2015年09月27日

きれいに空に雲がない

きれいに空に雲がない。
空気が深くて、空が高い。

いつもは水蒸気の彼方にいて遠い山並みが
びっくりするくらい近い。
山襞の陰がはっきり見えて、尾根に届く光も明るくて
つまんない、いつもの山が立体的に見える。


そんな気持ちのいい朝に、
あたしはスーツ姿で走っている。




ちくしょう、なんで忘れたのかなあ。
今日はだんなに、
どうしてもあれを渡さないといけないのに。

あ、もう『元だんな』か。




とにかく、忘れたから、
『ちょっと取ってくる。』って言ったら、
なにも言わない。

『待っててよ?』って重ねていうと、
『新幹線の時間があるから。』と、ひさしぶりに答えた。
指定席券くらいフイにしてもいいのに、と思うと、
『途中で寄るところもあるし。』と、重ねて言ってくる。
有無を言わさない。
鎖骨の下から見上げると大きくて気後れしてしまう。

そのまま地下鉄に降りる階段に向かっていく。


その鎖骨に小さな頭を預けて、太郎が寝ている。
それでも、あたしが声をかけたらこっちを向いた。
手を振るから小さく手を振り返したら、
笑ってくれた。



よし、取りに帰ろう。



そうしたら、だんなが襟を引き寄せて
太郎の顔が見えなくなった。

そういえばだんなの田舎は、
1時間に1本しか列車がないんだった。
田舎者め。





『じゃあ、東京駅までに追いつくから。』
って言っても返事がない。

えい。

『ときどきメールするから、場所を教えてよ。』
って、これも無言だ。
『すごく大事なものだから。』
無言だ。


『何時の新幹線?』って訊くと、
『5時半。』ってこれだけは大きな声で返事が来た。
いま、ちょうど朝の11時だ。


だから、あたしは朝の街を走る。





せっかく快速で東京まで行ける駅に来たのに
午前中を巻き戻すような道程を帰る。

地下を走る電車に乗る。
天気も時間もわからない車窓を眺める。
普通電車しか停まらない駅に着いて、
もう一度、もっと小さい私鉄に乗り換える。
やっと地上に出る。
沿線の軒先の低い庭木の梢が窓をかすめそうな、
幅の狭い電車が思い切り揺れながら、でも遅い。

急ぐ気持ちとは反対に、どんどん電車が遅くなる。





ようやく、朝早くに乗った小さな駅におりる。
ひとつだけの降り口の自動改札を通る。
振り返るといつもの駅舎が、薄い軒を乗せて
やっぱり雲のない空の影の中にいて、涼しそうだ。



よし、急ぐぞ。



でも、なんでこんなことになったんだろう。

駅があることがわからないくらい
遠慮がちな改札口を降りて、
小さなコロッケ屋が、もう開いてるな。
ここ、おいしいんだ。

そこを通り抜けて、広いだけの国道に出る。
この道に車が滞まっているのを見たことがない。
細い階段を上ってJRの長い跨線橋を越える。

馬鹿みたいに高々とした橋の上で
鉄錆びた風を浴びると、海の匂いがする。





思わず振り返って、海の方を見ると
ぽかんと明いた空に浮かんだ太陽が、
既に南を回っているじゃないか。

えい、と声を上げて家に走った。

小さな屋外階段を駆け上がって
2階の部屋の鍵を開けると、丸い毛玉がぶつかってきた。
結婚した年の夏に買った、ロシアンブルーのキウイが
頭を擦りつけてごろごろ言ってきた。

あんまり頭を押しつけてくるので、
『もー、お前。えさあげただろ?』と見ると、
えさの皿は空だし、水もない。



あれ?忘れてたっけ。



わりーわりー、と言いながらドライ猫えさをあげていると
『わうわうわうわう』と、元気に食べているので
たくさん頭を撫でてやっていたら
かわいいなあ。

なんか、どうでもよくなった。

時計を見たら、2時過ぎだ。
5時半に東京駅なんてもう、間に合わないんじゃないか?

