日本維新の会・丸山ほだか氏の北方領土問題に関する発言がかなりのニュースになっている。



ただその一方で、何が悪いのかという意見も出ている。

しかしもともとその「北方領土4島は戦争しない限り取り返せない」という発言の趣旨は、維新の会リーダーの橋下徹氏以下、維新の会系議員の人たちにとって、議論の前提問題として置かれていることのようだ。

だからそれこそ、戦争で奪われた領土を取り返すのは、主権国家としてもっていて当然の権利の一つではないかといった認識。
戦争をするしないは、その国々で決めて当然のことだということと同じテーマに属する問題という認識。



「戦争で奪われた領土を戦争で取り戻すのは当たり前」論が普通に出てきてるが、実に乱暴な話だ。



日本の領土なのに不当占拠されているということでいえば、日本の主権の及ばない米軍基地こそまさにそうなのに、なぜかそのためには戦わず、逆に膨大な額の金を貢いでニコニコしている。

日本のために米軍が頑張ってくれているなら、先ず米軍にロシアを追い払ってくれように言えばいい。
北朝鮮にそうしてもらったように。

日本は戦争に負けて、その後の講和条約で、それまでの対外戦争で獲得した領土については放棄した。
それを戦争で取り戻すということは、調印した講和条約を破棄して、現在の国際連合体制からも離脱して、ロシアに宣戦布告をして戦争を挑みかけるということだ。

それが当たり前になるというのは、まさにそれは昭和に日本人が「太平洋戦争」に突き進んでいった思考と全く変わらない。
理不尽な国連決議で不当に日本をおとしめる国際連盟から脱退して世に正義を訴えるのだと。

丸山議員に関しては議院辞職勧告決議案まで出されるかどうかまでいって問題視されているが、この人物の場合、問題は単に今回の一件だけでとどまることではない。
今年の3月に、韓国の金浦空港で空港職員とトラブルを起こして現地警察に身柄拘束までされた厚生労働省の課長の人がいたが、丸山議員も元は経済産業省の官僚出身の政治家。

韓国の空港で「韓国人は嫌いだ」とヘイトを叫んだ厚労官僚はアベノミクスの旗振り役! 安倍政権下で進む公務員のネトウヨ化|LITERA/リテラ

こうしたマインドを持った人は保守政治家ではなくむしろ官僚側の人たちに見られる特色だ。

本来の保守政治家でいえば、金と利権が大事で、イデオロギー色はそこまで強くない。
小室直樹先生が著書に書かれていたが、

「官僚は政治家と比べて汚職はないが、けれども官僚たちが政治を支配していた時代が最も危険だった」

と。

しかし近年では、「日本会議」「神道政治連盟」といった非常にイデオロギー性の強い保守団体に支持され憲法を改正を実現しようとしている安倍政権の出現によって、議会を占める政治家のカラーもかなりファナティックなものへと変貌を遂げつつあるようだ。



安倍政権では約60年ぶりとなる教育基本法の全面改正が行われて、そこに「愛国心条項」が盛り込まれることとなったが、以前なら危険視されたような意見でも、最近ではそれが国のためを思った態度として当然ではないかと支持される傾向が強まりつつある。

戦争で奪われた領土はまた戦争で取り戻すしかないというのはもっともらしく聞こえるが、けれども戦争で負けて取られた領土ということでいえば、韓国や台湾なども入ってくる。

しかし、日本は「戦争で奪われた領土」に関しては、戦争に負けたことによって放棄したのだ。

では、「北方領土」は何でロシアからの返還を求めていたかといえば、それが、

「日本の固有の領土」だから。

という理由でずっとソ連およびロシアからの返還を求めていた。

そこは戦争で奪い取った領土じゃないから、もともと日本の領土だったのだからという言い分で。

「ポツダム宣言」において、日本の領有は、

「日本の主権は本州、北海道、九州および四国並に吾等の決定する諸小島に極限せられるべし」


とされたが、
その後、日本再独立の際に締結された「サンフランシスコ講和条約」(1951年9月8日書名)では、
第二章第二条において、日本の領有権に関しては、

「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として
主権を獲得した樺太の一部およびこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」


ということとなった。

つまりここで、結局あらためて日本は千島列島の領有権を放棄するということが決められたわけなのだが、しかしその「千島列島」が含む各島の内訳に関しては、当時の吉田茂首相は、千島列島の内でも「歯舞・色丹」の二島のみは、日本領だとの見解を示し、
それが明治時代に条約を結んだころのロシアとも共通する考えだったという。

