Welcome To My ”俺の感性”

音楽のレビューというか感想をてけとーに書き殴るブログです。

レビュー (S)

Steven Wilson 『To the Bone』

Artist Steven Wilson
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Album 『To the Bone』
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Tracklist

01. To The Bone
03. Pariah
04. The Same Asylum As Before
05. Refuge
07. Blank Tapes
08. People Who Eat Darkness
10. Detonation
11. Song Of Unborn

「1967年11月、ロンドン近郊のヘメル・ヘムステッドで一人の子供が生まれた。その子供は8歳クリスマスに父親からピンク・フロイドの『狂気』をプレゼントされると、それを聴いて”ナニカ”に目覚めて「プログレ側の人間」としてすくすくと成長し、その子供は大人になると90年代以降のプログレッシブ・ロックを語る上で欠かせない、21世紀プログレ界を代表する最重要人物となった。そんな彼は、8歳のクリスマスに父親からピンク・フロイドの『狂気』を贈られると同時に、一方で母親からドナ・サマーの『愛の誘惑』をプレゼントされたのである。彼は父親から「プログレ側の人間」として育てられる傍ら、一方で母親からは「ポップス側の人間」として英才教育を受けて育ったのである。それから約50年後、それらの幼少期に得た「学び」が彼の骨(Bone)となり肉となり、そして(肉)声となり「音」となったアルバム『To the Bone』で、記念すべきメジャーデビューを飾る。この歳にして晴れて「メジャーアーティスト」の仲間入りを果たした彼は、アルバムのプロモーションのために出演した朝の情報番組で初対面したキャスターにこう聞かれた、「Your Name.(君の名は)」と。すると彼はこう答えた。」

『わたしは、スティーヴン・ウィルソン』

今回のSWはいつもとどこか違う。まずレーベルが違う。これまではKscopeという実質ほぼ身内のレーベルから作品を発表し続けていたが、今回は3大メジャーレーベルの一つで知られるユニバーサル・ミュージックに買収され、SW自身が「アイドル」として崇拝するビートルズデヴィッド・ボウイピンク・フロイドケイト・ブッシュディープ・パープルデュラン・デュラン、そしてX JAPANも所属していた(ここでXSWが繋がったのは面白い)イギリスの老舗レーベルEMI傘下のCaroline Internationalへと移籍(ここでPhantogramと繋がるか普通?)、そして国内盤はあのHostess Entertainmentからってんだから驚いた。しかし、この度の「ホステス入り」の伏線は既にあって、それはUK出身の「女版SW」ことマリカ・ハックマンSWSpotifyのプレイリストでパワープッシュしている、サマソニ2017の「ホステス・クラブ・オールナイター」にも出演したCigarettes After Sexの新作が共にホステスからリリースされていて、つまり、これまではレアなレコードを目当てにディスクユニオンに来日(来店)するもライブだけは頑なにしてこなかったSWが、今回めでたく「ホステス入り」を果たした事で、もしかしてだけど(もしかしてだけど~♪)いつかのサマソニで来日公演が実現する可能性が出てきたと想像しただけで何かもう凄い。

次にアルバムジャケットが違う。本家のPorcupine Treeをはじめ、SWが数多く手がけるサイドプロジェクトでも自画像をジャケにすることはなかった彼が初めて、メガネは体の一部とばかり生まれたままの裸の姿で目を閉じた状態の自身を晒した、それこそ『To the Bone』という今作のタイトルを暗示するようなアートワークからして違う。それらの「変化」は一体ナニを意味するのか?

今作についてSWは、「僕は主に「70年代」のプログレにルーツを持つ人間だと思われがちだが、「80年代」に成人を迎えて当時ムーブメントを起こしていたポストパンクやニューウェイブを聴いて育った人間でもあり、この『To the Bone』は、その「80年代」の音楽からインスピレーションを受けた作品だ」というような主旨を語っていて、いわゆる「70年代」の革新的かつ実験的な潮流から脱却を図ろうとする「80年代」の音楽の魅力を知り尽くしているSWが、それこそ自身のパーソナルな面を全てさらけ出すように、それこそ「丸裸」のジャケが物語るように、全てが新しく生まれ変わった姿で、まるで自身のメジャーデビューという新たなる門出を祝うかのようなアルバムとなっている。

ポール・マッカトニーイエスなどの大物アーティストをプロデュースしてきた重鎮トレヴァー・ホーンが、日本のアニメ『THE REFLECTION』の音楽を全面プロデュースしていると聞き、更にはサマソニ2017で日本のアイドルとコラボしているのを知ってしまったSWは、子供の頃からずっと憧れ続けていた「70年代」の音楽に失望し、それをキッカケに今度は「80年代」の音楽に傾倒し始めたのである(えっ)。先述したように、「80年代」の音楽とSWは切っても切れない関係にあって、彼の「80年代音楽愛」を象徴する一つに、前作Hand. Cannot. Erase.の歌詞にも登場するDead Can Dance、Felt、This Mortal Coilを筆頭に、Cocteau Twinsなどのいわゆる4AD界隈のポストパンクやプログレッシブ・ポップへの憧憬を恥ずかしげもなく、むしろ見せびらかすように自身の作品の中に取り入れるほどの「80年代」愛好者だ。ところで「80年代のUKミュージック」といえば、最近ではAlcestキュアーコクトー・ツインズからの影響を公言する「ビッグ・イン・ジャパン」ことKodamaを発表すると、今度はUlverデペッシュ・モードキリング・ジョークなどの「80年代」を象徴するポストパンク/ニューウェイブ愛に満ち溢れた「ビッグ・イン・ウェールズ」ことThe Assassination of Julius Caesarが記憶に新しい。いわゆる「コッチ側」に属するバンドが立て続けに、それらの一種の「80年代リバイバル」と呼ぶべき現象、その伏線とも取れる作品からしても、改めて「80年代」の音楽が30年経った今なお現代の音楽に根強い影響を及ぼしている事実に、その色褪せることない影響力は「70年代」の音楽を凌駕している。とにかく、イギリスの音楽シーンが「70年代」というアンダーグラウンドシーンから、より大衆的なメインストリームシーンへと移行する瞬間、つまり「70年代」「80年代」「境界線上」で創られる音楽の面白さは、後にも先にも「あの時代」でしか味わえない絶妙な魅力に溢れている。

同じくSWは、「70年代」から「80年代」にかけて本格的に広まった音楽ジャンルの一つである「New Age」にも強く影響を受けている人物で、主にデヴィッド・ボウイと共演した坂本龍一『戦場のメリークリスマス』をはじめ、映画『インターステラー』『ダンケルク』でも知られるハンス・ジマーマイク・オールドフィールドの二人は、その最もたる例だ。そして僕たちは、SWが70年代に音楽的なルーツを持つ「プログレ側の人間」であること以前に、子供の頃からABBAドナ・サマーを聴かされて「ポップス側の人間」として育てられながらも、彼の本質はそのどちらでもなく、その本性が「ニューエイジ側の人間」にあることを思い知らされる。それを真正面から証明するかのような曲が、今作の表題曲となる”To the Bone”である。

「ポスト・トゥルース」

SWは一貫して自身の作品の中で、21世紀におけるテクノロジーの進化、それに伴う世界情勢の変化、テロの脅威、インターネット時代とともに押し寄せるSNS社会の波、インスタバエの流行、それらの様々な「時代の変化」が音楽業界に及ぼしたのは、Spotifyをはじめとしたサブスクリプションの台頭、そして「ストリーミング時代」の幕開けであり、その時代の荒波の中でSWは「音楽はただ消費されるだけのもの」となってしまった現代の音楽シーン、音楽リスナーを取り巻く環境の変化に憂慮し、それをイギリス人らしく音楽を通して時にユニークに、時に辛辣に皮肉ってきた。昨年、2016年を象徴する出来事として、英国のEU離脱や米国大統領選でのトランプ勝利などが挙げられる。それらの「世界の歪み」を象徴する出来事を発端として、特に問題視されたのは、SNSを使った事実(真実)とは異なる「フェイクニュース」の拡散である(日本ではまとめサイト問題など)。そして、その年の「報道の自由度ランキング」で、日本は180カ国・地域のうち72位、G7の中で最下位という日本人が憂慮すべき不名誉な立場に晒された。本来は「真実」を報道すべき既存のマスメディアに対する不信感が世界的に広がる中、この日本では露骨なメディア規制(圧力)を仕掛けている安倍マリオと、それを擁護するネトウヨと呼ばれる存在がSNSや匿名掲示板をはじめ猛威を奮っている。【Post-Truth】→「真実はもっとフレキシブルなものでいい」という近年の間違った風潮が具現化した存在がネトウヨである。現代は、それこそ「嘘を嘘だと見抜ける人でないと難しい」という某氏の言葉がそっくりそのまま当てはまる「ポスト・トゥルース時代」に突入しているのだ。

某子供名探偵の口癖のように「真実はいつもひとつ」でなければならなくて、「真実」は決して複数存在してはならない。「真実」「100」のものであり、決して「99」であってはならないのだ。面白いのは、今作最大の『メッセージ』としてある「真実はフレキシブルであってはならない」という問いかけに対して、「SWの音楽は常にフレキシブルなものである」ことを皮肉にも証明していることだ。

