸いです。
……しかしこのかん、本業は本業でがっつり働き(自分の本より大切だ)、のこりのわずかな時間をアクレーノスケとして生きてるわけですが、ほんといちんちが何時間あっても足りないことでありますよ、ええ……。あと1冊、わたしが偏愛してきた武田麟太郎のアンソロジーを出すぞっ。それでなんとなく短くなかった大学院時代のオトシマエがつけられそうな気がするのである。
そういうわけで、5月の織田作之助のアンソロジー(都甲さん、読売の 書評 ありがとう!)に続いて、こんなのを編みました。週明け5日頃から全国書店に配本になるそうです。7月末には、早々に朝日新聞の書評欄に 広告 も出してもらってたのでした。
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天変動く――大震災と作家たち インパクト選書5
悪麗之介[編・解説] カバー装画:下地秋緒
ISBN978-4-7554-0216-6 定価2300円+税 インパクト出版会刊
これはもう《内戦》だ!
1896年の三陸沖大津波、そして1923年の関東大震災を、
表現者たちはどう捉えたか。
復興と戦争の跫音が聞こえてくる、21世紀の大災後にアクチュアルなアンソロジー。
『文芸倶楽部増刊 海嘯義捐小説』『改造』『婦人公論』『文章倶楽部』から
ミニコミまで、多彩なメディアから精選した貴重な証言。
[I] 1896年――三陸沖大津波
津浪と人間◎寺田寅彦
問答のうた◎森鴎外
火と水(抄)◎大橋乙羽
海嘯遭難実況談◎山本才三郎
一夜のうれい◎田山花袋
片男波◎小栗風葉
破靴◎山岸薮鴬
神の裁判◎柳川春葉
やまと健男◎依田柳枝子
櫂の雫◎佐佐木雪子
電報◎三宅花圃
のこり物◎斎藤緑雨
厄払い◎徳田秋声
『遠野物語』より◎柳田国男
[II] 1923年――関東大震災
天変動く◎与謝野晶子
震災後の感想◎村上浪六
天災に非ず天譴と思え◎近松秋江
日録◎室生犀星
鎌倉震災日記◎久米正雄
大震災記◎芥川龍之介
災後雑感◎菊池寛
牢獄の半日◎葉山嘉樹
その夜の刑務所訪問◎布施辰治
平沢君の靴
『震災画報』より◎宮武外骨
燃える過去◎野上弥生子
不安と騒擾と影響と◎水守亀之助
われ地獄路をめぐる◎藤沢清造
サーベル礼讃◎佐藤春夫
運命の醜さ◎細田民樹
夜警◎長田幹彦
同胞と非同胞◎柳沢健
朝鮮人のために弁ず◎中西伊之助
甘粕は複数か?◎廣津和郎
鮮人事件、大杉事件の露国に於ける輿論◎山内封介
『種蒔く人 帝都震災号外』より
一年後の東京◎夢野久作
[解説]「遅れ」のナショナリズム 悪麗之介
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今回の地震 - 津波 - 原発事故について書きたいことを書かせていただいた「解説」はともかく(ブログに書かないでこっちに書いたようなものか)、カバーの装画に使わせていただいた 下地秋緒さん の作品の、なんと美麗なこと!(現物はもっとあざやかな発色です)。これはじつにうれしかったなー。ぜひぜひ書店で手にとっていただければ幸いです。
……しかしこのかん、本業は本業でがっつり働き(自分の本より大切だ)、のこりのわずかな時間をアクレーノスケとして生きてるわけですが、ほんといちんちが何時間あっても足りないことでありますよ、ええ……。あと1冊、わたしが偏愛してきた武田麟太郎のアンソロジーを出すぞっ。それでなんとなく短くなかった大学院時代のオトシマエがつけられそうな気がするのである。
naovalis68 at 00:13|Permalink││ブンガクなんてもう終わりだ
2011年06月02日
近況報告
しまった……。とうとう5月は更新できなかったアクレーノスケです。
織田作之助の本は、おかげさまでいろんな方から関心を持っていただいたようで、ありがとうございます。「じつはオダサク好きなんだよねー」という声を意外なところから聞いて、なんだかいい気分でした。で、ただいま同じ選書での2冊目、3冊目(と、研究会でもう1冊)を進行中。あっちもこっちもでまったくいちんち48時間ほしい毎日ですが、ひとつの楽しいことをやるためには、なんだってするのである。
本日のところはここまでなのですが、Kate Bush のこのPV、もしかしてマヤコフスキー/メイエルホリドなのではないだろうか? 分かる人は分かってくれるはず。
織田作之助の本は、おかげさまでいろんな方から関心を持っていただいたようで、ありがとうございます。「じつはオダサク好きなんだよねー」という声を意外なところから聞いて、なんだかいい気分でした。で、ただいま同じ選書での2冊目、3冊目(と、研究会でもう1冊)を進行中。あっちもこっちもでまったくいちんち48時間ほしい毎日ですが、ひとつの楽しいことをやるためには、なんだってするのである。
本日のところはここまでなのですが、Kate Bush のこのPV、もしかしてマヤコフスキー/メイエルホリドなのではないだろうか? 分かる人は分かってくれるはず。
naovalis68 at 22:55|Permalink│
2011年04月29日
『俗臭 織田作之助[初出]作品集』
『俗臭 織田作之助[初出]作品集』
悪麗之介[編・解説]、インパクト出版会 刊
四六判並製/272ページ、《インパクト選書4》
5月16日配本 2800円+悪税
ISBN978-4-7554-0215-9 C0393
織田作之助は「夫婦善哉」だけではない!
