2015年09月27日

きれいに空に雲がない

きれいに空に雲がない。
空気が深くて、空が高い。

いつもは水蒸気の彼方にいて遠い山並みが
びっくりするくらい近い。
山襞の陰がはっきり見えて、尾根に届く光も明るくて
つまんない、いつもの山が立体的に見える。


そんな気持ちのいい朝に、
あたしはスーツ姿で走っている。




ちくしょう、なんで忘れたのかなあ。
今日はだんなに、
どうしてもあれを渡さないといけないのに。

あ、もう『元だんな』か。




とにかく、忘れたから、
『ちょっと取ってくる。』って言ったら、
なにも言わない。

『待っててよ?』って重ねていうと、
『新幹線の時間があるから。』と、ひさしぶりに答えた。
指定席券くらいフイにしてもいいのに、と思うと、
『途中で寄るところもあるし。』と、重ねて言ってくる。
有無を言わさない。
鎖骨の下から見上げると大きくて気後れしてしまう。

そのまま地下鉄に降りる階段に向かっていく。


その鎖骨に小さな頭を預けて、太郎が寝ている。
それでも、あたしが声をかけたらこっちを向いた。
手を振るから小さく手を振り返したら、
笑ってくれた。



よし、取りに帰ろう。



そうしたら、だんなが襟を引き寄せて
太郎の顔が見えなくなった。

そういえばだんなの田舎は、
1時間に1本しか列車がないんだった。
田舎者め。





『じゃあ、東京駅までに追いつくから。』
って言っても返事がない。

えい。

『ときどきメールするから、場所を教えてよ。』
って、これも無言だ。
『すごく大事なものだから。』
無言だ。


『何時の新幹線?』って訊くと、
『5時半。』ってこれだけは大きな声で返事が来た。
いま、ちょうど朝の11時だ。


だから、あたしは朝の街を走る。





せっかく快速で東京まで行ける駅に来たのに
午前中を巻き戻すような道程を帰る。

地下を走る電車に乗る。
天気も時間もわからない車窓を眺める。
普通電車しか停まらない駅に着いて、
もう一度、もっと小さい私鉄に乗り換える。
やっと地上に出る。
沿線の軒先の低い庭木の梢が窓をかすめそうな、
幅の狭い電車が思い切り揺れながら、でも遅い。

急ぐ気持ちとは反対に、どんどん電車が遅くなる。





ようやく、朝早くに乗った小さな駅におりる。
ひとつだけの降り口の自動改札を通る。
振り返るといつもの駅舎が、薄い軒を乗せて
やっぱり雲のない空の影の中にいて、涼しそうだ。



よし、急ぐぞ。



でも、なんでこんなことになったんだろう。

駅があることがわからないくらい
遠慮がちな改札口を降りて、
小さなコロッケ屋が、もう開いてるな。
ここ、おいしいんだ。

そこを通り抜けて、広いだけの国道に出る。
この道に車が滞まっているのを見たことがない。
細い階段を上ってJRの長い跨線橋を越える。

馬鹿みたいに高々とした橋の上で
鉄錆びた風を浴びると、海の匂いがする。





思わず振り返って、海の方を見ると
ぽかんと明いた空に浮かんだ太陽が、
既に南を回っているじゃないか。

えい、と声を上げて家に走った。

小さな屋外階段を駆け上がって
2階の部屋の鍵を開けると、丸い毛玉がぶつかってきた。
結婚した年の夏に買った、ロシアンブルーのキウイが
頭を擦りつけてごろごろ言ってきた。

あんまり頭を押しつけてくるので、
『もー、お前。えさあげただろ?』と見ると、
えさの皿は空だし、水もない。



あれ?忘れてたっけ。



わりーわりー、と言いながらドライ猫えさをあげていると
『わうわうわうわう』と、元気に食べているので
たくさん頭を撫でてやっていたら
かわいいなあ。

なんか、どうでもよくなった。

時計を見たら、2時過ぎだ。
5時半に東京駅なんてもう、間に合わないんじゃないか?

ああ、もう、どうでもいい。
これが、私の定まった運命なのかも知れない。







なんで、こんなことになったんだろう。


大体あいつがいけないんだ。
あたしだって、帰りが遅いけど、
頑張って家のことをしている。
なのに、あんたは土日もいないじゃないか。
だからうちの母親に頼ったってしょうがないじゃない。

それをいやだって言う。
女に向かって、『お前はマザコンだ。』なんていうのは
ひどくないか?
『お前には子供は育てられない。』って。

そうかもしんないけど、あんたが太郎を連れて行っても
もっと育てられないじゃないか。
親権は母親が取るんだ。


それでも、あの野郎。
太郎を連れて行きやがった。

どうしても義母さんと相談しなくちゃいけない。っていうから
あたしもついていくことにした。
そうしたら、東京駅につく寸前に『帰れ』って。
お義母さんは会わないって。


だましやがって。






そうやって、ぼんやりしていたら、
今朝、手を振っていた太郎の顔を思い出した。

悔しいけど、鼻はあいつに似ているんだよな。
でも、目元はあたしだ。
うん、絶対にそうだ。

台所に行って、
キウイにあげる水のお皿をいっぱいにしてやって、
蛇口の水を両手で掬って、一くち飲んだ。
ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。

歩ける。行こう。






家から取ってきた『あれ』を抱えて、駅に向かう。
昼の、この時間はまだ暑いな。

乾いた街の、ほんの少ない歩行者が、あたしを見ると
驚いたように目をそらせた。
電車に乗ると、もっと目立ったんだけど、
そんなことよりも、だんなに出したメールが返ってこない。

どこにいるんだ?



