2011年12月16日

本>『民主主義とは何なのか』長谷川三千子

 久々の書評。次に書く『百姓から見た戦国大名』の書評に続きます。この2冊を連携させて批評するってのも乱暴だけどな(=^_^;=)、しかしけっこう深いところに密接に関係するテーマがあったりしたわけよ。書誌情報・目次全文は「続き」に格納してあります。
 なお、どうせ長くなるし、興味がないひとには徹底して興味がないネタになろうかとも思うし、このWeblogの客層的にはどうなのかなあとも思います。なので「自分向けじゃないな」と思ったひとはさくさく飛ばしてしまうことをお勧めします。ちょっといろいろありまして、ここらへんの思想関連のネタも、不十分ながら文書化しておきたい事情ができてきたんすよ。本来なら別のWeblogでも立ち上るとかしてそっちでやるべきなのかもしれないんだけどね。

 では、参ります。



 一発目は、文春新書の『民主主義とは何なのか』長谷川三千子。遠慮会釈なく貶しちゃいます。貶すのってけっこうムズカシくて、一歩間違うとダークサイドフォースに足を取られることになっちゃうんですけどねー、うまくいくんだろうか。


民主主義とは何なのか』長谷川三千子
 文春新書191
 ISBN4-16-660191-1 C0230
 2001年9月20日初版初刷

 いやあ、残念な本だ。全面的にクズ本なわけではなくて、部分的には見るべき部分はあるし興味深い分析もあるんだけど、根本のところがどうもダメっぽい。どうも著者は思想的には右翼傾向を持っているようなのだが、その結果目が曇ったっていうか、ウヨってやっぱダメなのかな、という感じ。ここまでちゃんと調べてお勉強をしているのに、しかしなんだってまた根底のところで道筋を間違ったまま行っちゃうかなあ。

 基本線として、「民主主義」を絶対視することに対して、異議を唱えている本です。もっと厳密に定義すると、「投票による民主主義」が対象ですね。「投票によらない民主主義なんてものがあるのか」というのは、今回はツッコミになんないのでそこんところヨロシク。
 んで、それを至上のもの・当然の前提として扱うことに対する異議申し立て。まあ、投票による民主主義なんてろくなもんじゃありませんから、それは良しとします。ていうか、そこらへんには同意したから買ってきたわけだけどさ。

 ただ、どうも著者の頭の中では、「投票による民主主義は、日本にはもともとは存在せず、欧米から持ち込まれたものである→だから日本にはなじまない」という物語が存在しているようなんですね。「そんなものを持ち込んだがゆえに第二次世界大戦敗戦後の日本は道を間違えたんだ」とか言いたそうであります。基本線、その路線で「投票による民主主義」を批判するという骨組みを作ってしまっている。しかしいくらなんでもそれは違うだろうと、おれは思うわけです。投票による民主主義なんてわりと誰もがすぐに考え付く方法論だし、日本にだって当然あったんだからさ(次回の『百姓から見た戦国大名』で詳説)。
 その先の章では、ギリシャ時代からフランス革命などを経て近代まで、欧米における投票による民主主義に対する分析と批判が展開されます。この部分は、まあそれなりに精緻に組み立てられていると言えるし、読む価値はある・・・と思う。このあたりの分析は、ジョン・ロックに全ての責任があるかどうかというあたりを除いて、おれの分析とさほど食い違わない。まあ、かなり煽りぶっこんでいるのが気になるし、目次を見ればわかる通りで「インチキ」「ペテン師」「プロパガンダ」などの否定的言辞が垂れ流されていることからけっこう感情的に書いているんじゃないかという懸念が禁じ得ないんだけど。
 というわけで、分析部分などには見るべきところがあるのだが、基本骨格のところでコケちゃっているので、おれ的な評価は「残念な本」ってことになるわけ。

 古来の日本には投票による民主主義はなかったのか。いやあ、あったんすよね、それもかなり古い時期から。「投票」「選挙」とは呼ばれておらず「入札(いれふだ)」と呼ばれていたのですが。入札がはじまった時期をおれは知らないんだけれども、戦国時代にはすでに確立された風習となっていた。へたすりゃそこから1000年くらいは遡るのではないか。そして、それは江戸時代も貫いてずーっと惣村の統治機構として存在し続けており、明治時代になだれ込んでいる。
 惣村における「投票による民主主義」がそれだけでは立ち行かなくなった理由あたりは次回の『百姓から見た戦国大名』の書評で触れます。そのあたりは洋の東西を問わずみんな似たような失敗をやってきてるわねー、って感じ。ある意味、相互に関係なんかないままにしかし同じように失敗するというこの普遍性こそが、投票による民主主義が抱える根本的な問題を明らかにする現象であり、その問題点を解析するための手がかりになるんではないかとかおれは思う。なんでそういうおいしい題材がすぐそこにころがっているのに、「日本は違う」とかいうお馬鹿な思い込みで、そこをスルーできちゃうのかがおれにはよくわからない。

