ガムテープ男のガイシュツブログ

mixi日記から要外向け発信内容を転載しております。お含みおき下さい。

【告知】下松勝人“族長”表現者生活40+1周年記念『マチネーからソワレへ』


日時:2012年6月16日(土)14:00~
場所:箱崎水族舘喫茶室
(〒812-0053 福岡県福岡市東区箱崎1丁目37-21)
料金:1500円(1ドリンク・軽食付き)

はじめに~
 下松勝人・56歳。40年に渡る、彼の表現領域は余りにも果てしなく、大学在学中に旗揚げされた「葡萄一族」を皮切りに、「劇団仮面工房」による数々の伝説的公演、レーベルや演劇批評誌の旗揚げ、第一回福岡演劇祭の企画運営、国内外アーティストの招へい、プログレッシブ・バンド「オンゴロ」等々。その存在感は、福岡いや日本アートシーンにあって、別格と言えましょう。下松氏こそは、まさに「知る人ぞ知る表現者」「もっと評価されるべきオルガナイサー」であります。また、現在も主宰を務める「大耳ネットワーク」をはじめ、演劇ユニットや、表現塾などを通じて、綺羅星のような表現者達を数多く育て、力強く背中押ししてきたことも、彼の偉大な功績の一つです。
 きみやぼくを“その気”にさせ、ハプニングを愉しみ、誰も見たことの無いステージを作ってしまう“場作りの天才”下松勝人氏。
 このイベントの目的は二つ。今なお血気盛んな下松氏のこれまでを顕彰、検証すること。そして、氏を敬愛する人々が集い、これからも“遊び続けること”を遊びながら宣言すること、です!


<イベント概要>
第一部 14:00-16:00
トークライブ“カットVSさんぞう”
 第一部は、下松氏ご自身と、盟友・久松泰伸氏をお招きしてのトークライブ。お二人の出会いから「劇団仮面工房」演出・脚本のゴールデンコンビ結成、福岡アートシーンに刻み付けてきた、数々の舞台と歓び、そして騒動を、お二人に直接語っていただきましょう!傾注!!

    -久松泰伸-
    1957年福岡県宮若市生れ。高校時代に演劇部で下松氏と出会い、
    以後、長年に亘って演出家と作家、シーンの仕掛け人とそのブレーン
    といったタッグを組み、舞台に限らず様々な表現分野で暗躍してきた存在。
    主な戯曲作品は「おひさまでたぞこわいぞイッヒッヒ」「だりだりでぃんどん」

    「ラジオのように」「子供の王国」「サンクチュアリ」。バンド活動は猟奇王、

    Dal Dali Baalなど。現在、子育てのため公式活動休止中。

第二部 17:00-22:00
“飛び入り上等!”の宴
 お待たせしました!第二部は群舞、演奏、弾き語り、朗読、芝居ほかなんでもありの、「飛び入り」ステージ! 下松氏の40+1周年を祝う宴を、皆で作り上げましょう!


第二部参加希望の方への連絡事項
1.今回のライブは「(1)1組15分枠」「(2)群舞+演奏20分枠×最大5セット」という形式で行います。
2.(1)1組15分枠は、飛び入り参加です。その場で表明下さいませ。
3.(2)群舞+演奏で出演希望される方は、下記メールアドレスに、
   ①名前(バンド・集団名等)②人数③簡単な内容(「歌」「演奏」「寸劇」などごく簡単で結構です)
   ④来場可能な時間(開始時間から遅れる場合のみ)
   …を記入の上お送りください。
   メールアドレス:datenshi@fsinet.or.jp
4.応募状況、決定出演者などの情報は、下記ブログ等で随時報告します。
   http://blog.livedoor.jp/necoco1969/
5.応募者多数の場合は、先着順で締め切らせていただきます。

