鯉太郎の 心 ころころ

 

カテゴリ: 感動


ひのきしんとは何かというと、信仰の喜びがおのずから日常の生活態度や行為になってあらわれたものを指す、ということになろう。

親神の存在とその思召を知るならば、そこに信仰の喜びが生じてくる。この喜びは、もともとは、自分一人の心の内の喜びであるが、これがいつまでも個人の心の内だけにとどまっているとしたら、十分とはいえない。

信仰の喜びは、心の内だけにとどまらず、日常の態度や行為となってあらわれてこなければ無意味である。信仰とは行為であり、この行為によって、自己が改造され、世界がよくなる。世界一れつは兄弟ということも、それは単なるスローガンではない。それを信じ実行に移してゆくことによって、はじめてその実があがってゆくのである。

行為という以上、それは社会という場に展開される。そこでひのきしんは、一人一人の心の内なる信仰の喜びが、何によらず人のために尽くすという方向で、社会の上に反映され発露された行為である、といえるであろう。しかもその行為が、他から強制されたり、あるいは制度だからするというのではなく、また、報いを求めないところに重要な点がある。人だすけのために無条件に己を捧げていく行為がひのきしんである、ともいえるであろう。          【『天理教とは』(道友社刊)から】


                                  天理時報特別号 第727号

 
この記事は5年ほど前、教会報371号に掲載したものです。先日別の記事を探していてふと目にとまり思わず読み返したのですが、熱い感動を覚えました。皆様にもぜひもう一度読んで頂きたく、再掲させて頂きます。




年末ツイッターで素敵な投稿を読みました。皆さんにも是非ご覧頂きたく、こちらに転載いたします。このツイートは、学校の先生が書かれたものだと思います。文章が複数に分かれていて、また画像の文章もありましたが、一文にまとめました。以下がそのツイートです。

 黒板に次の4行を書きました。

「いってきます」
夫が、仕事に出かけていった
玄関の戸が閉まった途端
私はその場にしゃがみこんだ


「みなさんお母さんに何が起きたと思いますか」。みんな口々に答えました。
 ・日々のストレスが溜まりすぎた。
 ・夫と大喧嘩して、立っていられなくなった。
 ・急な心臓の病気にかかった。
 ・夫が仕事に行って寂しさに耐えられなくなった。
 ・いつも忘れ物をしている夫がまた忘れ物をしたからあきれ果てた。
 ・重い病気で倒れた。
 ・疲れて立っているのも辛かったけど夫が出かけるまではなんとか耐えておこうと思って耐えていた。
 ・夫に隠していることの罪の大きさに耐えられなくなった。
 ・夫に隠していた病気が突然悪化した。

 ここで話の全文が載っているプリントを配り、朗読しました。



「行ってきます」

夫が、仕事に出かけていった。玄関の戸が閉まったとたん、私はその場にしゃがみこんだ。

体力自慢の夫が体の不調を訴え、軽い気持ちで受けに行った検査で難病が発見され、緊急入院したのは半年前のことだった。

いったい夫はどうなるの? 私たち家族はどうなるの? 当たり前にこのまま続くと思っていた毎日が、突然音を立てて止まった。自分のよく見慣れた世界から、突然空気の薄い別の世界に、いきなりぽつんと置かれたような心細さ、苦しさが襲ってきた。

それからの半年、自分が家族の前で笑顔でいることだけに神経を注いだ。夜は心細さに足が震え眠れなくても、普通に働き、子供を送り迎えし、食事をつくった。

子供を抱っこしているふりをして、本当は自分が子供にしがみついていることで、なんとか正気を保っているような状態だった。そんな日々の中で、夫が退院。自宅療養の時期を過ごし、少しずつ、普通の生活が送れるようになった。

以前は大嫌いだった混んだスーパーでの日曜日の買い物に、再び家族揃って出かけられた日。車に戻る駐車場でありがたさに涙が止まらなかった。「高速道路の運転がしんどい」と、運転ができなくなっていた夫が再びハンドルを握り長距離を運転した日。後部座席に子供と座っていられる自分がありがたくて泣けた。

そして、ついに夫が復職する日が来た。朝起きて、スーツに着替え、会社に行く。

今まで、当たり前だと思っていた光景。「その姿に感謝して泣く日が来ますよ」と、占い師に言われたとしても決して信じなかったと思う。でも実際夫が会社に出かけた途端、私はその場にしゃがみこんでしまった。

人生で当たり前のことなんて、何一つない。例えば仕事に行けること、子供が無事に学校から帰ってくること。全てが人生の一大事。当たり前なんて考えてしまったら、もったいなさすぎてバチがあたる。毎日、毎日が神様からの贈り物。奇跡の繰り返しだ。

なくしてから「そういえば、毎日贈り物が届いていたんだな」なんて気がつくなんてもったいない。自分が一体毎日どれだけ贈り物を受け取っているのか、ちゃんとわかっていれば、それだけで感謝の気持ちがあふれてくる。 「当たり前」なんて、どこにもないのだから。

読み終えた後、感想を数人に聞きました。このお母さんはお話の中で「神様からの贈り物」と言う言葉を使っています。その内容を列挙すると、次のようになります。


「神様からの贈り物」
○家族揃って買い物に行けること
○車を運転できること
○仕事に行けること
○子供が無事に学校から帰ってくること

冒頭のしゃがみこんでしまった場面。その時も、何か特別なことが起きたわけではなかったのです。お父さんが、いつも通り仕事に行って、ドアが閉まった。その日常の場面があまりにありがたく、しゃがみこんでしまったのです。この話を「特別な出来事だ」と感じる人もいるかもしれません。けれど、何も特別ではないことを教えてくれた過去の出来事が、私たちにはたくさんあります。熊本地震、東日本大震災、北海道地震。「当たり前」のように思っていた日常があっという間に一変したことを、私たちはニュースを通して新聞を通して知っています。

いま実際に、その状況を体感することはできません。けれど私たちはイメージすることができます。日常を失った悲しさ。親しい人との別れの辛さ。生きていることの尊さ。そして当たり前のように過ごしていた日々の素晴らしさ。人との出会いからも感じた、この「当たり前」に含まれる価値の数々。ご家庭でもさまざまにお話をしていただければ、ありがたいです。

