ガムテープ男のガイシュツブログ

mixi日記から要外向け発信内容を転載しております。お含みおき下さい。

『私も大耳族』-「偽ペルソナ小劇場」編2

11.11.25
 もう一つ、頂いたチャンスとして、飯倉で今も健在のライブハウス=チープサイドでの’93年 仮面工房小公演がある。今の「大耳ライブ」に通じるイベントのひとつと云えよう。
 出し物は二つで、仮面本隊が1本、M君NちゃんTちゃんそして僕、のグループが1本、芝居を制作することとなった。この「図式」にめらめらと対抗心が燃え上がった!「仮面の芝居を喰ってやろう!」僕の鼻っ柱はもちろん、4人の意気は上がりきり、かなりの高揚感をもって芝居造りにとりかかった、覚えがある。 
 脚本は、僕が書いた。「烏」という題名で、絵描きと女子高生の会話劇。書いている間は、会話の面白さにしか関心が持てず(まぁ、今でもそんなだけど)「落ち」や「説得力」は、小道具や雰囲気任せ、という無茶振りも甚だしいホンを、演出そして主演するのはM君。女子高生役は、当然Tちゃん。ふだん着ている制服をそのまま衣装にしてもらった。
 練習場所は、いろいろやりくりして、当時僕がバイトしてた学校の体育館を、黙って使ったりもした。準備運動なども、仮面工房や夕べでのそれらを意識しつつ、少しでも違う処を付加しようと、そういう気持ちは4人全員にあったと思う。
 美術はNちゃん。「鏡になっている烏の絵」とか、脚本で指定しているものの、舞台での効果とかはまるで考えていない小道具作りに、精出してくれた。
 あと、チープサイドに掲示するポスターには、マジックブギーの友清君が、白土三平風の、イカシたイラストを描いてくれたっけ。
 そして本番。しかしその前後で、大学時代の友人が亡くなり、葬儀に参加するため、僕は鎌倉へ飛んだ。ここに始まる出来事は僕の人生で、恐らく一生ものの重さを持つのだが、ここでは敢えて、語らない。戻ってきたのは、公演当日の、昼過ぎだった。気持ちを切り替えなければ、と思ったが、上手くいったかどうかは分からない。芝居も、上手くいったのか失敗だったのか。印象として残ってはいない。
 一方の作品、「朝に死す」(作/清水邦夫、演出/下松勝人、出演/吉本直樹・バーバラ美ほと)は、これも会話劇。しかし、ボルグさんの芝居は地に足が着いたもので、これは当時の僕には造り出せないものだ、と強く感じた。勝ち負けを云うのなら、完敗だな、と思った。しかし、良い芝居を見たなぁ、という感激の方が強かった。アイデアや才気、感性の昂りだけでは到達できない表現がある、としみじみ感じた、夜だった。(それでも後年、全然別の縁で知り合った友人から「烏」を見た、女子高生役の娘を覚えていた、と教えて貰ったことがある。それだけで充分。やって良かったと今は思う)


 思い出のパフォーマンス・其之拾:踊るNちゃんのおっぱい。-彼女が胸をはだけた時は、驚きと「そうまでしなければならない」化も知れない『夕べ』の場の力に、しばし、伸されました。それが正しいというか、必然性ある振る舞いだったのかはとりあえず、どうでも良いのです。それだけの思い入れを持って『夕べ』に賭ける心が、確実にひとつ、在ったことが重要なのです。そして僕(ら)は皆んな、彼女の胸に突きつけられました。「そこまで裸になっているか?」と。この問いはもちろん今も続いています。


12.01.03
 今日は、はじめての自主企画「月間シアター」の頃のことなぞ。このタイトルのつけ方自体、「大耳」を体制と見立てて、ダダをこねる風だよねぇ。
 「烏」の公演後、僕は「月光シアターもっと活用されるべし」という観点から、その利用案と、受け皿となる定期イベントの提案からなる、数ページの企画書を作成した。そのイベント名が「月間シアター」。正直なところ、僕はこの企画書作ってしまった時点で、早くも悦に入ってしまい、「どうよ!」ってな調子でまたまた舞い上がっていた。倉知さんからは「これは悪文だなぁ…」と言われもしたけれど。 
 紙ッぺら以外に実体のない、この「月間シアター」。その割には、上から目線な内容で、月光シアターで練習中の、仮面の皆さまへ、格好つけて「提案」へいったものの、「まずは、自分でやってみなよ」旨、諭される始末。それでは…と第一回目の準備を始めた。
 出演は、マジック・ブギーと、想田恭子さん。特に想田さんには、出演および司会までお願いすることとなり、最初の約束以上のご負担を強いてしまいました。この場を借りて、平に御詫び申し上げます。 
 イベントに先立って、今まで足りてないのでは…、と思うことを、経験からでなく頭で考えただけで引き出したものだから、契約書の取り交わしの真似事だとか、傷害保険まで調べたり、と本筋とはあんまり関係のない部分にばかり気が行って、会場のPAについては、当日まで頭になかった、というズッコケぶり。確か、仮面の大谷氏に助けていただきました。その節は有難うございます。しかし、場合によっては想田さんの公演が不可能になりかねない、大ポカでした。。。 
 イベント自体は、下松氏出演のTVCM「カギの110番」のパロディなども交えつつ、出演者が良かったこともあり滞りなく終了した。ドラム缶をハンマーで叩き潰すマジック・ブギーには、活力が漲っていたし、想田さんの一人芝居「独り言」も彼女の語り芸と芝居のスキルがうまく調和した、舞台だったと思う。「メイデイ」はこの芝居で覚えた遭難信号だ。 
 他のイベントと差別化しようと、「打ち上げ」の類は止めよう、と思っていたが、流れでやっぱり、現地打ち上げを行った。やっぱ大事です、流れ…。
 「月間シアター」は、結局、その一回で終わった。最大の理由は、企画者である僕のモチベーションが、しゅしゅしゅーッと小さくなってしまったから。企画して、実現して、もういいや、なのだから人騒がせもいいところ。「これで終わりマース」宣言に、仮面工房の佐野氏も呆れていた。「また、やろう」という気持ちが生まれなかったのは、僕が表現者として、やろう、というものがあやふやだった為だ、と今では思う。「企画書」の薄っぺらな意気込みだけでは、自分の「内」も「外」も、動かす事は出来なかったのだ。とにかく「自分で責任持って、汗かいて、やるしかない」んだよ、と当時の僕に言ってやりたくもあるが、多分意味は分からないだろうな。何より「自分の表現」が最もわからなくなってた時期だったし


 思い出のパフォーマンス・其之拾壱:Tちゃんの「ちゃっちゃっちゃー、ちゃっちゃっちゃ、ウっ!」-こう書いても、訳が分からんですよねw まぁつまり、「弟は腕を組んで考える」「兄は足を組んで考える」「うーッ、辛抱!」
 もう一本(これ実は僕が考えたもの)「これなんですか?」「サルノコシカケです。お買い上げになりますか?」「ハッハッハ、…まさか!… …これください」「サルノコシカケですね。   …うーッ、漢方!」というような、Tちゃんによる大喜利コント。後半は悪乗りして、僕やM君、ボルグさん、マジックブギーの友清君など多くの参加で、「夕べ」の名物コーナーに成長していきました。
 Tちゃんが「君は何をするの?」と、場に突きつけられた問いへの回答なのだが、ある種の「苦し紛れ感」で出てきただろうものが、寧ろみんなの記憶に残っているという、好例だと思います。彼女ももう三十路なんだよなァー 

