成田アキラのオンナは女神さま

オトナ専用のブログです。 刺激的な表現もありますが、制限を加えておりません。 ★18才未満立入禁止(笑)

アメリカ漫遊思い出話(1980,35歳)

アメリカ漫遊記(1980年、35歳)その52、 手塚治虫氏の1980年サンディエゴ国際漫画祭(コミコン)

アメリカ漫遊記(1980年、35歳)その52


手塚治虫氏の
1980年サンディエゴ国際漫画祭(コミコン)

 

手塚先生を懐かしみつつ、ここに、このコミコン当時の写真を遅ればせながらアップしておきたいと思います。

この時、先生は
52歳だったんですね。本当にお若いトシだったんだ。

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サンディエゴ国際漫画祭の会場。



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手前はF氏、手塚先生、読者への漫画サービス。



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先生独特の漫画執筆の姿。



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どんな相談にも気さくに乗ってくれる手塚先生。



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なくてはならぬベレー帽。手塚先生と言えば
このベレー帽姿。
ここはモンキーパンチコーナー


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超有名な少女漫画家の先生がた。




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先生の読者への愛情には、本当に脱帽です。

こんなに大きなケント紙B3にこんなふうに描き

込んでいくのだ。しかも色つけでね。

手塚先生はどんな方ですかと問われれば、ワシはすぐにこう答えます。
「手塚先生はブッダのような方でした」と。

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たぶん、居並ぶ漫画家先生方は世界での

超有名な方々だったんだろうと思う。



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漫画家によるイベントも開かれた。



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手塚治虫コーナー。ピノコ人形が見える。




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ハイ、出ました。後のドスケベ漫画家

成田アキラの若きころ。

お隣は、超売れっ子少女漫画家のIさん。


アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)その51、⑦漫画「ブッダ」の見開き2ページを描かされる

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)その51、

 

 

漫画「ブッダ」の見開き2ページを描かされる


「成田くん、この見開きに池からカモが20羽ほど飛び立っているシーンを描いてほしいんだ」


「この池の向うには城が入る、そこはあとで他のアシスタントにやってもらうとして、この池の部分のカモ、お願いします」


ワシはビビってしまった。

そんなシーン描けるわけがない。
第一、ワシが描いたとしても、絵柄がまったく違うものになる。


ワシは正直に言った。


「先生、自信がありません、先生のタッチとは違うものになりますので」


「では、カモが飛び上がる姿を4通り、私が描きます」


と言って、いきなりペンにインクをつけるとカモの4姿を見開きページに適当に散ばせて描いた。

そして、鉛筆で楕円形のカモの位置をあと16羽分、アタリをつけて描いた。


「成田くん、このアタリに適当にこんなふうなカモを描いてくれ。これなら、描けるだろう」


「すみません、それでも、先生の軽やかなタッチはムリだと思います」


「まあ、描いてみてくれ。だめだったら仕方がないが」


なによりも、精神的にビビって、ペンが震える。

でも、描くしかない。ワシは描いていった。


仕上げて先生のところに持っていった。

先生はそれを見て、


「まあ、いいでしょう」と言って机の上に他の原稿と一緒に置いた。


この見開きのカモの絵。実は本当に漫画になって雑誌に載ったのかどうか、ワシは確認していない。

後に単行本になったのかどうかもワシは知らないのだ。
雑誌には掲載されても、単行本にはならないケースもある。

こんな話をつい最近、ある出版関係者に言ったら、調べてみましたが、池から飛び立つカモの見開きシーンはブッダには見当たりませんという返答が来た。

思うに、やはり、ボツになったのだと思う。

漫画の道は厳しいからねぇ。


あと、カラ―の子供向け交通教育漫画のカレンダーとか、手塚さんの出るテレビ番組の解説用のカラーイラストとかを描いた。

(手塚漫画の単行本の部数をすべて積み上げれば何万キロメーターになるとか、富士山の高さをはるかに超えてしまうとかそんなイラストだった)


ワシはそんな訳で、ワシの苦しい一時期を助けてもらった。今でも感謝の気持ちが込み上げてきます。

☆2月10日火曜日、地方は11日水曜日、週刊アサヒ芸能にワシの5ページにわたるグラビア「美女と温泉」が出ます。もちろん、ワシの顔出し、肉体出し(笑)です。美女との絡みお楽しみください。
 

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)その50、⑥そもそもがワシがなんで手塚治虫さんと出会ったかというと。

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)その50、

 

 

⑥そもそもがワシがなんで手塚治虫さんと出会ったかというと。


以前述べたように、漫画サンデーにワシが漫画「フリフリダムダム」を連載していた時の実業の日本社、漫画サンデーの手塚担当だった松谷氏が手塚プロに引き抜かれて、

手塚さんのマネージャーをなさっていたということから、その繋がりで手塚さんと会えたのだ。


しかし、その出会いは、本当に唐突だった。



漫画サンデーに漫画を連載していたといっても、ワシは新人でペーペー漫画家だった。


手塚治虫先生はもちろん、雲の遥かかなたの存在で、ワシが会えるなんて思ってもみなかった。

ワシの漫画サンデーの連載漫画はあまりにもシュールでマニアっぽく、一部の読者には受けたけれど、初めは新奇さで引いていたが、だんだん人気がなくなり、

「チボー星のヤツラ」一年間と「フリフリダムダム」一年間の都合2年間で漫画サンデーの連載は終了した。

なんと、漫画家という仕事はキビシイ仕事なことよ。

ワシはお先真っ暗。結婚していて子供が1歳と赤ちゃんがいて、どうにもこうにもならず、

なんとかカットやイラストの仕事を描いて凌ぐ。

当時、200CCの中古バイクで、学研、旺文社、テレビガイド、様々な雑誌社、編集プロ、政府関係の出版社などへ、

カットやイラストの御用聞きに回り、仕事を取ってくるという、そんな、収入的にはか細い毎日を送っていた。

「今日は、カット出てますか―?」
「捨てカットが30コほどありますよ」

1カットは50円だ。なので50×30で1500円。

毎日出るわけではない。
しかも、大勢のカット屋さんに、振り分けられるから、それはその担当者の腹次第。嫌われたらおしまいだ。

テレビガイドなどは仕事が出るのは夜遅くだ。冬でも雨でも夜10時から12時頃バイクで通ったものだ。


そんな生活状態だった時、手塚プロの松谷さんから電話が来て、

「成田くんよ、手塚の作画の手伝いをしてくれんかね、急いでいるんだ、明日から来てほしい」


手塚プロの仕事をする・・・夢のようで願ってもないことだった。

 

