「あいちトリエンナーレ2019」の展示を巡って、文化庁が7820万円の助金を交付しないことが決定されたが、そうなってくるまた、別の問題が生じてくる。

それは、国民から集められた税金を「公金」として運用する政府のその金の使い方の問題。



国家による税金の私物化、政府の私物化

保守の側の人たちが好んでよく言いたがる、"国民が税金にたかるな。税金は誰のためでもない”と。

誰のためでないのだから、その税金はもちろん、政治家や官僚や、一部の利権者たちのためでもない。

政治家や官僚や大企業こそ税金にたかるな。


今は、「公共性」を大事にしろと言われる

戦前の日本でこれがは逆で、「公共物」を公のものだと思うことはよくないと言われていたという。

それはつまり、自分の「私物」だと思えばこそ大事にするのだと考えられていたかららしい。

だから当時の日本人の感覚では、公共物なら誰の物でもないから、いくらでも好きに使って貪ってしまうからよくないというふうに思われていたのだろう。


近年の、保守・安倍自民党の政治家たちは、「自己責任」ということばをつかって、だから国民が、

「国の〝補助金〟を欲しがるな」

「公金に頼るな」

といって、それは非常に浅ましい行為だと非難し続けてきている。

ただそれでいうと、近年の日本人で盛んに叫ばれる「公共性」の意識とはどちらになるのか。

他人の迷惑や害になるなというのは、いかにも公共性の観点からも見方のようだが、それが逆に、かえって「公共性」の私物化のような側面も見え隠れしている。

これはだから例えば、戦前の日本で、天皇の権限は絶対無眼なのだといって、その天皇の大権を私物化して、国民を従え、国家を誤った方向に持っていった軍人たちの行動がそう。

「公共性の私物化」を許してはいけないということが大事なのだが、グチャグチャになってよくわからなくなりがちなのが難しい。

しかし戦前も同じことが起こって、国家を滅ぼした。破綻させた

軍部に国が乗っ取られたというのは、軍人官僚たちによる国家の私物化

自民党の石破議員の改憲論・再軍備論にも、その観点のみがゴッソリ抜け落ちている。

戦後の再軍備論や九条廃止論はみんなそう。

石破氏は憲法と法律によって軍隊を統御するという。

立憲民主党でも、憲法によって政府や軍隊の行動を縛るのだとか言っているが、

日本人がつくる軍隊は、憲法にも法律に縛られない。

日本の行政官僚組織自体が、憲法や法律から超越したところに存在している。

安倍晋三首相は、憲法は政府を縛るなどという考えは中世ヨーロッパの考えで、憲法とは未来の理想を語るものだと公言した。

自民党の議員のひとたちは、憲法の条文から「国民主権」「平和主義」「基本的人権の尊重」の三大原則を削除しなければならいと明言し、
またそれは、2012年版の自民党改憲案をみても明らか。



日本会議や神道政治連盟といった保守団体に支えられた安倍自民党政権は、国家の運営を国民の権利や公共性の概念によって制限されることなく自由に政府としての権力を行使できるように、憲法の基本性格を改変して国家を私物化しようとしている。

それを、日本人は戦後70年1度も憲法改正をしたことがないとか、改憲議論の推進は国民に対する政治家の義務とかいって、より大きな、憲法改正自体がいいか悪いかで憲法改正へと進めようとする。

議論というなら、たとえば同じ憲法の条文でも、改憲しやすい項目と、変えてはいけないという部分と、それもハッキリさせず、いざ改憲となれば、部分改正なのか、全文改正になるのか、法律の条文というのは、「霞ヶ関文学」とか、句読点の付け方一つでまったく意味合いが異なってくる場合があるので、必ずそういうことをしてくるので、それを、国民投票のCM規制も設けないとか、これで改憲議論を進めていくというほうがどうかしている。

それこそ初めに"改憲ありき"の主張にしかなっていない。

改憲発議、そして国民投票にまで持っていけば、細かい内容はごましていけるといった魂胆が見え見えなので。

緊急事態条項も、世界の他の国では憲法で規定しているとか、防災のためなのだからといって必要性や当然性を訴えるが、中身をみれば「非常時」を設定すれば政府が好きに法律を作り変えることができるだとか、とんでもない内容が含まれている。