ああ、もう、どうでもいい。
これが、私の定まった運命なのかも知れない。







なんで、こんなことになったんだろう。


大体あいつがいけないんだ。
あたしだって、帰りが遅いけど、
頑張って家のことをしている。
なのに、あんたは土日もいないじゃないか。
だからうちの母親に頼ったってしょうがないじゃない。

それをいやだって言う。
女に向かって、『お前はマザコンだ。』なんていうのは
ひどくないか?
『お前には子供は育てられない。』って。

そうかもしんないけど、あんたが太郎を連れて行っても
もっと育てられないじゃないか。
親権は母親が取るんだ。


それでも、あの野郎。
太郎を連れて行きやがった。

どうしても義母さんと相談しなくちゃいけない。っていうから
あたしもついていくことにした。
そうしたら、東京駅につく寸前に『帰れ』って。
お義母さんは会わないって。


だましやがって。






そうやって、ぼんやりしていたら、
今朝、手を振っていた太郎の顔を思い出した。

悔しいけど、鼻はあいつに似ているんだよな。
でも、目元はあたしだ。
うん、絶対にそうだ。

台所に行って、
キウイにあげる水のお皿をいっぱいにしてやって、
蛇口の水を両手で掬って、一くち飲んだ。
ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。

歩ける。行こう。






家から取ってきた『あれ』を抱えて、駅に向かう。
昼の、この時間はまだ暑いな。

乾いた街の、ほんの少ない歩行者が、あたしを見ると
驚いたように目をそらせた。
電車に乗ると、もっと目立ったんだけど、
そんなことよりも、だんなに出したメールが返ってこない。

どこにいるんだ?



家に帰るんなら、どんどん人の流れが少なくなるんだから
連絡がつかなくなっても、待ち合わせは困らない。
わからなくなっても、地元の駅、
最悪、家に帰っていれば会える。

これが、都心に向かうと、人の流れが太くなるから
電車を特定するのが難しくなる。

駅で会う、といっても
こんな大荷物を抱えて待ち合わせるのはいやだ。


だから、どこにいるんだ?






地下にはいると、やっぱり時間がわからないけれど
最後に車窓から見えた街は、まだ斜陽が赤い光を、
樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いていた。
日没までには、まだ間があるはずだ。

最後の乗り換えをする。
ここまで連絡がないんだから、後は
東京駅の新幹線改札口に行くしかない。
嫌だけど。
でも、このままあいつをお義母さんのところに返したら
二度と太郎に会えないような気がする。

鼻のあたりはあいつに似ているけど、
目元はあたしに似ていて
今朝見た時は鼻水を垂らしていたけれど、
少しも疑わず、静かに期待してくれているんだ。

私を、待っている人がある。
私は、信じられている。



馬喰町のあたりで、少しのろのろと運転したから
東京駅のホームに降りると、
まっすぐにエスカレーターに走った。

果てしなく長いエスカレーターを乗り継いで
コンコースに上がった。
この丸ノ内口から、
八重洲口の新幹線ホームまでが、また長いんだ。



路行く人を押しのけ、ねとばし、
あたしは黒い風のように走った。

昼間の中央線や山手線のホームから降りてくる
けだるそうなサラリーマンの間を駈け抜け、
新幹線で飲み食いする弁当を選ぶ人たちを仰天させ、
少しずつ進んでいく時計の針の、十倍も早く走った。


それでも、コンコースの真ん中で
ワゴンを置いて『東京ばな奈』を売っている
お姉さんにぶつかって転んだ。

額から血が出ているらしく、
あたしがぶつかったのに、お姉さんは
『あらー、大丈夫?』と心配してくれるけど、
もう時間がない。

私は、信頼に報いなければならぬ。
いまはただその一事だ。

走れ、あたし!