 いずれにせよ、「投票による民主主義は、ギリシャ時代から続く欧米固有の思想であり、日本にはなじまない」という立ち位置はおかしい。そこがおかしい以上、今の日本がうまく動いていないとしても、その理由を「むりやり西欧の思想を輸血したせいである」とかいうあたりにこじつけるのは、無駄っていうか、間違いっていうか、徒労というか、そういうものにしかなり得ない。んなこと言うたかてなんら意義ある提案にも提言にもなりゃしませんぜ、ってことになります。

  *

 近世ヨーロッパにおける社会契約論との関係の部分について。
 社会契約論は、「第四章 インチキとごまかしの産物 − 人権」において、民主主義思想の根源とされる人権がどのようなものであったのかについての考察部分で、その理論的支柱をどう受け止めるべきなのかという観点で、言及されています。
 著者は、トマス・ホッブズの社会契約論をジョン・ロックが換骨奪胎したことが、人権概念が異常に肥大化するという結果を導いたとして、ジョン・ロックを激しく非難しているのですが、なんかそれは違うような気がする。

 トマス・ホッブズ(1588〜1679)が『リヴァイアサン(1651)』によって提示した社会契約論の新しい切り口と(あくまでも「新しい切り口」。トマス・ホッブズがはじめて社会契約論を提示したわけではない)、その後に展開された社会契約論を基礎とする国家主権論、国家主権の根底となるものとして位置づけられた人権思想との間には、かなりの乖離があるのは確かだ。本書の指摘通りに「なんか流れがおかしい」とは、おれも思うのである(ただし、トマス・ホッブズ以前の社会契約論も含めて眺めるなら、単に「トマス・ホッブズが異端だった」と位置づけることも可能。その異端のトマス・ホッブズの説が注目すべき新たな視点を提供したものである、という点は見落とせない重要な点なんだけれども)。
 本書では、トマス・ホッブズの思想を換骨奪胎したのはジョン・ロック(1632〜1704)であるとし、そのジョン・ロックが実はペテン師でありインチキをぶちまいて民主主義思想をゆがめたのだ、としています。まあそこらへんについておれはちゃんと裏を取っていないし、その分析が正しいかどうかについての断定的な判断は避けようと思いますが。

 トマス・ホッブズの社会契約論とは、簡単に説明すると、こんな感じになるでしょうか。
 ルールなき状態(これをホッブズは「自然な状態」と考えた)では、人間同士は闘争的な対立関係となる。欲があるから、自然にそうなる。そこでは、たとえば「殺し合い」も当然のこととされる。しかし人間誰しも自分が殺されたくはない。そこで、殺されたくない者同士で、「わたしはあなたを殺さない。そのかわり、あなたもわたしを殺さない」と相互に約束(双務的な契約)をする。つまり、「自分が相手を殺す権利、あるいは自分が相手を殺すという選択肢」を相互に放棄しあうことで、闘争的関係を終わらせることができる。それが「社会契約(Social Contract)」である。社会のルールは、この「社会契約」によって正当化される。
 それまでは、社会のルールは「神」などの人間社会にとって外的な存在によってしか正当化され得なかったが、この「ホッブズの社会契約論という思想」は、社会のルールの力の根源を人間界の中に持ち込み、社会を人間界の中で完結させることができるようにしたという点で画期的でした。

