今日は仕事があって、単身赴任地に戻らねばならない。
薄暗い中、散歩して盛岡を出発。
途中の峠越えは雪もなくほとんど快適。ただ、外山ダムの立ち入り禁止区域の氷上ワカサギ釣りのテントが増殖中。それは自己責任だが事故の責任も負うことですな~。
それと本来、遊漁を想定していない場所なので駐車スペースが足りないわけで、路駐の白いワンボックスが非常識な停めかたをしている。緩いカーブはみ出して停めているので、すれ違いができず、対向車を待たなければならない。おまけにそういうとここそ日陰で道路も凍っている。
自分は最近こそほとんど釣りしていないが、釣りをこよなく愛してきた。でも、ゴミを捨てたり、場所取りをめぐって争ったり、こんな停め方をしたりという「自分さえよければ」っていう輩が大嫌い!
隣の岩洞湖は完全に結氷したようだが、氷への水のにじみ方を見るとまだ薄いようだ。
仕事はお昼過ぎに終わってしまった。中途半端な仕事だ…。
アパートに帰ると、こんなにちっぽけな日だまりに体をはめ込んでうたた寝しているチャコ。
ドライブにでも連れて行こうか~。
この頃チャコはフロアも活用するようになった。
今日は先週よりもさらに北へ。野田村、久慈方面に行ってみることにする。
野田村には今から10年ほど前まで6年間住んでいたのだ。
R45を北進していくと下安家の鉄橋に三陸鉄道北リアス線の車両が停車していたのでクルマを停めてパシャッ!
青い方の車両は「あまちゃん」のイラストが入っていた。三鉄はこういうふうに景色のいいところで列車を停めて景色を見せながらアナウンスしたりする。お座敷列車や炬燵列車などなどいろいろ集客に工夫している。
それにこの線路。新幹線並みの高規格のレールでつなぎ目も少なく振動も少ないんだそうだ。
さらに北進して野田村の十府ヶ浦海岸を眺める。
この海岸はいきなり深くなってしまうため海水浴場としては適さないが、以前は砂祭りというイベントがあり砂の像が展示されたりしていた。娘sumiが4歳になったばかりにこの村を引っ越したが、ヨチヨチ歩きのsumiとこの海岸を歩いたのも懐かしい思い出だ。
奥に青いシートが見えるあそこら一帯はドライブインや食堂やらが建ち並んでいたのだが東日本大震災で全て失われてしまった。
それだけでなくR45をはさんだ左側の村の中心部も海に流入している小河川沿いに大きな被害を被った。村の秋祭りで山車が通って賑わった通りは更地となって造成中。早く復興を果たしてほしい。
さて、ここは三陸鉄道野田駅。野田駅は道の駅も兼ねている。
チャコのバックの像は「野田の赤ベコ」
かつて北三陸は、製塩と製鉄が盛んだった。塩は塩田ではなく直煮製法といって釜で煮て作る方法だ。
作った塩や鉄、海産物は、牛の背に載せられ、牛方が内陸に運んでいった。盛岡までのルートは、早坂高原を越えるルートや平庭高原を越えるルートがあり、後世「塩の道」と呼ばれた。牛方は牛の隊列を操りながら難所の峠を越えて進んでいった。その際に生まれたのが「南部牛追い歌」だ。
牛方たちは盛岡を越え秋田まで荷を運んだらしい。
いつかテレビを見ていたら米沢牛のステーキの特集番組をやっていたが、米沢牛のルーツがこの塩の道を通った牛たちだということだ。
というのも牛方たち米沢までも荷を運んで旅をしたらしいが、荷を運んだあと、空荷の牛を連れて戻るのではなく、牛も売りさばいて帰ってきたのだそうだ。
で、道の駅で買ったのが名物の「野田塩ソフト」
甘さの中にほどよい塩味がアクセント。癖になるソフトなのだ。チャコがもの欲しそうにしている姿が映っているが少しは分けてあげた。
この野田塩は昔ながらの製法を復活させて生産しているグループがあり、町興しに一役かっている。
次に訪れたのは久慈港。
なんでっていうと、チャコのCCタイムをかねて、かつて船に乗って釣りをしていたときの船が出漁中かどうか見てきたかったということなのだ。
船は今日は出漁しなかったのか停泊中だった。
これから鱈がばんばん釣れるシーズンだ。釣れるときには甲板が足の踏み場もないほどになるんだけど、海も荒れる日が多いから、出漁できる日に予約を入れられるかがポイントだ。
この船のキャプテンには随分世話になったので、東日本大震災のあと無事かどうか知りたくてメールをした。
キャプテンは、揺れを感じたあと大急ぎで外海に船を出したのだ。そして一晩海上の船で過ごしたという。
次第に光が陰るのを感じながら帰路につく。
懐かしさと、震災のまだ癒えぬ傷跡と、etc…
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薄暗い中、散歩して盛岡を出発。
途中の峠越えは雪もなくほとんど快適。ただ、外山ダムの立ち入り禁止区域の氷上ワカサギ釣りのテントが増殖中。それは自己責任だが事故の責任も負うことですな~。
それと本来、遊漁を想定していない場所なので駐車スペースが足りないわけで、路駐の白いワンボックスが非常識な停めかたをしている。緩いカーブはみ出して停めているので、すれ違いができず、対向車を待たなければならない。おまけにそういうとここそ日陰で道路も凍っている。
自分は最近こそほとんど釣りしていないが、釣りをこよなく愛してきた。でも、ゴミを捨てたり、場所取りをめぐって争ったり、こんな停め方をしたりという「自分さえよければ」っていう輩が大嫌い!
