青森・津軽・下北&岩手・平泉ケベック(カナダ)の秋

2008年10月16日

筑紫に楠をたずねて−5.立花山

                                      楢 水明子(06風4-05)

 立花山には日本唯一の楠の自然林があると聞いていつかはここを訪れたいと思っていた。立花山は博多駅の北北東、JRで北上すると香椎駅からはすぐ北東にある。香椎からタクシーでしばらく走った山麓から見ると(写真1)、もこもことした山肌が照葉樹の森であることを示し、標高367mの低山でもなかなか険しそうな山である。写真の左手を迂回して裏側、つまり北東側の立花の集落から登る。梅岳寺までと頼んだので親切な運転手さんはお寺を探しまわってくれた。梅岳寺は道路からちょっと入ったところにひっそりと建っていた(写真2)。立花山には城跡があり、このお寺は戦国時代末の城主、戸次道雪(べっきどうせつ)の菩提寺である。
 鎌倉時代の終末、ここに大友氏の山城が築かれた。戦国時代、大友宗麟が隆盛のころ豊後を中心に豊前、筑前、筑後、肥後などが勢力範囲であった。立花山は筑前の守りの要衝である。やがて薩摩の島津に攻められて大友氏が傾くと、大宰府に近い宝満山と大野城山の城も島津に落とされ、立花山で1人抗戦したのが戸次道雪の養子、立花宗茂である。宗茂は立花山に篭って豊臣秀吉の九州遠征まで持ちこたえ、その子孫は柳川の藩主として明治まで続く。この山にはそういう歴史がこめられている。

写真1 立花山(右手)            写真2 梅岳寺
9立花山41梅岳寺1





 集落の中を通り杉林を抜けるとナギの大木がある。20mほどの高さで1本だけ孤立している。そこから急坂の山道に入る。標高250mほどのところであろうか屏風岩という幅20m高さ数mの岩が現れ、そこが分岐点になっている。“立花山大クス”という表示にしたがって左の道を選ぶ。いくらか谷に降った急斜面に立花山随一という大楠がある(写真3)。掲示板に幹周り7.85m、樹高30m、樹齢推定300年以上とある。幹周りは日本一の蒲生大楠の24.5m、大阪府一の薫蓋樟の12.5mに比べれば問題にならないが、高さでは蒲生の楠に匹敵し薫蓋樟よりも高い。ここは神社や公園ではなく自然の林である。競合する樹木が多いため楠の枝張は半球型ではなく縦長のものになる。
 大楠のところから元の道に戻って、今度は山腹を巻く“楠原始林”への道を選ぶ。歩いていて快適で気分のよい小径である。照葉樹林にしては明るく圧迫感が少ない。鬱蒼としてはいるけれど、樹冠が30mほどもあってその下の空間が広いからである。幹が高く伸び天井が高い。森の中は緑の閉空間で、楠木が許される方向に背伸びし枝を折り曲げる(写真4、5)。公園や社の楠のように整った半球状にはなれない。この小径が明るいもう1つの理由は、山腹を迂回する道なのでところどころに森の切れ目があって空と山肌を眺めることができるからである(写真6)。楠木が谷に向かって覆いかぶさるように枝を伸ばし、山肌は楠の葉群のもこもことした曲面で覆われている。楠の枝の折曲がりを見ると原始林と呼ぶのもうなずけないことはない。

写真3 立花山大楠            写真4 楠の森の内部
3大楠43クスノキ32







写真5 楠の枝ぶり             写真6 楠の森の谷合から
3クスノキ24クスノキ8








 樹冠にはカゴノキとタブノキもかなり見られ、稀にスダジイやエノキなども割り込んでいる。低木層はほとんどアオキとイヌビワで覆われているが、ところどころにヤブニッケイ、ホソバタブ、バリバリノキ、シロダモ、イヌガシ、ヤマコウバシが生え、クスノキ科のオンパレードである。ヤマコウバシを除けばクスノキ科の常緑樹がほとんどそろっているということになる。ここはクスノキ科の照葉樹森である。
 この楠木の森を歩いて60種ほどの樹木を数え上げたが、その中で珍しいものはネコノチチ(クロウメモドキ科)、ハマクサギ(クマツヅラ科)、チシャノキ(ムラサキ科)である。ネコノチチは、葉がイズセンリョウのようにも見える低木で1cm弱の楕円形の赤や黒の実をつけている。実が色づく前はベージュ色で猫の乳首に見えることが名前の由来だそうだ。ハマクサギは葉の輪郭がムクゲに似ていて、葉をちぎるとクサギよりも強烈な匂がする。チシャノキは山頂にタブノキと並んで生えていた。幹の白さが目立つ高木で、ムラサキ科の数少ない木本ということである。葉が柿の葉に似ていることからカキノキダマシという別名もある。草本のムラサキの根からは紫色の染料が取れることでその名がついているが、チシャノキの樹皮からも染料がとれるという。はて何色なのだろうか。他に、ヤブツバキ、マサキ、イズセンリョウ、サンゴジュなど典型的な照葉樹も見られる。
 山頂に向かって鬱蒼とした尾根道を歩いていると、ひらひらとアサギマダラが現れた。ときには3羽や4羽が絡まりながら舞いのぼる。木洩れ日がさす照葉樹林の幻想である。