ここで少し話は変わるが、この「真実(事実)」に関して、先日放送されたテレビ東京のドラマ『デッドストック ~未知への挑戦~』の最終回で興味深い話があった。最終話のザックリとした話の道筋としては、テレビ東京の未確認素材センターに勤務する新人ディレクター演じる元ももクロあかりんUA息子村上虹郎が、本人役として登場する森達也監督の紹介で70年代にスプーン曲げで一世を風靡した”清田くん”の現在を取材をすることになるが、それは結局山登りをしてまでスプーン曲げの映像が撮れなくて二人は落胆する。すると、ここで森監督がドキュメンタリー映画監督ならではの角度から話を始める。まず曲がることもリアルだけど、曲がらないこともリアルだろというくだりから、たかがコップですら、どっから見るかで形が全然違う。現実はもっともっと多面的かつ多重的かつ多層的、どっから見るかで全然変わる、それが真実だという。それでもたった一つの真実本当の真実を追求しようとする二人の新人ディレクターに対して、森監督はテレビ(メディア)が求めているのは本当のリアル(真実)ではない、リアル(本物)らしく見えること。リアルは(真実)、テレビのフレームの中では逆にリアルじゃなくなっちゃうという、まるでメディアの真実と真理を突くかのような核心的な言葉を放つ。それに対して、今度はあかりんスプーン曲げをワンカットで見せることがCGと変わらないと言われてしまう場合、どうスプーン曲げを見せることが視聴者を納得させられる真実でありリアルなんですか、そこに正解はないですかと疑問を投げかける。すかさず森監督はないよ、正解なんかないと無情にも吐き捨てる。つまり「真実に正解はない」と。森監督は更に言う、自分の真実、自分の視点を伝えること、その真実はもしかしたら真実らしく見えないかもしれない。ジレンマだよね、いいんだよジレンマで、矛盾でいいんだよと。最終的に森監督は、「真実」「矛盾」していいと、つまり「真実はフレキシブルなものでいい」と結論づける。この話で本当に面白いというか衝撃的だったのはラストシーンで、そこに映し出される衝撃的な光景はまさに「真実はフレキシブルであってはならない」という、それこそこの『To the Bone』のコンセプトその本質を描いた、SWもビックリの何とも皮肉の効いたラストでこの話は幕を閉じる。ある種の哲学的な話にも聞こえるこの最終話は、まさに「フェイクニュース(嘘)」「リアル(真実)」が複雑に入り乱れる現代の「ポスト・トゥルース時代」への「メディア側」からの回答であり、その「嘘」と「真実」をテレビドラマという虚構の中で、ドキュメンタリー(モキュメンタリー)形式であたかも「事実」であるかのように描き出すという、このご時世にテレ東はトンデモナイ最終回をブッ込んで来たわけだ。他の局じゃちょっと考えられないコンセプトで、やっぱテレ東ってスゲーわって。

一旦自分の世界の辻褄を合わせると、僕らは他のみんなの世界をぶち壊しに行きたくなる、彼らの真実が自分の真実と噛み合わなくなるから・・・

上記の”To the Bone”の冒頭で語られるオープニング・ダイアローグは、まさしく先ほどの『デッドストック』最終話に直結するような、あるいはミサイルが上空を飛び交うクソみたいな世界に対する最後通告のような、今作最大のテーマでもあるこの世の「真実」は一体どこにあるのか?まさにアルバムの核心的な部分をあぶり出すようなこの曲は、「Post-Truth(ポスト真実)」をテーマにした曲で、歌詞はSWがリスペクトするXTCアンディ・パートリッジによるものだ。再生すると、まずそのプロダクションの良さにハッとさせられる。その「New Age」ならではのプロダクションとともに、語り部のJasmine Walkesなる女性のモノローグが終わると、まるで坂本龍一喜多郎、そしてエンヤなどのニューエイジャーという名のシャーマン達による集団儀式がアマゾン奥地で催され、森の精霊のごとしスピリチュアルなヒーリングボイスからサックス顔負けのハーモニカやマラカスなどのパーカッション、それら「80年代」を代表するニューエイジャーへのリスペクトを込めた神秘的なトラックとともに「シン時代」の幕開けを宣言し、新たなる夜明けとともに、瞳を閉じたままのSWが遂に目覚めると、全く新しい「シン・SW」という新たなる生命の誕生を盛大に祝福する。

今回は「音」も違う。UKロック界のレジェンドオエイシスの作品でも知られるポール・ステイシーとの共同プロデュースによってもたらされた、「90年代」以降の普遍的な「UKロック」を踏襲したギター・サウンドとポールの双子の兄弟であり現キング・クリムゾンのドラマーとしても知られるジェレミー・ステイシーのタイトなドラミングが織りなす、未開の部族の宴の如し多民族的なグルーヴ感を発するノリの良いギター・ロックを展開し、そしてより「ポップ」に歌い上げるSWと前作からお馴染みとなったイスラエルの女性シンガーニネット・タイエブによるドナ・サマー顔負けのソウルフルなバッキングボーカルを聴けば分かるように、そのオールドスタイルのギター・サウンドからボーカル、ほのかにブルージーでファンキーなフレーズを聴かせるGソロやアレンジまで全てが「ポップ」なチューニングが施されており、ジョイス・キャロル・ヴィンセントの悲劇的なコンセプトを背負った前作の『Hand. Cannot. Erase.』から一転して、今度は一聴しただけで分かるように、大衆的かつ普遍的な「ポップス」のアップテンポなノリを内包した「ポップ・ロック」を聴かせる。しかし、「ただのポップス」で終わらないのがSWの凄い所で、オープニングの語り部から自らが「70年代」の「ニューエイジ側の人間」である事を証明しつつ、オエイシスにも通じる「90年代」の「UKロック」や「80年代」のポピュラー・ミュージックに対する理解と敬意を示しつつ、その終始ノリが良い曲調から一転して緩やかに展開するアウトロは、「80年代」の「プログレッシブ・ポップ」への彼なりの憧憬でもある。なんかもう「おかず全部のせ」みたいな、それこそディープなヒップホップからイマドキのエレクトロニカにも精通するSWの幅広い音楽的嗜好を垣間見るような、ありとあらゆる「時代の音」が「ポップス」に集約された今作を象徴するかのような、その「アルバム」のコンセプトを一曲の「ポップス」として凝縮しパッケージングしたような、まさしく「キング・オブ・ポップ」あるいは「ポスト・ポップ」と呼ぶべき一曲だ。

正直、まるで一本の映画のようなスケール感を持った7分近い「ポップス」は今まで聞いたことがなかった。普段のSWなら、というよりSW「プログレ側の人間」として見た時、彼に7分の曲を書かせようもんなら必ず「プログレ」になるというか、当然聴き手もそれを疑うことなくSWが書く「7分の曲」=「プログレ」としてこれまでは解釈してきたが、この曲は違う。「7分の曲」であるのにも関わらず、どこをどう聴いても「ポップス」にしか聴こえないのだ。普通の人からすれば「ポップス」といえば3分から4分の一口サイズで消費するものだが、この曲はいわゆる普通の「ポップス」とは一線をがしている。このシン・SWは、これまでの「ポップス」の概念を根底から覆すように、つまり全く新しい考えを持った一人の挑戦者として、この「7分のポップス」をもって現代のポピュラー・ミュージックの世界に挑まんとしているのだ。

2016年に発表した『4 ½』は、その「4」「½」というタイトルが示すとおり、前作の『Hand. Cannot. Erase.』と次作すなわち『To the Bone』を結ぶ補助的な役割を担う作品だったが、そのアルバムの中でSWは僕たちにとあるヒントを与えた。それこそ、中期以降の本家Porcupine Treeへの明確な回帰だった。しかし、2009年に発表した問題作のThe Incidentを最後に、PTを活動休止にして今現在までソロアーティストとして活動してきたSWが、なぜ今になって「PT回帰」に至るまでに、そしてなぜ回帰せねばならなかったのか?その答えこそが、この『To the Bone』を紐解く大きな鍵となることを、あの日の僕たちはまだ知らない。



これまでにSWは、複数のサイドプロジェクトの中で様々な音楽的嗜好を多方面に披露してきた。最古参のNo-Manではエレクトロニカの側面を、Opethミカエル・オーカーフェルトと組んだStorm Corrosionではサイケデリック/フォークの側面を、Bass Communionではノイズ/アンビエントへのアプローチを垣間見せた。それらのプロジェクトの中でも特に「ポップス」の側面を強く持つのが、他ならぬ当ブログ「Welcome To My ”俺の感性”」の元ネタであり、イスラエル人のアヴィヴ・ゲフィンとのプロジェクトである「黒のフィールド」ことBlackfieldである。2曲目の”Nowhere Now”は、開幕のピアノや気持ちのいいくらい爽快なドラミングをはじめ、アコースティックなクリーン・ギターや初期のBlackfieldを彷彿させるSWのポップでウェットなボーカル・メロディをフィーチャーした、複雑なタネも仕掛もない、全域に渡ってクリーン・トーンで展開し、全パートに渡って「ポップス」が貫かれた、一点の曇りもない前向きな「希望」に満ち溢れたキャッチーなポップ・ロックで、まさに今作の根幹に脈々と流れる「ポップス」を象徴するかのような一曲と言える。で、このMVについて、まず「こんなにアクティブなSWは今まで見たことがない」ってくらい、天を仰いで歌うSWとかガラにもなさ過ぎて「SWってこんなキャラじゃなくね・・え・・・えっ」ってなるくらいツッコミどころ満載のSWはさておき、一歩間違えたら素人が作った映像に見られそうなこのMVは、チリのアタカマ砂漠の「アタカマ大型ミリ波サブミリ波干渉計(ALMA)」をロケ地に、SWがたった一人で天を仰いだり歩いたり語り弾いたりする非常にシュールな絵になっている。ご存知、SW「宇宙大好き芸人」としても知られ、Blackfieldの4thアルバム『Blackfield IV』でも名作SF映画『コンタクト』の舞台となった事でも知られるVLAらしき天文台をアートワークにしていて、そういった意味でも、この曲は「意図的」にBlackfieldを意識して書かれた曲なのが分かる。



