2006年01月07日
カラー・パープル、ジャージー・ボーイズ
THE COLOR PURPLE(カラー・パープル)@ブロードウェイ・シアター/ミュージカル
スティーヴン・スピルバーグ監督の映画でおなじみのアリス・ウォーカーの小説のミュージカル化。
プログラム(プレイビル)のBASED UPONのクレジットには、ウォーカーの名前と並び、スピルバーグの映画を配給したワーナー・ブラザースと製作会社のアンブリン・エンターテインメントの名前も記されているので、「アリス・ウォーカーの小説およびスピルバーグの映画を元にしたミュージカル」という言い方のほうが正しいかもしれない。
プロデューサーの筆頭に名を列ねるのは、スピルバーグの映画版で、めっぽう気が強い嫁のソフィアを演じ、アカデミー助演女優賞にノミネートされたオプラ・ウィンフリー。聞いた話によれば、オプラは、このミュージカルのプロモーションのために、犬猿の仲のデヴィッド・レターマンのトーク・ショウに出演するほど、宣伝に入れ込んでいるらしい。その効果が出たのか、鑑賞日の客席は、オプラをオピニオン・リーダーと仰ぐタイプのアフリカ系アメリカ人の女性たちが、8割近くを占めている感じだった。
<The best and worst thing to be said about THE COLOR PURPLE is that it’s painless.>(『カラー・パープル』の最大の長所にして短所は、悲痛じゃないことだろう)
というのは、タイム・アウトNYに掲載されたこのミュージカルの寸評だが、これは言い得て妙なコメントだと思う。
ヒロインのセリーは、父の子供を産まされ、牛と交換に嫁に出され、妹と引き裂かれ、夫の愛人の世話をさせられ……と、悲惨を絵に描いたような人生を歩む女。そんな彼女のストーリーが、このミュージカルでは、かしまし娘みたいな<陽気で噂好きの3人組のおばちゃん>を狂言回しにして語られていくんである。
そーいう作劇になったのは、「ミュージカルは楽しくなきゃ」という意識を、作り手側が持っていることがひとつ。
さらに、この物語を、<男に虐げられた不幸な女の話>ではなく、<不幸な生活の中から自立の道を見出していった偉大な女性の物語>として、アピールしていこうという意図もうかがえる。
個人的には、上記のような娯楽味をかませた趣向が、とっても中途半端に感じられたが、だからといって、『キャロライン・オア・チェンジ』のように超シリアスな直球勝負のショウに仕立てたら客が入らないだろうな、とも思う。なんだかんだいっても、ブロードウェイは商業演劇ですから。
私が見たときは、セリー役のラ・シャンズが休場で代役のケニータ・R・ミラーだったが、両方見た人の話によると、ケニータ嬢のほうが、いっしょうけんめい芝居をする分、役には合っていたとのこと。
登場人物中、最も観客のウケがよかったのは、強い女の代表として登場するソフィア。演じるフェリシア・P・フィールズが、巨体をゆすらせて、ウーマンリブを主張する「Hell No!」のナンバーを歌う場面は、とくに女性観客にバカウケだった。
JERSEY BOYS(ジャージー・ボーイズ)@オーガスタ・ウィルソン・シアター/ミュージカル
『カラー・パープル』のメイン・ターゲットがアフリカ系アメリカ人の女性なら、こちらは、青春時代をフォー・シーズンスの曲と共に過ごした団塊の世代がターゲット。
私の席は、メザニンの後ろのほうだったのだが、同窓会ノリの団体で来ている客が多く、フォー・シーズンスの出身地であるニュージャージーから来たとおぼしきシニアの集団が、あちこちで盛り上がっておった。
2005年秋オープンのミュージカルの中でもっとも人気があるこのショウは、「シェリー」「ウォーク・ライク・ア・マン」などのヒット曲で知られるコーラス・グループ、フォー・シーズンスの結成から解散にいたる物語を、彼らのヒット曲にのせて描いている。
グループ名の<四季>にあわせ、グループ(&メンバー)の栄枯盛衰を、春・夏・秋・冬の4章に分けて綴っていく構成は、なかなかスマート。
音楽業界のバックステージ・ストーリーが、ミュージカルの素材としてうまくはまっているし、4人のメンバーの人間同士のハーモニーが、コーラスのハーモニーと呼応するドラマも興味深く見られる。
とはいえ、これもジュークボックス・ミュージカルであることに変わりはなく、役者たちのパフォーマンスに<ものまねショウ>の要素が持ち込まれるのは否めない。
111.25ドル分の価値ありや? と問われると、「うーん」と頭を抱えてしまう。
45ドルくらいだったら、素直に「おもしろかった」と言えるんだけどねぇ(笑)。
演出の中では、フォー・シーズンスのTV出演シーンを、TVカメラの映像を交えて描いたところがおもしろかった。
スティーヴン・スピルバーグ監督の映画でおなじみのアリス・ウォーカーの小説のミュージカル化。
プログラム(プレイビル)のBASED UPONのクレジットには、ウォーカーの名前と並び、スピルバーグの映画を配給したワーナー・ブラザースと製作会社のアンブリン・エンターテインメントの名前も記されているので、「アリス・ウォーカーの小説およびスピルバーグの映画を元にしたミュージカル」という言い方のほうが正しいかもしれない。
プロデューサーの筆頭に名を列ねるのは、スピルバーグの映画版で、めっぽう気が強い嫁のソフィアを演じ、アカデミー助演女優賞にノミネートされたオプラ・ウィンフリー。聞いた話によれば、オプラは、このミュージカルのプロモーションのために、犬猿の仲のデヴィッド・レターマンのトーク・ショウに出演するほど、宣伝に入れ込んでいるらしい。その効果が出たのか、鑑賞日の客席は、オプラをオピニオン・リーダーと仰ぐタイプのアフリカ系アメリカ人の女性たちが、8割近くを占めている感じだった。
<The best and worst thing to be said about THE COLOR PURPLE is that it’s painless.>(『カラー・パープル』の最大の長所にして短所は、悲痛じゃないことだろう)
というのは、タイム・アウトNYに掲載されたこのミュージカルの寸評だが、これは言い得て妙なコメントだと思う。
ヒロインのセリーは、父の子供を産まされ、牛と交換に嫁に出され、妹と引き裂かれ、夫の愛人の世話をさせられ……と、悲惨を絵に描いたような人生を歩む女。そんな彼女のストーリーが、このミュージカルでは、かしまし娘みたいな<陽気で噂好きの3人組のおばちゃん>を狂言回しにして語られていくんである。
そーいう作劇になったのは、「ミュージカルは楽しくなきゃ」という意識を、作り手側が持っていることがひとつ。
さらに、この物語を、<男に虐げられた不幸な女の話>ではなく、<不幸な生活の中から自立の道を見出していった偉大な女性の物語>として、アピールしていこうという意図もうかがえる。
個人的には、上記のような娯楽味をかませた趣向が、とっても中途半端に感じられたが、だからといって、『キャロライン・オア・チェンジ』のように超シリアスな直球勝負のショウに仕立てたら客が入らないだろうな、とも思う。なんだかんだいっても、ブロードウェイは商業演劇ですから。
私が見たときは、セリー役のラ・シャンズが休場で代役のケニータ・R・ミラーだったが、両方見た人の話によると、ケニータ嬢のほうが、いっしょうけんめい芝居をする分、役には合っていたとのこと。
登場人物中、最も観客のウケがよかったのは、強い女の代表として登場するソフィア。演じるフェリシア・P・フィールズが、巨体をゆすらせて、ウーマンリブを主張する「Hell No!」のナンバーを歌う場面は、とくに女性観客にバカウケだった。
