私は1976年からフリーランスになり、カメラ雑誌の仕事からスタートしました。その頃は「メカライター」(現在のテクニカルライター)と呼ばれる人々は大御所ばかりで、松田二三男さんを筆頭に、そうそうたるメンバーがおられました。1970年代の終わりごろになって初めて同世代の人々がカメラ雑誌の仕事を手掛けるようになりました。

その中でほぼ最初に知り合ったのが平カズオさんでした。アサヒカメラ編集部で出会うことが多くなりましたが、最初は顔見知り程度でした。しかし、1980年のフォトキナ取材では平さんはアサヒカメラの特派員としてドイツ・ケルンに来ていました。私はカメラ毎日の特派員だったわけですが、平さんはなんとその頃からハンドヘルドコンピュータを使っていたのでした。カメラはもちろんM型ライカでしたが、この新旧のとりあわせが平さんらしさの象徴でした。平さんは1980年代のソニーMAVICAから始まる、いわゆる「スチルビデオカメラ」に積極的に取り組んでいました。そして、平さんと伊達淳一さんが中心となって始めた草の根BBS「写真人電脳網」に私も1989年から加わりました。そのパソコンの師匠が平さんで、PC-9801の初歩的な使いかたをコーチしてくれました。その後、平さんとはアサヒカメラの仕事のほか、月刊カメラマンの仕事でもいっしょになることが多くなってきました。また、日本カメラショーでもいっしょに講師の仕事をするようになりました。平さんの本領が発揮されたのは座談会で、鋭い論調でほかの出席者を圧倒していました。平さんはその後、東京カメラ倶楽部を田中長徳さんや田村彰英さんと立ち上げたりし、だんだんとテクニカルライターの仕事から離れて、写真家活動をメインにするようになりました。そして、ベルギーへ渡り、写真家として作品づくりに力を入れるようになりました。その平さんにひさしぶりに会ったのは2004年のフォトキナでしたが、いつものように酒を酌み交わすこともなく別れました。その後、平さんは帰国し、そして急逝されたのでした。亡くなる直前の手紙には「デジタルカメラはフィルムカメラより先に消えるだろう」という予言でした。フォトキナ2004年のときの笑顔がいまでも脳裏に焼き付いています。

サンダー平山さん(平山真人さん)ともアサヒカメラ編集部での出会いが最初でした。その頃は本名で、写真機家を名乗り、自宅事務所を「焦点庵」と名刺に刷ってあったのを鮮明に覚えています。そして、フォトキナ1982(だったと記憶していますが)、アサヒカメラ特派員としての平山さんとカメラ毎日特派員として現地で顔を合わせました。そして、アサヒカメラの座談会などで一緒になることもありました。その頃には平山さんの紹介で、山田久美夫さんも座談会に出席していたことも覚えています。平山さんとはほかにも縁があって、1980年代の終わり頃、渋谷にある日本写真藝術専門学校に非常勤講師としていっしょにスタートしたのでした。その頃はおもに学研CAPAの仕事をしていた平山さんはサンダー平山を名乗るようになっていました。サンダーさんは学生に慕われ、学生を怒ってばかりいた私とは対照的でした。しかし、サンダーさんは仕事が忙しくなって専門学校の講師を辞めることになりましたが、じつは私も同年にこの専門学校講師を辞めました。つまり、この専門学校講師を始めるのも一緒、辞めるのも一緒になってしまったのでした。サンダーさんは作例に女性をメインに撮るようになりましたが、その腕はテクニカルライター(サンダーさんの言う写真機家)の中ではピカイチだったと言えるでしょう。その後サンダーさんはデジタルカメラ時代にゴミが付かない、専用設計レンズということで、レンズ一体型デジタルカメラの推進者になりました。しかし、仕事の過労がたたって脳梗塞で倒れてしまいました。その後いったんは回復して、鎌倉でお互いにロケをしていたところで偶然会ったこともありました。そして、デジタルカメラに対しては、RAW現像を提唱しましたが、ふたたび脳梗塞の発作で帰らぬ人となりました。