6.表現の内容は全てお任せします。
7.但し、可能な限り沢山の参加者に、ストレスなく出演・観覧頂く為、下記ご了承ください。
  (1)一組当たりの出演時間は「15分以内」を厳守願います(舞台スペースに上がってからの準備/撤収時間含む)。事前準備を宜しくお願いします。
  (2)ご用意できるマイクは、一組一本です。
  (4)楽器や機材を持ち込まれる場合は、下記をお心掛け願います。
  ①楽器類は、イベントの進行に支障をきたさない程度の大きさでお願いします。
  ②予めのステージ設置はお断りします。
  ③全て持ち込まれた方の責任で管理願います。
   店舗・主催者とも破損・紛失などについては一切責任を負いかねます。
8.出演希望者多数、あるいは当日終了近くの来場等の場合、ご出演いただけない場合もありますので、あしからずご了承願います。
9.その他、不明点などありましたら上記メアドまでご連絡願います。

【久々に】大耳ライブ【出ます】

日時:5月5日 夜8時スタート
場所:飯倉チープサイド
料金:ワンドリンク付で1500円 
出演 おさだあつとし、森耕(ガムテープ男)、猫耳ズ(藤本&諏訪)
F-style(水咲孝行・水咲あきこ・IVAN)
名島表現塾芝居組『誕生日』(田崎ちょこ・日向和枝・鹿児島寿)

スタッフ 小林陽子 下松勝人 写真班 井原氏
大耳ネットワークがみなさまに贈る「奇人の祭典」をお楽しみに!
なお、前売りチケットを買っていただいた方には大耳の夕べCDをプレゼントします。


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『私も大耳族』-「偽ペルソナ小劇場」編2

11.11.25
 もう一つ、頂いたチャンスとして、飯倉で今も健在のライブハウス=チープサイドでの’93年 仮面工房小公演がある。今の「大耳ライブ」に通じるイベントのひとつと云えよう。
 出し物は二つで、仮面本隊が1本、M君NちゃんTちゃんそして僕、のグループが1本、芝居を制作することとなった。この「図式」にめらめらと対抗心が燃え上がった!「仮面の芝居を喰ってやろう!」僕の鼻っ柱はもちろん、4人の意気は上がりきり、かなりの高揚感をもって芝居造りにとりかかった、覚えがある。 
 脚本は、僕が書いた。「烏」という題名で、絵描きと女子高生の会話劇。書いている間は、会話の面白さにしか関心が持てず(まぁ、今でもそんなだけど)「落ち」や「説得力」は、小道具や雰囲気任せ、という無茶振りも甚だしいホンを、演出そして主演するのはM君。女子高生役は、当然Tちゃん。ふだん着ている制服をそのまま衣装にしてもらった。
 練習場所は、いろいろやりくりして、当時僕がバイトしてた学校の体育館を、黙って使ったりもした。準備運動なども、仮面工房や夕べでのそれらを意識しつつ、少しでも違う処を付加しようと、そういう気持ちは4人全員にあったと思う。
 美術はNちゃん。「鏡になっている烏の絵」とか、脚本で指定しているものの、舞台での効果とかはまるで考えていない小道具作りに、精出してくれた。
 あと、チープサイドに掲示するポスターには、マジックブギーの友清君が、白土三平風の、イカシたイラストを描いてくれたっけ。
 そして本番。しかしその前後で、大学時代の友人が亡くなり、葬儀に参加するため、僕は鎌倉へ飛んだ。ここに始まる出来事は僕の人生で、恐らく一生ものの重さを持つのだが、ここでは敢えて、語らない。戻ってきたのは、公演当日の、昼過ぎだった。気持ちを切り替えなければ、と思ったが、上手くいったかどうかは分からない。芝居も、上手くいったのか失敗だったのか。印象として残ってはいない。
 一方の作品、「朝に死す」(作/清水邦夫、演出/下松勝人、出演/吉本直樹・バーバラ美ほと)は、これも会話劇。しかし、ボルグさんの芝居は地に足が着いたもので、これは当時の僕には造り出せないものだ、と強く感じた。勝ち負けを云うのなら、完敗だな、と思った。しかし、良い芝居を見たなぁ、という感激の方が強かった。アイデアや才気、感性の昂りだけでは到達できない表現がある、としみじみ感じた、夜だった。(それでも後年、全然別の縁で知り合った友人から「烏」を見た、女子高生役の娘を覚えていた、と教えて貰ったことがある。それだけで充分。やって良かったと今は思う)


