成田アキラのオンナは女神さま

オトナ専用のブログです。 刺激的な表現もありますが、制限を加えておりません。 ★18才未満立入禁止(笑)

成田アキラの小説

バーチャル内現実にワシハマっている。

バーチャル内現実にワシハマっている。


いまゲーム、メタルギアソリッド5をやっている。

プレイヤ―は伝説の『スネーク』を演じ、仇敵サイファーの復讐を果たすため、様々なミッションをこなしながら、

自らの組織「ダイアモンド・ドッグ」と、その基地「マザーベース」を拡大させていく。

アフガニスタンやアフリカの荒野に点在する敵地での戦闘になる。

 


ゲーム進行の物語はもちろん、面白いのだが、例によって、ワシはそこには心は無い。

何に魅力があるかと言えば、一番はゲーム内の「リアルさ」だ。

なので、ウチのスタッフにスネークになってもらい、ワシは傍らで観戦しながら、

リアルさがどこまで進化してきたかとか、映像のディテェールを注視する。

すでに、最近のリアルバーチャルゲーム、バーチャル世界は実写とほぼ同じである。

主人公のスネークも、登場人物も、馬も、半裸に近い女スナイパーも、俳優が演じているのではないかというほどリアルだ。

顔の表情で演技できるところまで来ている。

これで人工知能AIで「心」が形成され、それが彼らに装着されると、

その中で、住むことになり、ワシの小説の中に出てくる「バーチャル・アナザー・ワールドVAW」が実現したことになる。


自分がスネークになって、このゲーム世界を歩いたり、走ったり、銃撃したりしていると、

周りの景色があまりにも現実的で、ゲーム空間にいることを忘れてしまう。

入りこんでしまうのだ。

まるで、テレビモニターの画面を境に、こちら側の世界とあちら側の世界があって、

ちょっと頭をヘンに?すれば、あちら側に住んでいてもいいような気がする。

どういうことかというと、ゲームをする時間は、例えば、5時間やったとしよう。

その5時間は事実、ゲーム空間にいた時間だ。

人間が作った虚構空間だ。虚構だから、無駄な空間、つまり無駄な時間をここに費やしたのだ。

以前のワシだったら、明らかに、ゲームやっている時間は人生において無駄な時間だと切って捨てていた。

それが、本当に様変わりして(笑)、ワシは5時間、そのゲーム空間に住んでもいいかな・・・と思えるほどになってしまったのだ。

なぜ、そんなふうになってしまったのか、

ワシがこの世、つまり現実時空間もバーチャル空間と同じだと思えるようになったからだ。

ワシの理論、非風揺葉理論が、ワシにとって、体に染み込み始めた、血となり肉となり始めたからだ。

今では、この世も、何かは分からないが、電気的な原理で構成されていると確信している。

電気的と言わざるを得ないところがはがゆいが、これの原理を「空界原理」と呼んでいる。


ゲーム空間における「空界原理」に当たるものは、「コンピュータのプログラミング」だ。

さらにプログラミングを構成する「オン・オフの意味あるスイッチングの連続列」だ。


つまり、ゲームは「1001010010111001010100100010100・・・・・」という、オン・オフの数列で出来上がっているのだ。


この場合、2進法だが、10進法でも、100進法でも構わない。


つまり、モニターに見えるものが、こんなふうな情報を乗せたタダの数列に還元できるということだ。


ワシは同じように、ワシらが住む現実時空間も、数列、あるいは、振動から成っていると考えるのだ。


振動から成っているという、最新の理論が発表されている。

この世界は微細な振動するヒモのようなものからなっているという「超弦理論」が現れた。

まさしく、ワシの非風揺葉理論の「空界原理」と似ている。

そういうこともあって、ワシは「空界原理」にますます自信を深めて邁進(笑)している状態なのだ。


なので、いまや、ワシは、ゲーム世界のバーチャル空間と、我々が住む現実空間とを、分け隔てることはしなくなった。

 

そんなワシがメタルギアの空間で遊んでいて、特筆すべき面白いと感じたことがある。

スネークが敵地で敵兵を捕える。

その敵兵が役に立つスキルを持っていた場合、生かしたまま、基地「マザーベース」の建設要員、傭兵とすべく、拿捕して基地に送るのだ。

その送り方がメチャ面白い。

捕えた敵兵に風船(バルーン)をつけると、ものすごい勢いで空高く上昇して行く。

バルーンは点となって空の空間に消えて行く。

それは、ちゃんと基地「マザーベース」に届いている(笑)。

逆に、「マザーベース」からスネークのところに必要な機材、火器などが、要望すれば、今度は、超スピードでパラシュートで届けられるといった具合だ。


笑っちゃうのが、補助してくれる犬や、露出過多のスナイパー女も空から降ってくる(笑)。


先ほどのバルーン輸送は、大きなトラックでも、コンテナでも、やろうと思えば、バルーンを取りつけて、空高く舞い上がらせることができるのだ。


こういう漫画的なことは、こういうゲーム空間だからこそできることで、我々現実空間ではあり得ないことである。


バカにするほど滑稽なことである。

にもかかわらず、いったん、このゲーム空間に“住んで”しまったワシから見たら、別に不思議なことではないのである。

ここが、ものすごく面白いところだ。


バーチャル空間では、敵兵やトラックをバルーンで基地に送るのは「現実」なのだ。


滑稽なことではなく、通常の光景である。

いわば、「バーチャル内現実」ということになる。

バーチャル内では現実だから、なんの違和感も非現実感もなく、漫画のようだと笑い飛ばすこともない。

粛々とバーチャル空間の物理に従って任務を遂行するだけである。


ちなみに、敵兵をバルーンに繋げて舞い上がる瞬間、敵兵が悲鳴を上げながら、

重たい体を重たい重力の法則通り、ブランブランと揺れるさまは、ここまでやるかというくらい良く出来ている。

脱帽である。


スナイパー女のオッパイ半分見せ、胸下露出姿は、ワシを楽しませてくれる。

この女は実は人間ではない。人工人間で、時速500キロくらいで砂煙を立てながら走る(笑)。

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その15、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには―― ③意識という機能は、エピソード記憶を成すために作られた。

その15、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには―― 意識という機能は、エピソード記憶を成すために作られた。

 


さて、人間は、それらの動物たちとは、段違いで、脳が発達した。

記憶の容量は脳のインフレーションといってもいいくらい、膨大な量が蓄積された。

そして生きている間中、想像を絶するほどの勢いで蓄積されていく。

当然、記憶タグ(エピソード記憶)も半端なく増える。


さて、膨大な記憶とタグが蓄積されると、どんなタグがあるのだろうか?