「しゃがみこんだ」の授業の後、感想を書く代わりに、詩を書きました。参考にしたのは、同じ6年生が書いた「幸せを感じる」と言うタイトルの詩です。幸せは見つけるものではなく、気づくものだといいます。授業を通して自分が気づいた幸せを、詩にしたためました。



 「幸せを感じる」

 朝起きて「おはよう」と言えること

 夜「おやすみ」と眠れること

 ご飯を食べて元気いっぱいに学校へ行くこと

 家に帰って友達と暗くなるまでたくさん遊ぶこと

 家族が家に帰ること

 どれも平凡な毎日の繰り返し

 けれど星の数ほど幸せが詰まっている



【トルコ・シリア大地震募金御礼】
当会報3月号にて「トルコ・シリア大地震募金」をお願い申し上げましたところ、信者さんから町の方から多くのお心寄せを頂戴しました。ありがとうございました。佐久市社会福祉協議会窓口に、教会分も含めてお寄せ頂きました「3万1546円」を募金させて頂きました。受領書を左記に掲載します(現物は教会外掲示板に掲示)。皆様の温かいお心寄せ、誠にありがとうございました。



□頭の中のシンバルには本当に驚きましたが、今はそういった音が聞こえることなく、安心して休ませて頂いております。その際受診した「ながせき頭痛クリニック」は母の兄の息子、つまり私のいとこが院長。優秀な脳外科医で、日本の名ドクターの一人として雑誌に紹介されたこともある、頼りがいのある先生です。頭痛や物忘れが気になる方は、当教会にご相談下さい。ご案内させて頂きます。まずはお電話を。

巻頭の写真は、五月五日こどもの日の鯉のぼり。長男龍平が誕生した時、妻の実家から頂戴したもの。その大きさに圧倒されます。子どもが教会を離れてからしまっておりましたが、長男に第一子男の子を授かり、久しぶりに揚げました。日程の都合から六月に初節句の予定、その頃まで揚げさせて頂きます。近くに来られたらお立ち寄り下さい。雨の日・暴風の日・会長不在の日は揚がりません。あしからず。


天理時報11月2日号第1面に、『「諭達第四号」ご発布』と、ご発布下される真柱様のお写真が掲載された。

私は勿論、全教のみなさんにとって、本当に久しぶりの真柱様のお姿、お声だった。感激された皆様も多い事だろう。私の周りの方々も口々に感動を仰った。

穏やかでお元気そうな真柱様のお写真、しかしこの時の真柱様は「たとえ我が身どうなっても」との命をかけてのご発布だったと私は感じている。天理時報の写真に、あの時の真柱様のお姿は浮かばない。




10月26日秋季大祭、私は東礼拝場結界前から3列目南の角に座ることが出来た。

25日ちょっとした務めがあり出発が遅れたので、天理到着後別席場駐車場にて車中泊。とはいえ、そのつもりで準備しワゴン車の後ろをフラットにして、エアマットと布団で完全宿泊。翌朝7時30分神殿に向かった。

良い天気とはいえ、さすがに寒さを感じる。中庭であたたかく、知り合いと久しぶりの再会を楽しみながらのんびり参拝と考えていたが、神殿近くになると、東礼拝場に上がる人が少ない。そこでせっかく諭達発布の秋季大祭だからとカバンに靴をしまい込み、東礼拝場に上がってみた。するとガラガラ。「あれ時間間違えたか?」と思いながら前に進むと、コロナ対策に一畳2人のアナウンスに奇数人数で参拝の方は、一畳に1つ空きが生まれる。ひょいひょいと前に進むと、前から3列目に座ることが出来た。位置は南の角、ちょうど先生方が出入りされる横。



秋季大祭が始まる。つとめ人衆の先生方が西から入られる前に、真柱様がおいでになられる。南礼拝場までは車椅子で、そこから杖を手にご自身お一人で歩かれる。椅子に座られる。そのお姿が目の前にはっきりと拝せる。嬉しい。ありがたい。よくぞ東礼拝場に上がった。

秋季大祭が始まる。大亮様の元気な祭文が奏上される。真柱様が椅子を降りて正座される。そのお姿に感激で胸が一杯になる。真柱様とご一緒にかぐら勤めを拝せるのだ。

かぐら勤めが終わり、真柱様が退席される。私の横をお歩きになる。そのご不自由なお姿に、自然と頭が下がる。


後半下り途中、真柱様がお戻りになる。ご発布は大亮様ではないかの声も度々聞いた。しかし真柱様がお戻り下された。真柱様直々に諭達のご発布を頂けるのか。胸が熱くなる。それほど久しぶりのお姿・お声なのだ。

後半下りが終わり、指図方の先生より、真柱様から御挨拶・諭達のご発布を頂ける旨のお話。

真柱様がお立ちになる。杖は座した横に置かれたままだ。お付きの方の肩に手をかけられ、ご自身で演台に進まれる。ゆっくりゆっくり歩かれる。演台の前にようやく立たれ、椅子にゆっくり座られる。少しずつ少しずつ座る位置をなおされ、ようやく原稿を手にされる。めくられるお手も、大変そうだ。

「皆様方には、本日、秋の大祭に各地よりお帰り下さいまして、大変ご苦労様でした。また、未だコロナの影響も続く中、たすけ一条の御用の上におつとめ下さって、心よりお労い申したいと存じます。少しご挨拶をさせて頂きたいと思います。(拍手)
 年頭の挨拶で、私は教祖の年祭を、140年祭をつとめさせて頂きたいという旨、お話いたしました。そしてその後、希望もありましたので、今日付けをもって、諭達を出すことにしたのであります。
まず読みます。口がうまく回らないし、息も続きませんが、お聞き苦しいと思いますが、聞いておいてください」。

「口がうまく回らないし、息も続きませんが、お聞き苦しいと思いますが、聞いておいてください」。真柱様のお言葉に、涙があふれる。

諭達ご発布

真柱様のお姿を、その大変なお姿を眼前に拝しながら聞かせて頂いた諭達は、私の心にズドンと入った。

ご発布を終わられた真柱様がお下がりになる。お疲れに見える。杖を手にご自身でお歩きになる。そのお姿を隠されることなく、今ご自身でおできになられること全てを、参拝している私たちにお見せ下さりながら、お下がりになられる。横をお歩きになる真柱様に拝しながら、涙が流れた。

