2011年12月18日

本>『百姓から見た戦国大名』黒田基樹

 久々の書評シリーズ2。
 一発目に書いたことですが、この書評、どうせ長くなるし、興味がないひとには徹底して興味がないネタになろうかとも思うし、このWeblogの客層的にはどうなのかなあとも思います。なので「自分向けじゃないな」と思ったひとはさくさく飛ばしてしまうことをお勧めします。場違いなものをまきちらかしてすまん(=^_^;=)。



 二発目は『百姓から見た戦国大名』黒田基樹。これは褒めます。


百姓から見た戦国大名』黒田基樹
 ちくま新書618
 ISBN4-480-06313-7 C0221
 2006年9月10日初版初刷

 日本史見直しの系列に属する本だと思います。なんだかんだ言いつつおれも網野善彦の影響を大きく受けてるなあ(苦笑)。で、いろいろな意味で面白かった。いろいろな意味とか言ってても話が拡散するだけだな、ざっくり今回書こうと思っている点をまとめると、「統治に関する意思決定システムの変遷」あたりになるでしょうか。

   *

 まずは、前回の『民主主義とは何なのか』から引き続きってことになる社会契約論をめぐる論点。

 旧来の日本史では、前近代の日本では大衆は虐げられており、主体的な存在ではなく、領主・大名などに隷属している存在ということになっていました。ところが「必ずしもそんなことはなかったみたいだぞ」っていうか、もっとはっきりと「それはぜんぜん違うぞ」っていうのが、最近の日本史見直しにおける流れ。
 かいつまんで箇条書きにまとめると以下のような感じになるだろうか。

中世の日本には「惣村」などと呼ばれる小規模の統治システム、集落単位での意思決定システムがあり、それはけっこう中世を通じて一貫して確立され機能していた。特に鎌倉時代後期(13世紀くらいか)から江戸時代以前(16世紀くらいまでか)の時期には、「惣村」は社会システムの上できわめて重要な存在であった。
「惣村」は、領主や大名などの上層権力と、原則として対等の関係にあり、相互の関係は契約によって規定されていた。惣村は上層権力に隷属する存在だったわけではなく、惣村側が契約先の上層権力を選んだり納得がいかなければ一揆や逃散などの抵抗をしたりということもあり、なかなかにしたたかで独立性のある存在であった。

 この「惣村」は、単なる集落としての「村」とは微妙に意味あいが異なります。簡単に説明するなら、「意思決定システムをそなえた主体的な村・集落」というあたりになるだろうか。
 中世の頃には生きていくことだけでもたいへんだったわけで、生存しようという目的を共有する地域住民によって地縁・血縁などを基礎として作られた機能集団が「惣村」であった、ということになります。一般の農民などは「惣村」を離れて生きていくことはできなかったから、「惣村」は生存の立脚点でもあった。

 なお、「惣村」の掟はまあそれぞれの惣村で決まっていたわけですが、多くが「入札(いれふだ)」と呼ばれる投票制民主主義に基づいて運営されていたということは、記憶にとどめておくべきでしょう。
 まあ「村のエラいひと」がある程度は固定されていたのも事実であり代々の庄屋・名主・肝煎とかいたしそれらは世襲制とも解することは可能ですが(まあでもそれは現代の民主主義体制度でも同じようなもんだと思うが(=^_^;=))、それが当然のことだとされていたわけではない。村としての行動の決定や中核メンバーの人選など、構成員の投票によってあらわされた意思に基づいて惣村としての意思決定が行われるというのは珍しいことではなかった。これは平等な投票権を保障するといったシステムではなかったなどの違いはあり近代的な意味あいにおける「投票による民主主義」と並行するものとして扱うのも乱暴ではありますが、「日本において、投票による民主主義は、それなりに定着し尊重されてきた風習であった」ということもまた否定はできないものと思われます。

