江戸の易占

管理者  奈良場 勝   ブログ内の解題は『術数書の基礎的文献学的研究 ー 主要術数書解題 』第一~第三集(平成21年度~平成23年度『科学研究費補助金研究成果報告書』 研究代表者 三浦國雄)に収録されているものです。



                        2020
1010日 於国際日本文化研究センター

   奈良場 勝


  問題の所在

 

江戸時代の易占書の主要な版元といえば、京都の菊屋七郎兵衛と菱屋治兵衛、大坂の森田庄太郎と藤屋弥兵衛、江戸の西村屋与八といった書林の名称を挙げることができる。地域や時代も異なっており、これまでそこに関係性を見出そうと考えたことはなかった。しかし大雑書の中の易という問題から捉え直してみる時、影響関係が存在したように思われるのである。

江戸時代の大雑書については、先行研究によって寛永九年(1632)『大ざつしよ』以来、二百余年の間に三つの段階を経ていることが明らかになっている。第一段階の初期の大雑書、増補記事が加わった第二段階、そして大冊本の最終段階である。すなわち最終段階の天保一三年(1842)には大冊の敦賀屋九兵衛版『永代大雑書萬暦大成』が刊行されている。

増補された第二段階の大雑書の易占記事を見ると、元禄年間(1688〜)以前の八卦抄には見えない形式上の特徴が認められる。この八卦占については、時代的変化の把握がある程度可能なのではないかと考えている。
 本発表では、

①『万々雑書三世相大全』の成立過程

②大雑書・三世相の易占記事の特徴

以上の二点について、京都の菊屋七郎兵衛と菱屋治兵衛、大坂の森田庄太郎と敦賀屋九兵衛、江戸の西村屋与八といった三都の書林の出版資料を提示して考察する。

 

一 京都書林の易占書

 

『諸人御一代八卦』

初版は元禄二年(1689)の菊屋七郎兵衛版。該書は「八卦抄」の書物であるが、「皇帝四季占」を収めている。「皇帝四季占」は折本『八卦本』以来、『三世相小鑑』には継承されたが八卦抄には見えなかったものである。元禄時代以降の八卦抄には手相や人相の占いを収める大冊のものも出版されたが、「皇帝四季占」については他に例がなく、この点は非常に特徴的であると言える。また「八卦上段中段下段の占」では、月ごとの吉凶を並べる形式となっているが、これは管見の限りでは該書が最も早いものである。ほぼ同時期の大坂の森田庄太郎の版本に同様の特徴が見られるため、京都と大坂書林間の板株の譲渡、あるいは流用された可能性がある。

 

『大広益新撰八卦鈔諺解』

元禄五年(1692)の榎並甚九郎版がもっとも古い版と思われる。正徳三年(1713)、享保三年(1718)の再版本があり、いずれも書肆名には杉生五郎左衛門・八木治兵衛・上村四郎兵衛・河南四郎衛門が並ぶ。八木治兵衛は菱屋治兵衛のことである。この他に無刊年の菊屋七郎兵衛版も存在する。大坂の森田庄太郎版『大増益頭書新撰陰陽八卦鈔』1690年)とほとんど同形式、同文の八卦抄である。しかし、両書とも下段の本文は『増補新撰陰陽八卦抄』を、上段は『古今八卦大全』(1671年)の本文を流用したものである。

 

『新撰八卦大全秘密箱』

該書は既述の『大広益新撰八卦鈔諺解』に附録「正變妙術占法」の部分を加えたものである。巻頭の目録にある附録の占法は四つしかないが、実際には「六合天元占法」「四神相應占」があって六つになる。刊記は「寛延元年(1748)十一月」なのだが、版元書肆の名称が異なる版がふたつ存在する。ひとつは「菊屋七郎兵衛・菱屋治兵衛・河南四郎右衛門・風月庄左衛門」であり、もうひとつは「八木治兵衛・風月庄左衛門・徳永善六・田中屋宗助・平岡與兵衛」である。後者が新しい版であろうか。菱屋が数世代にわたって易占書の出版に関わり続けたことがわかる。

 