本当にありがたい感激の、秋季大祭・諭達ご発布だった。




今回私は1人だったから、気軽に東礼拝場に上がれた。上がりたくても、上がれない方もたくさんおられただろう。その中私は真柱様のそのお姿を拝見し諭達ご発布を頂けたことは、本当にありがたいことであった。

真柱様が命をかけてご発布下さった諭達、この三年千日の通り方は定まった。今日の感激・感動を忘れずに歩きたい。



天理時報1面の真柱様のお写真は、お元気そうに穏やかに映っておられるように見える。しかし我が身どうなってもとの思いこもられたご発布だったと私は感じている。そのお姿を、真柱様を拝見出来なかった皆さんに知って頂きたい、お届けできたらと願う。



拙文ではありますが、お知り合いの皆様にご紹介頂けたら、嬉しいです。












Number Web より



甲子園&阪神の応援でおなじみ「ファンファーレ」、発祥は天理高だった…!
2022年3月22日 11:02 天理高校吹奏楽部提供



 日々熱戦が繰り広げられている、第94回選抜高校野球大会。1回戦屈指の好カードが、天理(奈良)対星稜(石川)の名門対決だ。


 今大会では、吹奏楽部の演奏も、「50人以内」「奏者同士の距離を十分に取る」などの条件付きでOKに。3年ぶりにセンバツに生音が戻り、コロナ禍前と変わらない雰囲気が懐かしくも感じる。

得点時の曲、天理発祥って知ってた?


 長きにわたって甲子園常連の天理だが、ヒットが出た際や得点時に多くの学校が奏で、阪神タイガースも使っているファンファーレ、「♪チャーラーラー チャララ チャッララー」。この曲が、実は天理高校吹奏楽部発祥ということは意外と知られていない。

 音階でいうと、

 ♪ソーファーレー ドレファ ソッレソー

 聴けば誰もがわかる、おなじみのアレである。

 同校吹奏楽部は、戦前から幾度も全日本吹奏楽コンクールに出場している、日本の吹奏楽界に多大なる影響を与えてきた名門校だ。

 1936年に誕生した天理高校吹奏楽部。1942年、天理中学校時代に初めて全日本吹奏楽コンクール(当時の名称は「大日本吹奏楽大会」。翌年の第4回から「全日本吹奏楽コンクール」となる)に出場。栄えある3位を受賞した際、審査員は「テンリ」と読めず「アマリ中学校」と呼び間違えたという。今では信じられないエピソードだが、名門天理にもそんな時代があったのだ。

定番ファンファーレの“誕生秘話”


 1959年、第31回選抜高校野球大会で天理が演奏し始めたこのファンファーレの原曲は、アメリカの作曲家リチャード・ボウルズが作曲した「マクシンカッキー序曲」。

 吹奏楽部が演奏会などでこの曲を演奏し、初代指揮者の矢野清氏が、曲中のフレーズをアレンジして作ったものだ。

 2016年、筆者も出演したNHK-FM「今日は一日“吹奏楽”三昧リターンズ」で、NHKのアナウンサー山田朋生氏が、アメリカのチャットフィールド楽譜図書館で原曲譜面を発掘し、天理高校吹奏楽部に演奏してもらったことがある。実際に音源を聴いたが、1フレーズを抜き出してファンファーレに仕立てており、ほぼ原曲のまま。

「序曲の中からこの一部分を抜き出してアレンジし、ヒットが出た時に演奏する」というこのアイデアがかなり斬新だったのではないかと、甲子園で多くの学校がこの曲を演奏するたびに、しみじみと思うのだ。

今や「ヒット」「得点」と呼ぶ学校多数


 同校では、単純に「ファンファーレ」と呼んでいるが、吹奏楽部OBで、現在指揮者を務める吉田秀高氏によると、「当時は『ファンファーレ』とも呼ばず、『ヒットが出たら「マキシンクッキー」やるぞ』という感じで、原曲名で呼んでいました」という。

 当時はこの曲の正式名称がわからず、「マキシンクッキー」と読んでいたというが、山田アナが発掘した原曲譜面には、タイトルに「Maxinkuckee Overture」と記されており、「マクシンカッキー序曲」が正式名称と判明。おそらく、読み間違えて伝承されていったのだろう。

 同曲が天理発祥と知らずに使っている学校も多く、「ヒット」や「得点」と呼ぶ学校が大多数だ。それくらい、「ヒットの時や、点が入ったら吹く曲」ということが浸透しきっているということだろう。

 吉田氏は、1978年に入学。1年夏にベスト8、2年時は春夏出場。3年の夏はベスト4という成績を残しており、何度も甲子園で演奏しているが、当時すでに、「ファンファーレ」は他校も使っていたという。

「いっちょホンマものを聴かせましょうか、と(笑)」


 現在、筆者が甲子園で全試合の応援を取材していると、半数どころか8割近い学校が同曲を演奏する年もあるが、天理の対戦校のスタンドからファンファーレが聴こえてきたら、どう思うのだろうか。

「いっちょホンマものを聴かせましょうか、という気になりますね(笑)。でも、これだけ多くの学校が演奏してくださって、とてもありがたく思っています」(吉田氏)

 吉田氏は阪神タイガースのファンでもあるが、同球団も「ファンファーレ」を演奏することについては、どう感じているのだろうか。

「いやぁ、特に何とも思いませんが、ありがたいです。それよりも『勝ってほしい』という気持ちです(笑)」

 と言い、「多くの学校で演奏されているバージョンも、阪神版に近いかもしれませんね」とも続けた。

天理は攻撃の初回にも…「景気つけよう! と」


 本家天理の「ファンファーレ」には、どっしりとした低音のベースラインがあり、クラリネットやピッコロなどのトリル(2度違いの音を繰り返し吹く奏法)が加わり、重厚ながらもどこか華やかさも感じる。

 一方、多くの学校が演奏する、吉田氏がいうところの「阪神版に近い」バージョンは、複数の楽器が同じメロディを演奏する「ユニゾン」という奏法が主流。同じ曲でもまったく異なる印象を受ける。