 さて。
 なんせこの時代、生きていくだけでも大変だったわけです。ところで、生きていくためには「生産」という手段のほかに「掠奪」という手段があった。「生産」してその範囲で食っていくというのはまあ生業としてまっとうなものではありますが、「掠奪」したって食ってはいけるわけで(ここらへん、本書では「第一章 飢餓と戦争の時代」で扱っています)。で、惣村は、隣の惣村とかと、なにかというと戦っていたわけでございます(ここらへんは、本書では「第二章 村の仕組みと戦争」で扱われています)。
 いやあ、日本史における中世の戦いっつーと「大名同士が領土争いでやるものである」という印象をお持ちの方が多いんではないかと思うわけですが(おれはそれ以前にイメージそのものを持っていなかった。日本史には全く興味がないし、世界史選択だったりしたしで、日本史についてはそもそも一般教養すらなかった(=^_^;=))、どうもそれは、見直された現在の日本史の観点からは「根本から間違ったイメージ」となってしまっているらしかった。
 第一に、「戦いというのは、大名などの武装集団の専売特許ではなかった。末端の惣村あたりも、きっちり武装しており、主体的かつ積極的に、しかも日常的に、戦っていた」ということ。
 第二に、「戦いというのは、領地を争うものと限ったものではなく、農作物・人材などの掠奪もまた重要な目的であった」ということ。
 いやあなんていうの。同じ頃にはるか離れたヨーロッパの地でトマス・ホッブズというひとがなんか言ってたわけです。「自然な状態では、人間同士は、闘争的な対立関係となる。欲があるから、自然にそうなる」とかなんとか。ま、「惣村の戦い」は、そこから一歩抜けて「個人レベルでの戦い」が「集団レベルの戦い」に進化した形態だったわけですけれども。
 で、戦いですから、勝たなければなりません。そこで、「合力」という制度が生み出される。これは惣村同士が連合体を組み、どこかの惣村が対立する総村から攻撃を受けた場合に、合力を約していた惣村は助っ人として参戦するという制度です。かくして戦いは、個人同士の戦いから惣村同士の戦いへと進歩し、惣村同士の戦いから惣村連合同士の戦いへと規模を拡大し、更に大規模なものへと発展していくことになる。どこまでが助力の対象となるかもどんどん広がっていく。結果として、それなりの既存権力であった大名がひっぱり出されたり、アジールとして確立されていた武装寺社勢力がひっぱり出されたりすることになる。こうなってくると、「惣村の戦い」と「大名の戦い」は、もう区別がつかなくなっていくわけです。

 ところで。
 いちおうまあ時代は中世ですから、惣村にもそれぞれ「領主」というのがいたりするわけです。惣村は、当然のこととして、領主にも、合力を持ちかける。ところがまあ、領主というのは一帯を仕切っていたりするわけですから、対立する複数の惣村から合力を依頼されたりすることもある。だからといってそこで領主側が合力を断ったりすると、惣村側からすれば「非協力的な、年貢などを納めてもメリットがない、ダメな領主」ということになるわけで、支持を失ったり、極端な場合には別の領主に乗り換えられてしまったりすることになる。だから、領主としても惣村どうしの戦いというのは悩みのタネになっていった。
 また、当時の戦いでは、やり返されることを防ぐために相手方の戦力を低下させようということで生産手段の破壊というのもけっこう重要視されており、目先の掠奪のほかに、建物の破壊や未だ収穫には至らない段階の農地の破壊、労働力ともなる人間の誘拐と奴隷化なども並行して行われました。そういうのは地域の生産力を下げますから、領主としても歓迎できることではない(大胆に時代は下がりますが、第二次世界大戦における大東亜共栄圏構想の挫折は、この戦国時代にかたちづくられた日本的な戦略思想を日中戦争に持ち込んで掠奪と生産手段の破壊を派手にやらかしたことが反発をあおってしまったからではないか、という説もあったりしますね。けっこう納得がいく説だと、おれは思っている)。
 そこで、惣村と惣村が対立した際には、それぞれの惣村からしてみれば第三者である領主が、第三者という地位を武器に「仲裁」にはいるようになっていった。
 この「仲裁」は、惣村からしてみれば、「戦う権利の剥奪」につながるものでもありました。惣村が自らの意思として戦うことを決めたとしても、上層権力がその決議を否定してしまうのだからな。しかしまあ、世の中の流れは止めようもなく「戦うことの抑制」が広がっていく。このようにして、中世の日本にも、トマス・ホッブズが言っていた「相互に自分の権利を差し出すことによって実現される平和」、つまり社会契約論みたいな流れが生じてくる。ま、この段階では、「入札による意思決定」は広域化せず、第三者たる領主・大名などが意思決定をするようになっていくため、「独裁的な封建的体制が確立された」というように説明されることが多いんですが、違う側面から見てみれば「戦う権利の相互放棄と、それによってもたらされる平和の実現であった」と説明することもできる図式だったというわけだ。刀狩りなんかも、別の要素(たとえばアジールとして確立されていた武装寺社勢力の武装解除という目的など)もあったにせよ、この「戦う権利の否定」という要素もまた大きかったことは、たぶん間違いない。

