2008年11月10日

 読書家な後輩の推薦と帯の但し書きがなければ、まず間違いなく途中放棄していた。その表層は隆起のない、砂を噛むような恋愛小説だが、真の姿はゾッとするほどのミステリーだった。満員電車の中、声を上げてしまうところだった。

 物語の舞台は静岡市。馴染みの深い地で様々な固有名詞が目にとまった。それがわたしの感覚をいっそう鈍らせた。諸処に違和感を抱きつつも、最後の最後、ことの真相が明かされるまでギミックに気がつくことはなかった。退屈こそが最大のミスディレクションなのだろう。たったひとつの隠蔽工作に、見事に欺かれてしまった。

 好き嫌いの分かれる作品だろう。わたしは、当然、認めない。フェアじゃない。悪辣極まりない。恋愛模様に気持ち悪い、真相に気持ち悪いの波状攻撃、後味もよろしくない。知ってしまえば、ほくそ笑んでいる著者の顔が透けて見える、単なる遊戯に過ぎない。しかし、この作品の前ではどんな罵詈雑言も賞賛に変わってしまうことだろう。

 帯には<必ず二度読みたくなる>と書かれていたが、わたしはエピソードを拾うくらいで再読まではしなかった。それがせめてもの抵抗だと思ったからだ。

 二度と読んでなるものか。

(02:34)

2007年12月23日

真実は太陽のごとく輝いている


作品として『ボボーク』が一番強烈に印象に残った。

ある男が葬式に参加する。葬式が終わった後、何気なく棺がいくつかおいてあるところに行き、棺の上に座っていると、どこからが話し声が聞こえてくる…。

そして、それは信じられないことに複数の棺の中から、聞こえてくるのである。

ある画家がたまたまわたしの肖像画を描いた。「なんといってもきみは文士だからな」と彼はいう。わたしは彼のいうままになった。すると、彼はそれを展覧会に出したのである。ふと新聞を見ると「この病的なきちがいに近い顔を見に行きたまえ」と書いてある。


「いや、ぼくはもう少し生きたかった!いや…ぼくは、その…ぼくはもう少し生きていたかった!」将軍と怒りっぽい奥さんとの間にあたるどこかで、ふいにだれかの新しい声が叫んだ。
「どうです、閣下、例の先生がまた同じことをいいだしましたぜ。三日間というものは黙って、黙って、黙り込んでいたくせにい、とつぜん『ぼくはもう少し生きていたかった、いや、ぼくはもう少し生きていたかった!』とくる。しかも、どうでしょう、あんな激しい勢いで、ひ、ひ!」





(03:30)

2007年12月15日



「わたしは幸福な王子だ」
「それじゃあなぜ泣いていらっしゃるのです?」


『幸福な王子』という話は有名で、なんとなくタイトルは聞いたことはあったが、まだ読んだことはなかった。しかしある時ワイルドという作家が気になって、どんな作品を残しているのだろうと調べてみると、何やら聞き覚えのある『幸福な王子』という本があったので、買って読んでみた。

社会風刺が痛烈な作品らしいが、私はそういった知識抜きにしても、とても楽しめる作品だった。基本的には童話ということで、読みやすいし、…と(?)考えさせられることが多かった。

特に今回は表題作のタイトルの中にもあるが、「幸福」について考えを進めることが出来た。

わたしもじっさい幸福だったのだ、もし快楽が幸福であるとしたらね。そんなふうにわたしは生き、そんなふうにわたしは死んだ。


太陽のない路地から飢えた目をした『貧乏』が忍びいり、ふやけた顔をした『罪』がすぐそのあとにつづく。朝になると『悲惨』がおいらの目をさまし、夜は『屈辱』がおいらといっしょに座っている。


ところが、ふたりが自分たちのみじめさを互いに嘆き悲しんでいたとき、奇妙なことが起こりました。大空から、とても明るい美しい星が落ちてきたのです。






(16:36)

2007年12月08日



ここではむしろ、これまで『異邦人』がどのように読まれてきたか、すなわち『異邦人』研究および解釈の全貌を紹介し、私たちの視点からそれらを整理しなおしてみようと思う。ツヴェタン・トドロフの書名『批評の批評』にならって言うならば、これは「『異邦人』批評の批評」と呼びうるものであり、いわば『異邦人』のメタ批評なのである。


…といったように、第一部では著者の解釈も入れながら、『異邦人』の物語にそって、著者によって読まれていくが、第二部では、これまでの研究の整理ないし批評といった内容だった。