 近年、天理は攻撃の初回にスローテンポの「ファンファーレ」を演奏する。ヒットや得点時のアップテンポな演奏と違い、重々しく威圧感まで感じさせる演奏だ。なぜ初回にこのような演奏をしようと思ったのだろうか。

「攻撃開始なので、景気つけよう! という感じでしょうか」(吉田氏)

ファンファーレにあった「幻の歌詞」


 ちなみに、同曲には歌詞があるということもほとんど知られていない。本家の天理も甲子園で歌詞を披露しているわけではないので、知られていないのも無理はないのだが、せっかくなので、この幻の歌詞を記しておきたい。

【「ファンファーレ」歌詞】

 てんり ナイン がんばれ
 てんり ナイン がんばれ
 てんり
 てんり
 がんばれ がんばれ がんばれ

 現在の高校野球は攻撃時しか演奏出来ないが、かつては攻撃時、守備時の両方とも演奏出来たことから、歌詞も2パターンある。上記は守備時の歌詞で、攻撃時は「がんばれ」が「かっとばせ」となる。

“シェア率ダントツの事実”を作曲者が知ったら…


 高校野球の応援曲は、「あの学校のあの応援がカッコいいので、うちもやりたい」と野球部が吹奏楽部にリクエストをして広まっていくパターンが非常に多い。昔も今も、勝ち進んでテレビで何度も流れた強豪校の曲が全国の野球部に広まっていったが、ヒットや得点時の曲は、天理の「ファンファーレ」のシェア率がダントツ。日本一多くの学校が演奏する曲といえるのではないだろうか。

 近年は、「みんな天理のファンファーレをやるので、うちは他ではやっていない曲をやりたい」と、オリジナリティを出す学校も徐々に増えつつあるが、揺るぎないポジションを築いた「ファンファーレ」。原曲「マクシンカッキー序曲」作曲者のリチャード・ボウルズ氏が天国でこの事実を知ったら、さぞ驚くに違いない。



(「甲子園の風」 梅津有希子 = 文)



上級教会で神殿講話を勤めさせていただきました。

いつだったでしょうか。たしか道の友だったと思いますが、神殿講話の講案つくりの勧め!という記事がありました。あの時から時々、講案をつくるようになりました。

今回の神殿講話を、覚え書きのためにこちらに出させていただきます。ご一読いただけたらありがたいです。また感想など、お会いする機会ありましたら、ぜひお聞かせください。




○上級祭典講話/2022.02.22

 先月の祭典は欠席させていただきました。失礼しました。まさか私がコロナに関わるとは思いもしませんでした。

 先月21日おぢばに帰りまして、天理大学3年の息子とゆっくり話を。夕飯を一緒に食べていた時のことです。息子のスマホが鳴りました。確認した息子が「お父さん、友達がコロナになった」と。そして彼と三日前に飲み会があったと。「そりゃお前も感染の可能性があるぞ。もしものことがあったら困るから、明日必ず検査に行きなさい」といって別れ、詰所に戻りました。
 すぐに上級の会長さんに電話。ことの由を申し上げ、私は濃厚接触者の可能性がありますと。翌日の祭典をどうしたらよろしいかを相談。結果もしものことがあると大変なので、欠席させていただくことになりました。翌朝上級に参拝し献米を降ろし、その足で信州へ戻りました。妻にもその旨伝えてあったので、教会到着後、妻にも母にも顔を会わさず、隔離生活に入りました。結局息子は陽性でした。保健所の聞き取りを待つことになりました。

 本来陽性と診断された時点で、保健所に連絡が行きます。そして保健所による聞き取り調査があり、濃厚接触者の特定などがなされます。その時点で濃厚接触者にあたる私に追跡調査があるはずなのですが、あまりにも感染者が増え追いきれず、若い人は後回しだったそうです。結局息子に保健所から連絡があったのは、自主隔離期間10日目だったとのこと。陽性の息子がそうですから、私になど連絡が来るわけがありません。
 自分でこちらの保健所に連絡して濃厚接触にあたるとお話をいただき、10日を目安として自主隔離生活を始めました。結局症状もなく、妻に抗原検査薬を買ってきてもらい、最初と最後に検査をして陰性。そこで再度保健所に連絡をして確認、それなら大丈夫ですとお墨付きをいただき、隔離生活の終りとしました。

 隔離されて感じたことは心が病むことでした。致し方ないことだと思っていても、症状もなく一室に閉じこもり何もできないという時間は、周りが普通に動いているだけに、自分自身がこれでいいのかとなんとも言えない気持ちになりました。
 また自分が感染したのではないかという怖さはさほどありませんでしたが、しかし人にうつすのではないかという恐怖を強く感じました。教会は人の出入りがあります。その方たちにうつしたらどうしようという恐怖感がありました。それが一番苦しかったことです。
 とはいうものの、隔離生活は楽なものです。朝夕勤めは部屋から参拝。食事は妻が部屋の前まで運んでくれます。やることがないので(いや熱心な方は12下りとか教理勉強などをされるのでしょうが)、なかなか読めなかった本をガバっと読みました。ありがたかった。いい時間を頂きました。そんな生活を過ごしていました。

 さて昨年中盤感染者0人の県が増え、あの東京でさえ7人の日がありました。東京で7人、長野の0人よりすごいと思いました。いつ日本感染者ゼロの日が来るかと楽しみでしたが、オミクロン株が現れて、あっという間に、前にも増して感染者が増え続けています。恐ろしいほどです。一日何万人という感染者です。
 自主隔離生活を送りながら、ふとこれがお道の話であれば、こんな嬉しいことはないのにと思いました。一日に何万という方がお道を信仰するようになるのです。ところがなかなか。
 お道がなぜコロナのように全国に広がらないのか。コロナでいえば感染ですが、信仰でいえば伝える・伝わる、にをいがけも類語でしょうか。お道がどうしたらコロナのように広がるのか。感染するのか。そんなことを自主隔離生活でふと思いました。一言勉強させていただきます。よろしくお願い申し上げます。

 今から28.9年前でしょうか。敷島大教会で「修養科一千名」のお打ち出しがありました。百名でもびっくりしたと思いますが、一千名には驚きました。全教がざわついた、と言っても過言ではありません。ちょうどあの頃こちらの教会の大教会世話人はO先生で、神殿講話で「旬の声にはい!と手を上げると、それが帆となって旬の風を受けて教会が大きく進むんだ。その手も一本ではなく、『はい、はい!』と2本の手を上げれば、倍の勢いで教会が動く」とおっしゃられたことを思い出します。11月の神殿講話で前々会長様が「旬の声」を受ける大切さをお話になりましたが、本当にそうだと感じたことがあります。

