思考停止状態からの脱却

時事問題、歴史、軍事、人間心理、社会学等、わかりにくいことを、書籍等を参考にまとめて評論・考察。他には趣味のプロ野球コラムや面白ネタなどいろいろ。

    「森友学園」問題で、参院予算委員会の証人喚問に応じて答弁し、その後、補助金不正受給事件で夫妻共々逮捕され、長期拘留された元森友学園理事長の籠池泰典氏に対し、元自由党参議院の山本太郎議員と、元民主党集議院議員だった福島伸享氏の二人だけがずっと、拘留中の籠池夫妻に差し入れをし続けていたという。




    安倍政権の追及のために籠池氏を証人喚問に呼んでおきながら、その用が済めばもう後は知らないというばかりのその他野党議員の対応。

    こうした態度に、現在、敵対する与党自民党の安倍内閣一強状態を批難しながら、支持率を数パーセントにまで低下させた野党勢力の凋落の原因が存在している。

    この点は自民党もそうだが、その他リベラル派に属する野党の政党にしても、彼らは互いに"民主"政党を名乗りながら、個々の細かい民意と直接向き合うようなことまではしない。

    一方的に、党の理念や目標に国民を"動員"しようとするだけ。

    そのため「マス(大衆・群集)」を相手に、メディアを通じてより大きな単位で世論の支持をつかみ、選挙で浮動票の大量獲得を狙おうとする。

    が、以前までなら通用したその方法が、今ではもうぜんぜん通用しなくなってきた。

    しかしそれも自ら招いたことで、一つには朝日新聞の慰安婦報道問題で、もう一つが自民党に代わって政権与党となった旧民主党時代のマニフェストの撤回行為。

    そしてそれらによって引き起こされた「急逝アノミー」状態が、日本人にそれまでは通用していた価値観に対する深刻な不信感をもたらす状況を生み出した。


    「急性アノミー」がもたらす集団のファッショ化


    もともと朝日新聞には「珊瑚記事捏造事件」等にみられるような、たとえ事件を捏造してでも自分たちがそうあるべきだと望む方向に世論を強引に誘導しようとする態度があったが、慰安婦問題でもまたそうしたことが行われていたのかということで、その結果、彼らが慰安婦問題を通じて「戦争=悪」「旧日本軍=侵略者」という保守派の攻撃に使っていた図式が、一挙にそこで大きく崩される結果となった。

    実際、彼らにとって細かな事実関係が問題なのではなかった。

    それはその後の行動をみても、失った信頼を取り戻そうとするのであれば、より厳格なファクト・チェックの体制作りこそが求められるところだが、彼らは何とかして安倍政権や保守勢力のスキャンダルや問題点を見つけることで、再び世論の動向をひっくり返すことに躍起になるばかりだった。

    でもそれが通じない。

    自分たちが信頼を失ったことで、政府を批難してもかえってその批難が逆に批判されるようになってしまった。
    政府を攻撃すればするほど政府の支持率は上昇し、国民の安倍政権および与党自民党に対するラポールが勝手にどんどんと強化されていく状態。

    しかも情けないことに、それが通用しないとなれば、今度はメディア自体の一斉「転向」が始まる。

    「新聞」も、









    「テレビ」も、




    そして公共放送「NHK」まで。


    むしろNHKなんて、"公共放送"だからこそ、政府の主張する政策を忠実に垂れ流すのが公正で公平みたいな感じになってきている。

    てか既にコンテンツを子会社で販売して利益を出しているのだから、分割民営化こそ進められて当然のはずなのに、今度はインターネット放送に進出してさらに契約料徴収の範囲を広げようとしている。

    ネットで放送するだけでデータ通信料も払わず逆に視聴料金を徴収できるとか、どれだけ民業圧迫かという話だが、
    さらに、そこまですればもはや「増税」と変わらなくなる。

    これも、山本太郎議員が国会で追及していたが、消費税が実際にどう使われているのか、その内訳をみせろといって、政府は「出せない」と回答。
    財政が逼迫して社会保障政策が破綻しそうだから増税しなければならないと言いながら、その一方で消費税を増税するたびに、その一方で増税分と同じくらいの公務員給与の増額が行われたり、はたまた払うべき公共料金が増やされるのでは、これで「デフレからの脱却」などいつ果たされるのか。

    というよりその、経済成長のスピードより早い段階的な増税と財政支出の拡大こそが、「失われた10年」「失われた20年」に延ばし、さらにまた「失われた30年」にまで被害を延長させようとするものなのではないのか。

    デフレによる不景気とは、社会に現金が流通していない状態だから、金融政策や財政政策を行い、市場になんとか現金の流通量を増やしてインフレ状態にして、景気を回復して増収を図ろうとしているというのに、その一方で同時にその市場から反対に現金をバキュームして、一体何がしたいのかわからない。


































     

    遂にヤクルト16連敗。

    ヤクルト、49年ぶり屈辱の16連敗 セ・リーグワースト記録並ぶ DeNA上茶谷にプロ初完封許す― スポニチ Sponichi Annex 野球

    これでセ・リーグワースト記録に並ぶこととなったが、ところがそのセ・リーグワースト記録はヤクルト自身が49年前に残した不名誉の記録で、
    今回はなんと、そのセ・リーグワースト記録を自ら再び繰り返すという結果になった。

    というか、ヤクルトという球団は、勝っている時も負けている時も何も変わらない球団なのかもしれない。

    これは日本のプロ野球全体の体質でもあるが、日本のプロ野球球団は皆が皆、絶対に優勝したいと望んでいるわけではない。
    かつて近鉄バファローズに所属していた野茂英雄投手が球団の幹部の人からある時、

    「優勝までしなくていい。接戦して、最終的に2位がいい」

    と言われて、
    それが彼が日本を離れてメジャー・リーグでプレーする大きな動機になたっという有名なエピソードがあるが、
    優勝してしまうと選手の総年俸も上がってしまうから。

    だから優勝までしなくていい。

    球団としては会社の宣伝のためにやっていることで、だから無理に優勝までしなくても、選手が活躍してチームの宣伝ができればそれでいいという考えでやっている。

    ヤクルトでは、王選手の年間ホームラン記録を更新したバレンティン選手や、非常にごく限られた超一流のトップ選手が最も気力・体力・技術力の充実した時期に一度でも達成できればいいくらいの「トリプル・スルー」を既に三度も達成した山田哲人選手や、西武の清原選手以来、若干10代の若さでチームの四番を努める村上宗隆選手など、凄いバッターをたくさん輩出する割りに、投手力のほうが打線に比べて著しく弱い。

    それもずーっと、ここ十数年に渡ってそのまま。
    チーム防御率で3位以上になったことが過去10年でたった一度しかない。
    投手力でいえば万年Bクラス。
    華やかな打線の活躍と比べて、投手陣のほうはもうずっと"暗黒"状態の中にいるといえる。


    順位表 - プロ野球データFreak


    高田繁監督のときに大連敗して途中辞任の事態となり、代わった小川淳司監督のときに盛り返してAクラス常連の強豪チームに復活しかけるが、と思った途端に投手陣が大崩れして再び最下位に転落。
    そこから真中監督になってリーグ優勝したかと思えば、その後に投壊して年96敗もしてまたしても最下位転落。
    そしてまた小川監督の再任となり、2位になって復活したのかと思ったら、またここにきての大連敗、そして最下位転落と。

    元中日監督の落合さんが、ヤクルトは元々ピッチャーが悪いチームだから、打線がハマれば巻き返しも可能だと語られていたが、ヤクルトが一貫して悪いのが投手力。
    それで打線がメチャメチャに爆発したときはチームの順位も上がるが、打線が打ってもそれ以上さらに投手陣が打ち込まれれば一気に下位へと転落。

    「投壊・ケガ人・守備難」

    が、一向に改善されないヤクルトというチームのウィーク・ポイント。

    球団の責任者は、改善を図りたいとかコメントはするが、本気とは思えない。

    強力な打線を有するヤクルトだが、打撃コーチには伊勢孝夫杉村繁という球界でも屈指の名コーチがいて、杉村コーチはチームの打撃コーチのメンツが変わっても「巡回コーチ」という役回りで高齢になった現在でもスタッフとして関わりを続けている。

    しかし投手コーチのほうにはこの伊勢・杉村に相当する名伯楽のコーチが、今現在はチームに存在しない。
    小谷正勝投手コーチがそれに相当する存在なのだが、現在は巨人のコーチに回っていて不在。

    この小谷コーチは、大洋・横浜で盛田幸妃、三浦大輔、佐々木主浩投手、ヤクルトで内藤尚行、加藤博人、鈴木平、川崎憲次郎、五十嵐亮太、石川雅規、巨人では内海哲也、山口鉄也、越智大祐といったピッチャーを次々育成したとにかくスゴイ人。
    けど選手としては大洋ホエールズにしか所属しておらず、関根潤三さんが大洋とヤクルトで監督をしていたときに呼ばれて、それからヤクルトでも縁ができてコーチをするようになったのだが、小谷コーチがいなくなるとヤクルトの投手陣はガタガタになってしまって、どうもこの点、このヤクルトというチームでは、投手陣育成のためのノウハウがその後も続けてチームに継承、蓄積されるということが全くないようだ。