この「非常時」という言葉は戦前の軍人たちが満州事変のころぐらいから、盛んに好んで、国民に戦争を煽るために使いまくっていた言葉。

あまりずっと使い倒していた言葉だから、太平洋戦争突入の際には、今こそ「非常時中の非常時」なのだなどと表現になった。

そして今でもまた同じことの繰り返し。

いよいよ緊迫を増していく国際安全保障環境

「非常時」の到来

いかに日本が危険な状態に晒されているのかという危険性を訴えて、そのついでにゴッソリ憲法の性格を変えて、国民の権利を制限し、国家の権力に換えようとする。

それが自民党保守の改憲論であって、そうした前提を無視して、日本人は非常識だ、国が滅びるだの騒いで、改憲作業だけ進めようとする。

戦前の日本も、第二次世界対戦の勃発を恐れて、日本を挙国一致の総力戦体制国家にしなければならないといって、その危機感に満ち溢れていたが、所詮はヨーロッパでの戦いにすぎなかった。

保守はよく、日本は巻き込まれたという表現を使いたがるが、客観的にみれば、むしろ日本がアジアに大戦を持ち込んだようなものだった。

それは英仏が中国に持っていた利権を既得権益を日本が奪い取ろうとしてそうなった。


今でも、安倍内閣によって喧伝される「国際安全保障環境の危機」は、選択的に取捨される

だからそのときどきによって、中国が脅威になったり、ロシアが脅威になったり、

彼らの都合次第で、脅威だと言っていたはずのものがいつの間にか消えていたりする

目的は脅威を煽って改憲に持ち込むこと

保守にとって理想とする、大日本帝国の昔の状態に戻すこと

ごまかしでさぞ、憲法改正が国家の異常状態を是正する健全の改革だというような錯覚を与えて、そのついでに憲法の性格をゴッソリ変えてしまおうとするのが今の自民安倍政権


基本的人権について書かれた憲法97条を、前文や11条と被るから削除しようというのも、しかし実際にそれをすれば、その項目を削除したという行為が一つの憲法意思の意思表示になってしまう。
こんなものいらないのだという。

そういうことを、他の条文の内容や、憲法にかかる法律の条文を変えることで、憲法で定められた規定を、政府の閣僚や官僚たちの望みどおりに変えていってしまうことができるのだ。

24条・家族条項の改憲案にしてもそうで、そこには家族という単位の尊重とともに、両性の合意のみに基いて成立する規定されている婚姻について、「のみ」の部分が外されている。

つまり男女の結婚に、家父長や、あるいはその他の行政権力が介入できる余地があるというわけだ。

家族の尊重の何が悪いんですか?という大きな枠組みで「いい・悪い」を迫って、その裏で国民の行動を国家で支配・コントロールできるようにしようとたくらむ。

教育の充実も改憲4項目の一つになっているが、それは国民の教育が国家管理化されるということ。
国家の意思によって国民が洗脳され、北朝鮮化するということ。
そうじゃないと言い張っても、やろうと思えばできてしまうので。

これもまた、税金を使いながら国民には「義務」を押し付けられるだけで国民の側には何の「選択」の自由もない。

ではそうならない規定を条文に一緒に盛り込むことができるかといえば、できないのだから。

なぜなら、保守派が憲法の気に入らない性格を変えるための改憲だから。

安全装置を外したまま、改憲作業だけ”改憲ありき"で進めようとする。


9条の改正は最も危ない。

既に安保法制がつくられていて、そちらのほうとつながってしまうし、但し書きのつかない正当性の承認は、しつこく言及してきたように、絶対化・無謬化していってしまう。

だから他の自民党改憲4項目と一緒で、国家の私物化を防ぐための安全のロックが外される。

だから今、日本で勧められている改憲論は、単に時代の移り変わり、社会状況の変化に合わせてその内容が変更される"だけ"ではない。

憲法の性格が変えられ、政府を縛っているその拘束のロックが外されようとしているのが今の改憲論。



当たり前のことは当たり前ではない。

例えば、国をまもるために軍隊を持つ。これの何が悪いのか、と。その点だけで論じれば確かにそうだが、しかし逆に、いざそれが憲法なり法律なりに明文化されたとして、その場合今度は逆に、
国家が国防のために戦争を行う。これのどこが悪いのか、というふうになって軍の暴走を止められなくなる。

