【ダメな日本の保守シリーズ  ~「道義国家」を目指して夜郎自大化した大日本帝国 ~】
【ダメな日本の保守シリーズ  ~「体罰」を必要として求めてやまない日本人の体罰信仰の理由~】

ダメな日本の保守シリーズ  ~外圧によって維持されている日本人の倫理観と社会の秩序の危さ~

ダメな日本の保守シリーズ  ~軍事思考でなく感傷でとらえたがる日本人の戦争に対する意識~
ダメな日本の保守シリーズ ⑤ ~合理的なつもりで不合理に陥る日本人の思考判断~
ダメな日本の保守シリーズ ⑥ ~保守派が国民に押し付けたがる道徳の正体は道徳ではなく「認知の歪み」の現れ~

ダメな日本の保守シリーズ ⑦ ~特攻礼賛という自家撞着

ダメな日本の保守シリーズ ⑧ ~保守思考の"ズレた"「正義感ブーム」批判~

ダメな日本の保守シリーズ ⑨ ~カタルシスとしての武装攻撃願望~

ダメな日本の保守シリーズ ⑩ ~ペーパーテスト・エリートの妄想リアリズム(旧日本軍の員数主義)~

ダメな日本の保守シリーズ ⑪ ~「だが何も起こらない」ステージへの突入~

ダメな日本の保守シリーズ ⑭ ~インテリたちの求める"リアル"な安全保障政策と核武装信仰~
ダメな日本の保守シリーズ ⑮ ~保守派の「受動史観」~
ダメな日本の保守シリーズ ⑯ ~言論統制、批判潰しが招く国家の破滅~
ダメな日本の保守シリーズ ⑰ ~当事者意識のない被害者感覚~





戦争の勝敗は「時の運」だとか、最悪だ。さすがにこれは酷すぎる。

300万人もの日本人が死んだ戦争を、「時の運」だなんていい加減な計算でやられちゃたまらない。

これこそがまさに「敗者の思考」

戦争をバクチにしない。

戦争の勝敗は単純な算数の結果で決まることだから。

そんな、では、天皇に対して、「勝負は時の運ですから」なんて、言えるのか。
さすがにそこまでバカなことは戦前の軍人だって口にはできない。
ごまかしはあたっとしても。
実際ほとんどナメていたようなものだったが、「勝負は時の運」だなんてそこまでフザけたことを面と向って戦争責任者が天皇に抜かしていたら、さすがに首が飛ぶだろ。

それにその「時の運」だなんていい加減な戦争のせいで、天皇は危く処刑されそうにだってなったわけだから。
天皇家にとって軍部がやらかした戦争なんていい迷惑でしかしない。
長い天皇家の歴史において。

だから、江戸幕府から明治国家になって、天皇が絶対王政の君主のようにされて、それである皇族の女性の方が、
「天皇家もこれで終わりだ」
といって危惧された言葉のとおりになった。

大昔の天皇親政の時代を除いて、日本の天皇は世俗の権力争いに直接関わってこなかったからそ、その命脈をここまでの長きに渡って保ってきたというのに、
それを無理やり全ての主権を持った帝王の地位に担ぎ上げられて、またたく間に滅ぼされそうになった。

