怒りと非暴力
 2012年8月、沖縄県内すべての自治体が配備への反対決議を繰り返す中でオスプレイの配備が強行されようとしている。
 山口県岩国への荷揚げを阻止しなかった今、空を飛んでくる航空機を阻止する術は事実上ない。
 しかし、配備阻止を諦めた訳ではない。まだまだ小さい配備反対の声を大きなうねりとすることが出来たら物理的な阻止は不可能でも、民意による阻止は可能だと思う。さらに、飛来を阻止できなくても利用できない状況さえ生み出すことができれば米国へ押し戻すことも可能だと信じている。
 沖縄の平和への行動は、現場での阻止行動から民意を作り上げていったという歴史がある。直接被害を受けない人々が危機に気がつくのにはタイムラグがある。早期に危機に気がついた人々が身体を張って阻止行動を行い、それが報道されて民意が形成されていったのだと思う。
 危険なのは、このタイムラグである。民意が形成される前に少数による行動が押しつぶされてしまう危険性がある。負傷者や逮捕者が出た時に、この事態がどのように報道され、また受け止められるか。これはその後の事態を左右する重大な問題でもある。そのことを踏まえて、非暴力による具体的な阻止行動について書いてみた。
 
 受け止められにくい「怒り」
 多くの日本人は、怒りを否定的な感情として刷り込まれて成長する。ゆえに、他者が怒りを表現していると、その事情を理解するよりも先に嫌悪感・拒否感を感じてしまう。誰かが激しい怒りを禁じ得ないほどの事態が生じているのにもかかわらずにである。
 デモや集会で拳を振り上げてシュプレヒコールをする集団への嫌悪感の一部は、そこにも原因があるのではないかと考えている(もちろん、それだけではないのだが)。
 学生の頃、心理学関連のかなりハードな実習の中である経験をした。穏やかで笑顔を絶やさない女性がスーパーバイザーに罵られ続けた。実習生の私たちが驚き、いつ止めに入ろうかと思うほどの執拗な罵り。耐えかねた女性が泣き始めた瞬間に、スーパーバイザーは罵りを止め、「◯◯さん、今、どんな気持ち?すぐに答えて」と口早に、厳しく女性に問いかけ続けた。女性は、しばらく泣き続けたがあまりの厳しい質問に「悲しくなりました」と答えた。スーパーバイザーはたたみ掛けた。「最初から悲しかったの?心に湧いて来た感情はそれだけ?」。女性は、「最初に怒りが湧いて来たけど、すぐに悲しみに変わりました」と答えた。
 ここでスーパーバイザーは、一息間をとって、落ち着いて語った。「◯◯さん、最初に怒りの感情が湧いて来たのに、すぐに悲しくなったんだよね。どうして、最初の怒りの感情を大切に受け止めてあげないの?」「自分の怒りの感情を大切に受け止めない人は、他者の怒りの感情もきちんと受け止めることはできないんだよ。多くの人は自分の中にたまった怒りを知って欲しくて、様々な形で訴えてくるけど素直に怒りや不安として表現する人は多くはない。だから受け止める側が怒りや不安に敏感にならないといけないんだ」。賛否両論の驚くほどの手法ではあったが、一同が非常に大切なメッセージを受け取った瞬間であった。
 私は、優しい人ほど怒りを持っていると思っている。優しい人ほど、人の痛みに敏感だし、その痛みと共にいようとするからである。ニコニコしている人が優しい人と勘違いされることが多いが、優しさとは、憂いている人と共にいる人の状態を表している。泣いている人の傍らで、その涙に気がつかずニコニコしていることを優しさとは言わないし、みんなと仲良くしようとして仲間を攻撃してくる人に対してもニコニコだけしている人は誰の味方でもないし、優しくもない。その人が仲良くしようとしているのは自分自身だけであり、他を敵にして損しないように振る舞っているだけではあるまいか。憂いている人と共に立ち、憂いの原因に対して共に怒る感性こそが優しさなのだ。この優しさを持っている人のことを優れた人という。