作家の実像をまったく新しく読みかえる、
蔵出し[初出]ヴァージョン、ついに登場。
「ここに収めた[初出]作品を虚心に読むと、等身大の織田作之助が——いや、作者以上になにより登場人物たちが——新興都市大阪の底辺を舞台に、資本主義の現実の前に煩悶しながら、じつに生きいきと生動していることを知るだろう。小説家がその作品によってしか生きえないとするなら、これらのヴァージョンによってこそ、織田作之助がその短い生を賭して描こうとした「わが町」の原型が息づいているのである。」(悪麗之介)
◎すべてこれまで全集・単行本未収録の[初出]ヴァージョンを収録。
【目次】
雨(1938年11月『海風』)
俗臭(1939年9月『海風』)
放浪(1940年5月『文學界』)
わが町(1942年11月『文藝』)
四つの都(1944年4月『映画評論』、川島雄三監督『還つて來た男』原作)
『四つの都』の起案より脱稿まで
シナリオ『四つの都』
naovalis68 at 07:31|Permalink│
2011年03月12日
2時間45分
自宅で熟睡中だった阪神淡路大震災のときと、勤め先でゲラと格闘していた今回とでは、体感震度が異なるのかもしれないけれども、けっこう揺れた。揺れました。地震の被害というのはかなり遅れて伝わってくる、というのが両方を体験した実感かしらん。おかげさまでこちらは大過なくすみましたが。
都内のすべての鉄道網が麻痺しているのは社内にいてもネット等で把握できたのだけれども、具体的にどんな状態なのだか、よくわからないまま退社時間の18時に。駅前の方へ偵察にいった同僚の話だと、地下鉄なんか深夜以降も復旧の見通しが立たなさそうだし、事態は意外に深刻なのだ、ということがそろそろと理解できてくる。6年前から使ってる携帯(docomo)なんか、まったく使えないんで閉口である。
宿泊覚悟で、交通が安定し出すまで社内にいるのもひとつの手だとは思ったのだけれども、腰の調子がいまいちだし、自宅のことも気になったので、いろいろあって、とりあえずわたくしも、後楽園にある勤め先から、◎◎◎▽▽の自宅まで歩いて帰ってみることに。見込みだと2時間半から3時間か。さいわいこの日は腰の痛みもやや緩和していたし、歩きやすいスニーカーを履いてたし。まあ、あとはなるようになれですな(まんいちなにかの拍子で腰痛が悪化した場合のために、いちおう経理から借金しておいたけど)。
19:50 春日通りを大塚方面へ歩くが、歩道も車道の人と車で渋滞。こんな歩道まで繁華街なみの混雑であった。
20:00 Google Map で当たりをつけておいた近道なのに、そんなところに歩道がなく、やむなく大塚3丁目の交差点を左折して不忍通りを西下することに。池袋方面へむかう人に比べれば混雑は減ったかと思いきや、それは一瞬のことであった。
20:20 護国寺西交差点に。30分歩いてこんなところだもんなー。こりゃウォーキング気分で楽しまにゃならんな、と。
20:30 不忍通りから目白通りに。千登世橋からその下を走る明治通りを見下ろしたのが、左の写真。オンボロ携帯はこんな写真を撮るしかできず。しかも不鮮明……。日常使用するぶんには問題ないのであるが。
21:05 落合南長崎駅近辺まで到達。途中、目白通りも新青梅街道へと名称が変わって、豊島区から新宿区に入ったあたりで、西へ帰宅をいそぐ人がぐっと多くなる。狭い歩道をゆくのも、前に二人組三人組がちんたら歩いてると一苦労ナリ。ここまでも結構歩いた気になっていたが、まだ半分くらいか。落合といえば、いちど遊びに来たいとおもってた 赤塚不二夫 の聖地のほどちかく。それをこんなかたちで通過しようとは。地下鉄はまだ再開の気配なし。一直線にひたすら歩く。
21:15 10年以上前に一度だけ散歩しに来たことがある哲学堂の北辺を通過。井上円了 は関東大震災も経験せずにすんだのだよなー。一直線にひたすら歩く。
21:30 沼袋交差点通過。このあたりの公衆電話がようやく待たずに使えたので家に電話。一直線にひたすら歩く。
21:40 環7を横断。なんとなく近づいて来たか? ちょっと歩行者は減ったけれども、それでもまだまだ。携帯もぜんぜんダメ。みんなどこまで帰るのだろうか。一直線にひたすら歩く。
22:10 井草2丁目交差点まで来て、ようやく練馬区内に。おおっ、あとすこしのような。先が見えて来たらお腹が空いてきた。向かいの歩道のマクドナルドがこんなにうまそうにみえたことはない。が、油があわないせいか、食べたら身体がかゆくなる体質ので華麗にスルー。モスかフレッシュネスがあれば確実に入っていただろう。ここまで来たらおとなしく帰るべ。一直線にひたすら歩く。
22:15 新青梅街道から右斜めに旧早稲田通りへ入る。さらに一直線にひたすら歩く。もうすこしだ。
22:35 右折して左折してナニして、ようやく自宅にとうちゃっく! 2時間45分、文京区→豊島区→新宿区→中野区→練馬区と、東京ウェスト横断でありました。もっと歩いた人も多いんだろうなあ。根性入れれば自転車で往復できない距離でもないかも? こっちが自宅に着いたころに各路線運行開始だったらしいのは、まいどのことでご愛嬌。携帯も何も使えないんだからそんな情報さえわかんないんだよな。
被害とえいば、部屋がちょっと足の踏み場もないくらい古書と資料の大散乱だったくらいで、まあまあ良しとしよう。とはいえ、わたしが愛読していた武林無想庵訳『サーニン』の函がぶっこわれてたのは痛かった……。地震保険は効かないんであろうか。あとで新聞やテレビを見たら、被災地はえらいことになってるんで、いやいやこんなもん。
*
しかし、都市機能の麻痺っぷりたるや、阪神淡路のときより改善されていたのかどうか、よくわからんなー。少なくとも関東大震災よりはましだった、という程度ではないだろうか? きょうも停電がどうとかいってたが、非常時に危険なお荷物なんじゃ原発なんていらん。あと数十キロで震源地なのに、行政や御用学者のお粗末っぷりったらないではないか。
携帯がぜんぜん使えなかったのもまったく解せん。文明の利器で非常時に使えないもんは、もうみんな意味がないのだ。しかもメーカーや機種によって使えたり使えなかったりしたみたいだし、この差はなんだ? おれの携帯が古いからか? 公衆電話が無料で使えて、かなりの精度で通話可能だったことを考えると、通信産業は各私企業の好き放題に整備させるんではなくて、行政の管理に戻してみてもいいんではないだろうか。
そういうわけで、お見舞いのメールや電話をいただいたみなさまにはあらためてお礼を。本日はいちんちぐったりもんでした。自分が本格的に被災したらひとたまりもないな。
おっ、また揺れた……。
---
95年だったかにかれらが来日した際に、この曲をこのアレンジでライヴで聴けたときは鳥肌もんでした。
Four Sticks
都内のすべての鉄道網が麻痺しているのは社内にいてもネット等で把握できたのだけれども、具体的にどんな状態なのだか、よくわからないまま退社時間の18時に。駅前の方へ偵察にいった同僚の話だと、地下鉄なんか深夜以降も復旧の見通しが立たなさそうだし、事態は意外に深刻なのだ、ということがそろそろと理解できてくる。6年前から使ってる携帯(docomo)なんか、まったく使えないんで閉口である。
