まだまだ予断は許しませんが、色々と整理したので、日記は通常モードに戻します。
もちろん、なにかあれば、また書くので周りの状況を無視する訳ではあリません。
朝、いつもより一時間早く起きて、ニュースを新聞各社見て、ご飯を食べて、そこから仕事です。
東北と東京と名古屋の、それぞれの違いを感じています。
東北は福島や宮城が問題になりますが、他の県も被害を受けています。親戚は連絡しても「大丈夫」としか返って来ませんが、「他に比べれば」「生きてるよ、怪我無いよ」という気持ちで聞いてます。
お互いの県に住む親戚や知り合い達で、融通し合っています。
義父は秋田に住んでいて、何度も停電しているのですが宮古の知り合いに会いに物資を届けたり、被災地で煙草がとても不足してるらしく、東京からも送りました。…買い占めになるのかなと思いながら、禁煙のご時世ですが、一服吸って落ち着いて欲しいなと思います。
東京は揺れながらも、原発や電力、そして経済の冷え込み具合が一番です。
職種によっては、仕事自体がありません。
人の帰りが早いので、飲食はかなりのダメージです。
でもパン屋さんや牛丼屋は人が足りなくて大変そうです。
知り合いと話すと、これからどうやって生活するかという事が一番最初にあがります。僕の周りでは一番は経済的なこと、次に安全の話になります。
名古屋は変わっていなさそうで、やはり変容しているように思えます。
明るさと暗さの両極端が混在している印象です。
自分の知らない場所の問題が、否応無く飛び込んでしまうからでしょうか。
例えば揺れてないのに、地震速報が連続で流れたり、東北や関東の問題が耳に入ったり。
「大丈夫だよ」と「普通に暮しちゃいけないのかな…」と心が板挟みになってる若者が多い気がします。
そんな中、僕は作家で演出家なので、個人的に自分のルーツや置かれている創作環境に目を配りながら、東北と、関東と、東海と、三つの地域の色々な差を、いったいどのように受け取りながら、発信していくのか毎日生きています。
表現者として生きるならば、この状況を真っ正面から経験しなければ嘘だろ?と思っています。
どんな表現であれ、発信側と受け側に大きな変容が産まれています。
ほのぼのした家族ドラマを見ても、家族を亡くした人は泣くかも知れません。
殺人や強盗のシーンで「現実は違うよ」と笑うかも知れません。
昨日ディズニーランドが営業再開しましたが、喜ぶ子供とそれを見る親の気持ちは違ったことでしょう。
でもそんなこと、表現行為の本質においては、本当は今までとなにも変わっていません。
しかし、台詞一つ、ト書き一つでどんな人達がどう受け取るのかという思考や想像力が、以前よりも作家や演出、俳優にとって重要になったのは確かです。
新しい芸術の形が産まれるのだとしたら、きっと次は東北からだと確信しています。
今、現地で耐えている若者から、世界で通用する人物が沢山育って来る事でしょう。
そのまだ見ぬ人達を相手に、僕は自分の仕事で戦うのです。
時には復興に向けて手を取り、時には意見をぶつけ合い、時には共に涙を流し、
全ては美味い酒を酌み交わす為にです。