 思い出のパフォーマンス・其之拾:踊るNちゃんのおっぱい。-彼女が胸をはだけた時は、驚きと「そうまでしなければならない」化も知れない『夕べ』の場の力に、しばし、伸されました。それが正しいというか、必然性ある振る舞いだったのかはとりあえず、どうでも良いのです。それだけの思い入れを持って『夕べ』に賭ける心が、確実にひとつ、在ったことが重要なのです。そして僕(ら)は皆んな、彼女の胸に突きつけられました。「そこまで裸になっているか?」と。この問いはもちろん今も続いています。


12.01.03
 今日は、はじめての自主企画「月間シアター」の頃のことなぞ。このタイトルのつけ方自体、「大耳」を体制と見立てて、ダダをこねる風だよねぇ。
 「烏」の公演後、僕は「月光シアターもっと活用されるべし」という観点から、その利用案と、受け皿となる定期イベントの提案からなる、数ページの企画書を作成した。そのイベント名が「月間シアター」。正直なところ、僕はこの企画書作ってしまった時点で、早くも悦に入ってしまい、「どうよ!」ってな調子でまたまた舞い上がっていた。倉知さんからは「これは悪文だなぁ…」と言われもしたけれど。 
 紙ッぺら以外に実体のない、この「月間シアター」。その割には、上から目線な内容で、月光シアターで練習中の、仮面の皆さまへ、格好つけて「提案」へいったものの、「まずは、自分でやってみなよ」旨、諭される始末。それでは…と第一回目の準備を始めた。
 出演は、マジック・ブギーと、想田恭子さん。特に想田さんには、出演および司会までお願いすることとなり、最初の約束以上のご負担を強いてしまいました。この場を借りて、平に御詫び申し上げます。 
 イベントに先立って、今まで足りてないのでは…、と思うことを、経験からでなく頭で考えただけで引き出したものだから、契約書の取り交わしの真似事だとか、傷害保険まで調べたり、と本筋とはあんまり関係のない部分にばかり気が行って、会場のPAについては、当日まで頭になかった、というズッコケぶり。確か、仮面の大谷氏に助けていただきました。その節は有難うございます。しかし、場合によっては想田さんの公演が不可能になりかねない、大ポカでした。。。 
 イベント自体は、下松氏出演のTVCM「カギの110番」のパロディなども交えつつ、出演者が良かったこともあり滞りなく終了した。ドラム缶をハンマーで叩き潰すマジック・ブギーには、活力が漲っていたし、想田さんの一人芝居「独り言」も彼女の語り芸と芝居のスキルがうまく調和した、舞台だったと思う。「メイデイ」はこの芝居で覚えた遭難信号だ。 
 他のイベントと差別化しようと、「打ち上げ」の類は止めよう、と思っていたが、流れでやっぱり、現地打ち上げを行った。やっぱ大事です、流れ…。
 「月間シアター」は、結局、その一回で終わった。最大の理由は、企画者である僕のモチベーションが、しゅしゅしゅーッと小さくなってしまったから。企画して、実現して、もういいや、なのだから人騒がせもいいところ。「これで終わりマース」宣言に、仮面工房の佐野氏も呆れていた。「また、やろう」という気持ちが生まれなかったのは、僕が表現者として、やろう、というものがあやふやだった為だ、と今では思う。「企画書」の薄っぺらな意気込みだけでは、自分の「内」も「外」も、動かす事は出来なかったのだ。とにかく「自分で責任持って、汗かいて、やるしかない」んだよ、と当時の僕に言ってやりたくもあるが、多分意味は分からないだろうな。何より「自分の表現」が最もわからなくなってた時期だったし


 思い出のパフォーマンス・其之拾壱:Tちゃんの「ちゃっちゃっちゃー、ちゃっちゃっちゃ、ウっ!」-こう書いても、訳が分からんですよねw まぁつまり、「弟は腕を組んで考える」「兄は足を組んで考える」「うーッ、辛抱!」
 もう一本(これ実は僕が考えたもの)「これなんですか?」「サルノコシカケです。お買い上げになりますか?」「ハッハッハ、…まさか!… …これください」「サルノコシカケですね。   …うーッ、漢方!」というような、Tちゃんによる大喜利コント。後半は悪乗りして、僕やM君、ボルグさん、マジックブギーの友清君など多くの参加で、「夕べ」の名物コーナーに成長していきました。
 Tちゃんが「君は何をするの?」と、場に突きつけられた問いへの回答なのだが、ある種の「苦し紛れ感」で出てきただろうものが、寧ろみんなの記憶に残っているという、好例だと思います。彼女ももう三十路なんだよなァー 