「おお、成田くん、手伝ってくれるかね、場所は富士見町の何丁目何番地の八百屋の上だ。

八百屋の脇の階段を2階に上がると手塚プロがある。手塚には言っておくから、明日からよろしくお願いします」

 

八百屋の2階?


なんかひっかかったが、ワシは次の朝、その富士見町に行った。

八百屋があった。その脇に階段があった。
ここが手塚プロ????


なんと、その2階は8畳ほどの古い床板の部屋と、4畳半の障子で仕切られた部屋があるだけ。

8畳の部屋には中央にリサイクルショップから購入したと思われる、すべてちぐはぐな机と椅子が並んでいる。

手塚先生の机は角にある。

3人ほどのアシスタントがすでにいて、漫画を描いている。

ワシがここに踏み入れたときには、先生は丸首の半袖Tシャツにステテコ姿で、障子の向こうからお出ましになられた。

「おお、成田くんか、すまんね。突然お呼びして。虫プロが倒産してね、ここが仮の仕事場だ。〆っ切りは待ってくれんからね。

とりあえず、どこでもいいから漫画を描いていかないとな、はははは・・・」

 

ワシは倒産直後の仮の部屋だとしても、この薄汚れたボロい部屋が天下の手塚治虫の仕事部屋だとは!!

もう、ビックリを通り越して、すさまじく世の厳しさという重い空気がワシの心を圧迫した。

なので、ワシはなにも言えず、黙っていた。


待ったなし。すぐに仕事だ。


「成田くん、きみはこのキャラの服の模様と鎧などを描いてくれ。前のものを見て、その通りに描いてくれればいい」

この時、制作していた漫画は「ブッダ」だった。


ワシはひたすら、それらの模様を描いていった。


途中、先生が来られて、ワシが描いた模様を、メガネ越しに見て、「うん、いいね。」と言って自分の机に戻られた。

こんな模様ひとつで、ワシの技量の良し悪しを判断できるのだ。
どうやらワシは一応合格したようだ。


何日か目に、今度は、ワシの机の上に見開きの白い紙を先生が持ってきて、

「成田くん、ここに、2ページ見開きで描いてほしいのだが・・」

 

いきなり、先生から見開き全部を描いてくれと!


ワシ、あまりにも恐縮して・・・・


「ブッダ」の1シーン。

なにを、描かされたと思います?


これについては次回。

 

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)その49、 ⑤映画「火の鳥」ワシが帰国時、税関で没収寸前。

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)その49、

 

⑤映画「火の鳥」ワシが帰国時、税関で没収寸前。

 

手塚先生が、1980年のサンディエゴ・コミコンから日本に帰られ、ワシもアメリカ漫遊を1981年2月に終え、帰国することになった。

帰国するする旨、手塚プロ社長の松谷さんに伝えると、

「キミがコミコンに行った時に手塚がアメリカに持ち込んだ映画フイルム「火の鳥」、それを日本に持ち帰ってほしいんだ」


映画「火の鳥」の売り込みが成功したのか、アメリカ各地で上映されたのか、ワシは何も聞いていないが、

とにかく、「火の鳥」フイルム2巻を日本に持ち帰ることになった。



ワシ、成田空港に着く。税関を通る。ストップがかかる。税関の取り調べ室に通された。


係官、いかにも、怪訝な顔を見せて、

「このふたつの荷物は、フイルムと書かれてありますが、なんのフイルムなのですか?」


「これは、漫画家手塚治虫のフイルム「火の鳥」です。手塚プロに頼まれたものです」


「あなたが?あの手塚治虫さんの????」


胡散臭い、長髪の男と手塚治虫とは結びつかないといった表情。


もっと言えば、このフイルム、ポルノエロフイルムだと疑ったもの言い。


ワシはすぐに手塚プロの担当の方に電話。係官と話させる。


「あなたの言われる通りだとは思いますが、信用しない訳ではありませんが、当税関としましては,梱包を解いて、

その「火の鳥」フイルムであるかどうか,確認させていただきたいのですが、かまいませんか?」


「ええっ!梱包を解くんですか。こんなにしっかり梱包してあるものをですか?」


「すみません、これも私らの仕事なもんですから」


なんとなく、ワシの心情としては、まだコヤツら、イカガワシイフイルムと疑っているなだった
()


段ボール、プチプチシート、ガムテープで厳重に梱包してあるものを、カッターナイフで切り、フイルムを取り出した。

さっそく、係官がフイルムを数メートル引き出し、明かりに翳し、凝視する。


確かに、手塚治虫の火の鳥だ。

 

確認すると、一転してに愛想のいい笑みを浮かべ、


「いや、お時間とらせまして、誠に申し訳ありません。確かに通常のフイルムでした。確認させていただきました。」


係官はガムテープを持ってきて、梱包してくれようとする。


「ああ、いいですよ、私がしますから。いやああ、疑いが晴れてホッとしています。ポルノフイルムと思われたんでしょう?」


「いや・・・・、仕事なものですから。ポルノフイルムも結構ありますから、困ったもんです。どうも、お手数をおかけしました。」

 

