シアトル日々是好日

シアトル在住、宮古島出身の勤労中年おばさんの日記。愚痴、書評、映画評、料理、日々考えていることを本音で綴りたいと考えています。

ストレスフルな日々。仕事は休みが沢山余っていて、何時でも休める状況にあるのだけれど、家を売るという大仕事が残っている。
やっぱり、家を売るとなると、欲が出てきて、幾らでもいいというわけではなく、できるだけ高く売りたい。修繕をしなければならないところもあるが、最近のシアトルはいわゆる「バブル」なので、売り手市場である。近隣で売りに出されているとこを見て回ったりして、オットと
「うちだとこれくらいでは売れるかなー」
と話すうちに、だんだんと欲深くなっていく自分があり、ちょっと恐ろしくなる。
早く、できるだけ高く売りたい。買い手にとって一番の魅力的な要素はなんといってもロケーションだろう。アメリカでは特に、住むとこにより安全性が確保され、良い学校があるかどうかは大きな決め手ともなる。我が家はその辺はかなりいい条件だと思うが、何しろ、お金がなかったので、家の修繕をしていない。中身は17年前に買ったときのままである。修繕にどれだけの費用がかさむか、とてつもなく悩ましい限りである。

巷では北朝鮮がどうの、トランプが安倍がどうのと色々と聞こえてくるが、やっぱり身の回りのことで精いっぱいなので、ニュースなども殆ど上の空である。昨日も古い友人が、
「北朝鮮のこと、どう思う?」
と聞いてきたが、
「さあー」
としか言えなかった。実際、状況が分からないし、感心が向かないのである。これも身の回りのことで精いっぱいだからである。

色々と思い悩んでいると、どうもネガティブになってくる。今まで、張り切ってマディスンでの新しい暮らしに希望を持っていたのに、あの弟嫁たちと付き合わなければならないのかーと思うと、気が重くなった。弟嫁の一人は、私がアメリカに来た当初は庇護してやらなければならない可哀想な存在だと思っていたらしく、自分の古着やなんかを送ってきたことがある。私は「なに!この花柄のセンスのない服!」と思ってほっておいたりした。そのうち、私が強烈な自己主張をする人間だと分かってきたらしい。ちょっとした言葉尻に私に対する対抗意識を感じることがある。好かれていないと分かっている人間と付き合うのは難しい。

娘が毎日のように電話して、状況を聞いてきてくれる。気がつくと娘に愚痴っていた。自分でびっくりした。愚痴っぽい母親にはなるまいと思っていたのに!である。
「ちょっと、つかれてるんだよ。あれこれ考えなければならないことがあって。でも、元気だよ。Woodyがいないから淋しいけど。このことが片付くまでは、落ち着かないと思うけど。」
時々、この娘に理的にどれだけ助けられているかと思う。

毎日、何かしら荷物を段ボール箱に詰める生活に追われている。とりあえず、近所に倉庫を借りた。家を売るとなると、多少の手を入れなければならないし、生活感のない綺麗さっぱりとした状況にして、買い手に見せなければならないからである。

昨晩、オットに
「ねえ、あんた、マディスンに行くにあたって不安はない?」
と聞いてみた。すると、オットは、
「全然ないよ」
と平然としたものである。まあ、自分の故郷に近いとこに引っ越すんだから、プレッシャーは少ないだろうが、それでも、オットは40年以上シアトルで生活してきたのである。
「やっぱり、あんたは移動民族だねー。60を過ぎて新しい土地は、やっぱり不安になるもんだと思うけど。あんた、中身はホント強いわ。変化に動じないもの」
「君は不安があるの?」
「ある!お父さんやあんたの弟たちとの付き合いに不安はないけど、あの弟たちの嫁さんとは、なんかうまくやっていけない気がする。」
「それは分かる。」
表だって、二人と争ったことはないが、仲良くなったと感じたことは一度もない。ただ、一人はとても敬虔なカソリックで、子供たちに悪影響があるとディズニーの映画も見せなかったくらいである。もう一人は徹底した反カソリックで、とてつもないおしゃべりである。二人はとても仲が悪い。私は遠く離れている故に、これまで深い付き合いはなかったので何事もおこらなかったのである。
さて、そこに私という、これまた強烈と言われる個性が入るのである。楽しみといやあ、楽しみだ。
シアトルはアジア系住民が多く、これまでマイノリティ感を味わったことはないが、中西部の人口の大多数は白人である。私はそこで、本当の意味での異文化体験を味わうことができるかもしれない。

