2009年02月05日

来年の自由研究について

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 お久しぶりです・・・学業が忙しく、なかなか更新できないでいました。あと約1か月で高校二年も終わりです。なんだかあっという間の一年でした(笑) 自分の学校は大学まで続いていて、志望の学部を選択しなければならなく、最終的にはこちらの方面を勉強していくという決心をしました。4月からは、最終学年の3年生になるわけですが、自分の高校では、「自由研究」と題した「卒業論文」を書かなくてはなりません。

 3年生から、できるだけ早く自由研究のテーマを決めたほうがいいと言われ、いろいろなテーマを考えました。まず、最初に「ギリシア衰退期における、傭兵使用の拡大」についてをやろうと思ったのですが、日本語で読むことのできる研究資料が少なすぎて断念しました。迷った挙句、たまたま歴史の楽しさを教えてくれた恩師から、ギリシア喜劇を薦められ、読んでいくうちにこれを来年度の自由研究のテーマにできないだろうか?と思い始めました。しかし、このギリシア喜劇の何をテーマにしようかという問題に突き当たってしまい、そこで、なにかとこの作品をつなげることはできまいかといろいろな書籍を調べた結果、太田秀通先生の著作「スパルタとアテネ ― 古典古代のポリス社会 ―」の本の一部に、ギリシア喜劇の項があったので、よくよく読んでみると、ギリシア喜劇の作者のひとりである、アリストパネース(画像参照)は喜劇を通して、アテーナイ市民たちに笑いを提供しながらも、その作品の中には、ペロポネーソス戦争に対しての考え方、多くの作品を通じて見える彼の平和主義、そして、何よりも彼の保守的な考えから生じる現政治体制、ソフィスト、詩人への批判がある。と書いてありました。自分は、彼に数々の批判を喜劇の中に入れさせたおそらく原因である、彼の保守的な考えについてやってみようという結論に達しました。

 まだまだ気が早いかもしれませんが、現在もの凄く張り切っている状況です・・・(笑)


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2008年07月19日

古代ローマ帝国における属州ブリタニア統治問題についての疑問点

ローマ帝国時代のグレートブリテン島



  ローマ帝国時代のグレートブリテン島の地図
     (クリックをすればズームします)