それを、そんな目にまで遭わせておいて、それで"愛国者"だから。

「勝負は時の運です」ハハハハハとか、天皇のことなんか屁とも思ってないだろ。

死んでいった人たちに対しても、それは。

言えるのか。靖国に行って。

そんな"愛国者"。

「ヒトラーは私心のない本物の愛国者だ」とかいうのも



ヒトラーの愛国心こそヒトラー個人の"私心"そのもの。

だって、当時のドイツ国民のほとんど誰もが、あんなムチャな戦争を吹っかけるなんて望んでいなかったし、それをまさかホントにやるだなんて思っていなかったわけだから。


アントニー・ビーヴァー「第二次世界大戦」p.
19~より

 ヒトラーのいちばんの才能は、敵の弱点を目ざとく見つけ、そこを巧みに突いていくことにあった。
ドイツの左派勢力は、ドイツ共産党とドイツ社会民主党のあいだの路線対立のせいで、現実的脅威になり得なかった。
一方、保守派はといえば、ヒトラーなんぞはいかようにもコントロール可能だと根拠のない自信に浸っていたため、先手を打たれ、難なく寝首をかかれてしまった。
行政命令を矢継ぎ早に発し、敵対勢力を大量収監することで国内基盤を固め終えると、ヒトラーは次にヴェルサイユ体制からの脱却に動き出した。
徴兵制は1935年に再導入されたし、ドイツ海軍と空軍の規模拡大も公然とおこなわれたけど、イギリスはこうした動きを黙認した。
ドイツで再軍備が着々と進んでいるのに、イギリスもフランスもこうした動きを黙認した。

 1936年3月、ドイツ軍部隊がラインラント地方の再占領に動いた。
これは「ヴェルサイユ条約」と「ロカルノ条約」に対する明白な違反行為であり、10年あまり前にこの地方を占領し、その支配下においたフランスとしては面目丸つぶれであった。
逆にドイツ人にとってはまさに"快挙"であり、選挙でヒトラーに一票を投じなかった多くの人々までも、総統閣下に対して、ついに追従笑いを浮かべてしまったほどである。
ドイツ国民の支持と、英仏両国の覇気のない反応が、これで行けるという勇気をヒトラーに与えた。なにしろ誰の手も借りることなく、国民の自尊心を回復させ、しかもかれが自慢する公共事業より、はるかにもっと経済効果の高い再軍備によって、失業の増大に待ったをかけることに成功したのだから。
ナチ党員の野蛮さ、あるいは市民的自由の喪失などマイナス面もあったけれど、大半のドイツ人にとって、それらは些細な代償に感じられた。

 ヒトラーの強引なまでの手法に人々が幻惑されているなか、ドイツという国は、人間性にかかわる価値観を一枚一枚、剥ぎ取られていった。

ドイツがヨーロッパの覇権を握るというヒトラーの構想は、その著書『わが闘争』――1925年初版の、自叙伝と政治的マニフェストを一体化した本のなかできわめて明確に述べられている
まずはドイツとオーストリアの統一をはかる。
次いで、国境線の外側に住むドイツ系住民をふたたびその統治下に置く。
ヒトラーは、「同一の血は共通の国家に属する」と明言している。
それが実現して初めて、ドイツ民族は「外国の領土を獲得する道徳的権利」を手に入れるのであり、「その時、クワは剣となり、戦争の涙はきたるべき子々孫々のための日々のパンを生み出す」のだと。
こうしたヒトラーの侵略構想は『わが闘争』の冒頭部分にはっきり書かれている。
だがしかし、すべてのドイツ人カップルが結婚のさい、同書を一部ずつ買うほどのベストセラーなのに、ヒトラーの好戦的な予言を真に受ける国民はほぼ皆無であった。
国民はむしろ、1925年ではなく、もっと最近耳にし、何度も繰り返し聞かされたことばを信じたがった。
ヒトラーは言った。自分は戦争をしないと。
さらに加えて、及び腰のイギリス人やフランス人の面前で、ヒトラーが見事に成し遂げた、大胆不敵なはなれ技の効果が大きかった。
この人なら、大きな軍事衝突など敢えて起こすこともなく、欲しいものをすべて手に入れてしまうのではないかという期待感を、国民は抱いた。
加熱するドイツ経済と、他国に先んじて増強がすすむ軍備を余さずつかい切ろうとするヒトラーの決意は、近隣諸国への侵攻をほぼ確実なものにしつつあったが、そうした事実は国民の目に入らなかった。

