石垣の石と石の間に、雑草が必死で成長しようとしている姿を見た
今朝、車で仕事場に出勤する途中、石垣の石と石の間に、雑草が必死で成長しようとしている姿を見た。
石の隙間だ。狭い。水もあまり供給されていないかもしれない。
それらの雑草をこんな目で見たのは、以前にも何回かあるが、今朝の見方は、どこか今までとは違う。
石の隙間の一本一本が、その草が生き生きとしている。
その草の形が鮮明に見える。
今朝に限って何でそんなふうに見えるんだ?
昨日降った雨のせいか?
分析好きなワシは、今の心の状態を考えてみた。
それらの草の存在感が強く感じられる。
大げさにいえば、人のように思える。
友達のように思える。
草の心とワシの心とで会話をしているように感じるのだ。
そう思い、石垣の草から周りの草や木々に目を転じ、改めて見ると、なんとびっくり、
新鮮できれいで、それらのすべてがワシと同じ人間とはいわないが友達のような感覚になっていた。
さらに、この感覚は、子供の頃、周りの自然物が自分とまったく対等な、友達のような感覚と同じであることに気が付いた。
ワシは、このブログで、以前、こんなことを書いたことがある。
脳感状態のとき、周りがまるで絵のように見える。
さらに、例えば老木を見たとき、その老木がワシに何かを語りかけてくるかのように感じることがあると。
今朝の感覚は、それよりもずっと深化していて、ほとんど草や木々が人間とまったく同じ存在として感じられるのだ。
ワシはその心になった時、自分ながら感動した。
さらに、なぜ、そういう心境になったのかを分析して行った。
おそらく、ワシの超越理論「非風揺葉理論」の影響が大だと思い至った。
いよいよ、その非風揺葉感覚がワシの心身に身体化されていったと感じた。
いよいよ、非風揺葉的人生に突入して行きつつあるなと、そう感じている。
とにかく、周りにとても敏感になるのだ。
人は周りに敏感になればなるほど、生きることも濃く、豊かになる。
逆に敏感でない、ボ―ッとした感覚で日々を過ごしている人は、生きていないのだ。
ワシは、70にして、こんな心境が開けてきたことに誰だかわからないが感謝している。
この心境をこのブログで、折りにつけ、書き綴っていこうと思っています。
「第二部、実写に限りなく近づくリアルバーチャルゲームの行先はどうなるか?」は、出来上がり次第、アップして行きます。途中、今回のように、他のテーマを挟むことがあります。よろしくお願い致します。