鯉太郎の 心 ころころ

 


□「紅葉《もみじ》」童謡・唱歌

 秋の夕日に照る山紅葉  
 濃いも薄いも数ある中に
 松をいろどる楓や蔦は
  山のふもとの裾模様

この時期になりますと、「紅葉」が口に浮かびます。骨折して二ヶ月休んだ、朝の子ども登校見守りを再開しました。骨折する前は暑くてTシャツに汗拭きタオル、日陰を探して立っていたのに、今は寒くてジャンパー姿で日当たりを探します。夏の濃い青空は薄くなり、周りに見える山々がきれいな紅葉に染まっています。骨折した足はまだ万全ではありませんが、ぼちぼち歩けるようになりました。

再開初日、男の子がやってきて「今日はいるんだ」と一言。「実はおじさん足の骨が折れて、二ヶ月ギプスで動けなかったんだ。今日から再開だよ」と答えると「そうなんだ(笑)」と。

顔なじみの車が私を見て、まずびっくり。ニコニコ通り過ぎて行きます。わざわざ「足は大丈夫ですか」と仰って下さる方も。

ありがとうございます。また楽しみながら、頑張ります。






朝4時半起床。神様のご用を済ませ、教会外塀にある掲示板の日めくりをめくる。その後ゴミなどを片付け一息ついて、まだ暗い冬の空を見上げる。

冬の空は格別にきれいだ。腰のベルト三つ星で有名なオリオン座の、向かって左肩がベテルギウス。左方向にこいぬ座プロキオン、右下におおいぬ座シリウス。これが冬の大三角形。オリオン座の右下の星はリゲルだ。右肩の右上方にアルデバランとスバル、左上方にはぎょしゃ座のカペラが光る。

東に目を向けると北斗七星(ひしゃく星)。ひしゃくの先の二つの星の間隔をひしゃくの先端から5倍に延ばしたところに北極星。また同じ所をずっと眺めていると、すーっと動く星に気がつく。人工衛星だ。一度に三つ見える時もある。ほんの短い時間見上げているだけだが、流れ星が見える時も。美しさに圧倒される。皆さんもぜひ、冬の星空を見上げてほしい。

この美しい星空は、日本にだけ見えるのではない。地球上に住まう人の頭の上に、どこでも誰にも見える。しかし誰もが「きれい」と見上げているかというと、悲しいけれど違う。世界のあちらこちらで行われている戦争の下に破壊された街のがれきの隙間から見る星、家族を家をなくし避難して生活するテントの上に見る星を、きれいと見る人はいないだろう。私がきれいだと感じるのは、平和で幸せに生きているからだ。

世界の誰もが「星は美しい」と見上げるように、戦争が一日も早く終わるよう、星空に神様に願う。



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冬の星座

作詞 堀内敬三
作曲 W.S.Hays

木枯とだえて
さゆる空より
地上に降りしく
奇(くす)しき光よ
ものみないこえる
しじまの中に
きらめき揺れつつ
星座はめぐる

ほのぼの明りて
流るる銀河
オリオン舞い立ち
スバルはさざめく
無窮(むきゅう)をゆびさす
北斗の針と
きらめき揺れつつ
星座はめぐる






阪神タイガース18年ぶりの優勝。私は関西生活が長かったこともあって、長年の阪神ファン、感激しています。これから日本一への戦いが。まだまだ楽しみの日々が続いています。

さて私は保護司を務めさせて頂いていますが、保護司とは「犯罪や非行に陥った人の更生を任務とする人」とあります。そのように直接向き合う役割と共に、「社会を明るくする運動」といった犯罪の予防活動も行います。先日その一環として、地元小学校にて登校する子ども達に声をかける「あいさつ運動」が行われました。

「おはよう」「朝ご飯食べてきたか?」、元気な子も声の小さい子も。1時間ほど立ったのですが、ふと気づいたことがあります。それは子どもの帽子。野球の帽子が見えないのです。阪神や巨人というあのマークをつけた帽子が一人もいない。見るのはアディダスとかアンダーアーマーとかナイキとか、可愛いおしゃれな帽子ばかり。うちの子どもは、もちろん阪神の帽子でした。周りも好きな野球チームの帽子が多かった。それが一人もいないのです。野球離れでしょうか。びっくりしました。親御さんが可愛い帽子をかぶらせたいこともあるのでしょうね。

