鯉太郎の 心 ころころ

 


新春を寿ぎ
謹んでご挨拶を申し上げます

旧年は教会の上に真実のお心寄せ頂きましたこと、また会報をご覧頂きましたこと、厚く御礼申し上げます。本年も変わりませず御厚誼賜りますようお願い申し上げます。

昨年元旦令和6年能登半島地震発生、多くの方が犠牲となり多数の負傷者と、未だ避難所生活の方。世界に目を向けると、ロシア・ウクライナを始め幾多の戦争に、悲しみ苦しまれる多くの方々。

人ごとではありません。我がこととして通りたい。

毎日の生活に「感謝」、毎日の生活に「慎み」、毎日の生活に「たすけあい」

新しき年、心に置いて通りたいと思います。



一年ありがとうございました。多くの方に教会報を読んで戴き、心から感謝申し上げます。

さて師走。あっという間の一年でした。皆様はどのような年をお過ごしだったでしょうか。

先日妻からこんな言葉を知りました。「晴れた日は枝が伸びる 雨の日は根が伸びる」。調べてみますと実業家・福島正伸さんという方のお言葉でした。福島さんがどこでどのように語られた言葉か分かりませんでしたが、この言葉に関して大勢の方がご自身の思いを書かれています。私はこう思います。

天気は毎日異なります。晴れの日も雨の日も。晴れの日は嬉しくてこころも明るく幸せいっぱい。しかし雨の日は暗くて、外にも出られず、スカッとせずにつまらない。私たちの人生も、晴れの日も雨の日もありますね。その中私たちは、晴れの日に喜びや幸せを感じやすくないでしょうか。反面雨の日(つらい・悲しい・寂しい。自分にとってマイナスと思われる日)は苦しいと感じる。しかし晴れの日に枝が伸びるように、雨の日には根が伸びるのです。苦しいとき悲しいときには、自分の根が生長する。しっかり立てるように、しっかり歩けるように。心の台が成長する。根がしっかりしていなければ、木は倒れ枯れてしまいます。

一年いろいろありました。雨の日も晴れの日も。しかしそれは私に必要な日、大切な日でした。これからも、どんな日も陽気に楽しんで歩きます。



先月10月はいろいろあった月でした。先月号にも書きましたが、蜂に刺されて二度目のアナフィラキシーショックで入院。一時は危険だったと聞かされました。

友人教会の「神殿落成・教会設立百周年記念祭」参拝に、妻と共に北海道にまいりました。また7月に会長が代わられた、いとこの教会にも参拝しました。

もう一つ「蓼科山登山」。本来ならば昨年登る予定だったのですが、私の骨折で延期になっていたリベンジです。ほぼ同い年の4人が長野・松本・伊那・佐久から集い、前日当教会に泊まって頂き懇親を深め、翌朝大河原峠から登りました。蓼科山は日本百名山の1山で標高2531m。片道1時間半・初心者向け登山コースと紹介され、当地では小学校5年生が学校登山で登りますが、60半ばのおっさん達には大変な行程で、なんとか登り切り頂上に立ったときは感激でした。

来年もどこかに登ろうと、御嶽山・駒ヶ岳・浅間山と候補は勇ましく挙がりますが、こちらは年々加齢と共に弱る一方。どうなることやら、です。





野球シーズンもほぼ終わりました。大リーグは大谷・山本選手が所属するドジャースが優勝。日本では横浜DeNAがセリーグ3位からの下剋上で優勝。阪神ファンとしては寂しい思いもありますが、長野県中野市出身の牧選手の活躍に拍手を送りました。

野球が大好きな知人がいます。彼と野球の話をした時のこと。「野球の基本はなにか」と尋ねると、彼は「キャッチボール」と即答。キャッチボールこそが大切(基本)なのだと教えてくれました。

私には息子が二人いますが、二人とも小さい時からキャッチボールをしてきました。教会玄関でするのですが、時々の暴投で神殿玄関のガラスを割っています。二人とも中高野球で汗を流しました。

ところでなぜ「キャッチボール」というのでしょう。どちらかというと、投げる「スローボール」の方があっているように思うのですが。しかしキャッチと名がつくのですから、投げるよりも「受けること」の大切さを感じます。

キャッチボールは「会話や言葉はキャッチボール」と使われます。なるほど言葉のやりとりですから、まさにキャッチボール。となるとまず大切なことは、相手の言葉をしっかり受けること。そして相手の捕りやすい言葉を投げること。たとえ相手のボールがどんな暴投でも、自分が動いて胸の前で受けとれば「ナイスボール」です。