 「ヴェルサイユ条約」によって失われた土地の奪還だけがヒトラーの関心事ではない。そんな中途半端なところで矛を収める気はさらさらなかった。ただ、世界に冠たるドイツを夢見るヒトラーは、はるか遠い将来、その夢がかなうその日、自分はおそらく生きていないだろうと信じており、そのこに切歯扼腕していた。
なにしろヒトラーは、中部ヨーロッパ全体と、ヴォルガ川までのロシアをドイツの「生存圏」に組み入れる気でおり、それが実現されて初めて、ドイツは自給自足をなし遂げ、超大国の地位を獲得できると考えていたからである。

ドイツの東方にひろがる広大な土地を、すべてわが民族のもにするという夢は、ドイツが1918年の一時期、バルト三国、白ロシア、ウクライナ、南ロシアの一部(ドン川下流の港湾都市ロストフまで)を占領下に置いた”実績"によっていっそう助長された。
それは発足間もないボリシェビキ政権に対してドイツが課した”ディクタート(桎梏)”、すなわち「ブレスト=リトフスク条約」によって手に入れたもので、故にそれら東方の土地は、ドイツの既得権益に当たるおいうわけだ。

なかでもウクライナの穀倉地帯は魅力的だった。
なにしろドイツは第一次大戦中、イギリスの経済封鎖にあえぎ、飢餓寸前の状態に追い込まれたのだから。ゆえにヒトラーは決意していた。1918年のドイツを見舞ったあの国民精神の退潮――やがて(左派)革命とドイツ帝国の崩壊につながったあの再来だけは断じて許してはならず、
この次に飢えるものがいるとすれば、それは奴らのほうだと。

この「生存圏」にとって、食糧ばかりが問題なのではなかった。
その主要目標の一つは、東方にある石油資源だった。
ドイツが消費する石油のおよそ85パーセントは平時にあっても、輸入頼りであり、まして戦時にあって間違いなく、ドイツのアキレス腱になるはずだったから。

 なるほど東方地域の植民地化は、ある意味、ドイツの自存自衛を確保する最良の手段なのかもしれない。だがしかし、ヒトラーの野心は、並みの民族主義者とはモノが違っていた。
彼は、「社会ダーウィニズム」の信奉者であり、民族の消長は互いの人種的優越性を競い合う闘争の結果であると信じていた。
ゆえに植民地化がなったあとは、そこに住むスラブ系住民を飢えさせ、その数を劇的に減らし、生き残ったものは一種の”ヘロット(農奴)”として奴隷化するつもりでいたのである。



リデル・ハート「第二次世界大戦」p.20~より

そもそもヒトラーは、二度目の大戦をひき起こすつもりなどなかった。
ドイツ国民も、また特に将軍たちは、そのような危険を冒すのを非常に恐れていた。
第一次世界大戦の経験が彼らの心を傷つけていたのだ。
この基本的事実を強調することは、ヒトラーと、その指導に進んで従った多くのドイツ人の侵略的本性を糊塗することにはならない。
しかしヒトラーは、いざ目標を追及する段になってためらいはしなかったものの、長い間慎重だった。
軍首脳も、全面戦争の原因となりかねない施策には、より慎重に気を使っていた。

 戦後、ドイツ側公文書が押収され、調査に供されるようになった。
これらには、大戦を遂行するに当たっての異常なほどの心痛と、祖国ドイツの国力に対する根深い不信とがはっきりと読み取れる。

 1936年、ヒトラーがラインラントの非武装地帯再占拠に乗り出したとき、将軍たちはフランス側に巻き起こすであろうその反応に恐れおののいていた。
彼らの抗議が容れられ、最初はほんの少数の部隊だけが、「将来の動向を占うもの」として送り込まれた。スペインに内乱が起こり、ヒトラーがフランコを助けるために派兵を希望したとき、将軍たちはまたもこれに伴う危険を恐れて抗議した。
ヒトラーは援助を限定した。
しかし1938年3月には、オーストリア進駐を懸念する将軍たちを無視した。