12.01.09
 本日は、夕べで数回発表を行った、表現ユニット「偽ペルソナ小劇場」について。「ペルソナ小劇場」とは、仮面工房の小公演ユニット名。それにあやかり、「英語名=ペルソナ・ミニシアター・レプリカ」とか言って、粋がってた。ここでも「人の褌で相撲を取る」様なネーミングセンスは変わってない。まぁ未だ変わってもいないかな…。
 メンバーは、「烏」と同じ、M君、Nちゃん、Tちゃん、それにゲストが時々。ユニット結成の切っ掛けは「夕べで、もう少し『シャン』とした出し物」を、との思いから。今考えると、「『シャン』とした」の意味するところもあいまいだが。 
 要は、台本や決め事がある、など仕切りのはっきりした表現をやりたい、やるべきだという事だったかと記憶している。それでいて、練習は殆どやった覚えがなく、夕べでのぶっつけ本番。つまりは、夕べのインプロに対して、「俺ら考えてきましたよ!!」という意思表示をしたかった、って所だろう。さて、その「偽ペルソナ小劇場」思い出すままに、公演目録を書き出してみよう。0回は、確か、脱稿したばかりの「烏」の台本を、その場でTちゃんと友清君に朗読してもらった、と思う。しかし、いきなり過ぎるっていうか、よく友清君怒らなかったなぁーw
 そして記念すべき第1回は、恐れ多くも、つげ義春の「ねじ式」。左手を押さえた、上半身裸のM君の立ち姿だけで押し切った感がある。今で言う「出オチ」ですね。
 2回目のタイトルは忘れたが、僕とM君がコタツで延々とヲタ話をしているのだが、その輪に入れないTちゃんが途中からいきなり独り芝居を始める、というもの。「舞台情報の多重発信」を意識していたかな? 
 3回目は、高橋源一郎「惑星P-13の秘密」から、ある音楽家の作品群の紹介(いま手元に原作本がないので、正確なタイトル不明)。ナレーションと、殆ど無言劇による作品。シェフ役でハンキンを起用。氏のアドリブが舞台を引き締めた。事前に練習をしたのは確かこれ一作のみだった筈で、そのせいか最も評判は良かった。
 4回目は、佐々木マキ「ぼくのデブインコちゃん」。Nちゃん主演の朗読劇だが、僕がその場の思いつきでお菓子をむさぼり食う場面を追加した。これは、後年オーホール(小倉)での「ガムテープ男の詩」にて、そっくり再演した。 
 以上、順番はかなりあやふやだし、忘れているものもあるやも知れない「偽ペルソナ小劇場」は、この辺りで自然消滅した。元々が思いつきであったから、1~2カ月やったところで「満腹」したのかな、と今では思えもする。敢えて言えば、僕を含めM君NちゃんTちゃんとも「遊ぶ」道具や機会、興味は、別に色々あった時期だったし。尤もほんの暫くで、それらが実に儚い、というか失い易いものだと知るのだけれど。