そして、こちらの第二部が特に面白く、『異邦人』という作品の後ろ(前?)にたくさんの広がりが生まれて楽しくなった。また、こんなにもたくさん研究、批評がされてきたのだな、と驚いた。

特に、興味深かったのは、サルトルの批評と、広津和朗さんと中村光夫さんの「『異邦人』論争」だった。この二つは、いつか、読んでみたいと思う。

彼によれば、人間の裁きは何でもない、神の裁きがいっさいだった。僕に死刑をあたえたのは人間の裁きだ、と僕は指摘した。人間の裁きは、それだけでは僕の罪を洗い清めることはない、と彼は答えた。罪というものが何なのか、自分にはわからない、と僕は言った。ただ自分が犯罪者だということをひとから教えられただけだ。僕は罪人であり、償いをしている。だれもこれ以上、僕に要求することはできないのだ。





(23:51)


80キロという気の遠くなるような道のりを夜を徹して歩き通す、高校生活最大のイベント「歩行祭」。さまざまな想いが交錯する中で、甲田貴子は一つの賭けを胸に秘めていた。しかし、焦る気持ちとは裏腹に何もできないままゴールは迫る―

ノスタルジーの魔術師が贈る、まじりっけなしの青春小説。見せ場らしい見せ場があるわけではないが、各登場人物があまりにも青春しすぎていて、無味乾燥な高校生活を送ってきたわたしへのあてつけのようにも感じられた。

第2回本屋大賞受賞、映画化、”新作にして名作”とまで言われては読まないわけにはいかなかった。また、一日という短い時間をどのように引き伸ばしているかにも興味があった。

心情の変化がドラマチックに描かれており、後味もまた、悪くなかった。もし高校の校長になるようなことがあれば、PTAの反対を押しのけてでもこのイベントを取り入れようと思う(まずありえない)。


歩行祭が終わる。
マラソンの授業も、お揃いのハチマキも、マメだらけの足も、海の日没も、缶コーヒーでの乾杯も、草もちも、梨香のお芝居も、千秋の片思いも、誰かの従姉妹も、別れちゃった美和子も、忍の誤解も、融の視線も、何もかもみんな過去のこと。
何かが終わる。みんな終わる。
頭の中で、ぐるぐるいろんな場面がいっぱい回っているが、混乱して言葉にならない。
だけど、と貴子は呟く。
何かの終わりは、いつだって何かの始まりなのだ。



aki

(23:10)

2007年12月01日



「人間には、殺す人間と、殺される人間がいるね」


わたしの記憶に乙一の名が刻まれた、ファーストインパクトとなる作品だった。最近になって彼の作品をよく目にする(目に付く)ようになったので、ためしに昔途中で放り出したこの作品を読み直してみることにした。

記憶とは実に曖昧なものだった。警戒していた場景的描写よりも、むしろ心理的描写にたいするショックの方が勝っていた。例えるならこの作品は、そう、「夜の海」だ。

周りに光源はなく、まったくの暗闇の中にひとり佇んでいる。潮騒が耳を圧迫し、距離感がつかめない。どこまでが陸で、どこからが海なのか、その境界がわからない。波に捕まってしまったら二度と光の射す世界には戻ってこられないような気がする。恐い、寒い、すぐにでも逃げ出したい。でも、先が知りたい。その場から離れようとする心とは裏腹に体は自然と前へ進んでいく・・・・・・。

『GOTH』に描かれた殺人鬼には、そんな場面を想像させられる。彼らはそこで踏みとどまることができず、足元から少しずつ暗黒に浸っていくのである。そして取り返しがつかない状態に至って、はじめて自分の行ってきたことの愚かさを省みるのだ。しかし、もう戻れない。

まともな理性は永遠に損なわれてしまったから。


aki

(23:40)


人間は本能のこわれた動物である。


「面白い本」というのはこういう本のことをいうんだな…と思った。

心理学者の著者が、「共同幻想」や「フロイトの説」などを土台にして、国家から日常生活にいたるまで考察していく。また、軽めのエッセイのようなものもいくつか所収されている。

わたしが特に面白かったのは「日本近代を精神分析する」、「何のために親は子を育てるか」だった。

前者は精神分析という観点から歴史を振り返ると……という内容でこんな歴史の見方ができるのかと、とても感心してしまった。

後者は、普段私が疑問に思っている問題に対する考えを進めてくれた。こういった洗練された思想で語られると、普段の自分のごちゃごちゃした考えが少しずつ、「あれとあれがつながって…」と整理されていく感覚がして楽しかった。

