2016年03月05日

「桜田門外の変」の黒幕

「吉田松陰VS井伊直弼」

「桜田門外の変」によって、歴史にその名を留める大老・井伊直弼は、その原因の一つでもあった「安政の大獄」によっても、その名を留めている。「安政の大獄」の最後の処刑者は吉田松陰である。しかし、吉田松陰は、井伊直弼の心を動かし、「安政の大獄」を中止させたのであろう、と思う。井伊直弼は、「安政の大獄」を中止する代わりに、吉田松陰を最後に処刑したのであろう、と思う。
(2015・3・5記)


「桜田門外の変」の黒幕

NHKの『ヒストリア』という歴史番組は、興味本位で、底が浅く、とうてい歴史から何かを学ぼうとする人の視聴に堪えるものではない。通俗的で、新事実はほとんどなく、私は、ほとんど見ることがない。しかし、昨夜の番組は例外的におもしろかった。

「安政の大獄」で尊王攘夷派に怖れられた井伊直弼(1815−1859)暗殺に、徳川斉昭(1800−1860)が深く関わっていたというのである。今回、その物的証拠がアメリカから出てきた、というのである。

刺客は18名(17名は水戸藩士、1名が薩摩藩士)、警護の武士は60名いたが、刺客の気迫に押されて遁走するものがほとんどであったと伝えられる。刺客たちの圧勝であった。血まみれになった井伊直弼の首を持って、刺客たちは出頭した。

暗殺は、最初の銃声が井伊直弼に致命傷を負わせていたという。そのコルト拳銃が長く行方不明であったが、最近、アメリカから日本に帰されてきたという。その拳銃を詳細に調べると、どうやら、徳川斉昭の所有していたものらしい、というのである。NHKは、徳川斉昭のものとほぼ断定していた。

尊王攘夷派の徳川斉昭は、「桜田門外の変」の3か月後に60歳で急死している。それは彦根藩士の報復であったという説もあるらしいが、真相は闇の中である。

「桜田門外の変」から10年ほどして、長州、薩摩、土佐の尊王攘夷派によって追い詰められた徳川慶喜は、大政奉還せざるを得なくなるのだが、彼は徳川斉昭の実子であった。慶喜は、当然、父の影響を受けていたはずである。……。
(2016・3・5記)

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2016年03月02日

『奇皇后』の破壊力

昨年の今頃は、韓国の歴史大河ドラマ『奇皇后』を毎週楽しみに見ていた。どこが見所だったかというと、話がとても立体的に構成されていた点。また、残酷な敵に対しては、残酷になれる主人公のたくましさが気に入った。「目には目を」の世界である。主人公は、その残酷さにおいても、悪人たちに負けていなかった。

あの歴史ドラマは、表現に妥協がなく、残虐な暴力シーンも多く、現状を破壊するエネルギーに満ちていた。保守的な政治勢力が「危険な作品」と見なしたとしても、不思議はないが、……。


現在、BSプレミアム 土曜・朝・8時30分〜再放送しているそうです。物語は中盤だそうです。
(2016・3・2記)


『奇皇后』の魅力

昨日、NHKで、韓国歴史ドラマ・『奇皇后』の特別番組があった。「歴史スペクタクル」と自称しているが、野心的な男女の欲望が複雑に絡み合い、話はそのように進行している。シナリオもなかなかうならせる。大元帝国に復讐を誓い、そのために権力内部に食い込んでいく朝鮮人女性の物語なのだが、歴史上実在した人のようである。とてもロマンチックな物語である。

韓国歴史ドラマのパターンは、宮廷ものであること、ねちねちした権力抗争の中で、巧みに自分の地位を高めていく女性が主人公であること、復讐が主人公たちの行動のベースに流れていること、である。『奇皇后』もいつものパターンのようではあるが、一味違う。宮廷は、大元帝国のそれであり、暴力はむき出しで、権力抗争は荒々しく、民族差別も絡んでくる。

ドラマに戦闘場面は多いが、彼女自身が、武術の達人である。力でも負けない女なのである。復讐が彼女の心を支えているので、自己実現の心が折れることはない。これまで、体も心も復讐のために鍛えぬいてきたのである。そして、彼女の復讐に、豪華な色恋が絡んでくる。二人の男の間で揺れる女ごころも描かれている。

ドラマの冒頭に、いつも、主人公が皇后に即位したシーンが流されるから、彼女は大元帝国の権力抗争に勝利したのであろう。ドラマは道半ばだが、終始ニコニコ顔の主演女優がスタジオで言うには、「これからが、『奇皇后』の本当の物語です」ということである。そうだろう。敵の懐に飛び込んで、復讐を実現していく彼女の人間としての力量に期待が高まる。
(2016・3・2記)

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2015年10月12日

『日本の枯葉剤』

一昨年、私の書いた『枯葉剤がカワウソを殺した』が、『週刊金曜日』の「ルポルタージュ大賞」に入賞した。高知県で枯葉剤を散布した人、埋設投棄された枯葉剤を回収した人、回収作業の総指揮をとった人に会って、話を聞いた。その際、私が参考にしたのが、この本である。

どんなことが書かれているかというと、およそこんなことが書かれている。

第二次大戦中、アメリカは、日本が原爆投下によっても降伏しないことを想定し、次なる一手を準備していた。それが、24Tである。日本の稲作に壊滅的な打撃を与えるための強力な除草剤である。アメリカは、日本人の主食を断とうとしたのである。しかし、日本が原爆投下によって降伏したので、それは不良在庫として残ってしまった。

不良在庫の24Tは、ベトナム戦争時に245Tとして進化し、ベトナムのジャングルを枯らすために使われた。日本もその生産に加担した。

アメリカは、「人体に影響がないので、化学兵器ではない」と主張したが、国際世論は散布を許さなかった。国際世論に押されて、ニクソンが使用中止を命じ、世界中で生産されていた245Tは、だぶつき始めた。さらには、1975年、アメリカの敗北が決定的となり、245Tもまた、不良在庫として大量に残ってしまった。

行き場のない245Tは、沖縄に集められ、日本の林野庁が処分することとなった。除草剤として、日本の山林にまかれたのである。散布を中止した後は、国有林内に埋設投棄された。それは、日本の18の道県に及び、とりわけ高知、宮崎、鹿児島などの人口の少ない場所に埋められたのである。

著者の原田さんは、「日本人の母乳からダイオキシンが検出されるが、それは、約40年前に散布、埋設投棄された245Tのせいではないか」と書いている。日本の自然環境中に漏れ出した枯葉剤によって日本の自然がこうむった被害は甚大だったはずである。カワウソ激減の大きな要因になったと想像される。

私の『枯葉剤がカワウソを殺した』は、昨年、東京の月刊ミニコミ誌に1年間にわたって連載され、原田さんも読むところとなった。それで、フリーライターのMさんと原田さんが高知に取材に来ることとなった。

(2015・8・30記)


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2007年06月16日

45 棚田文化継承  

 高知県の中山間地の多くには、子供がいません。ということは、子供の親、つまり、若い大人もいないということなのです。先人たちの汗の結晶である、美しい棚田が、山にもどっていくのは、時間の問題に思えます。しかし、そんな厳しい現実と四つに組んでいる都会人たちがいます。

 6/9(土)に、中嶋健造さんの棚田再生プロジェクトの「田植え」に行きました。中嶋さんは、西日本科学技術研究所の会社員で、棚田保全にしぶとく取り組んでいる人です。最近その功績が認められて、全国的な賞をもらいました。今回は、「里山の絶滅危惧種を守ろう!」という企画で、次の3つを守りたいのだそうです。

1.棚田を再生する人(都市からの交流者、地元若手農家)

2.生物(ヘイケボタル、ドジョウ、マルタニシ、ヤマアカガエル、タガメ、ゲンゴロウ、薬草)

3.アラキモチ(原種の匂い餅米)

 午前9時30分「七色の里」集合ということだったので、20分くらい前に行きましたが、すでに20人ほどが集まっていました。4年前に初めて田植えをしたときは、私も中心メンバーの1人だったこともあって、こういう場所には知り合いが多いのです。

 若者たちの間に、高知大学理学部植物生態学研究室教授の石川慎悟さんの姿がありました。山里、棚田の植生調査などをしながら、米作りを学生に体験させているのです。

「これは、実感教育ですね」

「学生にとってとてもいい経験になっていると思います。1から自分でやるとこれは大変なので、中嶋さんには感謝してます」

「彼も石川ゼミに参加してもらって張り合いがあるんじゃないですか」

 モンゴルからの女子学生も参加していて、話しかけてみました。

「私は、モンゴルでは畑すら見かけなかったけれど、もちろん、水田に入るのは初めてですよね」

「生まれて初めて。今日はとても楽しみ。日本文化の勉強になります」

 4人とも積極的で、今では日本の農業者も知らないような古式にのっとった田植えを楽しんでいました。日本人と同じ顔つきなのですが、目の輝きが農耕民とはちがうように思いました。