12.01.22
 正直、いつまでも遊ぶだけの力はある筈、と思っていた。或いは、遊びと生活の区別はついていなかった。遊びと生活。どちらも、行き着けば「楽しいもの」になると、僕は今でも信じているのだが、モードは替えないといけない。そのことは全然分からなかったもので。1992年の12月に結婚して、大学院は開店休業。なんちゃって給与生活者となり、翌年6月には長男が誕生。もちろん嬉しかったし、楽しかった。結婚式の披露宴では、下松さん演出でM君とNちゃんがパフォーマンスを披露してくれたし。 
 仕事にしても、当時、学業は袋小路(=自業自得)の感があったところで、新たな「自己実現」のステージに見えた(この甘い甘い認識は、ほどなく粉みじんにされるのだが)。要は、「自己実現」できるのなら、そんな気にさせてくれるのなら何でもいいや、何でも同じだわ。という、思い上がりがあったのだと思う。だから結局、ある時期の「夕べ」での活動を、僕は大事にしてこなかったんだ、という後悔がある。もっとも、客観的に手詰まりだったのなら(それは正直分からないけれど)、ほとぼりが冷めるまで暫くさようなら、というのは結果的に間違いではなかったのかもしれないけれど…。 
 まあ、少なくとも当時の「夕べ」に対して、僕は何の責任も果たさずに、フェードアウトしているのだ。 
 仮面工房の芝居は、94年の「世にも怪奇な物語2本立」がイマイチの出来で、福岡在住中はそれ以来、月光シアターへ行っていない。「少年Z!」は見てない訳で、もったいないですね。 
 「夕べ」では、自分の詩の方向性がつかめなくなってきた。というか「あだ花」での夕べ以来、詩作にはずいぶん自信がなくなってきているのが、自分でもわかって、結構辛い時期だった。 
 下松さんが当時結成した「ドグラマグラ」というバンドは、「夕べ」のフラッグシップ、とするには華がなかった。「夕べ」史的には「アジャ・クレヨンズ」「マジックブギー」と「オンゴロ」を繋ぐ、大いなる、そして残念ながら僕にとっては凡庸な、ミッシングリンクだった。 
 M君は私生活に波乱があり、或る日から月光シアターに現れなくなった。それから数年後、仮面工房の公演の客席で再開したきり、いまは噂も聞かない。Nちゃんは、98年以降の「夕べ」でも時たま会ったかな。彼女の消息も詳しくは知らない。NちゃんやTちゃんが仮面工房を去った正確な時期は、分からない。M君とTちゃんはほどなく別れたと聞く。この時期は、記憶も混乱している。自分の見通しの甘さもあって、騒々しさは維持されたものの、くすんだり消えていったりした、何か「大切なもの」を引き止めることもせずに、流されるまま、今思えば努力もしなかった。 
 院試の不合格を機に、しばらく郷里へ戻ることになった。他人事みたいな書き方だが、その位、当時の僕の主体性は疑わしいものだったと思っている(了)

『私も大耳族』-「偽ペルソナ小劇場」編1

11.10.04
 ここからは暫く、私事、というか、「夕べ」のメインストリームではない部分で、僕と、その友人が試みたり、体験したりした事を中心に語りたいと思う。このシリーズの中で、最も「資料性」に乏しい項だと思うので、僕に興味のない方は読み飛ばして頂いても、構わない。
 当時の「夕べ」参加者の中で、特に親しい付き合いがあったのは、仮面工房団員のM君、そして入団したてのNちゃん、M君と付き合っていた高校生団員、Tちゃん…。
 M君とは、芝居打ち上げでの、プロレス話を切っ掛けに意気投合した。ある晩、僕のアパートを訪れたM君と、何時間も「ファイヤープロレスリング(ヲタには忘れられない、プロレスゲームのスタンダード)」に興じ、表に出たら、M君の車はレッカー移動されてたことも。まぁ派出所目の前だったからね。もちろん、プロレス談義ばかりでなく、会えば、芝居や詩のこと、最近読んだ本や、音楽(あんまり接点なかったけど)、そして、人の悪口などで盛り上がる仲だった。
 これもある週末、何するでもなく、ふらっとドグラマグラ教室を訪れたことがある。そこには、M君に、Nちゃん、そして渡辺ハンキン浩二氏が居て、彼らが何でそこに居たのか、忘れてしまったが…そのまま、天神の飲み会に合流し、しこたま日本酒を飲んだ。さてそれが、何の飲み会だったか、今やこれも思い出せない。それから、親不孝通りの屋台へ移動したのだが、道中なぜかMOONBEAMのメンバーと会ったっけ。後に彼らがディスコで外人と喧嘩した、という話を聞いたけど、それはその夜の事だったか…? 
 屋台では(おっとこれは書けないw)まぁ何か、気持ち良くなったまま、ハンキンさんの車に乗って一同、夜を旅! 今宿だったか・・・の砂浜で、夜明けを見ながら、その時も他人の悪口話で、こってりと盛り上がった。その話の切れっぱに、何故かケイト・ブッシュの「センシュアル・ワールド」が巻きついていたのを、覚えている。何で? 
 車は一路、柳川へ。M君の母校近くで一休み後、倉地久美夫氏のご実家へお邪魔した。庭で山賊コーヒー(挽いた豆を漉さずに、そのまま湯を入れて飲む)をご馳走になった。倉地氏のお父上は画家・樺山久夫氏である。 
 樺山久夫氏の生涯については、下記サイトに詳述されている。ぜひご覧頂きたい。http://hirunohikari.com/kabayama.html 
 御会いしたのはそのときが最初で最後だが、アトリエに入れていただき、エアブラシを使った壁画の製作工程を見せていただいた。Nちゃんはその場で、絵のモデルをしないかと口説かれてたっけかな。
 福岡に帰ってきたのは昼過ぎ、僕は出掛けた時と同じ半纏姿で、天神中央郵便局前に降ろして貰った。路銀はとうに尽き、家内にSOSの電話をして、迎えに来てもらった。またまた御免よm(_ _)m 
 あの夜のこと、写真一枚くらいなら残ってるかもしれないな。


