「葉っぱのフレディ」を久しぶりに読み返してみて。

「無常観」を描いた絵本ですよね。

この世に常なるものはなく、全ては生々流転する、ということ。


ぼく 死ぬのがこわいよ。

そのとおりだね。まだ経験したことがないことは、こわいと思うものだ。

でも考えてごらん。世界は変化しつづけているんだ。変化しないものは ひとつもないんだよ。春が来て夏になり秋になる。葉っぱは緑から紅葉して散る。変化するって自然なことなんだ。

きみは春が夏になるとき こわかったかい?緑から紅葉するとき こわくなかったろう?ぼくたちも変化しつづけているんだ。

死ぬというのも 変わることの一つなのだよ。


昨日、鎌倉の鶴岡八幡宮の大銀杏のことを考えていました。

あの木は強風で倒れてしまいましたが、さて、あの木は死んだのでしょうか。

あの木に命があるとしたら、その命はどこに存在しているのか。

根なのか、葉なのか、幹なのか、実なのか。

大木が倒れたあとの折れた株から、新たな芽が出ているそうですが、それは命が連続しているのか、新たな命なのか。

この木も死ぬの?

いつかは死ぬさ。でも、”いのち”は永遠に生きているのだよ。


生物学者の福岡伸一さんは、「生物と無生物のあいだ」という本の中で、「生命とは動的平衡にある流れである」ということを書いています。

簡単に説明するのが難しいのですが、36年前に私が産まれた時、私を構成していたものは、全て母親の胎内から得た、母親と同じ成分でした。

でも、36歳の今、私を構成しているものは、細胞から何から母親からもらった物質としての成分ではなく、全て新たに取り入れた食物から出来たものに取り変わっているはず。

じゃあ、私は私ではなくなったのか、と言えば、私なわけです。

それこそが、「動的平衡にある流れ」。多分。

樹はどこまで樹なのか。

川の水はどこまでが川の水で、どこからが海の水なのか。

私はどこまでが私なのか。

私も「葉っぱのフレディ」と同じく、人類という大きな樹の1枚の葉っぱだとしたら、私の命はどこで終わるのか。

この世に常なるものはなく、全てが変化し続けるものだとしたら、肉体はなくなっても、命はなくならないのかもしれません。





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