 ホッブズ以前にも社会契約論というのは存在していました(本書は、ホッブズ以前の社会契約論の流れには、ほとんど触れていない。天賦人権説にはちょっとだけ触れているけれども)。『戦争と平和の法(1625)』で有名なグロティウス(1583〜1645)あたりも社会契約論に言及していたらしいな。おれはグロティウスのそういう側面をほとんど知らなかったが。
 ホッブズ以前の社会契約論に共通することは、「自然な状態では、人間は自由で平等であり幸せであった」という原始共産制みたいな感覚で自然な状態を規定していたことだったらしい(おれはそこんところに、旧約聖書の「エデンの園」につながるような、ユダヤ教以来の宗教感覚があるように感じたりするのだけれども)。「自然な状態は、闘争状態であった」とするホッブズの社会契約論は、そのユートピア的前提を崩したところに意味がある。トマス・ホッブズの思想の特徴でありいちばん輝かしいところは、この自然状態の定義の部分であり、そこを高く評価していることについて、著者は正しい。ただ、その後のところがなぁ。
 社会契約論という大枠の流れの中ではトマス・ホッブズの後継世代であるジョン・ロックやジャン・ジャック・ルソー(1712〜1778)は、当初の自然な状態を「闘争状態」ではなく「自由で平等で平和な状態」と規定しており(つまり「先祖返り」してしまっており)、従って「自らの権利をみんなが少しづつ差し出すこと」を社会契約であるとは位置づけていません。そこんところを、著者は「ジョン・ロックというペテン師がインチキをやった」と述べている。
 しかしなー。トマス・ホッブズの位置づけが難しくなるという問題はあるんだけど、ジョン・ロックはトマス・ホッブズの後継者なのではなくて古典的社会契約論系の思想の後継者であると規定するならば、「ジョン・ロックは、異端的社会契約論のトマス・ホッブズの思想をつまみ食いして、自分の主張に取り入れた程度である」と考えることもできる。ていうか、その方が適切なんじゃないんだろうか。そう考えた場合、ジョン・ロックは、「それまでの主流だった社会契約論に則って思想を組み立てただけであり、トマス・ホッブズの思想を換骨奪胎したペテン師でインチキヤローである、とまで言うのは言いがかり」ってことになるような気がする。まあ、「少なくとも、トマス・ホッブズの説のすごさがわからなかった程度には、ジョン・ロックというやつは、鈍感なやつだった」ということくらいは言ってもいいかもしれないけれども。
 ていうか、社会契約論に基づく国家主権の正当化や、大幅にダイジェストした場合の国家権力の根源としての人権思想を批判する際に、それらの間違いの責任をジョン・ロックに集約しようとするのは、ちぃっと乱暴だと思うんだよなあ。トマス・ホッブズの思想についていけなかったその世代の愚鈍な知識人たちが集団的に間違えたのである、とした方が正しいんじゃないんだろうか。

 ついでなのだが、トマス・ホッブズは別に特にクローズアップして言及してはいなかったと思うんだが、「人権」なるもの。
 この「人権」というのは、もともと誰もが持っているものとかではなく、至上のものでも当然の前提となるものでもなくて、この社会契約に基づく「他者に尊重される部分」のことなんだと、おれは理解している。「基本的人権」という概念は、いちいちその先まで遡って確認するのもめんどくさいから「公理」としておきましょう、という議論打ち切り基準という意味合いが強いんではなかろうか。
 ま、「公理」ですからその命題が正しいかどうかは別問題なんですが、「公理=正しいからそれ以上考える必要がないこと」と理解するという誤解は根強い。ただ、誤解は根強いのだが、それは「公理概念」に関する誤解なのであって、「人権概念」に特別に誤解が生じているわけではないだろうとも思う。なにはともあれ「人権は最大限に尊重すべきもの」みたいに教えてしまう現在の教育にももちろん問題はあって、それが公理概念としての「人権」を更なる誤解に導いているということは言えるんだけどね。