    不振で成績を落として日ハムにトレードに出されたドラ1の秋吉投手が移籍先のチームで活き活きと活躍し、反対にヤクルトに入ってきた高梨投手のほうは以前よりも防御率を悪化させるなど、現在のヤクルトでは、投手を育成する力を失ってしまっているようにみえる。

    コーチに関しては、選手時代の実績とコーチ能力とは必ずしも連動しない。
    けれども、優先して投手コーチに選ばれるのはチーム内において優れた成績を残した選手たちになる。
    下位の球団ではドラフトやFAで選手の流出を防ぐためにコーチ就任の確約を与えるケースもある。

    だから多分、打撃コーチの伊勢・杉村氏といったコーチングに優れた能力を持った人物がコーチになれば選手たちの成績も上がるが、ダメだった場合は悪いままという、それがヤクルト特有の、同じことを何度でも繰り返すという欠点の原因になっているのではないか。


    2008年の東京ヤクルトスワローズ 選手・スタッフ - Wikipedia>(高田繁監督)5位
    2009年の東京ヤクルトスワローズ 選手・スタッフ - Wikipedia>(高田繁監督)3位、防率5位
    2010年の東京ヤクルトスワローズ 選手・スタッフ - Wikipedia>(高田繁監督、小川淳司)4位、防率2位
    2011年の東京ヤクルトスワローズ 選手・スタッフ - Wikipedia>(小川淳司監督)2位、防率5位
    2012年の東京ヤクルトスワローズ 選手・スタッフ - Wikipedia>(小川淳司監督)3位、防率5位
    2013年の東京ヤクルトスワローズ 選手・スタッフ - Wikipedia>(小川淳司監督)6位、防率5位
    2014年の東京ヤクルトスワローズ 選手・スタッフ - Wikipedia>(小川淳司監督)6位、防率6位
    2015年の東京ヤクルトスワローズ 選手・スタッフ - Wikipedia>(真中満監督)1位、防率4位
    2016年の東京ヤクルトスワローズ 選手・スタッフ - Wikipedia>(真中満監督)5位、防率6位
    2017年の東京ヤクルトスワローズ 選手・スタッフ - Wikipedia>(真中満監督)6位、防率6位
    2018年の東京ヤクルトスワローズ 選手・スタッフ - Wikipedia>(小川淳司監督)2位、防率4位
    2019年の東京ヤクルトスワローズ 選手・スタッフ - Wikipedia>(小川淳司監督)現在ともに最下位


    人に任せて、良くなれば良くなるし、悪ければ悪いまま。
    けれどもそれで、そのまま放置してしまえる経営者サイドの責任問題。

    14連敗して衣笠球団社長が、

    「体制を変えない方がいい」

    と言うくらい、投手陣の問題は今に始まった問題ではなくもう10年くらいずっと万年Bクラスのまま、いつまた大型連敗を引き起こしてもおかしくはないというのに、ピッチャーの緊急補強くらい考えたらどうか。


    ヤクルト、村上がノーヒッター阻止も14連敗 衣笠球団社長「体制を変えない方がいい」 (2/2ページ) - 野球 - SANSPO.COM(サンスポ)


    ケガ人の多さもヤクルトの特徴で、それも尋常ではない。
    「ヤ戦病院」とネット上で揶揄されるくらい酷いが、現在でもこの大連敗中に守護神の石山泰稚投手が、上半身のコンディション不良でファームで調整中という状態。

    ヤ戦病院 - 新・なんJ用語集 Wiki*

    チームとしてはもちろんその都度、改善策を施しているのだろうが、しかし結果が向上しなければ対処したことにならない。
    投手陣でいえば、チーム防御率が上がらなければいくら人事を変えたといって意味がない。
    効果で考えなければ。

    ヤクルトではかつて一時期、素材型の高卒ピッチャーを相次いでドラフト1位で獲得したが、その後長期間に渡って安定的に成績を残してチームの守りの要として成長する選手は遂に出てこないままに終わった。

    小川監督が最下位になって退任した後に真中監督で優勝して、ウィークポイントを改善して勝ったのだろうと思っていたが、結局なにも変わってはいなかったようだ。
    そのときの打線の力で勝った。
    しかし「打線は水物」と言われるように、野球では長期のリーグ戦を勝ち抜くのも、短期のポストシーズンを制するのも、やはり投手陣の安定強化が欠かせない。
    梨田監督時代の近鉄や堀内監督時代の巨人も非常に強力打線を擁しながら、日本一、リーグ優勝を達成することはできなかった。

    けれどもその肝心の投手陣がずっと万年Bクラスのままなのだから、ヤクルトは今後もいつまた大型連敗に見舞われておかしくない。






















     

    日本維新の会・丸山ほだか氏の北方領土問題に関する発言がかなりのニュースになっている。



    ただその一方で、何が悪いのかという意見も出ている。

    しかしもともとその「北方領土4島は戦争しない限り取り返せない」という発言の趣旨は、維新の会リーダーの橋下徹氏以下、維新の会系議員の人たちにとって、議論の前提問題として置かれていることのようだ。

    だからそれこそ、戦争で奪われた領土を取り返すのは、主権国家としてもっていて当然の権利の一つではないかといった認識。
    戦争をするしないは、その国々で決めて当然のことだということと同じテーマに属する問題という認識。



    「戦争で奪われた領土を戦争で取り戻すのは当たり前」論が普通に出てきてるが、実に乱暴な話だ。



    日本の領土なのに不当占拠されているということでいえば、日本の主権の及ばない米軍基地こそまさにそうなのに、なぜかそのためには戦わず、逆に膨大な額の金を貢いでニコニコしている。

    日本のために米軍が頑張ってくれているなら、先ず米軍にロシアを追い払ってくれように言えばいい。
    北朝鮮にそうしてもらったように。

    日本は戦争に負けて、その後の講和条約で、それまでの対外戦争で獲得した領土については放棄した。
    それを戦争で取り戻すということは、調印した講和条約を破棄して、現在の国際連合体制からも離脱して、ロシアに宣戦布告をして戦争を挑みかけるということだ。

    それが当たり前になるというのは、まさにそれは昭和に日本人が「太平洋戦争」に突き進んでいった思考と全く変わらない。
    理不尽な国連決議で不当に日本をおとしめる国際連盟から脱退して世に正義を訴えるのだと。

    丸山議員に関しては議院辞職勧告決議案まで出されるかどうかまでいって問題視されているが、この人物の場合、問題は単に今回の一件だけでとどまることではない。
    今年の3月に、韓国の金浦空港で空港職員とトラブルを起こして現地警察に身柄拘束までされた厚生労働省の課長の人がいたが、丸山議員も元は経済産業省の官僚出身の政治家。

    韓国の空港で「韓国人は嫌いだ」とヘイトを叫んだ厚労官僚はアベノミクスの旗振り役! 安倍政権下で進む公務員のネトウヨ化|LITERA/リテラ

    こうしたマインドを持った人は保守政治家ではなくむしろ官僚側の人たちに見られる特色だ。

    本来の保守政治家でいえば、金と利権が大事で、イデオロギー色はそこまで強くない。
    小室直樹先生が著書に書かれていたが、

    「官僚は政治家と比べて汚職はないが、けれども官僚たちが政治を支配していた時代が最も危険だった」

    と。

    しかし近年では、「日本会議」「神道政治連盟」といった非常にイデオロギー性の強い保守団体に支持され憲法を改正を実現しようとしている安倍政権の出現によって、議会を占める政治家のカラーもかなりファナティックなものへと変貌を遂げつつあるようだ。



    安倍政権では約60年ぶりとなる教育基本法の全面改正が行われて、そこに「愛国心条項」が盛り込まれることとなったが、以前なら危険視されたような意見でも、最近ではそれが国のためを思った態度として当然ではないかと支持される傾向が強まりつつある。

    戦争で奪われた領土はまた戦争で取り戻すしかないというのはもっともらしく聞こえるが、けれども戦争で負けて取られた領土ということでいえば、韓国や台湾なども入ってくる。

    しかし、日本は「戦争で奪われた領土」に関しては、戦争に負けたことによって放棄したのだ。

    では、「北方領土」は何でロシアからの返還を求めていたかといえば、それが、

    「日本の固有の領土」だから。

    という理由でずっとソ連およびロシアからの返還を求めていた。

    そこは戦争で奪い取った領土じゃないから、もともと日本の領土だったのだからという言い分で。

    「ポツダム宣言」において、日本の領有は、

    「日本の主権は本州、北海道、九州および四国並に吾等の決定する諸小島に極限せられるべし」


    とされたが、
    その後、日本再独立の際に締結された「サンフランシスコ講和条約」(1951年9月8日書名)では、
    第二章第二条において、日本の領有権に関しては、

    「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として
    主権を獲得した樺太の一部およびこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」


    ということとなった。

    つまりここで、結局あらためて日本は千島列島の領有権を放棄するということが決められたわけなのだが、しかしその「千島列島」が含む各島の内訳に関しては、当時の吉田茂首相は、千島列島の内でも「歯舞・色丹」の二島のみは、日本領だとの見解を示し、
    それが明治時代に条約を結んだころのロシアとも共通する考えだったという。

