たら本25thこのエリクソンの傑作を紹介したかったのに、しばらく絶版だったので、なかなか人に勧められずにいました。
原著は1989年、福武書店で刊行されたのが1990年。私が持っている文庫本は1995年(福武)。
今回の「たら本」でドイツ”というテーマが出た時、真っ先にこの小説が思い浮かんだので、一応調べてみたところ、白水Uブックスから復刊(2005年)しているじゃあないですか。
復刊ドット・コムに寄せられた熱い「声」をみても、復刊して当然。
これを絶版にしてしまった点で、ベネッセ(福武)には失望した。
かわりに、白水社。やっぱり、いいとこついてくる。白水社、イイ。

『黒い時計の旅』の“パラレル・ワールド”。
これは第二次世界大戦でドイツが負けず、ヒトラーが死ななかった20世紀の物語。
そうして、もうひとつの時間軸を持った20世紀の物語でもある。
1938年、ウィーン。
ある夜、20世紀は一人の人物の手によってまっぷたつに引き裂かれた。
男の名は、バニング・ジェーンライト。
アドルフ・ヒトラーのためにポルノグラフィーを書く男であり、2つの世界を旅する男でもある。
「パラレルワールド」と「現実の世界」との複雑怪奇な錯綜。
彼の口から紡がれる物語は、あたかも黒い川の濁流のようにさまざまなものを飲み込んで流れていく。
呪われた愛をめぐる「もうひとつの20世紀」の物語、亡命したロシア系親子の物語、20世紀の見取図…。
切り裂かれ、濁流に飲まれた二つの世界を読み進むうちに、我々読者は、いつしか歴史の渦中に溺れていく。
そうして、ふたたび重ね合っていく物語。

この疾走感。この重厚なエネルギー。
なおかつ、前半の細部が後半で豊かに展開していき、ため息が出るほど緻密に構成されている。
トマス・ピンチョン、ウィリアム・ギブスンといった作家の激賞を受けているのも頷ける。

なお、この小説は、ある意味読みにくい。語り手の問題があるからだ。
初めの語り手は、白髪の少年マーク。ダヴンホール島のチャイナタウンで、島で唯一の白人の女から生まれた。
彼が島を出る決心をし、本土への船に乗り込む。
本土の船着場も見えない。故郷の島も見えない、その瞬間。
現在地がどこでもなくなるその一瞬。
なんと15年もの間、彼は船の上で、その瞬間をくり返す。

船を降り母のもとに戻ったマークは、1人の男が彼女の足下に倒れているのを発見する。
自分で持て余すほど、あまりに大きすぎる体を持って生まれ、人々から恐れられ、憎まれた男。彼こそは、ヒトラーのためにポルノ小説を書き続ける男、バニング・ジェーンライトである。
彼は、己の人生を語り始める…。

妄想や、幻想が渦巻く、タールのような濁流。そんな小説です。
ねっとりと、暑い夏の夜に、いかがでしょうか。