2007年05月11日
36 嵐の後の東洋町
土佐の高知に「核のゴミ埋め捨て」騒動が表面化したのは、昨年9月のことです。まず津野町では、周辺自治体、住民による考える会、地元長老たちの働きかけによって10月30日、町長が誘致問題の終息宣言を出しました。
関連サイト:四万十源流と高レベル放射性核廃棄物最終処分場、など
JanJan関連記事:高レベル放射性廃棄物処分場誘致の声が各地であがるわけ
一方、東洋町では1月に町長の田嶋裕起氏が独断で「応募」しました。紆余曲折の後、東洋町では推進派と反対派が町長選挙で決着をつけるということになりました。4月22日の町長選挙は、投票率が89.26%と町民の強い関心を集めました。投票の結果は、反対派の沢山保太郎氏が有効投票の70%を超える得票を確保し、反対派町長が誕生しました。(関連サイト:東洋町長選挙(ザ・選挙)、など)
そして東洋町は23日に、原子力発電環境整備機構(原環機構)に文献調査への応募を撤回すると申し入れました。これをうけ25日、原環機構は経済産業省に本年度事業計画の変更を申請、26日に認可されました。高レベル放射性廃棄物の最終処分場選定に向けた高知県東洋町での文献調査実施は、白紙撤回となったのです。(関連サイト:高知・東洋町の調査断念を認可 国、原発ごみの処分場(中国新聞)、など)
ところで、私は、1991(平成3)年にIターンで大阪から高知に移り住んできた者です。自然の中で子育てをしたいという思いがありました。その際、最重要チェックポイントは「原発」でした。原発はかって窪川町に来かかったことはありましたが、きわどいところで追い払っていました。私は、原発のない、海や川のきれいな高知を子供たちのふるさとに選びました。
今回の高レベル放射性廃棄物処分場への「応募」が現実化したとき、私は少なからずうろたえました。自分に何ができるだろうか、と頭をひねりました。津野町での反対運動の事務局長は私の友人でした。また、高知県で反原発の運動を徹底して展開している女性は、私の映画友達でした。その他、友人の多くがこの反対運動にかかわっていきました。情報がどんどん入ってきたので、我知らず、私も渦中に巻き込まれていきました。
私は4月17日に4人の友人たちと東洋町の町長選挙の応援に行きました。「応募」撤回のために立候補した沢山氏を側面から支えるためでした。
4月22日の町長選挙の当日、反原発ブログ「それがたまるか!!」の管理人から「東洋町に行かないですか?」という誘いがありました。私は、仕事の都合で行けませんでしたが、彼女が涙にむせびながら写したという「当選確実」ビデオを見て、私も泣きそうになりました。今回の「東洋町問題」は東洋町の外に住む高知県人にとっても、とても巨大な山でした。原発のこと、放射能のこと、国家権力のことを考えるいい機会になりました。
選挙期間中、それを知ろうとする電話がよくかかってきたそうですが、沢山氏はどこで寝ているか明かされませんでした。殺人予告が何度も入っていたからです。その予告は、しばしば公然とジャーナリストたちの前でもなされました。沢山氏は、腹に本や新聞を巻きつけて街頭に立ち、「関が原の合戦であります。天下分け目の戦いであります」と腹から声を絞り出していました。
東洋町には、「死にかまん(死んでもいい)」と言える人がいなかったのです。それで、反対運動の切り札として室戸市から沢山氏が呼ばれたのです。沢山氏の人生にとっても、それは関が原の合戦だったようです。私は、高知県民は沢山氏には足を向けて寝られないと思うのですが、そう感じている人は他にもいて、今、東洋町の今後のために片肌脱ごうという人が大勢名乗りをあげています。
私は5月9日に、今度は1人で、嵐の去った東洋町に行きました。生見海岸では、ゴールデンウィークは終わったというのに、100人ほどのサーファーが波とたわむれていました。白浜海水浴場には、水平線を見つめる若い女性のお遍路さんの姿がありました。甲浦漁港では、係留中の漁船にアオサギがとまっていました。
