あの坂をのぼれば、海が見える。
 少年は、朝から歩いていた。草いきれがむっとたちこめる山道である。顔も背すじも汗にまみれ、休まず歩く息づかいがあらい。
 あの坂をのぼれば、海が見える。
 それは、幼いころ、添い寝の祖母から、いつも子守唄のように聞かされたことだった。うちの裏の、あの山を一つこえれば、海が見えるんだよ、と。
 その、山一つ、という言葉を、少年は正直にそのまま受けとめていたのだが、それはどうやら、しごく大ざっぱな言葉のあやだったらしい。現に、今こうして、峠を二つ三つとこえても、まだ海は見えてこないのだから。
 それでも少年は、呪文のように心に唱えて、のぼってゆく。

 あの坂をのぼれば、海が見える。
 のぼりきるまで、あと数歩。半ばかけだすようにして、少年はその頂に立つ。しかし、見下ろす行く手は、またも波のように、くだってのぼって、その先の見えない、長い長い山道だった。
 少年は、がくがくする足をふみしめて、もう一度気力を奮い起こす。
 あの坂をのぼれば、海が見える。
 少年は、今、どうしても海を見たいのだった。細かく言えばきりもないが、やりたくてやれないことの数々の重荷が背に積もり積もったとき、少年は、磁石が北を指すように、まっすぐに海を思ったのである。自分の足で、海を見てこよう。山一つこえたら、本当に海があるのを確かめてこよう、と。

 あの坂をのぼれば、海が見える。
 しかし、まだ海は見えなかった。はうようにしてのぼってきたこの坂の行く手も、やはり今までと同じ、果てしない上がり下りのくり返しだったのである。
 
 もう、やめよう。
 急に、道ばたに座りこんで、少年はうめくようにそう思った。こんなにつらい思いをして、いったいなんの得があるのか。この先、山をいくつこえたところで、本当に海へ出られるのかどうか、わかったものじゃない。
 額ににじみ出る汗をそのままに、草の上に座って、通りぬける山風にふかれていると、なにもかも、どうでもよくなってくる。じわじわと、疲労が胸につきあげてきた。
 日は次第に高くなる。
これから帰る道のりの長さを思って、重いため息をついたとき、少年はふと、生きものの声を耳にしたと思った。
 声は上から来る。ふりあおぐと、すぐ頭上を、光が走った。翼の長い、真っ白い大きな鳥が一羽、ゆっくりと羽ばたいて、先導するように次の峠をこえてゆく。
 あれは、海鳥だ!
 少年はとっさに立ち上がった。
 海鳥がいる。海が近いのにちがいない。そういえば、あの坂の上の空の色は、確かに海へと続くあさぎ色だ。
 今度こそ、海に着けるのか。
 それでも、ややためらって、行く手を見はるかす少年の目の前を、ちょうのようにひらひらと、白いものが舞い落ちる。てのひらをすぼめて受けとめると、それは、雪のようなひとひらの羽毛だった。
 あの鳥の、おくりものだ。
 ただ一片の羽根だけれど、それはたちまち少年の心に、白い大きな翼となって羽ばたいた。
 あの坂をのぼれば、海が見える。
 少年はもう一度、力をこめてつぶやく。しかし、そうでなくともよかった。今はたとえ、このあと三つの坂、四つの坂をこえることになろうとも、必ず海に行き着くことができる、行き着いてみせる。
 白い小さな羽根をてのひらにしっかりとくるんで、ゆっくりと坂をのぼってゆく少年の耳に・・・あるいは心の奥にか・・・かすかなしおざいのひびきが聞こえ始めていた。
               ~ 杉 みきこ著「ちいさな町の風景」から ~