恋こい草

恋愛や結婚は、20代の女性にしか煌めくことはないのだろうか? 30代や40代の女がシングルでいることは、みっともないことなのだろうか? 大人の女が恋人を持つことは難しいのだろうか? 若いことが最優先されるようなこの国で、大人的イケテるシングルウーマンは恋愛が出来るのか?

セカンドステージ2

私は彼との関係を変えたかったのだろうか。
一歩進めたかったのだろうか。
気楽で楽しいだけの関係から、重苦しい関係に?・・・・・

そうではないけれど、単なる知り合いよりはちょっと親しい知り合いに、それよりは友人に、もうちょっと近い友人に、・・・・と結局「欲」が出ていたのではないだろうか。
彼の幸せを願う気持ちに偽りはないけれど、“もっと近しく・・・”という欲はなかったとは言えないだろう。
そのことを自分の中で追求する時、恥ずかしくていたたまれなくなる。

それ以来、私は“彼を重苦しい気分にさせてしまった”という罪悪感を持つようになり、ただでさえ彼の机に近づく時は緊張をしていたのに、輪をかけて行き難くなってしまった。

その後出したメールに、返事はかえってこなかった。

もう一度、自分の気持ちを原点に戻すことに努めた。
彼という無条件で結婚をしたいと思える男性がこの世にいてくれた、という事実に私は感謝しているという原点。
結婚という目的のために好きになったのではない。
計らずも、気づいたら好きになっていた。
大好きな人には(これは男女の関係なく)笑顔でいてもらいたい。
それ以上のものは求めない。・・・・・・という原点。


約一ヶ月ほど経ち、クリスマスも近づく12月。
(クリスマスケーキを食べてもらえないだろうか・・・・・・)
もちろん自分で作るものである。
(結果は、食べたいか食べたくないかのどちらか、というだけ)
思い切って、メールを出した。

“もちろん試食します”

その一言を目にして、私は両手を胸の前で合わせた。
ああ、ありがとう・・・・・!
神さまになのか、彼になのか分からないが、とにかくうれしくてありがたかった。
作ったものを試食してもらえるだけで、次へのエネルギーが湧いてくるし、生活そのものに活力が出てくる。
(次は何を作ろう・・・・!)
という創作意欲の半分以上は、彼に食べてもらえるという喜びの力に違いない。

そして2回目のスイーツを渡した後に送信されてきた彼のメールで、私は凍りついた。
“もうケーキは結構です。お気遣いいりません。”

このあまりに短く簡単な一文で、遠い昔、付き合っていた男と別れる時のあの足元から血の気が引いていく感覚を思い出した。
(ああ・・・、血の気が引くって・・・・ホントに、こういう感じなんだな・・・・・・)
もう体験することはないと思っていたけれど、この歳で再び体験できるなんて、考えようによっては幸せなのかもしれない。 と思いつつ、
(やっぱり、辛いもんだな・・・・)
と実感する。

でも、若い時なら出ていた涙が、今回は出ない。 
年の功か・・・・?

ふーっと大きく息を吐き出した。
目を閉じて、“気持ちの原点に戻るんだ” と自分につぶやく。
彼が幸せであることを願う私、無条件で100%好きだと思える人に出会えた感謝、それ以上は望まない。・・・・


その後、いよいよ本番のクリスマスケーキには、カスタードクリームの上にイチゴを乗せたパイを作った。
(ああ・・・、これを食べてもらいたかった・・・・・・)
そう思ったが、もちろん渡せるはずはない。

何か自分が拒否されたような気持ちになっていたが、それでも偶然彼と会ったときには、不愉快な気持ちにさせるような顔はするまい、と決めた。
普通に、何気なく挨拶をすればよいこと。・・・・・

そう決めていたから、顔では口の両端をきゅっとあげて笑顔を作るようにしたけど、やっぱり会えば心がざわつき、嫌われたという悲しさが湧き上がってくる。
(それでも、真実は本人しか分からないのだから・・・・・・)
心の中で自分に言い続けた。


昔、私がまだ20代の前半だったころ、旅先で出会った男性がいた。
飛行機で隣り合わせになり、眠るのも忘れて話し続けるほど意気投合した。
自分の会社を経営している人で、そこそこイケメンだし、積極的でいかにも仕事が出来そうなタイプ。
商品の買い付けでロスに行くとのことで、話題も豊富で楽しい。
何より彼も私に好意を持っていて、日本に帰ってからも会おうということになり、お互いに電話番号を交換した。

日本に帰ってきてから再会して食事をし、その後場所を変えてカクテルなどを飲んでいる時に、彼が結婚していることを知った。
奥さんとはうまくいっていないのだと言う。
別れることを考えているのだと言う。

しかし、彼が既婚者であると知った途端に、私の心は引いてしまった。
彼の夫婦生活がどういう状態であろうと、私には関係がない。
飛行機の中で長時間話し、ロスについてからもホテルに電話をもらい、再会して今この瞬間まで、どれだけの長い時間があったか。その間、一時もしらけることがなく楽しい時間が飛ぶように過ぎていった。

お互いに好意を感じていたからこそ、既婚者であることを早く告げるべきではないか、と私は思った。


今の私なら、最初から「結婚」という形態を取り外しているから、気が合う人に出会ったら
(ずっと友だちでいたいな)
と思うのだけど、まだ20代前半の私は結婚相手を探すための恋だったから、なんだか騙されたような気がしたのだ。

その男性は、ある日電話をしてきて私に尋ねた。
「これから、どうしたらいい? 食事とか飲みに行くだけならいいのか、それとも電話で話すくらいならいい? それともそういうのもダメでこれっきり?」
「これっきりです」
即答して電話を切った。