今回は、どんなタグ(エピソード記憶)が増えるのか、

ワシの独断的推論を述べてみようと思っています。

 


危険を回避する「危険防止タグ」も、脳の記憶容量に比例して増えていく。

危険回避がなされてしまうと、次にどんなタグ(エピソード記憶)がなされるんだろう――とワシは推測していく。

それでも、危険回避タグに近いもの、似たようなものがタグになっていくんではないかと思われる。

なんてたって、生物は自分の存在を永続させるのが一番優先させるはずだからだ。

自分の存在を永続させるもの―――これはなんだろう。

危険回避とは結びつかない種族繁栄を促すものが考えられる。

しかも危険回避と似たようなものになるだろう。

それを合わせると、「利己・利己主義」になる。

自分の利益だけを大事にし、他人のことは考えない。

ワシの推論だが(独断だが)、おそらく、「利己タグ」がものすごい勢いで増えていくものと思う。

自分さえ良ければという利己主義、自己中心主義。

これを具体的に、ある一面を切り取って解りやすく言うと、

ここに美味しい食い物がある。

何人かの未発達の原始人がいたとする。

彼らは「利己タグ」に基づいて、我先にその食い物を奪い、

奪った者が食に与り、栄養とし、元気になり、子孫繁栄に、そのあり余った体力で他のオスと格闘し、勝ち、メスを獲得する。

セックスをし、メスを孕ませ、自分の分身・DNAを増やしていく。

一連の行動の中にも、「利己タグ」が生じ、増加追加される。

体に栄養になる食い物の選び方とか、メスの獲得方法とか、勝つ格闘法とか。

しかし、それらは、自分さえ良ければという利己主義から一歩もはみ出していない行動である。

ところが、ところがである。

ここから先が面白いのだ。

先ほどの原始人のオスがうまい食い物を持っていると、それを欲しがるメスが傍に寄ってきた。

うまい食い物を持っていると、メスが寄ってくるということに気が付いた。

うまいものを持っているだけで、メスが寄ってくる。「メス誘導タグ」が追加(笑)。

しかし、これも、なにもメスのためのタグではない。

自分のためのタグだ。

そのうち、偶然に、メスがオスの食い物に手を近づけたので、オスはうっかり、盗られてしまった。

奪い返そうとするが、すこし、このオスのんびりしている間に、盗った食い物をメスは美味しく食べる。

すると、メスはオスに擦り寄ってきた。

それだけではない、メスはセックスを求めてきた。

ここでオスは初めて美味しい食い物を相手に「移す」と、メスは性器をこちらに拡げてくることを知った。

種族繁栄に役に立つ。

こうして、オスはここにきて、食い物をメスに「渡す」と「いいこと」があるという「プレゼントタグ」が追加された。

この「いいこと」がただ単に「種族繁栄にいいこと」だけではなく、メスとセックスするときの性快感が「かなりの大きないいこと」なのだ。

この「いいこと」、これも、自分のためなのだ。

しっかりと「利己」は保たれている。

にもかかわらず、メスの「幸せ」ともなっている。

ついに、他を利する、他を幸せにする「利他」がここに出現したのだ。

メスに偶然、食い物を渡したため、「利他」が脳の中に生じた。

相手を幸せにしたのだ。

相手を幸せにする―――これを、現代用語では「愛」という。

そう考えると、「愛」は自分に「利」をもたらすから、「愛」が人間の脳に生成されたのだ。

しかも、「性快感」という大いなる付属機能が愛にくっついてきた。

こうして、この世に「愛」が出現したのだ。


愛は何も高尚なものではなく、タダの利害関係から生まれたものなのだ。

 


こんな推論をワシはしてきた。

しかし、現在の「愛」を直感的に思うに、ちょっと違うぞと思う。

「愛」には無償の「愛」というものもある。

そう考えると、愛の極地「無償の愛」までに昇華するまでに、

これまた、膨大な愛に関わるタグ(エピソード記憶)が生成され、取捨選択されてきたんだろうと思う。

 

性快感においても、どのような過程を経て、人間はその機能を獲得して行ったのか、まだまだ、途方もない未知の分野がある。

 

しかし、愛の最初の出だしは、利己による他利生成だと思われる。

無償の愛までの生成コースも相当複雑だったんではないかと、

それはそれでワシは想像たくましく推測しているが、それはまたの機会に述べていきたいと思います。

 


ここまで述べてきて、身も蓋もないことを言えば、

愛も、無償の愛も、その他の心の有り様は、脳の中のニューラルネットワークの記憶の所作に過ぎない。


脳科学者、前野隆司氏によれば、

「心はイリュージョンである」

「自分が先入観念として思っている“いわゆる心”というものは無い」

「自分の意識は無い、意思決定は脳の中のニューラルネットワークの中の無意識の記憶モジュール様が決定しているのである」

ということである。

 


しかし、その上で、確固とした、手に取るようなモノではなく、なんとも存在感希薄な――「こころ」というものが、

この大宇宙に生成され、「在る」ということが、奇跡としか思えなく、

まあ、脳がコンピュータだとした場合、無機的なコンピュータが今まで存在しなかった次元である「心という次元」をこの世に生じさせたのだ。

これは「無」から「有」が生じたといっていいだろう。なんとも不思議な事ではないか。

 
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その14、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには――②意識という機能は、エピソード記憶を成すために作られた。

その14、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには――②意識という機能は、エピソード記憶を成すために作られた。

 

膨大な記憶にタグ(エピソード記憶)をつけ、それによって、記憶の整理をし、呼び出しの便利さをはかった。

この機能が心の生成に繋がった。つまり、心(精神)がこの世に出現した。




これが前回の記事だが、今回は、なぜこんな機能が生成されたのか? 