キャッチボールは一人では出来ません。大切にしたいものです。名キャッチャー目指しましょう。






9月6〜8日石川県珠洲市に、災害救援ひのきしん(ボランティア)に行かせて頂きました。現在能登は豪雨災害に苦しんでおられますが、私はその前の地震被害の活動で、被災されたお宅のお手伝いをさせて頂きました。

1月1日令和6年能登半島地震から十ヶ月が経ちました。能登半島は道路が整備され、幹線に至っては走りやすくなりました。ところが一本裏道に入ると、地震当時と変わらぬまま。そこに豪雨災害が重なり、被災された方々はどのような思いだろうと心が苦しくなります。そしてそのすさまじいほどの現場を前に、私たちの小さなお手伝いが何の役に立つのかと、むなしく思います。

さて皆さん「バタフライエフェクト(蝶々の効果)」という言葉をご存じですか。「中国での蝶の羽ばたきが、カリフォルニアで台風を引き起こす」。つまり「非常に小さな出来事が、最終的には予想もしていなかった大きな出来事につながる」という意味です。

私たちの活動は蝶々の羽ばたきかもしれません。しかしいつか大きな力に繋がる。大切な事は、まず羽ばたく(動く)こと。落ちているゴミを拾う・困っている人の話を聞く・泣いている人にハンカチを差し出す・町の子どもに目を向ける・人に挨拶をする・地域に勤める・近所のご老人に声をかける、などなど。

小さな行いがどれほど大きくなるか結果は見えませんが、どこかで必ず繋がる。楽しみに毎日を歩きましょう。



子どもの夏休みが終わり、久しぶりに登校見守りに立ちました。

私が立つ場所は交差点歩道外側の土。一ヶ月ぶりにさぞかし草ボウボウだと思いきや、草が一本もはえていません。立つ場所だけ丸く穴が空いているようです。

4つの小学校が合併となり通学路が変更、交通量の多いこの交差点に立つようになりました。石の上にも三年といいますが、続けるとはこういうことかと、ぽっかり空いた土手を眺めます。

私の周りの続くは「教会102年」「生きる64年9ヶ月」「本川西便り35年6ヶ月」「結婚生活33年」「保護司15年」などでしょうか。生きるは続けているというより続いているですが、続けることは本当に難しい。
 
天理教の神様の言葉に
「つゞいてあつてこそ道といふ、つゞかん事は道とはいはん(明治39・5・21)」
と、続けることを道と教えられます。

道という言葉は「道理」「道徳」「道筋」などと、人の歩むべき過程・修めるべき筋とも使われます。続けることは難しい。だからこそ「続いてこそ道」と説かれるのでしょう。歩くが道。一歩一歩を重ねましょう。 



「道程(高村光太郎)」より 

 どこかに通じてる大道を僕は歩いてゐるのぢやない 
 僕の前に道はない 
 僕の後ろに道は出來る 
 道は僕のふみしだいて來た足あとだ
 だから
 道の最端にいつでも僕は立つてゐる




⃞▢暑い日が続きます。どなたにお目にかかっても、まず「暑いですね〜」から挨拶が始まります。
 さてこの暑さの原因はヒートアイランド現象にあると言われているそうです。ヒートアイランド現象は都市の気温が周囲の気温よりも高くなる現象。その原因は緑が少なくなり土が減ったこと。都市部の地面のほとんどがアスファルトやコンクリートになって熱をため込み、なかなか冷えません。「そのせいか確かに昔より暑くなった」と言いたいところですが、歳のせいもあるでしょう。若い頃はもう少し暑さにあがらえたと思います。 どうぞみなさん、もったいないからとか暑くないからとか仰らず、クーラーをうまく使ってお過ごし下さい。この暑さももう少しです(だと思います)。

▢長女が第二子を出産して里帰りしています。教会には母の部屋にしかクーラーがないのでこの暑さにまいっていますが、みどりごは元気に育っています。ありがたいことです。さてその子の姉は1歳9ヶ月。私はお世話係に任命されているのですが、子どもながらに思いが見てとれて楽しい。しかしその元気さについていけません。  
 先日遊具で遊んでいる時に障子に指がブスッ。わざとではなかったので仕方ないと見ていたのですが、穴を見ながらその隣をブスッとやりそうに。こりゃいかんと「だめだよ」と一言。これは穴あき障子理論でしょう。一つ穴が空いていると幼子なりに「やってもいいのでは」と思うようです。教会が荒廃しないうちに、早々に穴を塞ぎました。