 その後間もなく、彼はズデーテンラントの返還を求め、チェコ=スロヴァキアに圧力をかける意図をむき出しにした。
参謀総長ベック将軍は覚え書きを起草し、ヒトラーの侵略的領土拡張計画は世界的破局とドイツの滅亡を招来せざるを得ないと論じた。
これが統帥部の将軍たち会議の席上で読み上げられ、一同の同意を得てヒトラーのもとに送られた。
だがヒトラーは政策変更の意志を示さず、参謀総長は辞任に追い込まれた。
ヒトラーは将軍たちに対して、フランスと英国がチェコ=スロヴァキアのために乗り出して来ることはないと保障した。
将軍たちはとても信じられなかった。
彼らは、戦争の危険を回避するため、ヒトラーとナチ領袖を捕える反乱を計画した。(1939年「反ヒトラー計画」)

 しかし彼らの当てははずれてしまった。
英首相チェンバレンがチェコ=スロヴァキアに対するヒトラーの不当な要求を容れ、この不運な国が領土と防衛手段をはぎ取られている間、フランスともども対岸の火災視することに同意したからである。
チェンバレンにとってこの『ミュンヘン協定』は、「当面の平和」を意味した。
しかしヒトラーにとっては、国外のみならず自国の将軍たちに対しても、確固とした勝利を収めたことにほかならなかった。
ヒトラーの度重なる無抵抗、無血の成功により、そのつど自分たちの警告が論破され、将軍たちが自信と威勢を失ったのは当然だった。
ヒトラー自身は、引き続き安易な成功を収められるものとうぬぼれるようになった。
これ以上冒険すると間違いなく戦争になると認識するようになったときでさえ、それが小規模で短期間のものにすぎないだろうと考えていた。
時々頭をもたげる疑念も、成功の美酒の強い陶酔にかき消されてしまっていた。

 もし英国をも巻き込む全面戦争を本気で考慮していたのなら、彼は英国の制海権に挑む力のある海軍力の建設に全力を傾けていたであろう。
しかし実際には、1935年の『英独海軍協定』に規定された程度にすら海軍を育てる努力をしていなかった。彼はいつも提督たちに、対英戦争の危険を深刻に考える必要はないと保証していた。
『ミュンヘン協定』以後には、少なくとも今後六年以内は英国との紛争を懸念するには及ばないと断言していた。
1939年夏の、しかも8月22日になってもこうした発言を繰り返していたのである――さすがに確信はなさそうであったが。

 それならいったい何故ヒトラーは、あれほど避けたがっていた大戦争に巻き込まれたのか。
答えは、たんにヒトラーの侵略性のみでなく<決してこれが最大の原因ではない>、長期間にわたるその従順さで彼を増長させていた西欧列強が、1939年春、突然彼を裏切った(4月1日、英国のポーランド支持声明をさす)ということにも見出せる。
この政策転換は思いも寄らないほど突然で、戦争を不可避にするものだった。

 もし誰かが、蒸気圧が危険店を越えるまでボイラーをたくのを許すとすれば、その結果としての爆発に対する責任はこれを許した当人に負わされる。
この物理学の真理は政治学にも、また特に国際音大にも同様に当てはまる。

1933年のヒトラーの政権掌握以後、英仏両国政府はそれまでのドイツ共和国政府(ワイマール共和国)に示してきたものとは比較にならぬほどの譲歩を、この危険な独裁政権に対して重ねてきたのである。


いま、それこそたまたまアメリカに占領されたからそんな悠長なことも言えるわけだが、もしソ連にでもとてもそんなへらず口叩けるような状況にはなっていないし、あるいは日本が南北対立の最前線にされていたかもわからない。

天皇家だってどうなっていたか知れない。

だからそんなことはメじゃないのだ。実際問題。

これは、「ニ・二六事件」を起こした若手将校たちがそうだったが、彼らにとって天皇の「大御心」とは、
正しいことをしている自分たちの真情は天皇ならきっとわかってもらえるはずだというものであって、
もしそれを天皇が否定するというのであれば、それは天皇のほうが間違っているのだ、となる。