11.10.10
 「反(アンチ)」を標榜している中で、更に「反」を唱えたら、フツーになれるのだろうか? 或いは、考える、生きている領域を狭めながら、その環境と同じくらい、ささくれているしかないのだろうか? 
 M君、Nちゃん、そして僕に共通していたのは、現状への不満と、極めつけに生意気だったこと、だろうか。「夕べ」にどっぷりと浸かった僕らが、次にやったのは、「上」の人達に師事するというより、むしろ、粗を見つけては攻撃することだった。攻撃方法は、集まって悪口言い合いの時間つぶしだったり、ことさら「反面教師」に見立て、違うことをやろうとしたり、だった。 
 せっかく居場所を得たのに、何でそんなことを?素直に教えを請うた方が、得るものも多いだろうに、と今さら考えもするのだが。正直、細かい記憶は飛んでしまったけれど、当時の僕の考えを思い出し、類推するならば、それは、つまり、勝てそうな(と、こちらが勝手に思っているだけの勘違いなのだが)、構ってくれそうな大人への反抗、 
 些か卑怯な計算はあったと思う。また一方で「認めてもらいたい」という意識の裏返しでもあっただろう。結局「夕べ」以外の世間から、僕らはまるで相手にされていなかったのだ。 
 それでもM君とNちゃんは、より切実なものを負っていた。その頃の僕は、イベントや表現などについて、ああしたいこうしたいと熱っぽく語ってはいたけれど、一方それら総て気まぐれよ、と言って相違ないくらい、軽くもあった。面と向かっての論争は避けて、表向きは敵を作らない様にしてもいた。結局、自己実現できれば、表現でも仕事でも勉強でも、何だって良かったんじゃないか?僕は。
 M君、Nちゃん、そしてM君と付き合ってたTちゃんは、劇団仮面工房の団員だ。「夕べ」というあまりにも自由なワークショップと大きく重なっていたとは言え、劇団が整然とした組織・縦社会の側面を持っていたことは明らかだ。その中で彼らの様な、所謂「若手」の多くが感じるだろう違和感や軋轢について、僕はなるべく見ない様にしていた。僕らが抱いていた不満や鬱屈の共通項、だから抽象的なものに留まっていた、と思う。「抽象的」では済まない関係に、僕らは、少なくとも僕は踏み込んでいかなかった。もっとも、共有部分が抽象的なものであっても、何かできるというのが若さ、ってものかもしれないと、老いぼれた頭で思う。 
 だから、彼らと劇団との、愛憎相半ばする強い影響の火花。次の瞬間千切れ飛ぶかのような、紐帯のあり様。それは、僕が避けつつも、避けつつも、憧れる部分だった。どうは言っても、彼らは下松勝人氏の愛弟子だったのだ。では僕は… 
 「夕べ」は「仮面工房」に、好影響をもたらすと同時に、他の演劇集団ではあり得ない軋みをも与えていたように思う。M君やNちゃんの様な人々は、通常の劇団では生まれなかった(許されなかった)だろうし、或いは彼らが只の不満分子で終わらなかったのは、正に「夕べ」があったからだ、と断言できる。 
 そして僕は、「仮面工房」の存在を背後に見ながら、それとは違う立ち位置で「夕べ」に居る為の「資格」を求めていた。当時の僕には分不相応な願いというか、その考えも、その存在も軽すぎるのだけれど、そういう自意識についてだけ、当時の僕を弁護してあげたいと思う。…或る「夕べ」で、下松氏とM君が口論になった際、帰り路で下松氏とちょこさんに、くどいくらいM君を弁護したことを思い出す。口にした内容は、まったく忘れてしまったが、多分その言葉に分も理もなかったと思う。お二人とも呆れてただろうな。M君のため、というより、彼に連なる僕の領域について、否定されたくないという気持ち一つだったと、そういう覚えはある。結局それとて「抽象的」な思いではあったのだろうけれど。