子どもの登校見守りに立つ場所の角に一軒のお宅があります。お宅と道路の間に幅1m・長さ10mほどの側溝があるのですが、U字溝が入っているわけではなくただの土です。そこはいま松葉ボタンの花盛り。しかし数年前まで花などなく、ゴミが捨てられ、たばこの吸い殻が捨てられ、缶が捨てられ、ゴミ捨て場のようでした。

実は数年前、そこにそのお宅の奥さんが花を植え始めたのです。奥さんに伺いました。「なぜ花を植えるのですか」「ご覧の通りここはゴミが捨てられるのです。だから花を植えて、ゴミが少しでも減るといいなと思って」。

花でいっぱいになったいま、ゴミを見ることはありません。

「割れ窓理論」というのをご存知でしょうか。「割れた窓ガラス1枚を放置しておくと、隣の窓ガラスも割られて、ビルが荒れ、やがては街全体が荒廃し犯罪が増加する」というものです。治安について唱えられた理論だそうですが、花がいっぱいと似ていませんか。「ゴミだらけのところにはゴミが捨てられやすく、ホコリひとつなくきれいにされている場所は汚しにくい」ということです。

これは私たちにも言えることかもしれません。割れ窓理論を当てはめると、自分に見えること、聞くこと、なってくること、寄ってくる人、去って行く人など。それらは全て「自分」に、必然的にあらわれみえたものです。

昔の人は言いました。「糞に銀蠅」「花に蝶」。まさにその通りなのです。



先日カラカラの天気の中、畑の草刈りをしました。家に帰りシャワーを浴びたのですが、目はかゆい、鼻は真っ黒、口も耳もジャリジャリ、埃まみれでした。

天理教教祖(中山みき様)の口伝に「ほこりは避けて通りなさい」という話があります。
 『ほこりは避《よ》けて通れよ。ほこりに逆ろうたら、自分もまた、ほこりを被《かぶ》らにゃならんほどに。決してほこりに逆らうやないで』。  

佐久大学の朴相賢先生の講演でも、同様なお話を伺いました。
『人からゴミを投げられたら避《よ》けるでしょう。それと同じように、相手から自分が苦しくなる・悲しくなるゴミのような言葉を投げられたら、それは受け取らない、反応しない。ひどい人は放っておきましょう。受け取らないゴミは、出した人に戻っていきます』。

相手の埃に反応したら、自分も埃にまみれるのです。もしかしたら避けることが「自分は悪くないのに」とか「負け」と感じる方もおられるかもしれませんが、その時はすでに埃を受け取っています。埃に反応しないこと、心と健康にとても大切です。

ところで他人《ひと》の埃は目につきやすいのですが、自分の埃はなかなか気がつきません。自分の心の埃を掃除せずにいると、見るもの・聞くもの全てに不足するようになります。するとやる事なす事がうまくいかなくなる。毎日が楽しくなくなります。

「人の埃は避ける・自分の埃を払う」心がけたいものです。

畑のほこりは誇りです(笑)




 
この記事は5年ほど前、教会報371号に掲載したものです。先日別の記事を探していてふと目にとまり思わず読み返したのですが、熱い感動を覚えました。皆様にもぜひもう一度読んで頂きたく、再掲させて頂きます。




年末ツイッターで素敵な投稿を読みました。皆さんにも是非ご覧頂きたく、こちらに転載いたします。このツイートは、学校の先生が書かれたものだと思います。文章が複数に分かれていて、また画像の文章もありましたが、一文にまとめました。以下がそのツイートです。

 黒板に次の4行を書きました。

「いってきます」
夫が、仕事に出かけていった
玄関の戸が閉まった途端
私はその場にしゃがみこんだ


「みなさんお母さんに何が起きたと思いますか」。みんな口々に答えました。
 ・日々のストレスが溜まりすぎた。
 ・夫と大喧嘩して、立っていられなくなった。
 ・急な心臓の病気にかかった。
 ・夫が仕事に行って寂しさに耐えられなくなった。
 ・いつも忘れ物をしている夫がまた忘れ物をしたからあきれ果てた。
 ・重い病気で倒れた。
 ・疲れて立っているのも辛かったけど夫が出かけるまではなんとか耐えておこうと思って耐えていた。
 ・夫に隠していることの罪の大きさに耐えられなくなった。
 ・夫に隠していた病気が突然悪化した。