「世界一美しいハスキーボイス」ことニネット・タイエブとのデュエット曲となる3曲目の”Pariah”は、前作の”Perfect Life”をアップデイトさせたようなマッシブ・アタック的なインダストリアル/トリップ・ホップへのアプローチと、No-Manを現代版にアップデイトしたようなアンビエント・ポップ風のアレンジを効かせながら、SWニネットがまるで恋人のように見つめ合いながら交互に会話を交わすように、モノクロームの世界でゆったりと落ち着いた曲調で展開するかと思いきや、終盤に差し掛かるとビッグバンの如し爆発力のある展開を見せ、そこでのシューゲイザー風のノイジーな轟音ギターは互いの感情を的確に表現している。このMVを見れば分かるように、言うなれば童貞メガネ喪男扮するSWのハッキリしないウジウジした態度に「ウンザリ」した彼女扮するニネット「私と音楽、どっちが大事なの?!」みたいにブチ切れて、そして遂に喪男のウジウジが限界に達して「ふえ~~~ん...でもLovely」ってなってるSWの顔アップにクソ笑う。もうこれだけで名作認定。

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「なぜSWは再びPTにチューニングを合わせざるをえなかったのか?」

それを断片的に証明するかのような、4曲目の”The Same Asylum as Before”は、Porcupine Treeが最も「ポップス」に近かった頃すなわち『Lightbulb Sun』の頃の中期PTを彷彿させる、イギリスの気候のようにソフト&ウェットで湿り気のある、そして夕焼けのようにホットでアコースティックな、まさにプログレッシブ・ロックならではの叙情性と情緒に溢れた音像を踏襲し、それらを「プログレッシブ・ポップ」に刷新したような曲で、これは一種のプログレ畑の人間がやる極上のプログレッシブ・ポップというか、これまでプログレ界隈でしのぎを削ってきた生粋のプログレヲタクが、このアルバムで「プログレッシブ・ポップ」に挑むなんてのは至って容易なことだった。

今作のハイライトを飾る5曲目の”Refuge”は、再びNo-Manを彷彿させるアンビエント・ポップ的なアレンジとピアノで静かにセンチメンタルな幕開けを飾り、次に無数の銀河が輝き放つように宇宙空間を形成していくスペーシーなキーボード、次に宇宙規模の広大なスケール感とワイドレンジなダイナミズムを加えるドラム、それらが一つ一つが音の恒星となってスーパーノヴァを起こしながら内なる衝動を爆発させていき、そして子供の頃に見た『夢』が無限にどこまでも広がっていくような、そしてクライマックスを飾る光を超える速さで眩いばかりの閃光を解き放つ、ハーモニカとギターが「未来」を繋いでいくような超絶epicッ!!で超絶エモーショナルなソロパートは、「現代人」である人類から「未来人」への『メッセージ』か、はたまた天国のデヴィッド・ボウイプリンスなどの「80年代」を輝かしい時代へと導いた偉大なる先人たちへの鎮魂歌か。この曲の音使いや作曲のベースには前作の”Regret #9”があって(タイトル的にも)、ここまで一貫してやってきた「ポップス」から一転して、一つの映画を観ているかのような、叙情的なシーンを一つ一つ丁寧に紡いでいくような曲構成は、まさにSWが主戦場としてきた「70年代」の「プログレ」からの応用である。



2008年に公開された名作映画『スラムドッグ$ミリオネア』以降、最近では『きっと、うまくいく』『PK』など、近年インド映画が世界中から注目を浴びるようになって久しい。そのインド映画でもお馴染みのボリウッドのダンサーを迎えた6曲目の”Permanating”のMVは、なんかもうインド映画=謎の踊り踊らせときゃええやろ的な、もはやインド人に失礼なくらいステレオタイプのインド人を描写した映像となっている。そのウキウキな謎の踊りと同調するように、一緒に楽しく歌って踊って仲良く飛び跳ねるようなピアノを弾き殴りながら裏声で歌い上げるSWの姿は、もはやエルトン・ジョンあるいはスティーヴィー・ワンダーに代表される「大衆のアイコン」さながらの存在感を放っており、それこそエルトン・ジョンが伴奏を手がけたミュージカル『リトル・ダンサー』的なダンサブル要素を持つ曲である。この曲についてSWは、ELO”Mr. Blue Sky”ABBA”マンマ・ミーア”へのアプローチがあると語るように、老若男女誰もが知る名曲中の名曲を元ネタにするあたり、いかにしてSW「メジャーアーティスト」の仲間入りを果たしたのかを痛感させる。ここで改めて「メジャーアーティスト」という言葉が出てきたが、SWが本当に「メジャーアーティスト」の仲間入りした事を証明する一つの証というかギミックが今回のMVに隠されていて、それはMVの右下に表示された「VEVO」のロゴである。邦楽のMVでもたまに見る「VEVO」の意味は既にご存知な方も多いかと思うが、恥ずかしながら自分はこれまでずっと「VEVOて何のロゴやねん」と「VEVO製の特殊なカメラでも使ってんの?」ってくらいにしか思ってなくて、しかし今回SWのお陰でその意味をようやく理解できた。簡単に説明すると、今回からSWが所属することになったCaroline Internationalは、大手のユニバーサル・ミュージックの傘下にあるレーベルで、そのユニバーサル(EMI)とソニー・ミュージックのMVは全て「VEVO」仕様のMVとなるらしい。つまり、言い換えれば「VEVO」というの3大メジャーレーベルに属する「メジャーアーティスト」の証でもあって、そういったガワの面でもちょっとした「変化」が起きている。

再びニネットとデュエットした7曲目の”Blank Tapes”は、ピアノとギターのシンプルなリフレインを中心に聴かせるフォーキーなバラードで、8曲目の”People Who Eat Darkness”では、イントロのリフを皮切りに、エッジの効いたギターの音作りやボーカルのアレンジまで全てがディープ・パープルの名曲”ハイウェイスター”のオマージュと言っていい、「70年代」のヴィンテージ感溢れるクラシックなハードロックを展開し、「ポップス」のノリに支配された今作の中で最もロックンロールな疾走感溢れる曲調の中、しかし転調パートではしっかりとプログレスなSW節を覗かせるのが何ともニクい。

「コーンウォール一派」

ここまで執拗にやれ「70年代」だ、やれ「80年代」だとシツコクも言ってきたけれど、SWは決して「70年代」や「80年代」だけに収まるようなアーティストではない。彼は、まず誰よりも「現代人」なのである。SWは、誰もが知っているようなポップ・ソングからヒップホップ/ラップ、そしてアングラなエレクトロニカにも精通する幅広い音楽的嗜好回路を持ち合わせている。そんな彼が特に近年、というかSWは昔からエイフェックス・ツインスクエアプッシャーに代表される、俗に言う「コーンウォール一派」に心酔していて、直近の曲にもインダストリアルやエレクトロニカなどの打ち込み音を駆使した楽曲が増えている事からも、それは明白な事実である。確かに、エイフェックス・ツインは漫画家の荒木飛呂彦相対性理論やくしまるえつこにも影響を与えるほど、電子音楽界の最高峰とも呼べる偉大な前衛的アーティストの一人だ。何を隠そう、僕は事あるごとに、というか過去に『The Raven That Refused to Sing』の記事で荒木飛呂彦スティーヴン・ウィルソンを共振させ、そして相対性理論天声ジングルではやくしまるえつこ荒木飛呂彦、そしてエイフェックス・ツインの存在を共振させてきた、つまり【荒木飛呂彦≒スティーヴン・ウィルソン≒やくしまるえつこ】であると説いてきたが、ここで初めてその決定的な証拠がSW側から提示されたのは嬉しい誤算だった。今作でも俄然その「繋がり」を証明するかの如く、スイス出身の女性SSWことSophie Hungerとデュエットした9曲目の”Song of I”では、母親の胎内で眠る胎児の鼓動のようなインダストリアルなサウンドで「イマドキ」のバッキバキに尖った音楽をアップロードしたかと思えば、続く10曲目の”Detonation”では、Djentにも精通する変則的な拍を刻む無機的な打ち込みメインの幕開けから、ミニマルなリフレインを中心にPT『Fear of a Blank Planet』を彷彿させるサイケデリックな世界観を繰り広げる中盤、そして後半から場の空気がガラッと変わって一気にジャズ/フュージョンっぽくなる曲で、その変態的な電子音から緊迫感溢れるダイナミックな曲構成をはじめ、そしてこの曲の根幹にあるスクエアプッシャー愛マイルス・デイビス愛に溢れたジャズ/フュージョンの要素は、もはや「SWなりの”Tetra-Sync”」としか他に形容しようがなかった。