 怒りがネガティブな感情としてだけ受け止められる社会では、自分が怒りを感じていることを、自分自身で否定してしまう。他者の怒りはなおさらである。多くの怒りは拒否されるか、良くても遠巻きに眺められるだけである。
 怒りを表現したり、誰かと対立することは悪いという考え方は、どこから来ているのだろうか?
 聖徳太子の有名な言葉「和をもって尊しとなす」、や日光東照宮の「三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)等が対立することを避けて、見ない・聞かない・言わないで、波風を立てないという意味だと誤解され流布されてきたのは、なぜだろうか?
 聖徳太子の17条憲法は、派閥・党派に分かれて互いに対立ばかりして対話できない状況になるなと戒めている言葉である。自分の主張を一部も譲ることなく、他者の主張を否定し続けるだけでは物事は解決しない。互いに相手の主張を重んじてきちんと対話することによって、より良い案を生み出せという教えであるはずである。また、三猿はインドから中国を経て日本に入って来た教えで、悪いことに染まるなという教えである。悪いこと(卑猥なこと等)を見たり聞いたりし続けると、それが普通になり果ては自分の内面に染まってしまう。悪いことを口にすると、単に口にしただけでも次第にそれが本心になってしまうという教えであり、トラブルが起きていても見ない・聞かない・言わないという教えでは決して無い。
 これらの教えに「波風を立てるな」という概念が刷り込まれたのは為政者たちの都合によるものがあったのではないだろうか。見るべきものをしっかりと見つめ、聞くべきことをしっかり聴き、語るべき言葉をしっかり語ることなしに、問題を解決することはできない。もっと言うと人を助けることはできない。しかし、そのような生き方は、為政者たちにとっては目障りな存在となってしまうからである。為政者にとって都合の良い(管理しやすい)思想があたかも善であるかのように浸透している実態を私たちは、まず自覚する必要がある。
 多様な意見が出された中で、対話、調整をする訓練が乏しい日本人の多くは、意見が一つにならないことを悪いことと受け止めるが多様な意見が出されるのは健全であり、そこで声の大きい誰かの意見だけが採用されるのではなく、対話の中から多くの者が納得する新たな答えを模索するのが真の民主主義なのではないだろうか。
 いじめ構造の中では、被害者を守るためには加害者と対立しなければならない。いじめに対して怒りをもって「やめろ!」と表現しなければ被害者を守ることはできないし、加害者との対峙なしに傍観するならば自身も加害者に組みすることになる。愛や赦しを教える聖書の中にも「対立するな」「敵対するな」という教えは一言も記されていない。記されているのは、「汝の敵を愛せ」である。つまり、まっとうに生きるならば何かと対立せざるを得ない。その敵対した存在を愛しなさいと記されているのであり、対立・敵対が前提となっているのである。
 不当な事柄に対しては、きちんと怒る。不当な存在とはきちんと対立する。そのことは、決して悪いことではなく、むしろ、人を大切に思うならば必要不可欠なことなのである。むしろ、怒りを感じず、対立関係がどこにも生じていないとしたらそれこそ重大な問題である。そのときは、自分自身はどこに立ち、誰と共に生きようとしているのか? 何を大切にしようとしているのかと問うべきなのではないだろうか。

