11.11.25
もう一つ、頂いたチャンスとして、飯倉で今も健在のライブハウス=チープサイドでの’93年 仮面工房小公演がある。今の「大耳ライブ」に通じるイベントのひとつと云えよう。
出し物は二つで、仮面本隊が1本、M君NちゃんTちゃんそして僕、のグループが1本、芝居を制作することとなった。この「図式」にめらめらと対抗心が燃え上がった!「仮面の芝居を喰ってやろう!」僕の鼻っ柱はもちろん、4人の意気は上がりきり、かなりの高揚感をもって芝居造りにとりかかった、覚えがある。
脚本は、僕が書いた。「烏」という題名で、絵描きと女子高生の会話劇。書いている間は、会話の面白さにしか関心が持てず(まぁ、今でもそんなだけど)「落ち」や「説得力」は、小道具や雰囲気任せ、という無茶振りも甚だしいホンを、演出そして主演するのはM君。女子高生役は、当然Tちゃん。ふだん着ている制服をそのまま衣装にしてもらった。
練習場所は、いろいろやりくりして、当時僕がバイトしてた学校の体育館を、黙って使ったりもした。準備運動なども、仮面工房や夕べでのそれらを意識しつつ、少しでも違う処を付加しようと、そういう気持ちは4人全員にあったと思う。
美術はNちゃん。「鏡になっている烏の絵」とか、脚本で指定しているものの、舞台での効果とかはまるで考えていない小道具作りに、精出してくれた。
あと、チープサイドに掲示するポスターには、マジックブギーの友清君が、白土三平風の、イカシたイラストを描いてくれたっけ。
そして本番。しかしその前後で、大学時代の友人が亡くなり、葬儀に参加するため、僕は鎌倉へ飛んだ。ここに始まる出来事は僕の人生で、恐らく一生ものの重さを持つのだが、ここでは敢えて、語らない。戻ってきたのは、公演当日の、昼過ぎだった。気持ちを切り替えなければ、と思ったが、上手くいったかどうかは分からない。芝居も、上手くいったのか失敗だったのか。印象として残ってはいない。
一方の作品、「朝に死す」(作/清水邦夫、演出/下松勝人、出演/吉本直樹・バーバラ美ほと)は、これも会話劇。しかし、ボルグさんの芝居は地に足が着いたもので、これは当時の僕には造り出せないものだ、と強く感じた。勝ち負けを云うのなら、完敗だな、と思った。しかし、良い芝居を見たなぁ、という感激の方が強かった。アイデアや才気、感性の昂りだけでは到達できない表現がある、としみじみ感じた、夜だった。(それでも後年、全然別の縁で知り合った友人から「烏」を見た、女子高生役の娘を覚えていた、と教えて貰ったことがある。それだけで充分。やって良かったと今は思う)
思い出のパフォーマンス・其之拾:踊るNちゃんのおっぱい。-彼女が胸をはだけた時は、驚きと「そうまでしなければならない」化も知れない『夕べ』の場の力に、しばし、伸されました。それが正しいというか、必然性ある振る舞いだったのかはとりあえず、どうでも良いのです。それだけの思い入れを持って『夕べ』に賭ける心が、確実にひとつ、在ったことが重要なのです。そして僕(ら)は皆んな、彼女の胸に突きつけられました。「そこまで裸になっているか?」と。この問いはもちろん今も続いています。
12.01.03
今日は、はじめての自主企画「月間シアター」の頃のことなぞ。このタイトルのつけ方自体、「大耳」を体制と見立てて、ダダをこねる風だよねぇ。
「烏」の公演後、僕は「月光シアターもっと活用されるべし」という観点から、その利用案と、受け皿となる定期イベントの提案からなる、数ページの企画書を作成した。そのイベント名が「月間シアター」。正直なところ、僕はこの企画書作ってしまった時点で、早くも悦に入ってしまい、「どうよ!」ってな調子でまたまた舞い上がっていた。倉知さんからは「これは悪文だなぁ…」と言われもしたけれど。
紙ッぺら以外に実体のない、この「月間シアター」。その割には、上から目線な内容で、月光シアターで練習中の、仮面の皆さまへ、格好つけて「提案」へいったものの、「まずは、自分でやってみなよ」旨、諭される始末。それでは…と第一回目の準備を始めた。
出演は、マジック・ブギーと、想田恭子さん。特に想田さんには、出演および司会までお願いすることとなり、最初の約束以上のご負担を強いてしまいました。この場を借りて、平に御詫び申し上げます。