やっと今日一学期が終了しました。

自分の学校では高校二年生で世界史を習います。しかし、普通の学校の世界史の教え

方とは異なっていて、自分の学校では、ペルシア帝国から始めて、アテナイ海上帝

国、アレクサンドロス帝国、後継者(ディアドコイ)帝国、古代ローマ帝国、キリス

ト教帝国をやり、このやった範囲を見れば分かると思いますが、どれにも共通の「帝

国」というキーワードが入っています。なぜかというと、例として、アテナイ海上帝

国は、アテナイが周りのポリスを、強力なアテナイ海軍をバックに周りのポリスに、

強引にデーロス同盟を結ばせ、表面上は寄金という感じであったが、実質的には一種

の納税義務を負わせていた。要するに、中核(支配者)と周縁(被支配者)の関係が

成り立っていれば、「帝国」の概念に当てはまるんだと世界史の先生はおっしゃって

いました。だから、上述したような国は、帝国の概念に当てはまるということになり

ます。当然、期末試験もあり、それぞれの帝国の中で起きた、事件・戦争などの出来

事をふまえながら、それぞれの帝国論を論述するというものでした。


さて、本日の本題ですが、そのなかの問題の一つにブリタンニアの統治問題について

の問題がありました。著作権の問題上、そのまま問題をここに載せることはしません

が、多少自身で改訂を加えて、載せることにします。

「第4代ローマ皇帝のクラウディウス帝が、グレートブリテン島征服を開始する。後

にローマ帝国の属州になり、属州ブリタンニアとされる。ブリタンニアにはカムロド

ゥヌム、ロンディニウムなどの都市が築かれる。しかし、属州民が積極的に公共施設

の充実に参加したということがあまり起こらなかった。」

これについて、帝国の特徴・あり方を中核-周縁の関係を絡めながら論じるのです。

自分がこれについて答えられたかというと△です。正直な話をしますと、いろいろな

偏見が入ってきてしまって、どの答えで答えたらいいのか自信がなくなってしまった

のです。だから、先生に後で聞いた答えだけ紹介します。つまりは、簡単に考えてい

いことで、本国ローマからは、帝国の辺境地にあたるブリタンニアは、あまりにも遠

かった。なので、ローマ市民になりたいという意識が全体的に薄く、ローマ市民にな

る人々が少なく、属州民に留まりたい人が多かったので、万民法を帝国を安定させる

ために制定する必要があったということなのだそうです。しかし、果たしてブリタン

ニアの民が公共施設の充実にいまいち関わろうとしなかったのはそれだけの理由でし

ょうか? 先生には申し訳ありませんが、今日はこの理由について考察したと思いま

す。上述したように。ブリタンニア征服を始めたのは、クラウディウス帝です。征服

の目的は、軍事的な目的、経済的な利益を見込んでの征服行為ではなかったようで

す。その根拠を考えてみると、初代ローマ皇帝アウグストゥスがライン川を防衛線と

決め、これ以上の領土拡大は無用だという慣例があったので、軍事的には征服する意

味がないという理由が考えられます。経済的にも特にめぼしい物もなかったので、経

済的にも期待していなかったのではないでしょうか? じゃあ、何故で征服をしたの

でしょうか? その答えは前皇帝のカリグラに原因があると思われます。カリグラは

民衆の気を引くために、好き勝手やってしまっので、暗殺されてしまいます。その後

に、即位したクラウディウス帝ですから、政治的には物凄く不安定な時期に即位した

ので、なんとしても何かしら成功をおさめて自分の威信を保持しなければならないと

いう政治的な目的に基づいての征服だったのではないでしょうか。したがって、ブリ

タンニアの人々は、皇帝のよく分からない理由で征服されてしまったことになりま

す。こうして、ローマによる属州化がなされる。しかし、よく分からない理由で征服

されてしまっただけなのに、ローマ人は必要以上に支配者ぶり、ローマ人の金融業者

がやってきて、高利貸しをする。それらに、当然人々は不満を持ち始める。その不安

が爆発して、反乱につながることがしばしばあった。このような結果から、ブリタン

ニアの人々はローマ人に敵愾心を持つようになり、当然ローマ人に協力する気も失せ

てしまったと考えるのも、いささか間違った考えではないと思ったりしますが、どう

でしょうか?

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2008年04月10日

「ウルビーノのヴィーナス」について

ウルビーノのヴィーナス

先日、ウルビーノのヴィーナス展に行ってきました! 
今日は、展示会の主役の絵である、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作「ウルビーノ
のヴィーナス」についてブログを書きたいと思います。

前々から、この展示会に早く行きたいと思っていたのですが、なかなか行く機会があ
りませんでした。自分は、恥ずかしながら美術部に所属していまして、部員全員で何
処か春休みに美術館に行こうということになりまして、自分がこの展示会はどうか?
ということを提案したら、みんなが賛成してくれていくことになりました。実際に、
展示会に入ってみたら、最初は古代のヴィーナスから紹介されていて、古代ギリシア
の壷絵や、古代ローマのフレスコ画に描かれたヴィーナスが展示されていて、ちょっ
と驚きました。結構保存状態も良好で、細部にわたって見ることができました。古代からはどんどん時代を経ていって、遂に、「ウルビーノのヴィーナス」との対面の時が来ました。こんなにたくさん宣伝しているのだから、ダヴィンチの「受胎告知」のときのように歩きながら見る感じなのかなとか思いながら、展示室に入ってみると、普通に展示していて安心しました。

最初に、この絵を見ると、皆一番最初に目が行くのは、ヴィーナスの目だそうです。実際に、自分も目があってしまいました。本当に誘惑するような目で、引きずりこまれそうでした。ティツィアーノの他の作品を見ても、彼は、絵の中の人物を感情を持たせたように書くのが上手かったみたいです。当時のイタリア美術は、日本でいう狩野派などのように、いくつもの派閥に分かれていたようです。ティツィアーノはヴェネチア派で、色彩豊かな絵が特長なのだそうです。対してフィレンツェ派の絵は、素描が中心であまり色彩は豊かではないのが特長だそうです。しかし、この絵は「ウルビーノのヴィーナス」と呼ばれていますが、ヴィーナスという説が色濃いので、こう呼ばれているだけであって、実際にヴィーナスであるとは完全に特定されているわけではないようです。実際に、見終わった後、美術部の人に、「あれは本当にヴィーナスなの?」と聞かれるくらい、ヴィーナスにしては官能的すぎるような気がします。しかし、彼女が手に持っているバラ(ヴィーナスが誕生したときにバラが生えたという)や、窓辺のミルト(永遠に続く愛情の象徴で、愛の女神ヴィーナスに関連がある)から判断することによってヴィーナスではないかといわれています。