『三世相拾遺綱目大成』

初版は正徳四年(1714)の舛屋又右衛門(江戸)・舛屋孫兵衛(京都)版である。九州大学図書館に下巻のみ二書が所蔵されている。寛政五年(1793)の菱屋治兵衛の「再刻本」は被せ彫であり、版全体の特徴をよく再現している。天和三年(1663)の鱗形屋版『三世相小鑑』以来、三世相の諸本には易卦は配されていなかったようだ。しかし、『三世相拾遺綱目大成』は「十二支生年吉凶之事」で十二支に易卦を明示している。三世相に易卦を配する形式が定着する時期については更に検討を要するが、単行本の『三世相小鑑』は1800年以降まで易卦を配していないようだ。だとすると、大雑書に収める三世相に易卦が配されている点については、『三世相拾遺綱目大成』が関係している可能性が高いと言えるだろう。

 

『増補諸人一代八卦』

寛政一二年(1800)赤井長兵衛によって出版された。該書の刊記には「元禄二年原刻/寛政十年御免/寛政十二年發行/京師書肆 寺町四条下ル二丁目/赤井長兵衛」とある。刊記枠の幅は4センチであり、『万々雑書三世相大全』A本の刊記枠と同じである。

菊屋七郎兵衛版『諸人御一代八卦』(1689年)の求版本とあるが、いわゆる「被せ彫」ではなく、版本全体のレイアウトは大きく変更されている。初版の『諸人御一代八卦』では大きな手相図が特徴的であったが、増補版ではこれが四分の一に縮小されている。

巻頭部分には「三世相小鑑」と見られる増補部分がある。菱屋治兵衛版『三世相拾遺綱目大成』と『増補諸人一代八卦』の三世相部分を比べてみると、やはりそのままの形で収めたものとは言えないようだ。しかし、それまでの『三世相小鑑』には見えない「一代の守本尊」部分の挿入、そして十二支に易卦が配されているなどの特徴は共通する。

 

『万々雑書三世相大全』

該書の下巻「占八卦三世相之部」は、『増補諸人一代八卦』の板をそのまま用いたものである。

管見の限り『万々雑書三世相大全』には、文化三年(1806A本、同年B本、文政一三年(1830)版、升屋勘兵衛(無刊年)版の四種類がある。刊記を除いて本文中の差はない。該書には同時代の大雑書に比べて大きな特徴がある。他の大雑書が上段の狭小部分に他の引用書を配列しているのに対して、該書は上下巻のうちの下巻すべてが「占八卦三世相之部」となっている。上巻の雑書本文が四二丁、下巻の易部分が四九丁となっていて、下巻の方が紙数が多いことがわかる。上巻の内容は他の雑書に比べて顕著な差は認められないようだ。やはり該書は「占八卦三世相之部」に主眼が置かれていると見て良いだろう。

文化三年B本の刊記には、菱屋治兵衛・今井(菊屋)七郎兵衛・赤井長兵衛の版元名が並んでいる。しかしA本では刊記幅が4センチと小さい。比較してみるとB本は刊記前の行数を減らして刊記幅を5センチに広げ、三名分のスペースを確保していることがわかる。したがってA本の成立が早いことは確実であると言えよう。架蔵のA本刊記は破損しており「寺町」部分だけが残っているが、菱屋治兵衛・菊屋七郎兵衛・赤井長兵衛のいずれもが「寺町」の書肆のため、A本に何名の書肆があったのか、判断が難しい。

これら書林の間に版権をめぐる訴訟があったのかという点については、京都書林仲間『上組済帳標目』では確認できないようだ。

文政一三年(1806)版は須原屋平左衛門・山城屋佐兵衛・菊屋七郎兵衛・伏見屋半三郎の相合版である。これらの書林のうち、須原屋平左衛門・山城屋佐兵衛・伏見屋半三郎は「節用集」のような大冊本の出版を手掛けている。

舛屋勘兵衛版は無刊年であるが、菊屋七郎兵衛や菱屋治兵衛とは他の書物でも相合版を出しており、親しい関係だったと考えて良いだろう。

 

二 大坂書林の易占書

 