イベントに先立って、今まで足りてないのでは…、と思うことを、経験からでなく頭で考えただけで引き出したものだから、契約書の取り交わしの真似事だとか、傷害保険まで調べたり、と本筋とはあんまり関係のない部分にばかり気が行って、会場のPAについては、当日まで頭になかった、というズッコケぶり。確か、仮面の大谷氏に助けていただきました。その節は有難うございます。しかし、場合によっては想田さんの公演が不可能になりかねない、大ポカでした。。。
イベント自体は、下松氏出演のTVCM「カギの110番」のパロディなども交えつつ、出演者が良かったこともあり滞りなく終了した。ドラム缶をハンマーで叩き潰すマジック・ブギーには、活力が漲っていたし、想田さんの一人芝居「独り言」も彼女の語り芸と芝居のスキルがうまく調和した、舞台だったと思う。「メイデイ」はこの芝居で覚えた遭難信号だ。
他のイベントと差別化しようと、「打ち上げ」の類は止めよう、と思っていたが、流れでやっぱり、現地打ち上げを行った。やっぱ大事です、流れ…。
「月間シアター」は、結局、その一回で終わった。最大の理由は、企画者である僕のモチベーションが、しゅしゅしゅーッと小さくなってしまったから。企画して、実現して、もういいや、なのだから人騒がせもいいところ。「これで終わりマース」宣言に、仮面工房の佐野氏も呆れていた。「また、やろう」という気持ちが生まれなかったのは、僕が表現者として、やろう、というものがあやふやだった為だ、と今では思う。「企画書」の薄っぺらな意気込みだけでは、自分の「内」も「外」も、動かす事は出来なかったのだ。とにかく「自分で責任持って、汗かいて、やるしかない」んだよ、と当時の僕に言ってやりたくもあるが、多分意味は分からないだろうな。何より「自分の表現」が最もわからなくなってた時期だったし
思い出のパフォーマンス・其之拾壱:Tちゃんの「ちゃっちゃっちゃー、ちゃっちゃっちゃ、ウっ!」-こう書いても、訳が分からんですよねw まぁつまり、「弟は腕を組んで考える」「兄は足を組んで考える」「うーッ、辛抱!」
もう一本(これ実は僕が考えたもの)「これなんですか?」「サルノコシカケです。お買い上げになりますか?」「ハッハッハ、…まさか!… …これください」「サルノコシカケですね。 …うーッ、漢方!」というような、Tちゃんによる大喜利コント。後半は悪乗りして、僕やM君、ボルグさん、マジックブギーの友清君など多くの参加で、「夕べ」の名物コーナーに成長していきました。
Tちゃんが「君は何をするの?」と、場に突きつけられた問いへの回答なのだが、ある種の「苦し紛れ感」で出てきただろうものが、寧ろみんなの記憶に残っているという、好例だと思います。彼女ももう三十路なんだよなァー
12.01.09
本日は、夕べで数回発表を行った、表現ユニット「偽ペルソナ小劇場」について。「ペルソナ小劇場」とは、仮面工房の小公演ユニット名。それにあやかり、「英語名=ペルソナ・ミニシアター・レプリカ」とか言って、粋がってた。ここでも「人の褌で相撲を取る」様なネーミングセンスは変わってない。まぁ未だ変わってもいないかな…。
メンバーは、「烏」と同じ、M君、Nちゃん、Tちゃん、それにゲストが時々。ユニット結成の切っ掛けは「夕べで、もう少し『シャン』とした出し物」を、との思いから。今考えると、「『シャン』とした」の意味するところもあいまいだが。
要は、台本や決め事がある、など仕切りのはっきりした表現をやりたい、やるべきだという事だったかと記憶している。それでいて、練習は殆どやった覚えがなく、夕べでのぶっつけ本番。つまりは、夕べのインプロに対して、「俺ら考えてきましたよ!!」という意思表示をしたかった、って所だろう。さて、その「偽ペルソナ小劇場」思い出すままに、公演目録を書き出してみよう。0回は、確か、脱稿したばかりの「烏」の台本を、その場でTちゃんと友清君に朗読してもらった、と思う。しかし、いきなり過ぎるっていうか、よく友清君怒らなかったなぁーw
そして記念すべき第1回は、恐れ多くも、つげ義春の「ねじ式」。左手を押さえた、上半身裸のM君の立ち姿だけで押し切った感がある。今で言う「出オチ」ですね。
2回目のタイトルは忘れたが、僕とM君がコタツで延々とヲタ話をしているのだが、その輪に入れないTちゃんが途中からいきなり独り芝居を始める、というもの。「舞台情報の多重発信」を意識していたかな?