家に帰るんなら、どんどん人の流れが少なくなるんだから
連絡がつかなくなっても、待ち合わせは困らない。
わからなくなっても、地元の駅、
最悪、家に帰っていれば会える。

これが、都心に向かうと、人の流れが太くなるから
電車を特定するのが難しくなる。

駅で会う、といっても
こんな大荷物を抱えて待ち合わせるのはいやだ。


だから、どこにいるんだ?






地下にはいると、やっぱり時間がわからないけれど
最後に車窓から見えた街は、まだ斜陽が赤い光を、
樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いていた。
日没までには、まだ間があるはずだ。

最後の乗り換えをする。
ここまで連絡がないんだから、後は
東京駅の新幹線改札口に行くしかない。
嫌だけど。
でも、このままあいつをお義母さんのところに返したら
二度と太郎に会えないような気がする。

鼻のあたりはあいつに似ているけど、
目元はあたしに似ていて
今朝見た時は鼻水を垂らしていたけれど、
少しも疑わず、静かに期待してくれているんだ。

私を、待っている人がある。
私は、信じられている。



馬喰町のあたりで、少しのろのろと運転したから
東京駅のホームに降りると、
まっすぐにエスカレーターに走った。

果てしなく長いエスカレーターを乗り継いで
コンコースに上がった。
この丸ノ内口から、
八重洲口の新幹線ホームまでが、また長いんだ。



路行く人を押しのけ、ねとばし、
あたしは黒い風のように走った。

昼間の中央線や山手線のホームから降りてくる
けだるそうなサラリーマンの間を駈け抜け、
新幹線で飲み食いする弁当を選ぶ人たちを仰天させ、
少しずつ進んでいく時計の針の、十倍も早く走った。


それでも、コンコースの真ん中で
ワゴンを置いて『東京ばな奈』を売っている
お姉さんにぶつかって転んだ。

額から血が出ているらしく、
あたしがぶつかったのに、お姉さんは
『あらー、大丈夫?』と心配してくれるけど、
もう時間がない。

私は、信頼に報いなければならぬ。
いまはただその一事だ。

走れ、あたし!



階段を上がって新幹線改札に行くとちょうど5時半。
改札の前に立つと、みんな怪訝そうな顔をしている。

まあな。

額から血を流した女が泥だらけのスーツ姿で、
背中に変なもんを背負って、
血走った目をしているんだ。

よく通報されなかったな。








『なにやってんの?お前。』
と声がするから振り向いたら、だんなだった。

『なんでメールに出ないのよ。』
『だって…』
『なによ。』
『地下鉄だと電車の中では、
まだつながんないからな。』

あ、そうか。




『大体なんだよ、その恰好。』
『…転んだのよ。』
『そのぬいぐるみは?』
『だってこれがないと太郎が泣くじゃない。』

あたしは背中から、
太郎が生まれた時からいっしょに寝ている
背の高さほどある、ぬいぐるみをおろした。

『きたねえなあ。』




まあな。

3年間、あの子のそばにいたからよだれだらけだ。

『あれ?太郎は。』
『あそこにいるよ。』

見ると、太郎がお義母さんと一緒にいる。

『お義母さん、来てるの?』
『言わなかったっけ?』
『だって離婚届を出して田舎に帰るって。』

すると、だんなは憮然として、
『そりゃ、あれだけけんかすればな…』

むう。

『大体お前がサインもしてないし、
はんこも捺さないのに
離婚届なんか出せるわけないだろう。』
『新幹線に乗りにきたんじゃないの?』
『新幹線に乗ってきたお袋を迎えに来たの。』

そうか。




『あらー、佐知子さんお久しぶり。』
『あ、どうも。今日は一体…』
『むかしの友達に会う用事があってきたのよ。
太郎も連れてきて、って頼んじゃったから、
ひさしぶりに会えてうれしいわ。』

そうだったのか。

『それよりあなた、どうしたの?その恰好。』

改めて自分の姿を見ると、
スーツは埃だらけ、ストッキングは破れているし
ヒールがぐらぐらしている。
見えないけど、顔もひどいんだろう。


『あー、もういいよ。メシを食いに行こう。』
『ねえ。』
『ん?』
『お願いだから外に出よう。』





丸ノ内口の改札を出て、ひさしぶりに外に出ると、
空気が冷たくて、東京駅のドームの上に月が昇ってくる。

『あら、きれいな満月。』と、お義母さんが言う。
『スーパームーンだよ。』と、だんな。

右の鎖骨に太郎の頭、
左の鎖骨にうさぎを抱えている。

















あたしも空を見上げると、
長かった一日が暮れかけて、
そうしてやっぱり、きれいに雲がない。








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natsu_0117 at 18:52│Comments(2)

この記事へのコメント

1. Posted by 管理人   2015年09月28日 14:14
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2. Posted by natsu   2015年09月30日 13:40
管理人さん、ありがとうございます。
よろしくお願いします。

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