階段を上がって新幹線改札に行くとちょうど5時半。
改札の前に立つと、みんな怪訝そうな顔をしている。

まあな。

額から血を流した女が泥だらけのスーツ姿で、
背中に変なもんを背負って、
血走った目をしているんだ。

よく通報されなかったな。








『なにやってんの?お前。』
と声がするから振り向いたら、だんなだった。

『なんでメールに出ないのよ。』
『だって…』
『なによ。』
『地下鉄だと電車の中では、
まだつながんないからな。』

あ、そうか。




『大体なんだよ、その恰好。』
『…転んだのよ。』
『そのぬいぐるみは?』
『だってこれがないと太郎が泣くじゃない。』

あたしは背中から、
太郎が生まれた時からいっしょに寝ている
背の高さほどある、ぬいぐるみをおろした。

『きたねえなあ。』




まあな。

3年間、あの子のそばにいたからよだれだらけだ。

『あれ?太郎は。』
『あそこにいるよ。』

見ると、太郎がお義母さんと一緒にいる。

『お義母さん、来てるの?』
『言わなかったっけ?』
『だって離婚届を出して田舎に帰るって。』

すると、だんなは憮然として、
『そりゃ、あれだけけんかすればな…』

むう。

『大体お前がサインもしてないし、
はんこも捺さないのに
離婚届なんか出せるわけないだろう。』
『新幹線に乗りにきたんじゃないの?』
『新幹線に乗ってきたお袋を迎えに来たの。』

そうか。




『あらー、佐知子さんお久しぶり。』
『あ、どうも。今日は一体…』
『むかしの友達に会う用事があってきたのよ。
太郎も連れてきて、って頼んじゃったから、
ひさしぶりに会えてうれしいわ。』

そうだったのか。

『それよりあなた、どうしたの?その恰好。』

改めて自分の姿を見ると、
スーツは埃だらけ、ストッキングは破れているし
ヒールがぐらぐらしている。
見えないけど、顔もひどいんだろう。


『あー、もういいよ。メシを食いに行こう。』
『ねえ。』
『ん?』
『お願いだから外に出よう。』





丸ノ内口の改札を出て、ひさしぶりに外に出ると、
空気が冷たくて、東京駅のドームの上に月が昇ってくる。

『あら、きれいな満月。』と、お義母さんが言う。
『スーパームーンだよ。』と、だんな。

右の鎖骨に太郎の頭、
左の鎖骨にうさぎを抱えている。

















あたしも空を見上げると、
長かった一日が暮れかけて、
そうしてやっぱり、きれいに雲がない。








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2015年09月18日

子午線の街

シルバーウィークだ。
だから、帰省した。

っていうよりも、
久しぶりにあいつに会いに帰ってやるんだ。




高校までは同じ学校で、
大学もお互い地元の海の街だったから
高校生の時はなんとなく放課後に、そして
20になっても
夕方に時間をつくって会うことができた。

でも、今年、あたしが卒業したのに、
あの馬鹿は留年したもんだから、
あたしだけ就職して
子午線の街に配属されることになった。
実家がある海の街とは、
西に500kmくらい離れている。
日の出と日没が20分遅い。






就職して半年、いろんなことがあった。

まず、朝起きなくちゃいけない。
当り前だと思うだろう。
でもこれは、
学生だと『当たり前』じゃないんだよな。
ちょっと遅刻しても、学生だったら代返で済むところが
新入社員はそうもいかない。

スーツに着がえる。っていったって、
2回生の時から着ていたリクルートスーツなんか
全部使えない。
新しく買い直す。
でも、もったいないから安物を買うんだけど、
就職して20㎏痩せて、そのあと15kg太るっていう
過酷な挑戦に耐えられるタフな奴なんかいない。