宿泊覚悟で、交通が安定し出すまで社内にいるのもひとつの手だとは思ったのだけれども、腰の調子がいまいちだし、自宅のことも気になったので、いろいろあって、とりあえずわたくしも、後楽園にある勤め先から、◎◎◎▽▽の自宅まで歩いて帰ってみることに。見込みだと2時間半から3時間か。さいわいこの日は腰の痛みもやや緩和していたし、歩きやすいスニーカーを履いてたし。まあ、あとはなるようになれですな(まんいちなにかの拍子で腰痛が悪化した場合のために、いちおう経理から借金しておいたけど)。
19:50 春日通りを大塚方面へ歩くが、歩道も車道の人と車で渋滞。こんな歩道まで繁華街なみの混雑であった。
20:00 Google Map で当たりをつけておいた近道なのに、そんなところに歩道がなく、やむなく大塚3丁目の交差点を左折して不忍通りを西下することに。池袋方面へむかう人に比べれば混雑は減ったかと思いきや、それは一瞬のことであった。
20:20 護国寺西交差点に。30分歩いてこんなところだもんなー。こりゃウォーキング気分で楽しまにゃならんな、と。
20:30 不忍通りから目白通りに。千登世橋からその下を走る明治通りを見下ろしたのが、左の写真。オンボロ携帯はこんな写真を撮るしかできず。しかも不鮮明……。日常使用するぶんには問題ないのであるが。
21:05 落合南長崎駅近辺まで到達。途中、目白通りも新青梅街道へと名称が変わって、豊島区から新宿区に入ったあたりで、西へ帰宅をいそぐ人がぐっと多くなる。狭い歩道をゆくのも、前に二人組三人組がちんたら歩いてると一苦労ナリ。ここまでも結構歩いた気になっていたが、まだ半分くらいか。落合といえば、いちど遊びに来たいとおもってた 赤塚不二夫 の聖地のほどちかく。それをこんなかたちで通過しようとは。地下鉄はまだ再開の気配なし。一直線にひたすら歩く。
21:15 10年以上前に一度だけ散歩しに来たことがある哲学堂の北辺を通過。井上円了 は関東大震災も経験せずにすんだのだよなー。一直線にひたすら歩く。
21:30 沼袋交差点通過。このあたりの公衆電話がようやく待たずに使えたので家に電話。一直線にひたすら歩く。
21:40 環7を横断。なんとなく近づいて来たか? ちょっと歩行者は減ったけれども、それでもまだまだ。携帯もぜんぜんダメ。みんなどこまで帰るのだろうか。一直線にひたすら歩く。
22:10 井草2丁目交差点まで来て、ようやく練馬区内に。おおっ、あとすこしのような。先が見えて来たらお腹が空いてきた。向かいの歩道のマクドナルドがこんなにうまそうにみえたことはない。が、油があわないせいか、食べたら身体がかゆくなる体質ので華麗にスルー。モスかフレッシュネスがあれば確実に入っていただろう。ここまで来たらおとなしく帰るべ。一直線にひたすら歩く。
22:15 新青梅街道から右斜めに旧早稲田通りへ入る。さらに一直線にひたすら歩く。もうすこしだ。
22:35 右折して左折してナニして、ようやく自宅にとうちゃっく! 2時間45分、文京区→豊島区→新宿区→中野区→練馬区と、東京ウェスト横断でありました。もっと歩いた人も多いんだろうなあ。根性入れれば自転車で往復できない距離でもないかも? こっちが自宅に着いたころに各路線運行開始だったらしいのは、まいどのことでご愛嬌。携帯も何も使えないんだからそんな情報さえわかんないんだよな。
被害とえいば、部屋がちょっと足の踏み場もないくらい古書と資料の大散乱だったくらいで、まあまあ良しとしよう。とはいえ、わたしが愛読していた武林無想庵訳『サーニン』の函がぶっこわれてたのは痛かった……。地震保険は効かないんであろうか。あとで新聞やテレビを見たら、被災地はえらいことになってるんで、いやいやこんなもん。
*
しかし、都市機能の麻痺っぷりたるや、阪神淡路のときより改善されていたのかどうか、よくわからんなー。少なくとも関東大震災よりはましだった、という程度ではないだろうか? きょうも停電がどうとかいってたが、非常時に危険なお荷物なんじゃ原発なんていらん。あと数十キロで震源地なのに、行政や御用学者のお粗末っぷりったらないではないか。
携帯がぜんぜん使えなかったのもまったく解せん。文明の利器で非常時に使えないもんは、もうみんな意味がないのだ。しかもメーカーや機種によって使えたり使えなかったりしたみたいだし、この差はなんだ? おれの携帯が古いからか? 公衆電話が無料で使えて、かなりの精度で通話可能だったことを考えると、通信産業は各私企業の好き放題に整備させるんではなくて、行政の管理に戻してみてもいいんではないだろうか。
そういうわけで、お見舞いのメールや電話をいただいたみなさまにはあらためてお礼を。本日はいちんちぐったりもんでした。自分が本格的に被災したらひとたまりもないな。
おっ、また揺れた……。
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95年だったかにかれらが来日した際に、この曲をこのアレンジでライヴで聴けたときは鳥肌もんでした。
Four Sticks
2011年03月07日
火星から墜ちてきたクモ男
織田作之助を読んでると、スタンダールの『赤と黒』が読みたくなるなあ。何をかくそう(何もかくす義理はないが)、『赤と黒』は、大学6年のころに『罪と罰』をはじめて完読するまでのわたしのバイブルであった。高校時代以来、何度、何十度読み返したことであろうか。ヴェリエールの町の様子まで思い浮かぶくらいである。
すっかりソレリアンとなった男版ヒュブリスたるわたくしは、いちどくらいは2階の愛人の部屋に梯子で忍び込んでみたいものだ、とか、いちどくらいは30数えるあいだにお気に入りの女の子の手を握ってみたいもんだ、とか、いちどくらいは恋人を射殺未遂して自分もギロチン台の露と消えたいもんだ、とか、その他いろいろと妄想した程度には危険人物であった。で、いまは夢想癖だけが残った43歳の薄汚いオッサンである。ハタチの恋も遠くなりにけり。もっとも、いま思い出したが、上の3つのうち、どれかひとつくらいは試してみたかもしれない(詳細は特に秘す)。いまなら確実に逮捕であろう……時効だぞ!
……さて、昨年末に書きかけたまま、熱出してぶっ倒れて放置していたテキストが見つかったのでアップしておきます。突っ込みが弱いけど、書き直す時間と余裕がありませぬ。
*
バンド・デシネというフランス語圏のマンガが日本でも最近よく紹介されているようで、新刊書を熱心に追いかけられるほどヒマではないわたくしのような人間の視野にもはいってくる。というか、これは読まねばなるまい、と思ったのが、パスカル・ラバテ『イビクス』(国書刊行会、2010年11月)。なぜ読まねばなるまいと思ったかというと、本書の原作がほかならぬアレクセイ・トルストイだからである。
で、買った。で、読んだ。で、読み終わった。B5判変型、奥付まで538ページの大冊である。重かったので寝ながら読んだ。海外のマンガはスヌーピー以外からっきし体質に合わないわたくしに、はたしてこのマンガ(といってはいかんのか)を読みこなすことはできたのであろうか?