『家内重宝記』

 大坂の森田庄太郎は元禄二年(1689)に『家内重宝記』を出版する。この中に「天門八卦抄」として引用されている本文は『天門(文)八卦抄』(1650年、1669年)のものではない。『増補新撰陰陽八卦抄』(1665年)の増補部分と見て良いと思う。特に月ごとに吉凶が整理されている形式は『諸人御一代八卦』と共に最初期のものではないかと見られる。これが以降の大雑書に引用される八卦の基本形式になった可能性が高い。さらに「弘法大師四目録占」「九曜占」が引用されており、後の大雑書に収められている八卦の情報はほとんど網羅されていることがわかる。

 

『大増益頭書新撰陰陽八卦鈔』

該書は元禄三年(1690)に森田庄太郎によって出版された頭書本(二段本)の八卦抄である。享保六年(1721)、延享元年(1744)の同書林による後印本があり、八卦抄としてもっとも流布した版本の形式であると言えよう。

森田庄太郎は出版記録から『萬世大雑書』(1695年、未見)という大雑書を出版したことがわかっている。また、森田登代子氏は『永代大雑書萬暦大成』(1842年)が『東方朔秘傳置文』を多く引用している旨を指摘しているが、森田庄太郎が貞享三年(1686)に『東方朔秘傳置文』を出版している点は注目される。後に敦賀屋九兵衛が「貞享三年」の年紀を変えずに書林名だけを変えた『東方朔秘傳置文』を出版しているからである。
 

『萬年大雑書』

『萬年大雑書』は大坂の秋田屋徳右衛門によって元禄一一年(1698)に出版されたことになっている。しかし、該書はもともと京都の磯田太郎兵衛によって『万寶大雑書』として出版されたものであったらしい。松田美由貴氏・日下幸男氏「京都本屋仲間記録『上組済帳標目』の分析(2005年 龍谷大学佛教文化研究所紀要44号)には、宝永元年(1708)の項目として、磯田太郎兵衛版『万寶大雑書』と田中庄兵衛版『寶暦雑書』(1691年刊)との間に出版訴訟が起きていたことが報告されている。訴訟は『万寶大雑書』側が負け、「内済」として決着したようだ。架蔵本(前半部分のみの端本)では、目録書名が『萬年大雑書』に変わったものの柱書きは『万寶大雑書』のまま出版されている。書名変更は訴訟結果を受けてのことと思われるが、その際に京都の磯田太郎兵衛から大坂の秋田屋徳右衛門へ板株が譲渡されたと考えるべきであろうか。
 該書は珍しい三段本の大雑書であり、上段部分に『天門八卦抄』として「八卦上段中段下段の占」を引用する。月ごとに整理された吉凶の文面は既述の『諸人御一代八卦』(1689年)のものと合致する。年紀から考えると京都の磯田太郎兵衛(秋田屋徳右衛門以前の版)が同じ京都の菊屋七郎兵衛の本を模したことになるが、大坂の森田庄太郎版『家内重宝記』との共通点も重要である。

 

『永代大雑書萬暦大成』

天保一三年(1842敦賀屋九兵衛である。後印として安政三年(1856)版がある。江戸時代の大雑書の集大成とされ、厚さは6センチを越える大冊本である。大冊の大雑書では、これまでの大雑書の序数のついた本文の項目をカテゴリー毎に整理し直している。


 

三 江戸書林の易占書

 

『新撰年八卦』

 明和八年(1771)和泉屋藤七版『新撰年八卦』は「一枚摺り」の八卦抄である。易の八卦が「いろは」になっているが、「巽」が易卦の最初に並ぶ卦序は前例がないようだ。該書は両面摺りであり、裏面には「弘法大師四目録占」が大きくスぺースを占めている。林淳氏「近世の占い‐明和七年の占考論争を中心にして‐」(1993年、名著出版『陰陽道叢書』4特論所収)には、「若杉家文書」に残された明和七年の土御門家江戸役所の触頭と修験側との占考行為に関する争いについて述べられている。その発端のひとつが「一枚八卦」であったという。特に「弘法大師四目録占」が争点になったようだ。翌、明和八年に寺社奉行の中立的な裁許が下されるが、陰陽道側は明和年間以降も安永(1772-1781)・天明(1781-1789)年間を通じて他の民間宗教者との出訴を繰り返したという。これが寛政三年(1791)の幕府による全国触れに繋がり、土御門家による宗教者の占考行為を取り締る権限が確立する。土御門家の活動が版元に対する出版自粛を強要する所まで及んだのかはわからないが、明和年間以降に一枚摺の弘法大師四目録占が出版されなかった可能性は高いと思う。