 ここで話の全文が載っているプリントを配り、朗読しました。



「行ってきます」

夫が、仕事に出かけていった。玄関の戸が閉まったとたん、私はその場にしゃがみこんだ。

体力自慢の夫が体の不調を訴え、軽い気持ちで受けに行った検査で難病が発見され、緊急入院したのは半年前のことだった。

いったい夫はどうなるの? 私たち家族はどうなるの? 当たり前にこのまま続くと思っていた毎日が、突然音を立てて止まった。自分のよく見慣れた世界から、突然空気の薄い別の世界に、いきなりぽつんと置かれたような心細さ、苦しさが襲ってきた。

それからの半年、自分が家族の前で笑顔でいることだけに神経を注いだ。夜は心細さに足が震え眠れなくても、普通に働き、子供を送り迎えし、食事をつくった。

子供を抱っこしているふりをして、本当は自分が子供にしがみついていることで、なんとか正気を保っているような状態だった。そんな日々の中で、夫が退院。自宅療養の時期を過ごし、少しずつ、普通の生活が送れるようになった。

以前は大嫌いだった混んだスーパーでの日曜日の買い物に、再び家族揃って出かけられた日。車に戻る駐車場でありがたさに涙が止まらなかった。「高速道路の運転がしんどい」と、運転ができなくなっていた夫が再びハンドルを握り長距離を運転した日。後部座席に子供と座っていられる自分がありがたくて泣けた。

そして、ついに夫が復職する日が来た。朝起きて、スーツに着替え、会社に行く。

今まで、当たり前だと思っていた光景。「その姿に感謝して泣く日が来ますよ」と、占い師に言われたとしても決して信じなかったと思う。でも実際夫が会社に出かけた途端、私はその場にしゃがみこんでしまった。

人生で当たり前のことなんて、何一つない。例えば仕事に行けること、子供が無事に学校から帰ってくること。全てが人生の一大事。当たり前なんて考えてしまったら、もったいなさすぎてバチがあたる。毎日、毎日が神様からの贈り物。奇跡の繰り返しだ。

なくしてから「そういえば、毎日贈り物が届いていたんだな」なんて気がつくなんてもったいない。自分が一体毎日どれだけ贈り物を受け取っているのか、ちゃんとわかっていれば、それだけで感謝の気持ちがあふれてくる。 「当たり前」なんて、どこにもないのだから。

読み終えた後、感想を数人に聞きました。このお母さんはお話の中で「神様からの贈り物」と言う言葉を使っています。その内容を列挙すると、次のようになります。


「神様からの贈り物」
○家族揃って買い物に行けること
○車を運転できること
○仕事に行けること
○子供が無事に学校から帰ってくること

冒頭のしゃがみこんでしまった場面。その時も、何か特別なことが起きたわけではなかったのです。お父さんが、いつも通り仕事に行って、ドアが閉まった。その日常の場面があまりにありがたく、しゃがみこんでしまったのです。この話を「特別な出来事だ」と感じる人もいるかもしれません。けれど、何も特別ではないことを教えてくれた過去の出来事が、私たちにはたくさんあります。熊本地震、東日本大震災、北海道地震。「当たり前」のように思っていた日常があっという間に一変したことを、私たちはニュースを通して新聞を通して知っています。

いま実際に、その状況を体感することはできません。けれど私たちはイメージすることができます。日常を失った悲しさ。親しい人との別れの辛さ。生きていることの尊さ。そして当たり前のように過ごしていた日々の素晴らしさ。人との出会いからも感じた、この「当たり前」に含まれる価値の数々。ご家庭でもさまざまにお話をしていただければ、ありがたいです。

「しゃがみこんだ」の授業の後、感想を書く代わりに、詩を書きました。参考にしたのは、同じ6年生が書いた「幸せを感じる」と言うタイトルの詩です。幸せは見つけるものではなく、気づくものだといいます。授業を通して自分が気づいた幸せを、詩にしたためました。



 「幸せを感じる」

 朝起きて「おはよう」と言えること

 夜「おやすみ」と眠れること

 ご飯を食べて元気いっぱいに学校へ行くこと

 家に帰って友達と暗くなるまでたくさん遊ぶこと

 家族が家に帰ること

 どれも平凡な毎日の繰り返し

 けれど星の数ほど幸せが詰まっている



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