JERSEY BOYS(ジャージー・ボーイズ)@オーガスタ・ウィルソン・シアター/ミュージカル
『カラー・パープル』のメイン・ターゲットがアフリカ系アメリカ人の女性なら、こちらは、青春時代をフォー・シーズンスの曲と共に過ごした団塊の世代がターゲット。
私の席は、メザニンの後ろのほうだったのだが、同窓会ノリの団体で来ている客が多く、フォー・シーズンスの出身地であるニュージャージーから来たとおぼしきシニアの集団が、あちこちで盛り上がっておった。
2005年秋オープンのミュージカルの中でもっとも人気があるこのショウは、「シェリー」「ウォーク・ライク・ア・マン」などのヒット曲で知られるコーラス・グループ、フォー・シーズンスの結成から解散にいたる物語を、彼らのヒット曲にのせて描いている。
グループ名の<四季>にあわせ、グループ(&メンバー)の栄枯盛衰を、春・夏・秋・冬の4章に分けて綴っていく構成は、なかなかスマート。
音楽業界のバックステージ・ストーリーが、ミュージカルの素材としてうまくはまっているし、4人のメンバーの人間同士のハーモニーが、コーラスのハーモニーと呼応するドラマも興味深く見られる。
とはいえ、これもジュークボックス・ミュージカルであることに変わりはなく、役者たちのパフォーマンスに<ものまねショウ>の要素が持ち込まれるのは否めない。
111.25ドル分の価値ありや? と問われると、「うーん」と頭を抱えてしまう。
45ドルくらいだったら、素直に「おもしろかった」と言えるんだけどねぇ(笑)。
演出の中では、フォー・シーズンスのTV出演シーンを、TVカメラの映像を交えて描いたところがおもしろかった。
2006年01月06日
屋根の上のバイオリン弾き(ハーヴェイ・ファイアスタイン版)
1月5日より、引き続きブロードウェイ鑑賞の記録です。
FIDDLER ON THE ROOF(屋根の上のバイオリン弾き)
@ミンスコフ・シアター
1月8日でクローズすることから駆け込み鑑賞におよんだ作品。と言っても、2004年2月にオープンしたこのデヴィッド・ルヴォー演出版は、アルフレッド・モリナーのデヴィエで一度見ていたのだが、主役がハーヴェイ・ファイアスタインに代わり、「まったくベツモノになった」と言われていたので、どんなもんかと興味を引かれていた次第。
以前に読んだプレイビルの記事によると、ハーヴェイは、この再演版の主役がモリナーに決まる前からテヴィエをやりたいと名乗りをあげていたらしい。で、実際の舞台も、その意気込みがありありとわかるものだった。
いちばん強く感じたのは、ユダヤ人としての自信。ルヴォーの演出は、舞台となるユダヤ人の寒村が『ロード・オブ・ザ・リング』のロスロリアンに見えてしまうくらい、ファンタジー性を強調したものになっていて(これが批評では叩かれた)、モリナー=テヴィエのときは、モリナーが熱演すればするほど、テヴィエの存在がファンタジーの枠組みから逸脱し、チグハグな印象を与えていた。
これに対し、ハーヴェイのテヴィエは、ユーモアや明るさ、サバイバル力を前面に打ち出した役作り。ある意味、都会的なルヴォーの演出となじみがいい。とくに、ソロの歌のパートは、ほとんど<ハーヴェイ・ファイアスタイン・ショウ>と言ってもいいくらいの、ボードヴィル調の自在な節回し。そういう演技の背景には、「自分はユダヤ人なんだから、この役をどう演じても文句あるまい」という自負がみなぎっているのが感じられる。
たとえば、ロシア人に迫害されたテヴィエたちが、村を離れるラスト・シーン。ユダヤ人の宿命を物語る哀愁モード満点のこの場面を、ルヴォーは、バイオリン弾きのバイオリンが未来を担う少年に手渡されるという<希望のショット>で締めくくったのだが、そんなことはおかまいなしに(笑)、ハーヴェイはハーヴェイで、「オレたち、新天地アメリカで頑張るぞ!」という思いっきり前向きなガッツむきだしの芝居で対応してみせる。印象としては、テヴィエが村を「去る」のではなく、アメリカに向かって「前進する」という感じだ。
つまり、そういうテヴィエのような人物が、自分たちアメリカン・ジューイッシュのご先祖であるという誇りが、ハーヴェイの演技の根底にある。そこが、感動のポイントにもなっているこのハーヴェイ版バイオリン弾きは、確かに、モリナー版とはまったくベツモノになっていると感じた。
FIDDLER ON THE ROOF(屋根の上のバイオリン弾き)
@ミンスコフ・シアター
1月8日でクローズすることから駆け込み鑑賞におよんだ作品。と言っても、2004年2月にオープンしたこのデヴィッド・ルヴォー演出版は、アルフレッド・モリナーのデヴィエで一度見ていたのだが、主役がハーヴェイ・ファイアスタインに代わり、「まったくベツモノになった」と言われていたので、どんなもんかと興味を引かれていた次第。
以前に読んだプレイビルの記事によると、ハーヴェイは、この再演版の主役がモリナーに決まる前からテヴィエをやりたいと名乗りをあげていたらしい。で、実際の舞台も、その意気込みがありありとわかるものだった。
いちばん強く感じたのは、ユダヤ人としての自信。ルヴォーの演出は、舞台となるユダヤ人の寒村が『ロード・オブ・ザ・リング』のロスロリアンに見えてしまうくらい、ファンタジー性を強調したものになっていて(これが批評では叩かれた)、モリナー=テヴィエのときは、モリナーが熱演すればするほど、テヴィエの存在がファンタジーの枠組みから逸脱し、チグハグな印象を与えていた。
これに対し、ハーヴェイのテヴィエは、ユーモアや明るさ、サバイバル力を前面に打ち出した役作り。ある意味、都会的なルヴォーの演出となじみがいい。とくに、ソロの歌のパートは、ほとんど<ハーヴェイ・ファイアスタイン・ショウ>と言ってもいいくらいの、ボードヴィル調の自在な節回し。そういう演技の背景には、「自分はユダヤ人なんだから、この役をどう演じても文句あるまい」という自負がみなぎっているのが感じられる。
たとえば、ロシア人に迫害されたテヴィエたちが、村を離れるラスト・シーン。ユダヤ人の宿命を物語る哀愁モード満点のこの場面を、ルヴォーは、バイオリン弾きのバイオリンが未来を担う少年に手渡されるという<希望のショット>で締めくくったのだが、そんなことはおかまいなしに(笑)、ハーヴェイはハーヴェイで、「オレたち、新天地アメリカで頑張るぞ!」という思いっきり前向きなガッツむきだしの芝居で対応してみせる。印象としては、テヴィエが村を「去る」のではなく、アメリカに向かって「前進する」という感じだ。
つまり、そういうテヴィエのような人物が、自分たちアメリカン・ジューイッシュのご先祖であるという誇りが、ハーヴェイの演技の根底にある。そこが、感動のポイントにもなっているこのハーヴェイ版バイオリン弾きは、確かに、モリナー版とはまったくベツモノになっていると感じた。
2006年01月05日
2006年NY観劇第一弾(『おかしな2人』など)
あけましておめでとうございます。
年末年始、馬車馬のように働いて(そのせいか、メインで使ってるコンピュータがぶっ壊れてしまいました、トホホ)、5日から超短期でNYに行ってきました。
なんでも、2005年のクリスマス・シーズンのブロードウェイは、史上最高の興行収入を記録したそうです。