戦争が肯定されれば、その戦争に反対する日本人は反日の非国民ということになる。そうなっていく。

だから、国を守る兵士たちの栄誉が保証されないのはかわいそうだという意見も、それはそれでその通りなのだが、では仮にもし法律の条文に、兵士の名誉は最高のものとして保証されねばならない、とでも記されれば、
やがて今度はその条文が「絶対化」して、その国の軍人たちから軍事活動に反対する国民のほうが、土人だの反日売国奴あつかいされるようになる。

日本では必ずそうなる。

「統帥権」には政党や議会には干渉されない不可侵で絶対の権限があると、軍人たちが解釈して、統帥権によって逆に国が支配された例などがまさにそう。

実例としてちゃんとある。

その結果、軍人たちが勝手にやって、「国防のため」とか言って戦争をして、逆に国を滅ぼした。

それを批難されると今度は、正義のためにやったことだから、結果の成否の違いで態度を変えるような決意や覚悟でやったことではないのだと言い訳をして逃げる。

日本人は、そうなってしまう。

そのため、平和主義になればなったで、今度はその平和主義が絶対化して、無限性を持ち出す。

保守層の人たちはその非常識さをあげつらってバカにするが、それは彼らが理想としている戦前の日本人の思考癖とまったく変わらない。

自分で自分のことバカにしているようなもの。

だからこれは、日本人の嫌韓感情もそうだが、だいたい韓国人や朝鮮人がどうだこうだと批難するような欠点や短所は、そのまま日本人に当てはまっていることが多い。


日本人の議論には「前提」がない。バック・ボーンになる基準がない。

だから、相手の悪いところをみて、それによって自分たちの正しさを、対症的に確認して満足に浸っているだけに過ぎない。


とにかくその前提となる「但し書き」を付けなければ、そのうち一気に悪い方向に転ぶ

何かに対して、対症的に物事の是非・善悪を決めるので、日本人はそのとどきで、今の自分たちは非常に合理的で、間違っているのは周りのバカな人間たちで、自分たち何も悪くないと思い込んでしまう。

それで国連も脱退した

太平洋戦争も正しい行動として行われた

けれども、全体で筋の通った原理・原則に従って物事を決めているわけではないので、自分たちが流されていることに気づかない

日本人の常識は世界の非常識

こうしたことに相手は関係ない

戦前も、支那人もイギリス人もアメリカ人もみんなバカで野蛮人だ。あいつら約束なんて守れない。

日本人は日本人の正統な権利を守ろうとしているだけ。何も間違っていない日本人だけが正しい、といって国連を脱退し、四方八方を敵に回して、相手がバカだとバカにしつつ、でありながら最も愚かで誤った行動を選択をしたのは他ならぬ日本人のほうだった。


満州事変も支那事変も、それを実行した当時の軍人たちは、現代の安全保障政策を語る保守・安倍政権の政治家の人たちと驚くほど同じ意見、同じ理由で戦争を行っている。

それは国防上の危機、安全保障上の危機、大陸に住む日本人居留民の安全確保のため、その他、日本が支那・満州に獲得した国際法上与えられた当然の権利をまもるためといった理由などで。

そして、平和主義ではその問題の解決にならない。武力でなければそれら諸問題の解決にはならないと。

武力で支那人たちの反日・侮日・抗日運動を鎮圧し、現地に秩序と法治主義の原則を取り戻し、また日本人の生命の安全と名誉を確保しなければならないのだといって戦争に持ち込んだ。




日本人は多数決によって決められたことが正しいと判断する

多数決が民主主義だというわけではない

宗教や思想や哲学といったことなどに正しさの基準が存在するのではなく、どれだけの人によってそのことがらが支持・肯定されたか、その占有度合いによって正しさが決定される。

けれども、たとえ国民の大多数が支持したことでも、間違っていることは間違っていると、何かのしっかりした基準が存在していれば、その事柄の普遍性は、どれだけの人が批判しようと変わらないが、
日本人の場合、大多数の人によって支持・肯定されれば、もうそっちのほうが正しいというふうになっていってしまう。

そのときの国民感情や気分のほうが大事

だからよく、「天賦人権説」の「天賦」などあるものかと、国家がそれを保証してやっているのであって、「天賦」などという概念自体存在しないと、
これはよく小林よしのり界隈の人たちが好んでバカにしてはしゃいでるが、
山本七平氏によれば、この「天賦」という意味は、いわば「神の領域」のことで、人間が介入はできない不可侵の領域のことだと。

