江戸の易占

管理者  奈良場 勝   ブログ内の解題は『術数書の基礎的文献学的研究 ー 主要術数書解題 』第一集(平成19年)、第二集(21年)、第三集(24年)(『科学研究費補助金研究成果報告書』 研究代表者 三浦國雄)に収録されているものです。

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吉村美香編
『巫・占の異相—東アジアにおける巫・占術の多角的研究ー』
が出版されます。

こちらは、
国際日本文化研究センターの2020年度の共同研究
「巫俗と占術の現在ー東アジア世界の民間信仰の伝播と展開」
の成果をもとにまとめたものとなります。

第3章 占術・相術・信仰の受容と展開
「大雑書の易をめぐる書林の動き」
を執筆させていただきました。

よろしくお願い致します。


前稿、元禄二年(1689)出版の『諸人御一代八卦』の手相記事については、
貞享元年(1684)出版の『人相小鑑大全』の流用(盗用)であると考えて良いと思う。
下図は『人相小鑑大全』である。
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まだ版権を守る株仲間が組織されていない時代。
大雑書の記事が流用によって徐々に増え始める時代である。

さて、
貞享元年(1684)出版の『人相小鑑大全』の版元は、
大坂の敦賀屋九兵衛とされることが多いかも知れない。
しかし、この点は注意が必要である。
敦賀屋九兵衛は元禄時代以降の書肆と考えた方が良いと思う。

ここで架蔵の『人相小鑑大全』の刊記を比較してみよう。
現時点で古いと判断した順番である。
(パソコン操作が不慣れで縦横が修正できず慚愧に堪えない)

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「清兵衛・九兵衛」以前と思われる刊記は未見である。


ここで注意しなくてはいけないのは、
京都の「敦賀屋兵衛」と大坂の「敦賀屋兵衛」を混同しないということだ。
京都の「敦賀屋久兵衛」については、
『江戸文学』第16号(1996)特集・江戸の出版Ⅱ「敦賀屋久兵衛の出版活動」(渡辺守邦・柳沢昌紀)に詳しい。主に寛文年間(1661~1673)に出版活動をした京都の書肆である。
同じ「敦賀屋」でも京都の「兵衛」と大坂の「兵衛」の違いがあり、
直接的な関係があるのかは「わからない」とされている。その判断は妥当だと思う。

次は「清兵衛・九兵衛」と「敦賀屋九兵衛」との関係であるが、
これも現時点では「わからない」とする方が良いと思う。
「清兵衛」については大坂「敦賀屋清助」、江戸「本屋清兵衛」との関係が疑われるが、
現時点では不明である。

大雑書の記事について、
敦賀屋九兵衛が同じ大坂の毛利田庄太郎から版権を譲り受けたものがあるのではないか、
ということは以前にも述べた。ここでも同様の私見を述べることになる。
貞享元年(1684)『人相小鑑大全』の版元は敦賀屋九兵衛ではなかったのでないか、ということだ。
そしてそれは、幕末期の大雑書の人相書の版権を獲得するために、
より古い刊記を狙って後に書き換えたものではないかということである。
引き続き検討を要する。


1575年頃の手相の占いについて、さる機関から打診があった。
手元に在る資料がその要請に応え得るものか検討してみた。
元禄二年(1689)出版の『諸人御一代八卦』である。
もともと八卦占法には手相はなかったようだが、
1600年代の末には三世相や大雑書との記事の混交によって、
いくつかの八卦資料には手相が収められている。
これはそうした性格の書である。

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さて、七丁ほどあるこの手相記事の特徴をいくつか挙げてみることにする。
*「手相」とは言わず、「手のすぢ」あるいは「手すぢの相」という。
*男女の区別、つまり性差による右手左手の区別についての言及はない。
*現代の「〇〇線」にあたるような呼称はない。
 生命線と運命線にあたる筋の吉凶については現代と変わらない印象。
 感情線と頭脳線にあたる筋についてはほとんど記述がない。
*「結婚線」の概念がない。妻子については生命線に表れる。
*親指の爪の生え際の横皺、親指の関節下の横皺は「正直」を表す。
 つまり親指には「正直」の相が出る。
*人差指の関節間の横皺が多いと「金銀をもつ」。
 つまり人差指には金運の相が出る。
*指先の指紋がきれいな円を描いていると書がうまい。
 この指紋が楕円や流れた形だと書がへた。
*手首の横皺で子供の有無がわかる。
*「ますかけのすぢ」(枡掛線のこと)が吉相として定着している。


この他に、
*「運命線」にあたる筋の呼称は見えないが、
 「手首から中指の指先まで通じたる者は天下取る」とある。
 これは豊臣秀吉の手相のことを述べている。
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     (画像はweb上より拝借)
 他の占いの資料中でも秀吉関係の記述は徳川時代になって次第に消されていく。
 こうして残っているのは安土桃山時代の名残りが強い資料と考えられる。
 (この元ネタが慶安三年(1650)刊の和刻本『神相全編』巻下「論手」の「玉桂紋」
 である可能性も考えられるが、秀吉と結びついた時期は不明)
*「ゆみとり」「弓箭にて死する事あり」のように戦乱の記述が残っている。

このように、確かに出版されたのは近世であるが、
ある程度、中世の手相占の特徴を継承した資料であると言えるだろう。
これをもって要請に応え得る資料であると考え、
上記のような特徴を機関への回答とする。

今日、「術数」の定義について、しばしば三浦國雄先生の提言が引用されています。
しかし「科研報告書」という資料の性格上、頒布はされず、また印刷部数にも限りがありました。
したがって、なかなか閲覧の機会を得られないという状況もあろうかと思います。
そこで科研報告書第一集の当該部分を複写の上、内扉と刊記の頁も載せ、引用の便を図りました。
よろしくお願い致します。

*各頁の画面をクリックすると文字が鮮明に見えます。

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