こうして、ワシは成田空港から、すぐに、手塚プロにこの大切なフイルム「火の鳥」を届けた。

やれやれだった
()

 

 

 

 

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)その48、④手塚さんのフアンサービスには脱帽

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)その48、

 

アメリカで漫画の神様、手塚治虫のカバン持ちをした。



④手塚さんのフアンサービスには脱帽


手塚先生と面と向かって話をすると、先生はしっかりとワシの目を見て、相手を理解しょうという眼差しになる。

純粋な目だ。相手をちゃんとした人格だと見てくれている。

先生は良き人だ。絶対に悪人にはなれない方だ。
いわば、会っているだけで好きになる人だ。


想像だが、人柄の良さにつけ込んで、よってたかって、悪事を働いた拝金商売人がいたことだろう。


ワシにとっては、こんなどこの馬の骨とも分からない男とワシの車に乗って、さらにお話させてもらって、光栄だと思うが、

先生はそんな光栄なワシの心情とは無関係な、人として、普通に接してくださっただけなのだ。

まったく、えらぶったところがない。

 

車の中で、いろんな話をしたが、大半は忘れてしまった。
こんな宝物のような情報を忘れてしまうなんて。
後にブログを書くなんて思いもしなかったし。

 


ただ、ひとりだけ、先生がものすごく褒めていた漫画家がいた。

ドラえもんの作者、故・藤子不二夫さんだ。

「成田くん、彼は一番、頭がいい漫画家ですよ。科学についても知識が豊富で、博識だ。なんでも知っている。」


ワシは意外だった。
ドラえもんの藤子さんがそんなに頭がよくて博識だとは。


手塚先生の方が彼の何十倍も頭がいい漫画家だと思っている。


実は、藤子先生とは、仕事関係の新宿のとあるマンションにて、そこで、エレベータの中で、何回か顔を合わせているのだ。

至近距離で接していたことになる。

藤子さんとは当然、手塚先生とはお付き合いがあったわけで、ワシは、なんの因果かお二人とも面識?があることになる。



さて、コミコンの2日目。


大きな会場の中は、漫画家たちや同人誌の漫画家志望の人でにぎわっている。

日本の漫画家たちもいる。特に少女漫画家さんたちが目をひく。

その中の一角で手塚先生は、外国の手塚フアンの方に、漫画を描いてサインをしてお渡ししている。

色紙に描いているのではない。
ワシ、びっくり、原稿用紙くらいB4のケント紙がほとんどで、なかにはその2倍の大きなB3ケント紙を持ってくるフアンもいる。

先生はいわゆる色紙にササッと描く描き方ではなく、漫画原稿に描くかのような懇切丁寧さで、大きく火の鳥を描いておられる。

先生はフアンを大切になさっているのがよくわかる。

しかし、夜、あんなに疲れて漫画を描いているのに、このサービスは、し過ぎじゃないかと、一方ではワシ、そう思った。

ワシは手塚先生の傍にあれだけいたのに、一枚も漫画をもらっていない。

今となっては仕方がないが、ワシも記念にB3くらいの漫画を描いてもらっていればよかった。


後年、手塚先生のサイン入りの豪華本「手塚治虫のすべて」をいただいた。

ワシの家宝だ。

手塚先生の手で、成田アキラ様と書かれたんだなと・・・ワシの名前を書くそのお手間とチラリとでも先生の頭にあったことがありがたいと思っています。

 

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)その47、 アメリカで漫画の神様、手塚治虫のカバン持ちをした。 ③ブッダ原稿、2回に分けて日本に送る

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)その47、


アメリカで漫画の神様、手塚治虫のカバン持ちをした。


③ブッダの原稿、2回に分けて日本に送る



朝、9時頃、手塚先生から電話が、


「すまんがね、ロスまで飛んでロス空港からJALのカ―ゴ便でこのブッダの原稿を送ってくれんかね」


「飛ぶって?僕が飛行機でロスまでですか?」


「ああ、JALカ―ゴがいいね。24ページの半分12ページを至急、手塚プロに届けなければならないんだ」

ワシは先生から巻き込んだ原稿12枚が入った紙筒を受け取り、すぐに車をサンディエゴ空港に走らせ、

その当時、名前は忘れたが確か、PSAとかいう航空会社だったか、その飛行機でロスまで飛んだ。

この飛行機は切符を買うのに、指定席もなく、まるで、バス並みのフライト便だった。

こんなフライトがあるなんて、さすがアメリカやなーと妙に感心した記憶がある。

 

ロス空港で、JALのカ―ゴで手続きをして送る。
同時に手塚プロの担当の方に何時に成田に届くと電話を入れてワシのお使いは終了。

すぐにサンディエゴに引き返す。
しかし、30分ほどですぐに引き返すなんて、こんな飛行機の使い方をしたのは生まれて初めてだ
()

 

実は、翌日、残りの12ページを同じようにロス空港に行き送る。

 

今、思えば、手塚先生の「生原稿」。
コピーもとっていない。

もしワシがなんかの手違いで紛失すれば、エライ事になっていたわけで、これは大役だったのだ
()

 

往復2回の飛行機代がかかっている。
先生の原稿料がいくらだかわからないが、この2回のフライト代が余計なマイナスであることは確かだ。

 