「千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、
帝政ロシアもなんらの異議をさしはさまなかったのであります」
(1951年9月7日の吉田首相の答弁)

日本が江戸時代の1855年に帝政ロシアと結んだ「日露通好条約」での境界線が、千島列島のうち、国後・択捉、歯舞・色丹の北方四島までは日本領とする取り決めだったという。
また、千島列島の領有は放棄すると決められたサンフランシスコ講和条約締結時においても、ほぼ舞・色丹の二島のみに関しては、これは北海道の一部だという見解だったのだという。


日露急接近はアメリカの意向を反映させた中露分断工作か ①
日露急接近はアメリカの意向を反映させた中露分断工作か ②


だから「北方領土」に関しては、二島にしても四島にしても、それはもともとからの「日本の固有の領土」だったのだから、日本の領土として返してくれというわけだ。


1855年日露通好条約(北方四島以南が日本領に)
1875年樺太・千島交換条約(千島列島全土が樺太と交換で日本領に)
1945年ヤルタ秘密協定(北方四島までがソ連領に)
千島列島の境界線の推移
樺太・千島交換条約 - Wikipedia


日本は1941年(昭和16年)に、ソ連とは「日ソ中立条約」を結んでいた。
「日ソ中立条約」では、もし条約を破棄する場合は、1年前から破棄通告をしていなければ自動延長されるという約束だったのが、それをソ連がまだ4ヶ月前の段階で一方的に破棄し、さらに1945年(昭和20年)8月8日に正式に日本に対して宣戦布告をし、日本は一気に北方領土まで不当に奪い取られてしまうこととなった。

しかし、ソ連は1945年2月の「ヤルタ会談」で、対日参戦することを条件に、「千島列島はソヴィエト連邦に引き渡されるべし」という密約が取り交わされていた。

英米の連合国は第二次大戦中の1941年8月に大西洋憲章で、
「いかなる拡大も求めない」「いかなる領土の変更も欲しない」という取り決めを約束していたにもかかわらず、米英がスターリンの要望に応じたため、だから「ヤルタ秘密協定」という密約の形になった。

けれども「密約」とういうのは、密約だからといって破棄されることはない。
たとえ密約だとバレたとしてもそれは変わらない。
別の新しい解釈や名目が与えられてでも密約の効力は継続させられる。

だからソ連に戦争で占領されて、ここまでが千島だと主張されれば日本がいくら固有の領土だと訴えても交渉は難しい。
それでも交渉の前提に戦争まで含めるというのであば、こんどは日本がロシアにとって平和を脅かす脅威となる。
そしてそうなれば今、日本が北朝鮮や中国に対して乗り出そうとしているような予防戦争の対象となって、その脅威を取り除くためあべこべにロシア軍のほうが日本本土の部分占領に乗り出してくるといった危険性さえ生じておかしくないが、なぜかそういうふうには頭が回らない。

戦前の日本がまさに、そういう名目でアジアの諸地域を占領して支配下に収めてきた。
中国政府は反日分子を取り締まらず日本人居留民の安全が確保できないといって、無理やり現地の中国軍を排除して占拠し、日本が変わりに統治するということをやってきた。
満州は民族独立の五族協和の理想郷にするとか謳っていたが、時間が経っていればおそらく日本は満州も韓国と同じように併合していたにちがいない。
考えることは大昔と変わらず、それで大失敗したにもかかわらずまた元に戻ろうとしている。

しかし、もともとアメリカのほうにも千島列島の範囲に関しては曖昧だという認識を持っていたという。

丹波寛元駐ロシア大使著『日露外交秘話』には、
1951年対日平和条約において、(アメリカは)日本に千島列島を放棄させるが、
この放棄させる千島列島の範囲を曖昧にしておけば、この範囲をめぐって日本とソ連は永遠に争うこととなり・・・・・・

という趣旨の在京英国大使館発英国本国宛の極秘意見具申電報があると、書かれているという。

が、ただ「日ソ中立条約」違反だからという理由でそれに違反してソ連が奪い取った領土は返せということになれば、韓国や樺太だって返せよということになってくる。
けどそこはいいけど北方領土は返せというふうになるのは、そこが日本の「固有の領土」だったからという理由しかない。