 「スローフード高知」が、昼食の食材について長めの説明をしています 参加団体は、高知大の石川ゼミ、スローフード高知、によど雑木団、こうち元気者交流会などで、初夏の1日、45人の都会人が、「アラキモチ」の田植えに汗を流しました。

 「七色の里」にもどると、昼食は、「スローフード高知」の人たちが作ってくれていました。食材の説明が少々長かったのですが、久しぶりにうまいものを食ったという感じでした。

 今年は、すでに深刻な水不足で、2枚用意した田が、1枚しか使えそうにありません。下の田は、畑にしかなりそうにありません。たぶん、今年も想定外の気象条件に出くわしそうですが、今後、3つの絶滅危惧種がすくすくと育ってくれるといいのですが……。

narijun1 at 10:08|PermalinkComments(1)TrackBack(0) 環境 | 国際交流

2007年06月10日

44 東洋町日誌(5)

 6/1の『JanJan』の記事に「安全神話の闇に葬られる原発被曝労働者」がありました。私は、一読して、200人ほどにメールで記事の存在を知らせました。記事の力で、たぶん、もっと多くの人に広がっていったことでしょう。

 中に「写真がリアルですね」という返事がありましたが、考えてみれば、初めて見る原発内部がリアルというのも妙な話です。あのクールな文章と重ね合わせるとき、どこにでもありそうな現場写真がリアルに感じられるのでしょうか。

 原発の「安全神話」は、意図的に広報され、犯罪的に守られているということ、そのため、今この瞬間にも被曝者は増え続けているということ、いろいろ思い知らされます。

 戦後、憲法9条で、日本は「武装」していたのですが、その「武装」が解かれようとしています。歴史的に辛酸をなめた人類の英知の結晶が、「日本国憲法第9条」だと思うのですが、へたに武装すると逆に「丸腰」になってしまうような気がするのですが、……。

 今、高知県では、「核廃棄物拒否条例」の制定に向けて、署名運動を展開しています。国も自治体の首長も信用できないことを、「東洋町」が教えてくれたからです。この放射能汚染に対する「武装」に、22,000の人が名を連ねています(5/31現在)。


 「3月21日 利潤追求より人命尊重 」

 3/14の高知新聞・夕刊に、「三菱重工・米で初の原発単独受注」という記事がありました。1979年のスリーマイル島の原発事故以来凍結していたアメリカとしては、約30年ぶりの原発建設再開で、受注額は最大6000億円になる見込みだそうです。これでも安いのだそうです。2基でこの価格、アメリカは今後20数基新設する計画というから、さらに大きな商いになる可能性もあります。

 地球温暖化の追い風を受けて、ドイツでも「脱原発」を見直す動きが出てきていると聞きます。発展途上国では、無条件に科学技術が信奉され、環境問題は軽視されがちですから、すんなり原発が受け入れられていく傾向があります。これは、今後、日本の原発輸出がグローバルに加速していく転機となる重大ニュースなのかもしれません。

 高レベル放射性廃棄物の最終処分場を建設するために、1980年代に、高知県で19地区を調査していたというのは、実は、この三菱重工です。この2つの情報が重なって、ウーン、とうなってしまいました。原子力産業は、長期的展望に立って、原発のサイクルを確立しようとしているように思えます。

 原発は、よく「原子力の平和利用」と言われますが、昔から三菱重工は名だたる兵器産業です(兵器生産の割合は13%)。 兵器作りのノウハウが原発に転用できるのか、原発のノウハウが兵器作りに転用できるのか、わかりませんが、私には、原発と兵器のイメージはどうしても重なってしまいます。ともに人命を危うくするものだからです。

 原発関連の放射能汚染や劣化ウラン弾で苦しんでいる、世界中の多くの人々のことを想うとき、原発のどこが「原子力の平和利用」なのか、理解に苦しみます。原発のゴミは兵器作りの材料にもなっているそうです。核兵器作りの材料であるプルトニウムも、ゴミとしていくらでも出てきているそうです。この核兵器に化けるかもしれない原発のゴミに対して、IAEAは、多くの予算をさいて六ヶ所村を監視しているのだそうです。

 国の後ろに原子力産業がひかえているのか、原子力産業の後ろに国がひかえているのか、さあ、どちらでしょうか? 断言はできませんが、原子力産業の利潤追求に都合のいいように、国の原子力政策が決定されているというのが、真実に近いように思います。

 原発の危険性については、国も原子力産業もよくわかっているはずなのです。なのに、「安全神話」を表看板に、原発は増殖を続けているのです。問題は、国民不在のまますべてが決定され、事態が進行しているということです。

 今後、原発関連のニュースで「三菱重工」の名前が出てきたら、岩崎弥太郎が高知出身だったことも思い出してください。坂本龍馬だけが、高知出身ではないのです。ご存知のように、三菱の創立者は、「明治の政商」と言われ、政治を動かすことで巨利を得た人です。


 「再考」

 5/3は、三上満さん(全国革新懇代表世話人)の講演会に行きました。なかなかのお人で、どうして東京都民はこの人を知事に選ばなかったのだろうか、と不思議に思いました。

 三上さんの講演の後、国の無形文化財である室戸市の「佐喜浜にわか」が上演されました。室戸市のとなりの「金でふるさとをウランかった東洋町」、「安倍心臓首相」などがお笑いのネタにされていました。国のやり方、首相のやり方をまな板にのせて、庶民感覚で味付けし、バッサリと料理していきました。

 「佐喜浜にわか」の台本は、私の知人が書いたのですが、前夜、「今晩は徹夜」というメールが入っていましたから、本番では、皆さんセリフを憶えていませんでした。しかし、その辺のところも笑いの材料にして、寸劇はドッと笑いに包まれ進行していきました。

 登場人物は、佐喜浜の漁師、サラリーマンの九条守君、それに、ボンバル機に乗って命がけで高知にやってきた安倍晋三首相の三人でした。日本国憲法をどうするか、大きな身振りと声で、議論が始まります。議論が沸騰し、もつれてくると、首相は、「やかましいわい!」と大声でどなります。その声が、泣く子も黙るくらい大きいのです。 

 最後に、漁師が、野球のベースを客席に向かって掲げ、「ライトも、レフトも、センターも、正々堂々プレイしいや!」と叫んで、寸劇は幕となります。

 考えてみれば、「原子力発電」は、「憲法改正」と同じく国民投票に価するくらいの大問題です。今後、原子力発電をどうしていくのか、国民的な議論が必要と思います。その際、どちらの問題もフェア・プレイで願いたいものです。

 最近、TVのドキュメントで、脱原発のアイスランドの地熱発電を技術的に支えているのが、三菱重工であるということを知りました。三菱重工は、脱原発のエネルギー開発にも力を入れているのです。ということは、原発後のサバイバルを、すでに視野に入れているということなのでしょうか。または、金にさえなれば、何でもやるということなのでしょうか。


 「参考資料」

 高知県における「核廃棄物拒否条例」制定に向けた請願署名
 (原発さよならネットワーク高知)

 高知県は、黒潮と深い緑に恵まれ、また自由民権運動発祥の地として、個性ある文化を育んできました。
 この地に、国は原子力発電の使用済核燃料を再処理したあとの高レベル放射性廃棄物を埋め捨てようと、すでに19地区を候補地として調査しています。ほかにも、RI・研究用放射性廃棄物や低レベル放射性廃棄物を持ち込まれる危険性があります。
 これ以上、現在と将来の高知県民に不安を生じさせることのないよう、以下の理由により、高知県として「核廃棄物拒否条例」を制定していただきますよう請願いたします。

 請願理由

1 高知県は92〜150年周期で南海地震が起きており、核廃棄物処分地には向かない。

2 埋め捨てという方法はまだ研究段階であり、いま候補地を決めるのは早すぎる。

3 市町村長の決断だけで候補地を決めるという手続きは、民主主義になじまない。

4 地方自治体を貧しくさせ困らせておいて、候補地として手をあげれば大金をもらえるしくみは、どこかおかしい。

5 そもそも、いのちを危険にさらす原子力政策は、見直す必要がある。

narijun1 at 08:49|PermalinkComments(1)TrackBack(1) 環境 

2007年06月08日

43 大切なのは朝鮮半島の平和 

 6月2日(土)高知市において、「前進した6者協議・孤立する日本」と題する講演会がもたれました。元毎日新聞ソウル支局長・前田康博氏を講師に招いての「平和のための学習会」でした。

 主催の「サロン金曜日」によると、「せいぜい50人かな?」という予想でしたが、180人も集まって、講師もビックリ。「サロン金曜日」というのは、平和のために活躍している知識人を全国から招いて、高知県人に講演会を提供している市民グループです。だいたい予想以上の人が集まりますが、若者の姿が少ないのが寂しいです。