12.01.09
 本日は、夕べで数回発表を行った、表現ユニット「偽ペルソナ小劇場」について。「ペルソナ小劇場」とは、仮面工房の小公演ユニット名。それにあやかり、「英語名=ペルソナ・ミニシアター・レプリカ」とか言って、粋がってた。ここでも「人の褌で相撲を取る」様なネーミングセンスは変わってない。まぁ未だ変わってもいないかな…。
 メンバーは、「烏」と同じ、M君、Nちゃん、Tちゃん、それにゲストが時々。ユニット結成の切っ掛けは「夕べで、もう少し『シャン』とした出し物」を、との思いから。今考えると、「『シャン』とした」の意味するところもあいまいだが。 
 要は、台本や決め事がある、など仕切りのはっきりした表現をやりたい、やるべきだという事だったかと記憶している。それでいて、練習は殆どやった覚えがなく、夕べでのぶっつけ本番。つまりは、夕べのインプロに対して、「俺ら考えてきましたよ!!」という意思表示をしたかった、って所だろう。さて、その「偽ペルソナ小劇場」思い出すままに、公演目録を書き出してみよう。0回は、確か、脱稿したばかりの「烏」の台本を、その場でTちゃんと友清君に朗読してもらった、と思う。しかし、いきなり過ぎるっていうか、よく友清君怒らなかったなぁーw
 そして記念すべき第1回は、恐れ多くも、つげ義春の「ねじ式」。左手を押さえた、上半身裸のM君の立ち姿だけで押し切った感がある。今で言う「出オチ」ですね。
 2回目のタイトルは忘れたが、僕とM君がコタツで延々とヲタ話をしているのだが、その輪に入れないTちゃんが途中からいきなり独り芝居を始める、というもの。「舞台情報の多重発信」を意識していたかな? 
 3回目は、高橋源一郎「惑星P-13の秘密」から、ある音楽家の作品群の紹介(いま手元に原作本がないので、正確なタイトル不明)。ナレーションと、殆ど無言劇による作品。シェフ役でハンキンを起用。氏のアドリブが舞台を引き締めた。事前に練習をしたのは確かこれ一作のみだった筈で、そのせいか最も評判は良かった。
 4回目は、佐々木マキ「ぼくのデブインコちゃん」。Nちゃん主演の朗読劇だが、僕がその場の思いつきでお菓子をむさぼり食う場面を追加した。これは、後年オーホール(小倉)での「ガムテープ男の詩」にて、そっくり再演した。 
 以上、順番はかなりあやふやだし、忘れているものもあるやも知れない「偽ペルソナ小劇場」は、この辺りで自然消滅した。元々が思いつきであったから、1~2カ月やったところで「満腹」したのかな、と今では思えもする。敢えて言えば、僕を含めM君NちゃんTちゃんとも「遊ぶ」道具や機会、興味は、別に色々あった時期だったし。尤もほんの暫くで、それらが実に儚い、というか失い易いものだと知るのだけれど。


12.01.22
 正直、いつまでも遊ぶだけの力はある筈、と思っていた。或いは、遊びと生活の区別はついていなかった。遊びと生活。どちらも、行き着けば「楽しいもの」になると、僕は今でも信じているのだが、モードは替えないといけない。そのことは全然分からなかったもので。1992年の12月に結婚して、大学院は開店休業。なんちゃって給与生活者となり、翌年6月には長男が誕生。もちろん嬉しかったし、楽しかった。結婚式の披露宴では、下松さん演出でM君とNちゃんがパフォーマンスを披露してくれたし。 
 仕事にしても、当時、学業は袋小路(=自業自得)の感があったところで、新たな「自己実現」のステージに見えた(この甘い甘い認識は、ほどなく粉みじんにされるのだが)。要は、「自己実現」できるのなら、そんな気にさせてくれるのなら何でもいいや、何でも同じだわ。という、思い上がりがあったのだと思う。だから結局、ある時期の「夕べ」での活動を、僕は大事にしてこなかったんだ、という後悔がある。もっとも、客観的に手詰まりだったのなら(それは正直分からないけれど)、ほとぼりが冷めるまで暫くさようなら、というのは結果的に間違いではなかったのかもしれないけれど…。 
 まあ、少なくとも当時の「夕べ」に対して、僕は何の責任も果たさずに、フェードアウトしているのだ。 
 仮面工房の芝居は、94年の「世にも怪奇な物語2本立」がイマイチの出来で、福岡在住中はそれ以来、月光シアターへ行っていない。「少年Z!」は見てない訳で、もったいないですね。 
 「夕べ」では、自分の詩の方向性がつかめなくなってきた。というか「あだ花」での夕べ以来、詩作にはずいぶん自信がなくなってきているのが、自分でもわかって、結構辛い時期だった。 
 下松さんが当時結成した「ドグラマグラ」というバンドは、「夕べ」のフラッグシップ、とするには華がなかった。「夕べ」史的には「アジャ・クレヨンズ」「マジックブギー」と「オンゴロ」を繋ぐ、大いなる、そして残念ながら僕にとっては凡庸な、ミッシングリンクだった。 
 M君は私生活に波乱があり、或る日から月光シアターに現れなくなった。それから数年後、仮面工房の公演の客席で再開したきり、いまは噂も聞かない。Nちゃんは、98年以降の「夕べ」でも時たま会ったかな。彼女の消息も詳しくは知らない。NちゃんやTちゃんが仮面工房を去った正確な時期は、分からない。M君とTちゃんはほどなく別れたと聞く。この時期は、記憶も混乱している。自分の見通しの甘さもあって、騒々しさは維持されたものの、くすんだり消えていったりした、何か「大切なもの」を引き止めることもせずに、流されるまま、今思えば努力もしなかった。 
 院試の不合格を機に、しばらく郷里へ戻ることになった。他人事みたいな書き方だが、その位、当時の僕の主体性は疑わしいものだったと思っている(了)