……ま、できた。原作をどのくらい改変しているのかわからんが、これはこれでおもしろかった。アレクセイ・トルストイの通俗的なところをさらに誇大に拡張したような通俗物語といい、つかみどころのない画のタッチといい、大変たいへん読み応えがありやんした(とはいえ、この画のタッチは好悪がわかれるかもしれない)。が、まあしかし、これに触発されてむしろ原作のほうが読んでみたくなった、というのも正直なところである。
もともアレクセイ・トルストイは戦前の日本でもよく紹介されていて(というか、ロシア文学は当時の日本ではほとんど根こそぎといっていいくらい紹介されまくっていた黄金時代だったわけであるが)、戦後も長篇『苦悩の中を行く』が有名だけれども、この社会主義リアリズムに分類されがちな作品だって、ロシア・アヴァンギャルドの時代が活写されていて、ぐいぐいと読んだおぼえがあるぞ。それはともかく、戦前に出た作品のなかで、わたしのお気に入りは〈ソヴェト・ロシア探偵小説集〉という何冊刊行されたかよくわからない内外社のシリーズの1冊、『技師ガーリン』(1930年11月、廣尾猛訳)である。
これはガーリンという科学者が双曲面体という兵器を開発して地球征服をもくろむ、といういわばマッドサイエンティストもので、いつぞやもうひとつのブログに書いた『空中軍艦』のつながり----つまり地球をしっちゃかめっちゃかに破壊しまくるカタストロフ小説の系列----として読んだのだった。ちなみに上の画像は右が『技師ガーリン』で、左は有名な『アエリータ』の日本語版(後出)。どちらももいま古書店で買うといいお値段のはずである。
それもともかく、『技師ガーリンの』カバーのソデに「主なる登場人物の性格」が記されてるんで、それを引用しておきませう。
「英雄主義の権化」とか「権力慾の結晶」なんて肩書きは、むしろスターリニストにこそふさわしいのだろうが、そこは時代の限界というものである。笑っちゃいけない。これがこの時代の典型的人間だったのだ。いかにして資本主義世界を変革するか(革命)、その手段をいかにして科学的に担保するか、というのが重要なところで、そこがおもしろいわけである(幸か不幸かロシアには私小説なんてもんはなかった)。ちなみにいえば、おなじ廣尾猛訳の『メス・メンド』も愛読したなー(わたしの手許にあるのは『職工長ミック』と『鉄工ローリー』の2冊だけだけど)。ソヴィエト・ロシアの探偵小説あなどれじ、なのだよ。
で、アレクセイ・トルストイといえば、いまでは小説よりもっと知られているのが映画『アエリータ』(1923)の原作者としてであろう。
ソヴィエト・ロシアを代表する構成主義映画の達成としてしばしば語られ、いまでも容易に入手できるんで、観たことある人も多いことであろう。いまの視点からすれば奇天烈なセットで、安易な物語、ちんちくりんな特撮かもしれないが、それでもいまだに斬新である。
この『アエリータ』は1920年代当時は邦訳が(おそらく)刊行されず、講談社の〈少年少女世界科学冒険全集〉に収録され、『火星にいった地球人』と改題されて日本に登場したのは、スターリン批判直後の1957年1月のことであった。
ちなみに訳者の西原久史郎は、デボーリンやゴンチャロフなんかの翻訳者としても知られる井上満のペンネームである。で、左の画像がその子ども向け『アエリータ』の折り込み口絵。うーん、これはこれで時代を感じさせるねえ。よもやドラえもんが登場したり、ペレストロイカを経てソ連が消滅したり、なんて夢想や妄想でさえありえなかった時代だったんであろう。
ところで、わたしがいつも思うのは、北斎が没した1849年から、日本近代を代表する表現者といえる漱石が生まれた1867年までは、わずか20年足らずだ、ということだ。1968年生まれのわたしが生まれる20年前の1948年といえば、なんと太宰治が自殺した年である。そして1968年から20年後の1988年といえば、昭和最後の1年であり、すでにいっぱしのソレリアン大学生になって某大新聞社の編集局でアルバイトしていたわたしなど、前の天皇の下血報道への対応で1年を明け暮れたもんだった。
それからもう20年以上も経過しているんだよなー。これでなんかしら世の中が変わっていないとすればウソだろう。しかし、自分ではなかなか実感がわかないのであって、どうにもこのままあと20年(下手するとさらにそのあと20年)を過ごして行かねばならないのである。これが歴史ってもんなのかもしれないねー。日本はこれからどうなるんだろうねー(どうなってもいいが)。
----
本日はこれしかありません。ボウイの Space Oddity。よっぽど Ziggy Stardust にしようかと思ったんであるが、10数年前にバイト先の友人たちとライヴで演ってまったく歌いこなせず惨敗した苦い思い出がよみがえり……f(^_^; しかし、なんとまあ曲もアーティストも美しいことよ。これが1969年、この時代は最高だぜい。
すっかりソレリアンとなった男版ヒュブリスたるわたくしは、いちどくらいは2階の愛人の部屋に梯子で忍び込んでみたいものだ、とか、いちどくらいは30数えるあいだにお気に入りの女の子の手を握ってみたいもんだ、とか、いちどくらいは恋人を射殺未遂して自分もギロチン台の露と消えたいもんだ、とか、その他いろいろと妄想した程度には危険人物であった。で、いまは夢想癖だけが残った43歳の薄汚いオッサンである。ハタチの恋も遠くなりにけり。もっとも、いま思い出したが、上の3つのうち、どれかひとつくらいは試してみたかもしれない(詳細は特に秘す)。いまなら確実に逮捕であろう……時効だぞ!
……さて、昨年末に書きかけたまま、熱出してぶっ倒れて放置していたテキストが見つかったのでアップしておきます。突っ込みが弱いけど、書き直す時間と余裕がありませぬ。
*
バンド・デシネというフランス語圏のマンガが日本でも最近よく紹介されているようで、新刊書を熱心に追いかけられるほどヒマではないわたくしのような人間の視野にもはいってくる。というか、これは読まねばなるまい、と思ったのが、パスカル・ラバテ『イビクス』(国書刊行会、2010年11月)。なぜ読まねばなるまいと思ったかというと、本書の原作がほかならぬアレクセイ・トルストイだからである。
で、買った。で、読んだ。で、読み終わった。B5判変型、奥付まで538ページの大冊である。重かったので寝ながら読んだ。海外のマンガはスヌーピー以外からっきし体質に合わないわたくしに、はたしてこのマンガ(といってはいかんのか)を読みこなすことはできたのであろうか?
