2013年11月

2013年11月24日

夜を歩く

夜にウォーキングをしている。
会社ではデスクワークだから太ってもきた。
健康のために歩けとは、嫁にも医者にも言われている。
でも、早朝に歩くのはいやだ。


なんかそういう、『早起きして健康のためにがんばってます』
っていうのが苦手なのだ。

あと、朝に弱いんだ。








だから夜歩く。


家に帰ってくるのは9時過ぎだし、それから子供と遊んで
お風呂に入れて晩飯を食ったら11時だ。


もちろん嫁は寝ている。











玄関をそっと開け、鍵を締めるのさえ気を使いながら
外に出る。


マンションの共用廊下からはきれいに空が見える。

月の呼び名など知らないが、少しだけ直径の欠けた、
しかしびっくりするくらい明るい月が中天にある。

すぐ隣にこれも明るい星があって、
がんばってるなあ、と思うが金星だろうか。












深夜ウォーキングを始めてから一ヶ月になる。
服装をどうしようか、というのは、実は相当に悩んだ。

もちろん見られることなど期待はしていない。
それでも深夜、でもないと思うが
11時過ぎにおっさんが歩くのである。

世の中には、窓の外に人影があるだけで
怯えてしまう女の人がいるらしいではないか。

だから、最初はジョギング用のランニングシャツ、ショートパンツ
シューズにはちょっと高めのスニーカーを履いた。

そうしたら、寝入りばなの嫁にその姿を見られて
『パパ、それって逆に変。』といわれてしまった。








『皇居ラン』じゃあるまいし、そんな気合いの入った恰好で
近所を走ったら変。
うちの旦那だと思われたらいやだからやめてよね、と。



実も蓋もない。



『大体もう、いい加減寒いのにそんな恰好してる人いないわよ。』

『じゃあどんな服を着ればいいんだ?』

『ウォーキングでしょ?
普通の恰好してりゃいいのよ、
それこそスウェットでいいんじゃない?』

『それじゃ寝巻みたいだ。』

『確かにあんたがそんな恰好してると徘徊老人かと思って
通報されるかしら。』



20年の愛はどこに行った?



『ジーパンとかでいいんじゃない?
事故にあったら困るから、
上は明るい色のジャージとかを着てね。』

『なんだか夜中に
コンビニにおやつを買いに行くみたいだな。』というと、

『あはは、後ろ暗いところがそっくりじゃない。』と笑って
寝室に消えた。














だから、俺は、目の詰んだベージュのセーターにジーパン、
という恰好で歩いている。

遠目に見れば、紛れもなくおっさんのシルエットなのだが
それぞれのパーツは結構高い。
これなら不審尋問を受けても大丈夫だろう。
一応免許証と勤務先の名刺も持っている。

