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迷える者の禅修行 ドイツ人住職が見た日本仏教

著者 ネルケ無方

出版 新潮社

 ネルケ無方師は、ドイツ出身の禅僧で、現在は京都にある安泰寺の住職を務められている。外国人であるがゆえに注目の的となり、仏教界では有名人といえるだろう。著書もすでに数冊あるようだ。今回の本は「ドイツ人住職が見た日本仏教」という副題にひかれて手にとった。

 パラパラとページをめくり、ななめ読みをすると、仏教に関心を持つことになった経緯やら来日して現在に至るまでの経過が記されていて、これがすこぶるスリリングで面白い。どこに緊迫感があるかといえば、寺院が持ついわゆる前近代的な不合理なシステムから生じるあまりの理不尽さに対して、いわゆる文化的衝突のようなことが起きるのではと、手に汗を握るような場面があるからだ。

 それにくわえて日本人は、なんだかんだいって外人が大好きである。そこには抜きがたいコンプレックスと自分とは違う存在。まさにエイリアンのよう、ないしはまるでパンダなどの珍しい動物であるかのごとく接している。この感覚は抜きがたく日本人の心性にしみついたものであり、実際的にも同じ人間でありながら、よって立つ基盤、構造自体が異なるように思えるのだ。 この本を読んでも、それは感じられるし、著者自身もドイツ人と日本人の在り方の違いについてふれている。

 これは面白そうということで、食いつくようにじっくり読んでみた。すると、この本は異国人が、仏教という特殊な世界に身を置くことになった顛末を好奇心をかきたてるように描きだすような興味本位一色のものでなく、とんでもない重大問題をさりげなく提議した異色の本であることに、途中から気づかされた。

 外人ゆえのことか(すべて御本人が書かれているのか、不明だが、もし、そうなら、その日本語力はすごい!)、なにげなく流れるように進んで行く文章の中に、日本の仏教界が抱えている悲惨な病根が赤裸々にされていて、すっかりそれに驚かされてしまった。いわゆる日本人の持つ「ほんねとたてまえ」そこから生じる摩擦が産み出す茶番のような悲劇。その意味においては、この本は日本論的な意味合いを持っているといえなくもない。

 著者は意図的なのか、そうでないのか、そのことに関しては、一言もふれていないのだが、まさに人生は「苦」なりという仏教の根本テーゼ。それが、とても明快に表面に現れている。また、それを産み出す恐るべき人の性根のすさまじさ。それに背筋が寒くなる。これを読むと、イジメ問題が日常茶飯のように起きて、オウムのような宗教怪物が現れたことがわかるような気がしてくる。しかも、それはまれなことではなく、その辺にころがっている日常の中からでも産まれる可能性があるのだ。


 ひるがえっていえば、日本の大乗仏教界はこれを必読の書として、すべての僧侶が読んで猛省すべきなのではないだろうか。そのくらい、大乗仏教の現場(すべてとはいえない。あくまでも一部のことであると信じたい)は腐敗しきっていることを、この本は静かに告発する。

 うわさのようなものとしては、ちらほらとは以前から聞こえてはいた。門の向こう側で、信じがたいような狂気、乱痴気騒ぎ? が平然と行われているらしいとの話は・・・・・。過去には、僧侶同士が酒を飲んでケンカして、あげくの果てに殺人事件まで起きたことも知ってはいたが、それは特殊なことであると思っていた。それが・・・。ここまでひどいとは・・・。開いた口がふさがらないとは、このことか。

 前半部の安泰寺において、初めて修行をする場面はまだ苦笑しながら読むすすめることができた。そんなこともあるだろうなという、ある程度は想定内の出来事であった。それが、後半になって、著者がまるで武者修行のように違う寺に飛び込んでからのことは、読む手としても平然としてはいられないようなことが、書きこまれている。それは、御本人も記しているが、まさに地獄同然の阿鼻叫喚図。

それを当事者たちは「修行」という美名のもとに、おのずからまるで歓喜にみちたかのように実行しているのだ。これぞ、まさにドエスの世界というのか。


 そこにはありとあらゆるいじめがある。言葉によるいじめ、木の棒を使い(警策というやつだ)、血が出るまで殴りつける肉体的暴力、胃腸がこわれるまで行われる強要、人権なんて完全無視、オウム同然に殺人さえも肯定するかのような暴言、ここに書きつづけることさえ、はばかれるような人間のみにくさが延々とつづられていく。

 その反面、夜に寺院を抜け出して、歓楽街で遊びふける行状。そこにはもはや戒もなにもあったものではない。まさに「ほんねとたてまえ」が横行しての無法地帯。

 仏教の中に、地獄に行く人間は自分から、そこを希望して赴いてゆくのだという考え方があるようだが、まさにそれである。自分たちで、本来は聖なる修行道場を地獄におとしめて、それに気づくこともなく喜々としている。その所業に愕然としてしまう。もちろん、すべての僧侶がそうであるというわけではないだろう。尊敬すべき人格を備えている高潔な方も存在する。しかしである。この寺院にも、老師といわれるような方が存在しているようなのだが、その人も堕落しきった一部の行状、それをなにも知らないのだろうか? まさか、見て見ぬふりをしているなんてことはないのか? はたまた許容している?

 ネルケ師も、寺院内で行われている、いじめ行為に対して傍観者でいる自分に疑問を持ちながらもなんらアクションを起こすこともない。実は読了して不可解に思ったのは著者のスタンスだ。日本の大乗仏教界を批判しながらも、なぜだか、それに取り込まれてしまっているような感じがある。

 地獄絵図が展開されている寺のことに対しても、それによって得るものも、あったかのような描写もあり、本当に否定したいのか、どうも、よくわからなくなる。まあ、御本人としてはそれに対して、安易に善とか悪とかレッテルを貼りたくないということがあるのかもしれないが・・・。

 日本の仏教界の問題点として、世襲制ということがあることを指摘しながらも、御自身も安泰寺の責任者になる際に結婚している。酒も飲まれているようだ。それなりの改革にも取り組まれているようであるが、どうも、よくわからない。

 最後にある「迷える者であり続ける」という文章に著者の考え方が披歴されているようであるが、個人的にはぎれのわるさを感じる。そこにこそ、日本の禅宗が抱える問題があるように思えるのだが・・・。まあ、おそらく、この点を指摘しても答えがないのが、答えという底知れない禅問答の渦の中で、いつまでもぐるぐると回り続けるだけのことになるのかもしれない。でも、それこそが空なのか・・・? 個人的には、仏教というものは、迷える者から抜け出ること、それを目指すものだと思うのだが・・・。