……ま、できた。原作をどのくらい改変しているのかわからんが、これはこれでおもしろかった。アレクセイ・トルストイの通俗的なところをさらに誇大に拡張したような通俗物語といい、つかみどころのない画のタッチといい、大変たいへん読み応えがありやんした(とはいえ、この画のタッチは好悪がわかれるかもしれない)。が、まあしかし、これに触発されてむしろ原作のほうが読んでみたくなった、というのも正直なところである。
もともアレクセイ・トルストイは戦前の日本でもよく紹介されていて(というか、ロシア文学は当時の日本ではほとんど根こそぎといっていいくらい紹介されまくっていた黄金時代だったわけであるが)、戦後も長篇『苦悩の中を行く』が有名だけれども、この社会主義リアリズムに分類されがちな作品だって、ロシア・アヴァンギャルドの時代が活写されていて、ぐいぐいと読んだおぼえがあるぞ。それはともかく、戦前に出た作品のなかで、わたしのお気に入りは〈ソヴェト・ロシア探偵小説集〉という何冊刊行されたかよくわからない内外社のシリーズの1冊、『技師ガーリン』(1930年11月、廣尾猛訳)である。
これはガーリンという科学者が双曲面体という兵器を開発して地球征服をもくろむ、といういわばマッドサイエンティストもので、いつぞやもうひとつのブログに書いた『空中軍艦』のつながり----つまり地球をしっちゃかめっちゃかに破壊しまくるカタストロフ小説の系列----として読んだのだった。ちなみに上の画像は右が『技師ガーリン』で、左は有名な『アエリータ』の日本語版(後出)。どちらももいま古書店で買うといいお値段のはずである。
それもともかく、『技師ガーリンの』カバーのソデに「主なる登場人物の性格」が記されてるんで、それを引用しておきませう。
ガーリン
英雄主義の権化。権力慾の結晶。天才的な技師。絶大な破壊力を有する器械の発明によつて全世界を征服しようとする。彼の器械の前には、軍艦も要塞も毒ガスも大航空隊も子供の玩具にひとしい。
シエリガ
社会主義の祖国ソヴエト聯邦を護るためには死を辞さない鋼鉄の闘争意識をもつてガーリンの計画と戦ふ共産党員レニングラード探偵局員。英雄主義〔マキアベリズム〕に対する集団主義〔レニニズム〕の勝利を信ずる名探偵だ。
ゾーヤ
モダンでシイクな生活のかげらふを追ふ女。イツトの魅力で「力と金」の世界的英雄に君臨し「世界の女王」にならうと夢みる女。女優。白系パルチザンの女戦士。巴里へ亡命して街頭の売笑婦を振出しにアメリカ化学王の妾兼秘書、技師ガーリンの情人----太平洋上の孤島『黄金島』の女王になる。
ローリング
金、金、金で鍛へ上げられた大資本主義の権化。大化学コンツエルンを組織し、まづヨーロッパを、それから全世界を征服しようとする野望に燃える化学王。
「英雄主義の権化」とか「権力慾の結晶」なんて肩書きは、むしろスターリニストにこそふさわしいのだろうが、そこは時代の限界というものである。笑っちゃいけない。これがこの時代の典型的人間だったのだ。いかにして資本主義世界を変革するか(革命)、その手段をいかにして科学的に担保するか、というのが重要なところで、そこがおもしろいわけである(幸か不幸かロシアには私小説なんてもんはなかった)。ちなみにいえば、おなじ廣尾猛訳の『メス・メンド』も愛読したなー(わたしの手許にあるのは『職工長ミック』と『鉄工ローリー』の2冊だけだけど)。ソヴィエト・ロシアの探偵小説あなどれじ、なのだよ。
で、アレクセイ・トルストイといえば、いまでは小説よりもっと知られているのが映画『アエリータ』(1923)の原作者としてであろう。
ソヴィエト・ロシアを代表する構成主義映画の達成としてしばしば語られ、いまでも容易に入手できるんで、観たことある人も多いことであろう。いまの視点からすれば奇天烈なセットで、安易な物語、ちんちくりんな特撮かもしれないが、それでもいまだに斬新である。
この『アエリータ』は1920年代当時は邦訳が(おそらく)刊行されず、講談社の〈少年少女世界科学冒険全集〉に収録され、『火星にいった地球人』と改題されて日本に登場したのは、スターリン批判直後の1957年1月のことであった。
ちなみに訳者の西原久史郎は、デボーリンやゴンチャロフなんかの翻訳者としても知られる井上満のペンネームである。で、左の画像がその子ども向け『アエリータ』の折り込み口絵。うーん、これはこれで時代を感じさせるねえ。よもやドラえもんが登場したり、ペレストロイカを経てソ連が消滅したり、なんて夢想や妄想でさえありえなかった時代だったんであろう。
ところで、わたしがいつも思うのは、北斎が没した1849年から、日本近代を代表する表現者といえる漱石が生まれた1867年までは、わずか20年足らずだ、ということだ。1968年生まれのわたしが生まれる20年前の1948年といえば、なんと太宰治が自殺した年である。そして1968年から20年後の1988年といえば、昭和最後の1年であり、すでにいっぱしのソレリアン大学生になって某大新聞社の編集局でアルバイトしていたわたしなど、前の天皇の下血報道への対応で1年を明け暮れたもんだった。
それからもう20年以上も経過しているんだよなー。これでなんかしら世の中が変わっていないとすればウソだろう。しかし、自分ではなかなか実感がわかないのであって、どうにもこのままあと20年(下手するとさらにそのあと20年)を過ごして行かねばならないのである。これが歴史ってもんなのかもしれないねー。日本はこれからどうなるんだろうねー(どうなってもいいが)。
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本日はこれしかありません。ボウイの Space Oddity。よっぽど Ziggy Stardust にしようかと思ったんであるが、10数年前にバイト先の友人たちとライヴで演ってまったく歌いこなせず惨敗した苦い思い出がよみがえり……f(^_^; しかし、なんとまあ曲もアーティストも美しいことよ。これが1969年、この時代は最高だぜい。
2011年02月28日
連戦連夜
行政の補助金と地域住民の寄付金でグラウンドに敷いた芝生を、そんなもん邪魔やねん、と野球部員の保護者が重機をグラウンドに持ち込み芝生をはぎ取って整地した、という昨年話題になった中学校が母校のアクレーノスケです、こんばんは。つまり某々少年愚連隊のいくつか後輩ってわけですな……生まれてすんまへん。そういうわけで、もう2月も終わってしまうので、手遅れにならないうちに。2日続けてなんて、いつぶりやらー。
お礼とご紹介が遅れたのですが、ことしも 前年 に引き続き、ナミマ エミさんから(古い友人のツムジ氏を通じて)、大豆さんたちが大活躍のカレンダー『はたけのにく』第6号をお送りいただいた。1部1部ハンドメイドの非常に念の入ったすばらしいもので、ことしも1年間、自室の高いところに飾られることでしょう(もう2カ月経過してしまいましたが)。ナミマさん、ありがとうございました。<(_ _)> ピンぼけで申しわけないけれど、左の画像はその3月分。イラストはもちろんのこと、「口八丁、手八丁で 白みそは くどきおとされた」というふるったコピーも心憎いねえ。
この不景気の荒波が直撃したとお聞きしていますが、例年「不況に負けるな!」という強いメッセージを発信してくれたナミマさんのこと、きっとまた新しい顔でご連絡をいただけることでしょう。応援していますよ!
*
さて、ところで、最近わけあって10年ぶりに織田作之助のあれこれを読んでたんであるが、おもろいよなあ。戦後のものもそれはそれでわるくないのだが(ただし、絶筆評論「可能性の文学」はいかにもご都合主義でわたしは推さない)、やはり戦時下の文学のひとつのありかたとして端倪すべからざるものがあるなあと、つくづく思ったのであった。で、彼が原作を書いた映画『還つて来た男』をひさしぶりに(自宅で)鑑賞。1944年(!)に公開された川島雄三の第1回監督作品なんであるが、文字通り「アカルサハ ホロビノ姿デアラウカ」である。田中絹代より草島競子にぐっときたー。
---
なんだかモミアゲの長さが同じなのでたいへん共感した、90年代最高のエキサイトメント、ジョン・スペンサー・ブルーズ・エクスプロージョン。最近CDでも復刻がすすんでますが、いまみてもじつにカッコイイねえ。では、3月にお目にかかりましょう。さようなら、2011年2月の日々よー。
お礼とご紹介が遅れたのですが、ことしも 前年 に引き続き、ナミマ エミさんから(古い友人のツムジ氏を通じて)、大豆さんたちが大活躍のカレンダー『はたけのにく』第6号をお送りいただいた。1部1部ハンドメイドの非常に念の入ったすばらしいもので、ことしも1年間、自室の高いところに飾られることでしょう(もう2カ月経過してしまいましたが)。ナミマさん、ありがとうございました。<(_ _)> ピンぼけで申しわけないけれど、左の画像はその3月分。イラストはもちろんのこと、「口八丁、手八丁で 白みそは くどきおとされた」というふるったコピーも心憎いねえ。
この不景気の荒波が直撃したとお聞きしていますが、例年「不況に負けるな!」という強いメッセージを発信してくれたナミマさんのこと、きっとまた新しい顔でご連絡をいただけることでしょう。応援していますよ!