日本という国としてはこうあらねばならない、日本人であればこうしなければならない、という理想像があって、
そしてその理想に従わないのであれば、絶対者であるはずの天皇でさえ否定されるというのが、大日本帝国における真の国体だった。

そしてそれは今でも変わらない。

昭和天皇自身が当時を振りかえって、もし自分が軍部のいうとおりに従っていなければ、自分のほうが廃されるか殺されるかしていただろうということを語られているが、
そこまでせずとも、
実際もし天皇が軍の意向に反することを迂闊に指示しようものなら、周りでどんなテロが引き起こされるかわからないような状況で、
そういう"脅し"も、軍部の者からかけられていたという。

通常、天皇の行動は「上奏を聞き、質問に留める」という前提になっていたが、その中で昭和天皇が特に自らの強い意志を主張したことが4回ほどあった。

① 張作霖爆殺事件に対する田中義一首相に対する詰問
② 熱河作戦を止めるべきではないかという見解の表示
③ 日米開戦に対する反対
④ 終戦時において、陸相などの反対を押し切り終戦の決定

が、2番目について、天皇が止めろと意思表示をすると、そんなことをすればどんな政変が起こるかわかりませんぞと、奈良武次侍従武官長(大将)から迫られたという。


孫崎享『日米開戦の正体』p.322、323より

日米開戦の正体――なぜ真珠湾攻撃という道を歩んだのか
孫崎 享
祥伝社
2015-05-12


 10日に天皇は、参謀総長にたいして
「熱河作戦ハ内閣ニテ能ク商人シ居ラサリシヤノ旨、尚中止シ能ハサルヤ」(「奈良日記」)と、作戦中止を要求した。<略>
 だが、奈良侍従武官は、天皇の作戦の裁可取り消しに強く反対し、天皇に「慎重熟慮」を求めた。
奈良の主張は、
「<略>陛下ノ御命令ニテ之ヲ中止セシメントスレハ大ナル紛擾を惹起し政変ノ因トナラサルヲ保チ難シ」
(「奈良日記」)というものである。



これが保守派のひとたちが語る、実際の当時の愛国者たちの本音。

軍部の者たちが正しいと考える戦争を、日本国として、日本人としてしなければならない戦争を、日本国の象徴たる天皇が拒否することなど許されない、日本の天皇であるなら、我々が求める戦争をそのまま受け入れなければならないのだと、天皇に対してさえ脅しをかけているのだ。

こうした考えだから、たとえどのような戦争であろうと、日本人なら死んで当然、天皇においておや、というふうになるのだろう。




大東亜戦争は「列強による東亜侵略 百年の野望を打ち砕く」ための大義の戦争だったのだから、だから死んで当然なんだと。

それがどんなに狂った負け戦の作戦であっても、と。

そうそう。でも、他国を解放してあげるのはいいが、そのために自国が滅んでも構わないなんて、そこまで本気で当時の日本人は思っていたのか。

いや、そんなことは決してないだろう。

だって、絶対に勝つ勝つ言われていたんだから。

たとえ自国を滅ぼしても、天皇の命を犠牲にしてでも、絶対にやらなければいけないなんて、思うわけがないじゃない。

しかし、悪いヤツらの野望を打ち砕くためとか、大義のためだとか言われると、妙に納得させられてまうようだ。



「何が正しいかは、その時代によって変わる」
「戦争とは、『お互いの正義』がぶつかりあうもの」
「戦争は良くない。だからこそ、『その時代の正義』の犠牲になった先人たちに
 ただただ感謝をし、二度と戦争が起こらないように祈りを捧げたい」

自分が小林よしのりの『戦争論』を見ても、なるほどこんな考えだったから、あんな無謀な負け戦を平然とすることができたのだろうと、むしろ敗因の証明にしか見えないのだが、受け取り方がぜんぜん違うことに驚かされる。