 反対に、怒りの感情が必要以上に肯定されようとする場もある。怒りを表現することに慣れている人たちの中で、それは起きやすい。何かを守るための怒りは当然であり、当然の怒りを表現することもまた当然のことであるという論理である。ここでは、怒りと怒りの表現が同等・同質なものとして語られてしまっている。怒りそのものと、それを表現する手段とは別なものとして考えるべきである。無秩序に、制御せずに自らの怒りの感情を爆発させるだけであれば、そこにある目的は、人命でも環境でもなく、自己欲求の実現でしかないからだ。そこにあるのは命を守るための想い・行動なのか?ならば、その為にはどのような表現が適切なのかを考える必要がある。「現場にはそんな余裕はない」との声が聞こえて来そうだが、緊迫した場面であればあるほど、何を最終目的とするのか。そのための手段として何が有効で、何が有害なのかをより慎重に吟味すべきなのである。極論に聞こえるかも知れないが「これぐらいは」という一歩が戦争へと繋がり、原爆へと繋がることを私たちは歴史を通して知っているはずだからである。
 自らを「正義」と定義し、「悪」と対峙する現場がある。脱原発であれ、反戦・反基地であれ、反差別であれ、自らを「正義」で対する人々を「悪」と定義するのであれば、武力で殺戮を繰り返す帝国主義と本質的に変わらないのではないか。まして、そこで怒りの感情を正当化しつつ爆発させるだけでは軍隊による武力攻撃と内実まで一緒になってしまう。
 不当な状態に対する怒りは正当であり、大切な感情であって、決して否定されるべきものではない。しかし、安易に怒りを肯定して怒ることを正当とし続けるのもどうかと思う。自戒しつつ書くが、自分の命や生活ではなく、立場やプライドを守るための怒りはほとんどの場合、どうでも良い怒りであることが多い。命を守るための怒り、殊に他者の命を守るための怒り。この怒りこそがしっかりと守られるべき怒りなのではないかと思う。
 その上で、問われるのは、この怒りの表現の手段・方法であって怒りそのものではない。
 怒りを拒否すべきでない重要な感情だと認めつつも、怒りの原因の精査、またその表現方法についてはより慎重に厳しい検証の必要性を訴えたい。
 
 さらに為政者たちは施策として、近い者同士の対立を意図的に生み出すということを肝に銘じておくべきである。怒りが為政者たちに直接向かうことを避けて、身近な人間同士が衝突し消耗することが望まれているし、計画されている。私たちが自らの感情をコントロールできずに、目の前の人間に怒りをぶつけることにエネルギーを費やすことこそが為政者たちの狙いなのである。その目論みにはまってはならない。目の前の人間に憎しみをぶつけた瞬間に、その闘いの半分は負けたのである。
 
 非暴力直接行動とは何か
 私は、命と生活を守るためであっても「正義の暴力」というものはあり得ないと信じている。ここで言う「暴力」とは態度や発言を含む暴力である。暴力は暴力を生むだけで、一時的に反対勢力を論破・制圧・抹殺することはできても問題解決にはならない。戦争問題であれ、環境問題であれ、人権問題であれ、真に解決を模索するのであれば非暴力直接行動を選びとる必要がある。漠然と選ぶのではなく、意図し、決断し、選びとるのである。
 ここでガンジーの言葉を紹介したい。
 「武器を取る勇気のない者や、自分は暴力を用いる抵抗運動はできないと考える者は、非暴力運動はできない。非暴力は、死ぬことを恐れるような者や抵抗する力を持たない者には教えることが出来ないものである」
 何と激しい言葉だろうか。要約すると、非暴力直接行動とは、武器を持って闘うよりも遥かに厳しい闘いであるということである。
 平和主義者は、安易に「非暴力」という言葉を口にする。その多くは、非暴力と無抵抗を混同し、何もしない。あるいは安全な場で、安全な範囲で声を上げることを非暴力と勘違いしている。残る人々の多くは、自らはしばしば暴力的な言葉を吐き、具体的に暴力をふるいつつも「これは暴力ではない、抵抗だ」と開き直る。「現場で表現される怒りこそが、世界中から仲間が集まる磁力となる」という人も少なくない。しかし、私はそうは思わない。その現場が、単に自己目的達成の為ではなく、真に人間を大切にするための闘いをもがきながらも継続している姿に、世界は応えてくれるのだと信じる。
 非暴力直接行動でインドを独立に導いたガンジーは、非暴力が命がけの決断であることを我々に突きつける。
 ガンジーは、武器をもって闘う者たちは二つの点において優れているとしているのだと思う。第一に、彼らは現状に甘んじることなく打破しなければならないと決断したということ。第二は、彼らはその変革のために自らの命をかける覚悟をしたということ。
 ガンジーが暴力を肯定したということではない。非暴力を口にしつつ、何もしない(あるいは、為政者が困らない程度にしか行動しない)でいながら、暴力を振るう人々を簡単に批判する人々に対して、武力蜂起した人々を一定評価してみせるのである。あなたたちは、彼ら以上の決断・覚悟があるのか?と。
 映画「ガンジー」に描かれている塩の行進の場面を見た事があるだろうか? 植民していた英国が独占していた塩の解放を訴える人々が、ただ黙って静かに並び一歩ずつ歩む。先頭の一人はこん棒で殴打されて倒れる。女性たちが看病し、次の人が一歩前に歩み出てまた殴られる。この行為が際限なく続く。殴るものが疲れて倒れ込むまでである。これがガンジーの表現した非暴力直接行動である。彼らは、暴力を返さないどころか、暴言を吐かない。言葉すら発しない。ただ黙って殴られ続けるだけである。彼らのこの決断・行為がインドを独立させる原動力となったことを誰が否定できよう。きれいごとではなく、それを貫き、そして結果を残したのである。
 漠然とした平和への願望のような生温い気持ちでは、国家権力が膨大な資金・人員・力で襲いかかってくる現場ではひとたまりも無い。現状を何が何でも打破するのだという強い決断がまず必要であり、次にその手段としての非暴力直接行動の選択と学習というステップがあるのである。
 沖縄のガンジーとも称される伊江島の故阿波根昌鴻さんは、非暴力・不服従として、対話するときは、座って話し合う。大人が子どもに対して語るように穏やかに分かりやすく。相手が暴力と誤解するといけないので、手は耳よりも上に上げない等々、具体的に規定して自分たちの土地を奪って、そこで実弾演習を続けている米軍と交渉を続けた。

