江戸の易占(ブログ版)

管理者  奈良場 勝     ブログ内の解題は「術数書の基礎的文献学的研究 ー 主要術数書解題 - 」第一~第三集(平成21年度~平成23年度科学研究費補助金研究成果報告書 研究代表者 三浦國雄)に収録されているものです。

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これは現在の岐阜県海津市南濃町松山(旧石津郡松山村)に関する古文書である。

同所の郷土資料については、

すでに岐阜県歴史資料館に富波小PTA収集文書が収蔵されている。 

拙蔵の資料は安政六年(1859)のものであるから、

あるいは同所にとって貴重なものと言えるかも知れない。

内容については、

村内の北前曽和山に於ける「下草」に関するものである。

近世から近代初期までは、

租税としての本途物成(ほんとものなり)、すなわち年貢に対して、

小物成(こものなり)という多くの諸雑税があった。

松山村は美濃大垣藩の領地であったから、

北前曽和山は藩の管轄下にある。

しかし、運上金を支払うことによって、

山林の材木や柴木等の資源を入手することができた。

これを「御林下草銭」あるいは「下草」と言った。

本資料は松山村の名主であった「庄平」が代表となり、

中嶋村の庄屋が立会人となって記された下草に関する取り決めのようだ。

庄平は明治時代以降は「松永庄平」を名乗ることになる。

この文書は全長2mに及ぶ公的性格の資料と考えられ、

文書の体裁も非常に立派なものである。

もう少し近世の租税に関する勉強をした上で、

内容を翻刻し、紹介したいと考えている。

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2016年10月14日発行 定価3200円

総論 出版と流通(横田冬彦)
1  三都の本屋仲間(藤實久美子)
2  地方城下町の本屋(須山高明)
3  「暦占書」の出版と流通(梅田千尋)
4  仏書・経典の出版と教団(万波寿子)
5  平田国学と書物・出版(吉田麻子)
6  地図・絵図の出版と政治文化の変容(杉本史子)
7  明治初期の学校と教科書出版(稲岡勝)
8  近代の貸本屋(浅岡邦雄)
9  近世出版文化の統計学的研究(松田恭代)

梅田千尋先生のご論考に、ハイエク先生と私の論文が引用されています。
ありがたいことです。

 

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パリ・ディドロ(第7)大学准教授、

マティアス・ハイエク先生です。

かねてから同学の士として、

ぜひとも交流したかった方です。

2016年2月から、

京都の国際日本文化研究センターに赴任なさっており、

この度、

はじめて研究会でお会いすることができました。 

思っていた通り、

研究熱心なすばらしい先生です。

日本滞在中は、

いろんな場所で研鑽を積みたいと

意欲を燃やされています。 

今後ともよろしくお願い致します。 

 明末の茅元儀(1594−1640か)の兵法書『武備志』は、全240巻の大著である。巻148から巻188までが「占」であり、戦争時の様々な占が採録されている。

 現在の所、自分の研究分野と関連する内容を捜索中なのだが、やや面白いものがあったので紹介したい。
それは田螺占である。
巻186の「占田螺」によると、軍星である北斗七星に向かって拝礼した後、用意したお盆の真ん中に境界を引く。片方を自陣営、片方を敵陣営と見做す。ここに一寸ほどの水を張り、それぞれの陣営に田螺を一匹ずつ置く。この時、以下のような「呪」を唱える。

田螺舞 田螺舞
知風知雨 賊人若来 入我営所
急急如律令

田螺索 田螺索
風雨不着 賊人不来 各守営寨
急急如律令

再拝して退き、夜が明けてからお盆を見る。
敵陣営の田螺がこちらに侵入していたら戦は負ける。
自陣営の田螺が敵側に侵入していたら戦は大勝する。
双方が動いていなかったら、守備に徹すべし。

「舞」というのは旋回運動をいい、
足で調子をとる「踊」とは違うらしい。


これを見ると、
後白河法皇の編とされる『梁塵秘抄』巻二 神歌 雑


舞へ舞へ蝸牛 舞はぬものならば
馬の子や牛の子に蹴ゑさせてん 踏み破(わ)らせてん
まことに美しく舞うたらば 華の園まで遊ばせてん

を想起するかも知れない。
田螺と蝸牛の違いはあるものの、なんだか気になる所である。
だからといって、『梁塵秘抄』の記述は軍占の名残である、などという民俗学的解釈はいかにも飛躍であろう。

また、田螺といえば、北大路魯山人の随筆に、

  妙な話だが、私は七歳のとき、腸カタルで三人の医者に見離された際(その時分から私は食道楽気があったものか、今や命数は時間の問題となっているにもかかわらず)、台所でたにしを煮る香りを嗅ぎ、たにしを食いたいと駄々をこね出した。さぬ仲の父や母をはじめみなの者は異口同音に、どうしましょうと言うわけで、不消化と言われるたにしを、いろいろとなだめすかして私に食べさせようとしなかった。しかし、医者は、どうせ数刻の後にはない命である、死に臨んだ子どもがせっかく望むところだから食べさせてはどうかとすすめた。そのおかげで骨と皮に衰弱しきっている私の口に、たにしの幾粒かが投げ入れられた。看護の者は眉をひそめ、不安気な面持ちで成り行きを見つめていた。
 するとどうしたことか、ふしぎなことに、たにしを食べてからというもの、あたかも霊薬が投ぜられた如く、七歳の私はめきめき元気が出て、危うく命を取り止め、日ならずして全快した。爾来何十年も病気に煩わされたことがない。それかあらぬか、今もなお、私はたにしが好きだ。(中公文庫『魯山人味道』所収)


とあるので、あるいは田螺には不思議なちからがあるのかも知れませんね、
などとまとめておくのが穏当なのだろう。
 

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