正義だ悪だの以前に、なんで成否の確立を度外視するのかという点が問題にされないのか。

無条件降伏なんて、ぜんぜんする必要なんてなかったし。

日中戦争の開始から、最終的に無条件降伏というこれ以上ない最悪のところにまで現実にいったという当時の日本の敗戦自体がそもそも在り得ない逆奇跡でしかないのだが、なぜかその負け戦が当然のこととして、非難するほうが非国民みたいにされる。

プロ麻雀士の鈴木たろう氏が、勝つための秘訣として、常に確立が高くなるほうの手を積み上げていくことが大事だと語られていたが、
大東亜戦争における旧日本軍はその逆のことをやったから負けただけ。

彼らの行動を知れば知るほど、そりゃそんなことしてたら負けるしかないだろ、というふうにしかならない。

「戦争は良くない。だからこそ、『その時代の正義』の犠牲になった先人たちに
 ただただ感謝をし」

という、こういった言葉も、
例えば、フィリピン戦役への増援のため送られながら敵と戦うこともなく、台湾とフィリピンの間にあった「バシー海峡」でアメリカ潜水艦に次々と狭い船内に閉じ込められたまま水没させられていった兵士とか、せっかく無事に生還を遂げて帰ってきても、名誉の戦死を遂げたことになってるからもういちど戻って死んでくれといわれて死なされた兵士たちとか、
あるいは海外に派遣された兵の六割は餓死したとか、
間違った戦争指導のせいで死ななくても済んだ人たちに対して、"ありがとうございます"とは・・・・・・。

とても言葉が出ない。

そしたらそれで死んで"当然だ"ってことになってしまうから。

そういうことをもっともらしく政治家が言うが。

そこで行われていたのは、勝敗に関係のない「死なせること(=自己犠牲の礼賛)自体の自己目的化」

特攻隊を生んだ構図は現在の日本社会にも残り続けている|LITERA/リテラ

 佐々木氏にはそれから何回も何回も出撃命令がくだされる。それは、敵艦を沈めることを意図したものではなく、ただただ彼を特攻させて殺すための出撃だった。なぜ、敵艦を攻撃することよりも、名誉の戦死を遂げることが目的化したのか。参謀長が佐々木氏を怒鳴りつけた言葉がそれを説明している。

「佐々木はすでに、二階級特進の手続きをした。その上、天皇陛下にも体当たりを申し上げてある。軍人としては、これにすぐる名誉はない。今日こそは必ず体当たりをしてこい。必ず帰ってきてはならんぞ」
「佐々木の考えは分かるが、軍の責任ということがある。今度は必ず死んでもらう。いいな。大きなやつを沈めてくれ」

 出撃を繰り返すうち、援護を担当する直掩機の数も減らされ、佐々木氏の特攻はどんどん雑な扱いになっていく。8回目の出撃ではついに直掩機が一機もつかなかった。これでは敵艦に近づくのもおぼつかないし、たとえ特攻したところで戦果の確認すらできない。



 鴻上氏はこのように指摘する。

「特攻隊やいじめの資料を読んでいると、同調圧力っていうのは日本人の宿痾なのかもしれないという気がします。「特攻に志願する者は前に出ろ」と上官が言って、誰も動かないと「出るのか、出ないのかハッキリしろ!」と叫ぶ。すると、全員がザッと前に出る。個に目を向けず、全体が一つであることが美しいという価値観は、いまも連綿と続いている」(「週刊朝日」16年9月9日号/朝日新聞出版)


総員玉砕せよ!/水木しげる~キレイで刺激的な戦争モノばかり見ても意味ない~ - 深夜図書

この「総員玉砕せよ!」 という物語は、九十パーセントは真実です。

ただ、参謀が流弾にあたって死ぬことになっていますが、あれは事実ではなく、参謀はテキトウな時に上手に逃げます。

(中略)