写真7と8 タブノキにとまるアサギマダラ 
6アサギマダラ326アサギマダラ92








 ところどころにある掲示板やインターネットの案内には、楠木の“原始林”とか“原生林”などと書かれている。これは問題である。日本の楠木はほとんどが人里に植えられていて山に生えているのは稀である。立花山が日本で唯一の楠の自然林というのも考えてみなければならない。なぜ深山でもない山城のあったこの山にだけ楠の森があるのか。「クスノキと日本人」[1]には日本列島の楠木は人が持ち込んだものだろうと述べられている。「日本稙生誌 九州」[2]には立花山の楠は古く植林された可能性が高いとある。ふくおか山草の会のホームページ[3]には、
 <山腹の自然植生域のすべてにクスノキが広く生立し、その数は数千本ともいわれ、林内に入るといたるところに巨木を見ることができます。樹の高さは15〜30叩∧振冂招造70堕で、大きい物は3辰鯆兇┐泙后森林構成は低山域、自然植生スダジイ林組成で、クスノキだけが特異的に上層木として優占していて、後続の若木がないこと、列状に生立するところがあること、福岡藩では積極的にクスノキを保護、育成したことなどから考えて、植林で成立した可能性も強いとされています。>
と書かれている。そうであるなら原始林でも原生林でもない。この低山にのみ楠の自然林があるというのがそもそも不自然なのである。
 楠木の幹周りと樹齢との関係を「巨樹・巨木」とその続編[4]のデータから調べてみる。幹周りが10mを超える大木の推定樹齢はのきなみ1000年とか3000年などでこの数値は信頼できない。幹周りが10m以内のもの70本ほどをグラフ用紙にプロットしてみると、おおよそ100年につき幹周り1mという関係が見られるが、ばらつきも大きい。幹周り7.85mの立花山大楠の樹齢は500〜1000年の可能性がある。掲示板の300年以上という推定樹齢はちょっと若すぎる値である。この森に生える楠の平均直径0.7mを幹周りに直すとおよそ2mだから平均樹齢は200年ということになる。200年前といえば西暦1800年の江戸後期である。立花城はおよそ700年前に大友氏によって築かれ、その分家筋の立花氏から福岡黒田藩に移るのが400年前である。楠木がすべて人の手で植えられたものとすると、植林は立花城が築かれた頃から始まり、大部分の楠木は江戸時代を通じて植えられたものと考えることができる。

写真9 博多湾と玄界灘の眺望
7遠景w2









 山頂は絶景である。細長い平地になっていて北西に突きでた先端からの景観がすばらしい(写真9)。海の中道から志賀島への曲線が風景に面白みを与えている。博多は邪馬台国の時代に奴国があったところである。志賀島からは“漢の倭の奴の国王”の金印が出た。志賀島と重なるように玄界島が見えるがこの間は離れていて、壱岐や対馬や釜山への船がその海峡を抜けていく。能古島は博多湾内にある。その向うが糸島半島で志摩国があったところである。その北側が伊都国で日本最大の銅鏡が出ている。糸島半島のさらに向うに今の唐津、かっての末盧国がある。そういう古代に夢をはせながらこの景観を眺めていると時のたつのも忘れてしまう。
 この風景のなかにはいろいろな思い出もある。志賀島の金印公園を訪ねたこともあるし、北端の入江に立ったこともある。海の中道ではまだ小さかった孫と遊び、懐かしい人たちを集めてシンポジウムも開いた。能古島の竹林の中を歩いたこともある。糸島半島に元寇の防塁を訪ね、芥屋の岬に遊んだこともある。船で玄界島のそばを通って壱岐や対馬にも渡った。一幅の景観のなかに古今が重複して、ちょうど楠の葉が重なりあうようにイメージがもこもこと重なる。眺め続けているうちに想いが絡みあい、幻のアサギマダラも舞って彩りを増す。ちょうど楠の森の曼荼羅のように。


参考文献
[1]「クスノキと日本人」佐藤洋一郎(八坂書房、2004)
[2]「日本稙生誌 九州」宮脇 昭・編著(至文堂、1989)
[3]「立花山・三日月山の植物」ふくおか山草の会
  http://k-yanase.sakura.ne.jp/tm-syokubutu.html
[4]「巨樹・巨木」、「続巨樹・古木」渡辺典博(山と渓谷社、1999、2005)

nara_suimeishi at 21:17│Comments(0)TrackBack(0) 紀行文 

トラックバックURL

コメントする

名前
 
  絵文字
 
 
青森・津軽・下北&岩手・平泉ケベック(カナダ)の秋