そのためそれは、何人の人が間違いだと批判しようが、変わらないもの。

政治的な問題で言えば、国家権力が介入をしてはならない領域のこと。

そこに「自由」とか「権利」といったものが存在している。欧米では。不可侵の領域として。

しかしそれが、つまり日本人の場合はその時々の気分や都合次第で、いいように変えられるということだ。

その時々の気分や都合次第で変えられる基準に信用などない。

けれども日本人はその時々の変わった気分や感情を、それが合理的で正しいと判断してしまう。


日本人の宗教嫌いは、宗教上のドグマや厳しい戒律に縛られることを嫌うことが大きな要因になっている。

日本人はそもそも、法律や規則に自分たちの行動が制限・縛られることを極度に嫌う民族なのだ。

その民族が、世界の他の民族に向かって、「法治主義を守れ」としつこいほど言い続けているというのは滑稽で笑える。

これも対症的に相手をみるから。

対症的に物事をみて判断するから、とにかくどのような方向にでも、前提がないので、果てしなく偏って転がっていく。







「いまテレビ局は、無難な番組ばかりを放送している。あおり運転、殺人事件……。もちろん、そういった報道も必要だ。だが、あまりにも偏っていないか」(田原総一郎)

これはそうではない。これが一番好きで、視聴率稼ぎとして最もやりたいことだからやっている

「友-敵」の図式

これが一番盛り上がる

何か政治的に、あるいは業界的に、追究されたくない話題や問題が起こると、

「友-敵」の図式ニュースを取り上げて話題をそらしたり、ガス抜きさせようとする

ほら、ここに、国民の憎むべき悪いやつら、汚いやつらがいるぞと。

話をごまかされて、問題が流されていることに国民は気づかない


だから「森友・加計」問題も、「韓国問題」や「北朝鮮問題」も、同じ視聴率稼ぎとして盛り上がるからやっていただけ。

戦前に、戦争のことを報道すれば売り上げが上がるといって戦争礼賛で盛り上がっていたころと、日本のマスメディアはぜんぜん性格が変わっていない。

戦前の反省だとかいって反戦報道や平和礼賛の報道が増えたのも、別に戦争の反省などではなく、時代が単にそういう時代に変わったから。
日本を支配するボスが変わって、言うことも一緒に変わったというに過ぎない

もちろんメディアによる報道のすべてがそうだというわけではないが、良貨が悪貨に駆逐されるが如くに、現状のままでは、日本のマスメディアは「常識」を担保できる機関にはなり得ず、逆に混乱時に、再び偏向を加速させる危険な存在となりかねない。





NHKの独立性

国民が金を払うなら、政府の放送局ではなく、国民の放送局にしなければならない

税金で運営されながら政府に私物化されるいい例

近年では、司法さえ政府に私物化されつつある

警察や検察は行政の一部の組織だが、司法まで行政の一部に取り込まれてしまえば、国家の暴走が止められない

これも昔と同じ


抽象論によってごまかされる

国防のためとか、主権のためとか、平和のためとか言われて、悪いかどうかと言われれば、悪いとはいえなくなってしまう。

しかしそのかげで、まちがったことをされる


「時間をかける」というのが、もっともごまかしに適したテクニック







日本の民主主義も資本主義もまやかし

日本人は当たり前のように民主主義の国で、資本主義の国だと言っているが、実態のないまやかしでしかない

安倍晋三首相が、内閣法制局の長官を更迭しただけで、一朝にして法制局の立場がスッカリ一変してしまったように、
人事一つでいつでも戦前並みの、有司専制による全体主義国家に戻るかわからない

その保証をするものが何もない

憲法は、日本人は平気で無視するので、憲法の条文など何の保証にもならない

平和のために戦争しますと言ってしまえるように、今の憲法のまま軍事国家にまるごと変えることだってできる

だから日本で憲法裁判所などつくっても無意味

どころか逆に、その憲法裁判所が内閣法制局が一朝にして変わってしまったように、逆に国家の恣意的な裁量を承認してしまう機関になりかねない

つくればいずれそうなる


日本人が頭絵だと思っているほとんどの常識は、今、日本がアメリカの支配下に置かれていることによって、それらのことが保証されている。

だから日本がアメリカの力の支配から解放されれば、やがてそういった常識のことどもはどれも皆、まるで煙のように消え去っていってしまう。


イギリスの憲法は慣習法で成り立っていて明文化されていないが、それが通用するのは、明文化せずとも、これこれはこうしたほうがいい、ああしたほうがいいというコンセンサスが、国民全体でしっかり認識されているから可それで通用する。