について、ワシの推論を展開していこうと思っています。

 




動物は進化の過程で、どのあたりから「脳機能」と言えるものが発達してきたのかは、ワシはわからないが、

脳の進化の初期のあたりでも、動物にとって最重要な脳機能は「敵の発見・それから逃れること・異性の獲得・種族保存繁栄」

つまり、食い殺されないで種族を繁栄させることである。

生存競争に勝つことだ。

そのためには生きている間、記憶として脳に溜めたものから、敵か味方かを峻別しなければならない。

脳には膨大な記憶がある。

それを整理しなければならない。

敵が襲って来た経験ができたら、すぐにそのエピソードを記憶として、映像と共に「この映像と記憶は危険!」とタグをつける。

エピソード記憶として脳にしまい込む。

もの凄い数の危険動物がタグ化されていく。

動物に限らず様々な危険因子とその理由をタグ化していく。

異性を手に入れるに、なかなかうまくいかず、たまたまうまく異性を手に入れたら、「エピソード記憶の異性獲得テク」のタグがつくだろう。

こうして、脳の一番の役割は「生存競争に打ち勝っていくこと」であった。



打ち勝っていくためには、脳にエピソード記憶をこしらえて、危険に接したら、

危険記憶を瞬時に甦らせて、来るべき敵に対処していかなければならなかった。

あるいは、瞬時に「異性獲得マニュアル」を呼び覚まし、

異性をモノにし、孕ませて、種族を繁栄させていかなければならなかった。

このエピソード記憶(記憶タグ)が生存に必要なものであり、これが意識と呼ばれるものの正体なのだ。

こうして、初期の意識が芽生えた。

そういえば、人間は記憶するとき、驚いたり、感動したとき、記憶が心に強く刻まれる。

脳の初期のころ、敵に襲われたときの「恐怖」が記憶を強く、脳に焼きつける。、

この「恐怖」がこの時のタグをより大きくしていたのだ。

その理由で今でも、驚きや感動が、記憶を強化する――ということが残っているのだ。

 

そして、長い年月を経て、これらのタグはDNAに組み込まれていった。


たとえば、サバンナの草原に棲息する草食動物は、産み落とされて、すぐに立ち上がろうとし、

ものの5分ほどで走れるようになる。

これは、ライオン、チ―タ、トラ、ヒョウ、など肉食獣から逃れるタグがDNAの中にすでにあるからだ。

 


このようにして、脳の初期のころは、生存競争に打ち勝つために、タッタそのためのみに、意識というのが生成されていったのだ。


さて、人間は、それらの動物たちとは、段違いで、脳が発達した。

記憶の容量は脳のインフレーションといってもいいくらい、膨大な量が蓄積された。

そして生きている間中、想像を絶するほどの勢いで蓄積されていく。

当然、記憶タグ(エピソード記憶)も半端なく増える。


さて、膨大な記憶とタグが蓄積されると、どんなタグがあるのだろうか?


次回は、どんなタグ(エピソード記憶)が増えるのか、

ワシの独断的推論を述べてみようと思っています。

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その13、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには――①意識という機能は、エピソード記憶を成すために作られた。

その13、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには――①意識という機能は、エピソード記憶を成すために作られた。


ワシは自宅から仕事場まで、車で通ってる。

その途中で、さまざまな脳機能の研究をしている。

それについては、このブログで、書いてきた。

脳のスリープ現象とか(アメブロの脳のスリープ現象のテーマを順次読んでいただけるとわかりやすいと思います)、脳の圧縮機能とか、ある交差点での女の人の記憶についてとか、視覚には2通りの見え方があるとか。

 


今日は、ある交差点での女の記憶について書いてみよう。


ワシが通っている途中のある一か所の交差点で、すこし特徴のある女性とか、普通の女性でも、興味をもって、注視すると、

その光景が記憶に残る。

以前見た、ブルーのワンピースのショートカットのまるで鳥のような痩せた女性と、

茶系のスカートで同じく茶系のパンプスを履いた女性は、今でも記憶に残っている。

どうやら長期記憶に刻み込まれているようだ。

 

その交差点を、彼女らを見た方向にクルマを進入させたとき、

いつも、その交差点が、フッと、ワシの脳裏に浮かぶ。

まったく、「意識していなくても」、浮かぶのだ。

彼女らのことが記憶に甦ってしまう。

 


ある日、その交差点を、逆方向から進入したとき(帰宅のときは当然、逆方向になる)、

まったく、その交差点が特別な交差点だと意識せずに、通過していることに気が付いた。

ふと、行き過ぎてから、あの交差点はどこだったっけ? 

なので、次の日、注意深く、同じように逆方向から入っていくと、

今度は意識しているので、逆方向でも、すぐに気が付いた。

 


それにしても、順当な方向(仕事場に向かう方向)から進入すると、いつも、この交差点がフト浮かぶのに、

逆方向だと気がつかない――――

これを、よく考えると、彼女らを記憶に入れる時、周りの背景もワシが、気がつかない内に記憶にインプットしているということがわかる。

 

順当な方向の景色はバッチリ覚えていて、逆方向の景色は覚えていないのだ。

 


やはり、人間は、無意識に記憶に入れていることがあるんだ。


ある学者が、人は、目に入ったものはまるでビデオを撮るかのごとく、まるまる、すべて記憶していると言っていたが、

その膨大な記憶が、なんで、自分が呼び出そうとしても思い出せないのか?


それに対するワシの答えは、「思い出しのタグ」がついていないからだと、推測している。

 


さっきの交差点の場合は、そこにいた女性の記憶が呼び出しのタグになっているんではないかと思う。

 


要するに、人間の記憶は、 ほとんど、無限大に近く、脳に格納されているにもかかわらず、そのほとんどが記憶として呼び出されないのだ。


脳科学者の前野隆司さんが、面白いことをおっしゃっている。

「意識という機能は、エピソード記憶を成すために作られた。

エピソード記憶をつくるのが本来の目的で、その過程で付属的に意識というものができたのだ。

つまり、意識=心はもともと、心を作ろうとしてできあがったものではないのだ。」

 

脳のニューラルネットワークには、それこそ、無限に近いほど、たくさんの記憶が格納されている。

もし、その記憶軍団にタグがついていなかったら、人間の頭は混乱して、記憶はまったく使いものにならない。

前野先生は、記憶を整理して、タグをつけないと、記憶として呼び出せないから、ひとつのエピソードとして、

つまり物語として、記憶はしまってあるのだと。

記憶を格納するために、そして、引き出すために、そのためだけに意識という機能をもたせたのだというのだ。

なにも、高尚な心を持たせるためではなかったんだと。

 