しかし、ここで疑問に思うのは、絵の注文主はこの絵を何と呼んでいて、モデルは誰かということです。この絵を注文したのは、グイドバルド・デッラ・ローヴェレという人で、彼はこの絵を「裸の女」と呼んでいます。これから判断すると、モデルは高級娼婦なのではないかといわれています。じゃあ、ただのポルノグラフィティかというと、やっぱり前の証拠からヴィーナスであると解釈しないのはおかしいと思います。

更に疑問に思うのは、何故書かれた?ということです。確かに、当時裸の女性の絵は、見て楽しむように製作された、ポルノグラフィティ画と訳してもいいくらいの絵が存在していたようです。しかし、彼は傭兵隊長でした。すなわち、宮廷人というよりは、生粋の武人というような人物であったようです。しかも、父親の代に、権力を勝ちとった様な、日本でいう豊臣秀吉には及ばないですが、彼のような成り上がり者でした。その様な人物が見て楽しむように作らせたとは自分は思いません。説としては、グイドバルド公は自身の結婚のために作らせたというものがあります。先程あげた、バラとミルトは結婚を象徴とする植物でもあるし、奥にいる侍女たちが、何かを取り出そうとしている箱は、本展示会に出品もされていますが、嫁入り道具なのだそうです。だとしたら、そうなのではないかと思いかけますが、彼が結婚したのは4年前であるし、彼は母に宛てた手紙に、早くしないとティツィアーノは他の人に売ってしまうといったようなことを書いているので、結婚祝いの絵説は信憑性が薄いのだそうです。さまざまの議論がなされているこの絵の真相は、まだ闇の中です。

自分の見解としては、全然的外れかもしれませんが、自分の妻をヴィーナスに見立てて、徹底的に美しくして、バラやミルトなどの愛の象徴などを至る所に散りばめて、自分の永遠に変わらぬ愛を妻に伝えるために作らせたのではないかと思います。だから、母親にも代金を無心したのだと思います。


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2007年12月21日

ガウガメラの戦い (ペルシャ相手の決定的な勝利)