せっかく阪神が優勝したのに残念、とは阪神ファンの一言です。



先月9月4日夜7時頃、妻が「水が出ない」と言う。確認すると確かに出ない。どこか水道管でも破裂したか?と心配になる。しかしこのまま水が出ないと、まずトイレが困る。小はよくても大が流せない。そうこうしているうちに、ご近所がざわざわし始めた。伺うとどちらのお宅も水が出ないようだ。しばらくして市の広報放送で、断水の情報と1時間ほどで回復しますとのお知らせ、ほっとした。その後水のありがたさを夫婦で話した。災害のたびに水の尊さを教えられるのに。私は大切なことを忘れていた。

4日後の8日朝、ゴミを出そうと外に出て、暗闇で段差に気がつかず、右足首をひねり転倒。瞬間「折れたか」と思ったが、立っても痛みはない。しかし足をひねると激痛。腫れてきた足を引きずりながら、妻に病院に連れて行ってもらった。診察結果は骨折。右足の細い骨の先端が折れていた。太い骨は無事だったので、歩くのは大丈夫。しかしギプスで足首が固定され、運転ができなくなった。全ての予定をキャンセルし、療養の身となった。

骨折して健康のありがたさを痛感した。健康は当たり前ではない、そして健康が全ての台であること。また私たちの毎日は、多くの人に支えられてることを教えられた。いつの間にか、大切なことを忘れていた自分が恥ずかしい。
 
断水も骨折も、神様に教えられたこと。日常の生活の中に教えられ気づきながら、感謝して歩きたいと思う。




先程Amazonの担当者という人から電話があった。その時ちょうど私はシャワーを浴びて出たところで、母が出た。

母の部屋は風呂の前、そのやりとりがよく聞こえる。

常々母には、
・わからない電話に応答しないこと
・私は分からないから息子に聞いてというように
・やり取りするとこちらの個人情報が聞き出されるから、やりとりもしないように
・「こちらにかけてください」と私の携帯番号を知らせないように。必ずかけ直してくださいと。

としつこく言っているので、母は「私は分からないから、息子に聞いて。息子は今出掛けているから、あと10分したら掛け直して」と電話を切った。満点の対応でした。

その時点で、絶対詐欺の電話だと確信したので、電話が来るのを楽しみに待った。

10分後ついに電話。「待ってました!」が、弱々しい男性のオペレーター(これでは誰も信用しない。人選ミスと心で突っ込む)。

「Amazonの担当者の柳沢と申します。Amazonからのお知らせのお電話を差し上げました。販売ご担当者様でよろしかったですか?」

もう臭すぎる。Amazonからお知らせの電話が来るはずがない!(メールはAmazonからたくさん来るが、速攻でゴミ箱)。

「Amazonの柳沢さん(どんな電話でも、相手の名前を復唱するようにしている)、はいそうですが」

「今回は、Amazonから事業所様ご優待販売のお知らせのお電話です」

臭すぎる。少し遊んだろ😆

「ありがとうございます。嬉しいお知らせですね」

「ありがとうございます」

「ところで、こちらの電話番号をどちらで知られたのですか?」

「公開された電話帳などから、お電話させて頂きました」

「公開ですか?」

「はい」

「ちょっと詳しく知りたいのですが、どこのなんという電話帳ですか?。というかこちらがなんという事業所かご存知ですか?」

実はこの会話の間、オペレーターの後ろで、ずっと野太い声のおっさんが、「公開されている電話帳と言え」とか、あれやこれや指示を出している。しかも複数の電話に出しているようだ。

