おひるね日和

いらっしゃいませ😆
このブログを開いてくださり、ありがとうございます。
当ブログの管理人、夏野ソラと言います。
小学生の頃から読書が好きで、たくさんの本を読んできました。おもに小説。最近は資料やエッセイや参考書なんかも読みます。
それから、趣味の範囲で、自分でも小説を書いています。
こちらのブログでは、私がこれまでに読んだことのある本の紹介をしていきます。
ネタバレにならない程度のあらすじと感想から、作品の魅力をお伝えしていけるように頑張ります(●'д')b
どうぞ、ゆっくりとご覧になってくださいませ😆😆
ちなみにリアクションをしていただけますと、まれに「おみくじ」を引くことができます。今日の運試しにも、使ってみてね:: ೖ(⑅σ̑ᴗσ̑)ೖ ::


タイタンの妖女
カート ヴォネガット ジュニア
早川書房
2013-03-29



人類最大の謎

あらすじ
 世界一の大富豪、マラカイ・コンスタントは、ある日突然、自らの運命を告げられる。なんと、宇宙を旅した挙句に、タイタン(土星の衛生のひとつ)へ行くというのだ。しかも一直線に行くのではない。火星から水星を経て、一度地球に戻った後にタイタンへ至ることになるという。しかも、どうやらそこで死ぬらしい。
 マラカイ・コンスタントは、そんな運命に抗うべく、みずから財産を捨て去り、大酒を飲み、自暴自棄になる。
 しかし運命に逆らうことはできなかった。
 マラカイは宇宙船にさらわれた挙句、さまざまな出来事を経た後に、ついにタイタンへ到着してしまう。
 なぜマラカイはそんな大冒険に出なくてはならなかったのか。
 戦争、裏切り、友情――その果てに待っているものとは……?

タイタンの妖女
カート ヴォネガット ジュニア
早川書房
2013-03-29



感想
 私がこの作品のことを知ったのは、テレビを見ていた時のことでした。爆笑問題の太田光さんが、この作品について熱く語っていたのを覚えています。その中で、「主人公が大変な思いをして旅をさせられるのに、目的は〝そんなこと〟だったのかよ」といった要旨のことを話していました。私はそれを見ていたので、ぼんやりとですが、結末と過程について想像することができました。私がこの作品を読破できたのは、そのおかげだったと思います。知っていなければ、おそらく途中で投げ出していたでしょう。
 というのもなぜかと言いますと、(本書の最後でも太田光さんが語っているのですが)この作品の中で語られていることは、正直いって、なんだかよくわからないことばっかりだからです。なんでわからないかといえば、おそらく、旅の目的がはっきりしていないからなんでしょう。太田光さんの言葉を借りるなら、それらはすべて「ドタバタ」です。戦争だったり殺人だったり事故だったりと、すごいことが起き続けるんですが、目的がないから、始終、だからなんなの、という思いが最後まで拭えませんでした。
 ですが、最後の最後、主人公がタイタンに到着した時に、それらがすべて意味のあることだったとわかります。しかし同時に、その「意味」がとてつもなくどうでもいいことなので、これまでの苦労と、やっと見つけ出した「意味」が、一気に崩壊していくかのような脱力感に苛まれました。
 どうしようもないことに運命を操られ、その挙句にできる、極めて小さな、でも最大限の反抗が切なくて切なくて、でも同時に愛おしくて仕方がありませんでした。