初めて目の当たりにした非暴力直接行動
 当時、私は愛知県名古屋市の駅周辺で野宿を強いられている労働者たちの人権を守る会(野宿労働者の人権を守る会)に所属していた。高速道路の高架下で生活せざるを得ない人々を名古屋市が「清掃」という名目で排除し、労働者たちが立ち入れないように柵を作ろうとしていた現場で衝突が起きていた。両者の怒号が飛び交い、柵を作るための杭が次々に打ち込まれていく中で、私は衝撃の光景を目の当たりにした。杭が立てられ、大きな木槌が打ち降ろされようとした瞬間、一人のか弱い女性が、その杭の上に手を置いたのである。振り上げられた木槌は、空を切って地面に振り下ろされた。作業員は、「危ないじゃないか!」と叫ぶ。女性は静かに語った。「あなたたちがやろうとしていることは、こういう事なのです。人の最後の生活の場を奪い、その人の命に杭を打ち込む行為なのです。どうしても打つなら、私の手の上から打って下さい」と。怒鳴るわけでもなく、作業員にしがみついたり、押し倒したりするわけでもない。ただ静かに自分の手を杭の上に置くだけ。これが私の直接目の当たりにした最初の非暴力直接行動であった。
 沖縄の平和運動は、伝統的に非暴力直接行動がとられている。1973〜76年にかけて行われた155ミリ流弾砲の実弾演習阻止である。県道104号線を封鎖して住民地域の上を砲弾が飛びキセンバルの山に打ち込まれ続けた演習である。破片が高速道路に堕ちたりという事故や山林火災は頻繁に起きた。これを阻止しようと青年たちが着弾地に潜り込み、のろしをあげ、旗を降って、人間がいることを示して、まさに命がけで身体を張って実弾演習を阻止し続けた歴史がある。最終的には、青年たちがいることを知りながら米軍が演習を強行しはじめたこともあり、この方法は取られなくなったがそれまで何度もの演習の阻止に成功しているのである。(この演習は、1996年のSACO合意で北海道・矢臼別や九州・日出生台で行われるようになるまで沖縄の民間地域の頭上で繰り返された。)