このMVを観てまず頭に浮かんだのは、BBC制作のドラマ『シャーロック』「忌まわしき花嫁」で、そのホラーテイスト溢れるビジュアルの映像とシアトリカルかつ喜劇的に演出するストリングスが絶妙にマッチした曲だ。既にお気付きのとおり、”Nowhere Now”のMVでは過去最高に「こいつ動くぞ」感を、続く”Pariah”のMVでは童貞喪男を演じたかと思えば、”Permanating”のMVではボリウッドダンサーを迎えて映画『サウンド・オブ・ミュージック』顔負けのSW先生を演じたりと、ここまでシングル化された全てのMVでSW自らが主演を務めていて、このように映画やドラマなどの現代の流行から積極的に「大衆文化」すなわち「ポップカルチャー」への迎合を図りながらも、改めて新しく生まれ変わった自分を、それこそ「わたしは、スティーヴン・ウィルソン」と名刺代わりの自己紹介とばかり、自身のありのままの姿を全てをさらけ出している。

ついさっきまでボリウッドの「不思議な踊り」やディープ・パープル顔負けのクラシック・ロックやってみせた後に、そこから数十年の時を超えて「現代人」ならではの打ち込み系に切り替わる一種のギャップというか、そのソングライティング面でのジグザグな振り幅こそ今作を象徴する一つの流れと言ってよくて、それと同時に、いい意味で「アルバム」っぽくない構成でもあった。しかし、最後を締めくくる11曲目の”Song of Unborn”では、これが「アルバム」だということを再認識させる。あたかもあざとく「これはアルバム最後の曲ですよ」とご丁寧にお知らせしてくれるような、なんだろう「アルバムのクライマックスを飾るためだけに存在する曲」みたいな、とにかく荘厳な男女混声クワイヤを駆使した神聖な曲で、中でも最後に繰り返される「Don't be afraid to die」「Don't be afraid to be alibve」「Don't be afraid」という「希望」に溢れた歌詞で幕引きする所も、僕たちは今まで「シングル」の集合体ではなく「アルバム」を聴いていたんだと、僕たちはまんまとSWの術中にハマっていた事を知る。

まず「アルバム」の初めに今作の「コンセプト」を司る表題曲の『To the Bone』で全く新しい「シン・SW」をお披露目しておいて、その中身はポップ・ソングからヴィンテージ・ロックからモダンなエレクトロまで、その時代その時代の音を細部まで徹底してこだわり抜かれたアレンジと音作りで現代の音としてアップデイトし、そして『To the 【Bone】』と対になる『Song of 【Unborn】』という再びアルバムの「コンセプト」を象徴する曲を最後に、「アルバム」のフォーマットとして一つにパッケージングするという、これはまさに「音の旅」である。SWは、今作について子宮の中から現代文明の瓦礫を覗いて『どうしてこんなところに生まれたいと思うんだ?』と自問している、まだ生まれていない子供の視点から何かを書いてみたかったんだと語っている。それは最後の”Song of Unborn”というタイトルが物語っていて、まだ生まれる前の胎内に眠る曲が「こんなクソみたいな時代に生まれたくない」という叫び声でもあるかのよう。実は、このシチュエーションを今の日本の状況に置き換えてもシックリくる。ミサイルが上空を飛び交う国に生まれたいと「胎内の子供」が思うわけがない。今回のに象徴されるアートワークは、母親の血が通った赤い子宮の中でスヤァ...と眠るケツの青い胎児を比喩し、まだ生まれる前の「希望」に満ち溢れた「未来の子供」「いやいやいやいや、こんクソみたいな時代に生まれたくないんやけど」と、「心の叫び」ならぬ「胎児の叫び」を比喩していたのだ。つまりSWが最後に残したのは「ただの希望」、それ以上でもそれ以下でもなかった。

「逆再生」

この「始まり」と「終わり」が対になるようなアルバムのストーリー構成は、何を隠そう相対性理論天声ジングルと全く同じ発想で、過去に僕は『天声ジングル』について「逆再生」して聴くのが本当に正しい曲順なんじゃあないかと書いた。つまり、オープニングの”天地創造”をラストの”フラッシュバック”から人類の歴史を思い返すように記憶を巻き戻していく構図だ。で試しに今作を「逆再生」して聴いてみると、驚くほど違和感がないというか、通常でも「逆再生」してもハイライトが”Refuge”になるあたりは、まんま『天声ジングル』”弁天様はスピリチュア”と同じ役割を担っているし、双方の曲に共通するのは、他ならぬ「宇宙」であることも。そういった面でも、冗談じゃなしにこれは意図的に「逆再生」を想定して制作されたものなんじゃあないかって。ヘタしたら「逆再生」の方がアルバム構成的に盛り上がるというか、実質オープニングとなる裏(表)題曲の『【Song of 【Unborn】』では母親の胎内で「こんな不確かな時代に生まれたくねぇんだけどマヂ迷惑なんだよクソBBA」と愚痴りながらドカドカと腹を蹴り飛ばす胎児に「希望はあるから」と暗に焚き付けて、そんな悪魔みたいな子供が生まれてくる266日の間に、あらゆる時代の【Songという名の「希望」を胎教として与え続け、その「希望」が母体の胎内を巡って胎児の血となり骨となった結果、「あっ、この”音楽”という確かな”シン・ジツ”に溢れた世界になら生まれてみてもいいかな」と心変わりさせてから、実質ラストとなる表題曲の『To the 【born】』で満を持してどじゃ~ん!とこの世に生まれてきた天使のように可愛い子供の第一声は、「オギャー」という泣き声ではなく「ここがシン・ジツだ」に違いない。

この「逆再生」に関する話で本当に面白いのはここからだ。実はつい最近、ヒップホップ界のレジェンドケンドリック・ラマーの新作『DAMN.』「逆再生(リヴァース)」を想定して作られた事をケンドリック自身が認めたのである。『DAMN.』の発売当初、実際にApple MusicSpotifyなどのサブスクで曲順を逆にしたプレイリストも多く作られるほど、『DAMN.』は逆から聴けるという指摘は決して少なくなかったと言う。ここでまたしても繋がるのが相対性理論天声ジングルである。2015年にリリースされたこのアルバムは、それこそ「やくしまるえつこなりの日本語ラップ」であり、まさにケンドリック・ラマーが新作で試みた「逆再生」演出を、えつこは一足先に相対性理論のアルバムで再現していたのである。このケンドリックの件は、『天声ジングル』は「逆再生」できると言及した僕の解釈を真っ向から肯定するかのような出来事だった。確かに、この『To the Bone』「逆再生」できると力説する人間は恐らく世界でも僕しかいないかもしれない。しかし、まさかやくしまるえつこを経由してスティーヴン・ウィルソンケンドリック・ラマーが繋がるなんて思ってもみなかった。勿論、その二人を繋げるには相対性理論『天声ジングル』を世界で最も理解できる奴だけだった。それが「日本一のジョジョヲタ」である僕だった。つまり、ケンドリック・ラマースティーヴン・ウィルソンを繋げる事ができたのは世界でも僕ただ一人だけだったんだ。なんだろう、こんな面白い話って他にある?って感じ。ともあれ、この「逆再生(リヴァース)」という一つの大きなギミックが、このアルバムの最も革新的な部分であると僕は理解した。

この『To the Bone』には、ドナ・サマーABBAをはじめとした世界的なディーヴァをはじめ、そのアレンジには80年代のプログレッシブ・ポップやアート・ポップ、エレクトロ・ポップやアンビエント・ポップなど、どの曲にも常に「ポップさ」が点在する。それこそ、晴れて「メジャーアーティスト」となったSWによる、デヴィッド・ボウイプリンスなどの歴代ポップスターの「なりきりポップス」みたいな、これまでは70年代のプログレッシブ・ロックのレジェンド達の数々の名作をリミックスで蘇らせてきたエンジニアとしてのSWが、今度は「メジャーアーティスト」として歴代のポップスターをモダンなアレンジを施して現代に蘇らせた、歴代最高峰のポップスを歴代最高峰のアレンジと歴代最高峰のプロダクションでパッケージングした、全てが歴代最高峰の「ポップアルバム」だ。全11曲で60分ジャスト、つまりこの『To the Bone』というタイトルには、時計の針が一周して「何度でも新しく生まれる」というある種の意味合いが込められているのかもしれない。そうやって深く考えれば考えるほど、このアルバムはちょっと本当にどうしようもなく「トンデモナイ」という結論に行き着く。

バックバンドも違う。前作までは「プログレッシブ・ロック」を演奏するのに必要なそれ相応のスキルを持ったプロフェッショナルなメンバーが集結した、いわゆる「SWバンド」がバックバンドとしてSWをサポートしていたが、今回はオエイシス界隈でも知られる「メジャーならでは」のミュージシャン/プロデューサーを筆頭に、様々な国のシンガーやミュージシャンの協力により成り立っている、SW史上過去最高にインターナショナルでジェンダーフリーな作品と言える。まさしくその意味というのは、更に混沌さを増す世界情勢や現代社会の闇の部分を浮き彫りにすると同時に、バラバラになった世界を一つにするような、SWなりの黄金のリベラリズム」が込められた一枚となっている。ボーカルとギターは勿論のこと、半数以上の曲でSWがベースパートを弾いていることからも、俄然「ソロアルバム」っぽいというか、むしろ本当の意味での「ソロアーティスト」としてのデビュー作、つまりシンガー・ソングライター(SSW)としてのメジャーデビュー作と解釈すべきかもしれない。もはや「ソロ」という概念を超越したSW自身を投影したかのような作品である。