    「千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、
    帝政ロシアもなんらの異議をさしはさまなかったのであります」
    (1951年9月7日の吉田首相の答弁)

    日本が江戸時代の1855年に帝政ロシアと結んだ「日露通好条約」での境界線が、千島列島のうち、国後・択捉、歯舞・色丹の北方四島までは日本領とする取り決めだったという。
    また、千島列島の領有は放棄すると決められたサンフランシスコ講和条約締結時においても、ほぼ舞・色丹の二島のみに関しては、これは北海道の一部だという見解だったのだという。


    日露急接近はアメリカの意向を反映させた中露分断工作か ①
    日露急接近はアメリカの意向を反映させた中露分断工作か ②


    だから「北方領土」に関しては、二島にしても四島にしても、それはもともとからの「日本の固有の領土」だったのだから、日本の領土として返してくれというわけだ。


    1855年日露通好条約(北方四島以南が日本領に)
    1875年樺太・千島交換条約(千島列島全土が樺太と交換で日本領に)
    1945年ヤルタ秘密協定(北方四島までがソ連領に)
    千島列島の境界線の推移
    樺太・千島交換条約 - Wikipedia


    日本は1941年(昭和16年)に、ソ連とは「日ソ中立条約」を結んでいた。
    「日ソ中立条約」では、もし条約を破棄する場合は、1年前から破棄通告をしていなければ自動延長されるという約束だったのが、それをソ連がまだ4ヶ月前の段階で一方的に破棄し、さらに1945年(昭和20年)8月8日に正式に日本に対して宣戦布告をし、日本は一気に北方領土まで不当に奪い取られてしまうこととなった。

    しかし、ソ連は1945年2月の「ヤルタ会談」で、対日参戦することを条件に、「千島列島はソヴィエト連邦に引き渡されるべし」という密約が取り交わされていた。

    英米の連合国は第二次大戦中の1941年8月に大西洋憲章で、
    「いかなる拡大も求めない」「いかなる領土の変更も欲しない」という取り決めを約束していたにもかかわらず、米英がスターリンの要望に応じたため、だから「ヤルタ秘密協定」という密約の形になった。

    けれども「密約」とういうのは、密約だからといって破棄されることはない。
    たとえ密約だとバレたとしてもそれは変わらない。
    別の新しい解釈や名目が与えられてでも密約の効力は継続させられる。

    だからソ連に戦争で占領されて、ここまでが千島だと主張されれば日本がいくら固有の領土だと訴えても交渉は難しい。
    それでも交渉の前提に戦争まで含めるというのであば、こんどは日本がロシアにとって平和を脅かす脅威となる。
    そしてそうなれば今、日本が北朝鮮や中国に対して乗り出そうとしているような予防戦争の対象となって、その脅威を取り除くためあべこべにロシア軍のほうが日本本土の部分占領に乗り出してくるといった危険性さえ生じておかしくないが、なぜかそういうふうには頭が回らない。

    戦前の日本がまさに、そういう名目でアジアの諸地域を占領して支配下に収めてきた。
    中国政府は反日分子を取り締まらず日本人居留民の安全が確保できないといって、無理やり現地の中国軍を排除して占拠し、日本が変わりに統治するということをやってきた。
    満州は民族独立の五族協和の理想郷にするとか謳っていたが、時間が経っていればおそらく日本は満州も韓国と同じように併合していたにちがいない。
    考えることは大昔と変わらず、それで大失敗したにもかかわらずまた元に戻ろうとしている。

    しかし、もともとアメリカのほうにも千島列島の範囲に関しては曖昧だという認識を持っていたという。

    丹波寛元駐ロシア大使著『日露外交秘話』には、
    1951年対日平和条約において、(アメリカは)日本に千島列島を放棄させるが、
    この放棄させる千島列島の範囲を曖昧にしておけば、この範囲をめぐって日本とソ連は永遠に争うこととなり・・・・・・

    という趣旨の在京英国大使館発英国本国宛の極秘意見具申電報があると、書かれているという。

    が、ただ「日ソ中立条約」違反だからという理由でそれに違反してソ連が奪い取った領土は返せということになれば、韓国や樺太だって返せよということになってくる。
    けどそこはいいけど北方領土は返せというふうになるのは、そこが日本の「固有の領土」だったからという理由しかない。

    すると、でもそうなると今度は、今、安倍内閣では、北方領土は「日本の固有の領土」だという主張をを、撤回してしまった。



    が、「日本の固有の領土」だという理由をなくせば、もはやその領土を返してくれという理屈すら成り立たなくなってしまう。

    と、いうことをしてくれたのだ。この日本の首相は。



    今、もう日露の領土交渉がどうなっているのか、まったくわからない。

    日本との平和条約についてはプーチン大統領のほうが乗り気で、北方領土の返還についても「平和条約締結後に歯舞、色丹を引き渡す」とした1956年の「日ソ共同宣言」を基礎に、二島返還で進めていくといった話だったはずなのに、ここにきて俄かに雲行きが怪しくなってきたのはどういうわけなのか。

    「固有の領土」だという主張まで日本のほうから取り下げたのであれば、後は何がロシアの不満のなのだろうか。
    返還後、といっても「固有の領土」だという主張まで取り下げればもはやロシアからのレンタルにしかならないが、そのレンタルした土地に米軍が入ってくるのを心配してるからとは言われる。
    けどそれなら領土返還は最初から無理だという話になる。

    安倍首相も安倍首相のほうで何を考えているのか。
    安倍首相のほうは、憲法改正のための選挙に勝つための支持率UPのためのレガシー作りのためなのだろうが、一体この男はそのレガシー作りのためにどこまでの代償を払ってもいいというつもりでいるのか。

    もし何らかの"密約"で結ばれたとして、それは密約でも効力を発揮する。
    ただしそうなると今、日本がアメリカや他の国々と結んでいる条約との間で「二重外交・多重外交」状態になる。

    「固有の領土」ではないが日本が「主権を有する(主張する)」土地ということでは、これまで日本が返還を求めていた大前提が崩れる。
    それであれば失われた領土の返還要求は、日本がその気になれば韓国や台湾はおろか満州にだって適用できるようになる。

    外務大臣から、誰も何の説明もしない。国会で質問されてもひたすら無視




































    「戦争ができる」ということは当たり前だという前提の認識で、それで、日本は、"道義的に"それを、あえてそれを放棄してうやっているのだという意識が、チラチラ。

    日本が戦争を放棄しているのは、すなわち日本人が平和を愛する善良な民族だから。
    大量虐殺するような野蛮人とは違うからといった意識。

    本来、独立した主権国家であればしなくてもいいことをしているのは、それをアメリカから平和憲法を押し付けられているからだけど、
    けれども日本人は平和民族だから、あえて受け入れいてやっているのだと。

    が、いくら黙っているからといって、いつまでも理不尽なことを強いられるようなら、日本人にだって我慢の限界はあるからなと。

    大東亜戦争のころからずっと、

    「今度という今度はがまんならない」

    という理屈でやって日本人のずっと変わらないこの意識。

    山本七平botまとめ/理不尽なアメリカにどう接するべきか、の考察 - Togetter


    日本人は単純に物事を「善」と「悪」に分けて考えたがる。いわゆる「善悪二元論」で考えたがるのが日本人の特徴。

    山本七平botまとめ/【ものの見方の差】日本にない対立概念/日本のばあいは二元論/すべてに誤る善玉悪玉観/ローマ法の世界と自然法の世界 - Togetter


    ここが微妙で、「対立概念でとらえる」のではなく、「善玉悪玉と二つに分ける」というところに、日本人の厄介な問題が生じてくる。対立ではなく、善と悪を分けてしまうと、そうすることによって、「社会悪の構造的原因まで追究しない」ようになると、山本七平さんは指摘する。

    山本七平botまとめ/内なる「悪」に無自覚な日本人 - Togetter




    しかしこの意識のせいで、日本人は起きた社会問題に対して、自らの罪の意識はおろか、生じた事件や問題に対知る「責任意識」「当事者意識」までもが完全に欠落してくるようになる。

    悪いことが起きたのは、誰か悪いやつがいるからそうなるだけで、自分たちには何の責任も問題もない。悪いことしたヤツがいなくなればいいだけ、という考えになって。

    日本人は、特に保守の考えの人たちはその傾向が強いが、昭和の戦争を、"追いつめられたから"という言い方をしたがる。

    悪いヤツがいて、その悪いヤツらに日本は戦争せざるを得ない状況へと追いつめられてしまったのだと。

    終戦直後は戦争行為そのものが悪かったのだという認識できていたが、ただそれもよく考えれば、"自分たちのせいではない"という意識の裏返しの構造にもなっていた。

    それが戦後70年以上も過ぎて、いや戦争だって、それの何が悪いのかと。

    戦争自体は他のどこの国でも、自分たちの国の平和や安全、自己の利益を守るために権利として持っているにすぎない単なる権利の行使であって、何も悪くない。みんなやっている。