なんだろう。
もう就職して何着スーツをつくりなおしたかなあ。


痩せたのはうれしいけど、いや、全然うれしくない。
研修もそうだけど、実務に現場に放り込まれたら
『お客さん期間』なんて、あっという間だ。

学生時代なにが専攻だった、とか関係ない。
ひたすらコピー。
あと、プレゼン資料の作成。
模型作り。
またコピー。荷物運び。

パワポもスチロールカッターも、
就職して初めて使ったよ。






それでも、この子午線の街は雨が降らない。

日本の各地で、台風だなんかで
大雨が降って洪水が起こっても
昼に降った雨が夕方には晴れていて、
放り投げたように青空だ。
9月に入ったら青空が高くなった。

朝は、不機嫌な雲が低く速く流れていても
夕方になると、空気が澄んで、山の峰が近くに見えて
筆で刷いたような長い雲が、
高い空で寒そうにまいている。

そして、秋分の日には、
きっぱりと昼と夜の時間が同じになるから
そこに向けて、
一日ごとにかさかさの昼間が短くなって
きちんと夕方の時間が遅くなっていく。




20分の『時差』なんて、
大したことないと思うだろう。




でも、朝、いつもの時間だとあまり変わりないけど、
早起きすると、空が、まだ暗い。

夕方、電車で居眠りして起きると
空が明るくて、電車が進んでいないように思える。


なんか、つかれた。





春のうちは、
あいつからたくさん電話が掛かってきた。
自分だけ留年したから、
ちょっとは悪いと思っていたのかもしれない。
でも、向こうは学生だから、
平気で夜の12時過ぎにかけてくる。
こっちは研修と、毎晩の『懇親会』っていう
新人目当てのコンパ、
断れっこないじゃん新人なのに。
それで毎晩へろへろになって帰ってくるのに、
長電話。

お盆には、もちろん海の街に帰った。
久しぶりにデートをして、楽しかったんだけど、
こっちに帰ってきて会社が始まっても、
向こうは学生だから、まだ夏休みだ。
朝に電話が掛かってくる。
朝の5時に、『おはよー、もう陽が出たよー』って
こっちは、まだじゃ。

なんか疲れたなー。
やっぱり遠距離って無理なのかな、と思いながら
それでもシルバーウィークだから帰省した。



新幹線から、長いコンコースとエスカレーターを
乗り継いで、普通列車で40分。
ふるさとの駅はずいぶん変わったな。

夕方の5時半過ぎだ。
この街では、すでに日が沈んで、
それでもまだ残った光が空を高く照らしている。
でも、もう低いところでは素早く影が染み透って
駅前に並ぶタクシーのテールランプがきれいだ。