まあ、各ショウのチケットの値段が史上最高に値上がりしていることに加え、チケットの値が張るミュージカルがショウの大半を占めているので、当然といえば当然なんですが、12/26〜1/1の統計で、全28のショウのうち20が90%を超える集客率(うち9本が100%超えのソールド・アウト)というのは、異常とも言える事態。
でもって、シロウトのわたくしが言うのも何ですが、そういう集客に見合うだけのハイ・レベルのショウが集まっているかというと、そうでもない(笑)。
多分、ニューヨークに観光客が戻って来たってことなんだろうけど、なんだかね、とってもバブリーな感じがしてしまいました。
以下、簡単な観劇の記録です。
THE ODD COUPLE(おかしな2人)
@ブルックス・アトキンソン・シアター/プレイ
約4ヵ月ぶりのNYは、この芝居を観るのが目的。主演は、ネイサン・レイン&マシュー・ブロデリックという『プロデューサーズ』のコンビ。「あの2人ならきっとオモロイに違いない」という期待が期待を呼ぶ格好で、チケットは、アメックス会員向けの先行発売初日(2005年6月6日)に700万ドルを売り上げるという驚異的な記録を達成。かく言う私も、人様のアメックス・カードを拝借して戦闘モードでオーケストラの席をゲットし、700万ドルの売上に貢献したクチであります。
『おかしな2人』は、1965年に書かれたニール・サイモンのプレイ(ジャック・レモン&ウォルター・マッソーのコンビによる映画化でもおなじみ)。ジョー・マンテロの演出による今回の再演は、<オリジナルの戯曲に忠実に>をコンセプトにしたもの。つまり、マシュー&ネイサンが、主人公のフェリックスとオスカーをいかに演じるかという点に、見どころを絞った舞台と言いきれる作品だ。
で、その観点からすると、私には、この舞台はとっても不満に感じられるものだった。
原因は、マシューの役作り。フェリックスという役は、ウディ・アレン映画の主人公に通じる神経症的なニューヨーカーなのだが、その演技が、『プロデューサーズ』のレオ・ブルームと変わらないのだ。たとえば2幕目で、フェリックスがピジョン姉妹の相手をさせられる場面。マシューのモジモジと落ち着かない演技は、『プロデューサーズ』でレオがウーラと2人きりになる場面にそっくり。わたくしは、「ポケットからブルーの毛布の切れ端が出てくるんじゃないか?」と、ハラハラしてしまったほど(笑)。
もちろん、そういうマシューはチャーミング。でも、彼が演じているのは、あくまでも<レオっぽいマシュー>であって、「10数年間連れ添った妻に捨てられ、自殺しかけた男」であるフェリックスじゃない。
私は役者の個性を見たいわけじゃなく、個性を伴った芸が見たいのよォォォ……と、上演中ずっと、舞台を眺めながらモンモンとしてしまった。
これでチケットが100ドルってのは、「ボッてる」と言われても仕方ないかも。
マシュー&ネイサンのドル箱コンビは、今回で解消してほしいもんであります。
年末年始、馬車馬のように働いて(そのせいか、メインで使ってるコンピュータがぶっ壊れてしまいました、トホホ)、5日から超短期でNYに行ってきました。
なんでも、2005年のクリスマス・シーズンのブロードウェイは、史上最高の興行収入を記録したそうです。
まあ、各ショウのチケットの値段が史上最高に値上がりしていることに加え、チケットの値が張るミュージカルがショウの大半を占めているので、当然といえば当然なんですが、12/26〜1/1の統計で、全28のショウのうち20が90%を超える集客率(うち9本が100%超えのソールド・アウト)というのは、異常とも言える事態。
でもって、シロウトのわたくしが言うのも何ですが、そういう集客に見合うだけのハイ・レベルのショウが集まっているかというと、そうでもない(笑)。
多分、ニューヨークに観光客が戻って来たってことなんだろうけど、なんだかね、とってもバブリーな感じがしてしまいました。
以下、簡単な観劇の記録です。
THE ODD COUPLE(おかしな2人)
@ブルックス・アトキンソン・シアター/プレイ
約4ヵ月ぶりのNYは、この芝居を観るのが目的。主演は、ネイサン・レイン&マシュー・ブロデリックという『プロデューサーズ』のコンビ。「あの2人ならきっとオモロイに違いない」という期待が期待を呼ぶ格好で、チケットは、アメックス会員向けの先行発売初日(2005年6月6日)に700万ドルを売り上げるという驚異的な記録を達成。かく言う私も、人様のアメックス・カードを拝借して戦闘モードでオーケストラの席をゲットし、700万ドルの売上に貢献したクチであります。
『おかしな2人』は、1965年に書かれたニール・サイモンのプレイ(ジャック・レモン&ウォルター・マッソーのコンビによる映画化でもおなじみ)。ジョー・マンテロの演出による今回の再演は、<オリジナルの戯曲に忠実に>をコンセプトにしたもの。つまり、マシュー&ネイサンが、主人公のフェリックスとオスカーをいかに演じるかという点に、見どころを絞った舞台と言いきれる作品だ。
で、その観点からすると、私には、この舞台はとっても不満に感じられるものだった。
原因は、マシューの役作り。フェリックスという役は、ウディ・アレン映画の主人公に通じる神経症的なニューヨーカーなのだが、その演技が、『プロデューサーズ』のレオ・ブルームと変わらないのだ。たとえば2幕目で、フェリックスがピジョン姉妹の相手をさせられる場面。マシューのモジモジと落ち着かない演技は、『プロデューサーズ』でレオがウーラと2人きりになる場面にそっくり。わたくしは、「ポケットからブルーの毛布の切れ端が出てくるんじゃないか?」と、ハラハラしてしまったほど(笑)。
もちろん、そういうマシューはチャーミング。でも、彼が演じているのは、あくまでも<レオっぽいマシュー>であって、「10数年間連れ添った妻に捨てられ、自殺しかけた男」であるフェリックスじゃない。
私は役者の個性を見たいわけじゃなく、個性を伴った芸が見たいのよォォォ……と、上演中ずっと、舞台を眺めながらモンモンとしてしまった。
これでチケットが100ドルってのは、「ボッてる」と言われても仕方ないかも。
マシュー&ネイサンのドル箱コンビは、今回で解消してほしいもんであります。
2005年12月04日
2005年のベスト10映画
毎年ロードショー誌で年間のベスト10を発表していますが、今年は締め切りが早かったので、はやばやと選んでしまいました。
1 ディア・ウェンディ
2 そして、ひと粒のひかり
3 ある子供
4 チャレンジ・キッズ
5 世界
6 輝ける青春
7 大統領の理髪師
8 クレールの刺繍
9 大いなる休暇
10 モンドヴィーノ
(1)(2)(3):いずれもモラルから外れた人間を主人公にした作品。このテの映画は、主人公を裁く視点を持ち込むと、ぜったい好きになれないと思う。自分の価値観の枠を取っ払い、ニュートラルなポジションに身を置いて映画を丸ごと受け入れてから、感じるものを拾い上げていかないとダメ。という映画の見方ができるようになった自分に気づき、年を取るのも悪くないと思えた。
(4)(10):どちらもドキュメンタリー。(4)はアメリカ人のアイデンティティ、(10)はワインのアイデンティティを取り扱っているところに、共通点アリ。
(5)(6)(7):中国、イタリア、韓国という違いはあるけれど、どの映画も、時代の切り取り方が面白かった。
(8)(9):普通の人の普通の生活を、感じよく描いた作品。
以上、ご覧になってお気づきのことと思いますが、純粋なアメリカ映画は『チャレンジ・キッズ』のみ。ハリウッド作品は1本も入らなかったという結果になり、これには自分でも驚いています。ホントはアメリカ映画が大好きなのに!