 ののしり合っていては外交が進まない(当日の講演:およその内容)

 30年後、日本は、現在と同じGDPを維持するとすれば、3000万の外国人労働者を受け入れなければならない。しかし、保守化、国粋化のますます進む日本は、国内のそうした国際化に対応できるのか。また、選挙のとき投票に行かない「ゆうれい主権者」の存在も気にかかる。今後、選挙権が18歳に引き下げられることが予想されるが、それは「ゆうれい主権者」の数を増やすだけではないのか。

 日本は、以前から経済一流、政治二流、外交三流といわれてきたが、安倍内閣の外交も三流である。「拉致問題」に感情的にこだわりすぎて、「朝鮮半島の非核化」という大切な協議事項を忘れている。「拉致問題」も大切だが、それは、朝鮮との「国交正常化」を進めつつ解決すべきである。国際会議の場で罵り合っていては、外交が進まない。外交が交渉ごとであることがまるでわかっていない。交渉により朝鮮半島に平和が訪れれば、それは何よりの日本の安全保障になり、ミサイルもその他の軍備も不要になる。

 天皇による大臣や外交官の認証式は、大臣や外交官が真に国民の方を向かない理由の一つとなっている。外交官の中には、「大使閣下」と呼ばないと怒り出す人もいる。彼らは、天皇の方ばかり向いており、天皇誕生パーティーを海外で行っているだけで、日本国民のための外交活動をしているとは言いがたい。

 戦前のアジアには、日本国とタイ国以外の独立国はなく、他は皆植民地であった。その感覚が今に続いており、欧米以外は独立国として認めていないようなところが、日本国外務省にはある。

 1950−1952の朝鮮戦争によって、アメリカのマッカーサーは、朝鮮半島を日本の防波堤にしようとした。朝鮮戦争は、アメリカとソ連の代理戦争であり、韓国は、日本の反共防波堤としてマッカーサーによりつくられた。

 38度線は、国境ではない。今も軍事境界線なのである。この38度線によって、1000万の離散家族が生まれており、南北統一は、朝鮮民族の悲願である。第2次世界大戦後、本来なら日本列島が4つに分割されるはずだったが、朝鮮半島が南北に分断されてしまった。日本人は、そのことに責任を感じるべきである。私が、「6カ国」でなく「6者」だというのは、38度線を国境と認めていないからである。

 明治時代、福沢諭吉が「脱亜入欧」を説いたが、いまだに外務省のセンスはその当時のままである。今は「脱亜入米」になっているというべきかもしれない。たとえば、外務省は「アジアの一員」ということばを嫌う。「アジアと日本」と言いたがる。彼らの中には、日本がアジアの一国であるという認識は希薄なようである。私は、今後、日本外交は日本国民のために「脱米入亜」であるべきだと思っている。

(感想)

 私は、1969、1971、1972年に朴大統領独裁下の韓国の農村漁村を旅しました。観光客の行かないところをうろうろしていて、KCIAの取調べを受けたこともあります。だから、実感を伴って思い出すことも多く、おもしろかったです。

 前田康博氏は、金大中事件が起こったその日に、金大中氏とインタビューの約束をしていたそうです。事件発生後、宇都宮篤馬がキッシンジャーに電話をし、キッシンジャーが朴大統領に電話をし、ヘリコプターが飛び、今まさに重りをつけられて大阪湾に投げ込まれようとしていた金大中氏は殺されずにすんだのだそうです。その危機一髪の話には迫力がありました。最近、前田康博氏は、キリスト教徒の金大中氏と会う機会があり、金大中氏は「あの時ほど真剣に神に祈ったことはなかった」と語ったそうです。

 「形が中身を規定する」ということばがありますが、天皇の国事行為がそれに当たるだろうと、私も以前から思っています。あの形は、主権在民とは言いにくく、時として、今も大日本帝国憲法が生きているような錯覚に陥ります。

 ほぼ満席状態の聴衆は、終始熱心に耳を傾けていました。話術にも話題にも人をひきつけるものがあり、講師と聴衆との間に一体感が生まれていました。

narijun1 at 23:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 国際交流 

2007年06月01日

42 東洋町日誌(4)

チェルノブイリ原発事故20周年の2006年に公開された、ドイツ映画『みえない雲』(小説の映画化)を5/22に観ました。恋愛映画の背景には原発事故のパニックが流れていました。

 映画の中で、原発事故のサイレンを先生より早く聞き分ける高校生たちがいました。また、避難途中で、丘の上に車を止め、車から出て、風向きを確かめ、青ざめた顔を見合わせる高校生たちの姿がありました。もし、日本であのような原発事故が起こったら、日本の高校生たちは、あのように行動できるのでしょうか。

 ドイツは、原発全廃の世論70%、国策として脱原発の道を歩んでいますが、現在17基が稼動しています。一方、日本は、国策として原発を推進しており、現在55基が稼動しています。大地震を想定しての避難訓練があるなら、原発事故を想定しての避難訓練もあっていい、と思いました。

 チェルノブイリ原発事故の死者は4万人といわれ、今なお放射能汚染による死者は増え続けています。

 「3月11日 電気利用の歴史は0.1ミリ」

 今日は、久しぶりに合気道の練習に行ってくたくたで帰り、昼寝をしようとしているところに、県議会議員選挙立候補予定者の訪問を受けました。「核廃棄物に関する公開質問状にどう答えたらいいのか、教えてほしい」とのことでした。「高知県・核廃棄物拒否条例」制定のための布石として、県議選立候補予定者に対し質問状を送付していたのです。

 その人は、「条例に賛成していいのかどうかわからない」ということでした。それで30分ほどレクチャーして、条例賛成派に洗脳しておかえししました。
 
  私は、「いの9条の会」の7人の設立メンバーの1人なのですが、そのうちの1人の革新系いの町議が、その人を連れてきたのです。「新聞しか読んでいないので、よくわかりません」ということでしたが、(新聞を読んでいれば、わかるはずですが……)と心中思いました。

 「電気なしでは人間は絶対暮らしていけません。そういう恐ろしい放射能のゴミは、離れ小島にでも捨てたらどうです?」などと粗野なことをおっしゃるので、「人類の歴史を4mで表わすと、100年は0.1mm、電気利用の歴史はせいぜいその程度のもんです。今の日本人のように湯水のごとく電気を使わなくとも暮らしていけるはずですよ。原子力発電がなくてもやっていけると思いますよ」というお話をしました。

 人類出現の歴史については、諸説ありますが、アフリカで発見されたアウストラロピテクスに始まるとすると、400万年前まで遡ります。そして、蓄音機、電灯、映画、アルカリ蓄電池、トーキーなどを発明したエジソンが亡くなったのは、1931年です。だから、人類の電気利用の歴史は、せいぜい、ここ100年くらいと考えていいのです。

 今、400万年を4mで表現すると、100年は、0.1mmです。そうとらえると、電気なしで人は暮らしていけないと考えるのは、間違いです。人は、その歴史のほとんどの時間を電気なしで暮らしてきたのです。いやむしろ、電気に依存しすぎることで、今、人はさまざまな能力を見失い、その文明は危機的な状況を迎えつつあるように思います。

 「破滅」と「節約」、どちらが得か、よーく考えてみよう。

 「再考」

 原発に反対だと、科学的じゃないように言われることがあります。しかし、科学的にも、経済的にも、やはり原発はかなりヤバイと思います。「原発に代わるクリーン・エネルギーを言え」ともよく言われますが、クリーン・エネルギーがあればいいですが、なければ、電力不足でも我慢する、「進歩発展」を諦めるという選択肢もあります。

 とにかく何とか「進歩発展」しなければいけないと考えるところに発想の本末転倒が生じます。そして、人は何とかしようとして原発に手を染めることになっていくのではないでしょうか。私は、「何をするか」ではなく「何をしないか」ということが環境問題の着眼点だと思っています。

 日本の場合は、人口3000万をキープした江戸時代の再評価が必要かと思います。(封建制については、ここでは目をつぶる)鎖国時代の日本列島は、理想的な循環型社会であったと見ることができます。その認識が、宇宙船・破滅号のばく進を弱めるひとつの思想に育っていくのではないかと考えます。

 最先端の河川の近自然工法も江戸時代の工法にすぎないというではありませんか。近年もてはやされている有機農法も江戸時代の農法にすぎないというではありませんか。江戸時代に来日したヨーロッパ人は、人口100万の江戸の町(当時の100万都市は世界で江戸だけ)の環境的な調和を見て、驚きの目を見張ったといいます。そして、本国政府に対し、「この国と戦争をしてもたぶん勝てない」と報告したといいます。ここで想起すべきは、江戸時代には、世界中に電力はなかったということです。

