2016年11月14日

鬢の毛が跳ねる

 
髪の毛が跳ねた。
 
 
ちくしょう、今からプレゼンなのに。
 
 
 
 
 
 
さっきトイレで
ネクタイが曲がってないかのチェックまでしたのに。
 
 
 
トイレから出てきた時、廊下ですれ違った山下君に
『広瀬さん、髪の毛跳ねてる』と、呼び止められた。
 
彼女も、今回のプロジェクトのメンバーだ。
珍しく化粧しているらしいが、目元が黒い。
最近、終電続きだったからな。わるい。
 
 
 
『え?どこ?』
 
『ほら、』と言って、手で教えてくれようとしたが、
今日のプレゼンのレジュメを持っていたために
落としそうになっっている。
 
『あー、もう。口で言って』
自分の手のひらで触っても、
押さえてしまうらしくてわからないからイライラする。
 
『だから ほら、左の鬢のとこ。』
 
『びん?』
 
『ここです』と言って、彼女は資料を床に置いて
俺の左耳の上をはたいた。
そこらへんが『鬢』らしい。
 
呆然としていると、彼女は床のレジュメを拾って
『早く来てくださいね』と言いながら、
実際に急いでいるのだろう、
プレゼンでスクリーンを指し示すために、
俺が持っていたレーザーポインタだけ
奪い取るように手のひらから取って、
会議室に向かって行った。
 
俺たちがいるフロアよりも毛足が長い
タイルカーペットの廊下を急ぐ、彼女のふくらはぎが
細くて白い。
 
 
 
 
レーザーポインタだけ持って行ってどうするんだ?
 
 
 
 
しかし、急いでトイレに入って洗面台の鏡を見た。
確かに左の耳の上の髪の毛が跳ねている。
手のひらを水で濡らして
跳ねているところを押さえてみる。
 
手を放すとぴょんと跳ねる。
 
こんちくしょう、と思って手のひらに水をすくって
跳ねている場所にその水を掛ける。
 
ぴょんと跳ねる。
 
しかも水を掛けすぎて、
クリーニングしたばかりのスーツに掛かってしまった。
あー、もう。と思ってハンカチで濡れたところを拭く。
しかし、もう時間がない。
結局、髪の毛が跳ねたまま、
プレゼンに臨むことになった。
 
 
  
 
 
 
プレゼンは大失敗だった。
 
髪の毛が気になるから、
つい左手をこめかみに持って行ってしまう。
 
気が付いてプレゼンに集中しようとすると、
レーザーポインタがない。
 
慌てて山下君のほうを見ると、
彼女もあたふた、持ってきた資料を探している。
 
 
 
 
あいつ、失くしたな。
 
 
 
 
 
こっちも落ち着かなく、昔の林家三平みたいに、
こめかみに手を当てて、右手を振り回していると、
バサアッ、という大きな音がする。
 
レーザーポインタを探すために
山下君が開けようとしていた、資料の分厚いファイルが
彼女の机から落ちた。
 
慌てて立ち上がる彼女が、スーツのスカートを
デスクに引っ掛けたりしているから、
拾ってやろうと俺が向かいかけると、
重役席から咳払いが聞こえた。
 
慌てて立ち止まって振り返ると、
『君たち』と声がする。

『いいから、落ち着いてやりなさい』
社内報でしか顔を見たことのない社長が、
動いて、しゃべっていた。
目は笑っていた。
 
 
 
 
 
プレゼンが終わって
パソコンや、プロジェクターなどを片づけていると、
山下君が近寄ってきて、
レーザーポインタを差し出しながら、
『すいません』と謝った。
 
『どこに入れてたんだ?』
なるべく笑いながら訊いたら、それには答えず
『広瀬さんが課長になれなかったらどうしよう』と
泣きそうな顔をしている。
 
うちの部には、重役プレゼンに合格すると昇進できる、
という都市伝説がある。
『気にしなくていいよ』、部長などはそう言ってくれるが
逆に言えば部長も知っているわけだ。
40過ぎて課長になれない人が確かにいるが、その人には
『すごい失敗をしたらしい』という噂があることは確かだ。
何をしたかについては『それは、すごかったらしい』と
誰も具体的なことを知らないが。
 
