江戸の易占

管理者  奈良場 勝   ブログ内の解題は『術数書の基礎的文献学的研究 ー 主要術数書解題 』第一~第三集(平成21年度~平成23年度『科学研究費補助金研究成果報告書』 研究代表者 三浦國雄)に収録されているものです。

江戸時代中期以降の『男女一代八卦』について、
書名の類似から『諸人御一代八卦』(1689年刊)の系統ではないかと考えた。
この点について再考したい。

結論から述べるならば、
『男女一代八卦』は『諸人御一代八卦』の系統やその影響下にあるのではなく、
『新撰年八卦』(1771年刊)といった「一枚摺」の八卦資料から冊子に展開したものではないか、
ということである。

判断材料のひとつとなったのは、
『増補諸人一代八卦』の出版が寛政十二年(1800年)であったことだ。
初版の元禄二年(1689)から増補版まで100年以上が経過している。
この間に再版本があった可能性も否定はできないが、
蔦屋重三郎版『男女一代八卦』が天明六年(1786)に出版されており、
影響関係については年代的に整合性がとれないようだ。


『男女一代八卦』の最大の特徴は、
「巽・離・坤・兌・乾・坎・艮・震」の易の八卦が、
「い・ろ・は・に・ほ・へ・と・ち」と簡略化されていることだ。

IMG_0465

しかし、こうした特徴は『増補諸人一代八卦』(1800年刊)には認められない。

ところが、一枚摺の『新撰年八卦』(1771年刊)では、

IMG_0458

となっており、少なくとも1771年までには、
易の八卦を「いろは」に簡略化する考え方は定着していたと考えて良い。

それでは、
一枚摺の八卦資料が冊子の『男女一代八卦』に展開したのではないかと考える根拠は何だろう。

ここで近世陰陽道の研究資料に注目したい。
林淳氏「近世の占い ー 明和七年の占考論争を中心にして ー」
(1993年名著出版『陰陽道叢書』4 特論所収)には、
「若杉家文書」に残された明和七年(1770)の土御門家江戸役所の触頭と修験側との占考行為に関する争いについて述べられている。その発端のひとつが「一枚八卦」であったという。翌、明和八年に寺社奉行の中立的な裁許が下されるが、陰陽道側は明和年間以降も安永(1772-1781)・天明(1781-1789)年間を通じて他の民間宗教者との出訴を繰り返したという。これが寛政三年(1791)の幕府による全国触れに繋がり、土御門家による占考行為を取締る権限が確立する。

yjimage
(画像はweb上より拝借)

yjimage-3
(画像はweb上より拝借)

上記資料の刊行年次は未詳であるが、基本的に一枚摺の八卦資料は『新撰年八卦』同様に両面印刷だったと考えられ、「一代守本尊」の占いと「弘法大師四目録占」は表裏一体のものとして定着していた可能性が高い。


さて、『新撰年八卦』の「一代守本尊」の占いの部分は、

IMG_0459


後の『男女一代八卦』と共通する。

IMG_0460

『男女一代八卦』は『新撰年八卦』の「一代守本尊」の占いをそのまま冊子にしたものとも言える。
その一方で「弘法大師四目録占」を意図的に排除したかのような印象を受ける。
管見の限りでは「弘法大師四目録占」が収められているのは、天明六年(1786)蔦屋重三郎版、文政十二年(1829)の岩戸屋喜三郎版のみであり、西村屋与八版、森屋治兵衛版には認められない。蔦屋、岩戸屋版にしても、四目録占の部分は非常に小さく、一枚摺の内容に比べても簡素であると言える。

明和七年以降の土御門家江戸役所の触頭たちの活動について、上記の林論文以上の情報は持ち得ていないが、出版物に対する統制といったことも含まれているのではないだろうか。
「一枚摺の弘法大師四目録占」が取締りの対象になったので、「冊子形式の一代守本尊占」として出版した。そしてそれは取締りの対象外となった、ということではないだろうか。

もちろん、この推測が成り立つためには、
明和年間以前の『男女一代八卦』の版がないこと、
天明年間以降の「一枚摺八卦」の版がないことが前提となる。

わずか十五丁程度の『男女一代八卦』の出版は、単に八卦資料の簡略化のみが要因ではなく、土御門家による出版統制が影響している可能性を視野に入れて検討する必要があるのではないだろうか。
さらに検討を加えたい。