 「自然」という漢字の意味をよーく吟味して、「進歩発展」信仰から解放されることが必要かと思います。人間だけが選ばれた生き物であるかのように考え、自然を軽んじ続けた「進歩発展」によって、人類は今、自らの生存の危機に直面しています。「今世紀末には、地球上の生物の3分の2が死滅するであろう」という状況を迎えつつあります。今や、地球の自然環境にとって、最も有害な生き物は人類です。ばく進する宇宙船・破滅号からは、今や、飛び降りるより他の選択肢はないようです。
 
 政府は、原発推進を急ぐあまり、そのデメリットについて意図的に国民に知らせていないと思います。のみならず、意図的にメリットばかりを誇大に宣伝していると思います。

 元祖・環境問題活動家・田中正造は、足尾銅山鉱毒事件に対する明治政府のあまりの無策に、総理大臣・山県有朋に対し、国会で、「脳がない」と言ってのけました。彼は、学問のある人ではなかったけれど、人間や人間社会について深く考え、そのあるべき姿を洞察していました。そして、何よりも類まれな行動の人でした。

 とても「脳がない」人たちが、お国の舵取りをしているのは、今も昔も変わりません。「歴史はくりかえす」というのは正しく、状況は酷似しているように思えます。この危機に直面し、「国家百年の大計」に無関心であることは、田中正造の言葉を借りれば、「亡国」です。

 「参考資料」

 高知県議会議員選挙(4/8)の立候補予定者に対する質問は以下のようなものでした。(原発さよならネットワーク高知)

1.
 高レベル放射性廃棄物の地層処分候補地として、県下19地区が1980年代に調査されていたことをご存知ですか?

2.
 高レベル放射性廃棄物には、100万年もの間、放射能が減衰しない核種が混入していることをご存知ですか?

3.
 高レベル放射性廃棄物の地層処分は、世界のどの国も未だ確立できていない技術であることをご存知ですか?

4.
 文献調査が決定すると、「核のゴミの高知」という風評がたつ可能性があります。一次産品販売や観光に悪い影響があると思いますか?

5.
 文献調査が決定すると、新年度から東洋町には最高10億/年の交付金がおります。この交付金が、真に東洋町の財政の建て直しと町の活性化に役立つとお考えですか?

6.
 住民や議会の過半数が反対しても、自治体の首長が応募すれば文献調査に進めるという国のしくみを公正だとお考えですか?

7.
 県民県土を放射能汚染から護るため、「高知県・核廃棄物拒否条例」制定にご賛同いただけますか?


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2007年05月30日

41 東洋町日誌(3) 

 最近、東洋町の沢山町長に会いに行きました。「ヤスタロウの東洋町長日誌」というブログを町長室で完成させるためでした。それは、西村健一さんの発案で、オンブズマン町長としての言動を全国に発信するための道具立てでした。

 1時間ほどでブログは完成し、町長室を出ると、沢山さんの表情はパッと明るくなりました。町長室は、沢山さんにとって、緊張する場所のようです。私は、砂浜の見えるログハウスで、ハンバーグをかじりながら、「日本史専攻ということですが、卒論は何でしたか」と質問しました。「確か、『近代日本と部落差別』という題だったと思います。近代日本に部落差別が残ってしまった理由を明らかにしました。雑誌に掲載され、その雑誌はよく売れました」と彼はうれしそうでした。彼は、立命館大学で日本史を学んだことを誇りに思っているようでした。当時、権力におもねることなく、日本史を研究する学者が、立命館大学に集まっていたからです。

 「3月7日『入口で追い返せ!』」 

 昨日、文旦や作文のお礼で、『六ヶ所村ラプソディー』の監督・鎌仲ひとみさんから礼状が来ていました。「東洋町はこれから大変です。どうか、これからも支援してください」と結んでありました。しかし、それは、話があべこべです。それは、高知県人の私の方のセリフです。

 鎌仲さんの『ヒバクシャ』(影書房)を読むと、一見アバウトに見える彼女がいかに繊細な精神の持ち主かということがよくわかります。彼女は、あらゆる放射能の害に、我がこととして心を痛めています。彼女の暗い予想が外れ、「何でもなかったね」といえる日が早く来るといいのですが、……。来月には、東洋町で『六ヶ所村ラプソディー』を上映するため、彼女は再び来高するそうです。ごくろうさま。

 今朝の高知新聞に、「東洋町・地層処分は安全か」という討論記事が大きく出ています。昨日、東洋町で開かれたのです。専門的な説明はいまひとつ実感が湧かないのですが、反対派の京都大学原子炉実験所助手の小出裕章さんの意見を要約すると、最後のところかと思います。「1度受け入れてしまえば、後は調査としてステップを踏まれてしまうだろう。入口で追い返すしかない」 国家戦略を敵にまわし、真に科学者の名に値する人だと思いました。そんな具体的なことまで口走ったら、国立大の研究者としてはまずいことになっていくでしょうに、……。

 今がその入口付近です。国は、いろんな意味で高知県をなめきっています。わずか10億で、東洋町が食いついてきたので、今後他には「応募」は出てきそうもないので、土足でずかずかと踏み込んできそうです。圧倒的な反対の世論で、「なめたらいかんぜよ」と言うところを見せつけておかないと、「国の専決事項」として押し切られそうです。国家権力をなめたらいかんぜよ。

 「再考」

 『六ヶ所村ラプソディー』の上映は、直前に中止になりました。

 私は、この討論集会には行きませんでしたが、後でそのビデオを見ました。司会は、県外で農業をやっている人が良心的に務めていました。双方に平等に発言の機会と時間を与えることに意を注いでいました。

 討論会は、社会的な地位以外の点で、反対派が推進派を圧倒していました。推進派は北大の教授、反対派は京大の助手でした。論争は、助手が教授をあらゆる場面で論破しているように見受けました。会場の大きな拍手からもそのことが感じられました。一般の人が、ことの本質をよく見抜いていることに驚かされました。

 こういう討論会には、推進派の学者は出たがらないのだそうです。あらゆる点で、自分が劣っていることを自覚しているからでしょうか。

 私は、これまでいくつかの土木工事の反対運動をやってきました。そして、いつもいまいましく思っているのは、御用学者たちの存在です。やたら専門家ぶって、真実を曲げ、自己保身に汲汲としている連中です。

 16年前の春、水俣病裁判で有名な宇井純さんの話を聞く機会がありました。そのときは、公害関係の話は出なくて、雑談ばかりでした。「私は、東大で万年講師をしていました。しかし、後輩たちが教授や助教授になっていたので、学内では、大きな顔をさせてもらってましたよ」

 私は、京大助手の小出裕章さんにも、大きな顔をしていて欲しいな、と思いました。



narijun1 at 14:38|PermalinkComments(1)TrackBack(0) 環境 

2007年05月28日

40 東洋町日誌(2)

 「自由は土佐の山間より」という言葉があります。明治の自由民権運動を、時の高知県人たちが担った、という意味かと思います。今回の反対運動を展開する中「Tシャツを作るので、何かキャッチコピーはないか」ということになり、アイデアが公募されました。いろいろ集まったようですが、最終的に「反核も土佐の山間より」に決まりました。私は、ほんの冗談のつもりだったのですが、かつての自由民権運動の県民性は生きていて、現実はその通りに推移していきました。

 東洋町に深入りしすぎていた国家権力の側が、このキャッチコピーの真の意味を理解するには、もう少し時間がかかるだろうと思います。ボディーブローは、後から効いてくるのです。

 「3月2日 反核も土佐の山間より」

 反原発の「それがたまるか!!」という人気ブログがあります。原発に関して多角的に情報を集めていて、見識もあり、充実しています。管理人は看護職の女性ですが、文末に必ず「高知をなめたらいかんぜよ」と、国に対して啖呵(たんか)を切っています。

 先日、朝日新聞・全国版で半ページを使い、東洋町のゴタゴタを特集記事にしていたそうです。「反対している地方の人たちの体温が伝わってこない」との紙面批判がありましたが、当然のことだと思います。朝日新聞は、国家から切り捨てられようとしている「田舎」の仲間ではなく、「都会」の仲間だからです。日本国は、人口4000人にも満たない東洋町など、どうなっても構わないのです。自分たちが政策で貧乏に追い込んでおいて、金をちらつかせ、人の心を金で買おうとしているのです。ホントに「なめたらいかんぜよ」

 現在の東洋町の緊迫した現実は、高知県の現実であり、日本国にも、世界にもつながっている現実だと思います。おおげさに言えば、原子力発電の恒久的なゴミ箱が完成するかどうかは、文明の大きなターニング・ポイントです。しかし、多くの人に切実な歴史認識はないようです。予想を上回る地球温暖化の進行で、世界中に原子力発電の順風が吹き始めました。時代の風に逆らうことは、今後困難を極めると思います。人類は今、地球温暖化の問題に直面していますが、それはずっと以前から警告され続けていたことなのです。このままでは、放射能汚染も同じ道をたどっていくことになるのかもしれません。
 