我が家の老猫WoodyがDCに旅立って、二日。娘がいないのは慣れているが、猫の不在には当分なれそうもない。Woodyは15年間、私たちと暮らしてきた。Woodyが3歳のときに、シェルターからAdaptした。メインクーンという種類の長毛の大型猫である。我が家に来た直後は、指一本触れさせない狂暴な猫で、私たちは随分とてこずった。人間を全く信用していない猫だった。それが、月日が経つにしたがって、甘えるのを覚え、寝るときは、いつも私か娘の側で寝た。娘が大学に行ってからは、もっぱら私とオットにとっては子供のような存在になった。15年という月日は長い。

18歳の老猫が、果たして西海岸のシアトルから東海岸のワシントンDCまでの長旅に耐えられるかという心配はあったが、猫にとっては娘のもとで晩年を過ごすことが一番いいのではないかと思い、送り出すことにした。
娘のアパートに到着した当初は、ベットの下に潜り込んで、中々でてこなかったそうであるが、今ではソファの上でくつろいでいるそうである。娘が何枚か写真を送ってくれた。やれやれとオットも私もホッとした。
娘によるとWoodyは、移動中、電車や車の騒音に怯えて、ガタガタと震えていたそうである。可哀想だと思ったが、これから私たちの引っ越しに付き合わせるわけにもいかない。
「来年になったら、お前を訪ねてDCに行くから、それまで元気でね」
と言い聞かせた。

昨日から職場復帰。
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義母の葬儀は滞りなく終わった。カソリック教徒の伝統に乗っ取り土葬である。葬儀の前日、Wakeと呼ばれるお通夜のようなものがあり、亡くなった義母にそれぞれがお別れの挨拶をする。実を言うと、私はこの年になるまで、死人をジット眺めた記憶がない。お棺の中の義母は綺麗に化粧が施され、患う前の義母のキリリとした姿に戻っていた。
これまで、お葬式には何回か出ているし、祖父の臨終にも立ち会っているのだが、祖父が亡くなった時は、沖縄人の特性なのか、周りにいたおば達がぎゃんぎゃんと泣きわめき、お棺の中に入れるものをあれもこれもと詰め込んでいた。亡くなったヒトとゆっくりとお別れの挨拶を交わすような雰囲気はなかった。それにお棺の中に入れる品は奇数でなければいけないようで、
「これは、私が作ってあげた着物だからこれいれて」
と一人の伯母が言うと、
「あ、偶数になったから、何かもう一つ入れて」
とどんどん数が増えていったのを、高校生の私は不思議な気持ちで見ていた。とにかく親族中が集まって賑やかなことであったが、それに比べると義母の葬儀はあちこちで談笑もあり、故人の思い出話を静かにするというようであった。

義母には4人の息子と2人の娘があったが、息子たち全員がお棺を担ぎ、娘たちが残された父親を両脇から支え、理想的な絵になる葬式になったなあ、と私は感じ入った。義母は若いころには看護師をして、中年以降は家業の商売を手伝って6人もの子供を育てた。派手な事を嫌い、信仰心の篤い女性だったので、周りの人から信頼されていた。

葬儀万端が終わり、ホッとしたというのが本音である。10年以上もアルツハイマー病を患っていたし、ここ数年は、いつ旅立っても不思議ではない状態だったので、見送る側の心の準備はできていたのである。

大家族が集まると、和気藹々とした雰囲気になるだろうと思うが、決してそうではない。オットの家族は仲が悪いわけではなく、お互いに罵り合う事はないが、それぞれがそれぞれの問題を抱えているのは、皆知っている。例えば、我が家は商売をして、いつもお金に困っていたし、次男夫婦の息子は、警察沙汰になり、今でも何をしているのか分からない、など問題はいくらでもある。だがしかし、アメリカ人は公の場所では、「とっても元気」を装うのが常識である。アメリカの常識から外れた私は、
「どうですかこの頃は?」
と問われて、「まあ。普通」などと答えてしまい、相手をびっくりさせることもある。何事も起こらず普通でいることはいい事なのに、アメリカ人はいつも輝いて元気であることを理想とするので、私はたまに疲れる。

