2024年06月18日

森繁と成瀬映画の脇役

『全著作 森繁久彌コレクション』全5巻(藤原書店)というのが図書館にあり、松岡正剛の解説が付いた二巻「人ー芸談」を借りて拾い読む。
その中に、成瀬巳喜男映画によく出ている脇役、谷晃の名前が出てきた。

森繁劇団の大部屋の役者が1ヶ月一万五千円しかもらっていないと聞いた森繁は、
爐擦瓩栃△世韻楼貲佞砲靴討笋蹐Δ函楽屋に「森繁飯店」なるものをつくった。
出演者の一人で、今はもう他界したが、谷晃という役者が食い道楽で、これを炊事長にし、これに子役のおっかさんをつけて台所をあずからした。
とあった。
(【森繁劇団の思い出】)
妻06
←以前の記事「『妻』と鉄道」にて、谷晃を特定






もう一人は、『旅役者』で菊五郎を演じた高勢実乗(たかせみのる)。
(成瀬映画には、この一本のみの出演であるが、以前ふと気になって注目した人。)
旅役者04
森繁が若い日に見た伊丹万作の『國史無双』。
これに「アノネのおっさん」で有名な高勢実乗が老剣聖役で出ていた。
森繁の記憶によると、概ね次のようなことだった。
向かうところ敵なき若き修行の武士が、老剣聖に「お手合わせ」を乞い対峙する。
長時間、気迫に抗した後、若き武士は老剣聖に打ち込む。
すると、相手は「アイタッタ。まいった、まいった。ゴメン、ゴメン」と倒れる。
森繁はこの老剣聖をやってみたい、とあった。
(【良き時代の狢臺瓩燭繊)

ウィキペディアによると、伊丹万作の『國史無双』(1937年、サイレント)は、ナンセンス時代劇として知られていて、部分的にしか現存していない。
また、劇場用映画として二度リメイクされていて、森繁言うところの老剣聖役は、一度目の『あべこべ道中』(1962年)では山形勲、二度目の『国士無双』(1986年)ではフランキー堺が演じている。

森繁久彌と二人の兄この本の口絵写真に、森繁久彌が長兄、次兄と一緒に写ったものがある。
長兄が馬詰弘、次兄は菅沼俊哉。姓が違う。

ウィキペディアを見ると、三人の父は久彌が二歳の時、他界。長兄は母の実家を継ぎ、次兄はそのまま菅沼家を継ぎ、久彌は母方の祖父の家を継いで森繁姓になったのだそう。

また、久彌という名前は、三菱財閥三代目、岩崎久彌から来ている。

『全著作 森繁久彌コレクション』の一巻は「道ー自伝」なのだが、解説が鹿島茂で「何故に?」と少し気になる。こちらは640頁。


2024年03月26日

小津安二郎と四人の女

IMG_0788『文学界』2013年8月号に「小津安二郎外伝ー四人の女と幻想の家」という照井康夫氏による記事がある。
照井氏は文藝春秋にいたこともある編集者・ジャーナリストで、『蓼科日記 抄』の編集に携わった。
(「蓼科日記」は、小津安二郎と野田高梧が脚本の仕事をした蓼科の雲呼荘に置かれていたノートで、そこを訪れた人は、そこに一筆したためることになっていた。全部で18冊あるそのノートは小津と野田に関する貴重な資料ということで、『蓼科日記 抄』として書籍化された。)

四人の女とは、
芸者をしていた森栄、アコーディオン奏者の村上茂子、銀座のバー・エスポワールで働いていたお賀世、そして母のことだそう。

原節子のことも書かれているが、四人には含まれていない。
原節子とのことで面白く思った照井氏の見立ては、『麦秋』(昭和26年)の佐野周二が小津の立ち位置なんだとか。
結婚で秋田に行くことになり、会社退職の挨拶に来た原節子に、上司の佐野は「もし僕がもう少し若くて独り者だったら、僕と結婚したかい」などと口にし、老人のように腰を叩きながら、「よ〜く東京を見ておけよ」という。
『麦秋』で小津は原と(心の中で)決別したんだそう。そう考えられなくもないが、違うかもしれないし、どっちみち、わからない。
そう来るならば、『晩春』の宇佐美淳も小津の立ち位置のように思えてくる。