この物語では最後に全員死ぬことになているが、ぼくは最後に一人の兵隊が逃げて次の地点で守る連隊長に報告することにしようと思った。だが、長くなるので全員玉砕にしたが、事実はとなりの地区を守っていた混成三連隊の連隊長は、この玉砕事件についてこういった。

「あの場所をなぜ、そうまでにして守らねばならなかったのか」
 
ぼくはそれを耳にしたとき「フハッ」と空しい嘆息みたいな言葉が出るだけだった。

あの場所をそうまでにして・・・、なんという空しい言葉だろう、死人(戦死者)に口はない。

「玉砕」に衝撃を受けたのん「初めて戦争ってとんでもないと心の底から思った」|LITERA/リテラ

『総員玉砕せよ!! 〜聖ジョージ岬・哀歌〜』は、1973年に講談社より出版された作品。舞台は、1945年のニューブリテン島。水木が実際に所属していた臨時歩兵隊第二二九大隊(ズンゲン支隊)がモデルとなっている。

 物語の序盤は、兵隊生活の理不尽な体罰や、死と隣り合わせの恐怖が、時にユーモアも交えながら描かれる。しかし、ストーリーの中盤以降、ラバウルにいる10万人の将校たちのためにバイエン支隊の兵隊500人が捨て石となって玉砕するよう命令がくだってからはトーンが一変。兵隊たちが無慈悲に殺されていく姿が凄惨に描かれる。

 だが、兵隊たちにとって、この玉砕命令は悲劇の始まりに過ぎなかった。バイエン支隊の玉砕は大本営にも伝えられ、戦意高揚のための美談として喧伝されたのだが、実は多数の生き残りがいることが発覚。これが大問題となる。

 生き残りの兵隊たちは命からがら聖ジョージ岬へ逃げ帰るが、そこで待っていたのは、「敵前逃亡」の罪であり、「卑怯者」の汚名であった。せっかく生き残ったのにも関わらず、責任をとるため、部隊を率いた隊長たちはその場で自決を強制される。そして、その下についていた兵隊たちは、聖ジョージ岬に上陸する米軍に対して玉砕攻撃を仕掛けるよう命じられた。今度は逃げることのないように監視役までついており、その監視役には逃げる兵士を射殺しても構わないという権限が与えられていた。そして、物語は兵士たちが無惨に討ち死にし、誰にも顧みられることなく白骨化していくさまを生々しく描いて終わっていく。

実際、本当にそんな思想になっていた。



「悠久の大義のために死ねば永遠に生きられる」

日本国民として死んで当然。それは「大義」のためだから。

大義のための戦争なら、敵にダメージを与えるのとは関係なしに玉砕を遂げても賞賛される。

戦艦・大和の最期の出撃は、戦術的には全く敵にダメージを与えることのない無意味な行動だった。
艦隊を守るための護衛機がないため、出て行っても敵の攻撃機にハチの巣にされるだけだった。
ただ敵に殺されにいくだけ。

軍事的にはその状態にされた段階で戦争には"負け"たということ。

当然、その時点で、大東亜戦争および太平洋戦争をはじめた戦争責任者たちが負うべき責任が生じている。

ところが、にもかかわらず、戦争指導者たちの責任が問われることもないまま、すでに勝敗の決まった後からの自殺行為同然の玉砕行動が依然として"見事だ"と賞賛される。

"ありがとう"という言葉はそうした無意味な玉砕を賞賛する意識から出てくる言葉だ。

逆にいえば、国の大いなる理想のためには、国民の命の犠牲もなんとも思わないというような考えだから、あのような狂った負け戦でも平然とできてしまえる。

神のために己の身を犠牲にしてというのは、他の宗教にもあることだが、しかしたとえばキリスト教との違いは、神への奉仕の実現に、そこに「目的合理性」の追求があるという点。