我々は、心(精神)は、高尚で大切で素晴らしいものだと思っているが、

エピソード記憶として引き出しを作るためだけに、心はつくられたのだというのである。

言わば、心は当初から計画していたものではなかったのだ。

偶然できてしまったのだ。

 

ここらあたり、実に面白いでしょう。

膨大な記憶にタグ(エピソード記憶)をつけ、それによって、記憶の整理をし、呼び出しの便利さをはかった。この機能が心の生成に繋がった。つまり、心(精神)がこの世に出現した。

これが今回の記事だが、次回は、なぜこんな機能が生成されたのか?について、ワシの推論を展開していこうと思っています。





 
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その12、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには――脳科学者、前野隆司の「脳はなぜ“心”を作ったのか」受動意識仮説にワシはのめり込んでいる。

その12、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには――脳科学者、前野隆司の「脳はなぜ“心”を作ったのか」受動意識仮説にワシはのめり込んでいる。


この本を読んでから、考え方の広がりがさらに大きく広がってきた。

今までの心の捉え方は「心における天道説」であった。

彼の説を理解してくると、いきなりコペルニクス的転回が訪れる。

すなわち「心における地動説」にワシの思考はシフトした。

いやいや、モノスゴイ衝撃的な転回である。



彼の説を超簡単に言うと

「無意識が自分を動かしている。心という意識が自分を動かしているのではない」だ。

つまり自分の心が何事も決定しているように思われるが、

実は、脳の中の様々な記憶(無意識)が談合したその結果に基づいて自分を動かしているのだ。

脳にある無意識な記憶は固定化されたり、飛び回ったり、発火したり、ニューラルネットワークの中で動き回っている。

このネットワークの中に分化された大小様々な記憶のことをモジュールというが、言わば、無数のモジュール様が談合をするのだ。

どのくらいの数のモジュール様がおわしますことやら。

たぶん、無限に近くいらっしゃるんだろう。

なんせ無意識だから、ワシ本人が数えようと思ってもそれは不可能。


こんなことを考えながら、いつものように、ワシは自宅から仕事場に通勤途中に、

ワシの脳を使って脳の仕組みを研究しながら運転をしている。

たとえば、車窓から、ある物を見たとする、その物を見て、自然に出てくるイメージ(光景)を連想していく、

走馬灯のように次から次へと見ていく。

その光景は、つい最近のことだったり、ワシの子供のころのだったり、あるいは、物ではなくて何だかわからない抽象的な光景だったりと、

こんな実験をいままでしたことがなかったので、やって見て驚いた。

普段、無意識の中に埋もれている光景がほとんど無限と言っていいほど隠されていたのだ。

しかし、思い出された光景は、意識上に以前浮かび上がって来たものばかりだと思われる。

ほんとうの無意識の光景は、無意識として、格納されたものだろう。

面白いのはこうして出てくるイメージは、ワシが意識的に見ようとしたものではなく、

まるで、白い霧のようなものの中から、思ってもいない、考えてもいない光景がフッと出現するのだ。


運転しながら、こんな実験をしていて、ワシはこう叫びたくなった。


「脳の野郎、あんたはどんだけ記憶してるんや!