1 ディア・ウェンディ
2 そして、ひと粒のひかり
3 ある子供
4 チャレンジ・キッズ
5 世界
6 輝ける青春
7 大統領の理髪師
8 クレールの刺繍
9 大いなる休暇
10 モンドヴィーノ
(1)(2)(3):いずれもモラルから外れた人間を主人公にした作品。このテの映画は、主人公を裁く視点を持ち込むと、ぜったい好きになれないと思う。自分の価値観の枠を取っ払い、ニュートラルなポジションに身を置いて映画を丸ごと受け入れてから、感じるものを拾い上げていかないとダメ。という映画の見方ができるようになった自分に気づき、年を取るのも悪くないと思えた。
(4)(10):どちらもドキュメンタリー。(4)はアメリカ人のアイデンティティ、(10)はワインのアイデンティティを取り扱っているところに、共通点アリ。
(5)(6)(7):中国、イタリア、韓国という違いはあるけれど、どの映画も、時代の切り取り方が面白かった。
(8)(9):普通の人の普通の生活を、感じよく描いた作品。
以上、ご覧になってお気づきのことと思いますが、純粋なアメリカ映画は『チャレンジ・キッズ』のみ。ハリウッド作品は1本も入らなかったという結果になり、これには自分でも驚いています。ホントはアメリカ映画が大好きなのに!
2005年12月03日
近況報告&正月映画
約1カ月のごぶさた。本当にすみません。
実は、生まれて初めてジンマシンというものを発症し、病院通いで11月を棒に振ってしまいました。
一時は顔がお岩のようにぶんむくれ、外出もできない状態でしたが、現在アレルギー症状は回復。が、肝機能障害があるとかで、まだ病院からは解放されてません。酒も飲まないのに、なんで?
そんなこんなで、気が付けば正月映画の公開が始まっちゃったのね。ったって、まだ『キング・コング』の本編は見られてない状態なんですけど、とりあえず話題作の寸評をあげておきます。
ハリー・ポッターと炎のゴブレット
「勝ち抜きゲームのシナリオ」と化した原作のつまらなさを、スピード感のあるアクションと、初恋がらみの青春モードで上手にカバーしてある。ダニエル・ラドクリフの演技力がアップしたことにも驚かされた。が、1&2作目のターゲットだった子供たちにとっては、2時間半の上映時間はキツいし、小さなお子は、残酷な描写(ヴォルデモート卿が登場するシーンなど)にうなされるかも。かといって、いい年こいたオトナがルンルンして見に行く類の映画でもないし……と思っていたら、日本では歴代5位のオープニング成績樹立。いい年こいたオトナが、こういう映画を観たがる時代になったってことなのね。
Mr.&Mrs.スミス
ブラピ&アンジー共演の超話題作だけど、ふたりの「エスカレートする暗殺合戦」は、映画というよりゲームという感じ。同じように感じた人は、『女と男の名誉』を見てね。
SAYURI
京都に似せた空間の中で、不思議な着物の着方をした中国人が、英語で会話をかわすSF映画。トム・クルーズ演じる侍に興味を示さなかったアメリカ人が、チャン・ツィイーの演じる芸者に興味を示すんでしょうか? 何を思い、何を狙って作られた映画か、とっても不可解。
実は、生まれて初めてジンマシンというものを発症し、病院通いで11月を棒に振ってしまいました。
一時は顔がお岩のようにぶんむくれ、外出もできない状態でしたが、現在アレルギー症状は回復。が、肝機能障害があるとかで、まだ病院からは解放されてません。酒も飲まないのに、なんで?
