2005年08月26日

体罰と教育の境界2

 『愛情があれば教育だ』
という人がいます。

 『暴力はどんな形であれ暴力だ』
という人もいます。


 

 教育。

 他人に対して、意図的な働きかけを行うことによって、その人間を望ましい方向へ変化させること。
 (#goo辞書の記述より一部抜粋)



 望ましい方向。

 ……誰にとって?
 ここが重要なのだと、私は思っています。



 体罰。

 こらしめのために、身体的な苦痛を与えること
 (#goo辞書の記述より一部抜粋)



 こらしめ。
 罰を受けることに懲りれば間違いを犯さなくなることは、確かにあるでしょう。

 ですが、一見矛盾するようですが、
『間違いを犯さないのは罰に懲りたから』
だとするなら、それは本人にとってあまり『望ましい方向』の変化とは、私には思えません。

 なぜって?

 罰を与えられるからその行動をやめただけなら、罰を与えられることがないと思える状況になれば行動もまた、元に戻ってしまう可能性があるからです。



『体罰ではなく教育だ』
『腹が立ってやった』

…を並列して述べる親や教師もいます。
 その教育(?)によってその子供なり生徒なりは確かに、その親なり教師なりが腹を立てる状況を起こさなくなるかもしれません。

 でもそれは。



 誰にとっての『望ましい方向』なのでしょうか。



 『愛情があれば教育だ』という論理。
 これは。



 教育『する』側だけの論理ではないでしょうか。



 例えば、痛みを知らない故に他者を平気で傷つける、無垢故に残酷な子供などには、相手の痛みを知らせることは必要だと思います。
 また、それを繰り返せば大事(火事など)に至るかもしれない行動には、絶対にいけないことだと記憶に刻むことは必要だと思います。

 でも、そういった必要な体罰でさえも。



 私は罪だと思うのです。



 教育する側が肉体的精神的苦痛によって罰することを罪だと自覚し、それでもなお今それが必要だと思うこと。
 それが『本人にとって』『望ましい方向』の変化をもたらすと信じて、自ら罪を犯すこと。

 それだけが本人から、そして他者からさえも許されうる教育と成り得る条件なのだと、私は思います。



「躾だ」
「教育だ」
私は間違っていない



 罰した本人がこうした言葉を紡げる時点で、それは教育の領域からはみ出している――。
 私はそう考えています。

natsu_ki00 at 19:59│Comments(0)TrackBack(0)clip!雑記 

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