これのどこが『健康のため』なのか?
といわれると困ってしまうが。









歩くコ-スは決まっていて、マンションを出て東にしばらく歩き
小さな川を渡るとそれに沿って少し歩く。

川沿いには公園があるので水を飲んで
ほんとうならゆったりとベンチで時間をつぶしたいのだが
さすがに最近はそういうのが許されない世の中なので
早々に帰る。

一周40分ほど。
ウォーキングと呼べる運動量なのかどうかわからない。

しかも最近は、帰り道にあるコンビニで
ソフトクリームを買うのが日課になってしまった。
全然、減量じゃない。








その日も、コンビニの出口でソフトを食べていた。
まさかうちに持って帰るわけにも行かないし、
歩きながら食べたら、もっと変な人だ。

コンビニの出口には最近、街中ではほとんど見かけなくなった
灰皿があって、その横でソフトクリームを食べているのは
我ながら中学生みたいだと思う。








『…あのー…』

突然横から、おっさんの声がした。

『○○マンションの方でしょう。』

住んでるところまで知ってやがる。

『あ、いえ、怪しく思わないでください。
ここに、三日よくお見かけするんで。』

『はあ…』 まだ警戒を解かないで様子を見る。しかし、

『真夜中ウォーキングでしょう。』

ずばりと言われたので警戒心が解けた。






『私もそうなんです。そこの市営住宅にいるんですがね。』

もう見えている、タバコなんか吸ってないで帰ればいいのに。

『いやあ、家では吸えませんから。』

こっちの呼吸の三つくらい先を見て話すような人だ。






『昼は勤め、朝はしんどい。夜に自由になる時間なんて
11時過ぎのほんの数十分ですよ。』

それは全く同意したから、俺は名刺を差し出し
ウォーキングを始めた経緯や、服装の苦労なんかも語った。
もちろんソフトクリームを食いながら、だ。

彼、加山という名前だと自己紹介していたが
加山さんは、からからと笑って、
『服のブランドなんか関係ありません。』という。

うん、それはなんとなく僕も思っていたんだ。

『むしろ色でしょう。蛍光色を着ていたら変でしょうが
明るい色の服なら露骨に道をよけられたりはしないと思いますよ。』

なるほど彼も、明るいオレンジのトップスを着ている。









『でね、そういう目で見ていると、
この真夜中ウォーキング族は多いんです。』

『見分けられますか?』

『時間帯と服装が決まってるんだから百発百中です。
現に山村さんを的中させたでしょう。』

返す言葉がない。

『それにね、みんな「歩いたらじぶんへのご褒美をあげよう」
ってことで、こうやってコンビニに来るんです。』

『現に山村さんはソフトクリームを食べてらっしゃる。
僕はタバコです。
他にも鯛焼きだったり、菓子パンだったり、おもしろいですよ。』






と、

そこに焼き芋を持ったナイスミドルが出てきた。

『お、加山さん。今日は遅いな。』

『そんなことないですよ、北さんだっていまから帰ったら
日付が変わりませんか?』

『今日は芋が暖まってなかったんで待たされちまった。
…こちらの方は?』

『こちらは山村さん。真夜中ウォーカーの仲間ですよ。』

『ほう、それはそれは。』

お互いソフトクリームと焼き芋を持った不器用な姿勢で
握手を交わした。







加山さんが主催する『真夜中ウォーカーの会』は
次第に成長した。

これはおっさんじゃないとわからないと思うが
『危険人物じゃない。』、ということをあらわすのは
死活的に大事なことであり、
ある程度群れて歩く、ということは有効なのだ。

鰯の群れのような気もするが。

実際、1人の時は、不審尋問を受けたこともある。
卒拝したての巡査に尋問を受けても怖くも何ともないのだが
そんなに不審者に見えるのか、というのは落ち込んだ。






ところが加山さんのグループに入ると、そんなことがない。
いまの警察はそういう発想をしないらしい。


日本は平和だ。


我々は「ウォーキング」というよりも『夜回り隊』の
ような雰囲気になって街を歩いた。






こうなると、夜景を愉しむ、とか深夜の音を聴く
という雰囲気ではない。

今日の月が満月だったか半月だったか、
そんなことにも気がつかなくなっていた。

そろそろ、この集まりに参加するのも限界かなあ、
と思いながら歩いていると、先頭の加山さんが、
列の進行を遮った。











『…怪しい人がいます。』

見ると、ぼくらの先には12月も近いこの時期に
ランニングシャツ、ショートパンツにスニーカー、
目深にかぶったキャップと、まるで二ヶ月前に
妻に笑われた俺のような恰好をしている。