『まあ、いいよ。それよりどこにあったの?』
ポインタを受け取りながら訊くと、
『スカートのポケットに・・・スーツなんか着るの久しぶりで』
 
ああ、まあな。
俺も昨日はクリーニングしたスーツを
取りに行くためだけに、8時前に家に帰った。
すぐ、会社に戻ったけど。
 
しかし、それよりも気になることがある。
 
 
 
 
 
『鬢なんて言葉、何で知ってたの?』
 
『うちのばあちゃんが髪結いだったんです。』
 
『髪結い?いまでも?』
 
『いまはやってません。
大学の卒業式や成人式なんかでも
女の人はもう日本髪にしないでしょう』
 
『和服の人はいるけどね。
あとは結婚式くらいか?』
 
『結婚式でも日本髪を結う人は減りました。
だから今は、依頼があった時だけ髪を作ってるみたい』
 
『ふーん』
 
『ばあちゃんのばあちゃんの時代には、
女の人は普段でも髪を結いましたから、
仕事になったんです』
 
『あ、そうか』
 
『そのまた前の時代だったら、
男の人も髷を載せてたでしょう』
 
『うん』
 
『いま、男の人で髷を載せてるのは
お相撲さんだけですけどね
お相撲さんの髪を結うのに使うのが・・・』
 
『あ、鬢付け油。』
 
『そう、そうです。』
 
『ふーん』
 
『鬢付け油は鬢のところだけに
つけるわけじゃないですが・・・』
 
『鬢って言葉は、いまでも生きてるのか』
 
『あはは、「鬢」が生きているのは、
その単語くらいですけどね』
 
 
 
そんな話をしていると、神谷部長が後ろを通りながら、
『お、社長公認のカップルが何やっている』というから
『今日のプレゼン、すいませんでした』と言った。
『うん?よかったよ。あれで』と言いながら
歩く時に肩を揺らす独特のスタイルで歩いて行った。
 
 
その時彼女から返してもらったレーザーポインタは、
結局壊れていた。
 
 
 
 
 
 
 
プレゼン以降、変わったことといえば、
山下君が俺のことを『鬢さん』と呼ぶようになったことだ。
 
訳が分からないからやめてくれ、と何回も頼んだが
くすくす笑って、言うことを聞いてくれない。
 
そのうち、ほかの連中もそう呼ぶようになり、やがて
『鬢さん』が『ビンちゃん』になり、
『Mr.ビーン』と呼ばれるようになった。 
 
 
 
 
 
 
プレゼン自体は失敗した。
俺がプレゼンしたコンペ案は、社内では採用されたが
相手先に不採用を出されて実施案件にならなかった。
 
 
 
 
 
昇進も、まあ、すこしお預けになったらしい。
 
 
 

 
『ばあちゃんが、あたしの髪の毛結ってくれるって』
山下君だ。
 
結局、彼女と結婚することになった。
結婚式での彼女の髪の毛を作ってくれるという。
 
鬢の縁だ。
 
 
 
 
ふーん、文金高島田だけでもたくさんあるんだな。
『ビンさんもばあちゃんに髪を作ってもらいます?』
 
男で日本髪、と言ったらちょんまげだろう。
俺は月代なんか剃らねえぞ、と言ったら
『今どきちょんまげなんかしないですよ。
男性がやるかっこいい日本髪はあります、って』
 
写真を見せてもらったが、
全部総髪で髪を下すだけだった。
 
 
『いや、いいよ』と言いながら、
この幸せボケした女になんて言ってやろうか、と
思っていると、
『よう、幸せカップル』と、声がする。
神谷部長だ。
 
『幸せそうだな、Mr.ビーン』
 
『その名前はやめてくださいって』

『仲人に何を言うか』と言われてしまった。
 
あはははは、と山下が笑っているので、
『結婚したら、おまえはMrs.ビーンだからな』と
言ってやると、
『え?それは嫌だな』って、なに言ってやがる。
 
『あはは、なかよしなかよし』と
神谷部長が笑いながらむこうに歩いていく。
 
 
  
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
うん、そうかもしんない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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natsu_0117 at 21:29│Comments(0)

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