『私も大耳族』-「偽ペルソナ小劇場」編1

11.10.04
 ここからは暫く、私事、というか、「夕べ」のメインストリームではない部分で、僕と、その友人が試みたり、体験したりした事を中心に語りたいと思う。このシリーズの中で、最も「資料性」に乏しい項だと思うので、僕に興味のない方は読み飛ばして頂いても、構わない。
 当時の「夕べ」参加者の中で、特に親しい付き合いがあったのは、仮面工房団員のM君、そして入団したてのNちゃん、M君と付き合っていた高校生団員、Tちゃん…。
 M君とは、芝居打ち上げでの、プロレス話を切っ掛けに意気投合した。ある晩、僕のアパートを訪れたM君と、何時間も「ファイヤープロレスリング(ヲタには忘れられない、プロレスゲームのスタンダード)」に興じ、表に出たら、M君の車はレッカー移動されてたことも。まぁ派出所目の前だったからね。もちろん、プロレス談義ばかりでなく、会えば、芝居や詩のこと、最近読んだ本や、音楽(あんまり接点なかったけど)、そして、人の悪口などで盛り上がる仲だった。
 これもある週末、何するでもなく、ふらっとドグラマグラ教室を訪れたことがある。そこには、M君に、Nちゃん、そして渡辺ハンキン浩二氏が居て、彼らが何でそこに居たのか、忘れてしまったが…そのまま、天神の飲み会に合流し、しこたま日本酒を飲んだ。さてそれが、何の飲み会だったか、今やこれも思い出せない。それから、親不孝通りの屋台へ移動したのだが、道中なぜかMOONBEAMのメンバーと会ったっけ。後に彼らがディスコで外人と喧嘩した、という話を聞いたけど、それはその夜の事だったか…? 
 屋台では(おっとこれは書けないw)まぁ何か、気持ち良くなったまま、ハンキンさんの車に乗って一同、夜を旅! 今宿だったか・・・の砂浜で、夜明けを見ながら、その時も他人の悪口話で、こってりと盛り上がった。その話の切れっぱに、何故かケイト・ブッシュの「センシュアル・ワールド」が巻きついていたのを、覚えている。何で? 
 車は一路、柳川へ。M君の母校近くで一休み後、倉地久美夫氏のご実家へお邪魔した。庭で山賊コーヒー(挽いた豆を漉さずに、そのまま湯を入れて飲む)をご馳走になった。倉地氏のお父上は画家・樺山久夫氏である。 
 樺山久夫氏の生涯については、下記サイトに詳述されている。ぜひご覧頂きたい。http://hirunohikari.com/kabayama.html 
 御会いしたのはそのときが最初で最後だが、アトリエに入れていただき、エアブラシを使った壁画の製作工程を見せていただいた。Nちゃんはその場で、絵のモデルをしないかと口説かれてたっけかな。
 福岡に帰ってきたのは昼過ぎ、僕は出掛けた時と同じ半纏姿で、天神中央郵便局前に降ろして貰った。路銀はとうに尽き、家内にSOSの電話をして、迎えに来てもらった。またまた御免よm(_ _)m 
 あの夜のこと、写真一枚くらいなら残ってるかもしれないな。


11.10.10
 「反(アンチ)」を標榜している中で、更に「反」を唱えたら、フツーになれるのだろうか? 或いは、考える、生きている領域を狭めながら、その環境と同じくらい、ささくれているしかないのだろうか? 
 M君、Nちゃん、そして僕に共通していたのは、現状への不満と、極めつけに生意気だったこと、だろうか。「夕べ」にどっぷりと浸かった僕らが、次にやったのは、「上」の人達に師事するというより、むしろ、粗を見つけては攻撃することだった。攻撃方法は、集まって悪口言い合いの時間つぶしだったり、ことさら「反面教師」に見立て、違うことをやろうとしたり、だった。 
 せっかく居場所を得たのに、何でそんなことを?素直に教えを請うた方が、得るものも多いだろうに、と今さら考えもするのだが。正直、細かい記憶は飛んでしまったけれど、当時の僕の考えを思い出し、類推するならば、それは、つまり、勝てそうな(と、こちらが勝手に思っているだけの勘違いなのだが)、構ってくれそうな大人への反抗、 
 些か卑怯な計算はあったと思う。また一方で「認めてもらいたい」という意識の裏返しでもあっただろう。結局「夕べ」以外の世間から、僕らはまるで相手にされていなかったのだ。 
 それでもM君とNちゃんは、より切実なものを負っていた。その頃の僕は、イベントや表現などについて、ああしたいこうしたいと熱っぽく語ってはいたけれど、一方それら総て気まぐれよ、と言って相違ないくらい、軽くもあった。面と向かっての論争は避けて、表向きは敵を作らない様にしてもいた。結局、自己実現できれば、表現でも仕事でも勉強でも、何だって良かったんじゃないか?僕は。
 M君、Nちゃん、そしてM君と付き合ってたTちゃんは、劇団仮面工房の団員だ。「夕べ」というあまりにも自由なワークショップと大きく重なっていたとは言え、劇団が整然とした組織・縦社会の側面を持っていたことは明らかだ。その中で彼らの様な、所謂「若手」の多くが感じるだろう違和感や軋轢について、僕はなるべく見ない様にしていた。僕らが抱いていた不満や鬱屈の共通項、だから抽象的なものに留まっていた、と思う。「抽象的」では済まない関係に、僕らは、少なくとも僕は踏み込んでいかなかった。もっとも、共有部分が抽象的なものであっても、何かできるというのが若さ、ってものかもしれないと、老いぼれた頭で思う。 
 だから、彼らと劇団との、愛憎相半ばする強い影響の火花。次の瞬間千切れ飛ぶかのような、紐帯のあり様。それは、僕が避けつつも、避けつつも、憧れる部分だった。どうは言っても、彼らは下松勝人氏の愛弟子だったのだ。では僕は… 
 「夕べ」は「仮面工房」に、好影響をもたらすと同時に、他の演劇集団ではあり得ない軋みをも与えていたように思う。M君やNちゃんの様な人々は、通常の劇団では生まれなかった(許されなかった)だろうし、或いは彼らが只の不満分子で終わらなかったのは、正に「夕べ」があったからだ、と断言できる。 
 そして僕は、「仮面工房」の存在を背後に見ながら、それとは違う立ち位置で「夕べ」に居る為の「資格」を求めていた。当時の僕には分不相応な願いというか、その考えも、その存在も軽すぎるのだけれど、そういう自意識についてだけ、当時の僕を弁護してあげたいと思う。…或る「夕べ」で、下松氏とM君が口論になった際、帰り路で下松氏とちょこさんに、くどいくらいM君を弁護したことを思い出す。口にした内容は、まったく忘れてしまったが、多分その言葉に分も理もなかったと思う。お二人とも呆れてただろうな。M君のため、というより、彼に連なる僕の領域について、否定されたくないという気持ち一つだったと、そういう覚えはある。結局それとて「抽象的」な思いではあったのだろうけれど。