『追いましょう。』
こんどは北さんだ。

『ああいう身軽な恰好をしている奴こそがが
窃盗や破廉恥行為に及ぶかも知れない。』

この人はいくつだろう。

大体、俺は10人ほどに成長した、
この『真夜中ウォーキング』のメンバーの
職業を知らない。年齢さえも知らない。

俺みたいなサラリーマンもいるようだが
店をやっている人もいるらしい。

北さんなど、もう年金をもらっているんじゃないだろうか。

だから、この唐突な異邦人について
想像が働かない。








なんとなく衆議一決、というか、
頭脳役は先頭の2人だけなのだが
その決断に批判を言えるような雰囲気ではない。

いや、会の体質が『体育会系』だとかいうことではなく、
キャップをかぶった、この軽装の男性
滅茶苦茶早いのである。


こっちは40分のウォーキングの打ち上げに
コンビニで焼き芋とソフトクリームを食うのだ。
惰弱であることは比類ない。

たちまち息が上がって、
時折クロノグラフを見ながら
揺るぎないピッチで歩を重ねる彼に対して、
我々『真夜中ウォーカー組』は
あっさりと追い離されていった。


それでも500mくらいは追跡したから
変な捕り物に見えたかも知れない。








『もう、この辺にしましょうか。』

さすがに呼吸を乱していない北さんがそういうと、
全員が即座に停止した。

『彼はおそらく盗人とかじゃないですよ。』

それはたぶん全員が最初から理解していたと思う。






『ああいう人が出てきたんですなあ。』と
これは加山さん。

『全く新世代です。』
と、北さん。












ジョギングを個人で楽しむんなら
そっちのほうが歴史があるんじゃないのか?

と思って空を見上げた。




やっぱり直径の足りない月が、金星の横で
光っていた。












そうか、一月経ったか。





あしたからは、朝歩こう、と思った。








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2013年11月22日

アイス・マスター

いつもこの店に来ると、バーボンのストレートを頼む。
当然チェイサーが来るのだが
これはわがままを言って、タンブラーグラスに入れて貰う。
そこにロックアイスを入れて貰うのだ。
バーボンに、ではなくチェイサーに、だ。


その理由は、この店の自慢のロックアイスがあるからだ。


ロックアイス、という言い方も正確ではないだろう。
卓球のボールよりも一回り大きな氷が
水の入ったグラスに入っているだけなのだが、
この氷が見事なのだ。







まず透明だ。
気泡がなく、亀裂がない。

そして真球だ。
どの角度から見ても水の中だと、
氷があることさえ気がつかない。







隣では娘の麻亜子がオレンジジュースを舐めている。
彼女のグラス(?)にも氷が入っているのだが
それは、俺のタンブラーグラスよりもちいさくて
大きめのビー玉くらいだ。

しかも色がついている。
オレンジだったりグレープだったり。
最初は、ジュースをそのまま固めているんだと思った。


しかしそれにしては色のついている部分の周りが
分厚く透明だ。

コンビニで売っている「アイスの実」のように
粉末まで冷却したアイスの粉を再成形する、といった
雰囲気ではなかったから、一体成形なのだろう、
とは思ったが、そうなると作り方がわからない。







