さて、珍しく連投いたします。
昨日のエントリーについては、方々から様々なリアクションを頂きました(特に一部では激震が走ったようで(笑))。で、つくづく思ったのは、やはり人間というのは結局中二病と高二病のどちらかに軸足を置いているようで、中二っぽい人からは中二っぽいリアクションが、高二っぽい人からは高二っぽいリアクションが得られるものだなあ、と言うことですね。
で、昨日は割とざっくり書きすぎてしまったな、という反省がありまして、今日は皆さんのリアクションに註釈的に応えることで、この問題を少し「撹拌」していこうかな、と。
では、まず@ShiraiRinoさんから
>戦前は結局、中二病高二病の不幸な結婚だった国家社会主義テロは成功せず、高二病的大政翼賛でなあなあのまま敗戦に向かった。このなあなあ体質は現在日本にも引き継がれてるのだがさて今回は…
北一輝や皇道派を「中二病高二病の不幸な結婚」とは、言い得て妙ですね。
北一輝のルーツは民権運動の流れをうけた亜細亜主義。言わば左出自の右です。手塚の『一輝まんだら』で見事に描かれていますが、若き日の北一輝は真正の中二病。三十年代に入ってからの一輝は、三井財閥から金を貰いながら恐喝屋として名を馳せることになりますが、ブラック会社のカリスマ社長に騙されて社二病に転身した元中二病の院生という感じです(笑)。
ヒトラーなんかもそうですが、世の中へのアカい怒りを溜め込んだアカい青年が、「理想の実現のためには手段は問わない!」と叫んだ時に、「僕と契約してファシストになってよ」とシロい悪魔が現れることが多かったようです。こうなると左/右というカテゴリーは無意味になってくるので、私は纏めて「ジャコバン」と呼ぶことにしております。
次に@p_moonさんから
>中二病=学生運動家→日和ると=高二病 メビウスの輪は昭和の頃から回っていたのだな
中二病/高二病問題は実は日本近代史の宿痾というべきもので、いよいよ日本がわやになったらこのテーマでドイツの大学に日本近代文化史で博論でも出してやろうかと密かに考えております(笑)。その場合の先行研究として真っ先に思い浮かぶのが以下の三つです。
山本七平 『「空気」の研究』
高田里恵子 『グロテスクな教養』
北田暁大 『嗤う日本の「ナショナリズム」』
ちなみにこの三作をぶっ続けで読むと、放射線被害がなくても日本から逃げ出したくなります(笑)。
さて、次は@chihirobelmoさんから
>ブラック社畜vsNEETの構図の正体がはっきりわかりました。護憲派vs改憲派とか経済vsエコとかいろんなとこに同じ構図がありそうですね。
さて、あーみんvsみのりんはこの構図の中でどう理解すべきでしょうか?(お約束)
今思えば、あの二人の成長と対立、そして和解には、ニッポンの未来の鍵が潜んでいるようにも思えます。『TVたっくる』とか『朝生』を観ている暇があったら、『とらドラ!』を観たほうがよっぽど生産的であります。
そして真打ち登場。@pi_888さんから
>よって逆説的ですが、中2にせよ高2にせよ、君の○2病は素晴らしいのでますますそれを頑張りなさい、というパラドキシカルな、精神療法で言うところの、症状処方作戦が効くと思うんです。
全くおっしゃる通りです。なので、私は基本的に若者の中二病と高二病に関しては「どんどんやれ」と推奨することにしております。若者をおだて、安全圏にいるうちにどんどん失敗させて、自分の小ささを思い知らせる(笑)。まあ、単に面白いから&めんどくさいから、という説もあります(笑)。
>なので社会全体がそういう逆説介入に対して許容値があると膿がでて良いんですけど、日本がこれから『貧しい国』になり余裕がなくなるとき、 ○2病はゆるさん!になると、おそらく逆にそれが増すパターンになるのかな、とか思います。
