2004年03月12日

『源氏物語別本集成』(おうふう)

 『源氏物語』の本文研究の歴史は古く、世尊寺伊行が初めての注釈書『源氏釈』をまとめた院政期からすでに始まっている。本格化するのは、鎌倉期になってのことで、源光行・親行の親子による河内本、藤原定家の青表紙本の出現によって、人々の本文への関心は急速に広まり、数多くの注釈書の作成とともに多方面の研究が活発化してくる。室町中期以降、定家の青表紙本は流布本としての位置を占め、以後今日までその系統で読むのが当然として受け入れられてきた。しかし、物語の成立以来本文の伝統には紆余曲折があったし、青表紙本へ淘汰される道程は同時に数多くの本文が消滅していく歴史でもあった。今日残される源氏物語の書写本はかなりの数にのぼるが、その大半は定家本の系統である現状を見ればその様相が知られるであろう。
 人々が本文に再び注目するようになったのは、大正十年になっての山脇毅氏の河内本への言及、続いて平瀬本の複製と解題等の業績によってであった。「河内本は伝はらざるものゝ如し」(藤岡朔作太郎)とされていた本文の出現に、あらためて『源氏物語』を異文との対照の視点から見直す気運が生まれてくる。この延長線上に、本文研究を徹底化し、諸伝本を博捜・整理するとともに、そこから系統を確立し、その成果によって昭和十七年に『校異源氏物語』を完成させたのが池田亀鑑博士であった。途中方針の変更などもあったようだが、底本に青表紙本の大島本(現在は古代学協会蔵)が用いられ、それに青表紙本・河内本・別本の諸本によって校異が示される体裁となってまとめられたのである。その後昭和二十八年から三十一年に、資料篇も加えて今日一般に用いられる『源氏物語大成』へと成長したのは周知の事実であろう。
 池田博士は多数の協力者のもとに膨大な量の諸本を調査し(冊数にして一万五千冊という)、青表紙本・河内本の性格を明らかにするとともに、その基準外の諸本は一括して別本という仮称を与えられた。それゆえ、未整理状態にある別本は青表紙本や河内本と対等の概念ではないのだが、それ以上の適当な名称もないまま、今日、本文研究のテクニカルタームとして定着しているのが現状であろう。ともかく、その校異という断片的な内容ながら、別本の姿をかいまみることができるようになり、かなり青表紙本や河内本とは系統を異にする本文であることも知られるようになった。
 『校異源氏物語』『源氏物語大成』の公刊は、その後の『源氏物語』の研究にはかり知れない影響を与えることになる。青表紙本のもっとも信頼できる本文として、また校異の形で示される河内本や別本の異文は、本文の系統を判別する基準として用いられてもきた。そのような中で、院政期の『源氏物語絵巻』の詞書や、『源氏釈』の引用語句、その他の断片的な資料が、今日残される別本の一部ときわめて近似することなどが知られ、あらためて定家本以前の姿に人々の関心が向けられもしてきた。そのため、今後は別本研究が緊要な課題となろうし、推進すべきであると心ある研究者は提言してきたし、私どももかねて同じ考えを抱き続けてきた。しかし、それは容易なことではないし、それを校異の体裁とするとなると、まず別本の系統とか性格をみきわめた上でないと踏み切れないという思いもあり、情熱だけは持ちながら、具体的にはどうすればよいのか方針も決まらないまま、長い間逡巡してきた。
 青表紙本や河内本に比して、別本の研究はきわめて遅れているし、これが両本とはもっとも系統を異にする別本の代表的な本文であるとする揃い本も出現する気配は一向にない。系統的な本文の研究は今後の課題にして、別本が初めて複製・翻刻された陽明文庫本(陽明叢書)のように、主要な伝本を逐次公にすることも考えはしたが、そう簡単に、しかも廉価にできるものではない。そのような背景もあって、別本研究への端緒ともすべく、現在の研究時点で最善と思われる本文を取り上げ、他の諸本で校異を示すという集成をしたのが本書の企画である。本書を機縁にして、青表紙本の見直しも言われているように、別本を含めた本文の総合的な研究が進められることを望む次第である。

第一巻   桐壺・帚木・空蝉・夕顔(1989年3月)
第二巻   若紫・末摘花・紅葉賀・花宴(1989年6月)
第三巻   葵・賢木・花散里・須磨(1990年10月)
第四巻   明石・澪標・蓬生・関屋・絵合(1991年1月)
第五巻   松風・薄雲・朝顔・少女(1992年4月)
第六巻   玉鬘・初音・胡蝶・蛍・常夏・篝火(1993年6月)
第七巻   野分・行幸・藤袴・真木柱・梅枝(1994年10月)
第八巻   藤裏葉・若菜上(1996年5月)
第九巻   若菜下・柏木(1998年5月)
第十巻   横笛・鈴虫・夕霧・御法(2000年4月)
第十一巻  幻・匂宮・紅梅・竹河・橋姫(2000年11月)
第十二巻  椎本・総角(2001年4月)
第十三巻  早蕨・宿木(2001年10月)
第十四巻  東屋・浮舟(2002年6月)
第十五巻  蜻蛉・手習・夢浮橋(2002年10月)

採用伝本一覧
■別本
陽明文庫本 (陽明文庫蔵)
保坂本 (東京国立博物館蔵)
御物本 (東山御文庫蔵)
麦生本 (天理図書館蔵)
阿里莫本 (天理図書館蔵)
国冬本 (天理図書館蔵)
伝為氏筆本 (天理図書館蔵)
伝讃岐筆本 (天理図書館蔵)
善本叢書本 (天理図書館蔵)
伝為相筆本 (静嘉堂文庫蔵)
三条西家本 (宮内庁書陵部蔵)
中山本 (中山輔親氏旧蔵)
東大本 (東京大学附属図書館蔵)
中京大本 (中京大学図書館蔵)
蓬生文庫本 (名古屋市蓬生文庫蔵)

■青表紙本
大島本 (古代学協会蔵)

■河内本
尾州家本 (名古屋市蓬生文庫蔵)

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