    だから戦争も悪くない。

    悪いのはだから、日本がそうさせられたように、戦争せざるを得ないような状況に追いつめた連中が悪いのだと。

    そして、そういう悪いヤツらが今、日本の領土の安全を脅かそうとしてきている。
    だからその悪いヤツらから日本を守るために、戦争だって普通にできるように憲法を変えて日本を守らなければならないのだと。

    ・・・と、このように考えると、日本の敗戦に対する責任問題や当事者意識がすべてきれいに消えてなくなる。

    戦争自体の「いい・悪い」論になって、そもそも軍事作戦として狂ったことをしていたという運営面について問題は全く話題にも取り上げられない。
    それは確立の問題じゃない、成功しようが失敗しようが、どんなに困難な戦いでもやらなければならない戦いだったのだといい訳されて、それでコロッとごまかされてしまう。

    しかしそれは、単に当時の日本軍が実際にどんなことをしていたかその実態について知らないままでいるからだ。

    『マクロ経営学から見た太平洋戦争』p.125

    マクロ経営学から見た太平洋戦争 (PHP新書)
    森本 忠夫
    PHP研究所
    2014-08-29


     当時、日本が手を伸ばした作戦の全長は、戦後の1981年ころの日本の商船が張りめぐらせた航路網に匹敵するといわれた、べら棒な長さであった。
    今日、その航路をカバーするのに4000万トンの船舶の運航をもってしてすら必要な貨物の約半分しか運べないといわれているが、それと同じ長さの作戦線を拡げに拡げた戦線のころの太平洋戦争当時における、日本の全船舶保有量は、わずかに642万トン。
    いいかえれば、戦後の今日における必要量のほぼ12分の1にも満たなかったのである。
    作戦と船腹の関係にまるで整合性を欠いた、軍事的ファナティシズムによる暴走以外の何物でもなかったということだ。

    昭和の初めのころに日本が「満州事変」「支那事変(日中戦争)」(昭和12年:1937年7月7日~昭和20年:1945年9月9日)を起こして当時の中国から領土を奪おうとしたのは、日本が世界戦争の弱肉強食の時代に生き残れるように、資源と、ブロックされても貿易が続けられるための市場と生産活動のための労働者を確保するため。

    そのときはそれこそ、日本が生き残るためにこれが必要なことなのだといってやっていた。
    侵略でもこれが時代の"リアル"なのだと。

    しかし、日本は中国との戦争に必要な鉄鋼資源や石油をそのころ、アメリカから輸入して続けていた。

    当時の日本は先ず、アメリカに生糸を輸出し、生糸で得た外貨でアメリカから石油、機械類、屑鉄、木材パルプおよび綿花を輸入し(貿易の第一環節)、
    次いでその綿花を加工して各種綿製品を生産して世界市場に輸出(といってもこれは主に日・英間で)し、重工業原料を輸入していた。(貿易の第二環節)
    そしてそこから得た工業原料を加工して、最終的に、満州と支那の市場へ、日本から製造した工業製品や機械類を輸出して利益を得るといった貿易(貿易の第三環節、満支からは農産物、食料品および鉱物を輸入していた)をしていた。


    だから日本がアメリカやイギリスと不仲になったら戦争など続けてはいられなかった。

    その状況が変わるのが、日本が中国とドロ沼化した長期戦を戦っていた最中に巻き起こった「第二次世界大戦」の勃発。
    日本軍による「英仏租界封鎖」がアメリカの危機感を増幅させ、1941年(昭和16年)8月にアメリカから対日全面禁輸を喰らう2年以上前の昭和14年(1939年)7月に、日本はアメリカから「日米通商航海条約」破棄を通告され、アメリカによる日本への経済制裁は、既にこの頃から早くも開始されていたのだった。

    それまで日本はアメリカとの貿易関係で得た外貨や資源を使って支那事変(日中戦争)を戦っていたのに、第二次大戦の発生以後、それができなくなってしまったのだ。

    アメリカが危険視したのは、日本がアメリカにとって最大のパートナーであるイギリスを滅ぼそうとしているヒトラーのナチス・ドイツと日本が三国同盟を結ぶ関係にあって、その日本がヒトラーの要請を受けて、イギリスの生命線である植民地インドとの補給線を分断してイギリスへの補給を断ち、国家滅亡に追い込む事態だった。

    もともと日本は、共産化したソ連からの侵攻に備えるためという名目で、ドイツ・イタリアと反共産主義同盟となる「防共協定」を結び、満州事変で満州を獲得してソ連との緩衝地帯とし、さらに華北・華北の資源と市場獲得を目論んで「支那事変(日中戦争)」を起こしていた。

    最初はすべて、ソ連との戦いに備えるという名目だった。

    しかし日本の中国侵出を警戒した英米仏ソが中国側を支援したため、日本軍はいつまでも中国政府を屈伏させることができずにいた。
    そして諦めて中国内陸部からの撤兵を考えはじめたとき、そこで第二次世界大戦が勃発した。

    しかもヒトラーのナチス・ドイツは電撃戦を展開してまたたく間にフランスやオランダを降伏させ、イギリスももはや降伏寸前かというところにまで追いつめた。

    これで日本の方針が一挙に転換した。
    いっそこの機に中国から英仏の勢力を排除して、中国に親日の傀儡政権を樹立して支配することを企んだ。

    米英との貿易関係が途絶するのはダメージだったが、南方東南アジアの資源地を獲得することでそれに代替すればすべてうまくいくと短絡に考えた。

    それが「大東亜共栄圏構想」の実態。

    日本がアジアの国々を欧米列強から解放するための聖戦などと謳っていたが、所詮"後付け"の設定として考案されたものに過ぎず、本当のところは第二次大戦で英仏がドイツにコテンパにされるのを見て、ザマミロこの隙にと、日本のほうが中国・アジアを火事場泥棒的に奪い取ってしまおうとするものだった。

    これで当時も戦後もずっと変わらずに、「追いつめられてしょうがなかった」と言い訳し続けているのだからすごい。




    昭和14年(1939年)

    昭和14年(1939年)5月、「第一次ノモンハン事件」の発生。
    昭和14年(1939年)6月14日、日本軍、天津英仏租界を封鎖。
    昭和14年(1939年)7月、「日米通商航海条約」破棄を通告。
    昭和14年(1939年)8月、「第二次ノモンハン事件」の発生。
    昭和14年(1939年)8月、「独ソ不可侵条約」の締結。
    1939年(昭和14年)9月、ドイツ、ポーランド侵攻。英仏ドイツに宣戦布告。「第二次世界大戦」の勃発。


    昭和15年(1940年)

    昭和15年(1940年)5月、ドイツがオランダとベルギーを降伏させる
    昭和15年(1940年)6月、近衛文麿、「新体制運動」推進を表明。「新体制運動」とは、近衛文麿をリーダーとして、ドイツのナチス党、イタリアのファシスト党となるべき一国一党による強力な指導力を持った独裁政治体制の確立を目指した運動で、最終的に日本の政党はすべて解散され「大政翼賛会」となった。
     軍部ではファシズム化させた近衛新党をして、挙国一致体制の軍事国家を夢想したが、近衛とその側近たちも、近衛新党運動による新体制で国民を統一し、軍部の専横を防ぐことを考えていた。既存各政党は近衛の新党運動に乗り遅れるなと、雪崩を打つように解党しはじめた。政党人たちは「バスに乗り遅れるな」と解党したが、平沼騏一郎など観念右翼系や、柳川平助など皇道派系の将軍からは「新体制は幕府的存在である」との非難も一方で浴びた。
              
    昭和15年(1940年)1月15日、「米内光政内閣」の成立。

    昭和15年(1940年)7月、社会大衆党解党。
    昭和15年(1940年)7月22日、米内内閣、畑俊六陸相が辞任したあとの後任陸相を陸軍が推挙せず、倒壊に追い込まれ解散。政友会久原派解党。

    昭和15年(1940年)7月22日、近衛文麿に大命降下。「第二次近衛内閣」発足。
    昭和15年(1940年)7月26日、近衛内閣が閣議で「基本国策要項」決定。第2次近衛文麿内閣発足時のこの「基本国策要綱」に、「日本を盟主とする東アジアの広域ブロック化の構想」である「大東亜共栄圏」構想がはじめて盛り込まれる。「大東亜新秩序」の建設は、ドイツのファシズム体制のように、日本国内でも戦時に政党を解散させて挙国一致体制の確立を目指す「新体制」運動と並ぶ基本方針とされた。
    これはドイツの「生存圏(Lebensraum)」理論の影響を受けており、「共栄圏」の用語は外相松岡洋右に由来する。

    昭和15年(1940年)7月、政友会中島派解党。
    昭和15年(1940年)8月、民政党解党(衆議院は無党派状態に陥る)。 仏印進駐に関し松岡・アンリ公文交換「松岡・アンリ協定」が結ばれる。

    昭和15年(1940年)9月、日蘭経済交渉開始(小林一三特使)。           
    昭和15年(1940年)9月23日、日本軍、「北部仏印」に進駐。           
    昭和15年(1940年)9月27日、「日独伊三国軍事同盟」成立