いくらでも出てくるやんけ。底無しやな。

無限と言ってもいいかもな。

な、なるほど、無限のニューラルネットワークがあんたの正体だな。

そうすっと、あんたの無限の記憶物量からしたら、ワシが自分の意思で動いているなんて、

そんな思いをするなんて、おこがましい限りや、身の程知らずや。

あんたが大将や。ワシはあんたの言う通り動いているに過ぎない。

よーわかったで。

ワシはアンタの奴隷ってことをな。

そうすっと、ワシはワシが想っている心ってもんがなかったことになる。

アンタの記憶容量ってスゲエもんだ。おりゃ、あんたにまいった、降参したで」



人間の記憶は、学者によっては、見たもの、聞いたものすべて!、すべて記憶しているという。ワシもそうだと思う。



―――ーというわけで、この、受動意識仮説をもとに、ワシはさまざまな研究をしている。

脳の研究において、いいところは、なにも実験室をもたなくてもできるところだ。

自分の脳一丁で研究できるからだ。

あの心理学のフロイトも自分を研究材料として学を成したのだ。

ワシもフロイトにあやかってケンキュウしよ――っと(笑)。

次回に続きます。

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作家たちに答えをもとめていたのだが・・・・

作家たちに答えをもとめていたのだが・・・・


悩み多き20代後半、うつ気味のワシは、なにか人生の意義、目的、存在理由など答えを求めていた。

当然、様々な作家たちの著作に答えがあるのではないかと、読んでみた。

しかし、答えは見つからなかった。

わかったのは、作家たちが、それらを模索し、苦悩している姿だ。


芥川龍之介、 太宰治、 中島敦、 三島由紀夫、 
二葉亭四迷

尾崎紅葉
、 森鷗外、 北村透谷、 国木田独歩、 島崎藤村、 

田山花袋
、 夏目漱石、 谷崎潤一郎、 志賀直哉、 

江戸川乱歩
、 室生犀星、 高村光太郎、 宮沢賢治、 

川端康成
、 梶井基次郎、 井伏鱒二、 堀辰雄、 島崎藤村、 

安部公房
 小島信夫、 

石原慎太郎、 開高健 
夢野久作、 北杜夫、などなど、  

こんなかんじの作者の本を読んでいた。

まあ、誰でも読む定番の本だ。

ワシは外国の本はあまり読んでいないから、よくわからないが、日本の作家たちの内容は総じて暗い。

“うつ”だった20代後半のころ、こんな暗い本を読まされると、なおさら、心は暗くなっていく。

どの作家がとは言わないが、気が滅入るものばかり。

しかも、ワシの求める答えがない。

まあ、暗い精神世界が作家それぞれ、いっぱいあるなぁ――と言った思いが残っている。


結局、個々の作家たちが、個々のテーマのもと、模索し苦悩する、それそのものが小説と言うことにワシは結論付けた。

30代40代・・・・と、その後、次のような作家たちの本を読んでいった。


永井荷風、 
瀬戸内晴美、 村上龍、 村上春樹、 宮本輝、 

檀一雄
、 吉行淳之介、 遠藤周作 唐十郎、 井上ひさし、 

筒井康隆
、 松本清張、 星新一、 夢枕獏、 五木寛之、 

島田雅彦
、 山田詠美、 吉本ばなな、 寺山修司、などなど。


ここに来ても、答えは出ない。


この中で、
遠藤周作が宗教的な意味で答えを出してくれそうな気がしたので、

彼の著作をおっかけていったが、結局は、答えは出ずじまい。


なんでもいい、玉ねぎさんだっていい、祈れば救われる―――だって! いい加減にしてよな。

まあ、その通りだけどね(笑)。



五木寛之にも期待したがうまくかわされた。

人生後半は登山における、下山のようなもの、ゆっくりと周りを楽しみながら下山しましょう――だって! バカにしている。

何事も諦めが肝心といっとるのね(笑)。


だんだん、小説家を、いろいろ調べていると、小説家なるものが、カネや名声欲しさに書いている人も当然ながらいて、

まあ、聖人君子ではないのだから、金儲けに走る人がいても、ちっともおかしくはないが。


自分の小説が売れるには、どんなテーマでどんな書き方で人を引きつけていくか。これも、当然、プロだったら当たり前のこと。

故、藤本儀一さんとお会いして、お話したことがあるが、彼は、エッセイの中で、はっきりとこうおっしゃっている。

「小説家なんて、詐欺師みたいなもんだよ。ウソをいかに本当らしく書けるかだ」

まあ、小説家なんてもともと、戯作と言っていて、戯れに作ったもの。

高尚なもんじゃないのだ。



誰とは言わないが、超有名な作家が呆れかえることをしているものもいる。

(この小説家の本を数ページ読んで、アホくさくて、コミ箱に捨ててしまった。

ワシはつまらないと新品なのに、即、ゴミ箱にすてるクセがある。何本の本が捨てられたことか(笑))


そんなこんなで、今のワシは、その小説をそのまま、心に入れるのは、ちょっとマズイぞ、というスタンスをとっている。


答えを求めていたが、この世に答えを求めることが、どだいナンセンスなんだということもわかってきた。



今、答えに近いものとして、ワシが信じられるものは、般若心経の「色即是空、空即是色」だ。

これ1本に絞られてきた。

ワシはこれを追求することに今、ほとんどの時間を費やしている。スケベ事をしながらも(笑)。

これからのワシの人生は、色即是空に関わるエッセイや小説に全力をあげて挑んでいこうと思っている。

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「移人称小説」広がる―――1人称いつの間にか3人称に――

今日の新聞に、「移人称小説」広がる―――1人称いつの間にか3人称に――、と出ていた。


移人称?

なんのことだろう?

そう思って読んでみると、小説というのは1人称なら最後まで1人称で話が進む。

3人称なら最後まで3人称で語られていくというのが常道だ。

ところが最初は1人称だった進め方が途中で突然3人称になる。

あるいは途中のエピソードだけ3人称になる。

こんな書き方を「移人称小説」と言うのだとか。

こんな「移人称小説家」が最近、増えているのだとか。

賞を取った小説家にもいると、名前をあげて実例をあげて記事に書いてあった。



こんな記事を読んで、さて、ワシの小説は何に当たるんだろうと考えた。


なんせ、ワシはいままで、ちゃんとした小説など書いたことがない。

「イキナリステーキならぬイキナリ小説」だ(笑)。


ワシの小説は、とにかく読者に解り易ければという視点で書いている。

まあ、ワシがわかりやすくと自己満足で書いているだけかもしれないが(笑)。

とにかく、いい加減なことは確かだろう。

まずもって、ワシの小説作法は、自分自身が緊張感を持って書いていない。

リラックスして書いている。

よって、何人称だなんて、ワシの頭にはまったくない。

めちゃくちゃかもしれない。

ワシの小説は「移人称小説」の範疇に入った小説であることは確かだ。

移人称どころか、現実世界とバーチャル世界とを股にかけて、飛び交う話なので、さらにややこしい人称構成になっている。

時々、作者のワシ自身も混乱する。いや、している(笑)。

まあ、ワシの小説は「異人称小説」と呼んでほしいかな。


それに、何人かの人物が次々と会話をしていくシーンは、仕方なく、

戯曲のように、人の名を頭に付け、

例えばリアルアキラ「○○○○・・・・」
アバアキラ「○○○・・・・」

リアル美希「○○○○・・・・」
アバ美希「○○○・・・・」

ソ―メイ所長「○○○・・・・」

カジュラ「○○○・・・・」

精鋭A「○○○・・・・」

と言った具合に、書いていくしかない。

ほんとうに、ワシは小説ビギナー。その場その場でいろんな変形式を使って書き進めてきた。


そして、ワシの小説はあちらの世界とこちらの世界との並列進行なので、一番ワシを悩ませるのが時系列の問題だ。

あちらの世界の中でも未来と過去があって、うまく噛み合せて行くのが、ものすごく厄介だ。

なんちゅう小説をワシは書き始めたんだろうと、頭が痛くなることがある。

さらにさらに、厄介なのが、あちらのバーチャル世界のほうが文化文明の進歩がこちらの現実世界より、早いのだ。

例えば、あちらでは5年後に大阪―東京間のリニア新幹線が完成、開通するのだ。


ワシの小説、第三部は心の奥深くを追求し、人間存在の問題まで書き記して行こうとしているのだから、さらに、厄介な小説になりそうだ。

もちろん、ワシの「非風揺葉観」を基底にして小説を構成して行くつもりだ。


どんな小説になるか、ワクワクしながら、今、頭の中で構想を練っている。


 
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その11、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには――非風揺葉理論と「受動意識仮説」――

その11、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには――非風揺葉理論「受動意識仮説」――

 

「受動意識仮説」では、心・精神世界はイリュージョンと説く。


「非風揺葉理論」では、物・物質世界はイリュージョンと説く。

 