 思い出のパフォーマンス・其之八:森耕の椅子落ち-夕べでは(自称)詩人として、毎回詩の朗読しておりましたが、「詩」を場になじませるのは、結構難儀で、つまり「場を作る」技芸には全く乏しかったのです。だから、朗読前のマクラで話す内容も色々考えていました。タレントやアイドルのグラビアについての話題が、多かったかな。今につながる表現はむしろそっちの方だったのでは、とも思えます(笑) 
 そして、トリの集団即興も暗中模索でした。一人プロレスは何回かやりましたが、危ないし…。そんな折「東京ミキサー計画(赤瀬川原平・パルコ出版)」を読んでいて、風倉匠氏についての一節が眼に留まりました。風倉氏の「椅子落ち」パフォーマンス(演奏会の幕間に、無断で壇上へ登り、延々椅子から落ちる。つまみ出されるまで止めない!)に、「これ、やろう!」と、その時は軽い思いつきでカヴァーしたんですが。
 まさか、2000年前後まで、椅子落ちやってるとは、思いもしませんでした。パイプ椅子を使って、自分の番が終わるまで落ち続ける僕の姿は、詩人としてのそれよりも、覚えてくれている人が多いようで、まぁ所謂フツーの詩人道(笑)を踏み越える切っ掛けだったのでしょうね。ドグラマグラ教室は天井が低く、大道具を組むためのフックがそのままにされていました。パイプ椅子を掲げると、上手く引っ掛かり、ここでの締め括り方が決まりました。天井からぶら下がった椅子をモチーフに、椿銀平氏が作った歌もあるのです。 
 さてその後、椅子落ちのオリジネイターである風倉匠氏にお会いしたこと、風倉氏の椅子落ちと僕のそれの所作が、大きく違っていたらしいこと、そして僕の表現としては、椅子落ちは封印したこと、など、語りたいことはまだまだあるのですが、それはまた、別のお話(笑) 


11.10.31
 「夕べ」からも「仮面工房」からも少々はみ出してる、と気取っていた僕らだったが、下松勝人氏からは、結構な数の「チャンス」を貰っていたと思う。比較的、大きなそれらを挙げていくと、92年(うわもう直ぐ20年だ)「あだ花」での「歌と詩の夕べ」の出演。これは、演奏がM君、詩の朗読が僕、というデュオだった。宅嶋淳(玄界灘音楽事務所を率いた、この人も福岡音楽シーンの立役者だ)、アジャ・クレヨンズと、同じ舞台に立つ、というだけで、もう舞い上がってしまい、その出来は実際、良くなかったと今でも思う。「舞台に上がること」の意味なり、注意点なりを知らないまま、練習していたのだから、失敗は必然だったのだろう。
 当日までの有頂天振りには、今思えばM君も辟易していたかも知れないな。一転して、終了後の落ち込みぶりも、痛い痛い初ステージだった。この時には、もう二つばかり事件があって、ひとつは、リハ中に、妊娠していた家内が自宅で酷い腹痛を訴えたこと。自宅と「あだ花」を往復しつつ、店主の安達さんと、仮面工房の想田さんに助けていただき、ことなきを得た。その節は、ありがとうございます。
 そして終演後、白川バンドの白川亨氏(当時は、楽曲も語調も手強い、福岡音楽シーンの御意見番、の風があった)と話をする機会があった。彼の「詩が響いてこない」旨の指摘に、僕は「いやそれはですね…」旨、しれっと言い繕おうとした。この時には、表現「してしまった」ことを、後で言い繕って修正できるとでも、僕は思っていたのだろうか。白川氏は、憮然とした表情で「口にチャックして帰れ」と言った。自分の表現について「失敗」と、「失敗」と断を下す、下される初めての体験だった。その後、お開きの後、どういう路順で帰ったものか(酒も飲んでいたので)はっきりと覚えていないが。下宿街の路上で、やり場なくこう叫んだのは確かだ。「ど畜生がッ!」