と、思ったら、
ふわっと涙が出てきた。

そうだよ。あたしは中学、高校と6年間、
昼と夜が裏返る、この9月の日没の時間に
チャリンコをこいで家に帰っていたんだ。

その時に、まだライトをつけない車が、
スモールライトとテールランプだけで、
夕陽の光の中に溶けていくのを見て、
秋だな、って思ったんだ。

遠くなったなあ。



もういいや、あいつと別れよう。と思って
メールで、その晩の約束をキャンセルした。

その後、あいつから何回も電話とメールが来たけど
出なかった。

だって、電話に出たら会っちゃうじゃん。
それでまた、あいつが就職できたとして
だらだらと半年以上、いまのまま待たされるんだ。


今回、海の街に帰る前に
『就職どうなったの?』って電話した。

『まだ8月だからわかんない。』っていうから、
『優秀な子なら内々定が出てるでしょう。』って
思わず言っちゃったら
『おれ、優秀じゃないもーん。』ときた。

この野郎。





もういいや、一日早いけど行こう。

結局、帰省してもあいつにも、友達にも会わず
母親のご飯だけ食べた。
美味しかった。

あと、おばあちゃんと一緒に、
お彼岸の墓参りをした。
喜んでくれた。

ふう。





だから500km移動して、
休みが終る1日前の秋分の日に、
また子午線の街に来た。
昨日までいた、海の街と同じ時刻なのに、
まだ太陽が出てる。

や、確かにもう、沈みそうに水平線の上で
鈍くオレンジに揺らめいているだけだけど、
街はまだ、からからに乾いて明るい。

夕方を見下ろす丘の上で、
遠くに見える海に沈んでいく太陽を見ていた。

太陽が、じりじりと水平線に沈んでいく。
ゆらゆらする火炎の舌が、
いつまでも水平線の縁から消えないでいたのが、
空が、かすかに紫色を濃くすると
不意に消えた。








あたしはケータイの時刻表示を確かめて、
あいつに電話した。

コール3回で出てきた。




『あ?お前何やってんの?』

『ねえ。太陽、沈んだ?』

『え?』

『だからあんたの街、太陽沈んだ?』

『…いま、どこに居んの?』

『うち。』

『なんで?まだ、会ってないじゃん。』

『だから、太陽沈んだ?』

『…あ、うん。20分くらい前、かな…』

『あははははははは…』

『……』

『……』

『どうした?』

『あんたの街のほうが間違ってるわ。』

『え?』

『だって、あたしがいるのは子午線の街よ?
今日は、午後6時に太陽が沈むのが、
理科的には正しいの。』

『…なに言ってんの?』

『だって、この街。』

『…うん?』

『この時間にまだ、明るいのよ?』

『……』

『……』

『帰って来い。』























だから、あたしは来週、海の街に帰る。










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2015年08月29日

まわれ右

麻亜子が回っている。
年長さんになった彼女は、来月の中旬に体育祭がある。




少し早過ぎやしないか?とも思うのだが
保育園の園庭では、狭くて体育祭が出来ないので、
近所の小学校の校庭を借りる。
そのスケジュールの関係らしい。

季節感もなにもあったもんじゃないが、
そんなわけで、いま彼女の保育園では、
体育祭のための練習をしているらしい。

といったところで、保育園児だから、
細かな式次第など練習したところで、すぐに忘れてしまう。
そこで、『集団行動。』、入場行進とか『前へならえ。』とかを
みんなでやってるんだそうだ。


そんなのやったっけ。


そういった練習の中に、『回れ右』があったらしい。
正面を向いて姿勢を正し、
右のかかとを半歩退いて、そこに重心を移して、
右足を軸に右回りに体をくるりと回す。



麻亜子はこれが気に入ったらしいのだ。



6歳の彼女にとっては、みんなで整列したり、行進をしたり、
ということが新鮮であるらしい。
さらに、体をくるりと回すとみんな裏返しになってる。
っていうのがうれしかったらしい。


だから、うちに帰ってきても、
公園にでかけてこれをやる。
俺も仕方ないから、散歩がてら付き合ってやる。
家で仕事するというのも、なかなか楽じゃない。

なんでこんなに楽しそうなんだろう。
と、みていると、回った時が特に楽しそうだ。
一周しても止まらずに、くるくるまわる。

保育園だと、体操服だし帽子をかぶせられるが
普段着だと、くるっと回った時にスカートの裾が広がって、
かるく体にまとわってくる。
うれしいらしい。
そして、回ってきた時に襟までの髪の毛が
ふわっと、ほほにかぶさってきて、それもうれしいらしい。

だから公園でこれをやる。



お前、もうそれ『回れ右』じゃないじゃん。
しかも、30分くらいこれをやるんだ。
よく飽きないな。
っていうか、疲れないか?


こどもって、無駄に元気だ。








そんなことで、散歩のたびに、彼女の『回れ右』に
付き合うことになった。
どうせ体育祭が過ぎたら飽きてしまうだろうし
来年になればもう、忘れてしまうだろうから
思い切りやらせてやろうと思う。


ところが、彼女が回り出してから一週間くらいすると、
知らない男の子がいっしょに回るようになった。
麻亜子と同い年くらいだろう。
保育園の体操服を着ているから同級生なのかも知れない。
ただ、体格は麻亜子よりも一回り小さくて痩せている。

気づいてから2日目に、彼女に訊いてみた。
『あの子、保育園のお友達?』

『んと、たかぎくん。』





あ、だめだ。
残念だな高木君。
女の子に名字で呼ばれるようじゃ望みはないぞ。

よしよし、うちの麻亜子を狙うなんて20年早いぜ。




しかし、たかぎくんもいっしょうけんめい回る。
もっとも、麻亜子は『回れ右』の達人だから
回転のスピードも回数も、大人の俺もかなわない。
よほど三半規管が丈夫らしい。