そんなこんなで、気が付けば正月映画の公開が始まっちゃったのね。ったって、まだ『キング・コング』の本編は見られてない状態なんですけど、とりあえず話題作の寸評をあげておきます。
ハリー・ポッターと炎のゴブレット
「勝ち抜きゲームのシナリオ」と化した原作のつまらなさを、スピード感のあるアクションと、初恋がらみの青春モードで上手にカバーしてある。ダニエル・ラドクリフの演技力がアップしたことにも驚かされた。が、1&2作目のターゲットだった子供たちにとっては、2時間半の上映時間はキツいし、小さなお子は、残酷な描写(ヴォルデモート卿が登場するシーンなど)にうなされるかも。かといって、いい年こいたオトナがルンルンして見に行く類の映画でもないし……と思っていたら、日本では歴代5位のオープニング成績樹立。いい年こいたオトナが、こういう映画を観たがる時代になったってことなのね。
Mr.&Mrs.スミス
ブラピ&アンジー共演の超話題作だけど、ふたりの「エスカレートする暗殺合戦」は、映画というよりゲームという感じ。同じように感じた人は、『女と男の名誉』を見てね。
SAYURI
京都に似せた空間の中で、不思議な着物の着方をした中国人が、英語で会話をかわすSF映画。トム・クルーズ演じる侍に興味を示さなかったアメリカ人が、チャン・ツィイーの演じる芸者に興味を示すんでしょうか? 何を思い、何を狙って作られた映画か、とっても不可解。
2005年11月05日
エリザベスタウン
『あの頃ペニー・レインと』のキャメロン・クロウ監督、『キングダム・オブ・ヘブン』のオーランド・ブルーム主演による青春ドラマ。
『あの頃ペニー・レインと』は、高校生にしてローリング・ストーン誌に音楽評を書いていたクロウ自身の体験に基づく映画だったが、
今回の『エリザベスタウン』も、クロウの父の死の逸話(ケンタッキーの親戚宅を訪問中に亡くなった)が物語のベースになっているそうだ。
主人公のドリュー(オーランド・ブルーム)は、大手の製靴会社に勤めるシューズ・デザイナー。だが、新作の失敗で会社に莫大な損害を与えてしまい、クビを宣告される。失意のドリューが自殺をはかろうとしたそのとき、ケンタッキーの親戚宅を訪問していた父が亡くなったという知らせが入った。結局、自殺は一時延期にして、遺体を引き取るためケンタッキーのエリザベスタウンへ向かうドリュー。現地の習慣や親戚たちとの意見の相違にとまどう日々の中で、ドリューは、行きの飛行機で知り合った客室乗務員のクレア(キルスティン・ダンスト)と、ひかれあっていく。
クロウの監督作の中では成功作とは言い難いこの映画は、次の3つの要素から成り立っている。
(1)挫折を体験し、自殺したくなるほど追いつめられた青年が、再生への道のりを模索する物語。
(2)父親とも、自分自身のルーツ(故郷)とも強い絆を持てなかった男が、父を発見し、アメリカを発見する物語。
(3)運命的な出会いを果たした男女のラブストーリー。
おそらく、これが(1)+(2)のみで成立する映画であれば、小さくともまとまった作品になっていただろう。しかし、(3)をからめ、むしろこれを前面に押し出したことから、プロットとキャラクターに激しい混乱が生じてしまった。つまり、「自殺をはかるほど落ち込みのどん底にある人間が、恋の予感にワクワク&ドキドキする」という状態を、違和感なく描くのは、いくらキャメロン・クロウでも無理があるってことだ。
その無理難題を力ワザでクリアするべく、クロウは、クレアのキャラクターに、「自殺志願者の主人公に対して人生の指針を示す天使」のような含みを持たせることで、解決をはかろうとした(天使のアイデアは、フランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』あたりがお手本だろう)。
だが、クレアはあくまでも天使じゃなく、ドリューとベッドを共にする生身の人間であるため、「人生の指針を示す行為」が、どうしてもおせっかいに見えてしまう。
実際、彼女がドリューに、ケンタッキーからシアトルまでのドライブの道順と、その道筋で聞くCDをパッケージした詳細な地図を渡し、ドリューがその地図に従って旅をすすめていくところは、クレアが完全にドリューをマニピュレートしているように感じられる。
いじみくも、上記の(1)(2)をテーマのひとつに掲げた映画であれば、父を発見し、アメリカを発見し、自身の再生への道のりを発見するための地図を描くのは、ドリュー自身であるべきなのだが、それをクレアまかせにしたことから、結果的にドリューは、何の成長も遂げないし、何も学ばない(主人公が成長しない青春映画orロードムービーって、あり?)。
というところが、かなり「どーなのそのへん?」と思えるこの映画のなかで、キャメロン・クロウらしさがうかがえるのは、ドリューとクレアの長電話の場面。
数時間にわたって電話で話し続けたふたりが、顔をあわせたとたん、何も話すことがないことに気づく……という描写は、とってもラブリー。
オーランド・ブルームのファンならば、この場面のオーリーを見るだけで満足できてしまうかも。
実は、この映画には、劇場公開バージョンの他に、20分くらい長い映画祭出品バージョンというのが存在する。
そっちは、ドリューの仕事上の挫折のエピソードに、あっと驚くオチがつけられており、ワタクシは思わずドン引きしてしまったのだが、それがカットされた分、劇場公開バージョンの印象は良くなっている。
けどなぁ、キャメロン・クロウって、もうちょっとうまい脚本の書き手だと思っていたのだけど。トム・クルーズ(この映画もプロデュースしてる)にマニピュレートされて、もう終わっちゃったのかもしれないなぁ。
2005年11月12日公開予定。
『あの頃ペニー・レインと』は、高校生にしてローリング・ストーン誌に音楽評を書いていたクロウ自身の体験に基づく映画だったが、
今回の『エリザベスタウン』も、クロウの父の死の逸話(ケンタッキーの親戚宅を訪問中に亡くなった)が物語のベースになっているそうだ。
主人公のドリュー(オーランド・ブルーム)は、大手の製靴会社に勤めるシューズ・デザイナー。だが、新作の失敗で会社に莫大な損害を与えてしまい、クビを宣告される。失意のドリューが自殺をはかろうとしたそのとき、ケンタッキーの親戚宅を訪問していた父が亡くなったという知らせが入った。結局、自殺は一時延期にして、遺体を引き取るためケンタッキーのエリザベスタウンへ向かうドリュー。現地の習慣や親戚たちとの意見の相違にとまどう日々の中で、ドリューは、行きの飛行機で知り合った客室乗務員のクレア(キルスティン・ダンスト)と、ひかれあっていく。
クロウの監督作の中では成功作とは言い難いこの映画は、次の3つの要素から成り立っている。
(1)挫折を体験し、自殺したくなるほど追いつめられた青年が、再生への道のりを模索する物語。
(2)父親とも、自分自身のルーツ(故郷)とも強い絆を持てなかった男が、父を発見し、アメリカを発見する物語。
(3)運命的な出会いを果たした男女のラブストーリー。
おそらく、これが(1)+(2)のみで成立する映画であれば、小さくともまとまった作品になっていただろう。しかし、(3)をからめ、むしろこれを前面に押し出したことから、プロットとキャラクターに激しい混乱が生じてしまった。つまり、「自殺をはかるほど落ち込みのどん底にある人間が、恋の予感にワクワク&ドキドキする」という状態を、違和感なく描くのは、いくらキャメロン・クロウでも無理があるってことだ。
その無理難題を力ワザでクリアするべく、クロウは、クレアのキャラクターに、「自殺志願者の主人公に対して人生の指針を示す天使」のような含みを持たせることで、解決をはかろうとした(天使のアイデアは、フランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』あたりがお手本だろう)。