日本人みたいにその時々の都合に合わせて、法律時代をゴッソリ作り変えてしまうような民族では、いくら憲法で規定したところで、いざとなった場合の保証なんて何もない。

これは社会学者の宮台真司さんがよく話されていることだが、憲法は書かれている条文の内容より、「憲法意思」のほうが大事なのだと。

「憲法意思」とは、なんでその憲法がつくられるようになったのかという理由のこと。

たとえばイギリスの憲法なら、国王が自分勝手な戦争や浪費をして、その穴埋めに、納税者から好き勝手に税金を取り上げられるようなことがあってはならないという、彼らの歴史上の実体験が大前提の基本思想になっている。

だから日本の戦後の憲法なら、戦争というより、政治家や官僚に国家の権限を私物化させてはならないということが最大の憲法意思にならなければならない。


「道義」や「正義」よりも、ルールのほうが大事。手順を尽くせ、定められた手順をはしょってルールから逸脱するな


安倍政権は決められた現行の規定やルール、慣習等を平然と踏みにじり、手順をはしょる社会秩序の破壊者

任せていれば国がダメになる。社会が腐る。



戦前でも、官僚や政治家が、その当時に定められていた統治上、政治上の手順やルールにきちんと従っていれば、あんな負け戦争をすることはなかった。

その手順を、"邪魔だ。そんなルールや規定に従っていれば国が滅びる”などといって、ルールを無視し、手順をはしょって、憲法上や法律上「できないこと」を強引にやったことで、そのことが正常な国家の破綻をもたらした。

だから「満州事変」などは、やった本人たちは上手いことやった、成功させた、これで日本の国益を守った、日本国民の平和と安全と権利と名誉を守った、というつもりでいたが、その時点で国家を死に体に追いやっていた。

せめて当事者の首を切って、責任を取らせていればまだしも、これで世の中をまともにしてやったぜという意識なのでどうしようもない。

また国民も、そんな政治家や官僚たちが行う独断専行を許してしまうから

昭和の敗戦を、国のためを思ってやったことのなのだからかわいそうとか、海軍と陸軍の若手将校が、現役の総理大臣を襲撃して殺害した「五・一五事件」の裁判のとき、
国民から、かわいそうだから減刑してくれ、悪くしないでしてやってくれという請願がたくさん寄せられたという。

なにか、世のため人のためとかいう事情があれば、首相殺しもしようがないと思ってしまう国民性が、致命的な社会政治の枠組みを、「信用」という最も大事な核となるものを破壊してしまった。

ということであって、正義のためだったからとか、おいつめられてやるしかなかったとか、そんなレベルの問題じゃない。
それ以前の問題。政治の腐敗。

「腐朽官僚制」こそがが、小室直樹先生がよく指摘されている昭和の敗戦の最大の要因。


日本の現行の司法制度は、最高裁判所(事務局)がヒエラルキーのトップとして、下級の裁判所の人事を握っているトップ・ダウンの組織で、その最高裁判所の判事は首相に任命の権限がある。

だから最高裁の人員の入れ替えで、内閣が三権分立の原則を破壊して行政に取り込んでしまえることだってできる。

大日本帝国の「統帥権」同様、明らかな政治制度上の欠陥だが、やろうと思えばできてしまう

それをしないのは、"だってそんなことしないでしょ。三権分立があるから"っていう、当事者たち自己判断だけで、それ以外に制度としての保証がない

しかしそれをやってしまえるのが安倍晋三とその仲間たち



安保法にしても、国家・国旗法なんかにしても、つくるときは"そんなことするわけないじゃないですか"といっておきながら、できてしまえば"法律でそうなっていますから"といって、当初の「信用」を平然と無視して破壊する。