『氷を作る途中でシロップを入れるんですよ。』

不思議に思って娘のグラスを掲げていた俺に、
マスターが言った。

『型に入れて氷を作ると周りから固まるでしょう。
その途中でジュースなりシロップを入れるんです。』

なるほど、雨に濡れた窓のような透明感がある。





『いまは便利な時代で真球を作る道具なんて
いくらでもあるんです』

マスターはカウンターの上に
銅製のガスタンクのような器具を置いた。

『これにね、大きめの氷を置いて上からこの蓋をかぶせると…』

蓋といってもずいぶん分厚い。

『だからね、自分の重さでどんどん真球になっていくんです。
銅は熱伝導率がいいですからね。』








『この店もこれを使ってるの?』と聞くと

『いやあ…』という。

『氷自体は自前で用意しないといけないし、
なにしろこの一台だけで10万以上するんです。』



『え?』というと、

『ほんとうですよ。うちの店がいくらちいさいっていっても
商売では使えませんや。』

『じゃあ、なんで?』と聞くと

『オブジェですよ。置物です。かっこいいでしょう。』









マスターは話し好きな男だ。
恰好こそ、糊の利いたシャツにボウタイ
黒のスラックスという、いかにもなバーのマスターなのだが
たくさんしゃべる。

だから俺も5歳の娘を連れてきたりするのだ。
麻亜子はカウンターのストールにおとなしく坐って
届かない脚をぶらぶらさせながら
オレンジジュースを舐めている。

経済的な娘だ






『でもね、わたしには「理想の氷」ってのがあるんですよ。』

『へえ、どんな。』

『それが曇りのない氷。』




俺は改めてタンブラーの中の氷を見つめる。
『これで充分きれいだと思うけど。』

『河崎さん、透明な氷の作り方ってわかります?』

『え、いや。』

『ゆっくり、そして冷やしすぎない。ってことなんです。』

『ほう。』

『ご家庭のね?冷蔵庫で氷作ると
中まで真っ白になっちゃうでしょう。』

『うん。』 なんか気押される。

『あれは冷やしすぎるんです。
急に冷やすと空気を含んでしまう。』



それはなんとなくわかるような気がする。

『冷やしすぎない、っていうのは、うーん…
氷ってのは0℃で凍るわけです。』

『うん』 そのくらいは知っている。

『凍ると体積が増えますからね。』

まあ、浮くもんな。

『でも体積が一番おおきくなるのは、
零下4℃くらいなんです。』

それは知らなかった。

『家庭用の冷蔵庫でも夜中に放っときゃ
それくらいになりますからね。
そうすると体積が増えて、
型にはめてあると亀裂が走るんですね。』

知らなかった。







『専門の氷屋なんかは、その辺を心得ていて
透明の氷を作るんですけど、逆にプロだから
大がかりな施設で作るんで
ワンブロックがでかいんですよ。』

『そうなの?』

『幅1m長さ1m高さ50cmくらいあります。
数百kgあるでしょう。
それを切り分けて配送するんです。』

『配送?』

『うちは入れてませんけど、
この辺の繁華街はみんなプロから仕入れているでしょう。』











「うちはいれてませんけど」の部分にプライドがあった。

『うちはね、銅板を打ち出してもらった型を使って
専用の冷凍庫で氷を作るんです。』

『自分用の型を作るってことかい?』

『そうしないと数が作れませんし、
小回りが利きませんからね、
それに、お嬢さんのカクテルに入れているような
小さな氷も作れないんです。』








麻亜子はオレンジ色の氷をしゃぶっている。
こんな子供を夜の8時に
バーに連れてくるのもどうかと思うのだが
半年ほど前から、
由布子の奴が半月に一度くらいの頻度で
『女子会』と称して飲み会に出かけるのだ。

