2016年03月05日

「桜田門外の変」の黒幕

「吉田松陰VS井伊直弼」

「桜田門外の変」によって、歴史にその名を留める大老・井伊直弼は、その原因の一つでもあった「安政の大獄」によっても、その名を留めている。「安政の大獄」の最後の処刑者は吉田松陰である。しかし、吉田松陰は、井伊直弼の心を動かし、「安政の大獄」を中止させたのであろう、と思う。井伊直弼は、「安政の大獄」を中止する代わりに、吉田松陰を最後に処刑したのであろう、と思う。
(2015・3・5記)


「桜田門外の変」の黒幕

NHKの『ヒストリア』という歴史番組は、興味本位で、底が浅く、とうてい歴史から何かを学ぼうとする人の視聴に堪えるものではない。通俗的で、新事実はほとんどなく、私は、ほとんど見ることがない。しかし、昨夜の番組は例外的におもしろかった。

「安政の大獄」で尊王攘夷派に怖れられた井伊直弼(1815−1859)暗殺に、徳川斉昭(1800−1860)が深く関わっていたというのである。今回、その物的証拠がアメリカから出てきた、というのである。

刺客は18名(17名は水戸藩士、1名が薩摩藩士)、警護の武士は60名いたが、刺客の気迫に押されて遁走するものがほとんどであったと伝えられる。刺客たちの圧勝であった。血まみれになった井伊直弼の首を持って、刺客たちは出頭した。

暗殺は、最初の銃声が井伊直弼に致命傷を負わせていたという。そのコルト拳銃が長く行方不明であったが、最近、アメリカから日本に帰されてきたという。その拳銃を詳細に調べると、どうやら、徳川斉昭の所有していたものらしい、というのである。NHKは、徳川斉昭のものとほぼ断定していた。

尊王攘夷派の徳川斉昭は、「桜田門外の変」の3か月後に60歳で急死している。それは彦根藩士の報復であったという説もあるらしいが、真相は闇の中である。

「桜田門外の変」から10年ほどして、長州、薩摩、土佐の尊王攘夷派によって追い詰められた徳川慶喜は、大政奉還せざるを得なくなるのだが、彼は徳川斉昭の実子であった。慶喜は、当然、父の影響を受けていたはずである。……。
(2016・3・5記)

narijun1 at 16:01│Comments(0)TrackBack(0)

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