 思い出のパフォーマンス・其之八:森耕の椅子落ち-夕べでは(自称)詩人として、毎回詩の朗読しておりましたが、「詩」を場になじませるのは、結構難儀で、つまり「場を作る」技芸には全く乏しかったのです。だから、朗読前のマクラで話す内容も色々考えていました。タレントやアイドルのグラビアについての話題が、多かったかな。今につながる表現はむしろそっちの方だったのでは、とも思えます(笑) 
 そして、トリの集団即興も暗中模索でした。一人プロレスは何回かやりましたが、危ないし…。そんな折「東京ミキサー計画(赤瀬川原平・パルコ出版)」を読んでいて、風倉匠氏についての一節が眼に留まりました。風倉氏の「椅子落ち」パフォーマンス(演奏会の幕間に、無断で壇上へ登り、延々椅子から落ちる。つまみ出されるまで止めない!)に、「これ、やろう!」と、その時は軽い思いつきでカヴァーしたんですが。
 まさか、2000年前後まで、椅子落ちやってるとは、思いもしませんでした。パイプ椅子を使って、自分の番が終わるまで落ち続ける僕の姿は、詩人としてのそれよりも、覚えてくれている人が多いようで、まぁ所謂フツーの詩人道(笑)を踏み越える切っ掛けだったのでしょうね。ドグラマグラ教室は天井が低く、大道具を組むためのフックがそのままにされていました。パイプ椅子を掲げると、上手く引っ掛かり、ここでの締め括り方が決まりました。天井からぶら下がった椅子をモチーフに、椿銀平氏が作った歌もあるのです。 
 さてその後、椅子落ちのオリジネイターである風倉匠氏にお会いしたこと、風倉氏の椅子落ちと僕のそれの所作が、大きく違っていたらしいこと、そして僕の表現としては、椅子落ちは封印したこと、など、語りたいことはまだまだあるのですが、それはまた、別のお話(笑) 


11.10.31
 「夕べ」からも「仮面工房」からも少々はみ出してる、と気取っていた僕らだったが、下松勝人氏からは、結構な数の「チャンス」を貰っていたと思う。比較的、大きなそれらを挙げていくと、92年(うわもう直ぐ20年だ)「あだ花」での「歌と詩の夕べ」の出演。これは、演奏がM君、詩の朗読が僕、というデュオだった。宅嶋淳(玄界灘音楽事務所を率いた、この人も福岡音楽シーンの立役者だ)、アジャ・クレヨンズと、同じ舞台に立つ、というだけで、もう舞い上がってしまい、その出来は実際、良くなかったと今でも思う。「舞台に上がること」の意味なり、注意点なりを知らないまま、練習していたのだから、失敗は必然だったのだろう。
 当日までの有頂天振りには、今思えばM君も辟易していたかも知れないな。一転して、終了後の落ち込みぶりも、痛い痛い初ステージだった。この時には、もう二つばかり事件があって、ひとつは、リハ中に、妊娠していた家内が自宅で酷い腹痛を訴えたこと。自宅と「あだ花」を往復しつつ、店主の安達さんと、仮面工房の想田さんに助けていただき、ことなきを得た。その節は、ありがとうございます。
 そして終演後、白川バンドの白川亨氏(当時は、楽曲も語調も手強い、福岡音楽シーンの御意見番、の風があった)と話をする機会があった。彼の「詩が響いてこない」旨の指摘に、僕は「いやそれはですね…」旨、しれっと言い繕おうとした。この時には、表現「してしまった」ことを、後で言い繕って修正できるとでも、僕は思っていたのだろうか。白川氏は、憮然とした表情で「口にチャックして帰れ」と言った。自分の表現について「失敗」と、「失敗」と断を下す、下される初めての体験だった。その後、お開きの後、どういう路順で帰ったものか(酒も飲んでいたので)はっきりと覚えていないが。下宿街の路上で、やり場なくこう叫んだのは確かだ。「ど畜生がッ!」


 思い出のパフォーマンス・其之九:赤穂雄三氏の踊り-当時の仮面工房で、僕から見て最も役者ずれしていない印象があったのは、赤穂さんでした。生真面目な好青年風で、いや実際そうだったのでしょうけれど、やや生硬な感じすらありましたが、公演ではその天分がよく活きた、良い芝居をされていたように覚えています。この人の真価は、集団即興の場面ではなかったか、と思っています。生硬な雰囲気は、踊りやボイスにおいて、神がかった凄味に転じ、おどろおどろしくも、下卑た感じには決してならない清涼感がありました。
 引き締まった体躯で古代神のように踊る彼は、一時期ちょこさんとのデュオがもっとも似合うパフォーマーではなかったか、と今でもほのぼの思います。

市川森一さんを偲ぶ

 市川森一さんは、同郷で、父の兄貴分。そして奥様と、僕ら夫婦の仲人を務めて頂いた。勿論ご多忙の御身であり、僕の幼少時から結婚、そして氏の最晩年まで、お会いしてお話させていただいたことは、十回にも満たなかったと、記憶する。
 僕にとっては、最后まで「遠くに居られる、偉い伯父さん」であった。ウルトラシリーズに始まる市川さんの作品に深く傾倒された皆様、そして地元の大学や地域のワークショップで直接教えを受けた皆様に比べれば、文筆家・教育者としての市川さんに、直に触れる機会を殆ど持ち得なかったことは、今更ながらとても残念ではある。
 しかし亡き祖父が、そして父が折りに触れ話してくれた「鎮西学院および、諫早寮(東京)の青春期」には、それら青春群像の「格好よさ」「粋さ」を体現するものとして、必ず市川さんのエピソードが織り込まれていた。そうした話を聞き、そうした時代に憧れを抱きながら、僕は育った。
 市川さんの作品を集中的に読んだのは、高校時代。既に重度の(今でも)ウルトラフリークだった僕は「…セブン」や「…A」で、氏が手掛けたエピソードを「これも!あれも!」と見返すところから始まり、やがて「ダウンタウン物語」「淋しいのはお前だけじゃない」「傷だらけの天使」などのシナリオ集に、夢中となった。
 「大声台詞の語尾は必ず、カタカナの小さい『ッ』(例「SRIの恥さらしだよッ!お前等は!」)」とか、「親しきもの、信頼していたものの裏切り」とか、常に捻った視点、ハッピーエンドへの疑念とか。無意識であるなしに関わらず、僕がものを書いたり、考えたりする上での、基礎教養となっている部分は、少なからずあると思う。
 昨日、市川さん危篤の報-延命治療も拒否され、ご自宅で闘病されている-旨を聞いた時に、何となく、先に述べた「僕の憧れた世代」の意地というか、矜持を見たような思いがした。驚きはしたものの、腑に落ちる処もあった。
 「いい夢、見たなァ…」「やさしさを忘れないでくれ。たとえ何百回裏切られても」「演劇は未来の悲劇を予言しなければならない」「たまらん、たまらん、たまらんぜ…」昨晩は、市川さんがものした数々の名台詞を反芻しながら、床に就いた。
 早朝に訃報が届いた。父曰く「一つの時代…『黄色い涙』の時代が、終わったんだなァ…」。僕もそう思う。それにしても-格好良いけど、早過ぎましたよ、市川さん。
 あと、(いまこういうことを言うと「創り」と思われるかもしれないが)昨朝、車を運転しながら何となく、市川さんのことが思い出された。…もうずいぶんお会いする機会は無いけれども、折りあらば、どんな話をさせていただこうかしら、と。
…最近作のこと、今や伝説となった「エースの願い」のこと、僕の今の仕事のこと、家内との闘病生活のこと、…ブースカはいつ、正式に地球へ帰ってきますか?、…小暮修さんのその後は?、ハウステンボスのアトラクション・アニメの登場人物の名前、あれは…?!