すると、でもそうなると今度は、今、安倍内閣では、北方領土は「日本の固有の領土」だという主張をを、撤回してしまった。



が、「日本の固有の領土」だという理由をなくせば、もはやその領土を返してくれという理屈すら成り立たなくなってしまう。

と、いうことをしてくれたのだ。この日本の首相は。



今、もう日露の領土交渉がどうなっているのか、まったくわからない。

日本との平和条約についてはプーチン大統領のほうが乗り気で、北方領土の返還についても「平和条約締結後に歯舞、色丹を引き渡す」とした1956年の「日ソ共同宣言」を基礎に、二島返還で進めていくといった話だったはずなのに、ここにきて俄かに雲行きが怪しくなってきたのはどういうわけなのか。

「固有の領土」だという主張まで日本のほうから取り下げたのであれば、後は何がロシアの不満のなのだろうか。
返還後、といっても「固有の領土」だという主張まで取り下げればもはやロシアからのレンタルにしかならないが、そのレンタルした土地に米軍が入ってくるのを心配してるからとは言われる。
けどそれなら領土返還は最初から無理だという話になる。

安倍首相も安倍首相のほうで何を考えているのか。
安倍首相のほうは、憲法改正のための選挙に勝つための支持率UPのためのレガシー作りのためなのだろうが、一体この男はそのレガシー作りのためにどこまでの代償を払ってもいいというつもりでいるのか。

もし何らかの"密約"で結ばれたとして、それは密約でも効力を発揮する。
ただしそうなると今、日本がアメリカや他の国々と結んでいる条約との間で「二重外交・多重外交」状態になる。

「固有の領土」ではないが日本が「主権を有する(主張する)」土地ということでは、これまで日本が返還を求めていた大前提が崩れる。
それであれば失われた領土の返還要求は、日本がその気になれば韓国や台湾はおろか満州にだって適用できるようになる。

外務大臣から、誰も何の説明もしない。国会で質問されてもひたすら無視




































「戦争ができる」ということは当たり前だという前提の認識で、それで、日本は、"道義的に"それを、あえてそれを放棄してうやっているのだという意識が、チラチラ。

日本が戦争を放棄しているのは、すなわち日本人が平和を愛する善良な民族だから。
大量虐殺するような野蛮人とは違うからといった意識。

本来、独立した主権国家であればしなくてもいいことをしているのは、それをアメリカから平和憲法を押し付けられているからだけど、
けれども日本人は平和民族だから、あえて受け入れいてやっているのだと。

が、いくら黙っているからといって、いつまでも理不尽なことを強いられるようなら、日本人にだって我慢の限界はあるからなと。

大東亜戦争のころからずっと、

「今度という今度はがまんならない」

という理屈でやって日本人のずっと変わらないこの意識。

山本七平botまとめ/理不尽なアメリカにどう接するべきか、の考察 - Togetter


日本人は単純に物事を「善」と「悪」に分けて考えたがる。いわゆる「善悪二元論」で考えたがるのが日本人の特徴。

山本七平botまとめ/【ものの見方の差】日本にない対立概念/日本のばあいは二元論/すべてに誤る善玉悪玉観/ローマ法の世界と自然法の世界 - Togetter


ここが微妙で、「対立概念でとらえる」のではなく、「善玉悪玉と二つに分ける」というところに、日本人の厄介な問題が生じてくる。対立ではなく、善と悪を分けてしまうと、そうすることによって、「社会悪の構造的原因まで追究しない」ようになると、山本七平さんは指摘する。

山本七平botまとめ/内なる「悪」に無自覚な日本人 - Togetter




しかしこの意識のせいで、日本人は起きた社会問題に対して、自らの罪の意識はおろか、生じた事件や問題に対知る「責任意識」「当事者意識」までもが完全に欠落してくるようになる。

悪いことが起きたのは、誰か悪いやつがいるからそうなるだけで、自分たちには何の責任も問題もない。悪いことしたヤツがいなくなればいいだけ、という考えになって。

日本人は、特に保守の考えの人たちはその傾向が強いが、昭和の戦争を、"追いつめられたから"という言い方をしたがる。

悪いヤツがいて、その悪いヤツらに日本は戦争せざるを得ない状況へと追いつめられてしまったのだと。

終戦直後は戦争行為そのものが悪かったのだという認識できていたが、ただそれもよく考えれば、"自分たちのせいではない"という意識の裏返しの構造にもなっていた。

それが戦後70年以上も過ぎて、いや戦争だって、それの何が悪いのかと。

戦争自体は他のどこの国でも、自分たちの国の平和や安全、自己の利益を守るために権利として持っているにすぎない単なる権利の行使であって、何も悪くない。みんなやっている。