 

『男女一代八卦』

『男女一代八卦』は『新撰年八卦』の「年八卦」の占いと多くの共通点がある。その一方で裏面の「弘法大師四目録占」を意図的に排除したかのような印象を受ける。管見の限りでは弘法大師四目録占が収められているのは、天明六年(1786)蔦屋重三郎版、文政一二年(1829)の岩戸屋喜三郎版(岩戸屋版は蔦屋版の再版本と見られる)であり、西村屋与八版、森屋治兵衛版には認められない。

弘法大師四目録占が八卦抄に初めて現れるのは、寛文五年(1665)『増補新撰陰陽八卦抄』(国会図書館)である。項目は、得物・待人・出行・生子・善悪・三指・月指・生霊死霊・病事・呪詛(口偏に且)・方角・時日指・軽重・失物・見物・生死・物色・四足二足・勝負・夢見、の二十にも及ぶ。『新撰年八卦』では、ゑもの・まち人・いでゆく・物のいろかたち・月をさす・ぜんあく・やまいごと・ほうがく・とき日・うせもの・かちまけ・のぞみ事・袮がい事、の一二項目である。『男女一代八卦』(蔦屋・岩戸屋)では『増補新撰陰陽八卦抄』に倣って二十になっている。

『男女一代八卦』の易卦の順番は一枚摺の『新撰年八卦』と同じく「巽」から始まっており、この共通項を持つ他の易資料は現在まで見当たらない。『新撰年八卦』で試みられた易卦を「いろは」に替える方法も他に例がないようだ。「いろはにほへとち」に対応して「たれそつねなら(ママ)」を配しているが易占の機構としては未完成だったようだ。『新撰年八卦』のいろは形式が『男女一代八卦』に踏襲された可能性は高と思うさらに壽福三世相大鑑1841年)には『男女一代八卦』の本文がそのまま用いられていることがわかる。管見の限り、この形式は他の大雑書においては未見である。

 

まとめ

 

京都の菊屋七郎兵衛は1689年に『諸人御一代八卦』を出版し、1748年には菱屋治兵衛と八卦抄の相合版を出版している。この両書林は数世代にわたって易占書の出版に関心があったと見て良いだろう。1806年に出版された『万々雑書三世相大全』は易占記事の直接的な由来がわかる大雑書資料であると言える。

増補版の多くの大雑書に見える「八卦上段中段下段の占」については、月ごとに吉凶を並べる形式が定着している。これは現在の所、八卦抄の版本では『諸人御一代八卦』以外には見られないようだ。大坂の森田庄太郎は『家内重宝記』の中で同様の形式を採用しており、京都と大坂の書林間で板株譲渡や流用といった交渉があったことがうかがえる。
  
『永代大雑書萬暦大成』が『東方朔秘傳置文』を多く引用していることはすでに指摘されているが、敦賀屋九兵衛は森田庄太郎版『東方朔秘傳置文』(1686年)を書林名だけ変えて再版本を出版している事実がある。両者の間で板株の譲渡が行われた可能性は高いと思われる。『永代大雑書萬暦大成』は大坂の本屋仲間、特に森田庄太郎から譲られた板株の書物を用いて編纂された部分が多いと考えて良いのではないか。

『永代大雑書萬暦大成』は江戸時代の占いが網羅された書物のような印象があるが、易占記事に関して言えば、『易経(周易)』や断易、梅花心易といったものは収められていない。また、1750年代以降に流行した平澤随貞や新井白蛾の易占書の痕跡も見当たらない。収録されたのは八卦由来の「九曜星繰占」と「弘法大師四目録占」、そして京都大坂の書林間に150年間にわたって伝わった『諸人御一代八卦』「八卦上段中段下段の占」に見られる八卦占の一形式、『三世相拾遺綱目大成』以降に易卦が加えられたと思われる『三世相小鑑』のみである