 んでもってまあ、こういう「戦う権利を否定する権力の広域化」が行き着くところまで行ったのが「全国統一」ってやつで、豊臣秀吉によって実現され、徳川家康によって安定政権となり、徳川家による全国支配が続いたとされる江戸時代の間は「日本全国から(基本的には)戦いがない状態が実現する」ことになったわけ。
 なんかこう、おれが漠然と抱いていた戦国時代の姿とかとは、ぜんぜん違うんすよね。戦国大名というのは対外的には確かに戦う存在ではあったが、国内的には戦いを抑止する存在でもあったと。
 ただ、あの時代に「ひたすら戦うことが商売だった専従の武装集団がそれなりの数存在し維持されており、それらが民衆とは無縁のところで、国取り合戦をやっていた」ということは実は考えにくいんです。そんな余力がいったい社会のどこにあったというのだ(=^_^;=)。「生産者兼武装集団である民衆がそれぞれわりと勝手気ままに戦っており、それがボトムアップされた結果として国取り合戦に発展した」という方が、物語としても理解しやすい。ああ、そういうことだったんですか、という感じ。そしてそれが行き着くところまで行ったら「戦いが禁じられた社会」ができあがってしまった、と。

 で、かように視点を変えて論理を組み立てなおしてみると、戦国時代から江戸時代への流れというのは、「自らの(戦う・加害する)権利を相互に差し出しあうことによって、自らが攻撃されるような状況を避け、平和な状態を実現した」ものである、ということになる。
 この戦国時代から江戸時代にかけての流れというのは、トマス・ホッブズが提示した社会契約論が、現実の政治機構の中で具現化していく流れである、それも見本のように鮮やかにその流れを示したものである、というように見えてはきませんか。

   *
 
 第二点。「領主や大名などは、独裁者であったのか」という論点。

 明治時代になってからの江戸時代否定、第二次世界大戦の敗戦後におけるそれまでの歴史の全否定、なんてのがありまして、なんかいろいろ日本の歴史についての理解がおかしくなっている感じがするんですよね。
 で、明治政府の主張と、第二次世界大戦敗戦後の日本政府の主張とは、微妙に文脈は違うんだが、いずれも「江戸時代(およびそれ以前)は、武家勢力が、民衆を虐げてきた時代であった」という規定になっているように思われます。「封建的」という表現を「絶対悪」みたいに扱うといった傾向なんかも、その流れによるものだと言っていいでしょう。先ごろテレビドラマとしては終わってしまったようですが、『水戸黄門』なんかもそういう歴史観に基づいて物語が構成されてるわけよね。「権力者による理不尽な圧制が行われている」というのが前提となっており、「そこにさらに上層権力者が登場して問題を解決する」というカタルシスが根幹を成す、と。権力の上下関係というピラミッド構造が明確に存在していることが前提とされている。
 しかし果たして封建領主や大名というのは、独裁権力であったのか。ていうか、独裁権力であったとするならばそれはいったいどういう理由で権力たり得たのか。独裁権力であったと考える理由はあるのか。
 本書からは、そのあたりのことも読み取ることができます。