結婚しているのに、そういうことを聞くなんて考えられない、というようなことを言ったかもしれない。
向こうも、もっと柔軟に考えてもいいんじゃない、などというようなことを言ったような気がする。
7歳年上の人だった。
今から思えば、まだ少女マンガの夢子のような恋しか知らなかった私よりも、恋愛も結婚も体験した大人の男性だったのだと思うし、私も四角四面で若かったと思ったりもする。

つまり、何が言いたいのかというと、その時に即答して「これっきり」になったのだけど、私は彼を嫌いではなかったということ。
というよりも、好きだったのだ。
もしかしたら結婚することになるかも、と考えるような相手だったのだ。
当時の私の結婚の条件に見合った男性、だったのだ。
だから、友人であろうと、奥さんとの離婚前提だろうと、今後たびたび会ったりすると、もっと好きになるかもしれないという危険を感じたのだ。
それにそのころから私は、結婚している男性がそう簡単に離婚するなんて考えていなかった。

一緒に住んでいると誰でも飽きるときがある。
その刺激ほしさに浮気をして、やっぱり妻のところに帰っていく、というのが定説と思っていた。

別に、帰っても帰らなくてもいいんじゃないの、その人が幸せならば。
私も彼と楽しい時間を共有できるならば、その貴重な時を大切にしたい。・・・・
今の私はそう思うのだけど、結婚をゴールとした恋愛ではそんなことは通用しない。
相手を取るか自分を取るのかという戦いであり、自分が勝者になれるかどうか。・・・・・
私は戦いたくなかったから、最初から棄権したのだ。(負ける怖さや、その後の悲しみも避けたかったのかもしれない)。

でも、彼はそんな複雑な私の心情などは知るすべもなかった。
私が彼に対して怒った、と思っただろう。


相手に「No」を出すとき、必ずしもその人を嫌いだから、という理由とは限らない。
そこには本人にしか知りえない事情や心情が隠されている。
好きだからNo ということもある、という経験がある私は、彼の“もう結構です”という言葉に、確かにショックではあったけれど、必ずしも私を嫌いということなのではない、と何度も自分に言い聞かせた。・・・・・


そして12月最後の日、帰宅時間も近づいた夕刻。
ふと机の横に人の気配を感じて顔を上げると、彼が急ぎ足でやってくるところだった。
忙しい仕事の合間を縫って立ち寄った、という雰囲気だった。



- to be continued -


セカンドステージ

前回の9月11日の記事からすでに9ヶ月が過ぎてしまった。
その間、彼との関係は微妙に変化を繰り返し、つい数日前、彼は遠くの地へ去った。・・・・・・


このブログに帰って来られなかったのは、幸せだけが私を取り巻いている時に書き残していたから、その後の変化を記するにはあまりに辛かったのだ。
悲しみがまだまだ癒えないけれど、自分の心を整理するつもりで、一つ一つ起こったことを振り返ってみたい。

まず、一つ目の変化は彼の誕生日に起こった。
昨年の10月下旬、私は数ヶ月前からその日のイベントに胸を弾ませていた。
(絶対にお誕生日ケーキを作って持っていく!)
というイベント。
どんなケーキにするのかをあれこれと考え、あまりに考えすぎえて直前まで決まらなかった。気持ちばかりが焦るから、気合が入りすぎて空回りをしているのだ。・・・・・
そのことを、どこかで自分も感じている。それでもどうにも止まらない、山本リンダ状態。

(本当は、イチゴをいっぱい乗せたケーキにしたかった・・・・・)
のだけど、イチゴはどこを探しても売っていなかった。
しかたなく、前日やっと、以前一度作ったチョコレートタルトにすることに決めた。

彼を好きだから、どうしても大きめなケーキになってしまう。
(本当は直径10cmくらいの、小さくてかわいいのが良かったんだけど・・・・・)
なのに実際は、15cmくらいのチョコレートタルトを見ながら、ため息が出た。
(絶対これを食べたら、もうチョコレートはうんざりしてしまう・・・・・・)
しかも、特上のチョコレートを溶かして作った飾り用の小さな星型のチョコレートまで、ちょっと不細工で分厚い。
とても洗練されて可憐な風情を漂わせるケーキではなかった。

なのに、さらに私はケーキを入れるボックス作りに力を注いだ。
この箱だって、薄手のダンボールで簡単にパカッと蓋を開けられるシンプルな物にしたかった。なのに、ちょうどよいサイズがないものだから、手元にある厚手のダンボールで作ることになった。
分厚くて野暮ったいダンボール・・・・・、そこに銀紙を張り、いかにもボテボテ。
(ああ・・・・)
まるで、バタバタと無駄に走り回っている今の自分を見るようだった。

それでも、あげるのをやめようとは思えなかった。
どうしてもあげたい・・・・、自分の気持ちを押し通すような時はOKサインが出ていないのに、それでも気持ちを抑えられない。


物事は、自然に動くときがある。水が流れるように。
どこかで願っているけれど、自分でもあまり強く意識しているわけでもなく、だけど、なんとなく“機会が与えられた”と思えるような偶然の形で必然のチャンスが用意される。

今までその流れに従ってきたのに、彼の誕生日というスペシャルイベントで、すっかり余分な力が入ってしまった。
これが災いした。


当日、ドキドキしながら彼が机にいることを遠くから確認すると、、姿が見えない。

ケーキは冷蔵しておきたいから、机に置き残してくるわけにはいかない。
(あとでまた来よう・・・・)
これを何度か繰り返し、とうとう帰宅時間が迫ったころ、奥のほうにある彼の机に持っていくことに決めた。
周囲に人がいると、それだけで緊張する。
私の恋は、きわめて極秘なのだから。・・・・

そして、彼の机の近くまで行って唖然とする。
机の上はきれいに片付いていて、いかにも留守であることを物語っている。
(ああ、どうしよう・・・・・・)
このままケーキを持ち帰るか、置いて帰るか・・・・・・・。