 あの時一千名ということで、各教会4名を目標にとのお打ち出しでした。ドキッとしました。その頃全く修養科生など出ていない当教会としましては、至難の業です。祭典でお願いしたり、心当たりを探すなどしたのですが、全く見つかりません。一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎ、そうしているうちに四月になりました。電話がかかってまいりました。部内の女性会長さんからです。その頃はまだ教会ではなく布教所でした。

「会長さん、修養科生が3人できました」。 私はもう嬉しくて、天にも昇る心地です。
「どちらの方ですか」
「近所のKちゃんという若い男の子です。ちょっと知的障害ありますけど、大丈夫です」
「おお、2人目は」
「近所のCちゃんというご婦人です。てんかん発作がありますが、大丈夫です」。 この頃から、喜びよりも不安の方が先に立つようになりました。
「3人目は」
「3人目はMさんと言って、私の古い友達で、20年くらい精神科に通ったり入院したりしているんですが、今入院していて、丁度いい機会だから無理やり退院させました。医者には『勝手にそんなことして、どうなっても知りませんよ。責任持ちません』と強く言われましたが、神様で助けるからと大喧嘩して退院させて、今布教所にいます」とのことでした。
 もう嬉しいどころではなく、心配しかありません。こうなったら私が付き添うしかない。しかし考えれば、4人という目標だからこれも神さんの思し召しかと、4人で6.7.8月修養科に入学することになりました。

 一ヶ月、二ヶ月が過ぎました。K君はちょこちょこやらかしましたが、私が24時間一緒ですので大丈夫。Cちゃんはしょっちゅうてんかん発作を起こし、同期の方や教養係の先生方にお世話になりながら、なんとかマイペースで勤めています。
 さて一番心配だった、長い間精神科に入院されていたMさんです。なんと入学当時のボーッとした感じがあっという間になくなり、元気一杯に喜び勇んだ修養科生活なのです。体を動かし、規則正しい修養科生活、おぢば・旬の声の素晴らしさに感激しました。

 あまりに嬉しいので、布教所に電話して3人の様子を伝えました。所長さんはもう大喜び。「会長さん、本当に嬉しいです。会いに行きます」。次の土日に天理に会いに来られました。詰所に着いたと言うのでホールにおりますと、所長さんお一人ではなく、見知らぬ中年男性がご一緒です。どなたか伺うと、Mさんのご主人だとのこと。初めての天理で、初めての詰所。溢れんばかりの人々。不審そうな顔をしておられます。ところがそこへ20年来入退院を繰り返し、うちに帰っている時でも薬でボーッとされていた奥さんが、「お父さ〜ん、お帰りなさ〜い」と手を振りながら笑顔でおいでになられたのですから、これにはご主人もびっくり、感激です。天理に修養科に感動して、埼玉に帰っていかれました。

 いよいよ修養科最後の三ヶ月目が始まりました。その途端、Mさんは動けなくなりました。体に力が入らない。布団から全く起き上がれなくなりました。寝っぱなしになりました。意識も朦朧としています。信じられないほど汗をかきます。流れた汗が布団をしみ抜けて、畳に人のかたがつくほどです。結局そのまま三ヶ月目が終わりました。迎えに来られた所長さんは「ご主人があんなに喜こばれ、帰ってくるのを楽しみに待っているのに、このまま帰せない。布教所に置きます」と埼玉に帰られました。

 布教所生活が始まりました。埼玉に帰ったとて同じ状態です。寝たまま。Mさんの布団の隣に自分の布団をひいて、簡易トイレを置き、つきっきりのお世話です。体に力が入らなくグニャグニャで座れないので、食事の時は椅子にハッピの帯でくくりつけて、口をこじ開けスプーンで無理矢理ご飯を流し込む、そんな生活が始まりました。一ヶ月、二ヶ月、半年、一年が過ぎ、Mさんは元通りになりました。元気に普通に戻ったのです。大喜びでご主人が待つ自宅に帰られました。

 それからMさんの喜びの生活が始まりました。ご自宅は歩いて五分です。日参が始まりました。布教所の月次祭前後日は泊まり込みでひのきしんと片付け。信州のうちの教会にも布教所長さんと毎月ご参拝くださいます。支部・教区の行事・御用はもちろん、本部にも大喜びで帰ります。喜びの日日です。
 そしてもう一つ始められたこと。にをいがけを始められたのです。うちは教会報を出しているのですが、あまり天理教臭のない教会報に、天理教部門担当の天理時報特別号と上級の月の言葉を挟んで配ります。Mさんはそれを持ってご近所を歩きはじめました。「みなさん私が今までどういう生活を送ってきたか知ってるでしょう。ずっと病院に行ったり来たり。それが、今の私を見てください。天理教でたすかったのです。所長さんにたすけられたのです」。そこから新たな道がつき始めます。

 ちなみにその時のこぼれ話です。所長さんは元気になったMさんを連れて、「どうなっても知りませんよ。責任持ちませんからね」と大喧嘩をした医者に会わせに行ったそうです。一言言ってやろうと。ところが医者も大したものです。「あのMさんが、どうしたらこんなに元気になるのか教えてください」と頭を下げたそうです。そこで所長さんはにっこりと「信仰と医学は両輪です。お互い頑張りましょう」と仰ったとか。

 Mさんの楽しい喜びの時が流れました。しかし修養科出られてから15年ほど経ったでしょうか、身上であっという間にお出直しになられました。悲しかった。私ですらつらいお出直しでしたから、所長さんの思いはいかばかりだったでしょう。ニコニコ笑ったMさんの遺影を見ながら「Mさん、悲しいけれど、最後の時間は素晴らしい時間だったよね。所長さんに支えられて、お父さんと笑いながら、楽しい時を過ごしたね。幸せだった。本当にありがとうございました。」と声をかけました。しかしその一方、これでM家の信仰は終わったと思いました。