保坂健さんも急逝した仲間のひとりです。最初の出会いは私の恩人である新川幸信さんのアシスタントとしてでした。東京造形大学で教鞭をとっていた新川さんに憧れて、門を叩いたそうです。ところが、保坂さんはアシスタントを辞めて、写真スタジオに勤務するようになりました。その間はまったく連絡をとっていなかったのですが、ある日突然連絡があり、カメラ雑誌の仕事を紹介して欲しいと頼まれました。そこで、カメラ毎日が休刊となり、それを受け継いで山路陽一郎さん(編集者)が始めた毎日ムック「カメラこだわり読本」に紹介しました。そしてカメラ雑誌の仕事をするようになり、カメラショーの講師もいっしょにするようになりました。また、阿部秀之さんと桜井始さんが世話人となって、当時のテクニカルライターの親睦会(カメラライターズクラブ)が発足し、保坂健さんも参加していました。保坂さんは阿部さんや平山さんと一緒にアサヒカメラの仕事を多くやっていましたが、その後日本カメラやフォトコンテスト誌、カメラマン誌の仕事もするようになりました。そして、藤田直道先生の紹介で、日本通信教育連盟(現在の国際文化カレッジ)の講師もするようになり、私も保坂さんの誘いで、国際文化カレッジの仕事をするようになりました。同時に、保坂さんは本来の志向である写真家としての仕事を広げて行きました。もともと酒好きの保坂さんでしたが、それが祟ったのか、肝臓の病気で急逝してしまいました。

カメラ雑誌を通じて知り合った写真家、テクニカルライター、そして編集者は数多くいますが、若くしてこの世を去っていった仲間たち3人にあらためて哀悼の意を表したいと思います。


CSCブログで書いていた「那和秀峻の写真論」ですが、気づかないうちにCSCブログが閉鎖となり、それまでのエントリーも読めなくなってしまいました。数年にわたって書いていたので、かなりのエントリーがあったのですが、ぜんぶ消えてしまいました。そこで、また最初から「那和秀峻の写真論」をリスタートします。とは言っても、記憶の断片があるだけで、CSCブログをそのまま復活させることはできません。同じようなテーマで書くこともあるかも知れませんが、内容は異なっていることをご了承ください。


再開第1回のテーマは「デジタル時代に生き残れるプロカメラマンとは?」です。デジタルカメラが主流になってから15年以上経ちますが、その間、プロカメラマンの仕事はどんどん減って行きました。デジタルカメラになって、撮影の失敗が少なくなったのと、失敗しても撮り直しが効くようになったからです。このため、いままではプロカメラマンに依頼していた仕事を、外注せずに、社員(アマチュア)が撮影して事足りるケースも多々あります。プロカメラマンは仕事がなくなり、写真教室などでレッスンプロをしたり、カメラ雑誌などのメディアで作例を撮りつつ記事も書くテクニカルライターへシフトして行く人たちも多く見受けられるようになりました。では、このデジタルカメラ時代に生き残れるプロカメラマンの条件はなにでしょうか?技術技能的な面ではデジタルカメラおよびデジタル周辺機材によって、従来のプロカメラマンの条件はほとんどクリアされてしまうようになりました。多少、撮影のコツだけ覚えさえすれば、いままでプロカメラマンの技術技能と言われてきた、ポートレートでかならず目にベストピントとか、決定的瞬間を捉えることも、前者は「瞳AF」(ソニーα9)により、後者は「プロキャプチャー」(オリンパスOM-D E-M1 MarkII)により、ほとんどカバーできるようになりました。もちろん、激しく動く人物の目にベストピントとか、団体球技でボールを持った選手だけをキャッチすることはまだまだハードルが高いので、プロスポーツの分野ではプロカメラマンの存在価値はまだまだあるでしょう。第一、プロスポーツではプロカメラマンの席が決まっていて、特定の団体や組織に属していないかぎり、アマチュアはベストポジションで写すことはできません。しかし、ほかの分野ではプロカメラマンの出番はどんどん減っているのが現状です。では、なにがプロカメラマンとアマチュアを区別するのか、それはコミュニケーション能力と人脈だと思います。コミュニケーション能力はとくにポートレートを写す場合にきわめて重要なことで、モデルとなる人物の表情や仕草をフルに引き出すにはコミュニケーション能力が問われます。そして、人脈はプロならでは、プロだからこそ築けるものであり、仕事を多様化し、仕事を広げるためにはぜひとも必要なものです。さらに、もうひとつは技術技能に関わることですが、ライティング(照明)のテクニックは一朝一夕には体得できません。すぐれたライティング技術を持つプロカメラマンは今後も重宝されることでしょう。

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