「受動意識仮説」
では、心はイリュージョン。

よって、人にはなにかをするときに自分の意思がない。

「私」というものがない。

脳の中のニューラルネットワークの無数のモジュールが本人の意思と関係なく(無意識に)、構築構想され、

それが表に出てきたものが、人間に行動を起こす。

この行動の決定が先で、人間の意識は「言わば後ずけ」なのである。

人間には「意識」として自分が意思決定したかのごとく思い込むだけなのである。

主体はその無数のモジュール(脳の中で、動き回る無数の無意識=これらを擬人化して前野先生は
脳の中の小人(コビト)”と言っている)。

そのコビトたちが民主的?に決定したのが実際の行動になるのだ。

はじめに意思があってトップダウンで行動を起こすのではないということ。

いわば、当人は無意識のコビト達の奴隷なのだ。

意識は決して能動的ではなく受動的なのだ。

こうなると、我々が「こころ豊かで、情緒溢れ色彩に満ちた感覚世界(クオリア=質感)」も、タダの脳内の記憶ネットワークの働きに過ぎないということになる。

脳が世界を作っているのだ。




「非風揺葉理論」では、物質がイリュージョンなので、物質である脳も、イリュージョンである。

脳で作られる心もイリュージョンなのだ。

ワシは精神も物質もイリュージョンだといっているのだ。

ワシはコンピュータのバーチャル世界がコンピュータプログラミングで作りあげられているように、

我々の世界も「何らかの電気的な原理」で構成されていると思っているのだ。

この何らかの電気的な原理を「空界原理」とワシは呼んで、空界原理で構築されている場を「空界」と、ワシは解釈している。

前野先生流に言えば、空界のほうで、空界原理コビトたちが我々の世界を作りあげていて、それを物質化したものが我々現実世界となる。



それにしても、我々物質世界は、なんと巧妙に出来上がっていることか!

質量(重さ)までも空界コビトたちが創作しているのだから、

この世がイリュージョンだとは、つゆほども思えない。

そんな仕掛けになっているのだ。


脳が作り上げる感覚世界(クオリア=質感)が、我々を見事に「まるで在るかのごときに」騙しているのだ。

本当に釈迦が言った「色即是空・空即是色」は、現在においては、科学的に証明されつつあるといってもいい。



我々は騙された現実時空間の中で、騙されたまま、幸せに生きるしかない。

この奇跡のような珠玉の物質世界で喜怒哀楽し、生活していくしかないのだ。

ただ、空を知って色界を生きるのと、空を知らずに色界を生きるのでは、人生の豊かさの意味合いがまったく違ってくる。


芥川龍之介が
「侏儒の言葉」の中に、

 天才とは僅かに我々と一歩を隔てたもののことである。

ただこの一歩を理解する為には百里の半ばを九十九里とする
超数学を知らなければならぬ。」

 
と言っている。

侏儒は小人(コビト)。

しかも、超数学と言っている。

コビトが前野隆司教授のいう脳の無意識のコビトのことを言っているような気がする。

超数学がニューラルネットワークのことだとこじつけることもできる。

 


ワシの非風揺葉理論では、空界原理のコビト。

空界原理のことを超数学ともこじつけることも出来そうである(笑)。




 
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その10、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには――非風揺葉理論と「受動意識仮説」――

その10、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには――非風揺葉理論「受動意識仮説」――

 



前野隆司先生の、「受動意識仮説」の核心部分はこうだ。



例えば、コップを持つという動作を例にとってみる。


ワシが「コップを持とう」と考えてからコップを持つのではないということなのだ。


ワシがコップを持とうとする、その前に、コップを持つと言う動作のための準備が脳の中で始まっているのだ。そういう準備が整ってから「コップを持とう」という「意識」が生じるというのだ。



脳の中のニューラルネットワークですでにコップを取るということが、ワシの意思決定の前に準備されていると言うことなのだ。

あとで出来た意識というのは人間が自分の意思で行ったと思い込ませるための作りモノの幻想だというのである。

何だか、スゴイ理論でしょう!


こう言う実験検証(川人光男)から彼は人間が、自分の意思で決定していると思い込んでいたことを、そうでないのだと論を進めていくのだ。


ついには、我々が見たり聞いたり感じたりすることが、我々の思っている実感とは全然違うということを科学的に解き明かして行ったのだ。

ついには、心はイリュージョン(幻想)だと結論づけた。

我々が思っているクオリア(質感)も人生も、幻想だと言うのだから、

もう、アギャギャギャ~~~の世界だ。

 


これは、ワシが、「風で吹かれているように見える木の揺れは、実は風がそうさせているのではない」=非風揺葉理論の

アギャギャギャ~~~と通じるモノがある。

 


ワシのようなタダの一介の漫画家が、そんなふうに感じる時代になったのだとも言える。



前野先生はこうもおっしゃる。

釈迦は苦行と瞑想の果てに悟り・大悟に至った。私は科学的手法で大悟を手に入れた。

またしても、おこがましくも、ワシは、リアルバーチャルゲームからヒントを得て、大悟に達した。 



すこしだけ、この世の不思議をしつっこく考えてみたら、

こんな考え方を持つ人はこれからもたくさん輩出してくるんではないだろうか?

釈迦の悟りの市民権化という時代に突入したのだ。




どうやら、コンピュータなるものがこの世に出現したことから、こうした、脳の仕組みを解明するヒントになったのではないかと思われる。

コンピュータがなかったら、脳科学も発展していなかったと思われる。

 

ワシも非風揺葉理論を思いついたのは、実写とほとんど同じようになったリアルバーチャルゲームから発想したからだ。




前野先生は、人間と同じ心を持ったロボットは“当然”できると言い切っている。

ワシもそう思う。人工知能AIは人間を通り越すとワシは思う。

さらに 、ワシの小説に出てくるバーチャル・アナザー・ワールドVAWの世界はもうすぐ実現するだろう。

案外、10年とかからないかもしれない。

しかも、VAWのほうが我々リアル世界より、文明は先を行ってしまうだろう。

 


いずれにしても、前野隆司教授のような、科学的に解明した新世界を提示してもらうと、

ワシにとって、次の小説第三部を書くにあたり、自信を持って書き進めて行けるので、本当にありがたい。



まだまだ、勉強中。


小説スタートは9月になってからかなぁ・・・・

 

その9、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには――非風揺葉理論と「受動意識仮説」――

その9、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには――非風揺葉理論「受動意識仮説」――

 