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さて、ところで、最近わけあって10年ぶりに織田作之助のあれこれを読んでたんであるが、おもろいよなあ。戦後のものもそれはそれでわるくないのだが(ただし、絶筆評論「可能性の文学」はいかにもご都合主義でわたしは推さない)、やはり戦時下の文学のひとつのありかたとして端倪すべからざるものがあるなあと、つくづく思ったのであった。で、彼が原作を書いた映画『還つて来た男』をひさしぶりに(自宅で)鑑賞。1944年(!)に公開された川島雄三の第1回監督作品なんであるが、文字通り「アカルサハ ホロビノ姿デアラウカ」である。田中絹代より草島競子にぐっときたー。
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なんだかモミアゲの長さが同じなのでたいへん共感した、90年代最高のエキサイトメント、ジョン・スペンサー・ブルーズ・エクスプロージョン。最近CDでも復刻がすすんでますが、いまみてもじつにカッコイイねえ。では、3月にお目にかかりましょう。さようなら、2011年2月の日々よー。
naovalis68 at 23:13|Permalink│
2011年02月27日
The Writer with the Replaceable Head
現在の仕事には、こういうことがよくある。
これは19世紀末の文人 齋藤緑雨(1867-1904)の「おぼえ帳」という一連のエッセイのなかの一節である。かれは生前、『あられ酒』だとか『みだれ箱』だとか、洒脱なタイトルの袖珍本を何冊か刊行しているのだが、その没後にそれらを1冊にした『縮刷 緑雨全集』をわたくしは愛読しているんである。
10年ほどまえに完結した筑摩版の全集はいつか金策に困って手放したし、明治文学全集は上製で重いしするので、しぜんこの新書サイズの分厚い本を手にとる機会が多い。ひとりでニヤニヤしたり、ときにはケケケと声をたてたりして手放せない本なのだけれど、この一節などじつに秀逸である。いやあ、もうこんなことだらけであるよなあ。若いひとたちなんか、輪をかけてこんな感じである。著者とふたりでどちらも「ぼあいですなあ」と言い交わして頷きあっているのである。
*
さて、緑雨といえば、これはもうだれかが言及していることかもしれないが(というのは、最近の大逆事件=秋水関係のさまざまな研究や書籍にほとんど目を通していないからだが)、松本清張の『文豪』(1974年10月/現在は文春文庫で手軽に読める)に、ちょっとした緑雨論(というより評伝)が収められているのだけれども、この小論の白眉は、緑雨からかれの畏友・幸徳秋水へ宛てた書簡が転載されていることである。秋水の妻・師岡千代子によれば、ふたりは「爾汝の交わりを最後まで続けた間柄」なのである。
晩年の貧に窮し病を得て久しい緑雨が、秋水の『週刊 平民新聞』に「ももはがき」というエッセイを連載していたことはよく知られているが、1904年のそのころ----つまりその年の4月に結核で亡くなるわずか2カ月ほど前の2月11日付で、かれは日露戦争下に非戦論を主張していた秋水につぎのような手紙を送っているのだ(この書面はそのまま筑摩版『緑雨全集』第8巻にも収録されていたはずである。原文のカナ遣いは現代風な読みかたに訂す)。
云々と例が引いてあって、要するに「なるほど制度もわるい 新聞などのおだてもわるい それはそれで攻撃すべしですが 一面に兵士及びその父兄の謬想をただしてやらねばいけませぬ 平民新聞の非戦論は前者の攻撃ばかりで 後者の説得がないと思いますが いかがですか」というのだ。つまり「謬想をただ」す=制度やメディアを舞台にしたイデオロギー闘争を繰りひろげるだけでなく、戦争なり徴兵制度の具体的な矛盾をひろく民衆に知らしめてはどうか、というのである。けっして社会主義者の妙でないらしい緑雨の、いわばこれが遺言である。
清張によれば、この書簡は獄中の秋水が刑死の直前に三申小泉策太郎に託し、その後、評論家の木村毅の手に渡ったものを書写したのだという(たしかその経緯は青木正美著『古本探偵追跡簿』という本にくわしく書いてあったと思うが、いま手許にない。この書簡自体も現在は青木氏の所有だったはずである)。
さてところで、その緑雨最晩年の非戦論は、リライトされ、無署名の原稿として10日後の『週刊 平民新聞』15号(1904年2月21日付)に掲載された。そしていまではどうも幸徳秋水の論文として「兵士の謬想」というタイトルを付せられ、種々の刊本に掲載されているようなのである。たとえば、すこし古いが、飛鳥井正道編・解説の『近代日本思想体系13 幸徳秋水集』(筑摩書房、1975年11月。すなわち清張『文豪』の翌年)などで読むことができたりするのがそれだ。
この秋水ヴァージョン(?)は、前半はほとんど緑雨の書簡とほとんどそのままで、痔病の兵士がどうしたとかいくつかの具体例が引いてあるのだが、後半が、いわばこうした現実に対する秋水によるの解釈というか、読者にむけた檄文となっているのである。その最後の部分を引用しておこう。
いまから読むと、緑雨的なユーモアが消されて、非常に教条主義的にまとめられているように読めてしまうが、どうだろうか。文章だけ読んでると、どうも秋水というひとは、クソ真面目に思えてしまうのだよなあ。
福沢諭吉も無署名の記事が多く、はたしてそれを福沢のものとみなしていいかどうかで論争になったりしているようだけれども、たとえばこの緑雨 - 秋水の原稿なんかは、もっと緑雨のものとして読まれなければならないのではないであらうか?----と思っているのはわたくしだけであらうか?