「懐かしい、でも新しい」

まるで糸井重里が考えたキャッチコピーのような今作、これまでと「違う」とか「変わった」とか言うけれど、無論全てが新しいというわけではない。随所で見られるギターのフレーズやメロディ、リフレインやソロワーク、そして曲構成に至るギミック面にしても、それはこれまで僕たちがSWがサイドプロジェクトを含めた数々の作品で耳にしてきた馴染みのある音そのものだ。それこそ、アルバム後半のモダンな打ち込み主体の楽曲に関しても、実質SWKscopeが世に広めたと言っていいPost-Progressive自体が、そもそも「ポップス」とモダンな「エレクトロニカ」などの様々な要素をクロスオーバーさせたジャンル、つまり「Post-系」の根幹を司る重要なパーツでもある。全てが真新しくて全てが違うと言ってみても、しかしやってる事の根幹にある大事な部分は何一つ変わっちゃあいない。SWにとっては、メジャーでもアンダーグラウンドでも結局やることはこれまでと同じ、ただの「Post-」をやってるだけであり、結局はいつものSWと何ら変わりないのだ。全てが真新しいにも関わらず、その全てがSWそのものでしかないのがホントに怖い。

前作の重厚なコンセプト・アルバムから一転して、このクソみたいな世界に咲き誇るクソ前向きな「希望」に満ち溢れた「ポップス」へと転換する恐ろしいまでの振り幅は、遡ること8歳の頃に両親からピンク・フロイドドナ・サマーのアルバムをプレゼントされた時から現在に至るまでの約50年間、これまであらゆる「時代」の様々な「音」を咀嚼し、その影響を高度な次元で昇華して自らの音楽に反映してきた彼だが、そのSWの最大の魅力とも呼べる、その時代その時代の「過去の音」を「現代の音」として刷新させるエンジニア(技術者)としての職人芸と咀嚼力の高さ、そして音楽的な振り幅の広さは、今作で集大成とも呼べるほどの才能を爆発させた結果でもある。それを証明するかのように、一曲一曲が映画のワンシーンのように情緒と郷愁に溢れた多面的な表情を描写し、それこそSWの子供の頃の「思い出(ノスタルジア)」が詰まったフォトアルバムを一枚一枚めくっていくような、そのSWが子供の頃から触れてきた「思い出の音楽」と、一方で今なお新しい音楽と対話し続ける「イマのSW」が時代を越えて共鳴し合うかのような、これはもうスティーヴン・ウィルソンの自伝映画『わたしは、スティーヴン・ウィルソン(I, Steven Wilson)』としか形容できない、もはや「ポップス」とかそんな次元の話じゃねぇ、これはスティーヴン・ウィルソンの人生そのものが記録された「人生のサウンド・トラック」だ。

これはある意味、「アンダーグラウンド・アーティスト」として活躍してきたスティーヴン・ウィルソンにとっての、人生を賭けた大きな「メジャー・アーティスト」への挑戦だった。まるで「創造者たるや常に挑戦者たれ」と言わんばかり、彼は日頃のインタビューでも「同じことはしない」と語り、常に新しいことに挑戦し続けるクリエイターとしての貪欲な姿勢、それこそ「オルタナティブ人間」としての才能を改めて証明するかのように、これまではアンダーグラウンド・シーンでお山の大将気取ってた彼が、「挑戦者」として生まれて初めてメインストリームの世界に挑んだ歴史的なアルバムなのだ。なんだろう、アンダーグラウンドのことを知り尽くしているからこそ、いざメジャーに行っても何不自由なくやれてしまう、それってつまりアンダーグラウンドの人間がメインストリームの世界を最もよく知っている典型例で、その「アンダーグラウンド」と「メインストリーム」の話から頭の中で閃いたのは、今のスティーヴン・ウィルソンが置かれた状況って、実は2016年に『君の名は。』を発表した新海誠と全く同じ状況なんじゃね?ってこと。

「200億の童貞」

つまり、前作の『言の葉の庭』までは「アンダーグラウンド」すなわちマニア向けのアニメ監督として名を馳せていたインテリクソメガネの新海誠が、新作の君の名は。で本家本元の東宝の全面バックアップを受けると、前作の『Hand. Cannot. Erase.』までは70年代に一世を風靡した「アンダーグラウンド・ロック」の正統後継者として名を馳せていたインテリクソメガネのスティーヴン・ウィルソンが、新作の『To the Bone』でメジャーレーベルのユニバーサル傘下のCaroline Internationalと契約する。新海誠『君の名は。』で数々のヒット作を飛ばした有能プロデューサーを迎えると、今度はSW『To the Bone』でオエイシス界隈の有能プロデューサーを迎える。新海誠『君の名は。』でジブリを手掛けた作画監督やアニメーター、つまり「ジャパニーズ・アニメーション」の歴史を築き上げてきたジブリの宮﨑駿や『エヴァンゲリオン』の庵野秀明、『時をかける少女』の細田守監督や今はなき今敏監督に代表される「メインストリーム」すなわち「大衆アニメ」の分野で活躍するアニメ監督からの影響と、新海誠「アンダーグラウンド」で培ってきた「過去の遺産」すなわち「新海誠レガシー」をセルフオマージュして「メインストリーム」にブチ上げた「全日本アニメーション」を発表すれば、今度はSW『To the Bone』で多国籍のミュージシャンを迎え、ドナ・サマーABBAなどのメジャーなポップ・アイコンからの影響とSW「アンダーグラウンド」で培ってきた「過去の遺産」すなわち「SWレガシー」をセルフオマージュして「イマドキ」にブラッシュアップした「キング・オブ・ポップ」を発表する。新海誠『君の名は。』で自らの存在を「否定の世界」「アンダーグラウンド」から「肯定の世界」「メインストリーム」にブチ上げると、今度はSW『To the Bone』というジャスト60分のアルバムで、自らの「過去」「アンダーグラウンド」「否定の世界」から時計の針を一周(60分)させて「ポップス」という「メインストリーム」=「肯定の世界」へと一巡させる。新海誠『君の名は。』「童貞」を捧げて「ゲスの極みシン・海誠」へと生まれ変わり興行成績200億超の歴史的な映画を生み出すと、今度はSW『To the Bone』「童貞」を捧げて「シン・SW」へと生まれ変わり、自身最高位となるUKチャート週間3位を獲得する。正直、お互いにここまで理想的な童貞の捧げ方は未だかつて前例がない。つまり、この『君の名は。』における新海誠と、この『To the Bone』におけるスティーヴン・ウィルソンの共通点を見抜いた僕は、彼らと同じ「200億の童貞」と同等の価値を持つ黄金の童貞」なのかもしれない(ポスト・トゥルース)。

「ストリーミング時代」

SWは常に憂慮し続けてきた。音楽はSpotify、映画やドラマもNetflixをはじめとしたサブスクリプションの時代に移行しつつある現代のクリエイティブ業界に対して。SWは、「”アルバム”は長編映画や長編小説と同じ、ある種のリスナーや読者をその世界に連れていく機会であると捉えていて、前作の『Hand. Cannot. Erase.』ジョイス・キャロル・ヴィンセントの悲劇をコンセプトにした、それこそSWが言うような「アルバム」だからこそ表現できる作品の代表例だった。今はSpotifyなどのストリーミングで好きな曲をプレイリストにして聴く時代、つまり「アルバム」が「シングル」扱いされるようになってしまった時代に、SWは数十年前にデビューして以来ずっと「アルバム」というフォーマットに「こだわり」を持って音楽制作に挑んできた。そんな風に、身を挺して「アルバム」のフォーマットであることの重要性を問いただしてきた彼が何故、これまで否定的だったストリーミングの世界に自ら飛び込み、現代の「ストリーミング時代」を生きる「ストリーミング人間」に対する挑戦状を叩きつけたのか?