だから戦争も悪くない。

悪いのはだから、日本がそうさせられたように、戦争せざるを得ないような状況に追いつめた連中が悪いのだと。

そして、そういう悪いヤツらが今、日本の領土の安全を脅かそうとしてきている。
だからその悪いヤツらから日本を守るために、戦争だって普通にできるように憲法を変えて日本を守らなければならないのだと。

・・・と、このように考えると、日本の敗戦に対する責任問題や当事者意識がすべてきれいに消えてなくなる。

戦争自体の「いい・悪い」論になって、そもそも軍事作戦として狂ったことをしていたという運営面について問題は全く話題にも取り上げられない。
それは確立の問題じゃない、成功しようが失敗しようが、どんなに困難な戦いでもやらなければならない戦いだったのだといい訳されて、それでコロッとごまかされてしまう。

しかしそれは、単に当時の日本軍が実際にどんなことをしていたかその実態について知らないままでいるからだ。

『マクロ経営学から見た太平洋戦争』p.125

マクロ経営学から見た太平洋戦争 (PHP新書)
森本 忠夫
PHP研究所
2014-08-29


 当時、日本が手を伸ばした作戦の全長は、戦後の1981年ころの日本の商船が張りめぐらせた航路網に匹敵するといわれた、べら棒な長さであった。
今日、その航路をカバーするのに4000万トンの船舶の運航をもってしてすら必要な貨物の約半分しか運べないといわれているが、それと同じ長さの作戦線を拡げに拡げた戦線のころの太平洋戦争当時における、日本の全船舶保有量は、わずかに642万トン。
いいかえれば、戦後の今日における必要量のほぼ12分の1にも満たなかったのである。
作戦と船腹の関係にまるで整合性を欠いた、軍事的ファナティシズムによる暴走以外の何物でもなかったということだ。

昭和の初めのころに日本が「満州事変」「支那事変(日中戦争)」(昭和12年:1937年7月7日~昭和20年:1945年9月9日)を起こして当時の中国から領土を奪おうとしたのは、日本が世界戦争の弱肉強食の時代に生き残れるように、資源と、ブロックされても貿易が続けられるための市場と生産活動のための労働者を確保するため。

そのときはそれこそ、日本が生き残るためにこれが必要なことなのだといってやっていた。
侵略でもこれが時代の"リアル"なのだと。

しかし、日本は中国との戦争に必要な鉄鋼資源や石油をそのころ、アメリカから輸入して続けていた。

当時の日本は先ず、アメリカに生糸を輸出し、生糸で得た外貨でアメリカから石油、機械類、屑鉄、木材パルプおよび綿花を輸入し(貿易の第一環節)、
次いでその綿花を加工して各種綿製品を生産して世界市場に輸出(といってもこれは主に日・英間で)し、重工業原料を輸入していた。(貿易の第二環節)
そしてそこから得た工業原料を加工して、最終的に、満州と支那の市場へ、日本から製造した工業製品や機械類を輸出して利益を得るといった貿易(貿易の第三環節、満支からは農産物、食料品および鉱物を輸入していた)をしていた。


だから日本がアメリカやイギリスと不仲になったら戦争など続けてはいられなかった。

その状況が変わるのが、日本が中国とドロ沼化した長期戦を戦っていた最中に巻き起こった「第二次世界大戦」の勃発。
日本軍による「英仏租界封鎖」がアメリカの危機感を増幅させ、1941年(昭和16年)8月にアメリカから対日全面禁輸を喰らう2年以上前の昭和14年(1939年)7月に、日本はアメリカから「日米通商航海条約」破棄を通告され、アメリカによる日本への経済制裁は、既にこの頃から早くも開始されていたのだった。

それまで日本はアメリカとの貿易関係で得た外貨や資源を使って支那事変(日中戦争)を戦っていたのに、第二次大戦の発生以後、それができなくなってしまったのだ。

アメリカが危険視したのは、日本がアメリカにとって最大のパートナーであるイギリスを滅ぼそうとしているヒトラーのナチス・ドイツと日本が三国同盟を結ぶ関係にあって、その日本がヒトラーの要請を受けて、イギリスの生命線である植民地インドとの補給線を分断してイギリスへの補給を断ち、国家滅亡に追い込む事態だった。