 

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『術数学の思考』は、

術数学研究会を主宰する武田先生の近著。

2010年以降、私がしばしば京都大学人文科学研究所に赴くようになったのは、

武田先生にお声をかけていただき、研究会に参加するようになってから。

おかげでたくさんのお仲間ができました。

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残念ながら、今春の武田先生の退官記念講演会はコロナ禍のために中止になってしまった。

参戦予定だっただけに残念で仕方ない。

それにしてもこの写真は、武田先生の縦横無尽なお人柄をよく捉えている。

 『寛永九年版 大ざつしよ』(橋本萬平 小池淳一編 1996年 岩田書店)には、橋本萬平氏の「解説一『大ざつしよ』の系統と特色」がある。

 橋本氏はP.163~167において「無刊記本は、可成り初期の出版と考えられる。」とし、無刊記本が寛永九年(1632)本より古い形式である可能性を指摘している。その中で橋本氏はA~Fの六種類の特徴を紹介しているが、このうち「橋本A本」とされるものはP.165に以下のような特徴が述べられている。

 「第一に本文の項目名の上に項番号がついていない。」

 「この本には下巻の項番号一の「とおくゆけばかへらざる事」から、二四の「返死月の事」迄が欠落
  している。それはそこの丁付が、四十三から四十四と連続していて、全く落ちていないからである。」

ここで架蔵本を見ていただきたい。

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すこし見えにくいが、右側が四十三丁、左側が四十四丁となっている。
右側の項目が「うけむけの事」
左側の最初の項目が「下人をく吉日の事」
となっていることがわかる。

項目の上に漢数字がない上に、本文の欠落項目の特徴が橋本氏の説明と一致している。
そして他の無刊記本とは特徴が異なっている。
すなわち、本書は橋本氏の言う「橋本A本」と同版であると見て良いだろう。
なお、橋本氏は「橋本A本」には「目録が欠けているので、目録に項番号があったかどうか不明である。恐らく無かったと推察している。」と述べているが、やはり架蔵本にも目録はない。

橋本先生は2006年に亡くなられた。
橋本先生によって『大雑書』研究の扉が開かれたと言って良いだろう。
後学として敬意を表し、感謝を捧げたい。

架蔵本には橋本先生の蔵書と同じものがいくつかあるように思われる。
あるいは本当にそうなのかも知れないし、偶然なのかも知れない。

いずれにしても、後続の『大雑書』とは異なる特徴を持つ架蔵本を研究に生かさなければならない。
不遜ながら、暫定的な資料呼称として本資料を「奈良場本」とさせていただく。



江戸時代中期以降の『男女一代八卦』について、
書名の類似から『諸人御一代八卦』(1689年刊)の系統ではないかと考えた。
この点について再考したい。

結論から述べるならば、
『男女一代八卦』は『諸人御一代八卦』の系統やその影響下にあるのではなく、
『新撰年八卦』(1771年刊)といった「一枚摺」の八卦資料から冊子に展開したものではないか、
ということである。

判断材料のひとつとなったのは、
『増補諸人一代八卦』の出版が寛政十二年(1800年)であったことだ。
初版の元禄二年(1689)から増補版まで100年以上が経過している。
この間に再版本があった可能性も否定はできないが、
蔦屋重三郎版『男女一代八卦』が天明六年(1786)に出版されており、
影響関係については年代的に整合性がとれないようだ。


『男女一代八卦』の最大の特徴は、
「巽・離・坤・兌・乾・坎・艮・震」の易の八卦が、
「い・ろ・は・に・ほ・へ・と・ち」と簡略化されていることだ。

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しかし、こうした特徴は『増補諸人一代八卦』(1800年刊)には認められない。

ところが、一枚摺の『新撰年八卦』(1771年刊)では、

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となっており、少なくとも1771年までには、
易の八卦を「いろは」に簡略化する方法が考案されたようだ。