40過ぎで『女子』もないと思うし、浮気も疑ったのだが
化粧っ気もなく出かけてへべれけで帰ってくるので
もう、考えるのをやめた。


だから、俺もその日は飲みに出る。
ちょっとした反抗心だ。

もちろん麻亜子を置いてはいけないので
一緒にご飯を食べて7時くらいにこの店に来る。


奇声を上げて走り回るような子ではないし
マスターがこんな調子だから
甘えさせてもらっているが
常連さんも黙認してくれているのだろう。









『お嬢さんのジュースは、もちろんノンアルコールです。
河崎さんのタンブラーの氷も水ですけど、
氷にはもっと可能性があると思うんです。』

『はあ…』

『ぼくは、氷を極めたいんですなあ…』

『はあ…』 圧倒されっぱなしだ。

『例えば、いま召し上がっていただいている
透明で真球の氷。
これが僕には20年来の目標だったんです。』

確かにきれいだ。

『ところが東急ハンズあたりで、
そこそこきれいな氷が作れる道具が
こうやって売られるようになって、
その方向はもういいかな、と。』

と、彼はさっきの銅製のガスタンクのような
製氷機を取り上げた。







『一時期は表面を荒らす工夫をしてみたりとかしました。』

『表面を荒らす?』

『普通のバーでは、
アイスピックでロックアイスを作るでしょう。』

そういえばそうだ。

『あれはパフォーマンスでもあるけど、表面積を増やして
効率的に酒を冷やすっていう機能もあるんです。』







マスターは、いちいち科学者だ。

『しかし私はあれをもっと
スマートにやれないかと思いましてね。』

『ほう…』

『氷の表面にお湯を掛けると亀裂が走るんです。』

『ああ…』 そうかもしんない…

『それをカクテル用の色のついたリキュールに浸けるんです。
そうすると氷自体に色と味がつく。』

ああ、それはきれいだろうな。

『もちろん熱湯じゃだめですよ?
中まで割れちまいますから。
お湯の温度と、量をいろいろと研究しましてねえ。』

『なんでそんなことを…』

『だって、お客さんの前でがしがし氷を削るより
お湯をぱあっと掛けて
表面が網目状に亀裂が入ったらきれいでしょう。』

『じゃあ、やってよ。』

『無理です。』

『なんで?』


『1割くらいしか成功しないんです。』








午後からは喫茶店になるらしいこの店は
夜しか営業しない、バー、という薄暗さがない。

しかし、数十年タバコの煙に
くゆらされてきたらしい店内は
すっかりベージュ一色に染め上げられていて
俺には、胎内のように心地いい。

子供の健康にいいか、といわれると困るが。










『これを召し上がってください。』


マスターは手際よく透明なグラスを差し出した。
ただ、青い氷が浮いている。


『これは?』

『この氷は、ブルー・キュラソーなんです。』

『え?お酒?』

『もちろんアルコールは、
零下100度以下に冷やさないと凍りませんから
いっぺん火に掛けてアルコールを飛ばしてあります。』

グラスを口にするとジントニックの味がした。




それにしてもこの氷も透明だ。
『きれいだなあ…』と、嘆息すると、

『ありがとうございます。』と頭を下げる。
ブルーキュラソーの薬くささが遠くに聴こえる。





『でも氷って浮くでしょう。』
唐突にマスターが言う。
そりゃそうだ、氷だもん。


『なんとか水中に氷をとどめておけないかと思いましてね、
去年、「プロポーズしたい」っていう男性が来た時に
その彼女に特別なドリンクを差し上げたんです。』

『へえ…』

『氷ってのはね?浮くでしょう。
凍ると1割くらい軽くなるんですね。』

『うん…』

『そこでこうやって色つきの氷、
あの時はカンパリで朱くしたかな。』

それはきれいそうだな。





『その氷の中に、彼氏から預かった
婚約指輪を入れましてね。』

『うん、ロマンチックだ。』

『ところが重さが釣り合うわけないんです。
野郎奮発して高い指輪かってきたのはいいんですけど
沈んじまう。』

『うん』

『こっちも意地になりましてね。
氷にわざと気泡を入れたりするんですけど
こんどは、当たり前だけど浮いちまう。』

『うん。』 なんかこっちも引き込まれる。





『結局、「水よりも軽いけどアルコールよりも重たい」っていう
氷を作るのに3日かかりましたよ。』

もう商売じゃないな。

『まず水を入れましてね。』

酒じゃないのか?