オリバー・ストーン監督の映画「アレキサンダー」(アレクサンドロスの英語読み。

ちなみに英雄伝の作者プルタルコスはプルターク、カエサルはジュリアス・シーザー

となります。)では、戦闘全体を約20分まるまる使っています。この戦いにおい

て、アレクサンドロス(英語読みではないほうがかっこいいです(笑))が、後にハ

ンニバルのスキピオとの会談でいった、偉大なる武将のなかに列せられたのではない

かと思います。まず、どこで行われたかというと、正確な場所は良く分かっていない

のだそうですが、イラクのチグリス川の流域ではあったそうです。まず、戦力です

が、マケドニア軍は、歩兵四万、騎兵が七千。ペルシャ軍は、歩兵十五万、騎三万五

千に、ギリシアから雇い入れた傭兵六千に、チャリオットと呼ばれる鎌付戦車が二百

と前に述べたテルモピレーの戦いのようなマケドニア軍にとっては絶体絶命の状況で

した。このような状況でマケドニア軍はどのように勝利をしたのでしょうか。

 まず、戦闘が開始するとすぐにアレクサンドロスは軍を右にずらし始めました。

それを包囲しようと躍起になったペルシャ軍は、戦列をどんどん左に伸ばし始めてい

きました。ペルシャ軍の総司令官ダレイオスは、マケドニア軍をこの戦場で事前に待

ち受けていました。なぜなら、彼はチャリオットで敵の戦列を破壊する気であったか

ら、チャリオットが使いやすいように土地をならしておいていたのです。アレクサン

ドロスはそれを察知したのか、戦車が使えないようにするために軍を右に移動したの

です。それを恐れたダレイオスは、早くも騎兵を左翼から突撃させました。マケドニ

ア軍は応戦しましたがあっさり負けてしまいましたが、援軍が来て、激戦となりまし

たがマケドニア軍が最終的には勝利しました。ダレイオスはついに、チャリオットを

突撃させます。しかし、迫りくる戦車にアレクサンドロスの指揮する遠征軍が冷静に

対処し、戦車が来ると、部隊どうしで間隔を開けて、戦車をやりすごしました。多少

の兵が損害を受けたようですが、そこまで深刻なダメージを受けることはなかったよ

うです。ダレイオスは次にやっと歩兵を動かしますが、先ほど突撃させた左翼のとこ

ろと、ダレイオスがいるところの戦列に切れ目ができてしまいました。それを、アレ

クサンドロスは素早く察知し、切れ目に右翼と騎兵を率い突撃しました。騎兵と歩兵

が一緒に自分がいる中央部に突撃してきたのを見るなり、ダレイオスはイッソスの戦

いの時と同じように、臆病風に吹かれて戦線を離脱してしまいました。それをみた左

翼のペルシャ兵も敗走してしまいます。一方、アレクサンドロスがダレイオスめがけ

て突撃し、さらにダレイオス追撃をしようとしている頃、マケドニア軍中央部と左翼

は危険な状態になっていました。アレクサンドロスは右翼の戦力と騎兵を使って突撃

したが、マケドニア軍の部隊の間に隙間が生じてしまいました。ダレイオスが敗走し

たのを知らないペルシア軍がその隙間を突いて一気にマケドニア軍の戦列を突破し、

第2列のギリシア人部隊も突破しました。ペルシャ軍が後ろから包囲する形をとって

いたならば危ないところでしたが、ペルシャ軍はそれをしませんでした。なぜなら、

戦列を突破したペルシャ軍はマケドニア軍後方にあった補給基地の略奪に向かってし

まったのです。その間に2列目の歩兵が反撃して、ペルシャ軍を撃退しました。

マケドニア軍の左翼は、先代のときから武将として仕えていた、パルメニオンが指揮

していました。戦いが進むにつれてペルシャ騎兵に押され始めたのを悟ったパルメニ

オンは、アレクサンドロスのもとへ、救援の要請を伝令に託して出発させたのです

が、それは届きませんでした。映画の中にも、この伝令を送るシーンは出てきます。

(映画では、もう一回パルメニオンの息子のフィロタスを伝令として送っていま

す。)なんとか、テッサリア出身の騎兵たちの敢闘と、ダレイオス逃走の知らせによ

って、ペルシャ兵は敗走しました。こうして、アレクサンドロスは数倍の敵に対して

勝利し、ペルシャ帝国を瓦解に追い込むのです。そして、大遠征は更に東へ東へと進

むのです。

 最後に映画のガウガメラの戦いでアレクサンドロスがマケドニア軍の兵士たちに言った言葉・・・

「なぜ勇敢に戦ったか聞かれたら答えろ。ガウガメラの戦いは自由と、そして栄光と、ギリシアのためだ! ゼウスよ、守りたまえ!」


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2007年09月02日

平凡社 「ユダ イエスを裏切った男」



今日は、この「ユダ イエスを裏切った男」について紹介したいと思います。

