若い友人の死自分のための欲

2018年10月05日

〇〇でさえいてくれたら

「元気でさえいてくれたら」と言うセリフが発せられた瞬間、どんなに楽しんで観ていたドラマでも鼻白んで観るのをやめてしまう、時代劇は別として。
子供が元気でさえいてくれればいいなんてのは、いつの時代の話だ。
先天性の病気のある子どもという設定でもないストーリーで、そんな陳腐な表現をさせるんじゃないよって思ってしまう。

発達障害をもつ子供の物語を書くのなら、「普通でさえいてくれたら」と言うセリフは必須だ。
「これはこの子の個性なんです」「ほかの子にはない能力があるんですよ!」なんて訴えてみたりしますが、詰まるところはやっぱり「普通にいてほしい」なんだと思う。

発達障害のある子は幼児期、電車などの大好きなものにお腹がすくのも忘れ集中して遊んだりする子が多い。
うちの長男は特に何にも深い興味を持つという特性はなかったが、記憶力はずば抜けていた。
でも日常生活はできないことばかり、皆と同じ行動ができることが最も重要視される集団の中で取り残されていく我が子に、どんな将来が待っているのかと親は不安ばかりが募る時期。
そこでテレビに登場する学者さんや、昔の偉人たちに夢を馳せる。
アインシュタインやエジソンみたいに好きなものにとことんのめりこむ研究者にでもなるんじゃないか、なんて。
そんなものにはなれない、小学校中学年くらいから薄々気づき始めるが、まだ夢は捨てない。
だって日常が苦しすぎるんだから、幻想くらい抱いたっていいじゃない。
高校入試くらいになると、もうそんな夢見てもしょうがないことは確実にわかっている。
子供のほうも、何となく周りに溶け込んできて、ぱっと見は普通っぽくなってきている時期
特殊能力は普通に行動できることが増えるに反比例して減少していくことを確信。
高校生になる頃には、子供への心配は今後大人になった時のことが主に変わてくる。
もう、大学から大学院に進みずっと研究生活をすればいいなんて考え、頭の中に浮かびすらしない。
どうにか、普通に就職してほしい願う。

人間には欲がある。
欲があることが人間らしさだ。
かく言う私も欲の塊。
あの日には、ただ毎日学校に行ってくれさえすれば、と思っていた。(これは今も思っているけど)
あの日には、ただ楽しくつきあえる友人さえできれば、と願っていた。
「ただ〇〇でさえいてくれれば」は数えてみると結構ある。
言葉の意味的に多分1個じゃないといけないと思うんだけど。
子供への期待、心配、愛情、が、私の中にたくさんの欲を生んでいく。
増えすぎないようにセーブしながら、そして子供への欲の中に、自分のための欲が生まれないようにいさめつつね。







neko_yuta at 09:28│Comments(0)

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