まあ、こういう体操で
俺みたいな運動不足の大人がこどもにかなわないのは当然か。


しかしまあ、たかぎくんのへなちょこぶりというのは
親でもない俺でさえ気の毒になる。
麻亜子が2回転する間にやっと一回転で、
しかも3度回ると足をついて止まってしまう。

それでも、顔を真っ赤にして回り続けているから
そんなにうちの娘が好きなのか、と思うと
ちょっとうれしい。


でも、挨拶に来るのはあと20年後にしなさい。




しかし、うちの麻亜子さんは
たかぎくんのことなど気にも留めていないように
うれしそうにくるくるとまわっている。

こうなると、『回れ右』ではなく
フィギュアスケートのスピンだな。






そろそろ30分以上回っている。
俺も遊んでばかりはいられないので、
『麻亜子、かえろー。』とよぶと、
『さいごー。』という。

『さいご』の一回は、彼女が好きなだけ回って
大きく両足を広げてポーズを取る。
なんだかよくわからないが彼女なりの締め、らしい。


麻亜子が公園の真ん中の噴水の池のそばで
右足を軽く引く。
それからくるりと回ると、左足に重心を移しつま先を軸に
ときどき右足で地面を蹴って、
リズムを取りながら回り始めた。

ほほにかかる髪の毛を、頭を軽く振って払いながら、
両手を肩の高さに挙げて、
左足のかかとを少し浮かせ、リズムを刻む。
そうして、スカートの裾を踊らせて、楽しそうに回る。




きれいだなあ。






『たん。』という声がすると、
両足を大きく広げて両手を高く上げた麻亜子が
頬を紅潮させてにこにこしていた。


駆け寄ろうとすると、
『わあっ。』、という声がして、水音がした。
高木君が池に落ちた。

鈍くさいやっちゃな。
助けてやるか、と立ち上がると、


『きゃー。』と声がして、
麻亜子が駆け寄っていた。

え?


『ひろくん。』

なに?





















くっそー

お父さんはゆるさんっ。


ぶー









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2015年08月27日

真昼の穴

その店は床屋だ。
観光で食べているこの街の、
少し街外れにあるこの通りには
『地球の歩き方』の地図を読み間違えた人か
普通のツアーなら、名所をめぐる1日しかないのに
不思議と1日時間が空いてしまった、
貧乏ツアーの客しか来ない。





それでも、交通量が少ないくせに広い坂道の両側に
プラタナスの並木が並んで,木陰を作る。
その奥の商店街の外壁は、低く、長く
真っ白に照らされている。
しかし、その床屋に入ると、よどんだように暗い。

店に入ると、時間も止まっているかのように静かだ。
分厚い木の板で出来た床は、ラッカーで飴色に光る。

そこから続く腰板は,やっぱり木製で、樫かな?
これもワックスで磨かれている
腰壁の上にモールがあってその上は漆喰の白い壁。
天井まで続いて、天井の縁にやっぱりモールを作って
真ん中に照明を吊す。

白濁したガラスに包まれた60燭光の白熱電球が
真っ昼間なのに薄暗い店内を照らす。




床屋なんて、清潔感が命なんだから、
もっと明るくあるべきだろう、と思うが
こどもの頃から通っているから慣れた。

中に入ると妙に落ち着く。




椅子に座る。

ベースの部分や手摺、背もたれなど、
今日の『床屋の椅子』では、あり得ないようなところにも
金属が使われているのだが、
それらがみんな、
妙に艶めかしく、やわらかそうな曲線をしている。