 いやあ。社会契約論についておれが悩んだポイントは過去に2つほどあって。
 ひとつは、犯罪者の位置づけという法哲学的論点。犯罪というのは、特に殺人などの自然的犯罪というのは、社会契約に反する行いであるがゆえに処罰が可能であると構成されるものなのだが、じゃあいったいいつどこで処罰の客体となる者が社会契約を結んだことにすればいいのかというのが、よくわからない。人間の始期の段階で自然に契約を結んだことが擬制される、とかってのはちぃっと乱暴だろう(=^_^;=)。というか、相互非殺人などの社会契約をそもそも締結していないと主張された場合、その殺人者をどういう根拠で処罰できるんだろうか、という論点。
 もうひとつは、人間外の存在と人権とのかねあいという論点。たとえば希少な猛獣と人間との摩擦が生じた場合に、どこまで人命(つまり、基本的人権のひとつである生存権)を尊重すればいいのかという論点。相手が人間であり社会契約を前提とできるのならば、その社会契約に基づいて善悪を判断できる。しかし相手が人間ではなく、明らかに社会契約を結んでいない場合、そこに「人権」という視点を持ち込むことに意味はあるのか。これは自然保護訴訟など必ずしも人間の利害のみでは完結しない対立についてどのようにして法的枠組みに取り込んでいくかというあたりで、争点となってくる場合があります(「人命のためならば何をやっても許される」といった極端な考え方は、しばしば人間界の枠を越えてはみ出してしまい、人間以外の存在に迷惑を及ぼすということです。「人命」を「幸福追求権」などの他の人権にまで拡張すると、その問題点はさらに顕著なものとなる)。
 いずれにせよ、社会契約・国家主権・人権のいずれもが「人間界の中のローカルルールである」というあたりの基本をふまえておけば、さほど深刻な対立要因とはならないような気がしているんですけどね。「人間界にとってはとても重要ではある。しかしたかが人間界のローカルルールなのであり、人間界のローカルルールにすぎない」という二面性を過不足なく理解しておけば済む話なんである、と。
 前半のさらに一部、「とても重要」だけが一人歩きしているような状況はあって、それは間違っているのだけれども、ただ本書のように「それは重要なものではない」と一方的に主張されても、それはそれで違うんじゃないかという気がする。「たかが、されど」みたいなもんだね。

  *

 もうひとつ、投票による民主主義の制度としての評価について。

 こういうものに絶対評価がなじむのかどうかよくわかりませんが、「投票による民主主義」を絶対評価するとしたら、まあ「ろくな制度じゃない」というのが正当な評価だろうと、おれも思います。「投票による民主主義」が唯一絶対の正しい方法論であるかのように扱われている気配があるんだが、それは明らかに間違っている。投票による民主主義が失敗した事例なんてのはいくらでもある。ワイマール共和国が投票による民主主義によって崩壊しナチス政権が誕生したことを「投票による民主主義の失敗」と位置づけることは可能だろうし、20世紀末から21世紀にかけて極東の日本という国で投票による民主主義のせいで政治がぐちゃぐちゃに混迷したという事例を「投票による民主主義の失敗」のリアルな事例として取り上げることも可能だろう。ギリシャ時代から現代に至るまで、「投票による民主主義の失敗」の事例は、山積みになっている。
 問題なのは、相対評価をしたときにどうなるかってことの方だね。

 投票による民主主義以外の統治制度としては、とりあえず「絶対王政」ってやつがあります。類似品だが「独裁制」や「神権政治」なんてのもある。いまのところ明確な定義はないが、というか具体的な制度提案はないが、「投票によらない民主主義」てのもあるかもしれない。
 それらのうちのどれかが「投票による民主主義」よりもましな制度であるのなら、さっさと「投票による民主主義」なんか捨ててそのよりましな制度に乗り換えるのが吉というものだろう。
 問題なのは、「絶対王政」にせよ「独裁制」にせよ「神権政治」にせよ、それらはそれらでけっこうな数の失敗の事例を積み重ねて来ているということだ。
 うまくころがれば「投票による民主主義」だってそれなりに機能することがあるだろうし、現代思想では極悪なもののように受け止められている「独裁制」だって良い独裁者を得られれば悪いものじゃないだろう。だからといって、うまくいった事例があることを理由として、特定の制度を持ち上げることが正しいようには思えない。
 なんていうかこう、すべての制度は、同じくらいに「ろくな制度じゃない」ということを前提とした上で考えるべきであるのだが、ろくな選択肢はないんだけれどもしかしわれわれは、それらの「いずれも等しくろくなもんじゃない制度」からどれかを選ばなければならないという、そういう状態に置かれているのだ。救いがないかもしれませんが、でもどうせ救いがないのなら、それを真正面から認めておいた方が気が楽だ。