もともと日本は、共産化したソ連からの侵攻に備えるためという名目で、ドイツ・イタリアと反共産主義同盟となる「防共協定」を結び、満州事変で満州を獲得してソ連との緩衝地帯とし、さらに華北・華北の資源と市場獲得を目論んで「支那事変(日中戦争)」を起こしていた。

最初はすべて、ソ連との戦いに備えるという名目だった。

しかし日本の中国侵出を警戒した英米仏ソが中国側を支援したため、日本軍はいつまでも中国政府を屈伏させることができずにいた。
そして諦めて中国内陸部からの撤兵を考えはじめたとき、そこで第二次世界大戦が勃発した。

しかもヒトラーのナチス・ドイツは電撃戦を展開してまたたく間にフランスやオランダを降伏させ、イギリスももはや降伏寸前かというところにまで追いつめた。

これで日本の方針が一挙に転換した。
いっそこの機に中国から英仏の勢力を排除して、中国に親日の傀儡政権を樹立して支配することを企んだ。

米英との貿易関係が途絶するのはダメージだったが、南方東南アジアの資源地を獲得することでそれに代替すればすべてうまくいくと短絡に考えた。

それが「大東亜共栄圏構想」の実態。

日本がアジアの国々を欧米列強から解放するための聖戦などと謳っていたが、所詮"後付け"の設定として考案されたものに過ぎず、本当のところは第二次大戦で英仏がドイツにコテンパにされるのを見て、ザマミロこの隙にと、日本のほうが中国・アジアを火事場泥棒的に奪い取ってしまおうとするものだった。

これで当時も戦後もずっと変わらずに、「追いつめられてしょうがなかった」と言い訳し続けているのだからすごい。




昭和14年(1939年)

昭和14年(1939年)5月、「第一次ノモンハン事件」の発生。
昭和14年(1939年)6月14日、日本軍、天津英仏租界を封鎖。
昭和14年(1939年)7月、「日米通商航海条約」破棄を通告。
昭和14年(1939年)8月、「第二次ノモンハン事件」の発生。
昭和14年(1939年)8月、「独ソ不可侵条約」の締結。
1939年(昭和14年)9月、ドイツ、ポーランド侵攻。英仏ドイツに宣戦布告。「第二次世界大戦」の勃発。


昭和15年(1940年)

昭和15年(1940年)5月、ドイツがオランダとベルギーを降伏させる
昭和15年(1940年)6月、近衛文麿、「新体制運動」推進を表明。「新体制運動」とは、近衛文麿をリーダーとして、ドイツのナチス党、イタリアのファシスト党となるべき一国一党による強力な指導力を持った独裁政治体制の確立を目指した運動で、最終的に日本の政党はすべて解散され「大政翼賛会」となった。
 軍部ではファシズム化させた近衛新党をして、挙国一致体制の軍事国家を夢想したが、近衛とその側近たちも、近衛新党運動による新体制で国民を統一し、軍部の専横を防ぐことを考えていた。既存各政党は近衛の新党運動に乗り遅れるなと、雪崩を打つように解党しはじめた。政党人たちは「バスに乗り遅れるな」と解党したが、平沼騏一郎など観念右翼系や、柳川平助など皇道派系の将軍からは「新体制は幕府的存在である」との非難も一方で浴びた。
          
昭和15年(1940年)1月15日、「米内光政内閣」の成立。

昭和15年(1940年)7月、社会大衆党解党。
昭和15年(1940年)7月22日、米内内閣、畑俊六陸相が辞任したあとの後任陸相を陸軍が推挙せず、倒壊に追い込まれ解散。政友会久原派解党。

昭和15年(1940年)7月22日、近衛文麿に大命降下。「第二次近衛内閣」発足。
昭和15年(1940年)7月26日、近衛内閣が閣議で「基本国策要項」決定。第2次近衛文麿内閣発足時のこの「基本国策要綱」に、「日本を盟主とする東アジアの広域ブロック化の構想」である「大東亜共栄圏」構想がはじめて盛り込まれる。「大東亜新秩序」の建設は、ドイツのファシズム体制のように、日本国内でも戦時に政党を解散させて挙国一致体制の確立を目指す「新体制」運動と並ぶ基本方針とされた。
これはドイツの「生存圏(Lebensraum)」理論の影響を受けており、「共栄圏」の用語は外相松岡洋右に由来する。

昭和15年(1940年)7月、政友会中島派解党。
昭和15年(1940年)8月、民政党解党(衆議院は無党派状態に陥る)。 仏印進駐に関し松岡・アンリ公文交換「松岡・アンリ協定」が結ばれる。