メガネを預けて、鏡を見ると
当たり前のような顔をして、カウンターの上に猫がいる。


柔らかそうなおなかを見せて、前の腕にほほを乗せて
こちらに顔を向けているんだけれども、
多分、なんにも見ていない。

マスターが、『メロン』と呼んでいたから
名前は『メロン』なのだろう。

薄茶色の毛をしていたから『マロン』と呼んだような気もするが
もう、俺の中では、彼女の名前は『メロン』だ。

あまそう。





鏡に向かって坐っていると、
髪を短くして太ったマスターがやってくる。

白髪が増えたなあ。

まあ、俺もいい年になったしな。



飴色に磨き込まれたカウンターの上には
ガラス瓶の霧吹きがあり、
黄色く変色した、シェービング・ボウルがある。

それでも、目の前のガラスだけは磨き込まれて曇りもなく、
もちろん錆もない。
ガラスの廻りには、カウンターと同じ木材で出来た
モールの枠があり、両隣の鏡との間には
密に詰まった羽目板が、やっぱり静かに、飴色に光っている。

親父が、『今日は?』と訊くから
『いつもと同じ。』と言うと
黙って、俺の頭にぬれタオルをかぶせて髪を濡らす。

いつも親父との会話はこれだけだ。



スピード床屋ではないから、小一時間かけて
丁寧にやってくれるのだが、
客との会話を愉しむ、あるいは客を愉しませよう
と言う意識がきっぱりとなさそうなのが潔い。

店内には低くCDが流れていて、知らない女性歌手の
眠そうなシャンソンが聴こえる。




親父が無言で鏡をかざし、『これいいか?』という顔をする。
いつもと同じだから、無言でうなずくと
生ぬるい湯で頭を洗い、シェビングクリームを泡立て、
それだけ切れ味のいいカミソリで、ひげを当たってくれる。

いつもの金額を無言で親父に支払い、
出口に向かいかけると、カウンターから、メロンがおりてきて
『あたしを撫でろ。』といわんばかりに、あたまをすりつけてくる。

やさしく撫でてやると、3回目にはもう
カウンターに飛び上がっている。


いつものことだ。




店を出て通りに出ると、夕方なのに真っ白く暑い。
短くした襟足が、たちまち汗で濡れてくる。
襟元をくつろげて、坂を下りて家に帰る。












ところが、その夜はひどい嵐だった。
日向臭く乾いて埃くさい街を、風と雨が
すっかり洗い流す。




次の日の朝に起きると、ずっと涼しかった。

俺は、ひさしぶりに長袖の、
しかし薄手の生地のシャツを出して羽織り
昨日の床屋に行った。

坂道は、昨日と同じく日に当たっていたけれど、
木の葉や小枝が、あわただしくたくさん散っていた。
光線も、昨日までの粘り着く感じはなくて軽くて薄い。

道路標識の赤いペイントが、かさかさと乾いて見える。
見上げると、空がうんと高くて、青い。






店に入ると、一瞬、親父が驚いた顔をしたが
メロンはカウンターの上で片目を開けただけだ。
親父も、いつもの顔に戻っている。

一時間して、肩の上についた髪の毛を払って貰って、
メロンのあたまを撫でてやる。

再び、からんと明るい坂道に出る。
ほとんど刈り上げた頭が涼しい。
襟元を合わせて、大きく息を吸い込んだ。


























昨日とは違って坂を登って、遠回りして家に帰った。











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2015年08月09日

金魚鉢の中の花火。

遠雷のような音が響く。



『あ、上がった。』

窓の外を見ると、500円玉くらいの赤い花火が
ぱあっと広がって、
鉄錆色の黄色い火花を散らしながら、ゆっくりと落ちていく。

『おー。』といいながら、俺は冷やした安い白ワインを口に含む。
どん、という発射音が遅れてやってくる。



『なんかさあ。』
『うん?』
『贅沢だよね。』

芙美子が6Pチーズをかじりながら言う。


うん。

ここは、俺達の部屋で13階にある。
この窓からは、夏に3回ほど開かれる花火が見える。

入居した10年前には、3つともよく見えたのだが
いまは、8月はじめのみなと祭り以外は
後から建ってきた高層マンションに遮られるようになった。

くやしい。


それでもこうやって、クーラーの効いた部屋の中から
花火を眺められるのは贅沢だ。




『あんたはいいわよねー。毎日外に出なくていいし。』
『お前だって出ないだろう。』
『出るわよう。』
『総務なのに?』
『…コンビニ行く時とか。』
『仕事じゃねーじゃん。』