    昭和15年(1940年)10月12日、「大政翼賛会」(総裁・近衛文麿)の結成。ところができあがった大政翼賛会は、「大政翼賛会の綱領は大政翼賛・臣道実践という語に尽きる。これ以外には、実は綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において方向の誠を致すのみである」(近衛首相の演説)というもので、近衛首相や軍部が考えていた強力な指導力を持った組織ではなく、それはもはや「政党」ですらなく、単なる「会」へと成り下がってしまっていた。

    昭和15年(1940年)11月、最後の元老・西園寺公望病没。
    昭和15年(1940年)12月、内閣改造、内相に平沼騏一郎、法相に柳川平助(一挙に右翼的色彩が強まる)。


    1941年(昭和16年)

    1941年(昭和16年)3月12日、松岡外相が独伊訪問の旅に出発し、ヒトラー、むっそりーにと世界分割について語り合う

    1941年(昭和16年)4月、松岡洋右外相、モスクワで「日ソ中立条約」に調印。

    1941年(昭和16年)4月、「日米交渉」の開始。アメリカ国務長官コーデル・ハルを「日米諒解案」を交渉の基礎にすることを野村吉三郎大使に言明し、日米間の大きな問題だった、日支事変の解決、日本の三国同盟の死文化、太平洋平和の確立を目的とした和解案を提示した。
                「ハル四原則」の提示
                1:すべての国家の主権尊重、領土不可侵、
                2:内政不干渉、
                3:機会均等を含む平等原則、
                4:太平洋秩序の維持

    1941年(昭和16年)6月、近衛内閣、蘭印で経済交渉に当たっていた芳澤謙吉公使に交渉打ち切りを訓令。

    1941年(昭和16年)6月22日 、ドイツ、ソ連に宣戦。「独ソ戦」の開始。電撃作戦で国境各所を突破。

    1941年(昭和16年)7月2日、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定される。ソ連に対しては「独ソ戦争の推移、帝国のため有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決」する。
    南方進出は「対英米戦争を整え」つつ態勢強化を図るため「仏印(ベトナム)及びタイに対する諸方策を完遂」する、という内容が盛り込まれたが、結局、対ソ戦略は成り行きまかせで、ドイツ軍が勝ちそうになったら日本も打って出る、という是々非々路線の内容となる。

    1941年(昭和16年)7月12日、総力戦研究所で模擬内閣が組織される。

    1941年(昭和16年)7月、御前会議において南部「仏印進駐」を決定。「関東特別大演習」
    。満州に日本軍七十万が集結。

    1941年(昭和16年)7月16日 第二次近衛内閣総辞職(対外強硬派の松岡外相を切るための解散)

    1941年(昭和16年)7月18日 「第三次近衛内閣」の成立。

    1941年(昭和16年)7月25日 アメリカ、在米日本資産凍結令公布。

    1941年(昭和16年)7月28日 日本軍部「南部仏印進駐」

    1941年(昭和16年)8月、アメリカ、発動機燃料、航空機用潤滑油の対日禁輸。アメリカは石油をはじめ重要物資の対日禁輸に踏みきる。

    1941年(昭和16年)9月、昭和天皇、御前会議を控えて統帥部総長を叱責。

    1941年(昭和16年)9月6日、御前会議で「帝国国策遂行要綱」が決定される。「帝国は自存自衛を全うする為、対米(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に、概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」

    1941年(昭和16年)10月、日米交渉継続か決裂かで、近衛首相と東条英機陸相が鋭く対立。第三次近衛内閣総辞職。木戸幸一内府の強い推薦により、陸相東条英機が組閣。「東条内閣」成立。ゾルゲ事件、近衛のブレーン・尾崎秀実らの検挙。

    1941年(昭和16年)11月、御前会議において「帝国国策遂行要領」決定。来栖三郎をアメリカに特派し、日米交渉打開を探らせる。ハル国務長官、日本の最終提案に対してハル・ノートを回答する。日本政府はこれを最後通牒と解釈。

    1941年(昭和16年)12月、御前会議、対英米蘭開戦を決定。
    1941年(昭和16年)12月8日、日本軍、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃。マレー半島に上陸。対米英宣戦布告(太平洋戦争/大東亜戦争、開戦)。













































    なろうの読書まとめに一本追加しました。

    立花隆『天皇と東大』 第八章「『不敬事件』内村鑑三を脅した一高生」部分のまとめ

    内容は、

    ・維新の三傑(西郷・木戸・大久保)の死
    ・「竹橋事件」の衝撃
    ・明治天皇親政の開始
    ・明治天皇と元田永孚による儒教教育復活政策の推進
    ・伊藤博文(開化主義)VS元田永孚(復古主義)の論争
    ・明治天皇と元田永孚による「天皇の神格化」への道
    ・明治天皇と元田永孚の手による「教学聖旨」「幼学綱要」「教育勅語」の制定
    ・明治12年前後を境とした欧化主義から天皇中心の復古主義への大転換

     など、明治12年頃、壮年に達した明治天皇が天皇親政に乗り出し、そして儒学者の元田永孚とともに、「天皇の神格化」と、封建時代の「儒教教育」の復活をめざそうとして行った政策について。

    【ダメな日本の保守シリーズ  ~「道義国家」を目指して夜郎自大化した大日本帝国 ~】
    【ダメな日本の保守シリーズ  ~「体罰」を必要として求めてやまない日本人の体罰信仰の理由~】

    ダメな日本の保守シリーズ  ~外圧によって維持されている日本人の倫理観と社会の秩序の危さ~

    ダメな日本の保守シリーズ  ~軍事思考でなく感傷でとらえたがる日本人の戦争に対する意識~
    ダメな日本の保守シリーズ ⑤ ~合理的なつもりで不合理に陥る日本人の思考判断~
    ダメな日本の保守シリーズ ⑥ ~保守派が国民に押し付けたがる道徳の正体は道徳ではなく「認知の歪み」の現れ~

    ダメな日本の保守シリーズ ⑦ ~特攻礼賛という自家撞着

    ダメな日本の保守シリーズ ⑧ ~保守思考の"ズレた"「正義感ブーム」批判~

    ダメな日本の保守シリーズ ⑨ ~カタルシスとしての武装攻撃願望~

    ダメな日本の保守シリーズ ⑩ ~ペーパーテスト・エリートの妄想リアリズム(旧日本軍の員数主義)~

    ダメな日本の保守シリーズ ⑪ ~「だが何も起こらない」ステージへの突入~

    ダメな日本の保守シリーズ ⑭ ~インテリたちの求める"リアル"な安全保障政策と核武装信仰~
    ダメな日本の保守シリーズ ⑮ ~保守派の「受動史観」~
    ダメな日本の保守シリーズ ⑯ ~言論統制、批判潰しが招く国家の破滅~
    ダメな日本の保守シリーズ ⑰ ~当事者意識のない被害者感覚~





    戦争の勝敗は「時の運」だとか、最悪だ。さすがにこれは酷すぎる。

    300万人もの日本人が死んだ戦争を、「時の運」だなんていい加減な計算でやられちゃたまらない。

    これこそがまさに「敗者の思考」

    戦争をバクチにしない。

    戦争の勝敗は単純な算数の結果で決まることだから。

    そんな、では、天皇に対して、「勝負は時の運ですから」なんて、言えるのか。
    さすがにそこまでバカなことは戦前の軍人だって口にはできない。
    ごまかしはあたっとしても。
    実際ほとんどナメていたようなものだったが、「勝負は時の運」だなんてそこまでフザけたことを面と向って戦争責任者が天皇に抜かしていたら、さすがに首が飛ぶだろ。

    それにその「時の運」だなんていい加減な戦争のせいで、天皇は危く処刑されそうにだってなったわけだから。
    天皇家にとって軍部がやらかした戦争なんていい迷惑でしかしない。
    長い天皇家の歴史において。

    だから、江戸幕府から明治国家になって、天皇が絶対王政の君主のようにされて、それである皇族の女性の方が、
    「天皇家もこれで終わりだ」
    といって危惧された言葉のとおりになった。

    大昔の天皇親政の時代を除いて、日本の天皇は世俗の権力争いに直接関わってこなかったからそ、その命脈をここまでの長きに渡って保ってきたというのに、
    それを無理やり全ての主権を持った帝王の地位に担ぎ上げられて、またたく間に滅ぼされそうになった。