SWは、新しい作品をを出すたびにインターネット時代ならではのブログやSNSなどのツールを通じて、何時だって僕たちに新作を紐解くヒントを用意してくれる。今回は、今年に入ってからSteven Wilson' Headphone Dustなる自身のSpotifyのプレイリストを公開し、新作の『To the Bone』を紐解くヒントを与え続けてくれていたのだ。定期的に更新される、端的に言ってSW「人生のプレイリスト」には、デヴィッド・ボウイプリンスは勿論のこと、主に「80年代」の音楽からアンダーグラウンドのエレクトロニカまで、それら様々なジャンルと幅広い世代のアーティストが選曲されている。なんだろう、今回のアルバムって結局、世界的に「ストリーミング」が主流となった時代だからこそというか、その「ストリーミング時代」に対するSWなりの回答のような気もして、なんだろう、ライブじゃなくてレアなレコードを探しにわざわざ来日するくらい、アナログ(レコード)時代を生き抜いた人から、現代の「ストリーミング時代」を生きる人への『メッセージ』なんじゃないかって。つまり、「ストリーミング時代」の今はワンタッチで世界中の様々な音楽に触れることができるが、SWSpotifyなどのサブスクがこの世に存在しない時代から、それこそ両親の英才教育もあって子供の頃から世界中の音楽に人一倍触れてきた人間、言うなれば「人間Spotify」がこの「ストリーミング時代」にその是非を問いかけるような、これはもう一種の「ストリーミング・アルバム」と言えるのかもしれない。

まず今作の半数以上がシングルカットされている所からもそれは明白で、これまでのように「アルバム」のコンセプトで聴かせる意識は過去最高に薄く、それこそSpotifyのプレイリストのようにシャッフルして聴けちゃう感じというか、さっきの話じゃないけど「シングル」=「アルバム」のような一曲一曲の重みの違いというか、「アルバム」という「映画」のワンシーン(一曲)をかい摘んで聴けちゃう気軽さもあって、そういう面でも過去最高に「大衆向け」の仕様になっているのも事実で、意図的にサブスクの時代を考慮した作風でもあるのだ。でも、そのワンシーン(一曲)を一つに合わせて聴くと結局は「アルバム」というSWの自伝映画になってるオチ。勿論、先ほどの「逆再生」の話も「アルバム」というフォーマットだからこそ成り立つギミックで、それこそSpotifyのプレイリストのように曲順を自由にイジっても「逆再生」させてもいい、過去最高に「フレキシブル」なアルバムと言える。これは「アルバム」で聴く時代が終わりを告げ、「シングル」でどれだけリスナーの気を引くかの時代に、プログレッシブ・ロックという「アルバム」のフォーマットの中でしか生きられない辺境ジャンルの中で、「俺すごい」と自己満足してきたSWが出したSWなりの「アンサー・ソング」である。確かに、「エンジニア」としても活躍する彼は、いわゆる「プロダクション」の面でもその「こだわり」は人一倍強いはずで、それこそ音質などの面で「ストリーミングはゴミだ」と思ってないわけがない。そんな保守的なイメージを持つ彼が何故?って話で、これまでは「プログレ」という聴く側も前時代的な考えを持つ、それこそ音質に対する「こだわり」はポップスを聴いている人よりも強く、その音楽を嗜む上でのフォーマットもアナログレコードを中心に、最低でもCD音源で聴くのがプログレオタクなのである。しかし、イギリスではレコードの売上が好調とされる中、そこをあえて逆行するように今回メジャーデビューしたからには、これまで通りプログレオタク相手にヌルい商売やってる余裕はなくて、これから「メジャーアーティスト」として活動するにあたって、近年急成長を見せるサブスクリプション(定額制)の新潮流からは嫌でも逃れられないわけで、何よりもまず「そこ」を一番に考えなきゃいけないシン・時代に、しかもこの年になってあえて「そこ」へ挑戦する貪欲な姿勢は、まさに本当の意味で前衛的ミュージシャンと呼ぶべき事案だし、そういった意味でも今作でSW「プログレ」という枠組みから完全に脱却し、長いキャリアの中で初めていわゆる「洋楽」と呼ばれる枠組みへの仲間入りを果たしたのである。

じゃあ結局、そうする意味ってあったの?と。それは朝の情報番組などのテレビ出演を見れば分かるように、そういった積極的なマーケティング/プロモーション活動をはじめとしたマネージメントの面でも、「メジャーアーティスト」として過去類を見ないほど力を入れている。その営業努力が実った結果、今作はイギリスの週間アルバムチャートで自己最高となる3位を獲得している。しかし、それ以上に今作の「成功」を裏付ける結果がある。それはSpotifyUK「バイラル50チャート」にランクインしたことだ。「バイラル50チャート」とは、簡潔に説明するといわゆるネット上の「口コミ」に起因するチャートの事で、それってつまり、現代のSNS社会だから可能にした全く新しいバズ戦略(バズ・マーケティング)と呼ばれるものだ。もはや当初の「目的」であり「狙い」だったであろう「Spotifyにおける成功」は、この『To the Bone』の存在価値とその存在意義を俄然高める、他の何よりも重要な意味合いを持っている。

話は変わるが、メジャーに進出しない若いインディーズのアーティストが口々に言うのは、(メジャー)レーベルの意向(売上など)が優先されるようになって、自分たちが本当にやりたい音楽をやらせてもらえない、みたいな事だ。事実、レーベルから求められる売上のノルマや人気と「自分たちの音楽」の両立の難しさに悲鳴を上げているメジャーアーティストはゴマンといる。SWがこのアルバムで指し示したのは、まさにインディーズあるいは自主レーベルで培ってきた「自分たちの音楽」とメジャーレーベルから求められる「結果」を両立させた、つまりインディーズからメジャーに行っても「自分たちの音楽」を継続することは「可能」であるという重要なヒントを、実際にメジャーデビューして現実と理想の間でもがき苦しんでいる若手ミュージシャンに、「いま最も成功しているアーティスト」の一人として「勇気」と「希望」を与えるような作品でもあるんじゃないかって。



この『To the Bone』を初めて聴いた時に真っ先に何を思い出したかって、それこそ昨年公開されたジョン・カーニー監督の映画『シング・ストリート 未来へのうた』で、この映画にも先日来日したEMI所属のデュラン・デュランをはじめ、モーター・ヘッドキュアーなどのまさに「80年代」を象徴する音楽に溢れた、それこそスティーヴン・ウィルソン(67年生まれ)を筆頭に、『メタルギア』シリーズの小島秀夫監督(63年生まれ)や漫画家の荒木飛呂彦(60年生まれ)に代表される「60年代生まれ」の世代の人間は涙なしには語れない、今回の『To the Bone』と共鳴するように「80年代愛」に溢れた音楽映画の名作である。この同じ「60年代生まれ」の世界を代表する3人のクリエイターには、実のところ共通する部分があまりにも多い。SW「音楽」小島監督「ゲーム」飛呂彦「漫画」、それぞれの分野で活躍する彼らの作品を見れば明白で、それこそ「映画」だったり、あるいは「小説」だったり、あるいは「音楽」から強くインスパイアされているのがよく分かる。例えば「音楽」では、デヴィッド・ボウイプリンス「アイドル」として崇拝する対象とし、特に荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』に登場するスタンド名からも分かるように、それこそSWと同じくピンク・フロイドキング・クリムゾンなどの「70年代」のプログレをはじめ、ディオサバスなどのヘヴィ・メタルからホワイトスネイクディープ・パープル(ハイウェイ・スター)などのブリティッシュハード・ロック、ドイツ出身のCAN、そしてスパイス・ガールズなどのアイドル・ポップスにいたるまで、いわゆるMTVの全盛に強い影響を受けた一人だ。一方で小島監督『To the Bone』『シング・ストリート』と同じく「80年代」のUKミュージックとともに青春を過ごした人で、その証拠として『メタルギアソリッド5』のPVにもマイク・オールドフィールドの楽曲を使用するほどディープな音楽オタクとしても知られる。次に「映画」では、スティーヴン・ウィルソンクリストファー・ノーラン監督の最新映画『ダンケルク』の音楽を手がけた鬼才ハンス・ジマーの楽曲をSpotifyのプレイリストにいち早く選曲しているし、同じく小島監督も既にノーランと『ダンケルク』公開記念対談を実現させ、かつ『ダンケルク』のサントラをウォークマンで聴いているほどのノーラン好き&映画好きでも知られる。一方で荒木飛呂彦は、ノーランの『メメント』のオマージュとも呼べる「時間軸」を利用した演出を『ジョジョ』に取り入れたり、何と言っても映画『インターステラー』では「引力、即ち愛!!」の世界を地で行くような、それこそ『ジョジョ6部』以外のナニモノでもなくて、初めてこの映画を観た時はそれはもう衝撃的だった。その両者の作品に共通するのは名作SF映画『コンタクト』であり、それは自ずと「宇宙大好き芸人」SWとも共振する。とにかく、『時間軸』を利用したサスペンスフルな作風をはじめ、その創作理念や生活習慣までも飛呂彦はノーランに影響されているんじゃあないかと思う時がある。彼らに共通する創作理念は、いわゆる「娯楽性」と「作家性」の両立であり、そして彼らは元は「アンダーグラウンド」の住人でもあったこと。そして何を隠そう、先ほど書いた新海誠監督『君の名は。』は、一種の『新海誠なりのインターステラー』と解釈できるある意味「引力、即ち愛!!」だったし、つまり「漫画家界のクリストファー・ノーラン」荒木飛呂彦ならば、「アニメ界のクリストファー・ノーラン」新海誠であると。それを証明するように、つい先日『君の名は。』が映画『SW』シリーズでも知られるJ・J・エイブラムス(66年生まれ)プロデュースでハリウッド実写化が発表されたのは、僕の一説が正しかったことを暗に示唆していた。そして、その発表に対して小島秀夫荒木飛呂彦が嫉妬する構図w