サンディエゴのコミコンで先生の大作アニメ「火の鳥」を上映されたのかどうか、ワシ、今あまり記憶が定かではないが、

この時代は動画と言えばいわゆるフィルムだった。ビデオなんてなかったのだ。

アニメも1枚1枚描いて、1秒間に16枚ほど必要だった。間引いて描くリミテッドアニメ
だったとしても、フィルム撮影していたのだ。ほんとにたいへんな仕事だ。


もし、天国においでの手塚先生にコンタクトが取れて、お話ができたとしたら、ワシはこんなことを先生にお伝えしたい。

もちろん、なにをおいても先に、先生にお世話になったお礼を述べさせていただきますが、アニメが大好きだった先生に


「手塚先生、先生がそちらに行かれたあと、動画の世界ではブレイクスル―というかエポックメイキングなことが起こりました。

3
次元コンピュータグラフィックス(3DCG)がこの世に出現し、動画はもとより3Dアニメも登場し、映画、ビデオ、ゲームと飛躍的にこの世界が広がり、

まるでもう一つの現実的なリアルバーチャル世界が創出されたかのごとくです。

たとえば、
3DCGでほとんど実写と変わらないキャラを作れるところまで進化しました。

先生がご生存であらせられましたら、これらを使って、鉄腕アトムやジャングル大帝、火の鳥、BJなどリメイクなされた事だと拝察します。残念で仕方がありません」

 

これに対して、先生、どう応えられるか、ワシは分からない。


「成田くん、私の“火の鳥”知っているよね。あの物語は、未来永劫に続く漫画だ。

大丈夫。私はすでに
3DCGを理解している。

こっちで、すでに制作しつつある。パラレルワールドのこっちでね。

忙しくなるぞ。睡眠時間を削ってやらんといかん。チョコを齧りながらな
()

成田くんに完成したらお見せしたいが、パラレルだからそっちに行くことは物理的に不可能だ。

しかし、あなたがこちらに来られたらその時は一緒に見ましょうよ」

・・・・・・・・・・・・ここまで書いてきて・・・不意に涙が出てきた・・・・

涙が止まらない・・・・・・・・・・・・・・・・・
(涙もろくなったもんだ)

 

 

 

 

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)その46 アメリカで漫画の神様、手塚治虫のカバン持ちをした。 ② 手塚先生のベレー帽の効能

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)その46

 

 

アメリカで漫画の神様、手塚治虫のカバン持ちをした。

    手塚先生のベレー帽の効能


サンディエゴのホテルで、手塚さん、チョコを食べながら、漫画「ブッダ」を描き上げて行く。

なんと、2日間で24ページ描き上げるのだと。
先生が描く部分は人物のみ。背景は、青鉛筆で、薄く、ほんのアタリだけ入れてある。

人物のペン入れが終わったら、航空便で日本の成田空港に送る。
成田では手塚プロの担当者が受け取りに来る。

それを手塚プロでアシスタントが背景を入れていくのだ。

こんな手順でことは運ぶのだが、実はこんなに簡単には進まない。

編集者泣かせの手塚さん、ブッダの出版編集部の担当者は胃がキリキリと痛いだろう。

なんとならば、ほとんど〆切りギリギリ状態だからだ。
国内ならば、まだ、ある程度は余裕を作れるが、なんせ海外だから、ほとんど綱渡り状態。


先生は昼間はコミコンでいろんな方との応対に忙しい。

夜は、ブッダの執筆だ。

この方は人間ではない、人間ワザではない。漫画の神様ではあるが、モンスターである。



深夜、1時頃だと思うが、ワシがワシの部屋でベッドに横になっていると、部屋の電話で先生に呼び出された。

「成田くん、至急来てくれないか!」


何事かと、急いで駆け付けると、

「悪いが、今夜中にあと5ページやっときたいんだ。私のベレー帽が無くなった。探してくれないか」


「先生、あれから外に出られましたか?」


「いや、出ていない。しかし、部屋のどこを探しても見当たらないんだ」


「わかりました。探して見ます。先生は漫画の方を進めていてください。」


「いや、ダメだ。私はベレー帽をしていないと、漫画が描けない。他の漫画の構想を練っていますから、その間に探してくれんかね」


ワシはベッドの下、ベッドまわり、玄関、机、洗面所、先生のバッグ、考えられるところはすべて見て回った。

20分経過。それでも先生はペンを持とうとしない。
本当にヘンなオッチャンだ
()

ワシもやけになり、ベッドの上の毛布とシーツを思い切り引っ剥がして、床に枕と共に投げつけた。

すると、なんと言うことか、毛布とシーツに巧妙に絡まっていたベレー帽がコロリと出て来た。


「おおっ、こんなところに、案外、盲点だったねぇ。ありがとう、これでペン入れが出来る」


先生はすぐに、あの棟方志功スタイルになって、猛烈な勢いでペンを走らせていった。


手塚先生は、丸ペンを使って描かれる。

その新しい丸ペンを使う時は、先生ならではの、ある厳格な儀式を執り行なう。

それは、マッチに火をつけてペン先を焼くのだ。

ちょうどマッチ1本が燃えつきるのが最適だと先生はおっしゃる。

このことはどんな意味合いでなさるのか。

丸ペンのペン先の弾力性を自分好みにするためなのだ。堅くてもダメ。柔らかすぎてもダメ。こうして、ペン先の1本1本が、言わば手塚さんという鍛冶師が焼きを入れ、最適のシナリとペン先のさらに先端を紙に馴染む鉄にするのだ。


ライターを使っているところをワシは見たことがない。
いつもマッチを持参しておられる。


ちなみに手塚先生の原稿用紙はケント紙ではない。

薄っぺらいコピー用紙だ。
別に倹約なさっているわけではなく、コピー用紙の薄さが先生にとって、もっともペンが馴染む紙だからだとワシは推察している。

ワシもケント紙の一番厚い紙は堅くて敬遠している。
ワシが使っているケント紙はKMKケントの一番薄いヤツだ。
これ以外の紙は使わない。

実はワシも、新しいペン先をおろす時、モノスゴイこだわりがある。

ワシの場合は、最初から柔らかいGペンを使う。

その使う前に、きめ細かいホワイトストーン
(白い砥石)でペン先を自分の好みの滑り具合に砥いで調整をするのだ。

ワシの場合、ツルツルとペンが走るのは嫌いだ。

ある程度、引っかかりがあって、紙に切り込んでいく感覚がないといい線が引けない。

なので、ペン先が摩耗して、ツルツルとしてしまえば、そこで、ペン先さんにありがとうご苦労さまと言って、保管箱に入れてしまう。

だいたい、5ページ描き込めば先が摩耗して使えなくなる。
5ページごとに1本というペースだ。

二度と使わないが、とってある。

おそらく、1万個くらいになると思う。

いつか、供養し、全部を炉に入れて、溶かし、なにか別の鉄の記念物にしたいと思っている。

 