初めてこの人の本を読んで、少なくとも私はこんな面白い本があったのか、と思った。それで少しネット調べてみるとウィキペディア曰く「語り口の痛快さによって多くの読者を得て、80年代前半の思想界の注目を集めた。」人らしく、やはりかなり注目された人だったのか、と思った。(あくまでウィキペディアの内容を正しいとしたら、ですが)

私に、もう少しフロイトやユングの心理学の素養があったら、もっと楽しめたんだろうな、とも思った。

親孝行の思想はさらに露骨であって、無償では子を育てる気になれない親の気持ちがのぞいている。この思想は気の進まぬ親にだましだまし子育ての義務を引き受けさせようとする欺瞞策である。





(04:33)

2007年11月26日



幸せは蝶のようなものである。蝶を掴もうと思えば逃げられるけれども、他のものをじっと見つめていれば、いつのまにか蝶が静かに肩の上に止まっていたことに気づくものである。

(24日の分です。)
「自己愛」というキーワードを軸にして、見渡せる問題を箇条書きにしていき、さらにそれらを膨らませたような本だったと思う。

その中でも、「エゴイズム」と「幸福論」に関する考察が特に面白かった。論理的に考えていって、一つの結論に向かっていくような本ではなかったので、まだ説明のつかないことが自分の中ではものすごくたくさんあるが、グッっと来る言葉や、「そうかもなぁ…」と思う言葉がたくさんあり、何か、小説を読んでいるような気分になった。

扱われている問題が、今の私が持っている疑問に「こうなんじゃない?あるいはこうなんじゃない?」と素晴らしい言葉で触れてくれていた。少なくとも今の私にとっては読む価値のある本だった。

港とは、賛成してもらえなくても、自分の気持ちは分かってもらえる場である。


彼は誰かを愛しているつもりだったが、本当は愛していたのは自分自身だけであった。ただそれに気がついていなかったのである。


貴方が愛している人は貴方自身だけです。




(05:56)

2007年11月24日



「人間の思い込みというのは厄介なものだ。シャボン玉の中に空気が入っていることは知っているのに、目に見えないがために、その存在を忘れてしまう。そんなふうにして、いろいろなものを人生の中で見落とさなきゃいいがね」



ミステリとして飛躍しすぎているのではないかと思った。ミステリに通暁した読者であっても科学的知識(それもかなり偏ったもの)が伴っていなくては、謎解き部分が曖昧模糊となってしまい、結果的に探偵の解説に唯々諾々と従うしかないのだ。ミステリとしていくぶん潔くないのではないか。しかし同時に、これが映像化されたら面白いだろうなとも思った。

そして現在、連続ドラマ『探偵ガリレオ』が放送されている。編集者の力不足なのか、これが表現の限界なのか、そもそもわたしの感性がずれているのか、けして面白くないわけではないのだが(現に毎週欠かさず観ている)、平凡なミステリドラマに落ち着いてしまった。もしくは、映像として提示されてしまうと想像力の及ぶ範囲が狭まってしまうというのはこのようなことをいうのだろうか。

いずれにせよ福山雅治が男前であることにかわりはない。


「科学者はオカルトなんて信じないんじゃないのか」
「科学者だって、冗談をいう時はあるんだよ」



aki

(06:29)

2007年11月17日



葬式で、40歳の娘は「母は安楽死しました。母の最期の希望でした」と参列者に向けて話した。パラパラと拍手が漏れた。夏の青空が広がっていた。


安楽死について考えたいと思って読んでみた。

あとがきで著者が「安楽死を通じてオランダのことを書きたい」と言っていた通り、安楽死が合法化されるに至った経緯や、それまでの状況などでオランダについてよく書かれていて、それらも興味深かった。オランダは面白い国だなと思った。

大麻の喫煙所や、売春所が合法化されていて真昼間から堂々と営業している、高齢者の一人暮らしは当たり前、という話など、本当に「自由と寛容」を基盤とするユニークな社会なのだな、と思った。オランダの十代のモヒカン少年が「オランダでは、不良になるのは難しいんだ」と言っていたことがあったらしい(笑)。

実際に安楽死がされた時のことについてのルポも興味深かった。尊厳死というものについて、ほとんど知らなかったので、知ることが出来てよかったと思う。

この本を読んだあとも、やはり個人的には安楽死OKだと思うし、オランダなど安楽死を合法化している国に対する批判も、あまりピンと来なかった。

こういった問題は、話としては、当然個人の安楽死が取り上げられるが、こういう話を人類全体に広げて考えたいとも思う。




(21:09)