違和感
太田 光
扶桑社
2018-04-20


考えたこと
 自分はなんのために生まれてきたのか。おそらくは誰しもが一度は考える問題ではないでしょうか。
 その答えは多くの場合、誰かを幸せにするためだったり、人類全体の進歩のためだったりします。答えの種類は多岐に渡りますが、おそらくどの答えにも共通しているだろうことは、外在的であるということです。つまり、自分以外の「何か」のために、自分は生まれてきたのだ、ということです。おそらくですが、自分が生まれたのは、自分が幸せになるだけのためだ、と考える人は少ないのではないでしょうか。そこに他者が介在しないことはあまりないと思います。
 では、その「他者」はなんのために生まれてきたのでしょうか。さらに、その他者から見た別の「他者」は、なんのために生まれてきたのでしょうか。
 この問いは永遠に続きます。
 もしも運悪く、精神状態が弱っている時に、この終わりのない問いの渦に落ち込んでしまったとしたら大変です。そこから抜け出すことが困難になってしまうことでしょう。私がそうでした(笑)
 ですが、落ち着いて考えてみると、「人は何かのために生まれてきたのだ」とか「生きている価値のない人間はいない」などといった前提に不備があるのではないか、という疑問が生まれ得ます。そして、そういった疑問が生まれると、ひょっとしたら、自分は(または人間は)生きる価値なんてないのではないか、という仮説に行き着きます。
 この仮説に至った時が、おそらく危険です。自暴自棄になって罪を犯したり、自殺に走ってしまったりといったことが起きるのかもしれません。
 そして、おそらくそうした仮説に行き着いている人は、現在多いのではないかと思います。
 ですが、そんな価値も意味も理由もなく生きている自分(人類)を愛せるかどうかは別問題です。価値も理由も意味もないものが生きている、それが虚しいか悲しいか、可笑しいか面白いか愛おしいか、その分岐点での考え方によって、生きることに対する態度が変わってくるのかもしれません。
 この作者は、そうした意味のない私たち(人間)を、俯瞰して嘲笑しながらも、愛おしさを捨てきれずにいるのではないか、そんなふうに思えました。


違和感 (扶桑社BOOKS新書)
太田 光
扶桑社
2020-09-25


精神科は今日も、やりたい放題
内海 聡
三五館
2015-04-17



精神科医が精神と脳を破壊する

内容
 精神科はどうして生まれたのか。精神科ではどのような治療が行われるのか。精神科で処方される薬にはどんな効果があるのか。閉ざされた世界である精神科の世界の闇が、ここに打ち明けられる。毒を薬と言って処方する精神科医の世界に対して、毒を毒だと正直に訴える1人の医師が立ち向かう!


精神科は今日も、やりたい放題
内海 聡
三五館
2015-04-17

(Kindle版)

感想
 私は医師ではないですし、医学を学んだこともありません。ですが、実際に入院していた先で行われていた「治療」を目撃したり体験したことはあります。
 精神科に入院すると、まずは鍵のかかった部屋に閉じ込められます。トイレは自由に流せませんし(レバーは部屋の外にあり、スタッフが来た時だけしか流してもらえない)、水道がないので、自由に水を飲むこともできません。処方された薬は、抵抗すると「力づく」で飲まされます。ちゃんと飲んだかどうか、口を開けさせられて、舌の裏や歯の横など、隅から隅まで覗かれます。入浴時は、異性スタッフの前で裸にならなくてはなりません。それに、どういう基準でかは知りませんが、全身を拘束され、何時間も放置されることもあります。ちなみに、この処置によって死者が出た事例もあります。
 そんな生活の中では、当然ですが気が休まることなどありません。イライラも募ります。そのイライラを告げると薬を処方されます。薬についての説明は一切ありません。また、入院し的ばっかりの新しい患者が、三日と経たずに意思の疎通が不可能になり、車椅子に乗らなくてはならなくなるのを見たこともあります。
 この本の中にも書かれている、精神科で処方される薬は毒であるという説、それから、「治療」が人間の精神と脳を破壊するという説は、どちらも正しいと思います。医師としてではなく、経験者の一人として、「被害者」の一人として、です。
 この記事を書いている今は、正直なところとても苦しいです。「治療」を受けた記憶と共に、その時に感じた屈辱や怒りや恐怖などが蘇ってくるからです。それでもこの記事を書こうと思ったのには理由があります。私のような経験を、もう誰にもしてほしくないからです。
 どうか皆さん、苦しい時にこそ精神科には行かないでください。精神科へ行く前に、福祉事務所や行政の窓口など、別の相談機関に行ってみてください。法律相談も、回数などの限定条件はありますが、無料でできる機会があります。法テラスなどで検索してみてください。自分が精神科にかからないこと、大切な人を精神科にかからせないことが大切です。