嵐の後の静けさが、東洋町に流れていました。
関連サイト:四万十源流と高レベル放射性核廃棄物最終処分場、など
JanJan関連記事:高レベル放射性廃棄物処分場誘致の声が各地であがるわけ
一方、東洋町では1月に町長の田嶋裕起氏が独断で「応募」しました。紆余曲折の後、東洋町では推進派と反対派が町長選挙で決着をつけるということになりました。4月22日の町長選挙は、投票率が89.26%と町民の強い関心を集めました。投票の結果は、反対派の沢山保太郎氏が有効投票の70%を超える得票を確保し、反対派町長が誕生しました。(関連サイト:東洋町長選挙(ザ・選挙)、など)
そして東洋町は23日に、原子力発電環境整備機構(原環機構)に文献調査への応募を撤回すると申し入れました。これをうけ25日、原環機構は経済産業省に本年度事業計画の変更を申請、26日に認可されました。高レベル放射性廃棄物の最終処分場選定に向けた高知県東洋町での文献調査実施は、白紙撤回となったのです。(関連サイト:高知・東洋町の調査断念を認可 国、原発ごみの処分場(中国新聞)、など)
ところで、私は、1991(平成3)年にIターンで大阪から高知に移り住んできた者です。自然の中で子育てをしたいという思いがありました。その際、最重要チェックポイントは「原発」でした。原発はかって窪川町に来かかったことはありましたが、きわどいところで追い払っていました。私は、原発のない、海や川のきれいな高知を子供たちのふるさとに選びました。
今回の高レベル放射性廃棄物処分場への「応募」が現実化したとき、私は少なからずうろたえました。自分に何ができるだろうか、と頭をひねりました。津野町での反対運動の事務局長は私の友人でした。また、高知県で反原発の運動を徹底して展開している女性は、私の映画友達でした。その他、友人の多くがこの反対運動にかかわっていきました。情報がどんどん入ってきたので、我知らず、私も渦中に巻き込まれていきました。
私は4月17日に4人の友人たちと東洋町の町長選挙の応援に行きました。「応募」撤回のために立候補した沢山氏を側面から支えるためでした。
4月22日の町長選挙の当日、反原発ブログ「それがたまるか!!」の管理人から「東洋町に行かないですか?」という誘いがありました。私は、仕事の都合で行けませんでしたが、彼女が涙にむせびながら写したという「当選確実」ビデオを見て、私も泣きそうになりました。今回の「東洋町問題」は東洋町の外に住む高知県人にとっても、とても巨大な山でした。原発のこと、放射能のこと、国家権力のことを考えるいい機会になりました。
選挙期間中、それを知ろうとする電話がよくかかってきたそうですが、沢山氏はどこで寝ているか明かされませんでした。殺人予告が何度も入っていたからです。その予告は、しばしば公然とジャーナリストたちの前でもなされました。沢山氏は、腹に本や新聞を巻きつけて街頭に立ち、「関が原の合戦であります。天下分け目の戦いであります」と腹から声を絞り出していました。
東洋町には、「死にかまん(死んでもいい)」と言える人がいなかったのです。それで、反対運動の切り札として室戸市から沢山氏が呼ばれたのです。沢山氏の人生にとっても、それは関が原の合戦だったようです。私は、高知県民は沢山氏には足を向けて寝られないと思うのですが、そう感じている人は他にもいて、今、東洋町の今後のために片肌脱ごうという人が大勢名乗りをあげています。
私は5月9日に、今度は1人で、嵐の去った東洋町に行きました。生見海岸では、ゴールデンウィークは終わったというのに、100人ほどのサーファーが波とたわむれていました。白浜海水浴場には、水平線を見つめる若い女性のお遍路さんの姿がありました。甲浦漁港では、係留中の漁船にアオサギがとまっていました。
嵐の後の静けさが、東洋町に流れていました。