 これは、事例としては主として「プロローグ 代替わりと『世直し』」の項目で紹介されていることがらであり、その後はそういう権力構造のあり方を当然の前提として書き進められているのですが、要するに「民衆に支持されていなかった領主・大名は、領主・大名であり続けることはできなかった」ということです。つまり、領主・大名の権力は、民衆の支持に裏付けられたものであり、民衆の意思に反する政治を長期にわたって継続することができるような独裁権力ではなかった、ということでもあります。
 代表例として、小田原北条家における氏康から氏政への代替わり(1559年)、甲斐武田家における信虎から信玄への代替わり(1541年)などが挙げられています。これらはいずれも飢饉を背景としたもので(当時としては、飢饉は「為政者の徳が足らないために起きるもの」という発想があり、飢饉が発生したら為政者の人気は落ちた)、人気がない者をトップに据えていると政権の維持が難しくなるため、代替わりをしたのだという分析が加えられています。なお、北条氏康から北条氏政への代替わりは禅譲ですが、武田信虎から武田信玄への代替わりはクーデターによるもので、後者は「ほっといたら武田家による甲斐支配が危うくなる」という武田信玄の強い危機感に基づくものではないか、という推測も述べられています(実際、武田信玄はその後の政策での人気取りに成功したこともあって、甲斐においてはいまだに評価が高いとされる)。
 また、先に述べたことの繰り返しとなりますが、惣村は、上層権力からの理不尽な要求に対しては「契約継続の拒否」「一揆」「逃散」などの抵抗をしたり、可能ならば契約相手を乗り換えるといったこともやっています。ですから、江戸時代のイメージに根強くあるような「大名に隷属する存在」というのはかなり実態からは乖離したものであったようにも思われます。こういった抵抗を招くような不人気な領主・大名は、長期政権の維持はできなかったのではないかと考えられるのです。

 もうひとつ、事例としては、「上杉謙信の出稼ぎ関東侵攻(1560〜1567年)」なんかも、人気取り政策のうちにあげられるかも。本書では「第一章 飢餓と戦争の時代」のうちの「上杉謙信の関東侵攻」で扱われています。
 上杉謙信(長尾影虎)がテリトリーとしていた越後ですが、冬になると雪に閉ざされる場所なわけです。やることがない。そこで、やることがなくなった農民を糾合して、上杉謙信は出稼ぎ侵攻を行っていた、と。まあ当時、関東には北条氏に逆らえる政治権力がなくなっており、北条氏と対立する勢力から上杉に対して支援要請(ま、大規模な合力の要請だわな)を受けていたとはいえ、そんなひとさまの都合だけで兵を出せるほどの余裕があったとは思われません。これは多分に上杉側・越後側の都合があったはずである、と。
 で、要するに、冬の間やることがない農民にとってみても、その期間に関東に侵攻し、掠奪をし、雪のない関東で正月を過ごして、雪が消える頃に越後に帰るという関東侵攻ツアーは、それなりに人気が高い行事だったということなのでしょう。そうでもなけりゃ、んな8回も続けて恒例行事のように「冬にだけ関東に侵攻して掠奪」なんてことが繰り返されたはずはないんで。
 そうか上杉謙信の関東侵攻って「大人気! 出稼ぎ掠奪ツアー」だったのかあ。少なくとも「国取合戦のひとつ」と考えるよりは、はるかにわかりやすいし納得もいくわな。
 同時に「大衆の人気取りに走った政策というのは、しばしば迷惑なものである」という今に通じる真理がそこにも存在した、とか言えるかもしれないわけですが(=^_^;=)。

 で、なんだね。ちょっと強引かなあと思いつつなんだけどね。
 これってば、「投票によらない民主主義」とも呼べるものなのではないか。なにをもって民意の確認とするかっていうあたりがしごく微妙であり、民主主義と呼べるかどうかという点にも疑問はあるのだけれども、でも「民意を基盤として権力が成立していた」と理解することもできそうなわけで。
 まあ、んなことを言ったら、独裁制の政権だって倒れるときは倒れるわけで、「独裁制は民意を基盤として成立する」なんてことも言えるようになっちゃったりするんだけどね(=^_^;=)。

