2005年08月04日

2-1-3: 緊縛の美学〜ルソー、サド、カント 1

フランス革命直前には、ルソーの影響がきわめて強くなる。ルソーは王政に反対するどころか、ディドロら啓蒙主義者の愛したサロン文化までも強烈にこき下ろす。それは、ルソー本人がサロンのサークルに入れてもらえなかったからという個人的な恨みも作用しているのであるが、文化や文明そのものを桎梏として喝破したところにルソーの炯眼があった。

精神は肉体と同じように、その欲求をもっている。肉体の欲求は社会の基礎となり、精神のそれは社会の装飾となる。政治と法律とが集合した人々の安全と幸福とに備えるのに対して、それほど圧制的ではない、しかしおそらくいっそう力強い学問、文芸、芸術は、人々がつながれている鉄鎖の上に花飾りをひろげ、彼らがそのためにこそ生まれたと思われるあの根元的自由の感情を押し殺し、彼らにその奴隷状態を好ませ、彼らをもって文明国民と称せられるものを作りあげる。(『学問・芸術論』)

 ルソーの読者の多くはルソーの文化批判を継承して、しかしルソー自身とは異なったありかたで、プリミティヴへの回帰を考えていった。ルソー本人は自然状態とは、たんに動物の状態であって、善い状態でも悪い状態でもないと言うにとどめていた。しかし、彼の追随者たちはプリミティヴであることそのものを讃美するようになる。そして、プリミティヴな法に従うことこそ理想社会の現出には必要不可欠だという向きへと傾倒していく。というのも、18世紀には啓蒙主義の機械論的な、あるいは唯物論的なプリミティヴィズムが主流であったからだ。その特徴を『観念の歴史』の著者ラヴジョイは9つの要素によって説明している。
[1]画一主義:理性は万人において同一のものであり、したがって合理的生き方というものが人によって違うはずがない。人と違う意見や好みをもっていることは間違っている証拠であり、万人に妥当することが真理の証である。啓蒙時代において自然とはまず画一性として用いられた。
[2]合理主義的個人主義:すべての個人は合理的存在であるから基本的に類似しており、また、すべての個人の中に画一的に見られる要素だけが唯一重要な要素である。すべての人間の内部に同じように輝く「純然たる自然の光=理性」に導かれて、真理は一人一人の個人において独力で手に入れられる。
[3]一般的同意に訴えること:自然の摂理に従っていることは全人類共通の事実であるはずだから、全人類始まって以来事実上共通にもっていた信仰と価値観を受け入れているなら、自然に適っていることから外れることはない。
[4]コスモポリタニズム:人種差別や民族主義はいかなるものであれ軽蔑と非難の対象である。自然と民族=国民とは対立する概念となる。
[5]「狂信」および独創への反感:個人の天才は否定される。人類に資する人材がなすことは、人類にまったく新しい知識を公布することではなく、人間の頭からあらゆる「偏見」を放逐し、人類が太古の昔から分かっていた核心的で単純な真実に人間の精神を固着させることである。
[6]知的平等主義:自然の光が普遍的で、自然の光が与える知識だけが正しい知識ならば、凡庸な人々の理解力を超えるようなことは有効でもなければ、少なくとも必要な信条ではない。ごく僅かな人々が理解したと自慢したがるような事柄はその他の人々には役に立たないものである。
[7]合理主義的反知性主義:人間が本当に知る必要がある事柄すべては万人の手が届くところにあり、その正しさを確証できるものである。常人の理解を超える深遠な問題に対する微に入り細に穿った煩瑣な理論は確実に不要であり、おそらくは真理ではないであろう。
[8]合理主義的原始主義:理性または自然に備わった真理は普遍的であるから、太古のもっとも無知な人々にも知られていたし、そうであれば彼らにこそ人間本来の普遍性や画一性の典型があったに違いない。
[9]否定的歴史観:画一的規範になるものは当然普遍の規範でなければならない。そして時代が下るに従って発生した信念、文化、制度の変化は、「進歩」ではなく、劣悪なものへの変化であった。

これらの姿勢はルソーの注意深い姿勢とは、まったく異なるものだというほかない。しかし、ルソーの著作にはそのように読まれてしまう箇所が存在することもたしかである。ルソーが立法と国家の礎に据えた「一般意志」とは、容易に純粋さと単純さ、画一性という全体への統合に転がり込んでしまう危うさをもっている。「一般意志」をプリミティヴなる唯一の法の根源と見なすこともできるのだ。

われわれのだれもが自分の身体とあらゆる力を共同にして、一般意志の最高の指揮のもとにおく。そうしてわれわれは、政治体をなすかぎり、各構成員を全体の不可分の部分として受け入れる。(『社会契約論』)

 このようなルソーの記述は、啓蒙主義者達の奉ずるプリミティヴィズムと親和する。実際、理想の法を説く際のルソーは、ニュートン的な理法を奉ずる啓蒙主義者に近いものがある。なるほど、世界の万象ことごとく、重力の法則に逆らって動くことなどできはしない。であるのなら、その法則に逆らわず、力を抜いて従うことこそ、自由闊達に動き回ることの奥義にちがいない。自由とは、法に逆らうことではなくて、自然の唯一なる法に従うことであるのだ。

思考スキーム:ルソーの呪縛

 ルソーにとって自由とは、正しき法を選び、その法に服従することにちがいない。ルソーのこの態度を徹底したのはカントであった。

最も一般的な意味での自然とは法則に従う事物の存在のことである。理性的な存在者の感性的自然とは経験的に制約された法則に従うその存在のことであり、したがって、理性にとっては他律である。これに反し、同一の理性的存在者の超感性的自然はすべての感性的制約から独立な法則に従うその存在である。したがって、純粋理性の自律に所属する。そして事物の存在を認識に依存させるこの法則は実践的であるから、超感性的自然は、われわれがこれについて或る概念を持ち得る限り、純粋実践理性の自律に従う自然にほかならない。(『実践理性批判』)

 カントにとって、自然とは法則に従うことにほかならない。この世界に現れる万象はすべて力学の法則に従うのであって、それから逸脱することはありえない。そして、人間の精神を司る領域にも超感性的な法則があるのであって、人間の精神もまたその法則に従うことこそ唯一の自然なのである。そして、その精神の法則こそ、「実践理性」すなわち「道徳律」である。

事実、道徳律は自由による因果の法則であり、したがって超感性的自然を可能にする法則である。(『実践理性批判』)

 カントは道徳律を「自由による因果の法則」と呼んでいる。つまり、道徳律とは、物を高いところに掴みあげて手を離せば落ちるという力学的な因果法則と同様に自明な法則であると考えているのだ。そして、その自然に従うことこそ、まさしく「自由」である。

理性の原理は、欲求能力の可能な対象を考えに入れないで、すでにそれ自身で意志を規定する根拠であると考えられる。したがって、その原理は、ア・プリオリな実践的法則であり、純粋理性はそれ自身で実践的であると認められる。その場合、法則は直接意志を規定し、意志に従う行為はそれ自体に善であり、自分の格率をいつもこの法則に従わせる意志は絶対に、あらゆる点で善であり、すべての善の最高の制約である。(『実践理性批判』)

 カントにとって人間のなすべきこととは、かの自由の法則、自然の法則、道徳律に悖ることのない格律を自ら立てて自らに課し、それから逸れることのない生活を営むことである。その法則は、まさしく超越的なものであって、自らの恣意によって立てられてよいものではない。つまり、普遍的なものでなければならない。このように、法則に服従することが、最大の自由であるのだ。カント自身の言葉を引けば、「なんじの意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行え」ということになる。


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