沖縄・辺野古の阻止行動
 1995年9月4日、3人の米兵が一人の小学生をレイプした(辺野古を語る度にこのことから始めなければならないことが苦痛でたまらない)。このことをきっかけに沖縄県民の怒りが爆発して沖縄島だけでも8万5千人が集まる県民大会が開催された(離島でもそれぞれの集会が開催された)。日米両政府は、県民の怒りの爆発を契機(利用して)に1966年来挫折していた計画を実施すべく動き出した。古くて使いにくくなった普天間基地を閉鎖し、1966年に設計図が出来上がっていた名護市辺野古の軍港付き空港建設である。これを「負担軽減」というイカサマの単語を繰り返しつつ、強行しようとしたのである。ここでは詳細は割愛するが、作業を強行しようとする国に対して市民たちが立ち上がった。その阻止行動の代表的なものが「海上阻止行動」と呼ばれるものだった。ジュゴンの生息する海を埋め立てるためのボーリング調査を泳ぐこともままならなかった市民たちが600日以上止めて、強行の流れを押しとどめたのである。
 現地のルールは、二つ、「完全非暴力」と「止める」ということであった。現地では、「反対運動」と「阻止行動」という言葉は意図して区別された。作業が強行される現場に限っては、「反対運動」は意味をなさない。現場で反対の旗を振って叫んでも作業は進む。基地建設を許さないならば、作業を止めるしかない。しかも、戦争を否定する者の阻止行動として、それらは一切、非暴力で貫かなければならないと誓い合った。「たとえ殺されても、やり返さない」と日々、確認がなされた。
 作業員たちに掴み掛かる行為は暴力に繋がると禁止されていた。作業員に触れないで作業を止めるためには、船の前に飛び込むか、船にしがみつくか、資材にしがみつく、あるいは海底にしがみつくしかない。それらのすべてがなされたのである。
 死人が出なかったのが奇跡と言われる攻防が日々続いた。それでも、阻止グループは、毎朝、国の作業員たちに笑顔で「おはようございます。今日も邪魔しますね!ごめんね〜。でも、どうしても基地を作らせるわけにいかないんだよ!」と語りかけ、作業終了時には「おつかれさま、邪魔してごめんね。明日もケガ人がでないように気をつけようね。」と笑顔で見送った。仲間が意識を失って救急搬送された日のことを今でもはっきりと覚えている。意識を失って海上を流れていく仲間を発見した味方の船が彼を引き上げた。ヤグラから突き落とされ、鉄パイプで後頭部を強打して気を失ったのである。救急車が駆けつける中、海上保安庁が阻止グループと国の作業員の間に割って入っていた。1時間ほど経って、病院から「大事には至らなかった」と連絡が入ると、仲間たちはこの知らせを作業員に伝えて言った。「あなたたちのことを敵だと思ってないよ。皆さんも家族があって、家族を養うために仕事としてやっていることを十分に理解しているからね。でも、明日はけが人がでないように互いに気をつけましょうね」と。命がけで非暴力を貫くと心に誓った者たちだからこそできた声かけだったと思う。
 作業が強行されない日は、阻止行動のトレーニングが海上や海中で行われた。阻止のトレーニングの後で、互いの手足が相手にぶつかっていなかったか確認され、さらに暴力に繋がらない阻止行動のトレーニングが繰り返された。
 疲れて沈んでいく仲間を助けながら、阻止行動を継続する。泳げなかった人々が泳げるようになり、船舶の免許をとり、ダインビングの資格もとった。有能で元気な人々が海上阻止行動をはじめたのではなく、体調不良のまったく泳げない10人ほどの人間が阻止行動をするうちに泳げるようになり、全国から集まってきた仲間たちに支えられるようになっていったのである。
 辺野古の阻止行動において、非暴力が完全に貫かれたとは思っていない。徹底することを志し、毎朝、毎夕、確認し、現場でも常に確認はなされたが暴言を吐いてしまった瞬間もあったし、思わず動かした手が相手に当たってしまうこともあった。その都度、意識して相手に詫びた。作業は阻止するが、相手の人格は努力して尊重し続けた。国に雇われて人間性を奪われた人々の人間回復の作業の現場だと思って声をかけ続けた。「阻止」というマイナスのエネルギーだけではなく、「平和」を造り出すのだと、皆が本気で奔走した。
 長い闘いの中で、学んだことが一つある。出遅れると衝突が生じるということである。国の作業員が現場に着いてから、こちらが駆けつけるとどうしても衝突が生じる。1分でも、1秒でも早く、こちらが現場にたどりつくと、比較的衝突なく阻止をすることができるのである。そのためには、厳しい見張りと、素早い行動が必要不可欠になる。楽しくおしゃべりしていても、相手の動きを監視しつづけ、何かあれば瞬時に行動できる体制(訓練)が必要なのである。
 別の場所で同じことが適用できるとは思っていない。しかし、これだけは言える。厳しい規律と訓練なしに、非暴力で阻止を貫く事は難しい。非暴力とは、決意と訓練を伴う行為なのだということである。
 キャンプ・シュワブの前で基地建設のための文化財調査を阻止すべく立ちはだかって、突入してきた車と接触した後に公務執行妨害で逮捕される直前のビデオ映像が残っている。車の下から引きずり出された私は、整列する機動隊員たちに呼びかけている。「皆さんのことを敵だと思ってないからね。仕事でそこに立ってるけど、個人的な気持ちは私たちと一緒にこっち側に立ってるんですよね。分かってます‥‥」と。非暴力直接行動の責任者としてギリギリの場で、非暴力を貫く姿勢が残されていたことを冷や汗を流しながら安堵したのを記憶している。ほんの一瞬の油断で、自分の中の暴力性は簡単に解き放たれてしまう。