一夜明けて、朝、

先生から電話が。


これがまた、想像もしなかった事を仰せつかったのだ。

それについては、次回。

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)その45、②手塚治虫・サンディエゴ国際漫画祭

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)その45

 

 

アメリカで漫画の神様、手塚治虫のカバン持ちをした。


   
サンディエゴ国際漫画祭(コミコン)で。


ホテルに手塚さん入ると、一休みもせずに漫画祭会場へ。

この日は、世界各国のアニメータ―の短編アニメが上映された。
手塚さんも新人たちと混じって短編アニメを上映。

手塚さんのアニメはその当時もレトロに見える絵柄だった。
コロコロとした絵で懐かしい。

見どころに差し掛かると、会場から盛大な拍手が来る。
特に、大都市を、スピードをあげたエアーカ―が縦横に走るシーンは、割れるような拍手。


上映が終わったあと、賞状贈与が行われた。
「オサム・テヅ―カ」呼ばれる。


手塚さん、後ろの方から真ん中の通路を壇上までドカドカドカと走るように歩いていく。


あれっ!?あのドカドカ歩き、手塚漫画に登場するお茶の水博士の歩き方ソックリではないか!

ワシは分かった。
手塚先生はお茶ノ水博士だったのだ。

先生はお気づきではないが、自分を知らず知らずのうちにお茶の水博士に投射させていたのだ。

よくよく先生のお顔を見ると表情からなにまで、博士の顔と同じである。

たとえば、立っているポーズでさえ、博士と同じなのだ。
例の脚を大の字に開き、反らせた脚の形が。

その時の歩き方、今思えば、なんで、あんなふうに急ぎ脚で歩くのだろう?

もっと威厳を持たせて、ゆっくりと、周りを見る余裕を見せながら歩かなかったのだろう。

案外せっかちなのか?
もしくは意外とシャイな方なのか。

今度、手塚プロ社長の松谷さんに会ったら聞いてみよう。



34年前、ワシが35の時なので、記憶が薄れているが、コミコンにはいろんな日本の漫画家さんもいたようで、

ワシが覚えている方は当時最高に売れっていた少女漫画のIさんだ。

他にも女性漫画家もいたが忘れてしまった。


その他には、ワシが後年、お世話になった出版社「双葉社」の諸角さん。

彼は当時もちろん若くてもう一人の方と一緒にサンディエゴで飲みに行ったような記憶がある。

なんと諸角さん、つい最近まで双葉社の社長をなさっていた。



そう言うわけで、Iさんらと、手塚さん、ワシ、F氏と、たぶん食事をしたかもしれない。


そして、ホテルに戻った夜8時頃か、手塚さんから

「成田くん、すまんがね、これでチョコレートを多めに買って来てくれないか」

と、100ドル札を渡す。

「多めって?」

「このくらい」


手を見ると、板チョコを10本ほどになる。


「先生、なんでチョコをこんなにたくさん?」

「いやね、眠気覚ましだよ。これがないと描けない」


(んん?チョコはココア・・・コーヒーならともかく、ココアは覚醒作用があったっけ?)

そう思ったが、なんとなく効くんだろうと思って、ワシは街に出てチョコをたっぷり買ってきて、先生にお渡しした。

すでに、漫画制作に没頭されていて、

「おお。すまんね」というや、

板チョコを剥いて、モリモリと左手で食べながら漫画を描いていく。

な、なんじゃ、このオッチャン??


この食い方は尋常じゃないし、この漫画の描く体の動きも何かにとりつかれたそれだ。


メガネを原稿用紙に接近させて、まるで版画家の棟方志功ではないか。


黙々と描いていく。その描くスピードが半端ではない。
こんなスピード見たことがなかった。

何が凄いって、原画のコマにフキダシがまずきっちりと鉛筆で書かれてあって、

その他の白い部分には、丸い円と針金のような線が青い鉛筆で描かれている。

青色は印刷にはかからない。つまり、消しゴムで消す必要がない。なので下書きに青鉛筆を使う漫画家もいる。

円が人の頭だ。線は人のポーズ。こんな青い線の「アタリ」だけで、直接、ペンで描いていくのだ。

す、す、すごい!!!

もう、ワシ、ぶったまげてしまった。

か、神様だ。

漫画の神様がここにおわす・・・・。

描いている漫画は釈迦の一生を描く「ブッダ」だ。

なんと、二日で24ページ仕上げるのだという・・・・・

唖然・・・・

 

で、さらに驚きの連続。それについては次回。

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)、その44アメリカで漫画の神様、手塚治虫のカバン持ちをした。 ②ロスからサンディェゴまで手塚さんとドライブ。

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)、その44

 

 

アメリカで漫画の神様、手塚治虫のカバン持ちをした。


②ロスからサンディェゴまで手塚さんとドライブ。


ロスを出発してしばらくして、手塚さん、こんなことをおっしゃる。

しばらくは君の運転を見ていたんだ」って。

そんで「君は大丈夫だね」って言う。

「僕は車にかけてはベテランですよ。18で免許を取ってかなり走り込んでいます。つい最近もFさんにお聞きかもしれませんが、アメリカ1周して来ました。」

「ああ、それは聞いています。スカイダイビングもやってんだって?」

「いや、それではなくて、ハンググライダーのほうです」

「そうですか。まあ、とにかく、人間っていうのはどこで事故に遭って、どこで死ぬか分からないからね」


いや、ビックリしたね。冷静に最初にワシの運転ぶりを見ていたなんて。

すごい現実的な事をおっしゃる。
ワシの運転が危うかったら
「悪いけど・・・」と断って来られたのかもしれないね。

 