SWが世界の出来事に憂慮するのと全く同じように、「80年代」に生まれた僕は、子供の頃から日本の政治家に代表される「日本のおっさん」に対して強い憂慮を感じてきた。なぜ「日本のおっさん」の感性は「世界一ダサい」のかと。しかしそんな中でも、唯一荒木飛呂彦小島秀夫、この二人だけは違ったんだ。この二人を「西の小島秀夫」「東の荒木飛呂彦」として解釈しリスペクトしていけば、きっと自分はいずれ「本物のオタク」になれるんじゃないかって。そして現在、僕は果たして「本物のオタク」になれたのだろうか?僕は、この記事でそれを証明したかった。だからこのレビューは、僕が子供の頃から影響を受けてきた荒木飛呂彦小島秀夫、そしてスティーヴン・ウィルソンと同年代のクリエイターをリンクさせなきゃいけない、今ここで「繋げなきゃいけない」レビューだと思った。ここを最後まで書ききらなきゃ「説得力」がないと。思い返せば僕とSWとの出会いは、このブログを初めて間もない頃に運命的に出会ったPorcupine TreeFear of a Blank Planetだった。あれから約10年、僕は「ソロアーティスト」となったスティーヴン・ウィルソン『To the Bone』を通して、荒木飛呂彦小島秀夫を共振させることに成功したのだ。僕は、この3人の作品に共通する宇宙規模の世界観や思想を経由して現代社会の瓦礫を覗いてみた時に、改めてこれからのシン・時代に必要なのは黄金のリベラリズム」であるという一つの答えに辿り着いた。まるで10年越しの伏線を全て回収するかのような、もはやこれが書きたいがためにこの10年ブログやってきた感もあって、それこそ「10年」という一周(一巡)した区切りで遂に全ての伏線が繋がったというか、僕は潜在意識の中で10年前から既にこのレビューを書く運命にあったのかもしれない。今の気分は、10年前に書き始めたレビューという名の連続推理小説をようやく書き終えたような、まるで新しいパンツを履いたばかりの正月元旦の朝のスゲー爽やかな気分だ。これはある意味、僕たち「80年代生まれ」が主催する「60年代生まれ」が集まる同窓会「60年会」だった。僕は10年かけて、この「60年会」の偉人たちが自身の作品(コンテンツ)を通して何を伝えようとしているのか、その『メッセージ』の片鱗をようやく理解できたような気がする。しっかし、この度の同窓会「60年会」の主宰を、Welcome To My ”俺の感性”の管理人である僕とやくしまるえつこに託してくれたSWには、「ありがとう」...それしか言う言葉が見つからない。何故なら、これで心置き無くこのブログを終わらせることができるのだから。

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Sólstafir 『Berdreyminn』

Artist Sólstafir
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Producer/Mixing Jaime Gomez Arellano
Jaime Gomez Arellano

Album 『Berdreyminn』
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Tracklist

02. Ísafold
03. Hula
04. Nárós
05. Hvít Sæng
06. Dýrafjörður
07. Ambátt
08. Bláfjall

アイスランドといえば、ビョークやシガーロスをはじめ、世界的に有名なアーティストを数多く排出している音楽大国の一つで、最近のロックシーンでは菅野よう子が手がけた『残響のテロル』のサントラのボーカリスト率いるAgent Frescoが注目されているが、その一方でメタル界のアイスランド代表といえば、2015年にANATHEMAとともに奇跡の初来日公演を果たした、「ブラックメタル界のシガーロス」の異名を持つソルナントカさんことSólstafirに他ならない。

2014年に発表された前作の5thアルバム『Ótta』では、シガーロスやビョークの作品でもお馴染みのアイスランドのエンジニアBirgir Jón Birgissonをプロデューサーに、「ヨンシー親衛隊」ことストリングスカルテットのAmiinaをゲストに迎えてアイスランドの老舗Sundlaugin Studioで制作された、つまりアイスランドの音楽界を支えるオールスターのバックアップを得ることに成功した作品で、ソルナントカさん「ブラック・メタル界のシガーロス」の名に相応しい地位を確固たるものとする。ところで、その「ブラック・メタル界のシガーロス」といえば、同年にフランスの貴公子ネージュ率いるAlcestが発表した『Shelter』も、エンジニアにBirgir Jón BirgissonAmiinaをゲストに迎えてSundlaugin Studioで制作された、言うなればネージュ『夢』『憧憬』が詰まった"オールスター"作品で、偶然か必然か、ほぼ同じタイミングでポスト・ブラックメタル界の二大巨頭がアイスランドの英雄シガーロスへの迎合を図ったのは、小さな界隈で起こった非常に大きな重大事件として後に語り継がれる事となる。

ちょっと面白いのは、この日本で「ブラック・メタル界のシガーロス」といえばブルータルオーケストラを自称するVampilliaで、彼らも同年にアイスランドの地でシガーロスやビョークの血が(間接的に)通った1stアルバムをリリースしており、つい最近では「日本のビョーク」として知られる戸川純とのコラボ作品『私が鳴こうホトトギス』を発表し、このたび目出度くフジロック出演も果たしている。ご存じ、Alcestの初来日ツアーからVampilliaがサポートとして付きまとっているが、それはまた別の話で、AlcestSólstafirを繋ぎ合わせる存在、そのキーパーソンとなるのが他ならぬANATHEMAの存在だ。AlcestANATHEMAは2012年に初めて対バンツアーを経験し、そのANATHEMAが2015年にSólstafirとともに初来日公演を果たすという奇跡は、未だに『夢』のような出来事としか思えない。とにかく、2014年にポスト・ブラック界で巻き起こったアイスランド音楽およびシガーロスへの迎合、しかしその影にANATHEMAの存在その影響があったことは、あの日の僕たちはまだ知らない。

2014年にネージュの『夢』を実現させた『Shelter』、その二年後の2016年にAlcestがドロップした"ビッグ・イン・ジャパン"アルバムこと『Kodama』では、さっきまでの「アイスランド音楽への迎合」から一転して、本来のポスト・ブラックメタルとしてのAlcestへの回帰、それと同時にバンドのポテンシャルおよびネージュとドラムのヴィンターハルターの"プレイヤー"としてのポテンシャルを活かした、過去最高にオーガニックなサウンドを展開していた。何を隠そう、Alcestと同じく2014年に「シガーロスへの迎合」を図ったSólstafirも、前作に引き続きプロデューサーにBirgir Jón Birgissonを迎えてSundlaugin Studioで制作され、そしてマスタリングに世界的なエンジニアで知られるテッド・ジェンセンを迎えた、前作から約三年ぶりとなる6thアルバムの『Berdreyminn』で本来の漢らしい姿を取り戻している。



それを象徴するのが、今作のオープニングを飾る"Silfur-Refur"だ。それこそ『七人の侍』ならぬ『マグニフィセントセブン』たちが荒野を舞台に西部劇を繰り広げるような、ヴァイキングの血が通った男臭い旋律を奏でるダーティなイントロから、まるで「ライオン・キング」の如くフロントマンAðalbjörn Tryggvasonの唸るようなボーカル、砂利を細かくすり潰したようなオラついたモダンなギター、いつにも増して生々しいドライブ感を放つ手数の多いドラムとベースのリズム隊が織りなす、変化球なしのドストレートなバンド・サウンドを勢い良く、目の前一面に広がるアイスランドの雄大な大地に叩きつける。

2015年の初来日公演の時に自分の前方左の座席に座っていた謎の美人が、Sólstafirのライブが終わった後に隣りのツレに放ったライオン・キングみたい・・・という、これ以上ないくらい言い得て妙な一言が、二年経った今でも忘れられないでいる。そんなSólstafirといえば、アイスランドという地の幻想的な空気感を描写するギターの歪みを最大限に利用した幽玄なアトモスフィアが一つの大きな武器で、初来日公演でもその極上の空間表現および崇高な世界観を描き出していたが、今作ではそのアトモスフェリックな空間描写は極まった感すらあり、Amiinaのストリングスを全面的にフィーチャーした前作から一転して、今作ではある種の原点に立ち返ったかのように、より素っ裸の彼らというか、獣性むき出しの男臭さと土着的な風土が混じり合ったフェロモンを身にまとった各メンバーの「プレイヤー」としての魅力、その4人のポテンシャルからなる楽器の生音を全面的に押し出した「オーガニック」なバンド・サウンドを展開している。

今作のキーワードとなる「オーガニック」な音作りの正体こそ、今作のプロデューサーおよびミキシングを担当した、Ulver界隈でもお馴染みのジェイミー・ゴメス・アレラロの手腕によるもので、つまりBirgir Jón BirgissonとともにアイスランドのSundlaugin Studioでレコーディングされ、その生音がOrgone Studiosジェイミーによって施されたミキシングを通過し、そして最後はSterling Soundテッド・ジェンセンによって施されたマスタリングで完成・・・すなわち「世界最高峰のエンジニア」と「世界最高峰のスタジオ」によって産み落とされた「世界最高峰のサウンド・プロダクション」の極上クオリティが、また「オーガニック」で「ポストメタリック」な生音感を強調する大きなギミックとしてその存在感を示している。中でも#1,#4,#8,のモダンでソリッドなギター・リフを聴けば、ジェイミーが手がけた”ポスト・ブラック界の伝説”ことAltar of Plaguesの名盤『Teethed Glory And Injury』を彷彿させるハズだし、そして全編においてドラムの音が異常に良いことが分かるハズだ。近年では、かのイェンス・ボグレンデイヴィッド・カスティロがタッグを組んだLeprous『The Congregation』に匹敵するプロダクションの良さだ。この『音』に関することだけで、前作の”オールスター”超えを目論む世界最強の布陣で挑まれた作品なのかが分かるし、正直こんな贅沢な裏方今まで見たことないわ。