3回目は、高橋源一郎「惑星P-13の秘密」から、ある音楽家の作品群の紹介(いま手元に原作本がないので、正確なタイトル不明)。ナレーションと、殆ど無言劇による作品。シェフ役でハンキンを起用。氏のアドリブが舞台を引き締めた。事前に練習をしたのは確かこれ一作のみだった筈で、そのせいか最も評判は良かった。
4回目は、佐々木マキ「ぼくのデブインコちゃん」。Nちゃん主演の朗読劇だが、僕がその場の思いつきでお菓子をむさぼり食う場面を追加した。これは、後年オーホール(小倉)での「ガムテープ男の詩」にて、そっくり再演した。
以上、順番はかなりあやふやだし、忘れているものもあるやも知れない「偽ペルソナ小劇場」は、この辺りで自然消滅した。元々が思いつきであったから、1~2カ月やったところで「満腹」したのかな、と今では思えもする。敢えて言えば、僕を含めM君NちゃんTちゃんとも「遊ぶ」道具や機会、興味は、別に色々あった時期だったし。尤もほんの暫くで、それらが実に儚い、というか失い易いものだと知るのだけれど。
12.01.22
正直、いつまでも遊ぶだけの力はある筈、と思っていた。或いは、遊びと生活の区別はついていなかった。遊びと生活。どちらも、行き着けば「楽しいもの」になると、僕は今でも信じているのだが、モードは替えないといけない。そのことは全然分からなかったもので。1992年の12月に結婚して、大学院は開店休業。なんちゃって給与生活者となり、翌年6月には長男が誕生。もちろん嬉しかったし、楽しかった。結婚式の披露宴では、下松さん演出でM君とNちゃんがパフォーマンスを披露してくれたし。
仕事にしても、当時、学業は袋小路(=自業自得)の感があったところで、新たな「自己実現」のステージに見えた(この甘い甘い認識は、ほどなく粉みじんにされるのだが)。要は、「自己実現」できるのなら、そんな気にさせてくれるのなら何でもいいや、何でも同じだわ。という、思い上がりがあったのだと思う。だから結局、ある時期の「夕べ」での活動を、僕は大事にしてこなかったんだ、という後悔がある。もっとも、客観的に手詰まりだったのなら(それは正直分からないけれど)、ほとぼりが冷めるまで暫くさようなら、というのは結果的に間違いではなかったのかもしれないけれど…。
まあ、少なくとも当時の「夕べ」に対して、僕は何の責任も果たさずに、フェードアウトしているのだ。
仮面工房の芝居は、94年の「世にも怪奇な物語2本立」がイマイチの出来で、福岡在住中はそれ以来、月光シアターへ行っていない。「少年Z!」は見てない訳で、もったいないですね。
「夕べ」では、自分の詩の方向性がつかめなくなってきた。というか「あだ花」での夕べ以来、詩作にはずいぶん自信がなくなってきているのが、自分でもわかって、結構辛い時期だった。
下松さんが当時結成した「ドグラマグラ」というバンドは、「夕べ」のフラッグシップ、とするには華がなかった。「夕べ」史的には「アジャ・クレヨンズ」「マジックブギー」と「オンゴロ」を繋ぐ、大いなる、そして残念ながら僕にとっては凡庸な、ミッシングリンクだった。
M君は私生活に波乱があり、或る日から月光シアターに現れなくなった。それから数年後、仮面工房の公演の客席で再開したきり、いまは噂も聞かない。Nちゃんは、98年以降の「夕べ」でも時たま会ったかな。彼女の消息も詳しくは知らない。NちゃんやTちゃんが仮面工房を去った正確な時期は、分からない。M君とTちゃんはほどなく別れたと聞く。この時期は、記憶も混乱している。自分の見通しの甘さもあって、騒々しさは維持されたものの、くすんだり消えていったりした、何か「大切なもの」を引き止めることもせずに、流されるまま、今思えば努力もしなかった。
院試の不合格を機に、しばらく郷里へ戻ることになった。他人事みたいな書き方だが、その位、当時の僕の主体性は疑わしいものだったと思っている(了)