  …しばしのお別れとなりますが、光の国での再会を、心より祈念申し上げます。
                                    市川森一さまへ。森耕

『私も大耳族』-「ドグラマグラ教室の夕べ」編2

「大耳ネットワークの夕べ」極私的回顧録『私も大耳族』
-「ドグラマグラ教室の夕べ」編 2-

2011年09月15日(木)
 トリの集団即興の準備で、ドグラマグラ教室の、もうひとつの部屋から、楽器あるいはそれらしきものが集められてくる。タブラ?、大正琴、トイピアノ、その他音の出る色々なもの…。そして皆んなで、大きな人の環を作った。
 さてここで、はた、と思い至ったのだが、当時の集団即興は、現在のそれと、明確に異なる性質のものだったのではないか?これまでもちょくちょくちょく((c)細川俊之AT「ムー一族」)書いているが、「ドグラマグラ教室の夕べ」と現在の「大耳ネットワークの夕べ」-場所や時間感覚そして時代は異なるものの、雰囲気や出し物の内容など、本質的には殆ど相違がない。
 しかし、こと集団即興についてはどうだろう?その差異こそが、二つの「夕べ」を区別し、ひいてはこの20数年の「夕べ」の、目覚しい成果だったとすら言えるのではないか?!
 少なくとも、現在の「夕べ」の集団即興の妙味は、「ドグラマグラ教室…」以降に獲得されたものと言えるだろう。といって、「ドグラマグラ教室の夕べ」の集団即興が面白くなかったのか、と言われれば勿論違う。何というか、当時の「夕べ」については、一団となって何かやった、見たという印象は薄く、むしろ皆んなのソロ表現ばかりが幾つも心に蘇ってくるのが、正直なところだ。それはどういう訳だろう?ドグラマグラ教室で繰り広げられた集団即興について可能な限り思い出し書きすることで、明かしてみたいと思う。


 思い出のパフォーマンス・其之四-ボルグさんのうた:所謂イメージとして、ひと廻り歳の違う人が、ギターを爪弾いて唄う姿-ボルグさんのうたは、まさにそれ、そのものでした。
 「演劇人の歌(タイトル忘れましたm(_ _)mスミマセン)」「キリギリス」(これは「リバーサイド」でのライブのときに聴いたのですが)ジョン・レノンの「マザー」のカバー、等々 ボルグさんの人柄を感じさせるうたを、今でもふと、再た聴いてみたいと思います。懐かしい、否「懐かしさ」という意味では、当時から既に郷愁が感ぜられるうたではあったのですが、ある種、先輩世代の「ルーツ・オブ・ミュージック」!? …ボルグさんのうたが聴かれなくなった、というかそのうた声が醸す雰囲気が、匂いが薄くなった頃から、「夕べ」での寄る方が少なくなった、いわば僕らの背中に背負うべきものが増えた様な「甘えられんなぁ」という感が強くなった様な気がします。でもほんと、時には聴かせて下さいよ、ボルグさん!!


2011年09月19日(月)

 どうも、この「集団即興」については、エクスキューズ的な発言が多くなって恐縮だが、これは僕が当時、多大な関心を寄せていたのが 「集団」という部分ではなく、ソロ一人一人の力量について、だったから、だと思う。だから「集団即興」についての記憶は、他の部分に比してあやふやだ。だのに「ドグラマグラ教室の夕べ」と「大耳ネットワークの夕べ」の、それが違う、と断言するのは、かなり大幅に僕の独断と偏見、であろうことも、予め書いておく。
 また、「夕べ」を語る上で「集団即興」の何たるかは、特に重要な処だとも思うので、異論や事実関係の間違いなどがあったら、是非是非ご指摘、ご教示頂きたい。
 さて、ドグラマグラ教室いっぱいに、人の輪が作られ、誰と決めるか決めるともなしに、最初の踊り手が、輪の中心にあらわれた。そう、当時の集団即興は、めいめい手持ちの楽器(+そのようなもの)で奏でる音楽に合わせて、1人ないし2人位が順々に交代しながら踊る、というものだった。順番は、時計廻りとか、並び順が多かったと思う。
 演奏者が、部屋の上手;いわゆるステージ側に集まって行う場合もあったが、現在と比べて、一度に踊る人数は少なかったと記憶している。
 現在の様に、全員で一斉に踊り、演奏し、その混沌の様をよしとする(というか、見方を変えれば「夕べ」一流のやり方で統御されている、とも言える)風とは大きく異なっていた。と、言い切ってしまうと、いかにも整然と、面白み無い風に読まれかねないが、演奏というよりは、兎に角「音を出し続ける」という感じの周囲に、「踊り手」の印象の少ない人でも、そこにいる誰もが一回は「踊る」というルールが作り出す、現場は、現在とは違う意味で混沌として、スリリングだった。否「違う」と対立するものではないだろう。いうなれば、現在の「集団即興」が、複雑な演算を同時に繰り広げ絡み合っていくようなもの、とするならば、当時のそれは、順次足し引き算していたつもりが、いつの間にか比例級数になっているような、じわじわとした興奮を感じさせてくれるものだった、とこれまた分かりにくい例えで恐縮だけれどw
 あと、時代が降ると「ドグラマグラ…」でも、現在のそれに近い雰囲気の「集団即興」が行われた覚えはあったと思う。が、それはトリではなく、またダンサー個々の力量が際立つ、という様な、今で言う「セットもの」に近いパフォーマンスだったのかな、と思う。そして当時の僕は、繰り返すが表現者同士の比例級数的な絡み合い、にあんまり興味を持っていなかったので、記憶が薄い。今思うと、何とも勿体無い…。
 記憶の底から、当時の集団即興での印象的な「踊り」を思い出してみる。やっぱりちょこさん。そして花畑まゆこちゃん辺りが、「踊り手」っていう感じだった。まゆちゃんの方がややシアトリカルだったかしら。いや当時のちょこさんの踊り、今とどう同じだったか、もう思い出せない。バーバラ美ほと嬢、中村せい子嬢はいかにも役者さんの多芸さの一つ、っていう感じだったか。山口るみさんの踊りは正直思い出せない。観たはずなのだが。
 久松ホキトさんのそれも、記憶の彼方だが少ない動きの、渋い体裁きを観たような覚えもある。下松さんの腕は、あれは導師の動きだったな。この辺りの記憶、ちょっと「ウォーミングアップ」時の所作と混ざっているけど。
 凛とした顔で、すっくと立って、これまた少ない動きが印象深かったのは想田恭子さん。格好よかった!そして、松井義則君と渡辺ハンキン浩二氏の「馬跳び合い」には、正直「やられたゼ!」と思った。


 思い出のパフォーマンス・其之伍-想田恭子さんの即興:個人の力量の凄さ、を初めて感じたのは、この人の表現でした。軽妙な一人芝居が落語の一節に転じ、登場人物の演じ分けもカラフルに。改めて「役者」やってる人の基本スキルは半端ない、俺なんかてんで甘ちゃんだ、と打ちひしがれた…訳でもなく、感激して見てました。この人のステージをもっと見たい、と思って、若気の至りとしか言えない(必ず後述します)「月間シアター」に出演頂いたりしました(一人芝居「独り言」)。そう言えば芝居制作の裏方仕事なんかも、想田さんからずいぶん教えて頂きましたっけ。
 想田さんはその後、ボイス(所謂声による即興演奏)でも非凡な活躍を見せ、またプライベートでは、僕の家内とも親しくして頂くなど、家族ぐるみのお付き合いとなりました。最近はお変わりないですか?
 機会あったらまた、役者としての、想田さんの御姿を拝見したく。きちんと歳を重ねたが故の強さと、女性の変らない可愛らしさを表現できる、稀有な役者さんだと思っております。ご家族の皆様にもよろしくお伝え下さいませ。