だが、クレアはあくまでも天使じゃなく、ドリューとベッドを共にする生身の人間であるため、「人生の指針を示す行為」が、どうしてもおせっかいに見えてしまう。
実際、彼女がドリューに、ケンタッキーからシアトルまでのドライブの道順と、その道筋で聞くCDをパッケージした詳細な地図を渡し、ドリューがその地図に従って旅をすすめていくところは、クレアが完全にドリューをマニピュレートしているように感じられる。
いじみくも、上記の(1)(2)をテーマのひとつに掲げた映画であれば、父を発見し、アメリカを発見し、自身の再生への道のりを発見するための地図を描くのは、ドリュー自身であるべきなのだが、それをクレアまかせにしたことから、結果的にドリューは、何の成長も遂げないし、何も学ばない(主人公が成長しない青春映画orロードムービーって、あり?)。
というところが、かなり「どーなのそのへん?」と思えるこの映画のなかで、キャメロン・クロウらしさがうかがえるのは、ドリューとクレアの長電話の場面。
数時間にわたって電話で話し続けたふたりが、顔をあわせたとたん、何も話すことがないことに気づく……という描写は、とってもラブリー。
オーランド・ブルームのファンならば、この場面のオーリーを見るだけで満足できてしまうかも。
実は、この映画には、劇場公開バージョンの他に、20分くらい長い映画祭出品バージョンというのが存在する。
そっちは、ドリューの仕事上の挫折のエピソードに、あっと驚くオチがつけられており、ワタクシは思わずドン引きしてしまったのだが、それがカットされた分、劇場公開バージョンの印象は良くなっている。
けどなぁ、キャメロン・クロウって、もうちょっとうまい脚本の書き手だと思っていたのだけど。トム・クルーズ(この映画もプロデュースしてる)にマニピュレートされて、もう終わっちゃったのかもしれないなぁ。
2005年11月12日公開予定。
2005年10月17日
モンドヴィーノ
ワタクシは酒が1滴も飲めない下戸であるため、当然のごとく、ワインの味はわからないし、知識も興味もない。が、このワインについてのドキュメンタリーは、すこぶる面白く見られた。理由は、ここで扱われているお題が、単なるワイン論争を超えたグローバリズムとローカリズムの問題だからだ。
植樹から醸造までレシピどおりの作り方をすれば、世界中どこの土地でも、同じ水準の美味しいワインを作り出すことができる。このコンセプトを実践し、世界12カ国を飛び回っている超売れっ子の醸造コンサルタント、ミッシェル・ロラン。映画では、このロランを筆頭に、ロランの顧客の一員であるナスダック上場企業のモンダヴィや、「ワイン批評の世界に民主主義を持ち込んだ」と豪語する評論家のロバート・パーカーらの取材から、<グローバル・スタンダードなワイン>が作られていく仕組みを解明。
そのいっぽうで、「産地特有の味を大切にしたワインこそが美味しいワインである」とする少数派のワイン関係者の意見も、拾い上げていく。
監督は、ソムリエの資格も持つアメリカ人のジョナサン・ノシターで、彼自身は、後者の少数派の味方。
だから、ロランが指導し、モンダヴィが作り、パーカーが誉めるという癒着のトライアングル構造に切り込んだ部分は、マイケル・ムーアっぽい暴露と批判(けっきょく、みんなつるんでるんだぜー、みたいな>タイゾー的言い回し)の主観がビシバシ盛り込まれている。
つまり、価値観の統一をはかることが民主主義だと勘違いしているパーカーと、そんな彼とロランのパワーに便乗して、パーカーが高得点をつけるワイン作りを志す生産者たちのあざとさね。それを、「滑稽なもの」として描き出すノシターは、モンダヴィ&ロラン&パーカーらのグローバリズム連合軍の姿に、オレさまを世界標準としなければ気が済まない資本主義帝国=アメリカの姿をも照らしてみせる。
そこんところが、この映画のいちばんの面白さのツボだが、ワタクシは、ワインは「作るものか、作られるものか」というポイントにも興味をひかれた。
もちろん、「ワインは(人間の手で)作る派」は、ロランたちのグロバーリムズ連合。「ワインは(自然によって)作られる派」は、産地主義を掲げた少数派たちの哲学だ。
なぜ、そこに興味をひかれたかというと、ワインというのは、ディオニソスの昔(?)から、宗教的な意味合いを持つ飲み物で、その成り立ちの上からも、自然との関わり合いがとくに深いと感じるからだ。
という観点からも、思わず「作られる派」に味方したい気になるこの映画。
人間の奢りの問題から、民主主義とはなんぞや?まで、とにかくいろんなことを考えさせてくれます。
10月29日より渋谷アミューズCQN、シネカノン有楽町にて公開予定
植樹から醸造までレシピどおりの作り方をすれば、世界中どこの土地でも、同じ水準の美味しいワインを作り出すことができる。このコンセプトを実践し、世界12カ国を飛び回っている超売れっ子の醸造コンサルタント、ミッシェル・ロラン。映画では、このロランを筆頭に、ロランの顧客の一員であるナスダック上場企業のモンダヴィや、「ワイン批評の世界に民主主義を持ち込んだ」と豪語する評論家のロバート・パーカーらの取材から、<グローバル・スタンダードなワイン>が作られていく仕組みを解明。
そのいっぽうで、「産地特有の味を大切にしたワインこそが美味しいワインである」とする少数派のワイン関係者の意見も、拾い上げていく。
監督は、ソムリエの資格も持つアメリカ人のジョナサン・ノシターで、彼自身は、後者の少数派の味方。
だから、ロランが指導し、モンダヴィが作り、パーカーが誉めるという癒着のトライアングル構造に切り込んだ部分は、マイケル・ムーアっぽい暴露と批判(けっきょく、みんなつるんでるんだぜー、みたいな>タイゾー的言い回し)の主観がビシバシ盛り込まれている。
つまり、価値観の統一をはかることが民主主義だと勘違いしているパーカーと、そんな彼とロランのパワーに便乗して、パーカーが高得点をつけるワイン作りを志す生産者たちのあざとさね。それを、「滑稽なもの」として描き出すノシターは、モンダヴィ&ロラン&パーカーらのグローバリズム連合軍の姿に、オレさまを世界標準としなければ気が済まない資本主義帝国=アメリカの姿をも照らしてみせる。
そこんところが、この映画のいちばんの面白さのツボだが、ワタクシは、ワインは「作るものか、作られるものか」というポイントにも興味をひかれた。
もちろん、「ワインは(人間の手で)作る派」は、ロランたちのグロバーリムズ連合。「ワインは(自然によって)作られる派」は、産地主義を掲げた少数派たちの哲学だ。
なぜ、そこに興味をひかれたかというと、ワインというのは、ディオニソスの昔(?)から、宗教的な意味合いを持つ飲み物で、その成り立ちの上からも、自然との関わり合いがとくに深いと感じるからだ。
という観点からも、思わず「作られる派」に味方したい気になるこの映画。
人間の奢りの問題から、民主主義とはなんぞや?まで、とにかくいろんなことを考えさせてくれます。
10月29日より渋谷アミューズCQN、シネカノン有楽町にて公開予定
2005年10月16日
ティム・バートンのコープスブライド
『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(93)、『ジャイアント・ピーチ』(96)の製作を手がけたティム・バートンが、共同監督に名を列ねたストップモーション・アニメ。