日本の民主制は、政治家の口約束の保証でしか成り立っていないというおそろしさ。

システム上のロックは何もない。

憲法や法律の条文ではダメだと書いてあることでも、制度として、やろうと思えばできてしまうから。

やらないのは、今の「気分」とか「雰囲気」しかない

今やったらマズいなとか。

けどその方向性が変われば、一気に変わる。

「気分」や「雰囲気」でみんなしないだけだから

安倍政権の特徴は、その「気分」や「雰囲気」から変えて、自分たちの法の逸脱を、みんなから"しょうがないよね"と、同情で容赦してもらえるようにしていこうとする点にある。

これはかなり自覚的にやっているようだ。

何か黒くみえるようなことでも、一方的に白としかいわないようにする。

安倍政権にとってネガティブな情報は流さないようにする

すると何も起こっていないような、問題のない感じになる

ニュースとして流さなきゃ、存在の事実さえ初めから無かったような感じになる

本来、起訴されなければおかしいような政治家や官僚の不祥事も、起訴しないことで、それが大したことではないというような錯覚に陥れる

政権は安泰かもしれないが、統治上の「信用」は破壊される。

これが致命的





保守や右派が批難する左翼では、社会を腐らせたり国を滅ぼすまでは、アメリカの支配下にある今の日本ではできないが、保守のほうはそれが可能にしてできる

アメリカにしてみれば、別に日本の中身などどうでもいい

アメリカ人にとって大事なのはアメリカ人の民主主義や自由であって、その範囲内で維持されているのが日本の民主主義にすぎない

アメリカの求める要求に従うのであれば、日本人の自由や人権がどうなろうと後はどうでもいい

だから日本にとって一番の不幸は、アメリカと取り引きされて、専制状態の昔に戻されることだ


政治家は口で美辞麗句の理想を語って人に文句を言う前に、それくらいなら自ら先に範を示せ


社会をよくしたいなら、国の為政者たちが国民の模範となるような人の手本を自ら実行すること

そうすればそれだけで、多くの人たちがそれにならう

それを、"ああ、またこんなやつらが出てきてダメになる"とか、国が滅びるとかいって、人に規制を加えて懲らしめることでコントロールしたがる

汚いことをしない、卑怯なマネをしない

たとえば政治家とか役人とか、教師とか、不祥事を起こすと国民から尊敬されなくなるから、不祥事が起きたこと自体を隠すとか、それでは本末転倒

逆に、間違った世の中を正すためには、あえて不法を犯すこともあるのだとか、安部政権がそう

戦前の軍人たちと同じマインド

お前たちが間違ってィるんだ、こうしなければダメなんだと人にばかり文句をいって、自分たちで国を滅ぼした


やりたいことだけやって、責任がない

現代の日本人の政治家や官僚、その他、会社の組織のトップに立つような人たちには、「責任」意識というものがない。

その「責任意識」を破壊するのが、"~のためにやったんだから"というセンチメンタルなマインド

それは別に、人それぞれあることだから別にいい

それはいいから責任を取れという話

自分の権限でやったことについての責任まで消えて無くなるわけではないが、日本人は"かわいそう"とかで、赦免してしまう

しかし「五・一五事件」でも、処分を甘くしたためにさらに後の「二・二六事件」を招いたといわれる

同じように、法を逸脱した「満州事変」実行当事者たちを処断しなかったために、後の軍部の暴走を招いた。

といって満州事変は当事者が処分されるどころか、逆に昇進を遂げたくらいだったが。

ただしそれも、満州事変は既に、軍人テロが活発になり始めたころに起された事件で、そのため、首相や閣僚、および天皇まで含めて、軍人を厳しく罰することで、さらなる軍人たちによる政変勃発の事態を恐れたために、そういう処遇にならざるをえなかったという背景がある