「成田クンは何を描いているんだろうね」


「いや、今は何も描いていなくて。とにかくアメリカに来て
1回、ガラガラポンとしようと思っているんですよ」


「確か、漫画サンデーでなんとかという変わった漫画描いていたよね。また、頑張って描いてください」


だいぶ経ってから、ワシがテレクラ漫画でブレイクする前に、手塚先生、お亡くなりになった。

まだ60歳の若さだった。

漫画界で、父と呼べる方は手塚さんをおいていない。


手塚さんはワシにとって「お父さん」といった感覚なのだ。

「お父さん、ボク、こんなヘンな漫画ですが、なんとか世に出ることができました」




生きておいでだったら、こうお伝えしたかった・・・・・お伝えする人がいなくなった・・・・・・・。




漫画サンデーの連載「フリフリダムダム」が終了してから、手塚先生のアシスタントを数か月ですが、させていただいた。

カットやイラストでギリギリ食べていた時、
先生からいただいた給料は本当に助かりました。

手塚先生、ありがとうございました。

 



ワシの運転が完璧に安全だと知った手塚さん、なんと、助手席でいびきを掻いてお眠りになった。

まあ、それほど信頼していただけるのは光栄の至りですが、
ここでホントに、ワシの落ち度ではなく、

相手が正面衝突する場合もあるので、そんなに眠り込まなくてもいのに・・・と思ったね。


けど、先生の仕事のハードさから見たら、眠らざるを得ないのだ。

なんせ、アメリカに来ても、仕事を持ちこみ、毎日漫画を描いておられるのだから。

サンディエゴ近くになって、海岸線を走っている時、突如、

「成田くん、止まってくれないかね」


「はあ、止まりますけど、すこし我慢してください。すぐに見つかりますから」


「我慢?見つかる?」


「あ・・・、トイレではないんですか?」


「違う、違う。海だ、海を見てごらんよ」


「海?」


車を、道路の脇に停める。


手塚のオッチャン、凄い勢いで丘の上に駆け上がっていく。

海岸線がよく見える崖の上から、手をかざして海の地平線に向けて目を凝らして見ている。


そして、なにやらブツクサブツクサ言っている。


「うわー、あいつだ、ペンサコラCA-
24。ソールト、レイクシティCA-25


おいおい、ボストンCA-69だよ。


戦前のだ。懐かしいなー、ベインブリッジDD-1。ひゃあああ・・・・


おお、あいつは第二次世界大戦で活躍した・・・・おほほほ・・・・」

 

本当は手塚のオッチャンがなにを言っているのか、その当時さっぱりわからなかった。


なので、この件はワシが適当に脚色して書いてみました。


つまり、手塚さんは、なにをブツクサはしゃぎのたまわっておいでだったかというと、軍艦のペナントナンバー(船体識別符号)を口にしていたのだ。

 

確かにサンディエゴには軍港がある。その沖合に、戦前、戦後の軍艦が多数、停泊しているのは見える。

 

よく見ると船体に英数字がデカク表示してある。


「成田くん、ペナントナンバーだよ」


「ナンバーは僕でも読み取れますが、軍艦の名前を先生はおっしゃっていますよね。なんでそんなことがわかるんですか?」


「僕はね、高校の頃、世界の軍艦を絵に描いたことがあるんですよ。まあ、凝っててね。軍艦図鑑を仕上げたことがある。

それで、遠くの軍艦でもその形を見ればわかるんだ。

昆虫なんかもね、特にオサムシなんかもね。数百匹のオサムシ図鑑をね。」


「先生、僕も、昆虫少年で日本の蝶なら150種くらい持っていました。
珍しいのになると、キマダラルリツバメとか、キリシマミドリシジミだとか」


「キマダラルリか・・・あれ特別天然記念物だろ・・採っちゃいかんやつ。キリシマはいいけど」


「はい、でも、つい・・・すみません」


「僕に謝られても、はははは・・・」


こんな途中下車があったりと、この素晴らしい手塚のオッチャンさんとこれから先もいろんな事が起こります。次回をお楽しみに。

 

 

 

 

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)、その43 漫画の神様、手塚治虫のカバン持ちをした。 その1、サンフランシスコでの手塚さん。

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)、その43


アメリカで漫画の神様、手塚治虫のカバン持ちをした。


①サンフランシスコでの手塚さん。


ワシが1980年、サンフランシスコにアパートを借り住んでいた時、手塚治虫さんが、

先生の大作アニメ「火の鳥」の売り込みにアメリカに1週間ほど滞在した。


ワシはその当時も今も手塚プロの社長である松谷
孝征と知り合いだ。

ワシが漫画サンデーに「フリフリダムダム」を連載中、彼は実業の日本社の社員で、一番きつい手塚担当だった。

後に手塚さんに引き抜かれて、社長となる。

松谷氏とは、その当時、ワシの担当の中村氏と漫画家の草原タカオ氏と4人で山梨の甲府のすぐ北の、湯村温泉と南アルプスの夜叉神の桃の木温泉に二泊の旅に出たことがある。

 