 その中で「投票による民主主義」は、「失敗は、特定の誰かのせいで起きたものではなく、自分らひとりひとりの責任で起きたのだ」ということを引き受けさせるという観点からは、それなりに有効なのではないだろうかと、おれは思ってます。まあ、「失敗したのは政治家のせい」とか言ってしまって自分の責任を認めない有権者とかってのも多数いるわけだから、そういう意味では「投票による民主主義が有権者に当然に求める責任」てのも形骸化しているのかもしれませんが。
 制度としての「投票による民主主義」なんてものは、要するに制度でしかなく、道具でしかないわけです。まあ確かに、百円ショップで売っている工具のように「出来の悪い道具」ってのはあるわけだしスナップオンの工具のように「すばらしい出来の道具」てのもあるわけだが、しかし道具は道具なんで、うまくいかない理由を道具のせいにしてもはじまらないんじゃないんだろうか。
 「投票による民主主義」という道具は、至上の価値を持つ絶対の道具なわけではない。それは確認しておかなくちゃいけないし、あたかも至上の価値を持つ絶対の道具ででもあるかのように教育されてしまうという現状はオカシイとおれは思う。ただ、使い方によっては有益にもなる道具なんであって、否定してどうなるってものでもない。
 著者は、結語の章で「(投票による)民主主義とは『人間に理性を使わせないシステム』である」と述べているし、実際そういう側面はあるだろうと思う(そしてなぜか、その後突然、著者は聖徳太子による「十七条憲法」を持ち出してくるのだが)。しかし人間に理性を使わせるのってたいへんにむずかしいことなのであって、それはどの道具を選ぶかによって解決できるような楽な問題ではないのではないんだろうか。
 そんなこんなで、「本書は、なんか問題の所在を決定的に見誤っているのではなかろうか」という残念な読後感につながっていったのでありました。

   *

 腰巻のフレーズは編集者がつけるものであり著者には責任はないと思うんだが、本書の腰巻には「これでもあなたは民主主義を信じますか?」という惹句がつけられています。いやあ、(投票による)民主主義というものは「道具」なのであって、信じたり信じなかったりする対象ではないだろう。この腰巻の惹句こそが、実は本書が道を誤ったことの象徴になっているのではないだろうか、とか最後にイヤミを書いて、この書評を締めようと思います。
 ではまた。
<書誌情報および全目次>

『民主主義とは何なのか』長谷川三千子
 文春新書191
 ISBN4-16-660191-1 C0230

第一章 「いかがわしい言葉」 − デモクラシー
 民主主義そのものを疑ってみよう
 いかがわしい言葉だった「民主主義」
 恐怖のフランス革命 − ジェノサイドを行った革命政府
 成熟しないフランス人・繰り返される革命
 デモクラシーをめぐるトリック − ヴェルサイユ条約のインチキ
 デモクラシーによって起った戦争、第一次世界大戦
 ワイマール体制という欺瞞
 民主主義の大洪水 − ナチズム

第二章 「われとわれが戦う」病い
 まっとうな政治としての「人民のための政治」
 ギリシャ民主政の始まり
 神と地と人の結びつきにおける政治 − ソロンの場合
 危険な思想 − デーモクラティア
 革命による(?)民主政
 歴史の歪曲 − 民主政誕生の物語
 僭主を殺せ
 僭主政、この不可思議なるもの
 「僭主政恐怖症」の実態
 民主政と僭主政の近さ

第三章 抑制なき力の原理 − 国民主権
 引き継がれた「不和と敵対のイデオロギー」
 「主権」とは何か − 正しい国政の原理としての「君主主義」
 「均衡」の政治 − 英国の場合
 「古来の憲法」と「回帰としての革命」
 フランス人の暴挙 − 「憲法がなければそれをひとつ作るべきだ」
 神になり代わる「国民」
 国民に理性を使わせないシステムとしての国民主権
 惨劇を生み出す原理 − 国民主権
 戦争と革命の相互関係

第四章 インチキとごまかしの産物 − 人権
 国民主権と人権
 権利とは何か
 神による根拠づけ − アメリカの場合
 義務なき権利
 不可解な混乱
 「独立宣言」のインチキ
 ホッブズの独創
 悲惨なる自然状態
 自然権、この危険なるもの
 自然権の放棄の法 − 自然法
 社会契約による国家創設
 ペテン師ロック
 ロックのインチキ
 もう一つのインチキ − 革命のプロパガンダとしての人権
 人権 − この悪しき原理
 とどまるところを知らぬ「人権」の退廃

結語 − 理性の復権

あとがき
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この記事へのコメント
ども。
『このWeblogの客層』から見事に外れてるおいらが、まっさきに食い付いてみました。
ジョン・ロックの意義っ「おいらのものはおいらのもの」って言い切ってみたこと、で、「おいらのもの」ってのはおいらだけが勝手に「処分できる」という意味なのだと公言したことではないかなと思ってます。
風景とか気にする人には、これが必殺の一行なわけで、思うに「民主主義」の名の元で行われてることって、勝手に処分できる境界線を巡る闘争かな、とか。
でもって、、、てのは、また今度書きます、元ネタの本も読んでみます。
実は、いま、ほどよく酔っぱらってるもんで、書くのつらい。