ダメージがどの程度かによるでしょうね。また、「実益」と「プライド」を分けて考えること。人間の防衛機制を常に念頭に置くことが重要かと。
まず、実益において軽微なダメージの場合。この場合、プライドはかろうじて保たれます。この時起こりうる防衛機制が「まだまだ大丈夫だ」です。かくてゼロ年代に引き続き、中二VS高二の戦いは続きます。社会はダメージを受けた上に、中二VS高二の内ゲバに苦しめられますから、日本はジリ貧で貧しくなります。
次に、実益において中程度のダメ―ジの場合。あからさまに貧しくはなるものの、何とか食っていける程度の貧しさです。現実を突き付けられ、人々のプライドは崩壊します。「これも悪くないな」という防衛機制が生じればしめたものです。余計なプライドが崩壊した人々は「○二病」を忘れます。そこから心ある人々が台頭し、日本は次のフェーズに進みます。私が想定している最良のシナリオです。
そして、実益において最高度のダメージの場合。食っていけないほどの貧しさです。この時起こりうる防衛機制は、「自分は生き残る。何故なら自分は正しいから」。こうなったらもう、ファシズムとテロリズムのガチンコ勝負、夜明けまで百年の清末コース。客家になって海外に逃げるのが賢明でしょう。
と、絶望的な気分になったところで、千葉県の主婦の方からの直メールを紹介いたします。
>新しいシステムを起動させるにも日本が終わってたら不可能。例えしがらみであってもギリギリそこを守るのが私達のやるべきことなんだよ
前半部の文章については完全に同意します。ですが、私はこの国に「しがらみ」があるわけではありません(しいて言えば母親くらいですが、あれは気丈な女だし、英語も喋れるし、英国に妹夫妻もいるしなので、問題はないでしょう)。あるいはまた、しがらみに縛られることを選ぶかどうかも、根源的には内発的意志の問題ではないか、と。
さて、今夜も「ニーバーの祈り」を唱えながら眠りにつくことにします。
昨日のエントリーについては、方々から様々なリアクションを頂きました(特に一部では激震が走ったようで(笑))。で、つくづく思ったのは、やはり人間というのは結局中二病と高二病のどちらかに軸足を置いているようで、中二っぽい人からは中二っぽいリアクションが、高二っぽい人からは高二っぽいリアクションが得られるものだなあ、と言うことですね。
で、昨日は割とざっくり書きすぎてしまったな、という反省がありまして、今日は皆さんのリアクションに註釈的に応えることで、この問題を少し「撹拌」していこうかな、と。
では、まず@ShiraiRinoさんから
>戦前は結局、中二病高二病の不幸な結婚だった国家社会主義テロは成功せず、高二病的大政翼賛でなあなあのまま敗戦に向かった。このなあなあ体質は現在日本にも引き継がれてるのだがさて今回は…
北一輝や皇道派を「中二病高二病の不幸な結婚」とは、言い得て妙ですね。
北一輝のルーツは民権運動の流れをうけた亜細亜主義。言わば左出自の右です。手塚の『一輝まんだら』で見事に描かれていますが、若き日の北一輝は真正の中二病。三十年代に入ってからの一輝は、三井財閥から金を貰いながら恐喝屋として名を馳せることになりますが、ブラック会社のカリスマ社長に騙されて社二病に転身した元中二病の院生という感じです(笑)。
ヒトラーなんかもそうですが、世の中へのアカい怒りを溜め込んだアカい青年が、「理想の実現のためには手段は問わない!」と叫んだ時に、「僕と契約してファシストになってよ」とシロい悪魔が現れることが多かったようです。こうなると左/右というカテゴリーは無意味になってくるので、私は纏めて「ジャコバン」と呼ぶことにしております。
次に@p_moonさんから
>中二病=学生運動家→日和ると=高二病 メビウスの輪は昭和の頃から回っていたのだな