そんな松谷氏と、手塚さんのアメリカでの通訳のF氏のツテでワシは何かと手塚さんと接近させていただいた。


サンフランでは、手塚さん、それに仕事関係や取り巻きと食事をするだけでワシは光栄で嬉しかった。


手塚さんを訪ねて来た、有名アニメーターのフルカワタクさんや漫画家さんお二人をワシの車でサンフラン観光にお連れしたこともある。もちろん手塚さんの持ち出しで。


滞在後半はロスに行かれ、たぶん、ハリウッドの映画スタジオなどに手塚さんは行かれたのだと思う。
アニメ制作に情熱を抱いていらしたから。


日本の松谷氏から電話が来た。

「成田くん、暇だったら、手塚をロスからサンディェゴまでキミの車で乗せて行ってくれないか?」


「はぁ?あの手塚先生を?」


「手塚が車で行きたいと言っている。サンディゴで国際漫画フェッシバル
(コミコン)が開催される。

“火の鳥”の売り込みだ。

キミの車があれば、なにかと動き易い。3日ほど、カバン持ちやってくれないか」


「わかりました。その日にちに僕、ロスに行きます」


というわけで、一足先に飛行機で行っていた手塚さんが、ロスでの用事がすんだ頃会いに間に合うように、ワシはサンフランからロスに車を飛ばし、5時間ほどでロスに着いて待機した。


手塚さんの宿泊のホテルの前に行くと、手塚さんが来られ、ワシのボロ車に乗り込もうとされる。

「成田くん、よろしくお願いしますよ」

あの先生独特のニヤリとしたラブピースくちびるでおっしゃる。
手には大作「火の鳥」のフィルム2本を携えて。

ワシはそのフィルムと先生の大きなバッグを後席に置くと、

「あのー、先生、私のこんな車でホントにいいんですか?」


「ああ、いいですよ」

 

あの漫画の神様の手塚治虫さんが、ワシのボロ車の助手席にドッカとお座りになられた。

ワシは車をサンディゴに向けて走らせた。


ワシ、夢の中にいるかのよう。

 

(ほんまに、このとなりにいるオッサン、手塚治虫やろか??)

 

しばらく走ると、意外な事をおっしゃった・・・


次回へ続きます。

手塚さんのお人柄がよくわかる事件が次から次へと出てまいります。

お見逃しなきよう。

成田アキラの“実録”です。

 

 

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)、その42 アメリカでの車の話

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)、その42


アメリカでの車の話


アメリカでの車の話をいたしましょう。ご存知の通りアメリカは車社会、

どこへ行ってもあのバカでかいガソリンを食うアメ車がワンワン走っていた。

ワシがアメリカに行った1980年代は、まだガス大食いのデカイ車がかなり走っていた。

ちょうど日産サニーとかトヨタカローラの小型車が売れて、自動車貿易摩擦が生じているその前後だと思う。

ワシはアメリカに着いたらまずは車を購入する。

中古車を物色していて、よくわかったのは、日本車は故障をしないというアメリカ人たちの声だった。

驚いたのは中古市場で日本車がよく売れていたことだ。

あるアメリカ人が日本のサニーを購入した。
そのサニ―、5年落ちの車体でキズだらけの車だ。

なんでこんなボロ車を、と聞くと、アメ車に比べたらガスは食わないし、故障はしないし、修理費を考えたらかなり経済的だという。

われわれ日本人は故障しない車が普通なので、ワシはそんなことを言うアメリカ人を「ふ~~ん」と鼻で笑った。

ワシはせっかくアメリカに来たんだから、日本車に乗る気はなかった。

いろいろ検討した結果、フォードのピントにした。
2年落ちで外観もきれいなホワイトで形も気に入ったからだ。

46万円だった。


売買は簡単だ。フォードピントの持ち主に会い、金を払って、黄色のオ―ナ―カ―ド(車の所有カード)を貰い、車を受け取るだけ。

アメリカには車検制度はない。

もちろん、売る時も簡単だ。
書類の類を一切書かなくていい。10分で売買成立()

ちなみに免許証も自分の車を試験場に持ち込んで、教官と試験場を1周すればたった1時間でもらえる。国際免許は持っていたが、保険申請の時アメリカの免許が必要だった。

それもうる覚えだが2800円しか、かからなかった。


さあ、アメリカ1周だ。快調に飛ばす。ある日、砂漠の真ん中、道路脇で地図を見ていたら、デッカイコンボイトラックが急停車。

コンボイのオッサンが降りてこっちに向かってくる。
ワシはなんの用事だろうと怪訝な思い。

大きな声で

「ヘイ、ホワッツトラブル?」


ああ、故障車だと思ったんだ。
近づいてきてワシの顔を見て、

「ホワッツ?ユー、ノットガール、ハハハハ・・・・」

と笑ってすぐに去って行った。

あとで知ったのだが、このフォードピントは女性に人気のほとんど女性専用の車だったのだ。

彼は女だと思っていたのだ()




2年落ちの程度のいい車だったので、アメリカ1周をしている時は、故障は1回もなかった。

サンフランに住みついてから高速を走っていて、突如ボンネットの脇から下から白い煙が爆発したかのように噴き出した。

慌てて止めて、ボンネットを開けると、なんと、エンジンからラジエータに繋がるパイプが破裂して大きな穴が開いていた。

レッカー車で引いてもらい修理してもらった。

次にきた故障が、エンジンからの異音だ。エンジン内部のトラブルだった。

次にきた一番怖い故障がガソリン漏れだ。

ワシはカナダのバンフまでスキ―をするために行った。
車で3日ほどかかる。

カナダで不凍液を入れてもらいに車の修理工場に行った。

すると、スタッフがアンタこんな状態でアメリカから来たんかい?