こういう時は、持ち帰るのが正解なのだ。
自我をコントロールできている自分ならば、そうしたに違いない。
けれど、恋は時にエゴイズムになる。
その時の私も「あげたい」という気持ちが強すぎて、ケーキを机に置いてくる方を押し通してしまった。手紙と一緒に。

手紙は早朝書いたものだった。
プリンターが壊れているので、手書きをしなければならなかった。
だから、書き間違えないように気をつけながら、思いつくままにつづった。
これが第二の失敗。

手紙というのは、同じ文面でも手書きのものは「情」が強く入ってしまう。
自分が熱くなっている時は、絶対に印刷された文字の方が良い。
そして、なるべく平坦でシンプルな表現を使う。
誰もが恋熱に浮かされると、まるでロミオとジュリエットのような、傍から見るとプッと吹き出してしまうような陳腐なセリフを並べてしまうから、気持ちを一段階落として、ちょっと書き足りないくらいでちょうど良くなる。

文面を簡潔に、言葉を少なく、・・・・という点はできたように思う。
けれど、私と彼は頻繁に会話をする時間があったわけでもなく、たった一度食事をしたくらいで、どの程度知り合うことができたのだろう。
簡潔な文章である分だけ、行間を読み取るには文中の言葉は少なすぎたように思う。
というよりも、私が彼を100%好きだから、彼も私のことをほぼ理解してくれているような思い込みをしてしまっていたのだ。

彼はその手紙を読んで、その内容の重さに驚いた。
とメールには書いてあった。

それから今までの、会えば楽しいだけの気楽な関係から、微妙に気まずく一歩引いた感じの関係が始まってしまった。
もちろん一歩引いたのは、彼の方だ。・・・・・・


- to be continued -

あなたの存在が奇跡・・・・・・

前回から、好きな人はずっと続いている。

しかも、今回は自分でも感心するくらい“もっと”という欲が出てこないから、苦しくなることもなく、この頃では彼の笑顔を思い出すとリアルに近くにいるような気さえして、もう幸せで胸がいっぱいになる。

彼と食事をしたり、夜の街を散歩したり、妄想は尽きない。

しかし通常ならば、この妄想が現実になってほしいという欲望が自然発生し、それが叶わない悲しさも湧き上がってくるのだ。これが俗に言う“恋愛の二次段階の苦しさ”だ。
もちろん一次段階は、楽しいの状態。
それから苦しみに変ってくる。

ところが今回は楽しいまま七カ月が過ぎようとしている。


どうしたら楽しいままでいられるか。
それは「欲」を持たないことなのだ。



彼はすでに結婚をしている。
いいではないか、と思う。
奥さんに大切にして貰っているならば、なおさらいいではないか。

実は邪険にされている、いいではないか。
一見可哀想に思えるが、彼の魂がその状況から何かを学ぶことを望んでいるのだ。


私は、ただただ彼が幸せであってほしい、と願っている。
たった80年前後しかこの世に存在しないのだ。
一瞬一瞬が楽しい時間であってほしい。
彼が望み、幸せになることならば、私はできる限りの力になりたいと願う。

けれど、それは自分をないがしろにするということではない。
私自身の魂も幸せでなくてはならない。

人それぞれの幸せの基準が一様ではないから比べることはできないのだけど、少なくとも彼の現在の平和を乱したり、出世を阻んだりするような存在にはなりたくない。

彼の何か大きくてあたたかなエネルギーや波長に、私も同調できるような人間になりたい。

もっと早く会えればよかったね、という人もいる。
でも、今だから彼を好きになったのだとも言える。
時季がこないと咲かない花のように、人間の出会いも時季があるのだと感じる。


彼の存在に感謝する時、彼を産んで育ててくれたご両親や、さらにはご先祖にも感謝をしたくなる。
私が生きている今世では、もう理想の人になど会えないと思っていたから。

理想というのもあいまいなもので、自分が変われば理想も変わる。
だから、自分を知ることができないうちは理想の人がどういう人なのか、も自分では分かっていないのだ、ということに気付いた。
そういう意味でも、彼と出会えたことに感謝だ。
会えば会うほど、話せば話すほど好きになる彼の存在は、もう奇跡というしかない。


今までにも、素敵な男性にはいろいろ会ってきた。
けれども「結婚」という言葉と照らし合わせると、二の足を踏んでしまっていた。
その人がどんなに素敵であっても、どんなに有名であっても、どんなにお金持ちであっても、私は即座に飛び込めるとは思えなかった。

でも、彼にはOKが出るのだ。

既婚者で結婚できない相手だから(安全パイだから)OKなのではないか?
いえいえ、彼が結婚していてもバツイチになっても、今の私には関係ない。
彼が私との関係を進めたいと願うならば私はOK。
でもその先に彼が苦しむ状況が待ち受けているならば、それは避けたいというだけ。


年上の、惰性で結婚生活を続けている女性たちには、きれいごとに思えるらしい。

そうだろうな、……ほんとに亭主を愛している妻が、一体世の中にどれだけいるというのだ。

普段は「元気で留守がいい」と言いながら、亭主が稼ぐカネで自由を満喫している彼女たちは、その亭主の心が別の女に動いていると察知したとたんに、放り投げていた玩具を取り戻すかのように嫉妬をし、女をドロボー猫呼ばわりし、刺激がほしい彼女たちはこれ幸いとばかりにお祭りのように騒ぎ立てる。

誰もがそうだとは言わないが、大方そういう傾向にあり、私はそういうバカ騒ぎには巻き込まれたくないと思う。
取られそうになってヒステリックになるのなら、毎日の生活の中でもっと夫を大切にしなさい、というだけ。


どんなに素敵なイケメンでも、毎日顔を合わせていたら新鮮味はなくなるだろうし、見たくない姿も見るだろうし、だからこそ結婚って難しいなぁ、と思ってきた。
私は好きでなくなった男には冷たくなるし、惰性で一緒に住むなど拷問のように思える。