新約聖書を読んだことがある人ならば「ユダ」と聞くだけで、「悪」「裏切り」と出

てくるような、悪人として記憶されています。そのユダについて詳しくこの本では書

かれています。まずは、図像学から始まります。いろいろなキリストの生涯に関する

絵画の中から、ユダがどこにいるかがダヴィンチの「最後の晩餐」までには、法則性

があったり、キリストの弟子たちには一人一人特有の持ち物が必ず絵画に書かれてい

るな等の他、細かいところでは、ユダが自殺した木の種類はなんであったかなど、す

ごいところまで考察しているので、ユダについては裏切ったことぐらいしか知らなか

った自分には、とてもためになったし、とにかく、最初の図像学に出てくる絵画がと

ても多いのに驚きました。宗教学もなかなか細かいところまで研究できるんだなと垣

間見ることができた本だと思います。

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2007年08月24日

テュロスの攻囲 後半戦 

いったん引き揚げたアレクサンドロスは、風除けの点で好都合なところに停泊しまし

た。翌日はキュプロス人たちに命じて、艦隊指揮官に港を封鎖させました。一方、こ

のときまでに技術者がたくさんやってきて、攻城兵器が、突堤の上、三段櫂船の船上

に、配備されました。しかしテュロス人も負けじと、突堤の反対側にある城壁の上に

さらに木造の櫓を設置し、高いところから応戦してきました。また、兵器を搭載した

船に火を投げ込むなどして、マケドニア人の戦意喪失を狙いました。更にマケドニア

軍の悩みの種だったのが、多数の岩石が城壁の下の海の中に投げ込まれていて、接近

できないということでした。この解決案として、突堤から投げ込まれた輪索を岩石に

引っ掛けて、海中から曳き出して、次にクレーン見たなもので吊り上げ、海の深いと

ころに放り込むことしました。こうして、船が接近するのが容易になりました。いま

や、四面楚歌状態に立たされたテュロス人たちは、キュプロス艦隊に攻撃をかけまし

た。それを知ったアレクサンドロスは、五段櫂船三隻、四段櫂船三隻、三段櫂船七隻

に選抜された海員と、装備優秀の戦闘員を乗り込ませて、テュロス艦隊を攻撃しまし

た。しかし、テュロス人は最初の攻撃で、五段櫂船二隻の他、いくつかの櫂船を破壊

しました。アレクサンドロスはテュロス艦隊が攻撃したのを確認すると、五段櫂船

と、五隻の櫂船以外の櫂船を監視に残し、テュロス艦隊へと立ち向かいました。城壁

の上にいたテュロス人は、アレクサンドロスが陣頭にいるのを確認すると、引き揚げ

るように指示を送りました。しかし、あまりにも遠かったので聞こえません。なんと

か、合図に気づいたテュロス人たちは、反転して港へと逃げ出しました。その好機を

逃さなかったアレクサンドロスは、敵船に襲い掛かり、拿捕や航行不能にしました。

三日後、船に搭載した射出装置を街に向かって進めました。これにより、かなりの長

さの城壁を打ち崩し、後に続いていた二隻に、渡し板を渡すようにと指示を出しまし

た。他のいくつかの艦船には、港から強行突入できるか探るようにと、また、軍船の

中で弓兵隊が乗船しているものや、矢を打ち出す装置を搭載している櫂船は、城壁の

周囲をぐるりと周って、乗り上げられそうなところに乗り上げ、矢を浴びせるように

命令しました。そうすることで、テュロス人が混乱するようにしむけました。一方、

アレクサンドロスのひきいる軍船が街に接近し、渡り板が城壁に渡されると、近衛兵

たちは城壁に取り付きました。アレクサンドロス自身も戦闘に参加し、最初に城壁を

占拠したのは、彼が戦ったところでした。いくつかの塔と、塁壁を確保すると、テュ

ロス人はいとも簡単に撃破されてしまいました。アレクサンドロスは、王宮のほうへ

突き進みました。艦隊は、港内に強行突入し、テュロス艦隊を撃破し、この方面の市

街地を占拠しました。テュロス人は、城壁が占拠されたのをみると、神殿に集結し、

マケドニア軍に立ち向かいました。アレクサンドロスの率いる軍勢はテュロス人たち

に襲い掛かり、抵抗するものを殺し、逃げる相手にも追い討ちをかけました。この戦

いの結果、テュロス人はおよそ8000人が命を落とし、マケドニア軍の戦死者は、

およそ400人でした。

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2007年08月23日

長らくの間スミマセン!!

明日から、順次ブログを投稿を再開します。

後、自分の家にある本棚をネット上で見られるようになったのでリンクしておきま

す。今後ともnapoleeeonの世界史日記をお願いします!!