2011年09月22日(木)

 僕、つまりビギナーにとって当時の「集団即興」、何と敷居が高かったことか! だって、「踊り」と結びつきそうにない人も、次々と自分の順番をこなしていくのだから。そして、それぞれの動きに「であるべき」部分、或いは僕がそれまでに習い覚えた要素というのは、まったく無い。しかも、自分の番は刻々と迫ってくる!
 詩の朗読をした時以上に、「君は何ものなのだ? 何をやるのだ?」と、厳しく問われているような気がした。だって何しろ、椿銀平氏も踊っていたのだから! ジャージに肘、膝パッドをつけて、格闘家っぽい雰囲気を醸していたっけ。・・・と思い出にふけっている場合ではない。自分の番が迫ってくる!
 何かしなければならない。何か…、と頭に閃いたのが、大学の新歓コンパで一寸受けた(?)「一人プロレス」。文字通り、一人で張り手、延髄切り、関節技、空中殺法、そしてバックドロップを放つ、といったもの。 …もう頼まれても出来ない類の芸だなぁーw(もっとも動きの一部はガムテープ男の詩にも継承されてるが)。 何だかわからないまま、高揚しっ放しの僕が、大きくブリッジした時、腰に鈍い衝撃が! 悶えるような痛みに、立つこともできず、転がり苦しむ様は、どうもアクションの一環だと思われたらしく、音楽も照明も盛り上がっていたことを、僕は忘れないwww
 この日?を境に、家内からは「夕べに行ったら何かしら怪我してくる」とぼやかれる様になった…ハハハ。


 思い出のパフォーマンス・其之六-そんな「集団即興」の中で、最も印象に残っているのは、或る日のちょこさんと、ボルグさんのデュオでした。仰向けに横たわるちょこさんの、足首を掴んだボルグさんが、その身体をゆっくりと、力強く回していく。プロレス好きの方は、仕掛けられる側が背中を地面につけた「ジャイアントスゥイング」を思い浮かべてください。
 円の動きの広がりは、二人を実際の何倍もの早さに見せていました。そして回る間中、響き渡るちょこさんの哄笑。オノヨーコもかくやと思わしめる怪鳥音…。唯、驚いていました。
 これが即興だったのか、段取りがあったのか。今ではもう分からないし、そんなことはどうでも良いのです。驚きながらも「夕べ」は、このようなものなのだ、ここまでしなければいけないのだ、と僕らは自然に学んだのです。
 恐らくは、現在の「夕べ」においても、参加する皆んなは、とてつもない体験を、自然に、学んでいるのです。もちろん今週末23日の「夕べ」だって。


2011年10月1日(土)

僕の生活の中で「夕べ」が大きな、大きな位置を占めるのに、時間はかからなかった。「ドグラマグラ教室」と「月光シアター」を拠点に、当時の福岡を「遊び歩いた」思いがある。
 期を同じくして、福岡の音楽シーンも新たな局面を見せる。「博多どんでん返し」に「能古島フリーコンサート」、「天神開放地帯」とか、本日の「ミュージックシティ天神」にもつながる、力強い試みが多くなされていた。
 こんな状況で、当時の大学生が勉強をやってる暇なんか、あるわきゃあない!…否勿論、今では反省しておりますが(学生諸氏は、僕の真似するなよ)イベントには足しげく出かけ、泥まみれ汗まみれ、時に雨に打たれて踊った、唄った。
 仮面工房や夕べの皆んなも「演劇に留まらない表現集団」として認知されつつあった。当時から既に、音楽イベントなどへの出演依頼はあったと記憶している。大耳族の活動レンジの広さは、一朝一夕ではない、と言ったところか。
 仮面工房メンバーおよびその仲間達と連れ立って参加したイベントについて、いくつか書き出してみよう。まず思い出すのは、玄界灘音楽事務所による、エンケンこと、遠藤賢司のライブ。
 845、Phi、ヒールズという、当時の福岡でも有数のバンドがオープニングアクトを務め、「もうこれでお腹いっぱいだわ」と思いきや、総てをひっくり返すようなエンケンバンドの、轟音演奏!(…時間も長かった)。
 玄音はこのライブで大借金コイたらしいけど、もう時効だよね。しかし、記憶にはいつまでも残るイベントでありました。あと、マジックブギー(vo.友清大愚〈当時は正義〉君により、最近東京で再結成されたとのこと)主催による彼らの地元、田川で挙行された「ルート201ツアー」。これも大人数で行きました。田川観光と、豪華ゲストによるライブ・・・これが、長かった!(しかも主役であるマジックブギーの演奏は珍しくイマイチ)
 翌日はウィークデーなのに、終電はとっくに終わり。食事を取る場所にも不自由し、ある店でバカ高いラーメンを食し、タクシーに分譲して、深夜の田川-福岡間を帰宅する羽目に。
 当時勤めていた上に妊娠中で、このツアーに参加した家内からは、未だにこの日の「行き当たりバッタリ」を非難されるが、それは、全く正しいです。いつでも謝る用意はあるm(_ _)mゴメンよーm(_ _)mm(_ _)m
 以上ほんの一例だが、兎も角、「夕べ」を切っ掛けにできた友人達と、騒々しい日々を楽しみ、流されてもいた、当時の僕だった。


 思い出のパフォーマンス・其之七:肝心の「夕べ」も、毎回何かストレンジなことが起こる、当時は所謂「昇り調子」だった様に思います。(もっともこれまで「下り坂」を感じたこともないけれど…「横ばい」くらいはあったかな?)
 音楽面では、アジャ・クレヨンズに、マジックブギーが、準レギュラーという感じで参加するようになったのは、大きかったですね。彼ら入魂のライブが、夕べでそれぞれ30分強!
 或る夕べでの、さんぞうさんのつぶやき「今日は下手なライブハウスより、入ってるねぇ」もむべなるかな。
 アジャ・クレヨンズについては、前章「11人の少年編」でも、そのファースト・インプレッションを書いておりますが。倉地さんだけでも、渡辺ハンキン浩二さんだけでない「アジャ・クレヨンズ」の印象といえば、僕には、あちこちのライブでのハイライトだった「やわらかい羊」。そして「NO MORE MY LORD」。ペンタグルが演奏していたことを知ったのは、ずっと後でした。突然入る日本語歌詞「…落ち着かないよ~」は、鳥肌もの。
 それから彼らのライブの折、手に入れた倉光純さんの同人誌。この辺りが一緒くたになって、フラッシュバックされてきます。
 マジックブギーを、夕べにつれてきたのはハンキンさんだった筈。「螺旋階段」を初めて聴いた時はほんとドキドキしました。その辺に居る兄ちゃんが、一瞬で「ロックスター」になる瞬間!音楽って凄い。心からそう思いましたね。
 福岡音楽史に残る名曲「やじろべえ」「ルート201」など、次々披露されるナンバーは、当時の僕にとっての、正にアンセムでした。
 所で、マジックブギーの結成メンバー、友清君と田丸圭一君(海外でミュージシャンとして活躍中、と風の噂できいた)とは、既に面識がありました。当時の福岡で「世界一強い男」たちのバンド、MoonBeamのライブ打ち上げにて、出身地の田川でウッドストックをやりたい、と熱っぽく語る好漢でした。友清君は、酔うとチ●コ出す癖があり、以降のライブ打ち上げでは、全裸でお開き、が定番となるのだが…いまもそうなのかなぁ。