と、ワシの顔を覗きこみながら言う。

ちょっとエンジンをかけるから、ここのパイプの部分を見てくれ。

見ると、なんとフューエルポンプから来る金属のパイプに小さな穴が開いていて、そこから高さ3センチほどガソリンの噴水が見えたのだ。

ここカナダに来るまでの間、3日間、ずーっとガソリンが漏れていたのだ。いや、もっと前からかもしれない。

そう言われて気が付いたのが、僅かにガソリンくさいなと感じていたことだった(ピントは電子噴射式だが、この時代のエンジンは霧吹き式キャブレター仕様が多かった。なのでどの車もある程度はガソリン臭かった)

さらに気が付いたのは、この時、ワシはかなりきつい風邪の症状をきたしていたのだ。頭痛もするし。

これが、絶えずガソリンを吸っていたことが原因だと、この時、分かったのだ。

日本人の彼女と二人で行ったのだが、彼女は平気だった。
ガソリンの流れがワシの方に来ていたのだと思う。

走行している時は漏れたガソリンは拡散されて、希薄になっているが、

もし、アイドリング中にガソリンンが充満してそこに火がついていたら、おそらく爆発していただろうとここのスタッフが言う。

「アンタは煙草を吸わないのか?そりゃよかった。ライタ―点けていたらアンタは死んでいたね。運がいい男だよアハハハハ・・」


まったく、冗談じゃないよな。アメ車さんよぉ~~~。


ワシはこのガソリン風邪のためカナダのホテルで2日間寝込んだ。

3日後に何とか回復して、バンフの広大なスキ―場で思いっ切りスキ―を楽しんだ。

彼女は見ているだけだった。


思えば、雪道をノーマルタイヤに駆動輪にワイヤチェーンをつけただけで走ったっけ。

直径5ミリほどのワイヤで掻いて進まなければならず、後輪をブンブン高速回転させ、滑らせながら走る。

カーブでは車体はまっすぐ向かず、斜めに走った。

ほんとムチャしたもんだよ()

彼女本当に怖がっていた。

 

DSC00417

カナダに行く途中、バンクーバーに寄った。

まだ、体調は悪くなかった。


DSC00426

トーテムポール


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雪道を走るフォードピント。

向うに野性の動物が見える。


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バンフ・サンシャインスキ―場

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まあ、恰好だけは様になっている。


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広大なスキ―エリア。素晴らしい!


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ハシャグ若かりし頃の、後のスケベ大王(笑)



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 な、なんじゃ、この髪型は(大笑)

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)、その41 成田アキラのヒーリングスパ

アメリカ漫遊思い出話(1980年、35歳)、その41


成田アキラのヒーリングスパ


サンフランシスコの夜のお遊びで面白いと思ったのは、その施設の名前は忘れてしまったが、スパの一種になるだろう。

ヒーリングスパと一応呼んでおこう。

建物の屋上が板張りのフローリングになっていて、その中心に木のデッカイ桶のようなウッディバスタブがある。

湯が張ってあって、そこに湯客は入る。
桶を背にして、丸く円陣になって入る。

せいぜい10人ほどのスペースだ。

湯客は男も女も水着着用だ。

カリフォルニアの天気はいつも晴れているから、星が眺められる。外の空気も入ってくる。適当に木を配してある。

みんな静かに瞑想する。

あるいは瞑想に適したヒーリング音楽が流れる。

そんな癒しの空間。

なんだ、ただの混浴スパじゃないか?
ここまでの話ではそうなる()

なにも、夜のお遊びらしきものがない。

ここから先がこのスパのユニークなところなのだ。

この板張りの広いスぺ―スにバスタブを中心とした放射線状にやはり木で作った小さなロッジが10棟ある。

中はベッドが中心だが、シャワールームもあり、飲み物などもある。

これでお分かりだろう。

ここに集まる湯客は、気に入った人と、意気投合すればこのミニロッジに入る。

当然セックスをする。

初めからロッジをキープしておいて、気に入った人を入れ換わり立ち替わり誘い、セックスすることもできる。

お風呂と出会いパブとラブホテルをミックスにしたような設備なのだ。


さて、ここまではこの施設の面白さだが、この先の話はここサンフランならではのユニークな運営方法。

週の内、日にちによって、客層を違えている。

たとえば

月曜日はノーマルな客。

火曜日はゲイオール。

水曜日はレズ。

木曜日はヤングゲイ。

金曜日はオールドゲイ。

日曜日はファミリー。

こんな具合だ。

ここまで述べてきて、それでは成田はどの日のバスタブに入ったのかと問われれば、

実は申し訳ないけど、ワシはこのヒーリングスパには一度も足を運んでいない。

新聞や雑誌の広告を見て話しているのだ。

前にも言ったように、この年から、例のエイズがアメリカで流行り出した。

F氏の厳重な忠告もあり、男女共、不特定な者とのセックスは危険だと。

なので、その病気さえなかったら、ワシのことだ、入り浸っていただろう。

しかし、エイズの危険性が無くなった(死の病気では無くなった)現代では、こんなアダルトスパがあってもいいかなと最近では思っている。


「成田アキラのヒーリングスパ」なんて開湯してみたいなぁ。

女性はタダだ。
それどころか簡単な食事や飲み物を無料で提供。

「婚活ヒーリングスパ」なんてのを、日にちに組み込むのも面白いかも()

お風呂、裸のお見合い、婚前セックスのパッケージ()

 

プロフィール

  成田アキラのツイッター
スケベ漫画家成田アキラでございます。 もともと子供向けの科学漫画を描いていたワシが、テレクラ(テレフォンクラブ)にハマり込み、会った女性との艶事を漫画に描いたら、これが大ヒット。根がスケベだったせいもありエッチ体験漫画を以来延々と描き続けることになった。 女と車と温泉、この三点セットでのめり込んでいく。女との体験を重ねるにつれ、必然的に性のテクニックも上達し、ハウツーセックスものも手がけていくことになる。 ご存知「V筋攻め」なる必殺技も編み出した。 1945年生まれの現在74歳。まだナニも現役のバリバリ(笑) ワシのことは当ブログで、すべて出ています。末永いお付き合いのほどをよろしくお願いいたします。
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人はエッチ大好き、スケベである。これを共通認識・基盤として、ワシは様々な情報発信、活動をしていきたい。これをもって、世界平和を実現できればとの夢を描いています。
日本スケベ党総裁 成田アキラ





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