「貴事業所様のお名前ですか?ちょっとお待ちください」

いやいや電話かけてきて、ちょっとお待ちくださいはないやろ! 後ろから「天理教ほん川西分教会や」と声。

「天理教ほん川西分教会様ですか?」

いや、ですか?って、かけてきてるやん。

「もと川西分教会ですけどね。ところでこちらの電話番号が載っている公開されている電話帳を、詳しく教えて下さい」

後ろから声「しばらくお待ち下さいって言って、切れ」

「しばらくお待ち下さいませ。プー」

いかん、もう少し話したかった。電話番号ちょっと突っ込みすぎた。



みなさん、Amazonからの事業所様ご優待のお知らせには気をつけましょう。

ご参考までに♪



ちなみにAmazonと名乗っているので、多分Amazon関係のパスワードとかその辺の情報を引き出したかったのだと思います。だからのんびり楽しめました。これがオレオレ詐欺だったら、完全におろおろとしたじいさんの役割で話に乗って、すぐに警察に通報、逮捕、まで持って行きたいですね。


Amazon、次はもう少し引っ張り、楽しみます!



子どもの電話相談ボランティアをさせて頂いています。だからという訳でもありませんが、子どものニュースが気になります。アンテナに引っかかります。

先日新聞で「マルトリートメント」という言葉を知りました。

マルトリートメントとは「避けるべき困った子育て」を指し、日本語では「不適切な養育」と訳されます。つまり虐待とは言い切れない、大人から子どもに対する避けたい関わりのこと。「何度言ったら分かるんだ」などと軽く使われる、懲罰や脅しの言葉。また「まるで幼稚園児だね」という侮辱の言葉。「もう、勝手にしろ」と見捨てるような言葉。また・子どもの前で夫婦喧嘩をする・子どもに妻または夫の悪口を言う・子どもの話を聞かない・親が決めた教育方針や進路を子どもの意思を無視して押し付ける、などもそうです。大人からマルトリートメントがあると、子どもは必ずといってもいいくらい無表情・無反応です。力関係の上下があるところでは反応できません。そのため大人は、それがマルトリートメントであったとは気がつかない。しかし実際には、大人が傷つくのと同じように、子どもも傷ついています。子ども時代にマルトリートメントを受けていると、大人になってから心のトラブルに悩む可能性が高くなります』。

知りませんでした。こういう言葉は意外と使われているのではないでしょうか。新聞では「子への態度 見つめ直して」と語られます。




朝5時半から田んぼ土手の草刈りお手伝いに。

30分ほどやった時、突然左手人差し指に痛み。驚いて見ると、蜂🐝に刺されていた。アシナガバチ。土手の枯れた草の中に巣があったようで、もちろん見えないからそこを刈ったら、当然出てきてチクリ。

痛いけどそのまま草刈りを続け、休憩の時見たら、パンパンに腫れてきた。

そのうち身体中に湿疹や腫れが出てきて、これはアナフィラキシーだと思い、すぐに病院へ。

嫁さんに散々「私が連れて行くから」と言われたけれど、嫁さんも予定があったし、押し切って自分で運転していった。途中で軽い息苦しさ。

後で娘(養護教諭)からのLINE。
「アナフィラキシーの多くは、30分以内に起こるので、毒虫に刺されたらよく洗って、30分は様子を見ましょう。つまり運転なんてもっての外。運転中息ができなくなって事故を起こし、他の方を巻き込むことも。絶対運転はいけません」と。

すいません。

救急で入り、注射2本(1本は太ももの筋肉注射。めちゃくちゃ痛かった)。点滴2本の処置を受けて、薬も頂き帰ってきました。


皆さん、蜂🐝を甘く見ないようにしましょう。

今まで何回も刺されたことあったけど、初めての経験でした😆



おまけの話。
行く前にシャワーを浴びてから行ったけど、診察のためにズボンを脱がされた時、なんとこんな時に限って1番派手なパンツを履いていて、恥ずかしかったと言うか、面白かったと言うか、の笑い話です😆



「夏と冬どちらが好き?」と聞かれたら、私は「冬」。キリッとした寒さが好きだし、雪景色に感動します。夏は裸になっても暑いし、冷房はどちらかというと苦手です。では夏が嫌いかというと、そうではありません。入道雲の立つ夏の空が好きだし、むっとした草いきれも、夏の夕方にさっと吹く風が大好きです。          

夏と冬、皆さんはどちらがお好きですか。

暑い日が続きます。私が子どもの頃30度なんて聞いたことなかった。それが今や40度超。国連の事務総長が「地球温暖化の時代は終わり、地球沸騰化の時代が到来した」と警告されたそうです。地球を大切にしなければなりません。  