隣の岩洞湖は完全に結氷したようだが、氷への水のにじみ方を見るとまだ薄いようだ。
仕事はお昼過ぎに終わってしまった。中途半端な仕事だ…。
アパートに帰ると、こんなにちっぽけな日だまりに体をはめ込んでうたた寝しているチャコ。
ドライブにでも連れて行こうか~。
この頃チャコはフロアも活用するようになった。
今日は先週よりもさらに北へ。野田村、久慈方面に行ってみることにする。
野田村には今から10年ほど前まで6年間住んでいたのだ。
R45を北進していくと下安家の鉄橋に三陸鉄道北リアス線の車両が停車していたのでクルマを停めてパシャッ!
青い方の車両は「あまちゃん」のイラストが入っていた。三鉄はこういうふうに景色のいいところで列車を停めて景色を見せながらアナウンスしたりする。お座敷列車や炬燵列車などなどいろいろ集客に工夫している。
それにこの線路。新幹線並みの高規格のレールでつなぎ目も少なく振動も少ないんだそうだ。
さらに北進して野田村の十府ヶ浦海岸を眺める。
この海岸はいきなり深くなってしまうため海水浴場としては適さないが、以前は砂祭りというイベントがあり砂の像が展示されたりしていた。娘sumiが4歳になったばかりにこの村を引っ越したが、ヨチヨチ歩きのsumiとこの海岸を歩いたのも懐かしい思い出だ。
奥に青いシートが見えるあそこら一帯はドライブインや食堂やらが建ち並んでいたのだが東日本大震災で全て失われてしまった。
それだけでなくR45をはさんだ左側の村の中心部も海に流入している小河川沿いに大きな被害を被った。村の秋祭りで山車が通って賑わった通りは更地となって造成中。早く復興を果たしてほしい。
さて、ここは三陸鉄道野田駅。野田駅は道の駅も兼ねている。
チャコのバックの像は「野田の赤ベコ」
かつて北三陸は、製塩と製鉄が盛んだった。塩は塩田ではなく直煮製法といって釜で煮て作る方法だ。
作った塩や鉄、海産物は、牛の背に載せられ、牛方が内陸に運んでいった。盛岡までのルートは、早坂高原を越えるルートや平庭高原を越えるルートがあり、後世「塩の道」と呼ばれた。牛方は牛の隊列を操りながら難所の峠を越えて進んでいった。その際に生まれたのが「南部牛追い歌」だ。
牛方たちは盛岡を越え秋田まで荷を運んだらしい。
いつかテレビを見ていたら米沢牛のステーキの特集番組をやっていたが、米沢牛のルーツがこの塩の道を通った牛たちだということだ。
というのも牛方たち米沢までも荷を運んで旅をしたらしいが、荷を運んだあと、空荷の牛を連れて戻るのではなく、牛も売りさばいて帰ってきたのだそうだ。
で、道の駅で買ったのが名物の「野田塩ソフト」
甘さの中にほどよい塩味がアクセント。癖になるソフトなのだ。チャコがもの欲しそうにしている姿が映っているが少しは分けてあげた。
この野田塩は昔ながらの製法を復活させて生産しているグループがあり、町興しに一役かっている。
次に訪れたのは久慈港。
なんでっていうと、チャコのCCタイムをかねて、かつて船に乗って釣りをしていたときの船が出漁中かどうか見てきたかったということなのだ。
船は今日は出漁しなかったのか停泊中だった。
これから鱈がばんばん釣れるシーズンだ。釣れるときには甲板が足の踏み場もないほどになるんだけど、海も荒れる日が多いから、出漁できる日に予約を入れられるかがポイントだ。
この船のキャプテンには随分世話になったので、東日本大震災のあと無事かどうか知りたくてメールをした。
キャプテンは、揺れを感じたあと大急ぎで外海に船を出したのだ。そして一晩海上の船で過ごしたという。
次第に光が陰るのを感じながら帰路につく。
懐かしさと、震災のまだ癒えぬ傷跡と、etc…
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