『諸人御一代八卦』に続き、『増補諸人一代八卦』が架蔵となった。

IMG_0461

一巻一冊。
題箋「増補緒人一代八卦 再刻 全」
縦256㎜✖️横181㎜。
框郭内 縦209㎜✖️横156㎜。
四周単辺、白口、無魚尾、柱書きなし。
湖照庵序一丁、目録一丁、 本編五〇丁オモテまで。
表紙、裏表紙共に厚さが5㎜もあり、
全体の厚みは20㎜となっている。
末丁オモテに刊記 
寛政十二年(1800)の赤井長兵衛版である。


IMG_0464

巻頭部分が増補された内容となっているようだ。

IMG_0462

初版で大きく紙数を割いていた手相部分は、
縮小され、四分の一の大きさになっている。


IMG_0440

元禄五年(1692)の榎並甚九郎版
『大廣益新撰八卦鈔諺解』が架蔵となった。

IMG_0441

本書も頭書本の八卦抄となるわけであるが、
前回紹介した元禄三年の森田庄太郎版『大増益頭書新撰陰陽八卦鈔』と比較すると、
上段下段の文字内容はほぼ同じものだと言える。
強いて指摘するなら頁内のレイアウトの差異程度であろう。



2010年に上梓した拙著『近世易学研究』178頁には、
本書の出版年を国会図書館蔵本の正徳三年(1713)としており、
享保三年(1718)版を架蔵としているので、
初版の年次を更新する必要がある。

拙著の出版から既に10年が経ち、いくつかの版本については、
その後により古い版が発見されている。
特に1700年前後の版については、今後も年次の更新はあると考えている。



実はずいぶん前に書いた原稿がまだ活字化されておらず、
(出版社から二校が戻ってこないままになっている)
自分でもどの蒐集時点で書いたものかわからなくなっている。
もしかしたらこの版はもう持っていて訂正済みだったかも知れない。


IMG_0422

これは元禄三年(1690)の森田庄太郎版『大増益頭書新撰陰陽八卦鈔』である。
所謂「頭書本」の「八卦抄」の初期の頃の版である。
この形式が1730年頃までの主流となり、1750年以降は再版本を除いて新規に出版されることはなくなったようだ。
今日、古書店で見かける八卦抄のほとんどがこの「頭書本」であると思われる。

書誌的にはこの形式を「頭書本」あるいは「二段本」と呼ぶようだ
八卦抄に関しては、頭書(上段)部分を「注釈」と呼ぶには違和感があり、上段と下段の由来について明らかにしておく必要がある。


まず、下段にから見ていこう。
文字の大きさから考えて、下段が主文と考えていいようだ。

IMG_0424

これは幕末期の再版本『増補新撰陰陽八卦抄』である。
『新撰陰陽八卦并抄』『増補新撰陰陽八卦抄』の形式は、八卦抄としては最も出版の早い形式であり、石川武美記念図書館蔵本『陰陽八卦占抄』(1637年刊)以来、カナ表記を除いてほとんど変化がない。
下段部分はこの「陰陽八卦抄」の本文を流用したものと見られる。

IMG_0423

これは寛文十一年(1671)中野宗左衛門版『古今八卦大全』である。
所謂「八卦」に関する出版物の中で最大の情報量を持つものであると言えよう。
折本「八卦本」は職業的占者による専門書であるが、これをどう使いこなすのかという点に関して、多くの「聞書」の写本が存在したらしい。それは『八卦秘伝抄』の冒頭に「◯◯坊聞書」と見えるように、基本的には僧侶によって記されたものであったようだ。今日残っているものとして、彦根城博物館琴堂文庫所蔵資料がある。『古今八卦大全』は「聞書」との共通点が認められ、中世以来の「聞書」の内容が反映されている重要な書物だと言える。江戸時代の出版年代としては「陰陽八卦抄」に遅れるものの、その内容はより古いものが収められていると考えて良い。

頭書本の上段部分は『古今八卦大全』の本文を流用していることがわかる。頁によっては短縮していたり、別の項目から引用していたりする箇所もあるが、上記の象徴物の一覧などは詳細に転載していることがわかる。
もともと「聞書」の著者は不明であるし、『古今八卦大全』『陰陽八卦抄』についても残された情報を編集したものに過ぎない。頭書本の上下段は、さらにそれを流用したものであると言えるだろう。

 

『諸人御一代八卦』が架蔵本となった。

同版本は大妻女子大学が所蔵しているようだ



以下、書誌情報。
『諸人御一代八卦』上下二巻(二冊) 編著者不明
寸法   縦221㎜✖️横162㎜  
框郭内  縦192㎜✖️横150㎜ 
四周単辺 双魚尾(上は花魚尾、下は黒魚尾) 
版心「一代八卦」 丁数字なし
本文は漢字かな交じり(かなは変体仮名)