それでは、
一枚摺の八卦資料が冊子の『男女一代八卦』に展開したのではないかと考える根拠は何だろう。

ここで近世陰陽道の研究資料に注目したい。
林淳氏「近世の占い ー 明和七年の占考論争を中心にして ー」
(1993年名著出版『陰陽道叢書』4 特論所収)には、
「若杉家文書」に残された明和七年(1770)の土御門家江戸役所の触頭と修験側との占考行為に関する争いについて述べられている。その発端のひとつが「一枚八卦」であったという。翌、明和八年に寺社奉行の中立的な裁許が下されるが、陰陽道側は明和年間以降も安永(1772-1781)・天明(1781-1789)年間を通じて他の民間宗教者との出訴を繰り返したという。これが寛政三年(1791)の幕府による全国触れに繋がり、土御門家による宗教者の占考行為を取締る権限が確立する。

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(画像はweb上より拝借)

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(画像はweb上より拝借)

上記資料の刊行年次は未詳であるが、基本的に一枚摺の八卦資料は『新撰年八卦』同様に両面印刷だったと考えられ、「年八卦」の占いと「弘法大師四目録占」は表裏一体のものとして定着していた可能性が高い。


さて、『新撰年八卦』の「年八卦」の占いの部分は、

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後の『男女一代八卦』とほぼ同形式であることがわかる。

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『男女一代八卦』は『新撰年八卦』の「年八卦」の占いをそのまま冊子にしたものとも言える。
その一方で「弘法大師四目録占」を意図的に排除したかのような印象を受ける。
管見の限りでは「弘法大師四目録占」が収められているのは、天明六年(1786)蔦屋重三郎版、文政十二年(1829)の岩戸屋喜三郎版のみ(岩戸屋版は蔦屋版を元にした再版本であると見られる)であり、西村屋与八版、森屋治兵衛版には認められない。

弘法大師四目録占が八卦抄に初めて現れるのは、寛文五年(1665)『増補新撰陰陽八卦抄』(国会図書館)である。この時の項目は、得物・待人・出行・生子・善悪・三指・月指・生霊死霊・病事・呪詛(口偏に且)・方角・時日指・軽重・失物・見物・生死・物色・四足二足・勝負・夢見、の二十にも及ぶ。

『新撰年八卦』では、ゑもの・まち人・いでゆく・物のいろかたち・月をさす・ぜんあく・やまいごと・ほうがく・とき日・うせもの・かちまけ・のぞみ事・袮がい事、の十二項目。吉凶内容の文面は詳細である。

『男女一代八卦』(蔦屋・岩戸屋)では、得物・待人・出行・生子・善悪三指・月指・生霊・死霊・病事・呪詛(口偏に且)・方角・時指・軽重・失物・見物・生死・物色・二足四足・勝負・夢見、といったように項目は『増補新撰陰陽八卦抄』に倣っていることがわかる。

蔦屋・岩戸屋版では項目数については『新撰年八卦』よりも多いが、具体的な吉凶の文面については非常に簡素であると言える。

尚、刊行年は不明ながら、幕末期の大坂で塩屋喜兵衛が「かわら版」として「弘法大師四目録占ひ」(早稲田大学蔵)を売り出している。



明和七年以降の土御門家江戸役所の触頭たちの活動について、上記の林論文以上の情報は持ち得ていないが、出版物に対する統制といったことも含まれているのではないだろうか。
「一枚摺の弘法大師四目録占」が取締りの対象になったので、「冊子形式の年八卦」として出版した。そしてそれは取締りの対象外となった、ということではないだろうか。

もちろん、この推測が成り立つためには、
明和年間(1764-1772)以前の『男女一代八卦』の版がないこと、
天明年間(1781-1789)以降の「一枚摺八卦」の版がないことが前提となる。

わずか十五丁程度の『男女一代八卦』の出版は、単に八卦資料の簡略化のみが要因ではなく、土御門家による出版統制が影響している可能性を視野に入れて検討する必要があるのではないだろうか。
さらに検討を加えたい。


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