    それを、そんな目にまで遭わせておいて、それで"愛国者"だから。

    「勝負は時の運です」ハハハハハとか、天皇のことなんか屁とも思ってないだろ。

    死んでいった人たちに対しても、それは。

    言えるのか。靖国に行って。

    そんな"愛国者"。

    「ヒトラーは私心のない本物の愛国者だ」とかいうのも



    ヒトラーの愛国心こそヒトラー個人の"私心"そのもの。

    だって、当時のドイツ国民のほとんど誰もが、あんなムチャな戦争を吹っかけるなんて望んでいなかったし、それをまさかホントにやるだなんて思っていなかったわけだから。


    アントニー・ビーヴァー「第二次世界大戦」p.
    19~より

     ヒトラーのいちばんの才能は、敵の弱点を目ざとく見つけ、そこを巧みに突いていくことにあった。
    ドイツの左派勢力は、ドイツ共産党とドイツ社会民主党のあいだの路線対立のせいで、現実的脅威になり得なかった。
    一方、保守派はといえば、ヒトラーなんぞはいかようにもコントロール可能だと根拠のない自信に浸っていたため、先手を打たれ、難なく寝首をかかれてしまった。
    行政命令を矢継ぎ早に発し、敵対勢力を大量収監することで国内基盤を固め終えると、ヒトラーは次にヴェルサイユ体制からの脱却に動き出した。
    徴兵制は1935年に再導入されたし、ドイツ海軍と空軍の規模拡大も公然とおこなわれたけど、イギリスはこうした動きを黙認した。
    ドイツで再軍備が着々と進んでいるのに、イギリスもフランスもこうした動きを黙認した。

     1936年3月、ドイツ軍部隊がラインラント地方の再占領に動いた。
    これは「ヴェルサイユ条約」と「ロカルノ条約」に対する明白な違反行為であり、10年あまり前にこの地方を占領し、その支配下においたフランスとしては面目丸つぶれであった。
    逆にドイツ人にとってはまさに"快挙"であり、選挙でヒトラーに一票を投じなかった多くの人々までも、総統閣下に対して、ついに追従笑いを浮かべてしまったほどである。
    ドイツ国民の支持と、英仏両国の覇気のない反応が、これで行けるという勇気をヒトラーに与えた。なにしろ誰の手も借りることなく、国民の自尊心を回復させ、しかもかれが自慢する公共事業より、はるかにもっと経済効果の高い再軍備によって、失業の増大に待ったをかけることに成功したのだから。
    ナチ党員の野蛮さ、あるいは市民的自由の喪失などマイナス面もあったけれど、大半のドイツ人にとって、それらは些細な代償に感じられた。

     ヒトラーの強引なまでの手法に人々が幻惑されているなか、ドイツという国は、人間性にかかわる価値観を一枚一枚、剥ぎ取られていった。

    ドイツがヨーロッパの覇権を握るというヒトラーの構想は、その著書『わが闘争』――1925年初版の、自叙伝と政治的マニフェストを一体化した本のなかできわめて明確に述べられている
    まずはドイツとオーストリアの統一をはかる。
    次いで、国境線の外側に住むドイツ系住民をふたたびその統治下に置く。
    ヒトラーは、「同一の血は共通の国家に属する」と明言している。
    それが実現して初めて、ドイツ民族は「外国の領土を獲得する道徳的権利」を手に入れるのであり、「その時、クワは剣となり、戦争の涙はきたるべき子々孫々のための日々のパンを生み出す」のだと。
    こうしたヒトラーの侵略構想は『わが闘争』の冒頭部分にはっきり書かれている。
    だがしかし、すべてのドイツ人カップルが結婚のさい、同書を一部ずつ買うほどのベストセラーなのに、ヒトラーの好戦的な予言を真に受ける国民はほぼ皆無であった。
    国民はむしろ、1925年ではなく、もっと最近耳にし、何度も繰り返し聞かされたことばを信じたがった。
    ヒトラーは言った。自分は戦争をしないと。
    さらに加えて、及び腰のイギリス人やフランス人の面前で、ヒトラーが見事に成し遂げた、大胆不敵なはなれ技の効果が大きかった。
    この人なら、大きな軍事衝突など敢えて起こすこともなく、欲しいものをすべて手に入れてしまうのではないかという期待感を、国民は抱いた。
    加熱するドイツ経済と、他国に先んじて増強がすすむ軍備を余さずつかい切ろうとするヒトラーの決意は、近隣諸国への侵攻をほぼ確実なものにしつつあったが、そうした事実は国民の目に入らなかった。

     「ヴェルサイユ条約」によって失われた土地の奪還だけがヒトラーの関心事ではない。そんな中途半端なところで矛を収める気はさらさらなかった。ただ、世界に冠たるドイツを夢見るヒトラーは、はるか遠い将来、その夢がかなうその日、自分はおそらく生きていないだろうと信じており、そのこに切歯扼腕していた。
    なにしろヒトラーは、中部ヨーロッパ全体と、ヴォルガ川までのロシアをドイツの「生存圏」に組み入れる気でおり、それが実現されて初めて、ドイツは自給自足をなし遂げ、超大国の地位を獲得できると考えていたからである。

    ドイツの東方にひろがる広大な土地を、すべてわが民族のもにするという夢は、ドイツが1918年の一時期、バルト三国、白ロシア、ウクライナ、南ロシアの一部(ドン川下流の港湾都市ロストフまで)を占領下に置いた”実績"によっていっそう助長された。
    それは発足間もないボリシェビキ政権に対してドイツが課した”ディクタート(桎梏)”、すなわち「ブレスト=リトフスク条約」によって手に入れたもので、故にそれら東方の土地は、ドイツの既得権益に当たるおいうわけだ。

    なかでもウクライナの穀倉地帯は魅力的だった。
    なにしろドイツは第一次大戦中、イギリスの経済封鎖にあえぎ、飢餓寸前の状態に追い込まれたのだから。ゆえにヒトラーは決意していた。1918年のドイツを見舞ったあの国民精神の退潮――やがて(左派)革命とドイツ帝国の崩壊につながったあの再来だけは断じて許してはならず、
    この次に飢えるものがいるとすれば、それは奴らのほうだと。

    この「生存圏」にとって、食糧ばかりが問題なのではなかった。
    その主要目標の一つは、東方にある石油資源だった。
    ドイツが消費する石油のおよそ85パーセントは平時にあっても、輸入頼りであり、まして戦時にあって間違いなく、ドイツのアキレス腱になるはずだったから。

     なるほど東方地域の植民地化は、ある意味、ドイツの自存自衛を確保する最良の手段なのかもしれない。だがしかし、ヒトラーの野心は、並みの民族主義者とはモノが違っていた。
    彼は、「社会ダーウィニズム」の信奉者であり、民族の消長は互いの人種的優越性を競い合う闘争の結果であると信じていた。
    ゆえに植民地化がなったあとは、そこに住むスラブ系住民を飢えさせ、その数を劇的に減らし、生き残ったものは一種の”ヘロット(農奴)”として奴隷化するつもりでいたのである。



    リデル・ハート「第二次世界大戦」p.20~より

    そもそもヒトラーは、二度目の大戦をひき起こすつもりなどなかった。
    ドイツ国民も、また特に将軍たちは、そのような危険を冒すのを非常に恐れていた。
    第一次世界大戦の経験が彼らの心を傷つけていたのだ。
    この基本的事実を強調することは、ヒトラーと、その指導に進んで従った多くのドイツ人の侵略的本性を糊塗することにはならない。
    しかしヒトラーは、いざ目標を追及する段になってためらいはしなかったものの、長い間慎重だった。
    軍首脳も、全面戦争の原因となりかねない施策には、より慎重に気を使っていた。

     戦後、ドイツ側公文書が押収され、調査に供されるようになった。
    これらには、大戦を遂行するに当たっての異常なほどの心痛と、祖国ドイツの国力に対する根深い不信とがはっきりと読み取れる。

     1936年、ヒトラーがラインラントの非武装地帯再占拠に乗り出したとき、将軍たちはフランス側に巻き起こすであろうその反応に恐れおののいていた。
    彼らの抗議が容れられ、最初はほんの少数の部隊だけが、「将来の動向を占うもの」として送り込まれた。スペインに内乱が起こり、ヒトラーがフランコを助けるために派兵を希望したとき、将軍たちはまたもこれに伴う危険を恐れて抗議した。
    ヒトラーは援助を限定した。
    しかし1938年3月には、オーストリア進駐を懸念する将軍たちを無視した。

     その後間もなく、彼はズデーテンラントの返還を求め、チェコ=スロヴァキアに圧力をかける意図をむき出しにした。
    参謀総長ベック将軍は覚え書きを起草し、ヒトラーの侵略的領土拡張計画は世界的破局とドイツの滅亡を招来せざるを得ないと論じた。
    これが統帥部の将軍たち会議の席上で読み上げられ、一同の同意を得てヒトラーのもとに送られた。
    だがヒトラーは政策変更の意志を示さず、参謀総長は辞任に追い込まれた。
    ヒトラーは将軍たちに対して、フランスと英国がチェコ=スロヴァキアのために乗り出して来ることはないと保障した。
    将軍たちはとても信じられなかった。
    彼らは、戦争の危険を回避するため、ヒトラーとナチ領袖を捕える反乱を計画した。(1939年「反ヒトラー計画」)

     しかし彼らの当てははずれてしまった。
    英首相チェンバレンがチェコ=スロヴァキアに対するヒトラーの不当な要求を容れ、この不運な国が領土と防衛手段をはぎ取られている間、フランスともども対岸の火災視することに同意したからである。
    チェンバレンにとってこの『ミュンヘン協定』は、「当面の平和」を意味した。
    しかしヒトラーにとっては、国外のみならず自国の将軍たちに対しても、確固とした勝利を収めたことにほかならなかった。
    ヒトラーの度重なる無抵抗、無血の成功により、そのつど自分たちの警告が論破され、将軍たちが自信と威勢を失ったのは当然だった。
    ヒトラー自身は、引き続き安易な成功を収められるものとうぬぼれるようになった。
    これ以上冒険すると間違いなく戦争になると認識するようになったときでさえ、それが小規模で短期間のものにすぎないだろうと考えていた。
    時々頭をもたげる疑念も、成功の美酒の強い陶酔にかき消されてしまっていた。