まあ、とにかくも葬儀が無事終わり、シアトルに戻ってきた。疲れた。

オットの母が亡くなったという知らせが入り、急遽、オットの故郷に行くことになった。丁度、休暇中であったが、飛行機やホテル、レンタカーの手配などに追われた。
現在、娘がDCからシアトルに帰ってきていて、彼女も一緒に葬儀に行くべきかどうか悩んだが、すでに色々な予定が入っているのと他の兄弟たちの子供たちも来れないというので、娘にはシアトルに残ってもらう事にした。
我が家には猫がいて、夫婦揃って旅行する場合は、いつもヒトに頼んでみてもらうのだが、今回は娘が見てくれる。家を売り、引っ越すに際し、この猫をどうするか悩んだが、娘にDCに連れて行ってもらうことにした。猫を飛行機に乗せるについては、色んな条件があり、そのことで、今日は忙しかった。我が家の猫は18歳の老猫である。老猫にとってはシアトルからDCまでの旅は大変な負担であろうが、猫を何日もかけて車で移動させるのは不可能だと判断した。

今日、獣医のもとに行き、猫の健康診断書をもらってくる。18歳という老齢にしては健康だそうである。飛行機代が200ドル、獣医に100ドル、あれよあれよという間にお金が消えてゆく。
泣きたいような気持ちでいると、娘が飛行機代は負担してくれることになった。何しろ、家の娘は我が家で一番の高給取りである。来月からは自然保護団体のNGOで新しい仕事に就くことになっている。今の給料よりも年収で50万円ほど上がる。仕事をオーファーされて娘が給与交渉をしているのを側できいていたが、実に合理的である。雇う側が
「ところで、給料ですが、ご希望がありますか?」
と聞いてくる。すると、娘は
「現在、貰っている額はーードルですが、経験を考慮して、5千ドルUPしてくれますか」
「はい、わかりました」
で終わった。娘は、こんなに簡単にOKが出るのだったら、もっと強気に出ればよかったなどと言っている。
私は、日本的感覚から
「そんな、あんた、給料交渉なんて、生活できるだけは貰えるんだから。それにやりたい仕事なんだから、いくらでもいいじゃない!」
というと、
「母さん、これは普通のことよ。誰でもやるプロセスよ」
考えれば、そうなのだけれど、アメリカ社会のシステムにやっぱり慣れていないのだろう。それに私は公務員だったので、給料の交渉なんかしたことない。それにアメリカ社会は給料に見合った仕事をしていないと判断されるとすぐに馘になる。大変な弱肉強食社会である。

引退届けを出してから、職場の人たちが、「これからどうするのか?」と聞いてくる。60を前に引退する私の気持ちを量りかねているのだ。私の職場はアメリカの他の職場と違い、辞めるヒトは少ない。大抵は年金がフルにもらえる65歳までは勤め上げる。それは仕事が面白いとか、やりがいがあるとかの理由によるものではない。一重に安定しており、福利厚生が充実しているからだ。それに職員の殆どが外国からの移民であり、その意味では恵まれた一握りの移民だと私は思う。大抵の移民はまず、ヒトの底辺の労働者としてアメリカでの生活をスタートするものだ。

大学という恵まれた環境と割合に多い有給休暇。私は20年間、その恩恵に浴したと思う。オットが古本屋を20年間できたのも、私が公務員としての生活を保障されていたことによる。

それでも、この職場に未練はない。今となっては、これからどうするのかという不安もない。
私はもう充分にこの職場で働いたと思う。父も友人のWさんも、「これまでよく頑張ったよ。」とねぎらってくれた。
頑張ったというよりも仕事を家庭の両輪の上で危ういバランスを崩さないようにしてやってきたというのが現実である。グッと歯を食いしばったのは、店をたたんだ時。かなり老け込んだと思ったのは、娘の大学進学がなかなか決まらなかった時。これからの進路を決めあぐねて悩んでいる娘をみるのは辛かった。その時は我が家はかなりの経済的困窮にも瀕していた。あのころから私の前頭部は真っ白になった。そして、それを染める気力もなかった。