ならば一人で暮らして自分をよく見つめ、一生の親友になれそうな男性を見つけたい。

そう、結婚の相手は一生の親友(心友)なのだ。
その答えを近年自分の中に見つけ、そして彼に出会った。

今まで“一緒に住む”という絶対条件の結婚に二の足を踏み続けてきた私が、彼とは一緒に住みたいと思う。これは劇的な変化なのだ。


たとえ今回の人生で彼と生活をともにすることがなくても、彼はすでに私の心の中に住んでいる。
それが、どうにもなく嬉しいのだ。……

波長が合う時、合わない時

高い波が来ていると、偶然に会う回数が増えたり、相手の好意が空気中に伝わってくるように感じることがある。
逆に、まったく気配が消えたようになってしまう時もある。

こうなると、相手はやはり自分に好意を持ってくれていないのだとか、疎ましく感じているだろうかなどと、バカらしいほど小学生のような恋になってしまう。

ふと我に返り、相手は既婚であることを思い出し、お互いに人生の半分は終わっているいい歳なのだと思い出し、さらに私は彼が幸せであることを願っているのだ、と思い出す。

彼の幸せがどういうものであるか分からないが、またそれを語り合う時間が来るのかどうかも分からないが、彼の心が平和に満ちていることや彼が健康であることを私は願っている。とするならば、彼の家庭を荒立てて心悩ませる状況は作りたくないし、出世の妨げになるようなことにもしたくない。

たまに会えた時に、私に会って嬉しいと感じてくれれば私も嬉しいけれど、彼が気づまりや心地悪さを感じるのならば私も会いたくない、と思う。

こういうと、彼の意のままに私は何でもするバカな女と思われそうだが、“何でもする”というのとは違う。

彼の存在が私の喜びでもある時、それは私の心の支えにもなっている。
けれど、自分を犠牲にしてすべてを捧げるなどという古典的なモノではなくて、あくまで“私の幸せでもある”という所が大切になってくる。


例えば、彼が喜ぶだろうと思って私が何かをする、けれど彼にとっては負担になるだけであったとしたら、それは自然に彼の態度にも現れてくるし、私にも伝わってくる。
そうなると、せっかく彼の笑顔が見たくてしたことなのに、と私自身も寂しかったり悲しい思いをすることになる。
相手は不快な思いを味わい、私も辛い思いを味わうなんて、そんな時間を作るために労力を使うなんて勿体無いじゃないか。
それならば、そういう思いをしないように、私が“彼の笑顔をみたい”という欲を捨てればいいことだ。

いや、笑顔を見たいのならば、遠くからそっと見ることだってできる。
“私に笑顔を向けてもらいたい”と求めなければいいのだ。

遠くからでも、彼の幸せそうな笑顔を見て、私も幸せを感じればいいことだ。



若いころの「理想」は、自分が何者であるのかもよく知らず、まさに高望みといわれるようなものだった。
というよりも、何が理想であるのかさえも良く分からないから、すぐに恋をする割には誰を見ても結婚して一緒に暮らしたいなどと思えない。

ところが歳を経てスネの傷も増えてくる分だけ、自分がどういう生活を営んでいきたいのかが見えてくる。不思議なものだ。
同時に、どういう人と空間を共有したいのか、が見えてきた。
長い長い時間がかかった。

その間好きになった男性は、今になって振り返ってみるとみな共通点があり、それが父との共通点でもあり、それ故に結婚を拒んできた点でもあった。
違うタイプの人もいたけれど、その人は時に私の育ってきた常識を覆す行動や言動で、これはこれで学ぶところがあったから良いのだけど、最終的には感性が合わないと感じると別れは決定的だった。

結婚の条件としてあの人は最高だったと思える人もいたが、真の意味で最高だったとはいえなかったと、今だから分かることの方が多い。

この世で生きていくためには、おカネや物質や地位、名誉というものが大いに役に立つ。
というよりも、そういうモノが手に入れば勝ち組と言われ、面白楽しく暮らしていけることの方が圧倒的に多い。

けれど、なぜかそういうモノを拒む自分がいる。
この宇宙の生命体の一部の人間として生きている中で、真に大切なことは違う、と感じてしまうのだ。
それは目に見えないことであり、心や精神の問題ともいわれていることだが、おカネや地位などという教材を与えられ、それをどう扱い、どうクリアして行くのかを試されているような気がしてならない。
つまり、人生ってそうして課題を与えられ続け、それをこなし続けていくことなのではないか、と思うわけだ。


そういう課題の一つが、恋であり愛であり、結婚であり子育てであり。
けれど、一人一人の魂のあり方は違うのだから、アメリカの学校と一緒で一人一人の選ぶ教科も違えば、進級の速度も皆違う。
日本のように「皆同じであることが協調性があること」(多少極端ないい方ではあるが)と画一的に統制してしまうと、多くの貴重な才能や感性を潰すことになる可能性が大きいし、心に与える傷は大きい、と感じる。


男は結婚で女に何を求めるのだろう。
家事をやってもらうこと、子どもを産んで育てること、・・・・・・・あとは?

女は、稼ぎのよい男を求めるだろうし、共稼ぎが普通になっている現代では、家事や子育てを半分ずつやってくれることを望むだろう。

私の友人で、
「結婚って、同居生活しながら子どもを育てるっていう共同作業だよね」
と言った人がいる。
それは愛だのというものではなくて、(「情は出てくるもんだけどさ」と言っていたが)共同でプロジェクトを行っているのだという。

じゃ、その共同プロジェクトが終わったら? という言葉は飲み込んでしまったが、愛がなくても情があればとりあえず5-60年は一緒に暮らしていけるのかもしれない。


地球の歴史から比べれば、5-60年など塵のようなものだ。
息を詰めていれば、あっという間に終わるかもしれない。
けれど、塵も積もれば山となる、ともいう。


たかだか5-60年されど5-60年、暖かい愛と自由に満ちた空間の中で生きる一瞬と、しがらみや情に絡まって拘束されて生きる一瞬では、魂にどれだけの影響を与えるのか?