『私も大耳族』-「ドグラマグラ教室の夕べ」編1

「大耳ネットワークの夕べ」極私的回顧録『私も大耳族』
-「ドグラマグラ教室の夕べ」編 1-

2011年07月19日(火)
 その集まりは「夕べ」と呼び習わされていた。確かめた事はないが、恐らくダダの「soiree」に由来するのではないだろうか?
 そして特に1990年初頭の「夕べ」は、行われていた場所に因み、「ドグラマグラ教室の夕べ」と呼ばれている。
 ドグラマグラ教室。差し障りがあるといけないので、ここでは福岡市内某所と濁しておくが、70~90年代初頭の、福岡アングラ・シーンを語る上で、欠かせない聖地の一つである。
 元々は戦前からある研究施設の一角なのだが、聞くところによると、この区域、設計書には載っていないのだとか。それ故、全施設の中では一種「治外法権」的に扱われ、様々な学生サークルの活動拠点となったという話だ。
 学生時代、先輩から聞いたことなので、真偽のほどは分からないが。また「ドグラマグラ教室」という呼び名は、当地が伝説化されていった時期、2000年代初め頃からのものだったと思う。頻繁に使用されていた90年代には、その場所を本来使っていたサークル名「音鑑」と呼ばれることが多かった。但し当時既に、音鑑は拠点を他所に移しており、そこは単なる楽器・レコード倉庫と化していた。また、部員が訪れる事もなかった。何で知ってるか、と言えば、僕もその「音鑑」の部員だったことがありまして。
 入部早々、高校時代は聴いたこともなかったキュアーや、バウハウスの曲を唄ってましたっけ…。勿論その頃には、ドグラマグラ教室のなど知る由もなく。
 もう少しばかりドグラマグラ教室の縁、についてつぶやいてみよう。大学1年の秋。部活の先輩の紹介で、テント劇団「風の旅団」の公演を手伝った時のこと。力仕事になるかな、と思いきや、殆どの作業は段取り良く片付けられていた。僕を含む手伝いの殆どは、晩飯をご馳走になりつつ、芝居を見せて頂くという、今考えても「良いのだろうか?」という厚待遇。生まれて初めて見たテント劇は、かなりの驚きだったが、数日後大学の部室に行くと、日誌には先輩(紹介してくれた人とは別)の一言「旅団は、つまらん」。僕も君も今より少しばかり、辛辣だったあの頃。
 さて、公演後、バラシも終わって、本日の宿舎で打ち上げを行うとの事。なんとなく…の流れで、大道具小道具と一緒に、乗せられたトラックの荷台は真っ暗闇。20前の学生にとっては、既に「早くお寝んね」以降の時間が始まっていた、というかさ。
 トラックから降りて、すぐ目の前の建物、その地下。窓ガラスはあるので、中から外の明かりくらいは伺える。短い廊下には10年くらい前の、コンサートや政治集会のポスターが、所狭しと貼ってあり、物々しい。「ドグラマグラ教室」との出会いだった。
 部屋には団員さんや現地手伝いの人々が、20人弱。布団が敷き詰められ、酒を酌み交わしつ夜を明かす。自己紹介を聞くと、皆さん生活者としても、表現者、運動家としても「いかつい」風。誰一人眼が笑ってない感じ?いや、単に僕がビビッてただけだろう。
 大学一回生なんて、もうガキ扱いもいいところ。虚勢を張った端から、見透かされる様で、ドキドキもんでした。その内、余興に一曲ずつ唄おうぜ、ということになり、僕は何故か「ひょっこりひょうたん島」を、皆さんの手拍子つきで。
 特に今まで残っているのは「犬のおまわりさん」の替え歌(活動家方面の皆さんには有名らしいけど)。それから、団員さんによる風の旅団・団歌。『♪名前を聞いても「黙秘します。」』『♪風の旅団の行くところ/ファシストは滅ぶ』!
 もう一つ、大学3年の時。先輩(「旅団は、つまらん」と書いた人の方)から、芝居の共同制作の話があった折、練習場所として「ドグラマグラ教室」を推し、しばらくの間使用させてもらうこととなったのは、以前書いたとおり。
 なお、借受交渉は、別の先輩に「お任せ」だったので、この時点で仮面工房と僕との面識はなかった。
 第一回目の練習では、案内役であるべき僕の到着が遅れたため、先輩に役者さんのスタッフ一行が、当時流行っていたドラクエ3よろしく、構内を一時間も捜し歩く羽目になったとか。
 あと、アンリ・ミショーが好きだと公言していたにも関わらず、その芝居に引用されていた『海』という詩について「これ、誰の詩ですか?」と、無知っぷりをさらけ出したり。劇中ユニット「サイケデリッカーズ」として員数合わせで出演するため、頭脳警察のPANTAさんを真似て、パーマかけたりとか、大学時代の馬鹿のやり納め…のようなものたったが、今やってることも全然変らず。嗚呼!


2011年08月16日(火)
指定の木曜日、僕は少し早くドグラマグラ教室を訪れた。秋晴れの、爽やかな夜だったと記憶している。星々は綺麗だったかしら。広い構内の外灯を点けたり、消したりは誰がやっていたのだろう? 窓から蒼暗い空を見ていたら、一団がやってきた。「11人の少年」参加時に習い覚えたウォーミング・アップ、それよりちょっと長く、そして発声。
 さて、本題に入る前に、一寸前置きをしておきたい。それは- 「夕べ」は、あくまで現在進行形だ、ということ。毎回末尾でつぶやいている様に、「回顧<体験。」なのだ。http://j.mp/imVLLc #ohmimi
 僕の昔話のみで納得されてもらっても困るし、知らない人が、現在の「夕べ」を知る人が、ことさら過去に憧れる必要もないと思う。  実際、僕の拙い筆致で「夕べ」なるものが過小評価されでもしたら、主宰である下松勝人氏、そして関わっている多くの人々に申し訳がない。だから、以下に記すのはあくまで、ホントあくまで僕が個人的に抱いた感想に過ぎないことを、ことさら強調しておく。「夕べ」と始めて出会ったあなたの驚きが、僕のそれに劣るということは、絶対に無いから!  その上で、現在と当時の夕べ、その形式的な、あくまで形式的な相違や、優れたパフォーマンスの思い出、なんかを列挙できればいいな、と思っている。大事な事なので、三度言おう。「回顧<体験。」