『それに朱い氷玉を浮かべましてね、そのうえに
そーっと、ウォッカを注ぐんです。』

『ウォッカ?』

『酒は何でもいいんですけどね。
アルコールのほうが軽いですから度数が高い方がいいんです。
もちろんステアしたら比重がばらばらになるから、
下は水、上はウォッカです。』 

『それは微妙だなあ…』

『そうすると、透明な水の上と、ウォッカの境界面で
わずかな密度の差が出来る。
婚約指輪入りの朱い氷玉は、見事に水中で静止しましたよ。』

『へえ、それは見たかった。』

『僕もどきどきでした。よく見れば屈折率が違うから
水とウォッカの境界に
わずかに光の反射があるんですけどね。』

一度見てみたい。

『でも普通の人は気がつきませんよ。
透明な液体の中に朱い氷、です。
彼女さんも茫然としていました。』

それはそうだろう。

2人の様子を横目で見ながらグラスを見ていると
浮力を増すために表面に付けた気泡の部分が
どんどん溶けるんです。』

どうもマスターは学者だ。でも状況を愉しんでいる。

『そうすると氷の浮力が減って沈んでくるんですな
事前の打ち合わせで適当に水をつげ、
とは言ってあったんですが…』

『水をついだってだめだろう。』というと、

『3種類くらいの砂糖水だったんです。
これで浮力を保て、と。』







バーの会話だろうかこれ。

『奴も気づいて2回くらい水を入れるんですけど
ロンググラスでしょう。
そんなにはたくさん入らないんです。』

『カクテルグラスだったらおしゃれなのにねえ。』

『あんなちいさいグラスじゃ、無理ですよ。
ロンググラスでも
氷玉は、最後は3cmくらいの水底で漂ってました。』

『じゃあ、婚約指輪は?』






『それが出てきたんです。』

『へえ…』

『野郎がぐずぐずしていたせいもあって
2人とも30分くらいグラスを見つめてるだけだったんです。』

『それでときどき砂糖水を足す。』

『そのくらいの時間が経つと氷玉が分解するように崩れて
中から指輪が落ちてきたんです。』

『おー…』

『ね、グラスの表面は指輪の重力から外れた朱い氷。
透明のグラスの中に
ダイヤの指輪が沈んでるんですっ。』

きれいだっただろうな…









『彼女はよろこんだでしょう。』

『彼氏のほうは舞い上がって
何もしゃべれなかったんですけど
彼女が泣いちゃって。』

それはいい話だなあ。

『ところが、彼女のほうが緊張か、喜びか
グラスを一気飲みしちまいましてねえ。』

『へ?』

『もちろん、底にある指輪を取るつもりだったんでしょうけど
グラスの上半分は度数50度のウォッカです。』

『半分?』

『浮力を調整するために継ぎ足しましたし
なにしろかき混ぜてないし。』

『そりゃ死ぬでしょう。』

『即座にぶっ倒れて
彼氏に抱えられて救急車に乗りました。』

それで、この店のメニューにそういうカクテルがないのか。

『あれから、あの2人はうちの店に来てくれないですけど
幸せにやってるんですかなあ…』








幸せである可能性は、あると信じたいが、
その2人がこの店に来ることは2度とないだろう。

隣を見ると麻亜子が眠りこけている。
もう9時だ。
10時には寝かせてやらないといけない。

彼女をおぶって会計して店を出る。
空には見事な満月が出ていたが
きれぎれに、雲が出ていて虹色の光で遮る。



由布子はまだ帰ってはいるまい。










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2013年11月17日

雨のバス

玄関を開けたら雨だった。
舌打ちをして、傘を取りに戻り
エレベーターに向かって歩く。



景色が白い。



近所の家々、国道沿いのマンション、海辺の高層団地、
層を作って色がなくなっていく。

6月くらいにもこんな風景があるが、
あれはあたたかい水蒸気だ。
いま景色と色を遮っているのは乾いた雨である。

エレベーターを降りてバス停に歩く。
雨だと自転車が使えないから、どうしてもそうなる。







でも歩くといいこともある。
今年の桜の紅葉は遅いな、なんてことに気がつく。

そして、桜に限らず紅葉するのは、意外にも日影の部分が先ではなく
日当たりがいいところなのだ、ということを知る。