 今、この破滅的な国家戦略と戦うために、いくらかの展望が必要かと思います。反原発の基本姿勢が大切なのであれば、核廃棄物の地上管理や南海地震の可能性のことなどあまり議論すべきではないと、私は思います。それでは核廃棄物を地上で管理すればいいのか、地震が来そうにない土地であればいいのか、ということになってしまいそうです。それは条件によっては認めるという方向を示すことであり、本来の反対運動が後退していくのでは、と心配します。地球を放射能汚染から守るのに、「絶対反対」以外の立場はないと思います。
 
 放射能の危険性は、あまりに軽視されすぎています。これまで、日本の国家権力に「国家100年の大計」があったかというと、そういう過去は思い出せません。国家指導者は、いつも近視眼的で、平気でウソをつくので、条件闘争はいずれ粉砕されていく運命です。原子力発電を「大海の海水で、大気で薄められるので、放射能の害はありません」と平気で言う人たちが相手です。

 「再考」

 5年ほど前、高知市近郊の農家から、安重根(1909年、中国・ハルピン駅頭で伊藤博文を銃殺し、3ヵ月後に処刑された)の書が出てきました。その時、私は郷土史家の公文豪氏に案内されて、書を見に行きました。私は博識な公文氏に質問し、語られるエピソードの数々に深い感銘を受けました。私が公文氏から聞き出したことの要点は以下のようなことでした。

 「この農家の先祖は、安重根が収監されていた刑務所の看守でした。看守だけではありません。安重根裁判の関係者は裁判官から弁護士にいたるまで、高知県人が多かったのです。どうしてか。明治政府が、薩長藩閥だったからです。土佐の出身者は、内地では薩長出身者に頭が上がらなかったので、外地に活躍の舞台を求めていたのです。彼らは、伊藤博文を銃殺した安重根の心を思って、協力して、彼を無罪にしようと奔走しました。一刻も早く処刑したかった本国政府との間に立って、彼らは、安重根を守ろうと動いたのです。その安重根は、処刑されるまでの3ヶ月間に求められるまま300枚の書を残したと言われています。高知県には、まだまだ安重根の書が眠っていると思います。看守の家に、このように保存状態のいい書が残っていることは、彼が、彼を裁いた人たちにいかに尊敬されていたかの証だと思います。紙は最高級の和紙が取り寄せられたと聞いています」

 実行犯の小学校教師・安重根は、10人の仲間に支えられて伊藤博文暗殺を決行しました。同志たちは、断指同盟といって、指を切り落とし、互いの連帯感を確認していたと言います。はたして安重根の黒い手形には、たしかに1本指が欠けていました。重ねると、小柄な私の手より小さな手でした。

 私は、土佐の自由民権運動も薩長藩閥の裏返しかと思いますが、その反骨精神は、今も高知県人の中に脈々と流れているのだと思います。私が語呂合わせのつもりでつくった「反核も土佐の山間より」のコピーが、実際にそうなって、歴史というものを軽んじていた自分に気づかされました。

 4月17日、東洋町の町長選に沢山保太郎氏が立ち上がった日、私はブロック塀の上に立って、選挙戦を見守っていました。反核の気迫に満ちた人波を見下ろしながら、私は、沢山さんの圧勝を確信していました。

 安倍晋三首相のルーツは、伊藤博文と同じ長州です。「歴史をなめたらいかんぜよ」

narijun1 at 20:57|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 環境 

39 東洋町日誌(1)

 今年の2月のある日、県外で大学院生をしている娘から電話がかかってきました。「お父さん、東洋町は、どうなっちゅうが?」 その時、新聞社受験を目前にしていた娘に私がどう答えたか憶えていません。しかし、その後、私が娘に伝えた東洋町情報がどのようなものであったかは、その記録が残っています。それを再読し、再考することで、東洋町で1月25日(文献調査応募の日)から5月20日(全会一致で条例成立の日)の間に何が起こっていたのかを振り返ってみたいと思います。

「2月24日 『六ヶ所村ラプソディー』を見る」

 昨日、高知市で、鎌仲ひとみ監督の『六ヶ所村ラプソディー』を見ました。もちろん、反対派の企画した上映会です。期待していたよりはるかに優れたラプソディー(叙事詩)に仕上がっていました。監督は、学生時代に『最後の丸木舟』(トカラ列島)というドキュメント映画を見て、この道に入ったのだそうです。私もその映画は見ていたので、なるほどな、と思いました。叫ぶことなく、淡々と事実に語らせる手法だったのです。

 冒頭、工業団地を作るための用地買収が終わったところで、いかなる工場もやって来なかったというエピソードが紹介されました。住民は核燃料再処理工場がやって来るとは露知らず、すでに土地を売却してしまっていたのです。今回の東洋町の高レベル放射性廃棄物最終処分施設への「応募」にもそんな罠が仕掛けられているのでは、という予感がしました。国が、住民の反対運動をいかに巧みに、いかに陰湿に、いかに強引に潰していったかもよくわかりました。

 また、迫り来る放射能汚染のために、これまでどおり自然とともに生きていこうと固く決意していた人たちの生活が破壊されつつある現実が、ひしひしと伝わってきました。

 監督自らが、知的で明瞭な声でインタビューもナレーションも引き受けています。「知識のない声優には任せたくありませんでした。私にしかできないと思いました」と自負を語っていました。実は、カメラも自ら回していたようです。推進派を撮ることになったとき、カメラマンが「推進派は 撮りたくない」と言い出し、衝突したらしいのです。それで、カメラも自ら回したのだそうです。「途中からカメラワークがおかしいのに気づきませんでしたか」と笑っていましたが、気づきませんでした。

 鎌仲ひとみ監督が、『東洋町ラプソディー』を作り始めることにならなければいいがな、と思いました。

 「再考」

 実は、鎌仲ひとみさんとは、大学もクラブ活動も同じでした。鎌仲さんが10年ほど後輩なので、初対面でしたが、映画上映後20分ほど話しました。共通の知人がいて、会話がとても盛り上がりました。私が、「日本人の抵抗精神は、江戸時代の農民一揆の折に、そのDNAを失ってしまったのではないか」と言うと、鎌仲さんが、「そんなことないです。現に、高知の人はこんなに元気じゃないですか」と反論しました。今にして思えば、鎌仲さんのその認識は正しかったということになるのでしょうか。

 私は、東洋町でこの『六ヶ所村ラプソディー』を上映すれば、状況が変えられるように思い、しつこくそう働きかけました。しかし、東洋町内部には、私には理解しがたい事情があったようで、「混乱を避けるために」未だにそれは実現していません。今となっては、もうその必要もないでしょう。


 2007年5月20日 (日) 東洋町臨時議会において全会一致で可決成立した「東洋町放射性核物質(核燃料・核廃棄物)の持ち込み拒否に関する条例」の全文です。

【目的】
第1条 この条例は、東洋町非核平和都市の宣言に関する決議(昭和61年)の精神に則り、すべての放射性核物質及び放射能による災害から町民の生命及び生活を守り、次世代を担う子供達に美しい自然と安心して暮らせる生活環境を保護し、東洋町及び周辺地域の発展に資することを目的とする。

【定義】
第2条 この条例において、「放射性核物質」とは、原子力発電所など原子力関係施設の核燃料、及びそれらから生ずる使用済み燃料など全ての放射性廃棄物を指す。
2 この条例において「調査等」とは、東洋町において(1)前項原子力発電所等「核燃料」を使用する施設、(2)「放射性物質」の収容施設等、の建設に関する調査及び検査、宣伝等を指す。

【基本施策】
第3条 東洋町は、町地域内においていかなる場合も放射性核物質の持ち込みを禁じ、またそれを使用したり、処分したりする施設の建設及びそのための調査等を拒否する。

【立場の表明】
第4条 東洋町は、第1条の目的を達成するために、国及び関係機関に対して、前条基本施策を通知して、その立場を明らかにする。

【権限】
第5条 東洋町は、第3条に規定する事項に関する計画等があると疑われる場合においては、関係機関及び関係施設に対して関連情報の提供を求め、立ち入り検査を行なうことができる。
2 東洋町は、この条例に違反した原子力関連施設の責任者に対し、調査及び施設の供用及び操業の即刻停止を求めることができる。

【町民の義務】
第6条 東洋町住民は、この条例の趣旨を守り、核物質・放射性廃棄物等の町内持ち込みをさせないよう努めなければならない。

【町長らの義務】
第7条 町長、副町長、教育委員、農業委員、町議会議員、町職員ら公務員はこの条例の趣旨を守り、第2条に係る東洋町への放射性核物質の情報については速やかに町民、近隣市町村、高知、徳島両県知事に知らせ、これを隠してはならない。

