元々、なんとなく嫌な感じはしていた。

ただ、私は割と周囲の人間には恵まれていたし、幸いにしてあまり対人ストレスに煩わされず糧を得る仕事にも就けた。そんなわけで、とりあえず面倒くさい人たち、嫌な感じの人たちのことも「ほっときゃいいじゃん」と思っていた。

「中二病」と「高二病」の人たちのことである。

まあ、私のブログを読むような人たちは、少なくとも「中二病」というネットスラングについては既にご承知かと思うが、念のために解説を付記しおく。

中二病

また「中二病」から派生した諸々の「○二病」については以下を参照されたい。

高二病
大二病
社二病

とまあ、色々あるわけだが、ひとまず以下の分類を念頭においていただくと幸いである。

・「中二病サイド」のメンタリティー……「中二病」、「大二病」
・「高二病サイド」のメンタリティー……「高二病」、「社二病」

「中二病サイド」のメンタリティーとは、一言で言えば「世の中はクソ」である。
今までは「反抗期」とよばれていた言葉であろう、何に「反抗」するかでパターンが分岐する。例えば「クソ」である場合の「世の中」が大人である場合、「中二病」の現れ方は不良になるわけだが、それが同級生とかいわゆる三次元の女性である場合は、その現れ方は「オタク」になるのかもしれない。

次に、「高二病」だが、この言葉を知ったのはここ一年ばかりのことである。
実は『ミネルヴァと智慧の樹』が世に出た後、主人公は「高二病」だ、という評を読んで初めてこの言葉を知り、これこそ私が探していた言葉だと思った。あの話に出てくる同じく「高二病」の「先輩」のモデルは私の友人で、十年ほど前、似たような事情から自ら命を絶っている。以来、私はこの種のメンタリティーについては延々と考え続けていたのだ。

「高二病サイド」のメンタリティーとは、一言で言えば「世の中はクソだという奴はクソ」である。
彼らは一見、自分が属している環境を過剰に肯定するような言動を見せることすらある。だが、その実態はただの現状追認である。彼らは現状を好んでいるわけではない。「中二病サイド」が意識の上で現状に絶望しているとすれば、「高二病サイド」は無意識的に絶望している。だが、それに抵抗する勇気はない。それを自覚させられるのが嫌だから、また自分が嫌々甘んじている現状に甘んじようとしないことが許せないから、「中二病サイド」の人間を過剰に、あるいは真綿で首を絞めるようにやんわりと、攻撃するのである。そして「中二病サイド」の人間もまた、彼らを毛嫌いする。

さて、こうなると、世の人々は多かれ少なかれ「中二病サイド」か「高二病サイド」に属する。さらに言えば、人々はこの両サイドを行き来することも多い。

たとえばこんな人はいないだろうか? 高校の時は本ばかり読んで「リア充爆発しろ」と言っていた男子が、大学デビュー後急にセックスの素晴らしさについて語りだし、「プライドばかり肥大して現実を知らない奴は駄目だ」と連呼する。これは「中二病サイド」から「高二病サイド」への移行だ。

また、こんな人はいないだろうか? 入社してすぐの頃はTwitterに「忙しさ自慢」を書き連ねていた女子が、入社三年目に急に会社の愚痴が多くなり、「自分探し」のためにスピリチュアルなセミナーに通うようになる。これは「高二病サイド」から「中二病サイド」への移行である。

「中二病」も「高二病」も、根底に同じ心情がある。現実への(意識的/無意識的)絶望とそこに端を発する不安、関わらず自分は優れた存在でありたいという欲望、そして、それを裏付けるための互いに対する攻撃性だ。「高二病サイド」は「中二病サイド」に比べ、自分が「大人」であることを意識する。だが、彼らは決して成熟などしていない。精神構造は同じまま、ベクトルが真逆になっただけなのだ。

こうした全ての言動をあらわす便利な言葉に「痛い」というものがある。この感覚は私も非常によくわかるし、痛覚に敏感であることは重要だと思う。「中二病」も「高二病」も、自分やお仲間の「痛さ」をシャットダウンしつつ、「敵」の「痛さ」は過剰なまでに攻撃することが多い。周りの人間の「痛さ」を感じつつ、これを赦す包容力こそが重要なのだ。

とはいえ、「痛さ」に晒されるのは消耗する。なので適当にあしらいつつ相手をすることにしている。また、限度量を超える「痛さ」の持ち主に関しては、なるべく関わり合いになりたくないので「勝手にやってくれ」というのが私のスタンスである。いちいち彼らを攻撃しても仕方がない。

なのだが、一つ大きな問題がある。「中二病」や「高二病」の人たちが構成する社会というのは、あまりろくなものではない。「中二病」の人は文句ばかり言って働かないし、「高二病」の人たちの現状追認を利用してブラック企業が跳梁跋扈する。

とはいえ、歯車はギイギイ軋音を立てながらも回っており、まあ日本という国が持っているリソースからすれば、こんなポンコツの機械でも何とかなるだろう、と高を括っていた。

ところが、だ。

今更説明をすることもないだろう。我々は突如として楽園を追われることになった。そしてこの破局の背景には、確かに煩わしいが「すぐさま影響の出るレベルではない」と私が高を括っていた「中二病」、「高二病」問題が大きな翳を落としている。

私は歴史学畑の人間なので、院生時代には業界柄「活動家」的な人種と遭遇することもあった。どうにもとっつきにくく、お世辞にもコミュニケーション力が高いとは言えない人が多かった。確かにこの数十年、国家だか社会だかが彼らを封じ込めてきたことの影響もあろう。いじめられっ子は確かにいじめによって性格がねじ曲がるといったことも否めない。だが、ここは「誰が悪いか」を語る場ではない。人が誰かに耳を傾ける理由は、話の内容よりも人柄に左右される部分が大きい。いい歳をした「中二病」の彼らが「反原発」について語りだしたとしても、すすんで話を聞こうという人はどれほどいるだろうか?

そして「高二病」問題については、今となっては皆さんのほうがお分かりだろう。「現実厨」、「煽るな厨」……空気を読むことを過剰に気にし、楽観論を信じ込もうとする人々の病名は、まごうことなき「高二病」だ。

で、この後私は二つのシナリオを想定している。
一つは「中二病」と「高二病」を量産してきた日本社会のシステムが完全にぶっ壊れ、「中二病」と「高二病」のメビウスの輪を脱した「大人」の国として生まれ変わるというものだ。つまり「中二病」の理想主義者が強かな穏健さを身に付け、「高二病」の現実主義者が温かな寛容さを身に付ける。少なくとも私のタイムライン上には、こうした人々は確かに存在する――ただしそのためには、日本社会が失うリソースの度合いが壊滅的ではないこと、そして諸々の政治的なボタンのかけ違いが起きないことが必須の条件となろう。

しかしリソースの損失度合があまりにも深刻だった場合、あるいはそれに連動するボタンのかけ違いとして浮上するのがやはり「中二病」と「高二病」の問題である。「中二病」の最悪形態はテロリズムであり、「高二病」の最悪形態はファシズムだ。この国は全てのリソースを失いながらも、システムだけは壊れかけのまま残存し、テロリズムとファシズムの相争う場となる――それは必ずしも銃弾が飛び交うことを意味しない。より精神的な戦闘が繰り広げられるはずだ――そうなったら夜明けは遠い。だが、それが私が想定する第二のシナリオであり、その可能性は結構高い。

私は第一のシナリオを期待し、自分のできる限りのことをやっていきたいとは思っている。だが、私一人に出来ることは限られている。第二のシナリオが現実化した場合のことは、その時にまた話すだろう。