脳科学者・前野隆司先生のご本の中に、「昆虫には心がない」と書いてあったが、

昆虫少年だったワシからみたら、昆虫にもれっきとした心があると思う。

前野先生はたぶん昆虫に親しい時期がなかったのだ(笑)。


昆虫は、ほとんどが食べ物を調達し、異性を獲得し、子孫を繁栄させるために行動しているように見える。



イシガキチョウという別名地球蝶という蝶がいる。

この蝶は人間から3メートルほど離れたところに、間違って葉っぱの上にとまったら、

「しまった、敵がいやがった」と、思い、

葉っぱの上にいたこの蝶は、よく見るとジリジリと葉っぱの端のほうに、その動きがほとんど分からないほどの動きで移動していく。

端のほうに行くと、今度は、同じように、ジリジリと葉っぱの裏に移動して行き、ついには葉っぱの裏に隠れてしまう。

まるで、心があって、そ~っと見つからないように隠れるという仕草をする。

見ていて、おかしくて仕方がない。

かわいいやつだと思う。

この行動は、敵が鳥だったら、ヘタをすると飛び立つ瞬間に食われてしまう。

なら気付かれないように、ジワジワと隠れようと、この危機を回避するための習性だとも考えられる。

それにしても、この光景をみたら、まるで意思があるように見える。

こう言う習性はセミにもある。



まあ、DNAに組み込まれていると言ってしまえば、心はないともいえるかもしれないが、

蝶ではこのイシガキ蝶とスミナガシ蝶くらいか、こんな“こころ”を持った蝶は。

 


人を刺すアブも心を持っているんじゃなかろうかという行動をする。


ワシは野外の露天風呂によく行くのだが、普通のアブは、裸の露出した部分のどこにでも攻撃してくる。

手とか背中とか脚とかである。

しかし、同じ種類の何匹かの中の賢いアブは、ワシの腰に巻いたタオルの中を目がけて入ってきて、

大事なところとか、太ももの付け根とかに張り付いて血を吸う。

動き回っても逃げ出さない。じっと吸い続ける。

「まさか、こんなところにオレがいるとは知らないだろう」と言わんばかりに、吸いついている。


このアブは、なんで、他のわかりやすいワシの体の部分に止らないんだろうと思うのだ。

 



アサギマダラという、山の高所にいる妖精のようなきれいな蝶がいる。


この蝶は他の蝶とまったく違う心を持っている。

それはどんなときに発現されるかというと、例えばワシがこの蝶を捕まえて、

再び逃がしてあげた時の行動に特異な習性がある。

 

どうすると思いますか?


他の蝶は慌てて、フラフラと無目的に逃げ出す。



このアサギマダラはなんと垂直方向に、つまり天に向かって一直線にドンドン上昇して行く。

ついには見えなくなるほど上がって行くのだ。

雲が上にあったら、雲の中にまで入ってしまう。


そのさまが、まるで心をもった生きもののように感じるのはワシくらいなのか?


もちろん、網で取り損なったときも、一目散に天を目指して上昇して、ついには点になり消える。


まあ、前野先生のご本を読んでいて、ワシはこんな体験をしていたので、昆虫に心がないとは思えなかったのだ。

しかし、DNAに組み込まれているのだったら、心はないと言えないこともない。

その8、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには――非風揺葉理論と「受動意識仮説」――

その8、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには――非風揺葉理論「受動意識仮説」――



今ワシは、次の小説「
実写に限りなく近づくリアルバーチャルゲームの行先はどうなるか?」の第三部を書くための準備をしている。


そのためには、以前からどうしても読まなければならないと思っていた本がある。

慶応大学教授の前野隆司氏の脳に関する著作だ。

「脳はなぜ“心”を作ったのか」、
「錯覚する脳」、

「死ぬのが怖いとはどういうことか」、
「思考能力のつくり方」、

「脳の中の“私”はなぜ見つからないのか?」

この5冊の中のはじめにあげた3冊はちょうど今、読み終わったところだ。

残りの2冊も読む予定。

「脳はなぜ“心”を作ったのか」、「錯覚する脳」、の二冊は特に重要なところなのでしっかりと理解しつつ読んだ。


前野隆司氏の脳の「受動意識仮説」は素晴らしい理論だ。

彼が自ら言う通りコペルニクス的転回といってもいい説だ。

天動説を信じていた人々を地動説が正しいと唱えたコペルニクスと同じくらい、衝撃的な説である。

ワシは全面的に彼の説を取り入れていきたい。


彼の説は、普通ではない。

ほとんどの人は信じられないであろう。


なんとならば、「人間の心はイリュージョンである、錯覚である」と主張しているからだ。


人間には「自らこうしょうという決心するのは自分の意識ではない」とも言う。

この本を読んでいくと、その理論がわかりやすく書いてある。

 


読んでいくと、色即是空に繋がっていく。

空の理解にもなる。

ほんとうに天と地がひっくり返る、驚くべき説だ。



ワシは面白くて仕方がなく、次々と理解していった。

なぜ、そんなに早く読めたのかというと、実は、ワシが日頃、思っていたことと合致する点がたくさんあったからだ。


もう、爽快で、愉快で、この世界を難しくしている学者たちを一刀両断に切り取っている点もワシは好きになった。

こんな人がついに現れた。

こんな人をワシは以前から待っていたのだ。



「心は未来において作れる。人間以上のすぐれた心も制作できる。心なんて、さほど難しいメカニズムではない」

こんなことをさらりと言ってのける。

ワシもこのブログで、同じようなことを言ってきた。

「この世に存在するものは人間の手でつくれる」と。

 

人間の心がイリュージョンならイリュージョンから作りあげられた数多の文化や宗教もイリュージョンであると、

まあ、なんと、さっぱりした展開か。ワシは諸手を上げて賛成だ。

 


そして、最後に、「死ぬことは怖くない」と大悟に達しているのだ。



まあ、ひとつ、おこがましくも言わせてもらえれば、

ワシの「非風揺葉理論」も、おそらく、彼の理論とリンクするだろうと思っています。

 