   *

 ここまで書いてきてちょっと不安になったので念のために付け足しておくんですが。

 本書は、おれが書いたような論点をベースとして書かれた本ではないし、このような主張をしている本でもありません。ただ、書かれた内容をある特定の方向から眺めてみると、このように読み解くこともできるのではないか、ということです。前回批評した『民主主義とは何か』のようなはっきりとした主義主張(しかしいまひとつ同意しがたい粗雑な主義主張)と並べてみたとき、本書がもともと考えていたのではないだろう側面が垣間見えてきた、とでも言えばいいんでしょうか。というか、並べて論じることではじめて見えてくるものがあると気づいたのでおれはこんな書評を書こうと思った、ということですが。

   *

 以下、おまけとして書いておこうと思ったこと。
 たぶんね、他にもいろいろ興味深い論点は探せると思うんですよ。この本だけじゃなくて、日本史の見直しの流れって、いろんな意味でエキサイティングで。
 そうねえなんていうかねえ。おれはそういうわけで日本史は忌避して生きてきました。大学受験のときも世界史選択だったし。でも、おぼろげレベルで知っている日本史と、最近の見直しが加えられた日本史は、なんかまったく違うもののようにも見える。そして、見直しが行われた以降の日本史って、けっこう面白いんです。特に、見直し以前と見直し以降の差分が、とても興味深い。
 日本史が嫌いだった方、おいでになろうかと思います。でも最近の日本史って、こんなふうにいろいろと面白い・・・ような気がします。久しぶりに日本史の関連書物とかを、立ち読みとかしてみませんか。気に入ったものがあったら改めてお勉強してみても、楽しいんじゃないかなあ。とか、突然妙な提案をして、この書評を締めようと思います。
 ではまた。
<書誌情報・全目次>

『百姓から見た戦国大名』黒田基樹
 ちくま新書618
 ISBN4-480-06313-7 C0221

はじめに

プロローグ 代替わりと「世直し」
 北条氏康の隠居
 「世直し」を求められる
 氏康の代替わりの場合
 北条氏綱の代替わりの場合
 武田信玄のクーデター
 世論の支持を得た信玄

第一章 飢餓と戦争の時代
 「本土寺過去帳」の世界
 慢性的飢饉の時代
 飢饉を見る目
 飢饉の時代に向き合う
 戦争の日常化していた時代
 戦場での掠奪の実態
 掠奪が生存の手段
 飢饉と戦争の関係
 上杉謙信の関東侵攻
 飢饉対策としての侵略

第二章 村の仕組みと戦争
 政治団体としての村
 村の仕組み
 村の特質
 一揆としての村
 村の戦争
 近江菅浦村と大浦庄の戦争
 合力関係の広がり
 援軍派遣の書状
 戦争の代償
 下総で村の相論
 常陸での村の相論
 村同士の戦争から領主同士の戦争へ
 領主を創り出す村

第三章 地域国家の展開
 戦国時代という時代
 戦国大名・国衆という地域国家
 「自分の力量」による領国支配
 領国を構成する「領」
 「領」の中核となる城
 城は地域の避難所
 家中という家来組織
 家中形成の論理
 家中同士の紛争の背景
 家中形成の歴史的意味

第四章 大名と村が向き合う
 戦国大名の心構え
 常態であった不作・荒地
 村の再開発
 村請けのシステム
 大名と給人と村
 戦国大名の税体系をめぐって
 村高・年貢高の決まり方
 武蔵岩付領三保谷郷の場合
 ギリギリの政治交渉

第五章 戦国大名の構造改革
 構造改革の始まり
 統一的な領国支配の展開
 繰り返し訪れる危機
 百姓に礼を尽くす
 収取体系の大転換
 村役人制度の展開
 「成り立ち」のための共同負担

第六章 大名の裁判と領国の平和
 なくならない村同士の争い
 万民に開かれた裁判
 公正な裁判方法の追求
 実力行使の規制
 市宿における紛争
 楽市の展開
 「御国」概念の誕生
 「御国」のために
 民兵動員
 大名と村の懸隔

エピローグ 戦争の時代の終わり
 天下統一の内実
 天下喧嘩停止
 徳川の時代になっても
 戦争の時代の終わりへ

主要参考文献
あとがき

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