考えたこと
 たとえば、職場でパワハラを受けているとします。そのパワハラを解決するために、薬を飲もうと思うでしょうか。思うのであれば、ちょっと考え方を変えてみてほしいと思います。おそらく多くの人は、薬で解決できるとは思わないでしょう。
 しかし精神科医は違います。原因がパワハラだろうがDVだろうが、薬を出します。薬を出して、気分を良くしてください、などと言います。言われた通りに薬を飲めば、確かに気分は良くなるでしょう。ただし、一時的に。
 気分が悪い場合は、環境に原因があることが考えられます。パワハラで言えば、力関係にものを言わせて罵声を浴びせられたり、過剰な労働を強いられりなどなど……。いくら薬を飲んでも、あるいは休暇をとったとしても、そういった環境が改善されない限り、気分が悪い状態はいつまでも続きます。一時的に治ったとしても、同じ環境に戻れば再発します。
 そういった環境を改善できるのは、労働基準監督署であり、弁護士であり、職安であり、家族であり、友人であり、恋人であります。ここには書ききれませんが、環境を変えるための力になってくれる人は、いっぱいいるでしょう。
 医者の出る幕ではないのです。
 また、とくに怒りや悲しみは、現代の日本ではあまり好ましい感情とされていないのではないか、という感じが私はしています。しかし怒りも悲しみも、感じて当たり前のものですし、発露することも時としてあるでしょう。
 別の日記でも書いたことがあるんですが、大げさにいうなら、すべての感情に病名をつけることができます。
 笑えば躁病、悲しめば鬱病です。怒れば発達障害だし、喜べば統合失調症です。
 どんな感情にも、またどんな行動にも理由があります。それを考えれば、多くの場合はそれ以上困らずにすみます。まわりの人が困っているというケースもありますが、それは「まわりの人」の責任です。「困らせている人」をでっち上げて責任転嫁しているにすぎません。
 仲裁や調停などといった第三者が必要な場合はあると思います。それもかなりの頻度で。でも、医者の出る幕ではありません。
 そこにしゃしゃり出てくるのが精神科医です。
 殺人事件の犯人でも、徹底的に動機に目を当てられるというのに、精神病による「行動」や「感情」の動機はまったく目を向けられません。そして殺人事件の犯人でも、「精神病」を含めた「心神喪失」の状態が認められた途端に罪はなくなります。
 今の日本の精神医学は、「理解できないこと」「面倒くさいこと」などを無分別に詰め込むだけのごみ箱のようなものです。しかも中が腐ってひどい臭いがしているのに、蓋の上に蓋をして「ない」ことにしているだけです。
 もちろん、精神疾患を抱えている人を「ごみ」だと言っているのではありません。ですが「ごみ扱い」されているのは、おそらく事実です。私もその1人と言えるでしょう。
 患者の中には、ウン十年もずっと入院させられている人が何人もいます。そんな長い時間隔離されているので、もちろん元の生活に戻るのは非常に困難です。仕事にもありつけないことでしょう。
 人生のほとんどの時間を奪っておいて「医療」とは笑わせてくれます。こういった精神科の現状は、海外からも人権侵害だと非難されていますし、日本国内にも、精神医学の人権侵害に取り組む市民団体「市民の人権擁護の会」や、「精神医療被害者の会」などといった団体も存在します。
 ちなみに、こういった人権侵害が起きないための処置も取られてはいます。その方法は、ほかの病院の医師が定期的にやって来て、入院中の患者に聞き取りをするというものです。しかし、どの患者を選んでいるのかわかりません。私は2度入院しましたが、2度とも、入院して間もない頃(つまり、その病院の実情がまだわからない段階)のことでした。これが何を意味するのか、私にはわかりません。
 しかも入院時から3ヶ月(うろ覚えですが)が過ぎると、裁判所も聞き入れくれません。泣き寝入りするしかないのです。
 近ごろは「多様性」という言葉が強く叫ばれるようになりました。しかし「違い」を認めて「相互理解」をすることは、とても困難なことです。もちろん立ち向かうべき困難です。しかし、より簡単な道があれば、人間はどうしてもそちらの道を選んでしまいがちです。そして「相互理解」よりも簡単な道のひとつに、「ラベリング」があります。精神病や異常者や不審者など、言葉はさまざまですが、なんらかのラベルを貼って遠ざけることで、ほとんどのトラブルは「(ラベリングした側の人にとって)解決」します。そうしたラベリングに精神科がひと役買っていることは間違いありません。一方的な「解決」と、精神科の存在は親和性があるようです。
 精神科も含めて、「ごみ箱」のような性質の団体なり施設なりの存在を許す限り、私たちの世界に差別や偏見はなくならないでしょう。


(Kindle版)