次回に続きます。

その7、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには――非風揺葉理論と超弦理論――

その7、ワシの小説を深く楽しんでいただけるには――非風揺葉理論と超弦理論――


自分が、今現在の在り方や、心の状態、感覚などを つらつら考えるに、

今、目に映っている世界も、その世界から感じている感覚も、それによって動かされる心の反応も、

「極めて自分個人のこと」なんだなと、改めて考えさせられる。


今、ワシは小説を書くことに、熱中している。

小説を書くことに心の大半を使っている。

その構想を練ることにワクワクしている。

70歳以前には考えられない心の変化・心境だ。



バイクに凝ったり、車に凝ったり、女に凝ったり、温泉に凝ったり、旅行に凝ったりと

コッタリゴコロは様々に変遷してきたが、まさか、小説に凝るとは思わなかった。

まあ、漫画家だから、漫画も小説の一ジャンルとも考えられるが、小説と漫画はこれを行うときの心の持っていき方がちがう。

ワシにとっては新ジャンルだ。



そんなことを考えていると、車に凝っている時のワシと、今、小説に凝っている時のワシとは同じ人物だが、人が違うほど、心の状態がちがう。

同じひとりの人間でもこれほどちがっているんだから、ましてや他人とだったら、びっくりするほど違っているだろう。


自分と他人とだったら、宇宙人と宇宙人と言ってもいいほど世界の見え方も、反応も、もちろん考え方も、心の在り方が違っているだろう。



虫の嫌いな人はたくさんいる。

チョウチョはまあまあ、見れるとしても、その他の昆虫を見るとモノスゴイ顔をして、逃げて行く人がいる。

ワシはその全く逆で、どんな昆虫でも心が楽しくなる。

ワシはゴキブリでも親近感を抱くくらい昆虫は好きだ。
蚊は刺すのがきらいだが、毛嫌いはしない。


昆虫少年だったワシは、昆虫から多くを学んだ。

あの小さな昆虫に脳があり、意思があり、生きているのだから、

これは考えれば、この小さな虫に宇宙を感じされるほどの潜在力があると直感できる。

トンボの飛行を見ていると、驚嘆に値する。
すばらしい、うっとりするほどだ。

蚊より小さな、1ミリにも満たない昆虫が羽を高速で羽ばたいている様も、

ミクロのメカニズムがこの世に存在することを人間に知らせてくれる。

 

と、まあ、こんなことを書いてきたが、昆虫を好きか嫌いかだけで、人の心は大きく違ってくる。

楽器が弾けるか弾けないかだけでも、その差はすごいモノがあるだろう。ワシはまったく弾けない。

様々な違いは当然出てきて、その差はとんでもなく隔たっているということがわかる。

まるで宇宙人と宇宙人である。

 


ここで、振り出しに戻ると、世界を見ること、人生を生きること、これらは「極めて個人的なこと」なんだと思うのだ。


つまりは、個人の幸せは、個人が自分自身をいかに幸せにするかにかかっている。


人とは比べるものじゃないということだ。

感覚だって、比べようがない。

自分が楽しい感覚に持っていくか、その感覚世界に身を置くか、これも「極めて個人的なこと」。

唯我独尊とはこのことを言っているのだ。

世界を作っているのも自分。幸不幸を作っているのも自分。世界から投影された感覚を作っているのも自分。

その時その時の気分を作っているのも自分。
こんなことを考えると不思議な気分になる。

 


自分が好きなことをやっている人が一番幸せと言う。

それは、「極めて個人的なこと」から見ると、ズバリその通りだと思う。


しかし、ひねくれたワシはこんな意地悪な思考実験をしてみた。

ある人が、河原で、河原の石を100メートル離れたところにひとつひとつ運び、小さな山に積み上げた。

次にその山の石を、また元のところに、ひとつひとつ運び、そこに山と積んだ。

この行動を毎日している。

彼はこの山積みをすることが楽しくて仕方がないと言う。

傍から見たら、なんの意味もないことを毎日毎日している。

しかし、本人は楽しくてしかたがないという。


この男は気が狂っていると思うのが通常の見方かもしれない。

ワシがその男に、なぜそんなことが楽しいのか聞いてみることにしょう(笑)。


「あんたは、毎日毎日、石をあっちからこっちに、ただ運んでいるだけだが、なにが楽しいのかね? 

無駄な時間を過ごしているとしか見えないが?」


「はははは・・・、あんたから見たら、無駄な楽しくもない行動に見えるだろうね。

100メートルの間に石の山をこっちからあっち、あっちからこっち、山を動かすのが楽しくてしかたがない。

石にも形、色、手触り、いろんなものがあって飽きない。

晴れた日もあれば、暴風雨のときもある。雪の日もな。

ちょい辛い時もあるが、辛さがあるから楽しみも増す。

なにより、世界広しといえど、こんな石積みの繰り返しをしている人間は私くらいなもんだ。一生やり通す覚悟だ。

あんた、チベットの行、五体投地御存じか?」


こんな驚くべき返事が返ってきた(笑)。


「あなたはひとりもんですか?なにで食べているんですか?」


「私は仏教徒で、石運びのほかは、托鉢で民家を回り、お布施で食を凌いでいます。

まあ、石運びは、私の修行、行です。あなたは私の石運びを無駄な時間と思われているのかもしれませんが、

私が無駄だとは思っていませんから、いつか悟りを得るでしょう。それは無駄だとは言えないでしょう」


「うーむ、御本人が無駄だとは思っていないんですから、無駄ではないと言えばそうかもしれませんが、うーむ・・・・」


「あなたはなんのお仕事をしているか存じ上げませんが、あなただって毎日、ほぼ同じことをなさっているでしょう。

あなたの仕事は、私の石運びの行よりも、すこし、複雑なだけで、あなたと私、さして変わらないと思います。

私の行のほうが単純明快で、人との付き合いの悩みもなく毎日が爽快そのものです。

おまけに、体が丈夫になっていき、石運びのあとのメシとビールのうまいことこの上なし、がはははは・・・」

 


さて、あなたなら、こんな行動どう思われますか?


なに? ワシ?


ワシは無駄だと思うから、絶対にこんな石運びはいたしません(笑)。


しかし、考えさせられる「石運びの修行僧の言葉」ではありますですねぇ・・・・



次回に続きます。

 

 
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スケベ漫画家成田アキラでございます。 もともと子供向けの科学漫画を描いていたワシが、テレクラ(テレフォンクラブ)にハマり込み、会った女性との艶事を漫画に描いたら、これが大ヒット。根がスケベだったせいもありエッチ体験漫画を以来延々と描き続けることになった。 女と車と温泉、この三点セットでのめり込んでいく。女との体験を重ねるにつれ、必然的に性のテクニックも上達し、ハウツーセックスものも手がけていくことになる。 ご存知「V筋攻め」なる必殺技も編み出した。 1945年生まれの現在74歳。まだナニも現役のバリバリ(笑) ワシのことは当ブログで、すべて出ています。末永いお付き合いのほどをよろしくお願いいたします。
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