すでに私は子どもを産めないだろうし、産んだとしても育てるだけの体力はないだろうし、男が望む共同作業の相手としてはふさわしくないだろう。
私もそういう共同プロジェクトがしたかったわけではないから、(昔はしたい気持ちもあったと思うけど)結婚という形態に拘る必要をあまり感じていない。

だから、なおさら理想の男性などいるはずがない。 ・・・・・・と諦めていた。



だからこそ、彼との出会いは神さまからのプレゼントなのだと思える。
肉体を持って生きる70年か80年か分からないが、この身がこの世を去る前に、あのような人に出会えるとは思わなかった。

これは、私自身が自分の求めるものがはっきりしたということにもなるだろうし、まさに見えない階段を一つ登ったような感動がある。

彼は私が今まで出会ってきた(求めていた?)男性とは対極にいる点も納得できる。
昔の私だったらあまり魅力を感じなかっただろうし、恋愛の対象になどならなかっただろうけれど、何回か偶然に会ううちに彼の存在が私の中で重ね塗りされていき、食事をしながらいろいろ話していた時に、誰にも言えなかった過去をさらりと彼に話している自分に気が付いた。

何を話してもこの人なら大丈夫・・・・・・・という感覚が、私の中にあった。

実際はどうなのだろう?
私の話を聞いていた彼はどう感じたのか、どう思ったのか、それは本人でなければ分からないのだが。

それでも、私は自分の感覚を信じたい、と思っているのだ。



そう、つまりは大きなエネルギーを彼から感じるのだ。
大きくて暖かいもの。

とは言っても彼も普通の人間であり、日本という男社会で育った男性であり、欠点はあって当然、と思った上で、日本の中で出会えたという奇跡、あり得ないと思える出会いに感謝以外の何があるだろう。

不安か、恐怖か・・・・・・

メールが来ない。


ひょんなきっかけからメールのやり取りが始まった。

私が旅のお土産におまんじゅうを買ってきて、その一つを手渡した。
お礼のメールが入った。

差出人が彼だと分かった途端に、どきどきと鼓動が高鳴った。
開いてみると、3行ほどの短いものだった。
なんだかホッとしたり、味気なくも感じたりしながら、いそいそと返事を考えた。
負担に思われないように、同じくらいの長さで・・・・・・。


すると翌日、再び彼からのメール。
(え〜! また来た・・・・・・♪)
と、今度は喜びのどきどきで開く。
長いメールだった。
もっと嬉しくなった。

大方食べ物の話で、色恋は微塵も感じられない内容だけど、彼自身のことをこんなに長く語ってくれるということが嬉しかった。

そして3回目になると、このままずっとメールのやり取りが続くんではないだろうか、なんていう期待が自然に湧いている。
それでも言葉は慎重に選び、言い回しに気をつけ、キーボードを叩いては消して・・・・・とにかく、私一人が勝手に盛り上がっていけないという思いや、相手の心に負担をかけるようなことを言ってはいけないという思いばかりで緊張している。

結局は、嫌われたくないという気持ちが自分を恐怖でがんじがらめにしている。

そもそも彼を好きになった理由は、知らず知らずのうちに何でも話せている自分がいたから。
あっと気付いた時には、今まで人に話したことがない過去の秘密をさらりと話していた。
彼になら話しても大丈夫、というわけの分からない安心感や信頼感を感じてしまう。

食事をしながらだったから、というわけではない。
たまに偶然会った時などにも、つい心が緩んでしまう自分には気付いていた。
不思議な人だな・・・・・・と感じていた。

だからこのタイミングで出会うべくして出会った人なのだと感じる一方で、異性として好きという気持ちを認識した時には、季節外れの狂い咲きのようで恥かしくもあり、彼に恋をしていることを認めざるを得なかった。


そう・・・・、だから3回目のメールを返した後、しばらく返事が来なくなってしまった時、久しぶりに心の隅っこが重く沈んだ。

(嫌われたら嫌われたでしょーがないや・・・・・・)
と思いながら、もし偶然出会ったら、にっこり微笑んで何事もなかったように挨拶をしよう、なんて考えていた。

すると2週間ほどして、ひょっこり返事がきた。
“そうです、・・・・”と私の最後のメールに答えるような書き出しは、まるでブランクがなかったかのような感覚にもなり、
(へ? この返事が来なかった期間は何だったんだろう・・・・・)
単純に仕事が忙しかったのかもしれないし、返事を書きそびれていただけ? のことかもしれないし、何かを感じて、何かを迷って、何かの答えを出して返事をくれたのかもしれないし・・・・・・、とどれだけの可能性を考えても、答えは一つ。
それは彼にしか分からないもの。
だから、考えないことにした。


今回は、そのメールが来なくなって2回目。
毎日やりとりするタイミングが数回でも続くと、たった1日2日来ないだけでも、まるでフラレたような気持ちになる。


いや、失恋なんてことは、この世にないということは分かっている。
恋を失うなんて。…

誰かをどんなに好きになっても、それは誰にも止められないし非難することもできない。
ただ相手に迷惑をかけると単なるストーカーと変わらなくなってしまう。
けれど、相手の幸せを願い、こんなに好きになれる人に出会えたということに感謝できれば、恋は自分の中で生き続けるのだ。


けれど、楽しいばかりだった恋の初期とは違って、徐々に恐怖や苦しみが伴うようになる。
そして、やがては苦しいばかりになる。
すると、耐えきれなくなって自分から逃げたり、あるいは関係を壊してしまおうとする。
これを「失う」と言っているような気がする。