スプラッターホラーサスペンス

あらすじ
 同級生が3人、死んだ。
 1人はスキー板によって、1人は落下してきた信号機によって、1人は地下鉄の事故によって。事故の原因は違えど、死んだ3人はいずれも頭部を切断されてしまった。
 鷹守清史郎は喜んだ。クラスで陰湿な虐めをしていた人間は、みんな死んでしまえばいいのだ。しかし3人目の犠牲者だけが指定した人物ではなかった。
 ――「黒い女」は失敗したのだろうか。
 歪んだ喜びの中に、一抹の不安と焦りがまじる。
 そんな中、鷹守のクラスに1人の転校生がやってくる。

「縦島ひとで、16歳です」

 黒目がちの瞳。黒いセーラー服。黒い髪。何もかもが黒い、でも圧倒的な美貌を持った悪魔のような美少女。

「あ、歳はいいか。みんな同じだもんね」

 その美貌に、クラスメイトたちは一瞬にして心を掴まれてしまう。
 「黒い女」の正体はなんなのか。どうして3人もの生徒が同じ形で死んだのか。
 そして、なぜ3人目の犠牲者だけが、鷹守の指定した人物ではなかったのか。
 謎を追ううちに明らかになる、クラスに潜む闇。
 売春。恋愛。嫉妬。犯罪。
 そしてクラスメイトたちは、究極の選択を迫られる。
 クラスメイト全員が死ぬか、生贄を一人だけを犠牲にするか。

 血飛沫が舞い、異形の怪物が跋扈する戦慄の学園ミステリー見参!

「小さい頃から、ひとでなしのひとでちゃんって呼ばれています」


(Kindle版)

感想
 ページ数は302ページ。癖のない文章ですらすら読めたこともあって、3日ほどで読み終えることができました。正体不明の「黒い女」は何者なのか、それがわからない心理的な恐怖心と不安感。そして犠牲者が死んでいく時の克明な描写からは五感で感じられる痛みや臭いやグロテスクな見た目などなどを想像させられました。それから「犠牲者」を選出する時の、クラスメイトたちの言動がリアルです。貫きたい正義と、保身を考えるとそうもできないという葛藤。あるいは、保身のためなら正義なんて語っていられないという逼迫感。
 怪物が出てくるので現実の話ではないのは明らかですが、それが存在するリアルな感じの世界観に、思わず没入してしまいました。心身ともに追い詰められる登場人物たちの心情が伝わってくるようでした。

考えたこと
 すでに書いたように、明らかに創作です。現実の出来事をモデルにした創作でもありません(たぶん)。でも、この作品の中で描かれている心理現象は、現実の世界の私たちが経験そうなものばかりです。あらすじでも述べたように、物語の後半では、「大勢が死ぬか」それとも「1人を犠牲にするか」という選択を迫られることになります。これなんかは「トロッコ問題」そのものです。
 トロッコ問題において、もしも「大勢」の側の人間が「1人の犠牲者を殺すべきだ」と言った場合、その人間は悪人でしょうか。
 おそらく、そうだと断言できる人はいないでしょう。少なくとも、私にはできません。死ぬのは嫌です。それを回避しようとするあまり、勢い、そう言ってしまうことはありうるでしょう。
 それと同じ問題が、まさに今、現実の世界で起きているような気がしてなりません。
 その問題とは、ほかでもない「コロナ差別」です。
 「コロナ差別反対」という声には賛成できます。私も、差別されたなどといった話を聞くと嫌な気持ちになります。ですが、差別をしている人にも事情があると考えると、あながち悪者扱いをすることはできません。
 学校で問題になっている「いじめ」なんかでは、いじめている側にも「事情」があります。なので、いじめ問題においては、誰が悪くて誰が善いのか、といった単純な判断はできないですし、そもそも、する意味がありません。
「いじめはダメだ。ダメなことをやったおまえは悪人だ。反省しなさい」
 などと言っているうちはなんにも解決しません。
 コロナ差別にも同じことが言えるのではないでしょうか。差別に反対して、差別をした人を非難しても、おそらく別の形で顕在化してしまうでしょう。
 善悪ではなく、また賛成や反対でもなく、被害者か加害者かも関係なく、一人ひとりが抱えている「事情」をどうしたら解決できるのかを考えることがもっとも大切なことではないかと考えました。

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