『チャーリーとチョコレート工場』から引き続き、ジョニー・デップとヘレナ・ボナム=カーターが、主人公の青年ビクターと、墓場から蘇る死体の花嫁エミリーの声をつとめるほか、同じく『チャーリー〜』のクリストファー・リー、『ビッグフィッシュ』のアルバート・フィニー、『クレイドル・ウィル・ロック』のエミリー・ワトソン、『リトル・ヴォイス』のジェーン・ホロックス、『殺したいほどアイ・ラブ・ユー』のトレイシー・ウルマンらが、ヴォイス・キャストとして出演。
音楽担当のダニー・エルフマンも、冥土のパブ<The Ball and Socket Pub>のバンド、ボーンジャングルスとして久々に歌声を聞かせる。
19世紀ヨーロッパの小さな村を舞台にした物語は、成金の息子ビクター(デップ)と、没落貴族の娘ビクトリア(ワトソン)の結婚をめぐって展開する。それは、親同士の決めた政略結婚だったが、ふたりは初対面で意気投合。しかし、結婚式のリハーサルで大失敗をしでかしたビクターが、墓場で式次第の特訓中、死体の花嫁=コープスブライド(ボナム=カーター)の指に指輪をはめてしまったから、さあたいへん。コープスブライドの手であの世にひきずりこまれたビクターは、結婚を解消するために四苦八苦するハメになる。
現実の世界を生気のないグレー、死者の世界をビビッドな原色で描き分け、「冥土は良いとこ、一度はおいで」的な味わいを醸し出したところに、バートンらしいブラックユーモア趣味が感じられるこの作品。
ただし、オフビートな路線を歩んでいるように見せながら、自己犠牲の尊さで万人を感動させる典型的なハリウッド・エンディングに持ち込んでいく点は、『チャーリーとチョコレート工場』と同様に、たいへんクラシカル(良く言えば)で紋切り型(悪く言えば)な印象を受ける。
どうも最近のバートン作品には、「なんだかんだいっても、私、しょせん根はディズニーですから」という感じが漂うね。
それはさておき、私が、いちばん「オヤッ!」と思ったのは、オープニングが完全にミュージカル仕立てになっていたことだ。
ビクターの両親とビクトリアの両親が、それぞれの思惑を歌いあげる最初のナンバーは、アンドリュー・ロイド・ウェバーをちょい意識したような曲調で、19世紀の暗い映像の雰囲気ともバッチリあっている。
で、その後も、死者の世界のパブの骸骨バンドが歌う4ビート・ジャズ(ダンスはボブ・フォッシー調かも)や、クロゴケグモとウジ虫のデュエット(ネタモトはシャーマン兄弟か?)、クロゴケグモのソロ(これは完全にギルバート・サリバン調)など、冒頭のミュージカル演出を忘れかけたタイミング(笑)で、散発的にミュージカル・ナンバーが挿入されていく。
だからといって、『ナイトメア』ほどミュージカル・アニメと言い切れるものになっていないのは、ズバリ、主人公ビクターの歌のシーンがないからだろう。
おそらくダニー・エルフマン的には、ジョニー・デップに歌のトレーニングを積んでもらって、「ビクター/ビクトリア」(イカしたタイトルでしょ?)なんてナンバーを歌ってほしかったんじゃないかと思うが(もちろんこんなナンバーは本編にはないよ、念のため)、
『チャーリーとチョコレート工場』の片手間に声の出演をしてもらってるジョニーに、そんなことを頼めるわけもなく、
結局は、<ひじょうにゆるいミュージカル仕立て>に落ち着いたという印象だ。
なんて体裁の部分も、ウンパ・ルンパの歌をちりばめた『チャーリーとチョコレート工場』によく似たこの映画。
個人的には、物語&キャラ&テーマ(今回は生・死・愛)のすべてにおいて、『ナイトメア』のほうがよく出来ていると思うが、
アメリカでの高い評判やヒットの具合から判断すると、このくらいゆるく、このくらい大衆性のあるもののほうが、時代の感覚にはマッチしているのかもしれない。
お気軽なデートムービーとしては、ひじょうに使える映画だ。
10月22日より全国松竹・東急洋画系にて公開予定
『チャーリーとチョコレート工場』から引き続き、ジョニー・デップとヘレナ・ボナム=カーターが、主人公の青年ビクターと、墓場から蘇る死体の花嫁エミリーの声をつとめるほか、同じく『チャーリー〜』のクリストファー・リー、『ビッグフィッシュ』のアルバート・フィニー、『クレイドル・ウィル・ロック』のエミリー・ワトソン、『リトル・ヴォイス』のジェーン・ホロックス、『殺したいほどアイ・ラブ・ユー』のトレイシー・ウルマンらが、ヴォイス・キャストとして出演。
音楽担当のダニー・エルフマンも、冥土のパブ<The Ball and Socket Pub>のバンド、ボーンジャングルスとして久々に歌声を聞かせる。
19世紀ヨーロッパの小さな村を舞台にした物語は、成金の息子ビクター(デップ)と、没落貴族の娘ビクトリア(ワトソン)の結婚をめぐって展開する。それは、親同士の決めた政略結婚だったが、ふたりは初対面で意気投合。しかし、結婚式のリハーサルで大失敗をしでかしたビクターが、墓場で式次第の特訓中、死体の花嫁=コープスブライド(ボナム=カーター)の指に指輪をはめてしまったから、さあたいへん。コープスブライドの手であの世にひきずりこまれたビクターは、結婚を解消するために四苦八苦するハメになる。
現実の世界を生気のないグレー、死者の世界をビビッドな原色で描き分け、「冥土は良いとこ、一度はおいで」的な味わいを醸し出したところに、バートンらしいブラックユーモア趣味が感じられるこの作品。
ただし、オフビートな路線を歩んでいるように見せながら、自己犠牲の尊さで万人を感動させる典型的なハリウッド・エンディングに持ち込んでいく点は、『チャーリーとチョコレート工場』と同様に、たいへんクラシカル(良く言えば)で紋切り型(悪く言えば)な印象を受ける。
どうも最近のバートン作品には、「なんだかんだいっても、私、しょせん根はディズニーですから」という感じが漂うね。
それはさておき、私が、いちばん「オヤッ!」と思ったのは、オープニングが完全にミュージカル仕立てになっていたことだ。
ビクターの両親とビクトリアの両親が、それぞれの思惑を歌いあげる最初のナンバーは、アンドリュー・ロイド・ウェバーをちょい意識したような曲調で、19世紀の暗い映像の雰囲気ともバッチリあっている。
で、その後も、死者の世界のパブの骸骨バンドが歌う4ビート・ジャズ(ダンスはボブ・フォッシー調かも)や、クロゴケグモとウジ虫のデュエット(ネタモトはシャーマン兄弟か?)、クロゴケグモのソロ(これは完全にギルバート・サリバン調)など、冒頭のミュージカル演出を忘れかけたタイミング(笑)で、散発的にミュージカル・ナンバーが挿入されていく。
だからといって、『ナイトメア』ほどミュージカル・アニメと言い切れるものになっていないのは、ズバリ、主人公ビクターの歌のシーンがないからだろう。
おそらくダニー・エルフマン的には、ジョニー・デップに歌のトレーニングを積んでもらって、「ビクター/ビクトリア」(イカしたタイトルでしょ?)なんてナンバーを歌ってほしかったんじゃないかと思うが(もちろんこんなナンバーは本編にはないよ、念のため)、
『チャーリーとチョコレート工場』の片手間に声の出演をしてもらってるジョニーに、そんなことを頼めるわけもなく、
結局は、<ひじょうにゆるいミュージカル仕立て>に落ち着いたという印象だ。
なんて体裁の部分も、ウンパ・ルンパの歌をちりばめた『チャーリーとチョコレート工場』によく似たこの映画。
個人的には、物語&キャラ&テーマ(今回は生・死・愛)のすべてにおいて、『ナイトメア』のほうがよく出来ていると思うが、
アメリカでの高い評判やヒットの具合から判断すると、このくらいゆるく、このくらい大衆性のあるもののほうが、時代の感覚にはマッチしているのかもしれない。
お気軽なデートムービーとしては、ひじょうに使える映画だ。
10月22日より全国松竹・東急洋画系にて公開予定
2005年10月10日
tktsの手数料詐欺?