昭和15年(1940年)9月、日蘭経済交渉開始(小林一三特使)。           
昭和15年(1940年)9月23日、日本軍、「北部仏印」に進駐。           
昭和15年(1940年)9月27日、「日独伊三国軍事同盟」成立

昭和15年(1940年)10月12日、「大政翼賛会」(総裁・近衛文麿)の結成。ところができあがった大政翼賛会は、「大政翼賛会の綱領は大政翼賛・臣道実践という語に尽きる。これ以外には、実は綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において方向の誠を致すのみである」(近衛首相の演説)というもので、近衛首相や軍部が考えていた強力な指導力を持った組織ではなく、それはもはや「政党」ですらなく、単なる「会」へと成り下がってしまっていた。

昭和15年(1940年)11月、最後の元老・西園寺公望病没。
昭和15年(1940年)12月、内閣改造、内相に平沼騏一郎、法相に柳川平助(一挙に右翼的色彩が強まる)。


1941年(昭和16年)

1941年(昭和16年)3月12日、松岡外相が独伊訪問の旅に出発し、ヒトラー、むっそりーにと世界分割について語り合う

1941年(昭和16年)4月、松岡洋右外相、モスクワで「日ソ中立条約」に調印。

1941年(昭和16年)4月、「日米交渉」の開始。アメリカ国務長官コーデル・ハルを「日米諒解案」を交渉の基礎にすることを野村吉三郎大使に言明し、日米間の大きな問題だった、日支事変の解決、日本の三国同盟の死文化、太平洋平和の確立を目的とした和解案を提示した。
            「ハル四原則」の提示
            1:すべての国家の主権尊重、領土不可侵、
            2:内政不干渉、
            3:機会均等を含む平等原則、
            4:太平洋秩序の維持

1941年(昭和16年)6月、近衛内閣、蘭印で経済交渉に当たっていた芳澤謙吉公使に交渉打ち切りを訓令。

1941年(昭和16年)6月22日 、ドイツ、ソ連に宣戦。「独ソ戦」の開始。電撃作戦で国境各所を突破。

1941年(昭和16年)7月2日、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」が決定される。ソ連に対しては「独ソ戦争の推移、帝国のため有利に進展せば武力を行使して北方問題を解決」する。
南方進出は「対英米戦争を整え」つつ態勢強化を図るため「仏印(ベトナム)及びタイに対する諸方策を完遂」する、という内容が盛り込まれたが、結局、対ソ戦略は成り行きまかせで、ドイツ軍が勝ちそうになったら日本も打って出る、という是々非々路線の内容となる。

1941年(昭和16年)7月12日、総力戦研究所で模擬内閣が組織される。

1941年(昭和16年)7月、御前会議において南部「仏印進駐」を決定。「関東特別大演習」
。満州に日本軍七十万が集結。

1941年(昭和16年)7月16日 第二次近衛内閣総辞職(対外強硬派の松岡外相を切るための解散)

1941年(昭和16年)7月18日 「第三次近衛内閣」の成立。

1941年(昭和16年)7月25日 アメリカ、在米日本資産凍結令公布。

1941年(昭和16年)7月28日 日本軍部「南部仏印進駐」

1941年(昭和16年)8月、アメリカ、発動機燃料、航空機用潤滑油の対日禁輸。アメリカは石油をはじめ重要物資の対日禁輸に踏みきる。

1941年(昭和16年)9月、昭和天皇、御前会議を控えて統帥部総長を叱責。

1941年(昭和16年)9月6日、御前会議で「帝国国策遂行要綱」が決定される。「帝国は自存自衛を全うする為、対米(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に、概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」

1941年(昭和16年)10月、日米交渉継続か決裂かで、近衛首相と東条英機陸相が鋭く対立。第三次近衛内閣総辞職。木戸幸一内府の強い推薦により、陸相東条英機が組閣。「東条内閣」成立。ゾルゲ事件、近衛のブレーン・尾崎秀実らの検挙。

1941年(昭和16年)11月、御前会議において「帝国国策遂行要領」決定。来栖三郎をアメリカに特派し、日米交渉打開を探らせる。ハル国務長官、日本の最終提案に対してハル・ノートを回答する。日本政府はこれを最後通牒と解釈。

1941年(昭和16年)12月、御前会議、対英米蘭開戦を決定。
1941年(昭和16年)12月8日、日本軍、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃。マレー半島に上陸。対米英宣戦布告(太平洋戦争/大東亜戦争、開戦)。