森栄s小津は昭和10年に、小田原で森栄と知り合い、従軍中にも、森から手紙をもらっている。
戦後、二人が再会した時、芸道に生きる新橋芸妓を目指していたはずの森は枕芸者に戻っていた。
昭和26年の小津の日記によると、母と築地の森の所に二泊している。
「(十月)七日 一日森にゐる 野田(地名)で能会 森欠席のため車くるところ来らず 八日 車が来ておふくろ野田に帰る 送って大船にゆく」
六日は小津の母は歌舞伎座で観劇。
当時、小津が親族と住んでいた野田で能会があり、森も誘われていたが行けなかった(?行かなかった?)ので、車が来なかった。
昭和27年の日記には、小津が森の犹纏瓩鯀缶姪に赦しているらしい記述。
「三月七日 森 他所に泊りにゆく 下の座敷にねる / 四月七日 〜と別れて築地にゆく 森を八丁堀のホテルに送る 一人下の部屋に泊」
この27年の2〜4月にかけて小津は頻繁に出京し森泊。
それは、鎌倉に見つけた家を買うための諸々の手続きを森にしてもらった関係もある。
この間、小津の母と妹も森泊があり、森と小津の母が至近距離で接していた。
そういうことがあったことからの推測であろう、照井氏は翌昭和28年の『東京物語』で小津は森栄と(心の中で)訣れた、と言っている。
『東京物語』で原節子は戦死した夫の母である東山千栄子と一つ部屋で床を並べて寝る。
このシーンを小津は夢想しつつ、絶望しつつ描いたのではないかという照井説。
こちらも面白い考えだが、違うかもしれないし、どっちみち、わからない。
(小津と森の幻想の家は築地の「森」)

村上茂子s『東京物語』で原節子が演じた紀子のモデルではないか、と言われているのが村上茂子。
(雑誌「シナリオ」2014年11月号の笹沼真理子狢湿緻仍劼気鵑里海鉢瓩砲茲襪函)村上は大正3年生まれ。歯科医院の五人兄弟、長女。
小さい頃から音楽好きだったが、親の反対があり、その道には進めず、勝山方面の別荘で知り合った眼鏡店六人兄弟次男と、早くに結婚。丸の内の眼鏡店で夫と共に働いた。
夫は南方で戦病死。
浅草、小島町の自分の実家に戻り、独学でアコーディオンを習得。
後、松竹大船撮影所専属楽団員となる。
『東京物語』熱海の宿のシーンでアコーディオンを演奏している女性がその人である。
小津の日記に初めて村上が出るのは昭和29年1月12日だが、昭和21〜22年頃に出会っているらしい。
村上は小津にかわいがられ、小津がロケハンなどで彼女の家の近くを通ると、向かいの道から「村上さーん」と叫んだ、という。
昭和29年の小津の日記を見ると、村上と森のところに行ったり、桜むつ子の店爐気ら瓩紡湿(&他の人たち)と行ったりしている。
翌昭和30年1月の日記には、小津が森栄のところに寄り、そこに村上が来て雑談、そして村上が泣く、とある。
照井氏によると小津と村上の交際が深まったのは、その後の昭和31〜33年だそう。
昭和31年12月、小津は蓼科に借りた自分の山荘・無藝荘を披露。
村上は蓼科を何度か訪れ、楽しい時を過ごした模様。
(小津と村上の幻想の家は無藝荘)

おかよs昭和35年12月28日、小津は野田夫妻と村上茂子他一人を伴って蓼科へ。村上は大晦日に下山。
翌昭和36年2月22日の日記にお賀世が初めて登場。
「夜エスポアールに電話する 加代も藤本も不在」
お賀世はエスポワールで働いていた女性で、藤本眞澄(成瀬巳喜男監督作品等のプロデューサー)が結婚相手として考えていたのだが、藤本の母親が許さず諦めて(昭和34年)、小津に譲ったという。
昭和10年前後の生まれで、小津より三十ぐらい若い。
昭和38年の小津の日記に、彼女を詠んだ歌があり、賀世は晩年の小津の癒しだった、とのこと。
(小津と賀世の幻想の家は、蓼科に建築予定だった自分の山荘)

高橋治著『絢燗たる影絵』中に、村上茂子とおぼしき女性が、小津の死後18年後に吐露した言があるという。
その最後に、躊躇しながらも自分は猜慷な女瓩世辰燭里任靴腓Α△箸海椶靴燭蕕靴ぁ
辛い目にあった時のことを思い出したのだろうが、小津に好かれたのは確かなのだから、そんなこと言わなくていいのに、と残念に思う。


IMG_0787小津が母と住んだ北鎌倉の家を記念館にする、という話を断ったことについて、小津の弟・信三は次のように話したという(高橋治著『絢燗たる影絵』)。
「あれは買った家で、兄のものではありません。これが兄を象徴したものだと思われるのは嫌だったのです。、、、兄の美意識と思われることは困ります。それよりも未練が残るのは、蓼科に建てるつもりで土地も設計の下絵も用意していた家の方です。あれが建っていたらなあと思うことがあります。」
弟もなかなか、こだわりが強い。


四人の女性関係以外のメモ:

※『麦秋』の原節子のモデルは、野田高梧の妻・静の妹・百合子。
百合子は、夭折した兄と同窓だった小児科医、小林一郎と結婚。
従って、二本柳寛のモデルは小林一郎で、彼は当時、野田家のかかりつけ医のような存在だったという。

※『麦秋』で、原節子が杉村春子に言われて結婚を受け入れ、杉村が原に「あんぱん食べない?」と言う場面。
OK1とOK2があり、小津はOK2を選んだ。
1の方は杉村の演技が突出して良く、相手(この場合は原)の演技とのバランスが良くないから。
(『人と仕事』「座談会b」での浜村義康の発言)