ただ、私にはいつも逃げ場があったように思う。このブログを振り返って読み返してもわかるが、私の手元にはいつも本があった。そして、書くことで自分を多少は客観視できた。辛いときほど沢山の本を読んだ。心が疲れているときは、宮部みゆき、藤沢周平など、それに須賀敦子を読んだ。この作家たちはヒトの哀しみの核に触れることができる作家だと思う。芯から疲れるとぼんやりと音楽を聴いたりした。

気が付いたら、娘は大学を卒業し、DCで職を得ていた。それも自分がやりたい方向に進んでいる様子がうかがえる。経済的にも自立している。ここ数か月、私もオットも気力を蓄えて新しい地で新しい仕事に踏み出そうと思う。

オットは大変、勤勉に本の整理をしている。私はあまりなにもしていない。我が家はそれ程、家財道具のある家ではない。家具も少ない。衣類も少ない。ちょっとした焼き物の類と大事にしているトルコ絨毯キリムが2枚。娘のドレスやなんかももう学生たちに上げてしまった。

先週の金曜日、正式に退職届けを出した。退職日は11月1日であるが、有給休暇が沢山のこっているので、9月に一週間ほど、それに10月に2週間ほど休む予定である。

実は、家が売れたら、オットの実家から車で1時間ほど北にある町、ウィスコンシン州のマディスンに移る予定である。リタイアしたあともシアトルに1年ばかりはいるつもりであったが、それはやめた。どうせ引っ越すなら、善は急げ。早いとこ、マディスンでの生活をスタートさせたほうが経済的だと思ったのである。オットと二人、不動産物件をネットでみて、あれこれ話す。
最初は二人とも1ベットルームの小さいとこで、のんびり暮らそうなどと言っていたが、物件を探しているうちにちょっと違う考えができてきた。シアトルと比較すと驚くほど安い。いや、シアトルの不動産価格が異常なのだ。これまでにないバブル景気状態である。

オットは年金がフルに支給されるまでは仕事するつもりだという。
私は、20年間、勤め人だったので、何よりも自由になる時間がほしい。宮古島にも時々帰りたい。でもアメリカにいる間、仕事をしないというのは気が引ける。専業主婦というものになった経験がないので、自分の旅行や趣味にかかるお金ぐらいは稼いでいないと不安なのだ。そこで思いついたのが、下宿屋。マディスンは大学街であるから、留学生や外国からの学者向けの下宿の需要がある。一部屋か二部屋貸して収入とし、必要があれば賄い飯も作ってあげる、そうした下宿はどうだろうかと思ったのである。そうするとなると、私も外で働く必要はないが、下宿屋をやるからには一部屋ではダメで、三部屋くらいは欲しい。それになフルのバスルーム2つは必要だ。台所は共有しても、お風呂とトイレは下宿人とは別にしたほうが、気楽に暮らせるだろう。

私は退職するにあたって、いろんなことを考えたり、相談したりした。私の家にきて食事をご馳走になった学生は、「是非とも家庭料理を出す食堂を大学の近くでやってもらいたい」と言ってきたりした。私も考えたが、実際、これから店舗を借りて商売をするとなると、お金も労力も半端なくかかるだろうと思われる。それに食堂経営となると、毎日、原価計算やら仕入れやらしなければならない。自由がなくなる。悩んでいたら、ある大学院生が、
「お宅に下宿させてくれない?娘さんの部屋、空いてるでしょう」
と言ってきた。空いてはいるが、お風呂は一つしかないし、下宿人を置くのは今のとこでは無理だと思っていた。でも、マディスンでだったら可能かもしれない。何しろ家の値段はシアトルの半分以下である。

オットは、
「小さいコンドを借りて、俺が勤めに行くから、そうすれば暮らせるだろー」
というけれど、オットに頼りきることのできない私は、
「うん、でもね。二人とも年金がフルでもらえるようになるまでは、収入あったほうがいいと思うんだよね。下宿人を置くと、ちょっと大きい家を買っても住宅ローンは大丈夫だし。それに後々あなたの老後にいいんじゃない?。もし日本に行っていても家は貸すことができるし、家賃とローンの支払いの差は大きいよ」
などと会話している。
さて、どーなる事か。これからが楽しみである。