“恋愛は感性の学び、結婚は忍耐の学び”というけれど、恋愛だって深くなればなるほど忍耐を学ぶことになる。しかも、ひりひりとした感性の中で耐えていかなければならないから、何倍も辛いような気がする。
けれどその分、魂の成熟は早くて深いものになるんだね。

でもねぇ、神さま、
深い魂の成熟は魅力的だけど、別に早くなくてもいいんですけど。・・・・・・

あ、でも早くしないと、その分何倍もの辛さが長く続くってことなのね。
なるほどね、・・・・・それも辛いなぁ。


とりあえずは、これだけ脈拍が上がって激しく鼓動が鳴るということは、きっと血の巡りが良くなって新陳代謝もあがっているに違いないのだから、そうすると女性ホルモンやリンパ液の流れも良くなっているはずなのだから、それだけでも彼に出会えたことに感謝しよう。



ああ、でも苦しい・・・・・・。

千載一遇とまでは言わないが・・・・・

私は月に10日未満の出勤。
別にこの日数を望んでいるわけではなく、というよりも、本音はもっと出勤したいのだが、派遣切りなどが横行しているこの時代、まったく切られてしまわないだけでも良しと思わなければならない。……

問題は、月に10日もない出勤の時に、Mr.理想に会えるかということ。
同じビル内に居ても、階数が違うと滅多に会わない。

エレベーターが開いた時とか、ビル内のコンビニに行った時とか、ひょっとしたら会えるのではないか♪ なんて期待を抱いているもんだから、その分だけガッカリする。

この頃では彼のことを考える時間が多くなった分、会える回数が減っているようにも感じるのだけど、冷静に考えてみると、彼と偶然的に出会う確率はやはり平均よりも高いような気がする。
回数が減っているように感じるのは、“もっと会いたい”と心が急いているのだろう。



一度、旅のお土産を持って行こうとしたことがある。
エレベーターを使わずに階段を上っていくと、上から下りてきたのが彼だった!

(ああ、神さまっているんだぁ!)

私は感動を通り越して感激。
お土産の袋を開けて、その中から一つ取り出すのもうまくいかない。
ドキドキしすぎてしまって、頭から手に神経回路がちゃんと働いていないのだ。(笑)

こんな具合だから、出勤のたびに会えていたら好きになり過ぎてしまってどうしようもない。

好きが大きくなっていくと、一緒に食事に行きたいとか飲みに行きたいとか思ってしまうし、次にはその回数を増やしたいと思ってしまうし、さらにはもちろん一緒に寝たいと思い、あとはもっと一緒にいる時間を長くしたいと欲望は膨らむのみ。

とかく人間というのは切りがないのだ。


そして一応、結婚という形式で区切りがつくのだろうが、その後は“持続力”を維持していくだけとなる。
そのうちに、もっと刺激がほしいなんて思うようになる。
以前のようなときめきは、努力したから再生するなんてものではない。


そう考えれば、“次”がある今は幸せなのだ。


欲求が膨張しないようにセーブしながらのこの禁欲的な愛(?)は、自虐的にも思えるが、愛が静かに成熟していくようにも思える。
絡みつきそうな情をスッパリと切り離し、凛然と愛だけを抱えていくことは勇気がいる。
寂しさにも真正面から向き合い、彼の幸せのみを祈る潔さも試される。


それでも、それほどの男に出会えたということは、私の人生でステップを1つ上がれたような気がしている。

今までの辛かったことや世の中の絶望さえも肯定してしまうほどの彼の存在は、やはり感謝以外のなにものでもない。……

理想の男

女も熟成してくると、一瞬のうちに“どのくらい自分にフィットする相手か”が見極められるようになる。

若い頃には見えなかった自分の姿が、客観的に見えてくるせいかもしれない。
同時に、曖昧だったり流動的だった理想というものが形を成してくる。


私は日本で生きることを決めてから、気付かないうちに少しずつ絶望に侵食されつつあった。
日本では理想の男性には出会えない。・・・・・
その思いは年々強くなる一方で、それに逆らうように少しでも心がときめく男性を見つけると、望みをかけてきた。
が、そのたびにどこかで“やっぱり違う”との感覚も拭えない。

これは日本という国がもつ文化的背景が原因なのか、日本男子のDNAなのか、たぶん要因が1つということはないだろうけれど、日本の歴史を振り返るたびに、そこには根強い男尊女卑が存在し、貧しさゆえに色街に売られていく娘や権力闘争の駒として嫁がされる女は当たり前だった。
女は従であり、男の所有物であり、性のはけ口として使われた。


21世紀になって、日本の女も西洋の女性のように強くなったと言われるが、まだまだ永い歴史に生き続けたDNAを完璧に消し去ることはできない。
年齢を重ねた女性ほど、植え付けられた“古き良き日本女性”の幻想が巣食っているように思える。

こういう私もその一人で、思い返せば“典型的日本男子”の父に抗い、逆らうための人生だったように思える。
言いかえれば、連綿と生きて死んでいった日本女性たちの怨念を背負っているようにも思えるし、女としてよりも人間として、個々の魂への尊重が大切と、細胞の奥深い所での叫びであるようにも思える。

けれど2000年以上続いている日本の歴史に、私ごときが勝てるはずがない。
根強くしぶどく生きる日本男子の社会の中で、仕事に干されることよりも、理想の男に出会えないで死んでいくことに、なんだか絶望を感じていたように思える。



ところが、出会えたのだ。
理想の男に。

いや、まだそんなに早合点しない方がよい、ともう一人の私がいう。
でも“今の段階”では見つかった! と言えるではないか、ともう一人の私がいう。


最初に述べたように、年々見極めが早くなるということは、理想の条件が明確で厳しくなってくるとも言える。
ただでさえ、歳をとれば外見的には醜くなる。臭くなる。理想からは遠のくように思える。