バーチャル本棚のリンク

http://booklog.jp/users/napoleeeon

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2007年07月19日

テュロスの攻囲 中半戦 

攻城塔が炎に包まれると、テュロスの住民たちはそれに勇気付けられ、船に乗って、

マケドニア軍の陣地の要所を攻撃し始めました。そして、防柵を壊し、今まで攻撃さ

れなかった射出機も破壊されてしまいした。この失敗をもとにアレクサンドロスは、

陣地の拡張と射出機の新設を命じて、艦隊を終結させるために近衛歩兵部隊とアグリ

アネス部隊を率いて、シドンへ赴きました。その時に、アラドス王とビュブロス王が

自分たちの艦隊もろともアレクサンドロスの側に投降しました。そして、射出機の組

み立ても終わり、艦隊も終結した後でアレクサンドロスはテュロスに向けて出港し

ました。アレクサンドロスはこのとき海戦において、白兵戦のためにと、近衛歩兵部

隊を十分な数搭乗させました。テュロス人の方は、もし大王が海上から攻めてきた

ら、海戦を仕掛けるつもりであったが、しかし、この時まだ彼らはマケドニア軍の艦

隊が従来よりも多くなっていることを知らなかったので、予想もしなかった大艦隊が

集結し、攻めて来るのを見ると、海戦を交えるといった考えを捨て、徹底防戦をする

ことに決めました。アレクサンドロスはその状況を悟ると、彼が自らテュロスの街に

攻め入りました。しかし、シドンと向かい合っている港に入港するのは、テュロス人

が防戦態勢をひいていたので断念せざるをえませんでした。しかし、マケドニア軍の

艦隊の一部が、その港口の一番外側の三隻を撃沈しました。そこまでで、アレクサン

ドロス達は一度引き上げることにしました。一方、すでにこの時、数多くの攻城兵器

がそのあるものは陣地の要所に、また別のあるものは、シドンから率いてきた、艦隊

の一部に配備しました。 (つづく・・・)

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2007年06月16日

映画「パッション」について

今日は、映画「パッション」を見ました。

こんなに見るのが遅くなったのは、見るのをためらっていたからです。

なぜなら、「300」のスパルタ側に対してのペルシア側の偏見みたいにユダヤの祭

司教や総督ピラトも悪者扱いされてしまうのではと思ったからです。しかし、見てる

と全然予想に反した素晴らしい映画でした。新約聖書の世界観をよく表現していて、

監督のメル・ギブソンも新約聖書全体を映画化したかったが上映時間がものすごく長

くなるので最後の12時間にしたのだとか。

また、当時使われていた言語も使われていて、ローマ人が映画中に出てくるのですが

彼らがラテン語をしゃべっているので感動しました。なんか発音が独特でおもしろか

ったです。ちょっと鞭打ちの場面で、過剰表現があったかもしれませんが、キリスト

の苦労・気持ちが直に肌に伝わってくるような映画でした。途中、門(?)のところ

でキリストが倒れるのですが、そこにかけよる聖母マリアの姿に涙を流さずにはいら

れませんでした。最後の十字架にかけられたときのセリフ「我が神、我が神、なぜ、

私を見捨てたのか」という言葉にぐっときました。でも。ひとつ疑問に思ったのです

が、日本のたいがいは仏教徒なので、聖書なんて読んだことがない人がたいがいだと

思います。映画では、パウロやペトロやイスカリオテのユダという使徒の名前が出て

きますが、彼らはどういう人物かを明らかにせず、明らかにイエス・キリストに対し

て、焦点を当てすぎではないかと僕は思いました。

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2007年05月31日

テュロスの攻囲 前半戦 (アレクサンドロス東征初めての失敗)

イッソスで勝利を収めたアレクサンドロスは海岸地方(シリア等の地中海の東海岸)

を支配下に置くことを決定して、東に軍を進めます。地中海に駐屯しているペルシア

艦隊と陸上の部隊の連絡を絶とうとしたのです。

こうして、アレクサンドロスがフェニキア地方に進軍すると、古都ビブロスとシドン

はたちまち降伏しましたが、海岸から800メートル沖合の島に建てられたテュロス

市は、アレクサンドロスの軍隊の通行を拒否します。この島の住民はすでに多くの経

験をつんでいました。彼らは13年間にわたり、アッシリア人(メソポタミヤ北部の

人々)による攻囲戦を耐え抜いていたのです。テュロス人の考えでは、アレクサンド

ロスは海上に堅固な足場を築かなければ、この町を攻略する手段がありませんでし

た。ところが、アレクサンドロスは島に向かって、幅60メートルもある堤道を建設

しはじめたのです。この堤道がテュロス兵の飛び道具(カタパルト等)の射程距離内

にまで近づくようになると、彼は堤道の先端に投石機を備え付けた攻城塔を二機設置

しました。この攻城塔からテュロスの城壁に向けてたえまなく射撃を行いました。

これに対してテュロスの住民は一隻の船を用意して火をつけました。舳先をできるだ

け軽くして、舳先が水面上に出るようにした船を堤道の先端に突っ込ませて、攻城塔

を焼き払ったのです。テュロス艦船からたえまなく打ち込まれる投石物に悩まされ、

アレクサンドロスはせっかく建てた攻城塔が炎上するのをただ眺めながら退却しまし

た。アレクサンドロスは彼らを見くびり過ぎたのと、彼自身の自信が「自分は確実に

勝てる」という域にまで達していることがよくわかる出来事だと自分は思いました。

(つづく・・・)

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