上巻 序一丁 目録一丁 本編十八丁
下巻 目録一丁 本編二十丁 刊記半丁

IMG_0408

刊記 元禄己巳貳年九月吉日
寺町通松原上ル町 菊屋七郎兵衛板  

すなわち元禄二年(1689)の京都寺町通りの菊屋七郎兵衛版である
紙質から見て後刷りではないと思われる。



本書は所謂「八卦抄」とは性質が異なるようだ。
「八卦抄」は八卦占法の手順を示した手引書の一面を持っているものである。
江戸時代の後期に「男女一代八卦」という名称の薄い小本が複数種類出版される
八卦の出版としては最後の世代のものと言えるものである。
非常に薄くて最低限の吉凶情報を収めたものであり、
八卦抄特有の噛み砕くような説明などはない。
そういう意味では無駄がない易占書である。
これまで「男女一代八卦」については、八卦抄の簡略化の最終段階、
つまり八卦の残滓的な出版物と考えていたが、
本書の存在によって、大きく見方を変える必要があるように思う

IMG_0412

まず書名であるが、
「諸人御一代八卦」、序文には「諸人御一代八卦占」とある。
書名の読み方はルビによって、
「しよにんごいちだいはつけい」「しよにんごいちだいはつけいうら」
であったことがわかる。
「八卦」を「はっけい」と発音していたようだ。
ただし、「はつけ」とルビが付く箇所もある。

IMG_0410

本書の内容で驚いたのは、
「四季皇帝占」を収めていることである。
これは「八卦抄」の前段階、
つまり折本の「八卦本」にしか見られないものであり、
「八卦抄」に収められたものは未見である。
本書と「八卦本」との直接的な関係をうかがわせる部分と言える。

IMG_0411

同様のことはこの「骨」の占いにも言える。
これも「八卦本」由来のものであり、
1630年代以降の「八卦抄」には収められていない。
やはり、多くの「八卦抄」とは別系統の八卦の書物であると言えるだろう。

IMG_0413

「十二運」の和歌についても考察しておこう。
十二運の「養」については別記事で述べたように
文面によって系統の相違が認められるわけであるが、
本書の和歌は、

やしなひの母につれたるつるの子か千代をかけたるふるさとのもと

とあって「母」となっており、
八卦抄類の主流『新撰陰陽八卦并抄』系の「父」とは異なることがわかる。
細かく助詞の部分まで見ると、『古今八卦大全』『天門八卦秘伝抄』とも異なる。

IMG_0409

本書の特徴のひとつは手相占の記述の多さでもある。
下巻の本文が二十丁であるうち七丁を割いている。
論者は専門外であるが、あるいはご興味の向きもあろう。
以下に手相部分を続けて掲載するのでご覧いただきたい。

IMG_0414

IMG_0415

IMG_0416

IMG_0417

IMG_0418

IMG_0419




最後にもう一度『諸人御一代八卦』について述べておくと、
江戸時代の初期に出版された折本『八卦本』(1611年刊)が
職業的専門性を有した易占書だったため、
一般向けの占法解説書として八卦抄類が陸続と出版された。
しかし「八卦本」の全ての占法を網羅するものではなかった。
特に『演禽斗数三世相書』に由来すると思われる部分は省かれ、
『新撰陰陽八卦并抄』の系統が八卦の代表的形式となった。
折本の八卦本自体は雲母版を最後に1710年以降は途絶したと考えられる。
本書は折本ではないが、その後継的性格を持ち、
無駄を省いた「八卦本」の専門性を保っている。
すなわち、江戸時代後期の「男女一代八卦」は、
八卦本の性格を継承した「一代八卦」の系統だと考えて良いのではないだろうか

その一方で、本書では八卦本や八卦抄に見られる年齢数を図上で循環させる手間(ハイエク・マティアス氏はこれを職業的占者と依頼者が共に”占”を作り上げる作業だったと考えている。卓見である。)を省いて簡潔な一覧表にしているなど、「八卦本」以上の徹底した効率化を図っている。
手引書としての八卦抄があまりに普及し、もはや占法に多言を要しない状況の中で、
1730年代には八卦抄の出版は飽和状態となる。
「男女一代八卦」はその時代的要請に応えうる存在だったということではないだろうか。
本書によって「男女一代八卦」が単なる手抜きの出版物ではなく、
八卦抄類とは異なる系統にあると再認識させられた次第である
さらに検討を加えたい。


このページのトップヘ