ところが不思議なもので、自分も歳をとってくるに従い、ただ若くて美しいだけの男よりも、その人から滲み出てくる空気感だったり、言動だったりが大きなウエイトを占めてくる。
顔や体型よりも、その人のもっているエネルギーや人柄を観ているのだ。

だからこそ、私よりも年上で理想の男なんているわけがない!
と、この頃は思い込むほどになっていた。



残念ながら、そのMr.理想には当然のごとく妻がいる。
私が狂い咲きのような恋をしたところで、この先どうなるという希望もない。

それでも、これは奇跡的! という喜び以外の何ものでもない。

彼は十代の頃にアメリカに留学しており、社会に出てからも仕事で海外駐在が長かった。
その経歴を知って改めて、国外に出ることで人間の幅が広がり、柔軟性が育まれるのだと感じた。

日本語で話しているのに、なぜか決定的な違和感を感じる人もいれば、ボキャブラリーの少ない英語でも深く理解し合えていると感じる人もいる。
“通じる”のは言葉ではないのだ。
言葉や体をいくら重ねても、通じない相手は通じない。



Mr.理想と食事をしながら色々と話すうちに、私の彼に対する好意は揺るぎないものになったといえる。
好意が恋に変った時間だったのかもしれない。



「結婚とは、一生の親友を見つけること」
人生を終わりかけている私の中でやっと見つけた答え。
そのあとにやってきた出逢い。


彼とは結婚できないけれど、理想の人がこの国にいたということ、今世で出会えたという奇跡、このことに感謝をしたい。


そして、これからも時間を共有できる機会があれば嬉しいけれど、それは望むまい。
人間は次々と欲望が湧いてくる。
けれど、その欲望が満たされないと辛くなったり悲しくなったりする我儘な生き物。

私は、Mr.理想が存在してくれていたという喜びの感動を忘れてはいけない。……

結婚の条件

20代のころ、なぜ結婚をするのか分からなかった。
結婚って何?

だから、次々と友人が結婚をし、結婚式に招待されてもちっとも羨ましいと感じるどころか、
(ああ・・・・・、もったいない)
と呆れていた。
だけど“結婚したい”と言葉にはしていたから、自分の中のちぐはぐ感は拭えなかった。

40代を過ぎても心から結婚を望んでいるというよりは、
「女性ならばやはり結婚に憧れるし、家庭を持つことで人間的にも成長するのだろう」
みたいな思考が芽ばえ、自分を結婚へと駆り立てたが、それが本当の“結婚の意味”とは思えなかった。
結婚してもしなくても、人間的成長は個々の努力なのだから。


ようやくここ数年、これだ! という答えが見つかった。
あえて一言でいうのであれば、・・・・・・・・・・・








  勿体無いので、書くのはやめておこうと思う。(笑)






ただ、
「私が結婚したい男はどんな人か?」
という答えが自分の中で明確になった時、それが適齢期なのではないかと思える。

そういう意味では、私の適齢期は激遅だったと言える。
また自分の答えを見つけるまで、焦りながらも踏ん張ったとも言える。

理想の相手は、20代、30代、40代と変わるものだ。
もしかしたら、男よりも女の方が成熟度合いが大きく、その分価値観も変化していく。
顔や財産、家柄や出世するかどうかなども、時代とともに変化していく。
大企業で将来有望とされていた青年も、20年、30年後には会社が倒産、あるいはリストラにあうかもしれない。
名家であったり大金持ちであっても、全財産を失うことになるかもしれない。
今の姿が将来の姿ではない。
そうなった時に、それでもその人と人生をともにしたいと思えるか。・・・・・・・・


相手の人間力や人間性、魂の器を好きでなければ、たかだか50年されど50年の時間をともにするなど到底無理だ。
“一生添い遂げるかどうか”が問題なのではなく、“共有した時間をどれだけ濃密なものにしたか”が大切なのではないだろうか。


私が今好きな男性は、社会的に地位がある、おカネもそこそこあるだろう。
でもそんなモノは一瞬にして失う可能性が、この世にはいくらでもある。
だから、これらのモノを彼がすべて失ったら・・・・・・と想像してみる。

それでも、好きなのだ。

彼から感じる何か大きな暖かさが私を引きつける。
いや、もし現在の社会的諸条件を失ったら、今の彼ではなくなるかもしれない。
それでも好きだろうか・・・・・・・。
自暴自棄になったり、無気力になったり、彼から発せられるエネルギーが変わってしまったら・・・・・・・。
それは、その時になって見なければ分からないことだけど・・・・・。


唯一言えることは、今の私はこれほどの貧困の中で何とか独りで乗り切っているから、彼が貧乏になった所で今よりひどくなることはない。
というよりも、彼を生活費のために好きになったわけではなく、もちろん援助をしてもらっているわけでもないから、金銭的な条件は一切入り込んでいないのだ。
彼の存在や笑顔が私の心を潤してくれるのだから、出会えたことだけでプラス。

話していることが楽しい人、一緒にいたい人、これが彼なのだ。




彼は私の心のビタミン・・・・・・・。

人生を無駄にしていると思わない?