 思い出のパフォーマンス・其之九:赤穂雄三氏の踊り-当時の仮面工房で、僕から見て最も役者ずれしていない印象があったのは、赤穂さんでした。生真面目な好青年風で、いや実際そうだったのでしょうけれど、やや生硬な感じすらありましたが、公演ではその天分がよく活きた、良い芝居をされていたように覚えています。この人の真価は、集団即興の場面ではなかったか、と思っています。生硬な雰囲気は、踊りやボイスにおいて、神がかった凄味に転じ、おどろおどろしくも、下卑た感じには決してならない清涼感がありました。
 引き締まった体躯で古代神のように踊る彼は、一時期ちょこさんとのデュオがもっとも似合うパフォーマーではなかったか、と今でもほのぼの思います。

市川森一さんを偲ぶ

 市川森一さんは、同郷で、父の兄貴分。そして奥様と、僕ら夫婦の仲人を務めて頂いた。勿論ご多忙の御身であり、僕の幼少時から結婚、そして氏の最晩年まで、お会いしてお話させていただいたことは、十回にも満たなかったと、記憶する。
 僕にとっては、最后まで「遠くに居られる、偉い伯父さん」であった。ウルトラシリーズに始まる市川さんの作品に深く傾倒された皆様、そして地元の大学や地域のワークショップで直接教えを受けた皆様に比べれば、文筆家・教育者としての市川さんに、直に触れる機会を殆ど持ち得なかったことは、今更ながらとても残念ではある。
 しかし亡き祖父が、そして父が折りに触れ話してくれた「鎮西学院および、諫早寮(東京)の青春期」には、それら青春群像の「格好よさ」「粋さ」を体現するものとして、必ず市川さんのエピソードが織り込まれていた。そうした話を聞き、そうした時代に憧れを抱きながら、僕は育った。
 市川さんの作品を集中的に読んだのは、高校時代。既に重度の(今でも)ウルトラフリークだった僕は「…セブン」や「…A」で、氏が手掛けたエピソードを「これも!あれも!」と見返すところから始まり、やがて「ダウンタウン物語」「淋しいのはお前だけじゃない」「傷だらけの天使」などのシナリオ集に、夢中となった。
 「大声台詞の語尾は必ず、カタカナの小さい『ッ』(例「SRIの恥さらしだよッ!お前等は!」)」とか、「親しきもの、信頼していたものの裏切り」とか、常に捻った視点、ハッピーエンドへの疑念とか。無意識であるなしに関わらず、僕がものを書いたり、考えたりする上での、基礎教養となっている部分は、少なからずあると思う。
 昨日、市川さん危篤の報-延命治療も拒否され、ご自宅で闘病されている-旨を聞いた時に、何となく、先に述べた「僕の憧れた世代」の意地というか、矜持を見たような思いがした。驚きはしたものの、腑に落ちる処もあった。
 「いい夢、見たなァ…」「やさしさを忘れないでくれ。たとえ何百回裏切られても」「演劇は未来の悲劇を予言しなければならない」「たまらん、たまらん、たまらんぜ…」昨晩は、市川さんがものした数々の名台詞を反芻しながら、床に就いた。
 早朝に訃報が届いた。父曰く「一つの時代…『黄色い涙』の時代が、終わったんだなァ…」。僕もそう思う。それにしても-格好良いけど、早過ぎましたよ、市川さん。
 あと、(いまこういうことを言うと「創り」と思われるかもしれないが)昨朝、車を運転しながら何となく、市川さんのことが思い出された。…もうずいぶんお会いする機会は無いけれども、折りあらば、どんな話をさせていただこうかしら、と。
…最近作のこと、今や伝説となった「エースの願い」のこと、僕の今の仕事のこと、家内との闘病生活のこと、…ブースカはいつ、正式に地球へ帰ってきますか?、…小暮修さんのその後は?、ハウステンボスのアトラクション・アニメの登場人物の名前、あれは…?!

  …しばしのお別れとなりますが、光の国での再会を、心より祈念申し上げます。
                                    市川森一さまへ。森耕

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