色即是空、空即是色への道。Part 3 この世はスカスカのスカスカ。

ワシがいつも不思議に思っていること。

前回でも言ったことだが、ワシらが見る対象物、見えているモノ、建物でも、人でも、なんでもいいが、それら自体には色が付いているわけではない。
色は脳で我々が知覚できるように「作られたもの」なのだ。

人を見てみよう。

人には、例えば、裸だったとすると、肌の色がある。しかし、その本体に色が付いているわけではない。肌色として脳が感知しているだけである。
太陽の光が人間の裸体に反射して、その光の束が目から入射、網膜CCDが電気信号に、その電気信号を基にして人間に「肌色」と知覚させる。

前回はそんなことを詳しく述べた。

さて、では、反射させているモノはなにか?人体であれば、皮膚である。その皮膚はなにか?

それは原子の整然と並んだモノだ。

ここで、思考実験をしてみよう。ここに、仮想の、縮小も拡大も自由自在にできる超・顕微顕大鏡があったとする。どんな物体でもいい。並んだ原子の平面を、それで、拡大して見てみよう。
(不確定性原理なんて、ここで持ち出さないでネ)
グングン拡大して、原子核とその周りを回っている電子が見えたとする。
なんと、びっしりとモノが隙間なく並んでいたと、思っていた表面が、スカスカのほとんどが空間である。

そこにある物体といわれるものは、ほんの少しあるだけなのだ。

原子の核の大きさをサッカーボールくらいに仮に拡大したとする、そのサッカ―ボールを東京23区の中心、新宿に置いたとする。

その時,一番、外を回っている電子は,

なんと羽田、府中、新座、三郷、船橋を回っていることになる。

しかも、その電子の大きさと言ったらニュートリノとほぼ同じだというから、原子核の中にある陽子を地球くらい拡大したとすると、ご飯一粒だと!!

サッカーボールに例えてみたその図では、見えない点だね(笑)

このことから、ワシらは鮮明に頭に叩きこんでいなければならないことは、物体は、極、極、極、ゴク、ゴク、ゴク、・・・・・・極、微小な点のようなもので成り立っているということなのだ。

つまり、スカスカのスカスカなのである。

人間だってスカスカなのだ。鉄だってスカスカなのだ。

驚きでしょう!!


こんなスカスカだから、例えば太陽から放射されるニュートリノは1秒間に100兆個、なんと、ワシらのからだを貫通しているのだ。
宇宙のはるか彼方からの超新星爆発から来るニュートリノなんかを勘案すると、その数はモノスゴイ数字になるだろう。


ちなみに、カミオカンデの地中深く、巨大な水槽で検出されるニュートリノは、年に数個だと聞いていて、なんだ、ニュートリノって、そんなに飛んでくる数が少ないんだと思ってていたら、年に数個というのは、その水槽の水を構成する原子核に正面衝突ができたニュートリノの数だと知って仰天した。

つまり、その巨大な水槽の水は50,000トンだというから、人間のからだを50kgとして計算すると、50,000×1,000÷50=1,000,000人。100万人。

人間1人のからだに貫通しているニュートリノは1秒間に100兆個。

それで掛け合わせると、1,000,000×100兆個=100000000兆個。1憶兆個。10の20乗。1万京。1垓(がい)。(入射角度とか面積とかは無視ネ)

カミオカンデには1秒間で1垓のニュートリノが降り注ぎ、
しかも、1年間で、数個しか核に衝突しないのだ。
これほどスカスカだということなのだ。
これは漫画的にどう表現したらいいんだろう。
この世はスカスカのスカスカのスカスカのスカスカの・・・・・・。
スカスカの20乗か???ハハハハ・・・・


こんなふうに想像していくと、人間、得体のしれない、スカスカの存在だってことがわかってくる。「人間は無である」と。
もちろんこの世にあるもの、万物はすべて、ほとんどスカスカの空間で成り立っているのだ。

もし、人間の目が、超拡大ができる機能があって、原子そのものが見えたとする、もっと微小のクオークが見えたとする。

恐らく、そこに見えるものは、真っ暗の何も見えない暗黒空間か、テレビ終了後のあのチラチラしたザァーッのようなものしか見えなかったりするかもしれない。

今度は、逆に拡大ではなく、縮小してみよう。これは、ビデオで見たことがあると思うが、初めに人間を上から撮影している、カメラはどんどん上昇していく。
人が点になり、建物も、点になり、地球の丸さが見えてきて、やがて丸い地球も点になりフッと消え。銀河が現れて、数億の銀河が・・・
そしてなんの光もみえず、そのさきは永遠に真っ暗・・というやつ。
人間が確認できたのはせいぜい高さ1000メートルくらいか。1000メートルなんて、137億光年から比べたら屁みたいなもんだ(笑)

そう考えると、ワシらが見ている世界はある一定の空間しか見ていないことになる。
それも極めて狭い範囲しか見ていないのである。


こうなると、見る見ないの問題ではなく。
われわれの存在が、ある一定の極々小さな空間の一部分で成り立っていて、その中で生活し、喜怒哀楽をもって悩んだり楽しんだりしていることになる。

この考え方をもっと押し進めていくと、モノを構成している素粒子が、

モノではなくなるというそんな事実が現れてくる。

粒子のような、波のような、ただの電磁波のような、ただの電磁の場のような、エネルギーがモノに変換したり、逆にモノがエネルギーになったり、

もうとんでもない、理解のしようがない世界に落とし込まされていく。

このようなことを、ひとり、黙々と瞑想していると、真っ暗な何もない宇宙空間でこの世にいるのはワシひとりで、本当にただ、ひとりなのだということを実感的に悟ってしまうのだ。

ワシはこれを、絶対孤独と呼んでいる。

いったん、絶対孤独を心底、実感したら、恐ろしくなり、泣き叫んでもダメだとわかり、心は押しつぶされ、暗い暗い、穴ぐらのなかに閉じ込められて、自分ではどうしょうもなくなる。

この怖さは、先にも述べたように「ワシの存在が、無い。無である」ことを知り、始末に負えないのは、「厳然たる事実」だということをはっきりと悟ってしまったことなのだ。

こんなことをグダグダとしょっちゅう考えていると頭がイカレテしまいそうになる。しかし、これもワシの性分だから、ショーガナイ(笑)

話は前後するが、こうしてワシは抜け出せない強度の“うつ”状態になってしまったのだ。

しかし、こんな状態のなかで、こんな状態だからこそ、光明を見出す。

こんな、暗い暗黒空間で、しかし、なんで「こころ」というもの「精神」というものが
この世にあるんだ?存在するんだ?

こんな、真っ暗な中に、なんで?なんで?なんで?

暗い、暗い空間だっただけに、その「こころ」の存在に想いを馳せると、

それが、貴重な、存在することが奇跡としか思えないような、

そんな感動に、ひとり震えていた時があった。

色即是空、空即是色。


ワシは今では、心から悟りを得ている(と思っているハハハ)。

だれかが述べていたんだが、日頃、常に「道」を意識し、それを求めんとしていたら、いつのまにか高みに達していると。

しかし、この道は正直苦しいよなぁ・・・

次回は相対性理論に基づく、そこからの、色即是空に迫ってみようと思っています。

スケベ漫画家の妄想かもしれませんが、

当人はこれで、案外、真剣なのです、よろしくです:))