【委任】
第8条 この条例に定めるもののほか、この条例の施行に関し必要な事項は、別に規則で定める。

 附則
この条例は、公布の日より施行する。



narijun1 at 20:44|PermalinkComments(1)TrackBack(0) 環境 

2007年05月16日

38 一抹の不安

 インターネット新聞『JanJan』に「反核町長からオンブズマン町長へ」という作品を投稿しました。東洋町の沢山保太郎町長の現在をインタビュー記事にしたものです。私としては完成品のつもりで送ったのですが、タイトルは変えられ、内容も改変されています。改悪とはいえないけれど、編集部のオンブズマン町長への期待が私よりずっと大きく、トーンがかなり高くなっています。
 「オレはそこまで言ってないぞ」

 改変されたところではないのですが、読者から質問があったので、お答えします。

> ただ、最後の「一抹の不安」の根拠をお知らせいただけると幸いです。

 あまり深く考えているわけではないのですが、およそこういう不安です。

 今回は、国や前町長の失点がムチャクチャ大きかったので、ダブルスコアで圧勝したけれど、昨年末の室戸市長選では、沢山さんはダブルスコアで負けているのです。そのことを考えると、核廃棄物拒否条例制定後の5月20日以降は、徐々に沢山支持は逆転していくと考えています。改革に大鉈を振るうつもりのようですから、支持しなかった30パーセントは、完全に抵抗勢力に回ります。生活がかかっているから、死に物狂いの抵抗勢力です。それに、東洋町には年配の人が多いから、選挙のとき沢山派だった一般町民の頭もおよそ保守的と考えなければなりません。

 沢山さんには、少なくとも2期は東洋町の町長を務めて欲しいと思っています。沢山さんにも言ったのだけれど、信頼を勝ち取るまでは、むやみに敵を増やさないようにしないといけません。リコール運動などが起きないようにしないといけません。沢山さんの置かれた微妙な立場を考えると、改革のさじ加減がとても難しいと思うのです。沢山さんの思想はおよそ正しいと思うけれど、その実践には、相手の出方を覗わなければならないということ、沢山さんは、そのことをあまり考えていないように思いました。教育委員が教育長に続いて4人とも辞めたけれど、そういうことばかりやっていたら、そばに人がいなくなってしまいます。町役場が機能しなくなってしまいます。前町長は、10年間も町役場を支配してきたのだから、そう簡単に沢山ペースが確立できるわけがありません。改革を急ぎすぎると、「オマエには、もう用はない」と言う連中が出てきそうな予感があります。

narijun1 at 10:57|PermalinkComments(4)TrackBack(0) 政治 

2007年05月15日

37 反核町長からオンブズマン町長へ

 4月22日の東洋町・町長選挙で有効票の70%以上の支持を得て当選した沢山保太郎氏を東洋町に訪ね、話を聞きました。高知県では、町長選出馬前に市民オンブズマンとしても活躍してきた沢山さんに注目し、住民参加と情報公開を重視する「オンブズマン町長」としての活躍に期待が集まっています。

 高知シティFMの収録に同行したときの私の取材メモから、主なやりとりをご紹介します。

―今回の核廃棄物処分場をめぐる町長選挙でのダブルスコア以上の圧勝をどのようにとらえているか。

 原子力発電環境整備機構は、東洋町の奥座敷にまで入り込んでいた。本当に苦しい選挙だった。しかし、各地域の女性たちの力で、状況をくつがえした。とても意義深いことだったと思う。あのリーダーたちの真摯な態度を今後の町づくりに生かしていきたい。

―オンブズマン町長として、東洋町をどのような町にしたいか。

 私は、民主主義を事業としてとらえている。民主主義は得をするということを、町民にわかってもらいたい。情報を公開し、住民参加を進めれば、町は元気になっていくと思う。町議会を土日に開くことで、町民に公開したい。地域評議会に予算をつけ、自治体制を強化したい。

―町役場内をどのようにしたいか。

 法令規則を守らせ、町行政の透明性を高めたい。町役場に入ってわかったことだが、補助金などを使っているのに、領収書が1枚もなかったりする。前町長時代の驚くべき実体がある。たとえば、町経営の駐車場は、年に1000万近い収入があるのに、町の収入になっていない。維持管理は町がしているのに、収入は特定の団体が独占している。そういう不正は、現在どんどん改めているところだ。

―最近、教育委員5人ともが辞めたというニュースがあったが、どうしてか。

 教育長は、前町長と一体化していたので、予想はしていた。他の4人は、私が「今後は、教育行政の執行官としてやるべきことをやって欲しい」と話したら、「自分たちにはそんな力はありません」と言って、そろって辞めた。現在、公募制にし、意欲のある人が5人応募してきているので、困らない。

―具体的にどのようにして町を活性化していくのか。

 海水浴場のある白浜地区に、2年以内に「道の駅」をつくりたい。その方向で具体的に動き始めている。町内には大きなスーパーがないので、観光客だけでなく、地元町民にも利用してもらい、町内のあらゆる生産活動のてこ入れをしたい。農地の7割が耕作放棄地なので、それを生かして「菜の花プロジェクト」をやりたい。町が美しくなるだけでなく、蜂蜜、食用油、石鹸などが生産できるようになる。

―大阪守口市に東洋町出身者が多いと聞くが、そことの合併を考えているか。

 守口市に限らないが、数万とも言われる東洋町の流失人口は大阪に多いので、彼らとの経済的な結びつきを強化したい。

―東洋町の豊かな自然環境を生かした町づくりをどう考えているか。

 大人でも子供でも、都会の人にもっと来て欲しい。そのためには、ITなどの先進的な設備も整えたい。現在の商工会の活動は、イベント屋のようなことしかしていない。ばら撒きでなく、もっと地元に金の落ちるような地に足の着いた生活改善の企画を考えたい。現在、農産物、果物、魚介類などを分散して売っているので、一次産品を一箇所にまとめて売りたい。また、大阪方面に販売の拠点を持ちたいと考えている。

インタビューの感想

 実質的な住民投票とも言える町長選挙で時間を巻きもどし、前町長の「応募」を白紙撤回させた沢山保太郎氏です。彼だけの力ではありませんが、彼の力量によるところが大きいと私は考えています。この5月20日(日)には、臨時議会で「核廃棄物拒否条例」を制定する予定になっており、今回はたぶん成立するだろうと言われています。

 とすると、反核町長としての彼の役割はもう終わってしまいます。口の悪い人は、「もういつ辞めてもらってもいい」などと言います。東洋町の内外でそういう声を耳にしています。しかし、私は、沢山氏には今後、住民参加と情報公開を重視する「オンブズマン町長」として活躍してもらいたいと思っています。これも日本国のあり方に関係していくことでしょう。

 これまで行政を監視、批判してきた腕利きのオンブズマンが、行政の権力を握ってしまったのです。話を聞くと、彼には、政治哲学もあり、長年温めてきた具体的な行政プランもあるようです。しかし、反核町長としての役割を終えた彼を、選挙のとき支持した人たちがこの先もなお支持し続けるのかどうか、私には、一抹の不安が残りました。

narijun1 at 15:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 環境 | 政治

2007年05月11日

36 嵐の後の東洋町

 土佐の高知に「核のゴミ埋め捨て」騒動が表面化したのは、昨年9月のことです。まず津野町では、周辺自治体、住民による考える会、地元長老たちの働きかけによって10月30日、町長が誘致問題の終息宣言を出しました。

 関連サイト:四万十源流と高レベル放射性核廃棄物最終処分場、など
 JanJan関連記事:高レベル放射性廃棄物処分場誘致の声が各地であがるわけ

 一方、東洋町では1月に町長の田嶋裕起氏が独断で「応募」しました。紆余曲折の後、東洋町では推進派と反対派が町長選挙で決着をつけるということになりました。4月22日の町長選挙は、投票率が89.26%と町民の強い関心を集めました。投票の結果は、反対派の沢山保太郎氏が有効投票の70%を超える得票を確保し、反対派町長が誕生しました。(関連サイト:東洋町長選挙(ザ・選挙)、など)

 そして東洋町は23日に、原子力発電環境整備機構(原環機構)に文献調査への応募を撤回すると申し入れました。これをうけ25日、原環機構は経済産業省に本年度事業計画の変更を申請、26日に認可されました。高レベル放射性廃棄物の最終処分場選定に向けた高知県東洋町での文献調査実施は、白紙撤回となったのです。(関連サイト:高知・東洋町の調査断念を認可 国、原発ごみの処分場(中国新聞)、など)

 ところで、私は、1991(平成3)年にIターンで大阪から高知に移り住んできた者です。自然の中で子育てをしたいという思いがありました。その際、最重要チェックポイントは「原発」でした。原発はかって窪川町に来かかったことはありましたが、きわどいところで追い払っていました。私は、原発のない、海や川のきれいな高知を子供たちのふるさとに選びました。

