フランス革命直前には、ルソーの影響がきわめて強くなる。ルソーは王政に反対するどころか、ディドロら啓蒙主義者の愛したサロン文化までも強烈にこき下ろす。それは、ルソー本人がサロンのサークルに入れてもらえなかったからという個人的な恨みも作用しているのであるが、文化や文明そのものを桎梏として喝破したところにルソーの炯眼があった。
精神は肉体と同じように、その欲求をもっている。肉体の欲求は社会の基礎となり、精神のそれは社会の装飾となる。政治と法律とが集合した人々の安全と幸福とに備えるのに対して、それほど圧制的ではない、しかしおそらくいっそう力強い学問、文芸、芸術は、人々がつながれている鉄鎖の上に花飾りをひろげ、彼らがそのためにこそ生まれたと思われるあの根元的自由の感情を押し殺し、彼らにその奴隷状態を好ませ、彼らをもって文明国民と称せられるものを作りあげる。(『学問・芸術論』)
ルソーの読者の多くはルソーの文化批判を継承して、しかしルソー自身とは異なったありかたで、プリミティヴへの回帰を考えていった。ルソー本人は自然状態とは、たんに動物の状態であって、善い状態でも悪い状態でもないと言うにとどめていた。しかし、彼の追随者たちはプリミティヴであることそのものを讃美するようになる。そして、プリミティヴな法に従うことこそ理想社会の現出には必要不可欠だという向きへと傾倒していく。というのも、18世紀には啓蒙主義の機械論的な、あるいは唯物論的なプリミティヴィズムが主流であったからだ。その特徴を『観念の歴史』の著者ラヴジョイは9つの要素によって説明している。
[1]画一主義:理性は万人において同一のものであり、したがって合理的生き方というものが人によって違うはずがない。人と違う意見や好みをもっていることは間違っている証拠であり、万人に妥当することが真理の証である。啓蒙時代において自然とはまず画一性として用いられた。
[2]合理主義的個人主義:すべての個人は合理的存在であるから基本的に類似しており、また、すべての個人の中に画一的に見られる要素だけが唯一重要な要素である。すべての人間の内部に同じように輝く「純然たる自然の光=理性」に導かれて、真理は一人一人の個人において独力で手に入れられる。
[3]一般的同意に訴えること:自然の摂理に従っていることは全人類共通の事実であるはずだから、全人類始まって以来事実上共通にもっていた信仰と価値観を受け入れているなら、自然に適っていることから外れることはない。
[4]コスモポリタニズム:人種差別や民族主義はいかなるものであれ軽蔑と非難の対象である。自然と民族=国民とは対立する概念となる。
[5]「狂信」および独創への反感:個人の天才は否定される。人類に資する人材がなすことは、人類にまったく新しい知識を公布することではなく、人間の頭からあらゆる「偏見」を放逐し、人類が太古の昔から分かっていた核心的で単純な真実に人間の精神を固着させることである。
[6]知的平等主義:自然の光が普遍的で、自然の光が与える知識だけが正しい知識ならば、凡庸な人々の理解力を超えるようなことは有効でもなければ、少なくとも必要な信条ではない。ごく僅かな人々が理解したと自慢したがるような事柄はその他の人々には役に立たないものである。
[7]合理主義的反知性主義:人間が本当に知る必要がある事柄すべては万人の手が届くところにあり、その正しさを確証できるものである。常人の理解を超える深遠な問題に対する微に入り細に穿った煩瑣な理論は確実に不要であり、おそらくは真理ではないであろう。
[8]合理主義的原始主義:理性または自然に備わった真理は普遍的であるから、太古のもっとも無知な人々にも知られていたし、そうであれば彼らにこそ人間本来の普遍性や画一性の典型があったに違いない。
[9]否定的歴史観:画一的規範になるものは当然普遍の規範でなければならない。そして時代が下るに従って発生した信念、文化、制度の変化は、「進歩」ではなく、劣悪なものへの変化であった。