2011年08月17日(水)
「ドグラマグラ教室の夕べ」でのウォーミングアップと発声は、今で言う集団即興のような、充実感があった。これは役者として訓練されている、仮面工房の団員さんによって醸された、感じだったのかなと思う。
 そして始まり方は、今と殆ど変らない、ぼちぼち、という感じ。飲食もできたので、めいめい、つまみや酒なぞを嗜みながら・・・ 参加早々で僕の印象に残っているのは、集団即興よりもむしろソロものだった。その「印象」の理由については、後に詳しく触れるが、仮面工房の団員さんが多かったこともあり、「役者のかくし芸大全」の様な趣もあった。実際皆んな芸達者。弾き語りや落語を交えた一人芝居、そしてセットものの舞踏…とか…とか
 「即興的に出しものを発表していく場」が、あればいいな、と漠然と考えていた僕にとって(というか、表現を志す多くの人がそう思うのでは?)、その具現化としての「夕べ」へ参加できたことが、嬉しかった。そして、その空気、だれが支配するでない気安さに、安堵した。考えてみれば、当時の下松勝人氏は、現在よりも、場を「仕切って」いなかった様な気がする。
 同年代の役者・参加者も多かったし、また「時間無制限」だった事を考えれば、なるほどな、とも思うが。まぁ、参加したての僕に、下松氏を筆頭にした、先輩諸氏の「場作りの力」が読めなかっただけ、かも知れない。

 思い出のパフォーマンス・其之壱-久松祝人さんの通称「さんぞうさん」を漢字で記すと、寒蔵さん、で良かったでしょうか? さんぞうさんの弾き語りは、いつも楽しみでした。というか、ご不在の時は、一つ損したような感じがしてました。「夕べ見た夢」「あめつちがこわれた」「だりだりでぃんどん」…。楽曲自体は勿論、タイトルのセンス一つをとっても現在の僕や、夕べのある部分を、支配し続けていると思います。


2011年08月21日(日)
 さて、ドグラマグラ教室の夕べで、出しものは続き、このまま深夜まで幸福な聴き手として、心地よい時間が続くのかと思われたが。
 「夕べ」で初めて表現するにあたり、強く急き立てられたり、の覚えはない。何といわれたか、すら忘れているのだが、主旨としてはこんな感じ「君は何をやるの?」。問いかける言葉は、恐らくとても、何気ないものだっただろう。
 僕は何をやるのか? 一応、詩集配ったりしていたので(前章を参照。http://t.co/q86VDli )、「詩人」という認知はされていた筈だ。が、この「夕べ」では、「詩人が詩を読む」ということは、それほど自明の事ではなかった。
 詩を読む人がさほど居なかった、ということはある。しかし小説や戯曲の一説を朗読する人は、時々居た訳だから、「読む」という表現が知られていなかったということでは、当然ない。ただしそれは、「役者」としてのスキルを持った人による「朗読」の趣が強かった様に思う。弾き語りでなく、曲もつけず、楽器も扱わずに、「詩の朗読」という表現。見る方もやる方も、抵抗感なく受け止めるのは結構難儀なことだったのではないかと。今でもそう思う。殊に、オープンマイクや詩のボクシングなぞがなかった時代には。
 だから、僕は、その場で詩を朗読しなくても、良かったのだ。そこに居る-自分も含めて-皆んなのコンセンサスがあると思えない、詩の朗読なぞとメンドクサイことは止めて。もっと素直に踊りや、ボイスや、あるいは見よう見まねで楽器を始めたって、良かったのかもしれない。
 でも僕は、詩人を名乗り詩を読んだ。先に書いた問いに対して、勝算があった訳ではない。また、皆んなを納得せしめる内実なり、実力なりがましてある筈がない。単なるハッタリ、若さ故の、それに尽きる。その場の、何気ない手招きに対して、僕は、不自然なくらい気負って、格好付けて、臨んだのだ。その感じは、今でも覚えている。
 皆んなの前に立ち、当時心酔していたジム・モリスン、あるいはヒールズの南氏ばりに、マイクスタンドを目いっぱい伸ばし、へし折るように掴んで朗読した。自作の詩集から数篇。たしか30分くらい頂いたと思う。どれも大して長くない詩なのに、どうしてそんなに時間が必要だったのか? 無駄話や拙さを別にしたら、多分「ドグラマグラ教室の夕べには、今と違う時間の流れがあったのだ」としか言いようがない。
 彼の日の「ハッタリ」が、時、処を得たのだ。以来僕は、時にガランドウの様なそれを抱えながら、表現の謎に惑わされ続けているのだ。

 思い出のパフォーマンス・其之弐-当時の仮面工房・看板女優の一人、バーバラ・美ほと嬢が唄う知らない歌。浅川マキか中島みゆきのような、違うような歌を、数回続けて唄っていました。
 記憶も大概、朧になってますが、誰も知らない歌だったことが今で引っ掛かっています。当時を知る人で、曲名を知っている人がいらしたら、お知らせ下さいませ。・・・こんなあてのない呼び掛けって、あるでしょうか?


2011年09月05日(月)

 僕の持ち時間は、終わった。その場で表現自体の珍しさを指摘された。珍しさ、というより「違和感」じゃなかったのかな、と今では思うけれど。
 …これから話すことは寧ろ「夕べ」に来るようになって暫く、の感覚だけれど。出し物をやる上で、一番心に響いたことは、評の内容云々ではなく、代表である下松勝人氏の切り替えの早さだった。
 「ハイ、じゃあ次は誰にしようか」旨。この台詞の『早さ』にやりきれない思いを抱えたことは、一度や二度じゃなかった。表現する側としては(勝手だけど)次の人がやり辛い位、自分の気配を残していきたい、と当時は強く思っていたから。しかし、それは「夕べ」に参加する総ての人のこと、そして全体の進行を考えたら、度外れた「勘違い」! 前の表現の余韻をどこまで残すのか、消し去るのか。それを按配する下松氏の場転の妙技。今なら少しは判るつもりだが…。やりきれない思いを抱える自分も、少々誉められて嬉しがる自分も、弱くて嫌だった、あの頃。と、いうことで僕の表現では、終了直後の、下松氏の評から場転の、一連の発言を聞かないで良い形式wに向かう。のだが、それはまた別の話。
 その日の「ドグラマグラ教室の夕べ」は、いつの間にか今日を飛び越え、ぼちぼちトリとなる、集団即興の準備が始められていた。

思い出のパフォーマンス・其之参-幻想歌人・椿銀平氏の「魔女の館」初披露:彼の『アブナイ』楽曲を集め、「R-Fuctory」なるユニットで、芝居仕立てのステージをやったこともありました(何と舞踏家の山口千春嬢も共演!!)
 その中でも「魔女の館」は、余に衝撃的、でした。氏の勤務先での夜の日常(?)を思わせる寸劇から始まり、いつもながらの印象的なギターリフ、そして歌が「♪悪魔の、フェ●チオで~」に差し掛かったところで、僕の後ろに座っていた、久松ホキト氏がぽつりと一言「…凄いサビだ…!」伝説が作られる瞬間は、いつも何気ないw。

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