 今回の高レベル放射性廃棄物処分場への「応募」が現実化したとき、私は少なからずうろたえました。自分に何ができるだろうか、と頭をひねりました。津野町での反対運動の事務局長は私の友人でした。また、高知県で反原発の運動を徹底して展開している女性は、私の映画友達でした。その他、友人の多くがこの反対運動にかかわっていきました。情報がどんどん入ってきたので、我知らず、私も渦中に巻き込まれていきました。

 私は4月17日に4人の友人たちと東洋町の町長選挙の応援に行きました。「応募」撤回のために立候補した沢山氏を側面から支えるためでした。

 4月22日の町長選挙の当日、反原発ブログ「それがたまるか!!」の管理人から「東洋町に行かないですか?」という誘いがありました。私は、仕事の都合で行けませんでしたが、彼女が涙にむせびながら写したという「当選確実」ビデオを見て、私も泣きそうになりました。今回の「東洋町問題」は東洋町の外に住む高知県人にとっても、とても巨大な山でした。原発のこと、放射能のこと、国家権力のことを考えるいい機会になりました。

 選挙期間中、それを知ろうとする電話がよくかかってきたそうですが、沢山氏はどこで寝ているか明かされませんでした。殺人予告が何度も入っていたからです。その予告は、しばしば公然とジャーナリストたちの前でもなされました。沢山氏は、腹に本や新聞を巻きつけて街頭に立ち、「関が原の合戦であります。天下分け目の戦いであります」と腹から声を絞り出していました。

 東洋町には、「死にかまん(死んでもいい)」と言える人がいなかったのです。それで、反対運動の切り札として室戸市から沢山氏が呼ばれたのです。沢山氏の人生にとっても、それは関が原の合戦だったようです。私は、高知県民は沢山氏には足を向けて寝られないと思うのですが、そう感じている人は他にもいて、今、東洋町の今後のために片肌脱ごうという人が大勢名乗りをあげています。

 私は5月9日に、今度は1人で、嵐の去った東洋町に行きました。生見海岸では、ゴールデンウィークは終わったというのに、100人ほどのサーファーが波とたわむれていました。白浜海水浴場には、水平線を見つめる若い女性のお遍路さんの姿がありました。甲浦漁港では、係留中の漁船にアオサギがとまっていました。

 嵐の後の静けさが、東洋町に流れていました。

narijun1 at 06:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 環境 | 政治

2007年05月08日

35 花の下にて 春死なん

 高知県の三大祭の一つに数えられる秋葉祭は、毎年2月11日と決まっています。私は、その日、仁淀川町・別枝の旧家・中越家の庭で桜の老木にもたれかかって、子供たちの「練り」を見ていました。時代絵巻に飽きて、ふと見上げると、「しだれ桜」の老木は青空に向かって、小枝を広げていました。写真1がそのときの姿です。私は、春にはこの木はどんなになっているのだろうか、と思いました。


 写真1.仁淀川町・別枝の旧家・中越家の庭にそびえる「しだれ桜」(2月11日)。

 写真2.写真1の「しだれ桜」が開花した姿 西行はこんな桜木の下で自らの生涯を閉じたのではないか。

 写真3.仁淀川町・大崎の樹齢500年といわれる「ひょうたん桜」。


 春になって、もう1度仁淀川町を訪ねたとき、「もう1週間早かったらね」と言われましたが、私は満足していました。写真2がそのときの「しだれ桜」の姿です。

 「願わくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」という西行の歌を、そのとき、私は思い出してしまいました。かって西行の死体を見下ろしていたのは、こんな1本立ちの老木ではなかったでしょうか。私は、満開の桜花で自らの死を飾った西行のこころを考えてみました。そして、西行は、生きとし生けるものの輪廻転生をこの歌に詠んでいたのではないか、と思い至りました。

 「春死なん」というのは、「春死のう」という意志です。彼は意志の力で望みどおりの死を遂げたのです。たぶん、断食による、緩慢な自殺だったのでしょう。

 西行は、23歳まで佐藤義清という名の文武両道に優れた武士でした。その彼が突然、妻子を捨てて出家したのです。・・・。普通の人はそういうことはしません。そして、その50年後、西行は、自らの最期を桜花で飾ったのです。・・・。普通の人はそういうことはしません。

 同じ仁淀川町・大崎に、樹齢500年の「ひょうたん桜」があります。別枝からの帰りに大崎に立ち寄ったとき、写真3のような光景を見て、思わずシャッターを切りました。



narijun1 at 09:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 人生 

2007年05月05日

34 紙のこいのぼり

 高知県には、東から物部川、仁淀川、四万十川の3つの大きな川が太平洋に流れ注いでいます。高知市中心部から西に30分ほど車を走らせると、国道33号線は仁淀川橋にさしかかります。橋の上から見下ろすと、仁淀川いっぱいに広がって「紙のこいのぼり」が元気よく泳いでいます。

 色鮮やかで、木々と清流に映え、なかなかスケールの大きな眺めです。こいのぼりは長さ1.5〜10m、不織布で作られています。川中の水中に250匹、川岸に100匹、計350匹が泳いでいます。

 紙の町・いの町のGW期間中の一大風物詩です。しかし、平成7年から始まったこの観光イベントにも問題がないわけではありません。仁淀川漁協の組合長に聞くと「稚鮎の遡上の邪魔になるろうね」とのこと。また、川岸で作業している人に聞くと「イベントが終わり、水中から引き上げる時、だいぶ色が落ちちゅう」とのこと。つまり、染料が溶け出して下流に流れているのです。とはいえ、川の色を白く変えんばかりに流れ込む、製紙工場の廃液と比べれば、そんな汚染はゼロに等しいのですが……。

 5月3日から5日まで、仁淀川橋周辺には人の波が押し寄せます。



narijun1 at 16:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0) 環境 

2007年05月01日

33 新堀川を道路にするな!

 スズキ、ボラ、ウナギ、アカメ、ヒイラギ、チヌ、シマイサキ、カワアナゴ、ウロハゼ、ゴクラクハゼ、ヒナハゼ、ヨウジウオ、ノコギリガザミ(カニ)、シオマネキ(カニ)、テナガエビ、スジエビ、以上16種をこの4月29日に行った魚類相調査で確認しました。場所は、高知市の中心部を流れる新堀川で、4人で2時間ほど手網ですくっただけです。高知県では、県庁所在地のど真ん中で、チヌやスズキやアカメが釣れるのです。

 シオマネキは絶滅危惧種、アカメは高知県レッドデータブックの絶滅危惧IA類、カワアナゴは同、準絶滅危惧種です。また彼らと分布域が重なることもある、低塩分の汽水域に典型的に生育する海草コアマモも貴重種です。かくも貴重な生き物たちが、街中の新堀川に生息しているのです。

 この魚類相調査は、「浦戸湾を守る会」が、高知大・理学部・海洋生物学研究室の協力を得て行いました。目的は、新堀川にふたをして道路にしようとする県の土木工事に反対する根拠を明確にするためです。「浦戸湾を守る会」というのは、かつて「生コン事件」を起こし、その名を全国に知られた環境保護団体です。直接行動によって、高知パルプを高知県から追い出し、高知市民を大気汚染と水質汚染から救ったのです。この調査は、「生コン事件」後36年を経て、ようやくよみがえってきた多様な生き物たちを守るための調査だったのです。

 新堀川は、1625年、土佐の材木商たちが金を出し合って作った物流のための運河です。新堀川は、江戸時代を通じて、土佐藩の台所を支えてきたのです。界隈は、土佐藩の都市計画によって町人と下級武士たちの町となっていきました。

 幕末に際立った動きをした土佐勤皇党の理論的なバックボーンとなった岡本寧浦の私塾は、新堀川のほとりに今もその石碑をとどめています。当時、その陽明学の私塾に通った門下生たちはほとんどが下級武士で、その数1000人といわれ、土佐勤皇党の層の厚さが偲ばれます。また、坂本龍馬、中岡慎太郎、岡田以蔵らを世に送り出した武市瑞山の剣道場も新堀川のほとりにありました。彼らは練習の後、新堀川で談笑しながら汗を流したのかもしれません。

 また、明治の思想家、中江兆民が少年の頃、恐る恐る塀ごしに切腹を見たのもこの界隈です。ゆっくりと歩けば、街のあちらこちらに石碑のある歴史の町なのです。

 「高知」は「河内」に由来しています。今手元に明治26年の『高知市街地図』がありますが、その町名が土佐藩の都市計画の歴史を物語っています。とりわけ、橋と名のつく地名が多く、それが文字通りの橋であったことがうかがえます。しかし今、川を埋め、川にふたをし続ける積年の土木行政によって、「河内」の歴史は滅びようとしています。そうした中で、今も高知市のど真ん中を流れ続け、多様な生き物を育む新堀川はいわば歴史遺産でもあるのです。