しかし彼女が言っていることは事実で、
俺は、この7月から内勤に変わった。
坂口課長と二人、天井だけ高い分室に送られたのだ。

古くて分厚いビルの中に、
取り残されたような部署がいくつか入っている。
そのうちの一つを坂口課長が任されて、俺もそこに来た。
6人ほどの、表情のないスタッフがいる。

暑がりで小太りの坂口課長が部屋のクーラーを
やけくそのように全開にするので、俺でさえ寒い。
以前からいる井上さんという中年の女性が、
俺たちが来てから、無言でカーディガンを羽織るようになった。


寒くて殺風景に無言なオフィスで、仕事は暇なんだから
外でサボっていてもいいのだが、
真っ白な午後2時の街に出て行く気がしない。
そもそも、つまんないオフィスでもそこから逃げて
外に出たら、それで負けだという気がする。

左遷されて外でサボって熱中症で倒れたら、いい恥さらしだ。





『早く帰れるんだったら、ご飯くらいつくってよね。』



まあな。

でも、一日中オフィスで冷やされて、
元栓を閉めたように固まってしまった皮膚が、
5時になって外に出た時に、こじ開けられるように、
いっぱいに汗を噴き出すので、家に帰ってくるとすごく疲れる。

だから、7時過ぎに芙美子が帰ってくるまで、
部屋のクーラーをつけて、
窓の外に暮れていく街を眺めている。




今日が花火の日だとは知らなかった。



どん、どんと聞こえる音も、
夕方、急な雨が降って雷が鳴ったから、
まだ遠雷が聞こえるのかと思った。

ところが、花火の音だった。

花火の街から3kmくらい離れているので
花火が開くのが見えて、その数秒後に音が聞こえる。

重なるビルの頭越しに、低く見える花火は100円玉くらいだが
たまに、すごく高く上がる奴があって、500円玉くらいに開く。



遠くから見る花火は面白い。

ぽん、と上がって普通に大玉を広げたあと、
息二つ遅れて、きらきら開く線香花火のような光が
数秒かかって降りてくる。
光跡を引いて昇った筋が、天辺で開かず、
今度は黄色い火花を撒き散らかしながら
くるくると、いくつもの渦になってあふれてくる。
大きくひらいた赤い花弁が、それが消えたあと
青い球になって、その先端から銀色の火花を散らしながら、
ゆっくりと崩れてくる。




きっと、あの街に行って、花火の真下に行けば
恋人や親子連れが、
何十メートルという巨大な光の輪を見上げて、
汗だらけになりながら息を呑んでいるはずなのだ。

結婚する前は、俺も芙美子とあそこにいたな。








ワインを舐めながら、
窓ガラス越しにそんなことを考えていると
急にひとしきり火花が沸き立って、やがて静かになった。




『終わり?』
と、芙美子が聞く。

金魚鉢の中の傍観者には案内なんてないから、
終了時刻が、8時半なのか9時なのかわからない。

10年前のデートを思い出そうとしたが、思い出せない。



帰りに中華街でご飯を食べようとしたけど、
どこもすごい行列で、押し出されるように駅前まで来て、
出ていた屋台で食べたお好み焼きがおいしかった。

そんなことしか思い出せない。



10分経って、続きが上がらないので
『終わったみたいだよ。』というと、
芙美子はサッシを開けて、バルコニーに出て、
『あ、涼しい。』と言った。

夕立が街を洗って、昼間とは比べものならないくらい
空気の温度が低い。


俺も外に出て、胸一杯に外の空気を吸う。

ひさしぶりだ。






















『あ、涼しい。』














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natsu_0117 at 09:24|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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