     もし英国をも巻き込む全面戦争を本気で考慮していたのなら、彼は英国の制海権に挑む力のある海軍力の建設に全力を傾けていたであろう。
    しかし実際には、1935年の『英独海軍協定』に規定された程度にすら海軍を育てる努力をしていなかった。彼はいつも提督たちに、対英戦争の危険を深刻に考える必要はないと保証していた。
    『ミュンヘン協定』以後には、少なくとも今後六年以内は英国との紛争を懸念するには及ばないと断言していた。
    1939年夏の、しかも8月22日になってもこうした発言を繰り返していたのである――さすがに確信はなさそうであったが。

     それならいったい何故ヒトラーは、あれほど避けたがっていた大戦争に巻き込まれたのか。
    答えは、たんにヒトラーの侵略性のみでなく<決してこれが最大の原因ではない>、長期間にわたるその従順さで彼を増長させていた西欧列強が、1939年春、突然彼を裏切った(4月1日、英国のポーランド支持声明をさす)ということにも見出せる。
    この政策転換は思いも寄らないほど突然で、戦争を不可避にするものだった。

     もし誰かが、蒸気圧が危険店を越えるまでボイラーをたくのを許すとすれば、その結果としての爆発に対する責任はこれを許した当人に負わされる。
    この物理学の真理は政治学にも、また特に国際音大にも同様に当てはまる。

    1933年のヒトラーの政権掌握以後、英仏両国政府はそれまでのドイツ共和国政府(ワイマール共和国)に示してきたものとは比較にならぬほどの譲歩を、この危険な独裁政権に対して重ねてきたのである。


    いま、それこそたまたまアメリカに占領されたからそんな悠長なことも言えるわけだが、もしソ連にでもとてもそんなへらず口叩けるような状況にはなっていないし、あるいは日本が南北対立の最前線にされていたかもわからない。

    天皇家だってどうなっていたか知れない。

    だからそんなことはメじゃないのだ。実際問題。

    これは、「ニ・二六事件」を起こした若手将校たちがそうだったが、彼らにとって天皇の「大御心」とは、
    正しいことをしている自分たちの真情は天皇ならきっとわかってもらえるはずだというものであって、
    もしそれを天皇が否定するというのであれば、それは天皇のほうが間違っているのだ、となる。

    日本という国としてはこうあらねばならない、日本人であればこうしなければならない、という理想像があって、
    そしてその理想に従わないのであれば、絶対者であるはずの天皇でさえ否定されるというのが、大日本帝国における真の国体だった。

    そしてそれは今でも変わらない。

    昭和天皇自身が当時を振りかえって、もし自分が軍部のいうとおりに従っていなければ、自分のほうが廃されるか殺されるかしていただろうということを語られているが、
    そこまでせずとも、
    実際もし天皇が軍の意向に反することを迂闊に指示しようものなら、周りでどんなテロが引き起こされるかわからないような状況で、
    そういう"脅し"も、軍部の者からかけられていたという。

    通常、天皇の行動は「上奏を聞き、質問に留める」という前提になっていたが、その中で昭和天皇が特に自らの強い意志を主張したことが4回ほどあった。

    ① 張作霖爆殺事件に対する田中義一首相に対する詰問
    ② 熱河作戦を止めるべきではないかという見解の表示
    ③ 日米開戦に対する反対
    ④ 終戦時において、陸相などの反対を押し切り終戦の決定

    が、2番目について、天皇が止めろと意思表示をすると、そんなことをすればどんな政変が起こるかわかりませんぞと、奈良武次侍従武官長(大将)から迫られたという。


    孫崎享『日米開戦の正体』p.322、323より

    日米開戦の正体――なぜ真珠湾攻撃という道を歩んだのか
    孫崎 享
    祥伝社
    2015-05-12


     10日に天皇は、参謀総長にたいして
    「熱河作戦ハ内閣ニテ能ク商人シ居ラサリシヤノ旨、尚中止シ能ハサルヤ」(「奈良日記」)と、作戦中止を要求した。<略>
     だが、奈良侍従武官は、天皇の作戦の裁可取り消しに強く反対し、天皇に「慎重熟慮」を求めた。
    奈良の主張は、
    「<略>陛下ノ御命令ニテ之ヲ中止セシメントスレハ大ナル紛擾を惹起し政変ノ因トナラサルヲ保チ難シ」
    (「奈良日記」)というものである。



    これが保守派のひとたちが語る、実際の当時の愛国者たちの本音。

    軍部の者たちが正しいと考える戦争を、日本国として、日本人としてしなければならない戦争を、日本国の象徴たる天皇が拒否することなど許されない、日本の天皇であるなら、我々が求める戦争をそのまま受け入れなければならないのだと、天皇に対してさえ脅しをかけているのだ。

    こうした考えだから、たとえどのような戦争であろうと、日本人なら死んで当然、天皇においておや、というふうになるのだろう。




    大東亜戦争は「列強による東亜侵略 百年の野望を打ち砕く」ための大義の戦争だったのだから、だから死んで当然なんだと。

    それがどんなに狂った負け戦の作戦であっても、と。

    そうそう。でも、他国を解放してあげるのはいいが、そのために自国が滅んでも構わないなんて、そこまで本気で当時の日本人は思っていたのか。

    いや、そんなことは決してないだろう。

    だって、絶対に勝つ勝つ言われていたんだから。

    たとえ自国を滅ぼしても、天皇の命を犠牲にしてでも、絶対にやらなければいけないなんて、思うわけがないじゃない。

    しかし、悪いヤツらの野望を打ち砕くためとか、大義のためだとか言われると、妙に納得させられてまうようだ。



    「何が正しいかは、その時代によって変わる」
    「戦争とは、『お互いの正義』がぶつかりあうもの」
    「戦争は良くない。だからこそ、『その時代の正義』の犠牲になった先人たちに
     ただただ感謝をし、二度と戦争が起こらないように祈りを捧げたい」

    自分が小林よしのりの『戦争論』を見ても、なるほどこんな考えだったから、あんな無謀な負け戦を平然とすることができたのだろうと、むしろ敗因の証明にしか見えないのだが、受け取り方がぜんぜん違うことに驚かされる。

    正義だ悪だの以前に、なんで成否の確立を度外視するのかという点が問題にされないのか。

    無条件降伏なんて、ぜんぜんする必要なんてなかったし。

    日中戦争の開始から、最終的に無条件降伏というこれ以上ない最悪のところにまで現実にいったという当時の日本の敗戦自体がそもそも在り得ない逆奇跡でしかないのだが、なぜかその負け戦が当然のこととして、非難するほうが非国民みたいにされる。

    プロ麻雀士の鈴木たろう氏が、勝つための秘訣として、常に確立が高くなるほうの手を積み上げていくことが大事だと語られていたが、
    大東亜戦争における旧日本軍はその逆のことをやったから負けただけ。

    彼らの行動を知れば知るほど、そりゃそんなことしてたら負けるしかないだろ、というふうにしかならない。

    「戦争は良くない。だからこそ、『その時代の正義』の犠牲になった先人たちに
     ただただ感謝をし」

    という、こういった言葉も、
    例えば、フィリピン戦役への増援のため送られながら敵と戦うこともなく、台湾とフィリピンの間にあった「バシー海峡」でアメリカ潜水艦に次々と狭い船内に閉じ込められたまま水没させられていった兵士とか、せっかく無事に生還を遂げて帰ってきても、名誉の戦死を遂げたことになってるからもういちど戻って死んでくれといわれて死なされた兵士たちとか、
    あるいは海外に派遣された兵の六割は餓死したとか、
    間違った戦争指導のせいで死ななくても済んだ人たちに対して、"ありがとうございます"とは・・・・・・。

    とても言葉が出ない。

    そしたらそれで死んで"当然だ"ってことになってしまうから。

    そういうことをもっともらしく政治家が言うが。

    そこで行われていたのは、勝敗に関係のない「死なせること(=自己犠牲の礼賛)自体の自己目的化」

    特攻隊を生んだ構図は現在の日本社会にも残り続けている|LITERA/リテラ

     佐々木氏にはそれから何回も何回も出撃命令がくだされる。それは、敵艦を沈めることを意図したものではなく、ただただ彼を特攻させて殺すための出撃だった。なぜ、敵艦を攻撃することよりも、名誉の戦死を遂げることが目的化したのか。参謀長が佐々木氏を怒鳴りつけた言葉がそれを説明している。

    「佐々木はすでに、二階級特進の手続きをした。その上、天皇陛下にも体当たりを申し上げてある。軍人としては、これにすぐる名誉はない。今日こそは必ず体当たりをしてこい。必ず帰ってきてはならんぞ」
    「佐々木の考えは分かるが、軍の責任ということがある。今度は必ず死んでもらう。いいな。大きなやつを沈めてくれ」