IMG_0786
※ この記事内に「蓼科日記」現物の 1ページの写真が載っている。
(左画像)
それには小津の自画像とキャプションが添えられているが、これは著者、照井氏の勘違い。
描かれているのは小津安二郎だが、描いたのは本人でなく長瀬という若者。
(照井氏本人が自分のブログ「源泉館備忘録」でそう書いている。→ http://blog.livedoor.jp/yas_terui/archives/cat_40621.html?p=2)


小津安二郎『陣中日誌』に火野葦平『土と兵隊』『麦と兵隊』の小津の読書ノートあり。




2024年02月05日

井上和男の私的小津論

井上和男編『小津安二郎全集 上・下』は、小津安二郎監督映画の脚本全集であるが、小冊子体裁の別巻が付いている。
40ページのこの別巻には、「いま、なぜ小津安二郎かー小津映画の受容史」と題された佐藤忠男、川本三郎、井上和男の三氏による座談会(2003年)と井上和男の私的小津論と題された解説が収められている。
薄くて地味な冊子であるが、内容は充実している。

【座談会】からのピックアップMEMO

・松竹戦後の大監督は、トップに小津安二郎(1903-1963)、その下に木下恵介(1912-98)と渋谷実(1907-80)というピラミッド御三家。
小津は「泣かせ」の場面を嫌っていた。
渋谷も「泣かせ」嫌いだった。
木下は最高の表現は女の愚痴である、みたいな作り方。
よって、渋谷と木下は最悪の仲。
二人が向かい合って撮影所の道を歩いてくると、どちらかが横道に外れて絶対にすれ違わなかった。

・井上和男が、違和感をずっと持っていたと言う小津作品に惚れ込んだのは、まず人柄に惹かれたため(1957年夏の1ヶ月、ますらお看護夫として、アキレス腱を切った小津に付き添い、色々な話をし、大きな人だと感動)。
そして、作品を見直し、佐藤忠男の『小津安二郎の芸術』を読んだのが決定打となった。

・井上が「小津さんは火野葦平『麦と兵隊』が大嫌い」と言っているが、、、
(嫌いだったのは『土と兵隊』で『麦と兵隊』は好きだったと他書にあったと思う。要確認)

【私的小津論】からのピックアップMEMO

・普段温厚に見える小津の気性の中に、怒り出したらブレーキが効かなくなる特別の正義感、倫理感のようなものがあるのかもしれない。
(昭和31年東興園での大宴会で井上が中座したことことを小津がしつこく怒ったこと、『風の中の牝鶏』、『戸田家の兄妹』からの考察)

・『浮草』(1959年)スタジオで目撃した、小津安二郎とカメラマン宮川一夫との面白い「闘い」。
中村鴈治郎と杉村春子を庭向けに撮る場面。
宮川はモノクロのように撮りたい。
小津は赤を足したい。
一回テストが終わると、小津は二人に近寄ってダメ出し。
帰りがけに赤い薬缶を動かしてフレームインさせ、カメラを覗きに戻る。
カメラを離れた宮川は、何気なく小道具を触った後、赤い薬缶をずらしてフレームアウトさせる。
二人とも大人だから諍いはしないが、テストの間中、赤い薬缶を出したり入れたり、無言の繰り返しが続く。
最後は宮川が控えて、薬缶に当てるライティングを弱くし、それが双方の妥協点となる。

・小津、宮川、井上に吉村公三郎が加わってお酒を飲んでいる時に、小津が吉村の『夜の河』(1956年)について
「ラストに砂利かましちゃ(美味しいご飯を食べていたら小石が歯に挟まった、そんな不快感を与えること)いけないよ。あのラストで赤旗が翻っちゃあ、お客さんの気持ちは素っ飛んじゃう」
「所詮映画はエンターテーメントだからな。ラストで急に芸術ぶったって家路をたどる足は重くなるだけだ」と言った。

・井上和男は、『早春』の高橋貞二(ノンちゃん)のモデルになった須賀線会(蓼科会)のトラちゃんの妹と結婚。
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・12月16日、築地の東本願寺で行われた小津の葬儀後、松竹本社の経理部長から「小津には色々貸しがあるから香典は本社に収めるように」との社長からの伝言を受ける。
井上は激高して経理部長を追い返し、年が明けて松竹をクビになった。

・小津の葬儀での里見弔辞の一部
「酔えばよく唄い、よく踊った。てれ性の君の踊りは、頭から何かひっ被るか、半分がた客に背を向け、大きな図体でしゃなりしゃなりとそこらを歩き廻るだけのことなのだが、みずから老童謡と名づけて、老いたる童歌を面白く作って聞かせた。」

(※『東京暮色』(1957年)で珍珍亭の親爺を好演した藤原釜足を小津映画初出演「29頁下段」と書いてあるが、彼は『宗方姉妹』(1950年)で飲み屋の主人役でちょっと出ている。)