それよか、
> 文書化しておきたい事情
この辺に激しく興味を持ってみたりして...
Posted by tko_bbq at 2011年12月17日 00:17
 tko_bbq さんどうも。真っ先の次に誰かが続くかなあと思って待ってみたんですが、やっぱこの企画は不人気企画だったようです(=^_^;=)。さて。

 ジョン・ロックは、法哲学の講義あたりで知った部分が多くて、所有権論とかの方はざっとしか知らないんですよね。まあ、「全てのものは王のもの」から「王以外の主体における私的所有権は存在する」への切り替えは、ヨーロッパ文明的にはたいへん大きな意味があり、イギリスではそれが産業革命にもつながっていった、というあたりまではおぼろげに覚えていたんですが。
 で、念のためにジョン・ロックの所有権論についても、Webでですが、ざっと見てみました。うむー。

・ジョン・ロックの所有権論の研究(今村健一郎)
 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2008/625.html

 この論文では、「(所有権を)行使する者には、資源の稀少性を前提に、自己保存と他者保存を二つながら実現する義務が課せられている」としており、キリスト教的な倫理性も重視されるべきである、と述べています。まあ、私的所有権を認めたとしても好き勝手やっていいと述べたわけではないぞ、と言いたいのでしょう。(続く)
Posted by 猫が好き♪ at 2011年12月19日 22:50
(承前)

 ただ、こんなんも見つけてしまったりして(=^_^;=)。

・労働と所有権、ロックの矛盾
 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/5151/link_2121.html

 こちらは「ロックは一方では、人間の人権の一種である自由・平等はともに神から与えられたものであると言っているにもかかわらず、他方では彼がその権利の代償として支払うべき義務については全く何も触れていないという矛盾があります」と述べている。しかし、どうもこのテキストは、もともと『民主主義とは何なのか(長谷川三千子)』をベースとした評論であり、しかし本書はロックの所有権論については言及していないわけで。
 なんかこう、「ロックひとりを悪者に仕立てておけばそれでいい」といった感覚のみが伝わっているような気もする。やっぱ本書はろくなもんではないな、とか改めて思ったのであります。

 個人的には、あくまで個人的な印象なので根拠なんかありませんが、ジョン・ロックって「いろいろ便利にまとめてくれたありがたいひとではあるが、思想家としての独自性とかは、あんまし感じられない」とか思ってます。そういう意味で、まあ便利にまとめてくれたがゆえに批判の対象にもなるのかもしれないけど、「ジョン・ロックが」というよりは「ジョン・ロックがまとめたその時代の先端思想では」という感じがしまして、なんかこう、ジョン・ロック個人を批判の対象とするのはおかしいんじゃないか、という気がするんですよね(おれがいちばんひどいことを言ってるのかもしれないが)。(続く)
Posted by 猫が好き♪ at 2011年12月19日 22:51
(承前)

 ついでに、個人的には、トマス・ホッブズ以前からある社会契約論が、あるいはそれをもとに、「所有権を自然権のひとつとして認めつつ、しかし自然状態は平和で牧歌的なものであったと仮定する」ことができるという発想が、よくわからないです。所有権があれば所有格差が生じるのはあたりまえであり、そこがエデンの園のような平和で牧歌的な場所であるわけがないだろうと、おれなんかは思うのですが。
 やっぱ、エデン的社会契約論って、キリスト教思想からの脱却を目指しつつ、しかし脱却できないままずるずるといっちゃった中途半端なものだったんだろうなあ、とか思うのです。かといって、トマス・ホッブズの思想を受け入れることもできなかったあたりが、当時の凡百の思想家たちの限界だったのでしょう。

   *

 んで、文書化しておきたい理由、ですが。
 いやー、この夏ちょっと病気をしでかしまして、そういやそろそろ誕生よりも死期のが近くなってんだなあとか思ったので、まあいろいろまとめにかかっておくか、みたいなありふれた事情っすよ(=^_^;=)。
 もっとも、どこから手をつければいいのかわからないし、まとめるのにどれだけの時間が必要なのかも読めないんで、いずれにせよ断片的にならざるを得ないんですが。どうせ断片的に書いていくしかないんだったら「書評にかこつけて」とかって楽でいいなあ、とか。
 この期に及んでまだ楽な道を選んでいるなあとか、われながら思うわけですが(=^_^;=)。まあおれ思想家じゃないし、書いたからどうなるってものでもないんですけどね。
Posted by 猫が好き♪ at 2011年12月19日 22:52
 
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