 ところがそうではありませんでした。ご主人が信仰を継いだのです。奥さん同様に、熱心に勤められるようになりました。ご主人はある会社の会計をお勤めだったと聞きました。細かくてうるさくて、社員に煙たがれていたと。私も最初にお会いした時の印象は、とても信仰される方には思えませんでした。そのご主人が奥さん同様に熱心に運ばれるようになった。不思議でした。

 祭典のあるとき、ご主人と二人きりになった時、私は伺いました。
「ご主人はMさんが亡くなられて今、どうして信仰を続けられているのですか」
「私は妻を所長さんにたすけられました。救ってもらいました。私は天理教のことは分かりません。教理も知りません。しかし私達を救って下さった所長さんが信仰されている天理教を信じます。そしてその所長さんが信頼しておられる会長さんを信じます。」と仰ったのです。遺影のMさんの笑顔が思い出されました。

 ご主人はその後、布教所が教会となり会長となられた所長さんを、物心両面の支えとなってくださり、祭典を何よりの楽しみとして過ごされましたが、昨年11月にお出直しになりました。亡くなられる数日前にお電話で話し、「コロナがおさまって、早く信州の教会に行きたいですよ」と話をしたばかりでした。

 こちらの教会の祭典日は18日です。毎月参拝させていただきますが、おつとめが終わりますと、役目柄一言お話しさせていただきますが、私はこちらでお話しするのが怖いです。私の話の後に会長さんがお話されるのですが、私のようなペラッペラの薄いお話でなく、本物です。時々教内で末端教会というワードが使われますが、あまり好きではありません。末端ではなく先端です。「先端教会」です。地域に食い込む先端の教会。この根が枯れたら、木も枯れます。大切な大切な教会。そんな本物の話です。



 さて私は、最初にお道がどう伝わるか・感染するかを考えたと申しました。今世間はコロナに感染しないためにはどうするかという毎日です。ではお道を伝えるには、この反対をすればいい。マスクはしない。どんどん話しましょう。手の消毒はしない。天理教ベタベタの手で、人に触りましょう。密にならない。一人でいるだけではコロナに絶対感染しません。ならば人が集まるところに、どんどん出ていけばいい。地域の御用を引き受けて、人の中に入りましょう。

 そしてもう一つ。大切だと思うこと。

 当初コロナ情報が出てきたとき、私達はもう一つピンときませんでした。コロナウイルスの説明を聞いても見ても、ピンときませんでした。ところが日日感染者が増えてくるのが目に見えてきた。有名人が出直した。重篤者が増えてきた。病院がいっぱいになった。社会が動かなくなった。不自由な生活が始まった。さあどうする、どうする! 知識ではなく、見えて初めてその怖さが分かったのです。つまり天理教も話だけではだめ。天理教に感染したらどうなるかを見てもらうことこそが、大切なのだと思います。

 天理教に感染したら、こんなに楽しくなりますよ。親孝行・夫婦仲良く、楽しい毎日ですよ。喜びいっぱいの毎日が見えますよ。つらいこと、悲しいことも、しっかり受け止めることができますよ。地域の御用も喜んで受けますよ。困った方がおられたら声かけてください。親身になって相談に乗りますよ。一人暮らしの高齢者にも、足運びますよ。毎日毎日が、明るく歩けますよ。

 いかがでしょうか。埼玉の会長さんも、教理はまず話されません。しかし難儀されている方・高齢お一人の方・困っている方・悲しんでおられる方に、いそいそと足を運ばれます。大根をたくさん炊いたからと、近所のご老人に運びます。体調悪いと聞けばすぐに伺って、病院に連れていきます。Mさんご夫妻は教理に信仰したのではありません。天理教という信仰をエネルギーとして、親神様・教祖のおっしゃった「難儀な人をたすける」という行動に、感激をして信仰に繋がった。まさに教祖のおひながたではないかと思うのです。天理教に感染したらどうなるかを見ていただくことこそが、私達のすべきことではないか、と隔離生活で考えた次第です。



 おぢば・直属・上級から信仰のエネルギーを頂き、そのエネルギーで地域に根ざす。そこが私たちの目指すところだと信じます。私も、もっともっと天理教に感染しなければ。まだまだ感染が足りないかな。


 ご清聴ありがとうございました。




昨日朝登校見守りの時、いつもの男の子。

この子は6年生、6年の4月にお母さんの結婚で埼玉から転校してきた、静かな子でいつも一人。

私は子どもたちに積極的に声をかけている。無視されようが振り向きもされなくても、一方的になろうが、とにかく声をかける。

この子は特に気にして、声をかけている。

「正月はお年玉もらったか?」

「はい、もらいました」

「いいなぁ、おれもお年玉もらいたいよ」

「ちなみにクリスマスプレゼントは?」

「もらいました」

「何もらったん?」

「ブーツもらいました。雪に履くブーツ」

「おお、そうか。何色?」

「黒です」

「かっこいいんか?」

「はい、かっこいいです」

「それじゃ、はやく履きたいな。雪降ればいいね」

「はい」

「おお、青だ。いってらっしゃい」

これが昨日朝。


今朝、待ってましたの雪が降った。



雪が多ければ交差点歩道の雪かきをするが、今日は15センチ位。これくらいならかかないほうが子どもたちは嬉しいだろうな。

それにあの子も、喜んでるだろう。会うのが楽しみ。


今朝一番にあの子が来た。足元を見る。黒のブーツを履いている。

「おお、おはよう。それか?」

「そうです。ブーツです」

「めっちゃ、かっこいいやん。」

「はい」

「どう、はきごこちは」

「中がふわふわして、暖かくて気持ちいです」

「よかったなぁ〜。めっちゃかっこいいぞ」

「はい」

「おお青だ。いってらっしゃい。よかったなぁ」

本当に嬉しそうに、雪の中を歩いていきました。


見守りに立つようになって13年目。小学校4校が合併して新しい小学校ができて、通学路が変更になり一番交通量の多い事故の多い道路を渡ることになったので、見守りに立つことにしました。

ただ立っているだけなのに、挨拶をする車も30台くらいに、PTAの知り合いも増え、その流れで小学校の推進委員に。「小林さん、市会議員に出なよ。みんなで押すから」と声をかけられたことも。「そんな事している暇はありません」とお断りさせていただきましたが(^_^;)