 私たちが闘うのは、目の前の人間ではない。暴力装置、暴力を生むシステム。それらを容認するシステム。そして何よりも、自分の内なる暴力性なのである。

 最初は、そこまで明確な決断でなくても良いと思っている。「フッと」寄ってみたという程度でも良いとすら思っている。現場を見学できるようなシステムがあれば素敵だと思う。そんな人々を非暴力直接行動の仲間とするためには、先に集まり、行動している人々の言動が如何なるものであるかが重要なファクターとなる。韓国の平沢(ピョンテク)の米軍基地建設阻止をした現場には、見学者用のテントと阻止行動をする人々が集まる場が別に設営されていたと説明を受けたことがある。歴史、現状、行動の必要性、行動の意味、方法、危険性を説明し、理解した上で自己責任で権力と対峙することができる場がシステムとして準備されていたというのである。これは、沖縄をはじめとするすべての地域で学ぶべきシステムだと思う。
 国家による地域分断施策が終わった時、国家に雇われていた者たちと、阻止した者たちが共に酒を飲みかわすことができるような対峙方法の模索が日々、現場で求められる。

 今、沖縄はオスプレイ配備、東村高江のヘリパッド建設、辺野古への新基地建設という三つでありながら、その実、セットになっている米軍事戦略に翻弄されている。そして、世界中が沖縄の動向に注目している。軍産複合体も米軍基地に苦しめられている人々も、その双方が沖縄の動向に注目しているのだ。
 県内すべての自治体が反対決議を繰り返す中で配備が強行されたら、沖縄県民はどうするのか?
 あきらめるのか? 本当にマグマは存在するのか? この状況で県民が立ち上がることをしないならば、沖縄は今後何十年も、軍事拠点として利用され続け、世界中の子どもたちを殺す人殺しの発進基地として利用され続けるだろう。
 出来る限りの反対運動を行って、それでも何かが強行される時、現場は阻止行動を余儀なくされる。
 現場に立つ者と、報道を見る者双方の理解が重要となってくるのである。

 私は、今、すべての人々に呼びかけたい。
 オスプレイ配備が強行された時、何かの決定を待つのではなく普天間基地のゲート前に集まろう!
 普天間基地包囲行動のように、金網の外で手をつないで、米兵たちに「何のお祭りですか?」と言われるような行動ではなく、ゲートを封鎖しよう。
 非暴力で粛々と、ゲートの前に集まって、ゲートを封鎖しよう。
 
 生まれも、育ちも関係ない。
 これ以上の人殺しを拒否するものたちは、すべて普天間基地ゲート前に集まろう! 静かに座るだけでいい。
 ただそれだけで、基地機能は停止するはずだ。