     出撃を繰り返すうち、援護を担当する直掩機の数も減らされ、佐々木氏の特攻はどんどん雑な扱いになっていく。8回目の出撃ではついに直掩機が一機もつかなかった。これでは敵艦に近づくのもおぼつかないし、たとえ特攻したところで戦果の確認すらできない。



     鴻上氏はこのように指摘する。

    「特攻隊やいじめの資料を読んでいると、同調圧力っていうのは日本人の宿痾なのかもしれないという気がします。「特攻に志願する者は前に出ろ」と上官が言って、誰も動かないと「出るのか、出ないのかハッキリしろ!」と叫ぶ。すると、全員がザッと前に出る。個に目を向けず、全体が一つであることが美しいという価値観は、いまも連綿と続いている」(「週刊朝日」16年9月9日号/朝日新聞出版)


    総員玉砕せよ!/水木しげる~キレイで刺激的な戦争モノばかり見ても意味ない~ - 深夜図書

    この「総員玉砕せよ!」 という物語は、九十パーセントは真実です。

    ただ、参謀が流弾にあたって死ぬことになっていますが、あれは事実ではなく、参謀はテキトウな時に上手に逃げます。

    (中略)

    この物語では最後に全員死ぬことになているが、ぼくは最後に一人の兵隊が逃げて次の地点で守る連隊長に報告することにしようと思った。だが、長くなるので全員玉砕にしたが、事実はとなりの地区を守っていた混成三連隊の連隊長は、この玉砕事件についてこういった。

    「あの場所をなぜ、そうまでにして守らねばならなかったのか」
     
    ぼくはそれを耳にしたとき「フハッ」と空しい嘆息みたいな言葉が出るだけだった。

    あの場所をそうまでにして・・・、なんという空しい言葉だろう、死人(戦死者)に口はない。

    「玉砕」に衝撃を受けたのん「初めて戦争ってとんでもないと心の底から思った」|LITERA/リテラ

    『総員玉砕せよ!! 〜聖ジョージ岬・哀歌〜』は、1973年に講談社より出版された作品。舞台は、1945年のニューブリテン島。水木が実際に所属していた臨時歩兵隊第二二九大隊(ズンゲン支隊)がモデルとなっている。

     物語の序盤は、兵隊生活の理不尽な体罰や、死と隣り合わせの恐怖が、時にユーモアも交えながら描かれる。しかし、ストーリーの中盤以降、ラバウルにいる10万人の将校たちのためにバイエン支隊の兵隊500人が捨て石となって玉砕するよう命令がくだってからはトーンが一変。兵隊たちが無慈悲に殺されていく姿が凄惨に描かれる。

     だが、兵隊たちにとって、この玉砕命令は悲劇の始まりに過ぎなかった。バイエン支隊の玉砕は大本営にも伝えられ、戦意高揚のための美談として喧伝されたのだが、実は多数の生き残りがいることが発覚。これが大問題となる。

     生き残りの兵隊たちは命からがら聖ジョージ岬へ逃げ帰るが、そこで待っていたのは、「敵前逃亡」の罪であり、「卑怯者」の汚名であった。せっかく生き残ったのにも関わらず、責任をとるため、部隊を率いた隊長たちはその場で自決を強制される。そして、その下についていた兵隊たちは、聖ジョージ岬に上陸する米軍に対して玉砕攻撃を仕掛けるよう命じられた。今度は逃げることのないように監視役までついており、その監視役には逃げる兵士を射殺しても構わないという権限が与えられていた。そして、物語は兵士たちが無惨に討ち死にし、誰にも顧みられることなく白骨化していくさまを生々しく描いて終わっていく。

    実際、本当にそんな思想になっていた。



    「悠久の大義のために死ねば永遠に生きられる」

    日本国民として死んで当然。それは「大義」のためだから。

    大義のための戦争なら、敵にダメージを与えるのとは関係なしに玉砕を遂げても賞賛される。

    戦艦・大和の最期の出撃は、戦術的には全く敵にダメージを与えることのない無意味な行動だった。
    艦隊を守るための護衛機がないため、出て行っても敵の攻撃機にハチの巣にされるだけだった。
    ただ敵に殺されにいくだけ。

    軍事的にはその状態にされた段階で戦争には"負け"たということ。

    当然、その時点で、大東亜戦争および太平洋戦争をはじめた戦争責任者たちが負うべき責任が生じている。

    ところが、にもかかわらず、戦争指導者たちの責任が問われることもないまま、すでに勝敗の決まった後からの自殺行為同然の玉砕行動が依然として"見事だ"と賞賛される。

    "ありがとう"という言葉はそうした無意味な玉砕を賞賛する意識から出てくる言葉だ。

    逆にいえば、国の大いなる理想のためには、国民の命の犠牲もなんとも思わないというような考えだから、あのような狂った負け戦でも平然とできてしまえる。

    神のために己の身を犠牲にしてというのは、他の宗教にもあることだが、しかしたとえばキリスト教との違いは、神への奉仕の実現に、そこに「目的合理性」の追求があるという点。

    プロテスタントたちにとって、労働をして富を積み上げていくことは、神の意にかなった行為なので、たくさん積み上げれば積み上げるほどよい。
    そしてその富をできるだけたくさん積み上げていくために、「効率性」を考えていくようになる。
    だから彼らの行動は目標の実現に、非常に合理的になっていく。
    神のために何かをするとして、効果もないようなことをいたずらに身を労するだけになってしまっては意味がないと考えるコスト感覚が彼らにはあるのだ。

    けれども日本人にはその感覚がない。

    ないのは結局、儒教だから、朱子学だからということになるのだが、たとえば幕末に革新的な行動を起こした西郷隆盛や吉田松陰、あるいは河井継之助といった人たちは朱子学ではなく陽明学だった。

    陽明学も朱子学から派生した学問・宗教なのだが、非常に観念的な朱子学と比べて、陽明学は合理的な実践を重んじる学問だった。

    幕末に幕府を打倒する革命の原動力となったのは朱子学の唱える「尊王攘夷」のイデオロギーだったが、その最も先鋭の藩だった水戸藩では、朱子学に対する"正しさ"の在り方の是非を巡って、こうであらねばならない、いやこうであらねばならないといった対立で仲間同士の凄惨な殺し合いとなり、その結果、いざ維新が達成されたそのときには、ほとんどの人が死に絶えて革命政権に参画する人材が尽きてしまっていたという。

    天狗争乱 (新潮文庫)
    吉村 昭
    新潮社
    1997-06-30


    昭和の日本の敗戦後、中国学者の狩野直喜博士は、

    「たとえば宋学(朱子学)が日本を滅ぼした」

    と語ったといい、そして作家の司馬遼太郎さんによれば、

    「教育勅語は朱子学そのものであります」

    とのこと。

    大日本帝国の滅亡は明治国家のいわば水戸藩化によるものではないか。

    中央集権化によって、それまでは諸藩でそれぞれ保っていた多様性が失われて思想が唯の一つに統一されてしまった。

    今の日本の保守派も、再び朱子学的儒教イデオロギー」で日本の思想の統一化を図ろうとしている。

    明治国家が水戸藩化していったのは、自由民権運動や左翼運動の隆盛を政府の政治家や役人たちが恐れたから。
    教育勅語が作られたのが西南戦争や竹橋事件、明治十四年の政変といった政府を脅かす一連の事件が発生した後のことで、そこでは、本来の儒教であれば、親に対する「孝」が最高の徳目で、次いで君臣の義が説かれるのだが、教育勅語ではその優先順位をひっくり返して、君主に対する忠誠心が最高の徳目に取り上げられている点に特徴があった。

    今もまた、自由主義・平和主義や左翼の蔓延に対して、保守派が恐れ、その反作用として保守反動の活発な動きが展開されている。

    ・憲法は政府を縛るものではなく「国家の理想を語るもの」(安倍首相)
    ・安倍政権にによって約60年ぶりに全面改正された教育育基本法において「豊かな情操や道徳心」「公共の精神」「伝統と文化の尊重」「我が国を愛する、"態度"」などの育成が果たすべき国民の義務となり、反対に「個性」や「平和」といった記述が削除


    ここで非常に重要なことは、ただ「愛国心を養えといっているのではなく、「我が国を愛する"態度"」を養わなければならないと言っていること。

    だから「愛国心」といっても、どんな愛国心でなければいけないのかという形まで決まっているということ。
    それはただ心に思っているだけではダメで、例えば具体的に公の場で国旗掲揚・国家斉唱をこうしろああしろとか決められていて、それをするのが「愛国心」なのだと。
    そしてそれは既に「法制化」されていて、従わなければ法律違反にされる。

    当然、国家のこと憂慮して批判やデモ
    行為などは「愛国心」にはならない。

    彼らにしてみれば、そうした思想の統一性が失われたために、今の日本がダメになったということなのだが、しかしこれは、かえってそれが自らの行動の選択の幅をどんどんと狭めていってしまう結果に陥りかねない危険性を孕んでいる。
































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