ただ立っているだけなのに、いろいろなところに影響が波及します。地域活動を考えるには簡単にできることの一つかと。地域をお考えの方、ぜひお試し下さい。



太陽が出てきました。空にも、私の心にも。


さあ今日も勇んで、歩きます。








○陽気講座

いとこが「コロナウイルスから人類への手紙」という一文を教えてくれました。ヴィヴィアン・リーチさんという方が、コロナウイルスの視点に立って書いた人類への手紙だそうです。数年前に話題になったそうですが、私は全く知りませんでした。

物事にはすべて理由《もと》があります。今回の、このコロナウイルス感染症は「SARS-CoV-2 ウイルスによって引き起こされる感染症」です。それは物の理由《もと》。では心の面から、この事象の理由《もと》考えるとどうでしょう。

現在地球上に起こっている様々な課題(温暖化や環境汚染、戦争、便利さを求め続けた社会の現状など) を、この時だからこそ、私たちが改めて考えなくてはいけないことがある。そう新型コロナウイルスが教えてくれているように思いますが、いかがでしょう。



 コロナウイルスから人類への手紙

 
地球は囁きました。でもあなたは耳を貸さなかった。地球は話しました。でもあなたは聞かなかった。地球は叫びました。でもあなたは耳を塞いだ。

そして、私は生まれました。

私はあなたを罰するために生まれたのではありません。私はあなたの目を覚ますために生まれたのです。

地球は助けを求めて叫びました。大洪水、でもあなたは聞かなかった。燃え盛る火事、でもあなたは聞かなかった。猛烈なハリケーン、でもあなたは聞かなかった。恐ろしい竜巻、でもあなたは聞かなかった。

汚染した水により海の生き物が死んで行く。警鐘を鳴らして氷山は溶けて行く。厳しい干ばつ、そんな時あなたは地球の声を聞こうとはしなかった。
地球がどれほど悲観的な危機にさらされていても、あなたは聞こうとしなかった。
 
 終わりのない戦争

 終わりのない貪欲さ

あなたはただ、自分の生活を続けていた。

どれだけの憎しみがそこにあろうと、毎日何人が殺されようと、地球があなたに話そうとしていることを心配するより、最新のiPhoneを持つことの方が大切だった。

でも今、私はここにいます。

そして、私は世界のその軌道を止めました。ついにあなたに耳を傾けさせました。私はあなたに避難を余儀なくさせました。私はあなたに物質的な考えをやめさせました。

今、あなたは地球のようになっています。あなたは自分が生き残ることだけを考えています。
 
どう感じますか?

地球を燃やして、私はあなたに熱を与えました。汚染された地球の空気、私はあなたに呼吸への課題を与えました。地球が毎日弱って行くように、私はあなたに弱さを与えました。私はあなたから快適さを取り除きました。

あなたの外出。

あなたが以前は忘れていた地球とその痛み。そして私は世界を止めました。

そして今、中国の空気はきれいに。工場は汚染を地球の空気に吐き出さなくなり、空は澄み切った青色に。ベニスの水は透明になり、イルカを見ることができます。なぜなら水を汚していたゴンドラを使ってないから。

あなたには自分の人生で大切なものは何かを考える時間が出来ました。

もう一度言います、私はあなたを罰しているのではありません。私はあなたを目覚めさせるために、ここにいるのです。

これが全て終わったら私は去ります。どうか、これらの瞬間を覚えておいてください。

 地球の声を聞いてください

 あなたの魂の声を聞いてください

 地球を汚さないでください
 
 争うことをやめてください

 物質的なことに気を取られないでください

 そして、あなたの隣人を愛し始めてください

 地球とその生き物たちを大切にし始めてください


 何故なら、この次私はもっと強力になって帰って来るかもしれないから。
 
                                コロナ・ウイルスより




陽気12月号「この一年をふり返って」に、拙文掲載いただきました。

多くの方からご感想いただき、感謝感動しております。


その中「どういう経緯で依頼されたのですか」と多くご質問頂きましたので、ちょっと書かせていただきます。


9月末、茨城の知人から「陽気から依頼を受けたけれど、忙しくて書けないから、鯉太郎さん代わりに受けていただけないですか」と連絡を頂きました。内容を伺いますと「一年をふり返って」。つくし・運びなどと言われたら書く自信はないですが、一年の振り返りならとお引き受けした次第です。本来ならば知人のほうが書ける方でもありますし、素晴らしい信仰をお持ちのご夫婦なので、私が読ませていただきたい。しかし確かに知人のその頃を考えると忙しいのはもっともで、お受けした次第です。これが依頼の経緯です。

実は陽気誌に掲載頂いたのは2回目なのですが、一回目依頼の経緯は分かりません。しかし掲載後担当者とお話のさい「〇〇という特集があるのですが、どなたかご推薦いただける方はおられませんか」との話がありましので、多分その方面からの紹介依頼が多いのではないかと考えます(今回は聞かれませんでした)。


多くの皆さんの信仰の毎日をお聞きするたびに、私ごときがと思いましたが、掲載後私の全く存じ上げない高齢の会長さんから「私と同じようにがんばっておられる会長さんがいると読み、嬉しくなってどうしても話がしたいとお電話しました」とご連絡いただきました。30分ほどお話しましたが、最後に「ともども勇んで勤めましょう」とエールを頂き、大きなエネルギーを頂戴しました。陽気誌に書かせていただいてよかった。感動しました。



これからも楽しんで勤めたいと思います。拙文お読みくださった皆様、ご感想お声がけいただきました皆様、本当にありがとうございました。




□長野・松本少年刑務所 

 「塀の中に学校で」


北アルプスの稜線が美しい山紫水明の地に、異質にも映るコンクリート塀が現れた。JR松本駅(長野県松本市)から車で十分ちょっと。厳重に管理された松本少年刑務所にたどり着いた。

向かったのは、刑務所の階段を上った先にある教室。日本で唯一、世界でも珍しい刑務所内の学校「旭町中学校桐分校」だ。

「さあ、アルトリコーダーの練習時間ですよ」。音楽の授業で、降旗信一先生(55)が声を張る。授業を受けるのは、受刑者の山田健人さん(27)と中東出身のカリムルーさん(51)=いずれも仮名。授業はあくまで、受刑者に科される刑務作業の代わり。国から貸与された学ランを着るのは、「作業服」だからだ。