紅葉した葉も、まだ紅葉していない分厚い葉っぱも
雨に濡れている。









先週まで、雨が降ると、水の匂いがした。
そこに溶け込んだ、葉っぱや、土や、アスファルトや
そんな匂いがした。

今日は、そんな匂いがしない。
風があるせいもあるだろうが
寒さがそんな活動を閉じ込めてしまったようだ。

これでは晴れていても自転車は厳しいな、と
思いつつ坂を下りる。







冬だ。 








バス停に着く。

雨の日しかバスに乗らないので、いつものメンバーなのだが
彼らの半分以上が、雨だから、と
バスに乗り換えた連中なのだろう。
だから俺と同じだ。

路線バス自体は、割と大きい車体で
前半分が独立した前向きの席、後ろ半分がロングシートである。
それでも所詮バスだから坐れる人数は40人足らずだろう。

バスは結構混んでいる。
雨だからな。
と思いながら、もっそりと乗り込むと、
既に坐るスペースはない。

やれやれ、と思いながらつり革を持っている
高校生くらいの女の子の横に立った。










普段なら席も決まっているのだろう。
もちろん俺が乗る15分くらいの区間では坐るなど
望外のことである。

しかし、本来晴れた日の常連さんであった人達も
この『雨天組』に席を占領されているらしい。

バスって、なんでこんな
蒸れたような、油のような独特の匂いがするんだろう。

外は乾いて寒かったのに、バスの中は湿ってあたたかい。
窓が真っ白に結露しているしているあたり、冬だ。 









横に立っているあの娘の様子がおかしい。
 
なんだか、もぞもぞ、
立っているのが落ち着かないという風である。

さっきいった事情で、バスは満員、とまでは言わないが
そこそこの乗車率で結構混んでいる。









彼女の目の前には安物のスーツを着た
メガネのおっさんがいて、見事に眠りこけている。

ネクタイさえ緩めているから
外が夜なら酔っぱらいだ。

始発から終点まで40分ほどの筈なのだが
彼の眠りっぷりは素晴らしい。









女の子は、おそらくその席が『指定席』だったのであろう。
雨で、しかもこんなに寒くなって、倍も客が増えなかったら
彼女は座れたはずなのだ。

俺よりも前のバス停から乗ってきているので
彼女に許された『朝の自由時間』がどれほどなのか
知ることは出来ないのだが、
その時間は貴重なものだったのだろう。

だから不満そうにもぞもぞ、そわそわしていたのか。










バスは2つの駅を通る。
ひとつは私鉄の駅で、各駅しか停まらないから
降りる人はあまりいない。

もうひとつがJRの駅で終点だ。
ここもたいした駅ではないが、さっきの駅よりは大きい。

なにしろ終点なので降りないといけない。
ところが、メガネのサラリーマン氏は眠ったままだ。

もちろん乗客は誰も起こさない。








俺もどうなることかと思って、ゆるゆるしながら
ICカードをまさぐっていると。


『あーーーーっ』、という声がした。


彼は人いきれで曇った窓を必死でふき
それから、腕時計を確かめて、もう一度
ソプラノテノールの声でこういった。


「あーーーーっ。』







どうやら彼が降りるべきは、あの私鉄の駅だったらしい。
その場に居合わせた乗客は、瞬時にその状況を理解したが
彼ひとりが茫然と椅子に座っている。


打ち合わせでもあったのか、来客でもあったのか、
度重なる遅刻を注意された直後のことだったのか
彼の表情では、それはわからない。

しかし、彼の自分に対する憤りと
これから起きるであろう事柄への
恐怖は伝わってくる。

















と、



『クスッ。』と吐息がもれた。
見ればさっきの女子高生である。


手で口を押さえる風もなく、自然にもれたのだろう。





『30分の座席の恨み』を出すわけでもなく
だから、ざまあみろという感情はなく、
ほんとうにおかしかったんだろうな、という

『クスッ。』だった。

サラリーマン氏は茫然としていたままだったが。














車内に明るい失笑が起きた。









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