~ぶっけんのブログ~

釈迦の解明した最後の遺産「法華経」の解説を加えた解読をします。

当たり前を馬鹿にしてはいけない諸行無常

よく当たり前を信ずるものではないと誰に対しても言う人がいる。
それで一体何を言いたいのか、その意味は何となくわからないでもないが、以前から当たり前の常識として知られて守られてきていることすべてを否定する言い方は逆にあまりに馬鹿げている。
 
お釈迦さまは亡くなる時に弟子たちにおっしゃった言葉があるらしい。
それは「変化対応せよ、この世は常に変化しているのであるから」と。
これは、専門的には仏教の「諸行無常」の意味らしいが、これはあくまでもお釈迦様がそれまで教えてきた弟子たちに対して伝えた言葉であることが重要だ。
 
お釈迦さまの弟子たちには実はあまり優秀な者は居なく、理解度の遅い厄介者たちだったということが、お釈迦様の教えといっても難しいところなのです。
お釈迦さまとはそういう出来の悪い弟子たちにあの手この手の手法を用いて、何とか真実とは一つであることを教えようと苦心していたのが事実なのです。
 
ですから仏様にとって当たり前のことというのはただ一つの真実しかないのです。
その一つの真実はとても難しすぎて普通の人間にはわからないのです。
つまり、お釈迦様があの手この手で説いて見せた一つの真実への道は、生き物世界全体の調和においてとても重要なことですから、人間社会を築く国の運営がその真実を取り入れようとしてないはずがないのです。
 
国にとって、それはごく当たり前のことなのです。
国が人間社会での当たり前の常識を前提に組み立てられ、それを積み重ねて進歩・調整を図っていることには違いないことを全く無視して、理解度が遅く、勝手で都合のいい判断ばかりするお釈迦様の弟子たち中心に図っては国としては成り立っていかないことを知るべきなのです。
 
お釈迦様のおっしゃった変化対応とは、一つの真実へ導くためのあらゆる調整手段が変化していることへの対応であることを理解することなのです。

瞬間に変われる地域ボランティア要員


昨日は、月に一度の書道教室ボランティアの手伝いとして、ある介護施設に訪問させていただきました。
その際に地域の福祉会理事長と付き添いの方が急に見学に来られて、私は初対面しました。
私はお手伝いをした後、そのいきなりお会いすることになった理事長から実はとても貴重な話しをお聞きすることができたのです。
 理事長言わく、介護老人に対し介護してあげる者として「またか」という言葉は絶対禁句というお話でした。
その言葉を言われた老人は必ず誰もが頭にきてもう二度と頼まないそうです。
 
その理事長の一言だけで、私はすべてを把握できるような説得力に感嘆し、その場ですぐ初対面の理事長を最大に信頼するにいたりました。
初対面の人どうしとは、まるで話も交わさなければ、お互いが日ごろ噂などから想定しているだけの人物像として、勝手な思い込みによる対人関係に済まされてしまいがちです。
わざわざ、私たち無断で訪問しているようなボランティアの者に対して、終わった後お茶を出してくれて親身に話をしていただけるなど、少し思いもよらなかったことでした。
 
そこで私はその理事長へお聞きしたのですが、地域の包括支援センターと福祉会とはどういう関係にあるのかということでした。
私は数年間ボランティアをしてきて、老人福祉にとって大切なはずの地域包括センターがあまり活用されてない思いがあり、しっかり機能しているのか誰に聞いてもはっきり認識している人はいなかったからです。
 
ところが、理事長の回答は、包括センターは介護施設運営との関係はとても重要であるというので、またその一言で唖然と感嘆させられたのです。
その説明はどういうことか、居住地区を担当する民生委員や一般ケアマネージャーからの直接の入所斡旋はあまり思わしく無いということなのです。 
入所介護を決める方は、事前にしっかりした手続きにより、家の状態や近隣関係など詳しい検討するための条件データが必要ということです。入所待ちに200件ほどもあるなどと評価をなされても、実際は一家庭が幾つか複数の施設へ事前予約しているケースなど手続き実態はさまざまに実際は不確かなデータで把握がつかない現状だということです。
 実際に勤めている施設職員では成し得ることができないことを、ボランティアの人たちならできる、それ以外やってくれる人はいないという、地域的な難しい調整や普及の重要な役割を担ってほしいとのことでした。
ボランティアの立場は重要というご意見をいただき、信頼しあえる大きな関係を身近な地域で、その場ですぐ作っていける素晴らしさをあらためて実感しました。

「書写するだけの修行効果」・・普賢菩薩勧発品第二十八【第8月】

普賢菩薩は先ず、大得意とする陀羅尼神呪を受持し、読誦し、思惟し、解脱し、説の通りに修行することを強く勧めていますが、その中には書写することは含まれていませんね。
しかし、たとえただ書写するだけであっても刀利天上に生まれ変わることができるほどの徳があると後から言っていますね。
 
これはどういう意味があるのかといえば、書写するだけなら何も知らぬままにも書かれている通りだけをただそのまま書いて写し取るという修行ですね。
ですから、たとえ意味が分からない言われるがままの者であっても書写するだけでこれだけの娯楽快楽を得れるくらいにとても有り難い陀羅尼神呪の教えだと説いているように考えられます。
ところで、これは様々な思考を要する解脱達成に対してすぐさまにも離脱、即ち危険な煩悩から直ちにも離れることだけを意味しているように思えます。
 
それに対し普賢菩薩は、受持・読誦して思考を深めて詳細に理解するための修行のほうを本来はもっと尊重してさらに優遇策を示して勧めているようです。
実はこの先に普賢菩薩は、確かな受持・読誦・解脱すれば、その人は命終後、更に天上界の兜率天という弥勒菩薩の居る所へ往くことができ、そこには更に刀利天の八万四千を軽く上回る百千万億もの天女眷属が大勢居て、その中に生れることができると言っているのです。
 
それはあたかも離脱だけの効果に対して、更に意味を詳しく理解して解脱する効果を取り入れればもっと上等級な大功徳や地位を得れると教えているかのようです。
 
⇒ HP本日のブログへ:第8-28日-采女の中に於て娯樂快樂せん-普賢菩薩勧発品第二十八-四十五行-五十二行/ 普賢菩薩勧発品第二十八
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