プロテスタントたちにとって、労働をして富を積み上げていくことは、神の意にかなった行為なので、たくさん積み上げれば積み上げるほどよい。
そしてその富をできるだけたくさん積み上げていくために、「効率性」を考えていくようになる。
だから彼らの行動は目標の実現に、非常に合理的になっていく。
神のために何かをするとして、効果もないようなことをいたずらに身を労するだけになってしまっては意味がないと考えるコスト感覚が彼らにはあるのだ。

けれども日本人にはその感覚がない。

ないのは結局、儒教だから、朱子学だからということになるのだが、たとえば幕末に革新的な行動を起こした西郷隆盛や吉田松陰、あるいは河井継之助といった人たちは朱子学ではなく陽明学だった。

陽明学も朱子学から派生した学問・宗教なのだが、非常に観念的な朱子学と比べて、陽明学は合理的な実践を重んじる学問だった。

幕末に幕府を打倒する革命の原動力となったのは朱子学の唱える「尊王攘夷」のイデオロギーだったが、その最も先鋭の藩だった水戸藩では、朱子学に対する"正しさ"の在り方の是非を巡って、こうであらねばならない、いやこうであらねばならないといった対立で仲間同士の凄惨な殺し合いとなり、その結果、いざ維新が達成されたそのときには、ほとんどの人が死に絶えて革命政権に参画する人材が尽きてしまっていたという。

天狗争乱 (新潮文庫)
吉村 昭
新潮社
1997-06-30


昭和の日本の敗戦後、中国学者の狩野直喜博士は、

「たとえば宋学(朱子学)が日本を滅ぼした」

と語ったといい、そして作家の司馬遼太郎さんによれば、

「教育勅語は朱子学そのものであります」

とのこと。

大日本帝国の滅亡は明治国家のいわば水戸藩化によるものではないか。

中央集権化によって、それまでは諸藩でそれぞれ保っていた多様性が失われて思想が唯の一つに統一されてしまった。

今の日本の保守派も、再び朱子学的儒教イデオロギー」で日本の思想の統一化を図ろうとしている。

明治国家が水戸藩化していったのは、自由民権運動や左翼運動の隆盛を政府の政治家や役人たちが恐れたから。
教育勅語が作られたのが西南戦争や竹橋事件、明治十四年の政変といった政府を脅かす一連の事件が発生した後のことで、そこでは、本来の儒教であれば、親に対する「孝」が最高の徳目で、次いで君臣の義が説かれるのだが、教育勅語ではその優先順位をひっくり返して、君主に対する忠誠心が最高の徳目に取り上げられている点に特徴があった。

今もまた、自由主義・平和主義や左翼の蔓延に対して、保守派が恐れ、その反作用として保守反動の活発な動きが展開されている。

・憲法は政府を縛るものではなく「国家の理想を語るもの」(安倍首相)
・安倍政権にによって約60年ぶりに全面改正された教育育基本法において「豊かな情操や道徳心」「公共の精神」「伝統と文化の尊重」「我が国を愛する、"態度"」などの育成が果たすべき国民の義務となり、反対に「個性」や「平和」といった記述が削除


ここで非常に重要なことは、ただ「愛国心を養えといっているのではなく、「我が国を愛する"態度"」を養わなければならないと言っていること。

だから「愛国心」といっても、どんな愛国心でなければいけないのかという形まで決まっているということ。
それはただ心に思っているだけではダメで、例えば具体的に公の場で国旗掲揚・国家斉唱をこうしろああしろとか決められていて、それをするのが「愛国心」なのだと。
そしてそれは既に「法制化」されていて、従わなければ法律違反にされる。

当然、国家のこと憂慮して批判やデモ
行為などは「愛国心」にはならない。

彼らにしてみれば、そうした思想の統一性が失われたために、今の日本がダメになったということなのだが、しかしこれは、かえってそれが自らの行動の選択の幅をどんどんと狭めていってしまう結果に陥りかねない危険性を孕んでいる。