*
さて、わたしがこんなブログを書いてるからといって、ヒマそうだと判断されたりしませんように! 日曜の午後のほんの息抜き、ガス抜きですよ。ところで以下の動画は、すこし前に2ndアルバム Destiny Street の再録盤(なかなか馴染めんなー)がリリースされたリチャード・ヘルの The Kid with the Replaceable Head。の、これはニック・ロウがプロデュースしたシングルヴァージョン。なんだかかわいいアニメになってます。
○仏学者と漢学者と連立ちて途〔みち〕を行きけるが、やがて夕やけの空を指〔ゆびさ〕して、あれが暮靄〔ぼあい〕というのですなと仏学者のいえば、漢学者はしばしば耳傾けて、ボアイ、成程、仏蘭西では爾〔そう〕申しますか。両学者竟〔つい〕に何事とも暁〔さと〕らず。
これは19世紀末の文人 齋藤緑雨(1867-1904)の「おぼえ帳」という一連のエッセイのなかの一節である。かれは生前、『あられ酒』だとか『みだれ箱』だとか、洒脱なタイトルの袖珍本を何冊か刊行しているのだが、その没後にそれらを1冊にした『縮刷 緑雨全集』をわたくしは愛読しているんである。
10年ほどまえに完結した筑摩版の全集はいつか金策に困って手放したし、明治文学全集は上製で重いしするので、しぜんこの新書サイズの分厚い本を手にとる機会が多い。ひとりでニヤニヤしたり、ときにはケケケと声をたてたりして手放せない本なのだけれど、この一節などじつに秀逸である。いやあ、もうこんなことだらけであるよなあ。若いひとたちなんか、輪をかけてこんな感じである。著者とふたりでどちらも「ぼあいですなあ」と言い交わして頷きあっているのである。
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さて、緑雨といえば、これはもうだれかが言及していることかもしれないが(というのは、最近の大逆事件=秋水関係のさまざまな研究や書籍にほとんど目を通していないからだが)、松本清張の『文豪』(1974年10月/現在は文春文庫で手軽に読める)に、ちょっとした緑雨論(というより評伝)が収められているのだけれども、この小論の白眉は、緑雨からかれの畏友・幸徳秋水へ宛てた書簡が転載されていることである。秋水の妻・師岡千代子によれば、ふたりは「爾汝の交わりを最後まで続けた間柄」なのである。
晩年の貧に窮し病を得て久しい緑雨が、秋水の『週刊 平民新聞』に「ももはがき」というエッセイを連載していたことはよく知られているが、1904年のそのころ----つまりその年の4月に結核で亡くなるわずか2カ月ほど前の2月11日付で、かれは日露戦争下に非戦論を主張していた秋水につぎのような手紙を送っているのだ(この書面はそのまま筑摩版『緑雨全集』第8巻にも収録されていたはずである。原文のカナ遣いは現代風な読みかたに訂す)。
急に僕も非戦論でも書きたくなったと申しますのは 〔他家に養子に出た実弟の〕小山田が第二師団へ廻されて出征の途に上るべき命令を受けましたので 僕はお抱えの医者がなくなった訳です〔……〕さて非戦論に就て一寸申上たいことがあります それは惨事だとか何だとか制度の方から攻撃するのも宜しいが 兵士其人の謬想の方からも もっと諭さねばいけまいかと思います〔……〕
僕の聞いた話では毎日何千となく予備後備の健康診断を兵営で行なったのに戦争の妙でないらしい顔即ち不元気のやつは百人に一人あるか無しで 一例を挙ぐれば或る一人は極めて悪性の痔病でこんな者を汽車に乗せ汽船に乗せて連れて行けば未だ戦わざるに弊るるにきまっている そこでこれをはねつけると其者頑として応じない 痛くないふりで足を踏鳴らして用うべきを示している また或一人は〔……〕
云々と例が引いてあって、要するに「なるほど制度もわるい 新聞などのおだてもわるい それはそれで攻撃すべしですが 一面に兵士及びその父兄の謬想をただしてやらねばいけませぬ 平民新聞の非戦論は前者の攻撃ばかりで 後者の説得がないと思いますが いかがですか」というのだ。つまり「謬想をただ」す=制度やメディアを舞台にしたイデオロギー闘争を繰りひろげるだけでなく、戦争なり徴兵制度の具体的な矛盾をひろく民衆に知らしめてはどうか、というのである。けっして社会主義者の妙でないらしい緑雨の、いわばこれが遺言である。
清張によれば、この書簡は獄中の秋水が刑死の直前に三申小泉策太郎に託し、その後、評論家の木村毅の手に渡ったものを書写したのだという(たしかその経緯は青木正美著『古本探偵追跡簿』という本にくわしく書いてあったと思うが、いま手許にない。この書簡自体も現在は青木氏の所有だったはずである)。
さてところで、その緑雨最晩年の非戦論は、リライトされ、無署名の原稿として10日後の『週刊 平民新聞』15号(1904年2月21日付)に掲載された。そしていまではどうも幸徳秋水の論文として「兵士の謬想」というタイトルを付せられ、種々の刊本に掲載されているようなのである。たとえば、すこし古いが、飛鳥井正道編・解説の『近代日本思想体系13 幸徳秋水集』(筑摩書房、1975年11月。すなわち清張『文豪』の翌年)などで読むことができたりするのがそれだ。
この秋水ヴァージョン(?)は、前半はほとんど緑雨の書簡とほとんどそのままで、痔病の兵士がどうしたとかいくつかの具体例が引いてあるのだが、後半が、いわばこうした現実に対する秋水によるの解釈というか、読者にむけた檄文となっているのである。その最後の部分を引用しておこう。
知れ兵士よ、其父兄よ、国家は戦争を以て目的とする者に非ず、国家は軍人のみを以て立つ者に非ず、衣なかる可らず、食なかる可ならず、道徳なかる可ならず、否な既に衣あり、食あり、道徳あらば、戦争なくして可也、軍人なくして可也、人の国家に尽す所以の者は、忠実に自家の職分を尽せば足るのみ、夫れ唯だ自家の職分に忠実なる、縦〔たとい〕今一粒の米を産し、一片の金を掘るに過ぎざるも、其人や直ちに天下第一品の人格にして、国家第一の忠臣たらん、夫の死生一擲金鵄勲章を賭するが如きは、〔博打うちの〕袁彦道の亜流のみ、何の名誉の光栄あらんや、兵士よ、其父兄よ、速に其謬見を去って、彼己氏の煽動に乗せらるること勿れ。
いまから読むと、緑雨的なユーモアが消されて、非常に教条主義的にまとめられているように読めてしまうが、どうだろうか。文章だけ読んでると、どうも秋水というひとは、クソ真面目に思えてしまうのだよなあ。
福沢諭吉も無署名の記事が多く、はたしてそれを福沢のものとみなしていいかどうかで論争になったりしているようだけれども、たとえばこの緑雨 - 秋水の原稿なんかは、もっと緑雨のものとして読まれなければならないのではないであらうか?----と思っているのはわたくしだけであらうか?