丸刈り姿の生徒の肩が、呼吸に合わせて小さく上下する。唱歌「故郷」を奏でるリコーダーの音色が刑務所内に響き渡った。

学級文庫やロッカー、壁には給食の献立に学級目標。一見、普通の教室のようだが、窓は幾何学模様の鉄格子が張り巡らされ、逃走防止の非常ベルや緊急電話もある。教室の後ろでは、刑務官が静かに目を光らせていた。

桐分校は1955(昭和30)年の創立。松本少年刑務所の受刑者の8割が中学を卒業しておらず、当時の所長や松本市教育委員会などが設置に奔走した。現在は年齢にかかわらず、全国の刑務所から希望者を募り、受け入れる。

法務省によると、2012〜16年度の5年間で、桐分校出身で本来の刑務所を出所したのは22人。このうち再び罪を犯して刑務所に戻ったのは1人で、再入率は4.5%。同時期の全国平均は40.9%だ。

小さな学びやは、受刑者たちが本来生きていくべき道に立ち戻る手助けをしてきた。

◆家族のために

旭町中学校桐分校に通う2人の生徒に授業後、声を掛けた。

「親に愛された記憶なんてない」。山田健人さんは幼い頃から父母の暴力を受けて育ったという。耐えた帰結は、感情を言葉で表現できない人間になったこと。

高校1年の冬に中退。解体現場で働き始めたが、17歳の時、14歳の彼女を妊娠させた。「赤ちゃんはかわいいって分かる」。だが、どう守ればいいのか分からない。心の混乱は、街へ繰り出し、人に拳をふるう形で噴き出した。「結局、俺も親と同じことしているじゃねぇか」

1度目は傷害、2度目は傷害と強盗致傷で逮捕された。収容先の刑務所で刑務官らに桐分校を紹介され、門をくぐった。「出所したら子どもに勉強を教えたい。授業は本当に大変ですけど、子どものためなら…」

受刑者は1年間の在学中、中学3年の国語や英語など1日7時間の授業と、3時間の自習をこなす。

単独室で自習していたカリムルーさんを訪ねた。扉は閉められたまま、鉄格子に切り取られた小窓から声を掛けた。

「何を読んでいるんですか?」。背中を丸めて、目をこらしていた。「先日、ぼくの誕生日で家族から手紙が届きました。授業で習ったので、漢字も読めるようになったんです」。便せんを、うれしそうに胸元に引き寄せた。

中東の国で、10人兄弟の8番目として生を受けた。「幸せな国らしい」と噂を信じ、1990年に来日。配送やとび職の仕事をしたが、ケガで働けなくなり、覚醒剤の密輸に手を出した。懲役10年。日本語は皮肉にも刑務所で覚えた。

出所後に日本人女性と結婚し2児を授かったが、事業に失敗した2年前、再び薬に手を染めた。「愛する家族のために、最初からやり直したい」。そう話すと、再び机に向き直った。

◆「常」に「念」じて

「桐分校のグラウンドから見える常念岳が魅力的でね」。分校で35年間教壇に立ち、10年前に引退した元教師の角谷敏夫さん(71)が懐かしそうに語る。

標高2857メートル。孤高で堂々とした常念岳のたたずまいが、卒業生に少し似ているという。

「名前もいい。更生を『常』に『念』じているよって」「優しさを知りました」「花咲く事なく続いた我が人生。小さな花を咲かせたような気がしています」。卒業生から届いた手紙の文字を、角谷さんの優しいまなざしがなぞる。

これまで754人の卒業生が桐分校を巣立った。最も多いのが、角谷さんと同じ1947(昭和22)年生まれ。終戦直後の混乱期に生まれ、まっとうな教育を受けられず、犯罪に走ってしまった若者が多い。「戦争こそ最悪の犯罪です。どれだけ人の人生を狂わせるか…」

人権上の配慮から、出所後の生徒と街で会うのはご法度。同窓会はできない。「教師になったら、成人した教え子と焼き鳥屋で一杯やりながらの再会に、普通は憧れますよね」と角谷さんは少しほほ笑んで、続けた。「いいんです。生徒たちがこの社会の片隅のどこかで元気に過ごしているって、僕にはちゃんと見えていますから」。ゆっくりと、まぶたを閉じた。


◆寄り添う母子像

暖房がよく効いた客間に通された。「東京の方に、この寒さはこたえるでしょ」。両手を広げて朗らかに出迎えてくれた女性は、刑務所近くに暮らす高野尾宏子さん(79)だ。

桐分校が創設される前年の54(昭和29)年、生徒を物心両面で支える「少年母の会」が発足した。家庭の愛情を知らずに育った生徒も多かったため、松本市内の女性団体が結束した。弁護士をしていた夫の勧めもあり、高野尾さんも入会した。

だが、思わぬ事故に見舞われる。84年1月29日、松本少年刑務所を大火が襲った。教科書や教室のピアノ、卒業生からの手紙など、庁舎は全焼した。

ゼロからの出発に力を貸したのは、本校の旭町中学校だった。当時PTA副会長だった高野尾さんは、バザーを企画。行列ができるほどの盛況だった。「出所後、彼らが最も苦労するのは、人の目。温かく迎え入れられる地域にしたいっていう思い一心だった」

三百人程度だった会員は二千人に迫り、松本随一の女性団体に。高野尾さんは現在、会の顧問を務め、刑務所内で著名人を招いた講演会を開いたり、運動会に参加したり。

年に一度の総会では、生徒から合唱のプレゼントがある。生徒が懸命に歌う姿に多くが涙するという。「罪を犯したからって、別世界の人ってわけじゃない」と高野尾さんは言う。

刑務所の庁舎入り口には、ひときわ目を引く長さ3メートルの銀色のレリーフが掲げられている。「愛の母子像」と名付けられ、火災で焼失した後、復元された。柔らかな日差しを浴びながら、女性が子どもを抱き締めている構図は変わらない。「母の愛」もまた、人間が生まれ変わる源泉の一つなのだろう。 (2018年12月15日ネット記事より)




□松本少年刑務所にて私がお話させて頂く部屋には、高い塀の中にシステムロックされた扉を5回ほど通らねばなりません。ガチャリと開く扉を通るたびに、役目の重さを感じています。



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