土曜日。日系人老夫婦のもとで食事作り。
メニューは、
カツカレー
豚肉とキムチと豆腐の炒め物
わかめとキュウリの酢の物
小豆のゼリー

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帰宅して、娘と電話。「Denkirk」という今、評判の映画を見てきたそうだ。監督は若手のChristopher Nolan. 確か、朝日新聞で姜尚中氏が映画について書いていた。戦争映画で、私の食指はあまり動かないが、オットが行きたいというのので、夕食を終えて、映画館に出かける。オット、シニア料金で入る。
いい映画だとは思うが、それほど賛美されるほどの映画ではないというのが、私の感想。

ただ、Nolanという監督は物語性よりも画面構成が得意な監督なのではないか。そのあたりは若手らしく、コンピューターグラフィックを駆使することに長けているのだろう。



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昨晩は近所の映画館で「Beatriz at dinner」という映画を見た。
暗い映画であるが、今の世の中、特にアメリカ社会を鏡で映しているような映画だ。

主人公は若い女性で、マッサージや霊気の治術を生業にしているとても繊細な女性だ。メキシコからの移民で、動物や自然に深い愛情を抱いている。その彼女がクライアントの大金持ちの主催するディナーにたまたま招待された。そのディナーの席で、彼女は初老の億万長者のディベロッパー、Dougと出会う。アメリカにはDougのような億万長者がわんさかいる。いるらしい。実際、直に会ったことはないが。彼らは自然を破壊するリーゾートを作り、趣味で野生動物を殺し、何の罪悪感も感じない。沢山の弁護士に守られて法を網をかいくぐり、大金を得ている。もし、このような輩とたまたま出会ってしまい、会話を交わさなくてはならないとしたら、、、、、、。

Beatrizの感性はDougという男に耐えられない。想像してみる。もし、話をしただけで吐き気を催してしまうような人物と対峙したとき、どうするか。
優しいBeatrizは相手に対する殺意を自分にむけてしまう。
帰途、車中でオットと
「いい映画だったね。」
「うん、女優さんがとてもよかった。ああいうヒトいるよね」
「うん」
と会話する。オットは本の整理に忙しい。

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今週で夏学期も終わり、大学は9月下旬まで授業がなくなる。私の仕事はもっぱら、書庫の整理ということになる。家でも本を片付け、職場でも本を片付けている。

ここ数日間、私は楽しいメイルのやり取りを、あの詩人の伊藤比呂美さんとしている。私は伊藤比呂美さんの30年来の読者であるが、そのことを知った若い伊藤比呂美さんの研究者が私と比呂美さんを繋いでくれた。メイルを出すと10分とかからないうちに彼女から返事が返ってくる。驚愕するほど速い。しかも面白い。ここ数日間、何度かメイルのやり取りをしていたが、書くことで日々の糧を得ている彼女に何だか申し訳ないような気持ちになってきたので、「私と文通しても一文にもならないので、私に返事くださるのを義務に思わないで下さいね」と書いて送信したが、相変わらず頻繁に返事をくれる。ありがたくもウレシイ。多分、彼女は書くことがとことん好きなのだろう。

伊藤比呂美という作家、詩人は私に元気と笑いを与えてくれた。彼女が20代で出した「良いおっぱい、悪いおっぱい」では胎児はウンコと書いた。まさか!と思ったが、実際、妊娠して出産してみると、実感できた。胎児が下りてくるときは、例えれば、9か月間、便秘に苦しんで、突然に下痢をもよおしたような生理的症状を感じた。私は出産前に浣腸をしてもらっていたので、ウンコと一緒に胎児が出てはこなかった。大変にホッとしたことを覚えている。

彼女がカリフォルニアの自宅と熊本の実家を頻繁に行き来しながら両親の介護をしているさまを綴っているのを読んだときは、介護というのは「親のため」というより「自分のため」というのがよく理解できた。親と接すると自分が見えてくる。

それからも彼女の書いたものを通して、私は励まされてきた。「自分らしく生きるのになんの躊躇があろうか」というメッセージを彼女から受け取ってきた。自分をとおして、結局、辛い目にあうのも後悔するのも、また自分しかいないのだ。

引っ越しの準備で忙しい。家を売るというのは大変なことだ。

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