中二病/高二病問題は実は日本近代史の宿痾というべきもので、いよいよ日本がわやになったらこのテーマでドイツの大学に日本近代文化史で博論でも出してやろうかと密かに考えております(笑)。その場合の先行研究として真っ先に思い浮かぶのが以下の三つです。
山本七平 『「空気」の研究』
高田里恵子 『グロテスクな教養』
北田暁大 『嗤う日本の「ナショナリズム」』
ちなみにこの三作をぶっ続けで読むと、放射線被害がなくても日本から逃げ出したくなります(笑)。
さて、次は@chihirobelmoさんから
>ブラック社畜vsNEETの構図の正体がはっきりわかりました。護憲派vs改憲派とか経済vsエコとかいろんなとこに同じ構図がありそうですね。
さて、あーみんvsみのりんはこの構図の中でどう理解すべきでしょうか?(お約束)
今思えば、あの二人の成長と対立、そして和解には、ニッポンの未来の鍵が潜んでいるようにも思えます。『TVたっくる』とか『朝生』を観ている暇があったら、『とらドラ!』を観たほうがよっぽど生産的であります。
そして真打ち登場。@pi_888さんから
>よって逆説的ですが、中2にせよ高2にせよ、君の○2病は素晴らしいのでますますそれを頑張りなさい、というパラドキシカルな、精神療法で言うところの、症状処方作戦が効くと思うんです。
全くおっしゃる通りです。なので、私は基本的に若者の中二病と高二病に関しては「どんどんやれ」と推奨することにしております。若者をおだて、安全圏にいるうちにどんどん失敗させて、自分の小ささを思い知らせる(笑)。まあ、単に面白いから&めんどくさいから、という説もあります(笑)。
>なので社会全体がそういう逆説介入に対して許容値があると膿がでて良いんですけど、日本がこれから『貧しい国』になり余裕がなくなるとき、 ○2病はゆるさん!になると、おそらく逆にそれが増すパターンになるのかな、とか思います。
ダメージがどの程度かによるでしょうね。また、「実益」と「プライド」を分けて考えること。人間の防衛機制を常に念頭に置くことが重要かと。
まず、実益において軽微なダメージの場合。この場合、プライドはかろうじて保たれます。この時起こりうる防衛機制が「まだまだ大丈夫だ」です。かくてゼロ年代に引き続き、中二VS高二の戦いは続きます。社会はダメージを受けた上に、中二VS高二の内ゲバに苦しめられますから、日本はジリ貧で貧しくなります。
次に、実益において中程度のダメ―ジの場合。あからさまに貧しくはなるものの、何とか食っていける程度の貧しさです。現実を突き付けられ、人々のプライドは崩壊します。「これも悪くないな」という防衛機制が生じればしめたものです。余計なプライドが崩壊した人々は「○二病」を忘れます。そこから心ある人々が台頭し、日本は次のフェーズに進みます。私が想定している最良のシナリオです。
そして、実益において最高度のダメージの場合。食っていけないほどの貧しさです。この時起こりうる防衛機制は、「自分は生き残る。何故なら自分は正しいから」。こうなったらもう、ファシズムとテロリズムのガチンコ勝負、夜明けまで百年の清末コース。客家になって海外に逃げるのが賢明でしょう。
と、絶望的な気分になったところで、千葉県の主婦の方からの直メールを紹介いたします。
>新しいシステムを起動させるにも日本が終わってたら不可能。例えしがらみであってもギリギリそこを守るのが私達のやるべきことなんだよ
前半部の文章については完全に同意します。ですが、私はこの国に「しがらみ」があるわけではありません(しいて言えば母親くらいですが、あれは気丈な女だし、英語も喋れるし、英国に妹夫妻もいるしなので、問題はないでしょう)。あるいはまた、しがらみに縛られることを選ぶかどうかも、根源的には内発的意志の問題ではないか、と。
さて、今夜も「ニーバーの祈り」を唱えながら眠りにつくことにします。