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さて、わたしがこんなブログを書いてるからといって、ヒマそうだと判断されたりしませんように! 日曜の午後のほんの息抜き、ガス抜きですよ。ところで以下の動画は、すこし前に2ndアルバム Destiny Street の再録盤(なかなか馴染めんなー)がリリースされたリチャード・ヘルの The Kid with the Replaceable Head。の、これはニック・ロウがプロデュースしたシングルヴァージョン。なんだかかわいいアニメになってます。
naovalis68 at 18:08|Permalink│
2011年02月06日
あけおめことよろ(2月ヴァージョン)
こんばんは、アクレーノスケです。もう2月じゃん……。新年あけましておめでとうございます。本年もごひいきにどうぞ。
とはいえ、1月1日から39度の熱のまま正月は1歩も外へ出られず、その後も風邪っぴきが完治せず、ぐずぐず言いながら、仕事のほうもバタバタだし……で、現在にいたる。年賀状をいただきながら返事も出さず、不義理をなにとぞおゆるしください……がんばってます、がんばってるんだってば。
そういうわけでこのかんもいろいろあったわけであるが、先週末(すなわち1月最終週)は仕事で急遽、韓国の釜山に。10年前にロシアへ行って以来の海外でありました。ま、格安ツアーに便乗してなので、朝4時半に羽田発、その翌日の24時ころに羽田着、という疲労と風邪を増幅しに1泊2日の強行軍を敢行したようなもんであるが、いやー寒かった。日中の最高気温がすでに零下だったしなー。でも、楽しませていただきやんした。格安ツアーだと、釜山までの1泊2日で22800円、飛行機はサンドイッチだけど機内食も出るし、宿泊もビジネスホテルだけど、まあふつうに過ごすことができたしな。そりゃ韓流ブームなんかで日本人が殺到するわけだわ。
ちなみに、上の写真は釜山タワーから海の方を見下ろしたところ。漁港のようで、チャガルチ市場という市場でいただいた山盛りの海の幸は美味でござんした。
今回はわりと急な要請で準備の時間がなく、ことばも挨拶程度しか使えなかったんであるが、釜山の町中はほんとにハングルだらけで、いやー面くらった。いちおう大型書店も2店ほど寄ってみたんであるが、本もすべてハングルなので、面陳でもしてるか英語もしくは漢字もしくは著者の肖像が入っていないと、なんの本だか皆目わからん f(^_^; そんななか入手したのは、(またまた!)マル/エン『共産党宣言』(さあ、例の箇所はハングルではどう訳されてるのかしらん)、太宰治『晩年』、ノヴァーリスの『青い花』(!)。
マルクスは経哲草稿がほしかったのだけれども、軍事政権時代の名残りか、これしか見当たらず(単に探し漏れの可能性大)。とはいえこれらはいずれもわたしが長く愛読してきた本、いわばバイブルである。ドストエフスキーは『カラマーゾフ』と『悪霊』しか見当たらず、『罪と罰』がほしかったな。が、小林勝なんか訳されてるし(まあこれは納得できるが、しかし)、韓国も翻訳文化だということがよっく理解できた。和モノだと、ハルキとヒガシノとバナナはよく目立っておりました。
で、これが釜山の古本屋街のようす。幅2mくらいの路地に、古本屋さんがびっしり。200mくらいは続いてたんじゃなかろうか。いいのがあれば……と思って物色してみたのだけれど、最近の女性雑誌か子ども向けの本が多かったかな。古い本もあったのだけど、さすがに戦前のものは見当たらず(当然か)、なにも買わずに退散したのであった。----というのはタテマエで、日本のように表3とか後ろの見返しに値段が書き込まれていないので、値段交渉をするのがおっくうだった、というのが本音である。ロシアでもエセーニンとかエヴレイノフの1920年代の古書を買って帰ることができたわたくしとしては、なんとも残念な次第であった……。そのうちソウル(の古本屋)も訪ねてみたいぞ。それにはハングルがすこしは使えないとなー。だったらほかの国でもいいかな? 単に海外旅行が趣味といえるような人種になりたいだけだったりして……。
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とまあそんなこんなで、体調はまったくヨロヨロながら、なにかとあれやこれやが降り掛かってくるし、書くことはいろいろあるので、なんとか週に1度くらいは更新したいもんである。そういうわたくしが最近の愛聴してるのはジュリーだったりして。小学生のころはわたしもウィスキーの小瓶や帽子を放り投げたりしたもんであるが、いま聴くとじつに歌がうまいよな、カッコいいよなー。
とはいえ、1月1日から39度の熱のまま正月は1歩も外へ出られず、その後も風邪っぴきが完治せず、ぐずぐず言いながら、仕事のほうもバタバタだし……で、現在にいたる。年賀状をいただきながら返事も出さず、不義理をなにとぞおゆるしください……がんばってます、がんばってるんだってば。
そういうわけでこのかんもいろいろあったわけであるが、先週末(すなわち1月最終週)は仕事で急遽、韓国の釜山に。10年前にロシアへ行って以来の海外でありました。ま、格安ツアーに便乗してなので、朝4時半に羽田発、その翌日の24時ころに羽田着、という疲労と風邪を増幅しに1泊2日の強行軍を敢行したようなもんであるが、いやー寒かった。日中の最高気温がすでに零下だったしなー。でも、楽しませていただきやんした。格安ツアーだと、釜山までの1泊2日で22800円、飛行機はサンドイッチだけど機内食も出るし、宿泊もビジネスホテルだけど、まあふつうに過ごすことができたしな。そりゃ韓流ブームなんかで日本人が殺到するわけだわ。
ちなみに、上の写真は釜山タワーから海の方を見下ろしたところ。漁港のようで、チャガルチ市場という市場でいただいた山盛りの海の幸は美味でござんした。
今回はわりと急な要請で準備の時間がなく、ことばも挨拶程度しか使えなかったんであるが、釜山の町中はほんとにハングルだらけで、いやー面くらった。いちおう大型書店も2店ほど寄ってみたんであるが、本もすべてハングルなので、面陳でもしてるか英語もしくは漢字もしくは著者の肖像が入っていないと、なんの本だか皆目わからん f(^_^; そんななか入手したのは、(またまた!)マル/エン『共産党宣言』(さあ、例の箇所はハングルではどう訳されてるのかしらん)、太宰治『晩年』、ノヴァーリスの『青い花』(!)。
マルクスは経哲草稿がほしかったのだけれども、軍事政権時代の名残りか、これしか見当たらず(単に探し漏れの可能性大)。とはいえこれらはいずれもわたしが長く愛読してきた本、いわばバイブルである。ドストエフスキーは『カラマーゾフ』と『悪霊』しか見当たらず、『罪と罰』がほしかったな。が、小林勝なんか訳されてるし(まあこれは納得できるが、しかし)、韓国も翻訳文化だということがよっく理解できた。和モノだと、ハルキとヒガシノとバナナはよく目立っておりました。
で、これが釜山の古本屋街のようす。幅2mくらいの路地に、古本屋さんがびっしり。200mくらいは続いてたんじゃなかろうか。いいのがあれば……と思って物色してみたのだけれど、最近の女性雑誌か子ども向けの本が多かったかな。古い本もあったのだけど、さすがに戦前のものは見当たらず(当然か)、なにも買わずに退散したのであった。----というのはタテマエで、日本のように表3とか後ろの見返しに値段が書き込まれていないので、値段交渉をするのがおっくうだった、というのが本音である。ロシアでもエセーニンとかエヴレイノフの1920年代の古書を買って帰ることができたわたくしとしては、なんとも残念な次第であった……。そのうちソウル(の古本屋)も訪ねてみたいぞ。それにはハングルがすこしは使えないとなー。だったらほかの国でもいいかな? 単に海外旅行が趣味といえるような人種になりたいだけだったりして……。
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とまあそんなこんなで、体調はまったくヨロヨロながら、なにかとあれやこれやが降り掛かってくるし、書くことはいろいろあるので、なんとか週に1度くらいは更新したいもんである。そういうわたくしが最近の愛聴してるのはジュリーだったりして。小学生のころはわたしもウィスキーの小瓶や帽子を放り投げたりしたもんであるが、いま聴くとじつに歌がうまいよな、カッコいいよなー。
naovalis68 at 22:34|Permalink│