 日本の歴史を命がけで切り開いた男たちは、少年の頃、新堀川で、シオマネキをつかまえ、アカメを釣ったのかもしれません。そんな新堀川を後世に残したいと思うのは、私だけなのでしょうか。

 今となっては、新堀川は、それ自体が「河内」の歴史なのです。

narijun1 at 12:41|PermalinkComments(0)TrackBack(1) 新堀川 

2007年04月25日

32 甘利経産相はあんまりです

 「誤解したまま賛否が諮られると、当然こういう結果が出る」 4/22の東洋町の町長選挙の結果を受けて、甘利経産相はこうコメントしたそうです。推進派、反対派両方の学者を招いて、真摯に学習した、東洋町の選挙民を愚弄する発言だと思います。また、大臣職にある人が自分の気に食わぬ選挙結果を認めようとしないのは、見苦しく、選挙制度そのもの、議会制民主主義の根幹を揺さぶる問題発言だと思います。

 甘利経産相は、「(処分場は)保管施設で、安全性は120%確保されている」とも述べています。人類にとって未知の高レベル放射性廃棄物の処分方法がどうして安全性120%なのでしょうか。多くの良心的な学者が、その危険性について警鐘を鳴らしています。科学的態度というものを持たない人が、原子力行政のトップにいるのは、とても信じがたいミス・キャストです。

 投票率は89%あまり、沢山氏の得票は有効投票の70%を超えていました。私は、東洋町まで選挙戦を見に行きましたが、すべての点で、沢山氏が田嶋氏を政治家として圧倒しているように感じました。処分場をめぐる住民投票以外の点でも、東洋町のリーダーとして沢山氏が支持されていたのだと思います。
 
 最近、原子力と民主主義は両立不可能なのではないかと思えるのです。原子力は危険すぎるのです。それがゆえに、沢山氏は、原子力を捨てるべきだと考え、国は民主主義を捨てるべきだと考えているように思えます。東洋町をめぐる国側の一連の言動は、このことを物語っているのではないでしょうか。

narijun1 at 09:38|PermalinkComments(0)TrackBack(1) 環境 

2007年04月23日

31 原子力と民主主義

 「東洋町の戦い」は、反核の圧勝に終わりました。沢山さんは、いつも硬い表情の人ですが、当選のとき、万歳の両手に花束を持って、幼児のように表情を崩していました。出番のめぐってきた沢山さん、おめでとうございます。思う存分、実力を発揮してください。 

 町選管最終発表(開票率100%)による最終得票数は、沢山保太郎さん1821票(得票率70.5%)、田嶋裕起さん761票(得票率29.4%)でした。有権者数2934人、投票率89.26%(2619人)、投票総数2619票、有効票2582票、無効票37票でした。
 
 しかし、昨日の沢山圧勝を受けての、国の反応がかわいくありません。「沢山さん、おめでとうございます」くらいのことを言って雅量を示すべきなのに、「残念、まだ努力します」みたいなことを言っております。最近の日本国は、どこまで気色悪いのでしょうか。今日から始まる(沢山VS国)が見ものですね。沢山さんは、国家権力の手法を熟知しているわけですから、・・・。

 そもそも、国の「東洋町でいきたい」という表現がおかしかったです。東洋町でいいのかどうかを調べるのが「調査」のはずだから、「東洋町を調べたい」が正しい表現です。最初から、国は、住民の意思は一顧だにしていなかったし、今もしていないようです。国の原子力行政は、おかしいことのオンパレードです。どうしてか? それは、原子力というものが内包している「危険」に起因するのだろうと思います。原子力行政は、「危険」をごまかさなければ、推進できない宿命なのだと思います。

 昨日、橋本知事は、「・・・原子力は、一般の人にはわからない・・・」とコメントしたけれど、そんなことはありません。時々、わかっていないことをわからせてしまうのは、あなたです。? 「東洋町の戦い」で勝利したのは、わかっていた一般の人です。原子力行政を民主的に進めるということは、そもそも不可能なのだということを、オピニオンリーダーとして、橋本知事もいい加減にわからなければいけません。原子力行政を批判するとき、その道具として、お経のように、「民主主義」を唱えてはなりません。ないものねだりだからです。

 危険すぎる原子力は、民主主義とは両立しないのです。それがために、沢山さんは、原子力を捨てるべきと考え、国は、民主主義を捨てるべきと考えているようです。日本国の未来のために、どちらを捨てるべきか、橋本知事もよーく考えてみてください。はい。


narijun1 at 11:06|PermalinkComments(1)TrackBack(0) 環境 

2007年04月20日

30 「東洋町の戦い」

 4/17(火)は、各界のVIPの中に紛れ込んで、東洋町を見てきました。VIPとは、先日の県議選でトップ当選を果たしたファーマー土居さん、原発さよならネットワーク高知の外京ゆりさん、市民オンブズマンの窪則光さん、ラジオ・インタビュアーの西村健一さんでした。かなり支離滅裂な顔ぶれですが、東洋町を核のゴミ捨て場にしてはなるまい、という思いを共有して、早朝5時に集まった面々でした。

 東洋町は、今や残り少なくなった「美しい日本」でありました。東洋町に近づくにつれ、つづらおりの海岸道路の前方を走る車はなくなり、対向車とすれ違うこともほとんどなく、お遍路さん以外の人とすれ違うこともなくなりました。過疎が護った「美しい日本」でありました。青い空の下、碧の海がどこまでも広がり、侵食された大小の奇岩が目を楽しませてくれました。どこの海岸にもあるものと思っていた波打ち際のゴミは見当たらず、浦島太郎と出会えそうな砂浜が残っていました。こんなに美しい海岸線を放射能で汚してはなるまい、と強く思いました。これだけの海岸があるなら、地に足の着いた観光産業が可能であろうと思いました。

 TVでお馴染みなので、しばしば女性に取り囲まれたファーマー土居さんは、沢山さんの応援弁士として大活躍でした。土佐弁で、生真面目な沢山さんの硬さを和らげる役割を果たしました。「県議会はスーツ着用で慣れちょかないかんき」ということで、スーツ姿でした。辻ごとに切り口を変えて、明確に反対を訴えていきました。話題は豊富で、的確なエピソードが泉のように湧いてきました。

 日本史専攻だったという沢山さんは、ある街角での演説で、この選挙戦を「関が原の戦い」と位置づけていました。後の世では、「東洋町の戦い」という歴史用語が残っているのかもしれません。ヘーゲルを愛読している沢山さんの選挙演説には、隠しきれぬ教養がほとばしり、毎回なかなか味わい深いものがありました。

 いわく、「私は、高レベルも中レベルも低レベルも、反対です」「補助金は、補助ではなく、買収といったほうがいい」沢山陣営は、本人はもちろん、応援の方々の言動も確信に満ちていて、明るく、とても気力が充実しているように思いました。おまけに、「でこぽん」のお土産までいただいたので、沢山支持の思いをさらに強くしました。

 4/17(火)午後7時52分、長崎では、反核の立候補者が「暗殺」されました。アメリカ政府や日本政府を鋭く批判していた前市長です。1度も会ってない人を殺せるのは、「暗殺者」です。警察は、個人プレイとして扱おうとしていますが、動機が軽すぎて、状況証拠に不自然さが感じられます。背後関係があるように思います。反核は命がけということなのかな、と思いました。

narijun1 at 07:31|PermalinkComments(1)TrackBack(0) 環境 

2007年04月19日

29 「助け合えば、幸せに生きていける」

 「土佐産商」問題の土佐町、「核廃」問題の東洋町の町長選挙投票日が迫ってきましたが、争点は似ていると思います。争点は、国によって仕組まれた地方の貧困をいかにしのぐか、ということかと思います。

 今日の高知新聞には、東洋町・町長候補者の沢山さんへのインタビュー記事がでています。受け答えに含蓄があり、地方政治を考える人には、参考になると思います。中でも、「地方交付税を大事に使っていけば、やっていけない状況ではない。所得は少なくともみなが助け合えば、幸せに生きていけると考えた方がいい」というところが、感動的です。断定せず、含みを持たせているところもにくいです。それにしても、「みなが助け合う」とは、なんとクラシックな生活スタイルの提唱でしょうか。しかし、疲弊する地方が繁栄する大都市に勝てる唯一の武器は、この「みなが助け合う」ことではないのか、という気がします。

 先日東洋町で耳にしたのですが、沢山さんの応援演説をした長老が、「核廃棄物を受け入れれば、東洋町も廃棄されてしまう」と言っていました。ことの本質を突いていて、鋭いと思いました。その長老の意見に耳を傾け、金で魂を売ることなく、豊かな自然環境を「みなが助け合う」ことによって、死守して欲しいものです。

 自立の志なくば、地方は廃棄されてしまう時代なのです。


narijun1 at 15:06|PermalinkComments(0)TrackBack(1) 政治