夏になると、ある夏の日病院にお見舞いに伺って、聞いた言葉を思い出します。「今日は暑いですよ」と申し上げると、「ここ(病院)はそんなこと分からないよ」と仰ったのです。私はどきっとしました。病院は温度が管理され常に一定、入院されている方の健康を守ります。その中に「今日は暑い」と言える私は、健康だからだと教えて頂いたのでした。     

四季ある日本の、夏の暑さ・冬の寒さ。私たちの命に関わる偉大な自然の営み。生命に関わる暑さ寒さに、感謝しなければならないと思います。           

とはいえこの暑さです。ニュースでは「危険な暑さ」と連呼されます。もったいないからと言わず冷房も利用して、無用な外出は控え、くれぐれもこまめな水分補給を、お忘れになりませんように。




□和風月名《わふうげつめい》の話

こんな記事を読みました。

現在の日本で使われている暦はグレゴリオ暦と言います(1月・2月…など)。和風月名とは月の呼び名、和名で旧暦の呼び名として使われています。この旧暦は明治5年まで使用されていたとされる太陰太陽暦のことです。和風月名は太陰太陽暦(旧暦)のときに使われていたもので、日本最古の『日本書紀』に4月(うげつ)2月(きさらぎ)と訓読みが書かれているそうです。 

7月は文月。文月は【文披月(ふみひらきづき・ふみひろげづき】が略されたものという説が一般的です。古くは、書物のことを「文」といいました。7月7日の七夕の夜に、書物を開いて夜気にさらし、書の上達を祈る風習があったことから、文披月と呼ぶようになったということです。文披月のままでも、7月の異称として使われました。異説もたくさんあります。稲穂がふくらむ季節であることから、「穂見月」や「穂含月(ほふみづき)」、「含月(ふふみづき)」などが、「ふみづき」に変化したという説も有力です。


情緒ある呼び名ですね。忘れないようにしたいものです。


さてこの時期になると、出てくるのが蚊。私も先日刺されました。この蚊に「刺される」ですが、刺されるが全国で広く使われているのに対し、主に東日本では「食われる」、西日本では「かまれる」だそうです。また山梨では「くっつかれる」、奈良は「吸われる」とも。面白いですね。他にありましたら、教えてください。



*書いた後で知りました。今月号の天理いきいき通信も同じ話でした(^_^;) 




7月4日は父の命日。父がよく「そういうもんだ」と言ったのを思い出します。私はそのごまかすような言葉が嫌いでした。しかし最近「そういうもんだ」という言葉が、実にしっくりくるのです。   

論語に「吾《わ》れ十有五《じゅうゆうご》にして学《がく》に志《こころざ》す。三十《さんじゅう》にして立《た》つ。四十《しじゅう》にして惑《まど》わず。五十《ごじゅう》にして天《てん》命《めい》を知《し》る。六十《ろくじゅう》にして耳順《みみしたが》う。七《しち》十《じゅう》にして心《こころ》の欲《ほっ》するところに従《したが》い矩《のり》を超《こ》えず。

(私は15歳のとき、学問に志を立てた。30歳になり、その基礎ができて自立できるようになった。40歳になると、心に迷うことがなくなった。50歳になって、天が自分に与えた使命が自覚できた。60歳になると、人の言うことがなんでも素直に理解できるようになった。70歳になると自分のしたいと思うことをそのままやっても、人の道を、踏みはずすことがなくなった)」。  
         

孔子は勉学で自分を高め悟ってきたように読めますが、それと同時に、人間(体)としての成長と、その歳々の経験が、様々な悟りを培ってきたのだと、私は強く感じます。 
             
父のそういうもんだという言葉も、若い頃は理解できなかった朝食後の甘い物も、なるべく明るいところで読む新聞も、老眼も、今は理解できます(笑)。それは私が父と同じ歳を重ねたからこそ、感じるのでしょう。        

だからこそ、今は分からない子どもたちも、歳を重ねれば分かる。今だけの姿で判断せずに、将来を楽しみに、長い目で子ども達の成長を見守ることが大切です。




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