久しぶりに心がトキメイタ男性から、そんなこと言われるなんて。・・・・・

結婚しないことが、人生を無駄にすることだろうか。
いや、そうは思わないけれど、もう恋愛をすることはないだろうと冷めてしまったり、開き直ったりしてしまう人間を見ると、あまり良い気分ではない。
私からそういうものを感じたのだろうか。・・・・・


あなただったら結婚したいけど。
そう言いたかったけど、言っても何がどうなるということでもないし、良い方向に転がるとも思えないので黙っていた。

でも20代で結婚していたら、絶対に離婚していただろうなと思うのだ。
実際には一度も結婚をしていないのだから想像でしかないのだけど、30代、40代と進むうちに、どんどん私の価値観が変化した。
その変化は40代に入ると加速を増し、一年ごとに変わって行った。
だから、20代で結婚していなくて良かった、と思うのは確かだ。

30代でも結婚したいとは思わなかった。
まだ夢を追っていた。
夢や希望を持っていることは、生命力に繋がる。
その夢や希望を失って、見つけようとしても見つけられない今、確実に生きるための気力も減少していることを感じる。

男にも失望している。
誰にという個々の人間に対してではなくて、もう日本では恋愛をしたいと思う男なんていないだろう、という失望。

ところが、あなたがいた。

思いがけず、あなたと焼き肉を食べに行くことになって、七輪を挟んであれこれ話していると、七輪から発せられる炭火の暖かさのせいか、一緒にお酒を飲みながら食事をする高揚のせいか、私は暖かい空気ですっぽり包まれているような気がした。

やっぱり、私って海外生活を経験している人が好きなのだ・・・・・・。
新しい発見のような気がした。
私は西洋の男性の方が合う、と思っていた。
でも日本人でも日本人っぽくない男性、そういう人は居心地がいいのだ。


でも残念ながら、妻がいる。
年齢的にも当然だから、私は好きになった男性に妻がいようといまいと関係ないのだけど、相手はそうはいかないだろう。
子どもや学生の頃にはあり得ない悩み。
私は昔から男友達が多かったし、女友達よりも話が合った。
それは歳を経た今でも変わらないから、“話し相手”がほしいと思う。
できれば男がいい。

話せる女友達は何人かいるけど、男友達となると一緒に行動できる範囲が限られてくるし、大人という分類の煩わしさを感じる。


時々会って、一緒に時間を共有できないかなぁ。



このごろいけない妄想をたびたび描くようになってしまい、ちょっと危ない私なのだ。・・・・

ビビッときた相手に妻子がいたら・・・・・・

女も40代に入り四捨五入して50になると感性が鈍るのか、それとも開き直ってしまうのか、恋愛体質を自認していた私でさえも、滅多にときめかなくなってくる。
かといってその穴を埋めるように、韓流スターにのめり込むこともないから、本当に女性ホルモンの減少を心配したりする。

ところが年に1回、いやたとえ数年に1回でも“ドキン!”とひと目惚れ現象があったりして、密かにホッとしたりもするのだ。
(ああ、私、まだ大丈夫かも・・・・・・)


彼の場合はひと目惚れ現象ではなかったが、パッと見た瞬間に“どこかで会った人?”という懐かしさというか、親しみを感じた。
スピリチュアル的にいうと、前世で縁が深かった人なのではないかとも思うが、前世の記憶がないのだから、それは自分を納得させる都合のいい理由でしかない。


ある時、頻繁に偶然に会うことが重なる。
こうなるともう“縁がある人”を立証されたような気分になる。
そして姿を見かけるたびに、ハッ! と意識が向くようになると、もう好きになっているのだと思う。

ところが彼は妻帯者だ。
私より年上だし、当然妻が居てもおかしくないと思う反面、
(もう夫婦の仲といったって、適当に冷めているんだろうな)
と思ったりする。
それでも“主婦”という肩書きをもつ人種は、いてもいなくてもどちらでもいい、出来ればいない方がいいと思う亭主を手放さない。
稼ぎが良ければなおさら。
しかし、手切れ金をたんともらえるならば
「別に別れてもいいわ」
と思っている人も少なくはないのではないかと思うけど。

その気持ちが分からなくもない。
とかくマメな亭主なら便利でいいけれど、たまに家にいて何もせずにゴロゴロされていると、自分の領域に汚い空気を持ちこまれたような不快感があるのだろう。
(毎日私のために、ストレスを抱えながら働いてくれていて有り難いわ)
なんて心底感謝を送る妻は少ないのではないだろうか。
(どっかに行ってくれればいいのに・・・・・)
と密かに考えている。
すると、その考えていることや思っていることが、目に見えない周波数となって空気の中に流れる。

それは当然、見えないけれど感じるもので、亭主にも伝わる。
それでも夫は我慢する。だって、家事をやるのは面倒臭いしできないし・・・・・・。


しかし、世の中には稀にそういう男にも、
(これからの人生、こういう人と過ごしたい・・・・・)
と思う女性が出現することがある。
それは千載一遇のチャンスかもしれない。
外見はじめ体力、気力が低下し、その中で諦めとともに疎まれながらも“一生添い遂げねばなるまい”と古い慣習に縛られ、その奥底では“妻と別れてまた恋ができるとは思わないし、一人はさびしい”と無難な道を選んで人生を終えていく。

けれど、あなたの人間的・男性的価値を感じる女性がもし出現したら。・・・・・・・


私は50代や60代の素敵な男性に出会うと、
(ああ、勿体無いなぁ)
と、心の中でため息をつく。

私がこの人に想いをかけるように、奥さんに大切にされているだろうか、と考える。
毎日寝食をともにしていると、恋だの愛だのなんて感情ではなくなるのかもしれない。
それとは別のモノが生まれるとは思うけど。



若いころと価値観が異なる今、現時点で魅力を感じる中年男はそれなりにイケテると感じる。
自分がシンプルになっている分、相手に求めるものもシンプルになってきている。
誰と暮らしてもいいことと悪いことの両方があるはずなのだ。

かといって誰でもいいということではなくて、
(これからの残りの人生、この人と時間を重ねていけたら楽しいそう・・・・・・)
と思えれば、それでいいのではないかと思える。


おカネがなくても楽しく暮らせそうな人、これが一番なのではないかと思うのだ。





そういう人を、最近めっけた。


でもその人には妻がいる。
その妻との関係はどうなのか知る由もないけれど、もし大切にされていないのならば私の所においで、と思っている。

でも彼を居心地の悪い状況に置きたいと思わないから、私からそれを言うことはない。

偶然会うたびに、
(会えてうれしい! 神さま、ありがとう〜!)
と思うだけ。・・・・・

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