クワストさん、いつもコメントありがとうございます。tkts(ブロードウェイ・ショウの当日券半額売り場)で詐欺が行われていたとは、知りませんでした。
まあ、普通は、先方に言われた額を払っちゃいますから、金額をごまかそうと思えば簡単ですよね。完全な現金商売ですし。
いちおう、これまで一度もtktsでチケットを買ったことがないという方のために、金額の見方を説明しておきますね。
画像は、今回私が見た『プロデューサーズ』のチケットです。(赤字のA・B・Cはワタクシの書き込み)
(A)は割引率。通常は50%オフか25%オフのどちらか。このチケットは、席がバルコニーなので35%オフになってます。
(B)はチケットのプライス。この場合は30.5ドルです。
(C)は、tktsの手数料(チャージ)。3ドルと明記されてます。
ってわけで、このチケットは、tktsの窓口で、33.5ドルで販売されました。
このチケットに関して、ちょっとやっかいなのは、購入前に金額がわからないことです。もちろん、ショウのタイトルを明示したブース前のリストには、各タイトルの横に50%オフとか25%オフとか書いてあるのですが、元々のチケットの金額がわからない(=いくらの席が売れ残っているかわからない)ので、「それの50%オフっていくらよ?」という感じで計算のしようがないのです。
なので、購入のさいは、フルプライス×1/2+3ドルみたいに、こっちもどんぶり勘定でお金を用意するっきゃない。
いずれにしても、自分が買おうとするチケットのフルプライスは、あらかじめ調べておいたほうがよいかもしれませんね。
なお、tktsで販売するチケットによっては、手数料の3ドルってのが印刷されていないものもあります(『サイズ』のチケットがそうでした)。
これもまた、やっかい。
とにもかくにも、チケット購入のときは、まだ自分が窓口の前にいるあいだに、払った金額が「(B)+3ドル」になってるかどうかを、確認するようにしましょう。
2005年10月09日
おすすめの映画など
いやはや、NYから戻って、はや1カ月が経過。
なんだか「ひとり年末進行状態」に突入してしまい、ブログに手がまわらない状態が続いておりましたが、先ほど、観劇レポートをアップしおわりました。
9月8日〜11日のところですので、興味のあるかたはのぞいてみてください。
クワストさん、wowmさん、コメント&トラックバックありがとうございました。
ずっとお礼もお返事もせずにすみませんでした。
先週から、ようやく試写にも出かけられるようになりました。
個々の作品については、おいおいレビューを書いて行くつもりですが、
手遅れにならないうちに(笑)、おすすめ作品のタイトルだけ、先にあげておきます。
『モンドヴィーノ』
(10月下旬から渋谷シネアミューズ、シネカノン有楽町にて公開予定)
ワイン醸造の世界を題材にしたドキュメンタリー。ワインは人間が作るものか? 自然に作られるものか? というお題に沿って、ソムリエの資格も持つジョナサン・ノシター監督が、突撃取材に世界をかけめぐる。グローバリズムVSローカルの問題を考えるテキストとして、ひじょうにおもしろい映画です。
『ある子供』
(正月から恵比寿ガーエンシネマにて公開予定)
今年のカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した、タルデンヌ兄弟(『イゴールの約束』『ロゼッタ』)の新作。
ニート代表の20歳の青年が、金ほしさに、ガールフレンドが生んだばかりの自分の子供を売り飛ばすという衝撃的な物語。盗品のカメラを売る行為と我が子を売る行為の区別がつかない青年の「無邪気さ」=愚かなイノセンスが、何よりも衝撃。映画を観ているうち、「ある子供」とは、青年の子供ではなく、青年自身だということがわかってきます。
『ディア・ウェンディ』
(12月上旬公開予定)
ラース・フォン・トリアー脚本、トーマス・ヴィンターベア監督による、銃をめぐる寓話。ウェンディという名の銃と恋に落ちた、男性器と同じ名前を持つ童貞の青年を、『リトル・ダンサー』のジェイミー・ベルが清冽に演じる。今年の私のベスト1、この映画に決定しました!
その他、話題の映画も多々ありますが、とりあえずこの3本はお見逃しなく!
なんだか「ひとり年末進行状態」に突入してしまい、ブログに手がまわらない状態が続いておりましたが、先ほど、観劇レポートをアップしおわりました。
9月8日〜11日のところですので、興味のあるかたはのぞいてみてください。
クワストさん、wowmさん、コメント&トラックバックありがとうございました。
ずっとお礼もお返事もせずにすみませんでした。
先週から、ようやく試写にも出かけられるようになりました。
個々の作品については、おいおいレビューを書いて行くつもりですが、
手遅れにならないうちに(笑)、おすすめ作品のタイトルだけ、先にあげておきます。
『モンドヴィーノ』
(10月下旬から渋谷シネアミューズ、シネカノン有楽町にて公開予定)
ワイン醸造の世界を題材にしたドキュメンタリー。ワインは人間が作るものか? 自然に作られるものか? というお題に沿って、ソムリエの資格も持つジョナサン・ノシター監督が、突撃取材に世界をかけめぐる。グローバリズムVSローカルの問題を考えるテキストとして、ひじょうにおもしろい映画です。
『ある子供』
(正月から恵比寿ガーエンシネマにて公開予定)
今年のカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した、タルデンヌ兄弟(『イゴールの約束』『ロゼッタ』)の新作。
ニート代表の20歳の青年が、金ほしさに、ガールフレンドが生んだばかりの自分の子供を売り飛ばすという衝撃的な物語。盗品のカメラを売る行為と我が子を売る行為の区別がつかない青年の「無邪気さ」=愚かなイノセンスが、何よりも衝撃。映画を観ているうち、「ある子供」とは、青年の子供ではなく、青年自身だということがわかってきます。
『ディア・ウェンディ』
(12月上旬公開予定)
ラース・フォン・トリアー脚本、トーマス・ヴィンターベア監督による、銃をめぐる寓話。ウェンディという名の銃と恋に落ちた、男性器と同じ名前を持つ童貞の青年を、『リトル・ダンサー』のジェイミー・ベルが清冽に演じる。今年の私のベスト1、この映画に決定しました!
その他、話題の映画も多々ありますが、とりあえずこの3本はお見逃しなく!