軍人の行動に甘いという意識が、日本の軍隊の統率を、メチャクチャに破壊する欠陥がある。

だから今の日本人に、厳格な軍隊のコントロールそのものができない。

そしてこれは軍隊に限らず、政治の責任者に対して、すべて同じ意識だから

同情が国を滅ぼす

ウェットでセンチメタルな、愛国心だとか、正義だとか、ドンブリ勘定の「国益」尊重だとか、そういった感情で国をダメにする。

ところが今の保守は、それが無くなったから国が悪くなったとか言っている。

それはだから、戦前の日本をみながらなぜそのようになるのかといえば、「左翼」をみていっているから。


彼らの嫌う、左翼、護憲派、リベラル、平和主義者、ジェンダー、フェミニスト・・・

それでおかしいのは、"だから昔はよかった"というふうになること

前提が無い、基準がない、対照的にみるから

ピンボールのように論議の方向性が捻じ曲がっていく


だから今の日本では、例えば年金資金の運用をどうしていくかという問題の以前に、シッカリとした年金の管理自体ができないという、そこまでの状態になっている

そういう当たり前のことが、組織としてできなくっている日本

そのような前提を無視して、改革だとか、時代に合わないとか、正論だとか、いったところですべて無意味

足もとがグラグラになっている

他の世界の国々でとはこうなっているとか、こうしているとか、そういう外側の帰順が、ふんわりとした今の日本という大きな枠組みをつくって、それによってそれ以上、自分たちの異常さだとか、間違っている点だとかが是正されて、飛び越えることなく、どうにか"マトモ"な部分を辛うじて維持している

たとえば「体罰」一つとっても、殴って子どもの人格を矯正することが"正しい"と思っている。

殴って相手の言うことを変えさせるということが冷静に考えてどういうことなのか

それでいながら、日本人の尊厳がとか、自尊心がどうだとか、自虐の精神を植え付けるなとか、狂ったことを言っている

殴られてこれ以上逆らうと殴られ続けるから、だから、ありがとうございますだとか、これほどの自虐民族はいない

殴って力づくて頭下げさせた時点で、人間の尊厳だとか、自尊心など、とっくに死んでる

人間にとって最も重要なものを、自分たちで殺している

それで社会が悪くなったとか、悪くなって当たり前

国を自ら自滅に追い込んでおいて、それで"愛国心"などということはない

彼らが愛していたのは厳密にいえば、自分たち自身の「フェチズム」や「ナルシズム」を大事にしていたにすぎない

たとえ現実の国がどうなろうと、彼らは彼らの「理想」を優先させた

安倍晋三首相が「憲法とは国家の理想を語るもの」言っている、彼らが語るその理想によって、大日本帝国は滅ぼされた。

だから危ない

陸軍は精神性が強かったが、海軍は海軍で、省益優先で国家の運命をもないしがしろにし続けた

陸軍の恐ろしさと、海軍の恐ろしさ

海軍は明治の末期にアメリカを仮想敵国とした。
これにより、明治後の日本軍では、ロシアを仮想敵国とする陸軍と、アメリカを仮想敵国とする海軍とで、ニ正面作戦を展開していくこととなった。

しかし実際にそうするというよりは、予算面の問題でそういうことにした

陸軍の支援に回されれば海軍の予算が削られる

だからアメリカを敵にするという話も、石油のために南方に進出することが必要だとかいう話も、前提として、海軍が予算を欲しがって主張していることだというその前提がわかっていれば、よかったが、海軍軍人はその前提を終始ごまかし続けて日本を最終的に太平洋戦争に引きずり込んだ

陸軍も支那事変(日中戦争)解決のためにイギリスとアメリカが邪魔になり、そこで海軍の利益と一致して、同じように太平洋戦争に日本を巻き込んだ

最終的な着陸点を想定しない戦争

何か問題が生じて、けど何も変えたくないと、どうにかして何も変えずに済む方法はないかと、あれが悪くなればこれをこうして、そしてそうしたことによりまた別の不都合が生じれば、さらに今度はここを変えてとか、あれを変えてとか、その延長線上に、巻き起こったのが大東亜戦争であり、太平洋戦争

それを正義のための戦いだとか、帝国主義国からの民族解放戦争だとか、前提を外してそんなことばかりいって、自らの失敗や過ちをごまかそうとしたがる

いくら国のためだとか、正義のためだからとかいって、それで悪かったところや失敗や間違いまでよくなるわけではない

ダメだったところはダメだが、ダメだった日本を直視できない

それで愛国心を復活させたって良くなるわけがない

切り離されているんだから

勝ち負け(国の存亡・命運)なんて関係ないといっているのだから











儒教(朱子学)から離れろ

儒教のイデオロギーが日本の社会に格差意識のカーストを作り出す

儒教が生み出す負の側面で、孔子の儒教も、孔子がどうしてその儒教の教えを普及させようとしたのかという前提まで含めて考えないと、権力者にいいように利用されるだけ