その「オーガニック」なキーワードを更に強く印象づけるのが2曲目の”Ísafold”で、イントロからギターのヒロイックな美旋律をフィーチャーしながら、雄々しくもリリカルでエピカルな構成力を発揮しつつ、そのド真ん中でベーシストのSvavar Austmanによるベースソロをじゃじゃーん!と豪快にブッ込んでくる。この曲のように、曲終わりのアウトロでAmiinaがちょっと通りますよ的なノリでストリングスを靡かせるが、しかしAmiinaのストリングスが「主役」と言っても過言じゃなかった前作とは打って変わって、あくまでも今作の主役は「プレイヤー」の演奏であると、裏方や脇役(ゲスト)ではなく、あくまでもメンバー4人が織りなすバンド・サウンドが主役だと念を押すかのようなキラートラックだ。

ピアノと管楽器が織りなすアイスランドならではの素朴な音色、そしてクワイヤとソプラノボーカルを駆使してよりスケール感を増すシンフォニックなアプローチがアイスランドの雄大な自然と大地に響き渡る3曲目の”Hula”、幻想的なアトモスフィアをミニマルに形成していく幕開けから、突如プログレスに転調してメタリックなギターのモダン・ヘヴィネスでゴリ押していく4曲目の”Nárós”、アイスランドという自然豊かな絶景の地の優美なオモテの世界を描写するAmiinaのストリングス、一転してアイスランドという厳しい極寒の地のウラの側面を歪んだギターで描写する6曲目の”Dýrafjörður”、ヴィンテージ風のキーボードと初期Alcestを彷彿させる曲調および世界観の中で、今度は新ドラマーのSæþór M. Sæþórssonによるドラムソロが主役となる7曲目の”Ambátt”、キーボードとパイプオルガンによる宗教絵画の如し神聖な幕開けから、徐々にギアを上げてスピード感を増していき、途中でメタリックなギターのキザミリフを挟んで、その勢いのままポストブラック畑出身らしく刹那的な感情を撒き散らしながら最後まで走り抜ける。

あらためて、『黄金比』で象られた雪の結晶が真っ白な雪化粧を施すかのように、それこそオーロラの如し繊細なアトモスフィアとアイスランドの雄大な自然と大地を象徴するかのようなスケール感溢れるバンド・サウンドの融合は、通算6作目となる本作でも、よりリズム隊を中心としたグルーヴ感マシマシの飲んだくれ系ロックンロールは健在かつ不変で、もはやポストロックやブラック・メタルなどのジャンルを超えた先にあるアイスランド・ミュージック、それこそソルナントカ・ミュージックを極めている。確かに、今作は余分な贅肉を削ぎ落としたような「オーガニック」な音作りだけに、これまでと比べると一見地味に聴こえるかもだが、しかしロックバンドらしい「オーガニック」な音を求める人には間違いなく前作以上の傑作に聴こえるハズだ。ましてや、Alcest『Kodama』と共振させれば、この上ない面白さで楽しめるに違いない。正直、あれ(ブラック・メタル界のシガロ)以上やれることないんじゃないか、ドラムが脱退して一体どうしたものかと不安に思っていたけれど、実際は全然そんなことはなかった。是非またANATHEMAとともに再来日を期待したい。

SikTh 『Opacities』

Artist SikTh
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EP 『Opacities』
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Tracklist
01. Behind The Doors
02. Philistine Philosophies
03. Under The Weeping Moon
04. Tokyo Lights
05. Walking Shadows
06. Days Are Dreamed

復活 ・・・2001年にイギリスはワトフォードで結成された6人組のSikThは、2002年にEPの『How May I Help You?』で鮮烈なデビューを飾り、2003年には1stフルアルバム『The Trees Are Dead & Dried Out Wait for Something Wild』を発表、そして2006年に傑作と名高い『Death of a Dead Day』をリリースし、その破天荒で複雑怪奇な展開とラップ&ハイトーンのツインボーカルを駆使した、言うなればハチャメチャごった煮エクストリームおっぱいサウンドでリスナーのド肝を抜き、一瞬にしてその名をアンダーグラウンド・メタルシーンに轟かせた。しかし2008年に解散。今なお一部のフアンの中ではカルト的な、一種のレジェンド的なバンドとして崇拝されている。そんなドチャクソ変態クソ野郎が解散から約7年の時を経て、かのPeacevilleから奇跡の復活作となるミニアルバム『Opacities』を発表した。



音合せ ・・・幕開けを飾る#1”Behind The Doors”からして、Textures顔負けのグルーヴィなヘヴィネスを乗せてメタルコアっぽく始まり、ドレッドヘアをチャームポイントとするミキー・グッドマンのラップとバンドの中心人物であるジャスティン・ヒルによるエモいハイトーンボイスが奇妙奇天烈に絡み合い、転調を効かせた中盤以降の展開もSikThらしさに溢れている。次の#2”Philistine Philosphies”では、俄然USヌー・メタル的な縦ノリグルーヴを効かせたモダン・ヘヴィネスとミキーのアヴァンギャルドなラップ、そして今世紀最大のエモーションをブチかますジャスティンの超絶ハイトーン・ボイスに胸を打たれ、そして全盛期のSikThがカムバックしたような転調以降のテクデス然とした展開は、これは紛れもなくシクス、変わらないシクスの完全復活を宣言するかのよう。その後も、今作をリリースした直後に来日公演を行うほどの親日家ぶりを垣間見せる#4”Tokyo Lights”を織り込みながら、初期のマスコア的な要素とアトモスフィアを取り入れた#5”Walking Shadows”、バンドの新機軸を予感させるPost-的要素を取り入れた#6”Days Are Dreamed”まで、流石に復活前のメカニカル感やドが付くほどぶっ飛んだ変態度こそ薄いが、全盛期のシクスと比べると比較的素直というかマジメなグルーヴ・メタルやってて、でも中には新しい試みを垣間見せたりして、そう遠くない未来に出るであろうフルアルバムに俄然期待を持たせる、この全6曲トータル27分に凝縮された音から次作を無限大に妄想させるような一枚だ。というより、彼らにとってこのEPはあくまでも顔合わせ、すなわち音合せ(サウンドチェック)程度の実力に過ぎないのかもしれない。

元祖 ・・・解散から7年の間、この手の界隈には様々な変化が起きた。中でも筆頭なのはDjentの台頭で、シーンを代表するUSのペリフェリーやUKのテッセラクトをはじめ、この手のジャンルやテクデス界隈のバンドでシクスの影響を受けていないバンドなんてこの世に存在しないんじゃないかってくらい(その影響は日本のマキシマム・ザ・ホルモンにまで及ぶ)、スウェーデンのメシュガーとともにDjentの元祖であり、Djentの原型を作り出した偉大なバンドである。彼らが冬眠する間、ペリフェリーやテッセラクトがシーンを牽引し、共に3作目でこれまで"アンダーグラウンド"なジャンルだったジェントを"メインストリーム"にブチ上げることに成功した。もはやシクスが産み落とした子(後継者)が親から授かった使命を貫き通し、切磋琢磨し合いシーンの『未来』を切り拓いていく姿に、子が親という偉大な存在を超えていく姿に、僕はマシュー・マコノヒーばりに咽び泣いていた。

新世界の神 ・・・テッセラクトのフロントマンことダニエル君が『惑星ポラリス』の中で「俺がジェント界の夜神月だ」とシーンに宣言したこのタイミングで、夜神月の「新世界の神」となる『野望』を阻止するため、ニアとメロのツインボーカル率いるシクスは復活したんだ、という風に考察すると俄然この手の界隈が面白く見えてくるかもしれない。ともあれ、このEPは「フルいけるやん!」と確信させるような、文句のつけようがない復活作です。
 
Opacities
Opacities
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Sikth
Imports (2015-12-11)
売り上げランキング: 21,096

Swallow the Sun 『Songs From The North I, II & III』

Artist Swallow the Sun
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Album 『Songs From The North I, II & III』
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Disc I [Songs From The North I]
Cover

Tracklist 
01. With You Came The Whole Of The World's Tears
02. 10 Silver Bullets
04. Heartstrings Shattering
05. Silhouettes
06. The Memory Of Light
07. Lost & Catatonic
08. From Happiness To Dust

Disc II [Songs From The North II]
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Tracklist
01. The Womb Of Winter
02. The Heart Of A Cold White Land
03. Away
04. Pray For The Winds To Come
05. Songs From The North
06. 66°50´N,28°40´E
07. Autumn Fire
08. Before The Summer Dies

Disc III [Songs From The North III]
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Tracklist
01. The Gathering Of Black Moths
02. 7 Hours Late
03. Empires Of Loneliness
04. Abandoned By The Light
05. The Clouds Prepare For Battle

イェンス・ブーム ・・・スウェーデンのDraconianと並んでメロドゥーム界を牽引するフィンランドのSwallow the Sunも、00年代後半のメタルシーンに突如として巻き起こった【イェンス・ブーム】、そのビッグウェーブに乗ってイェンス・ボグレン【No 実質 Jens!! プロデューサー】に起用した2009年作の4thアルバムNew Moonで、いわゆるメタル界の迷信を説き明かす事に成功したバンドの一つだ。しかし、間もなくイェンスから離れ、再び地元フィンランド人中心の人選でレコーディングされた次作の5thアルバムEmerald Forest And The Blackbirdでは、従来のOpethリスペクトやシンフォブラックなどの他に、アコースティック/フォーク・ミュージックの要素を大胆に取り入れ始めていた。しかし、如何せんイェンス・マジックによって生まれた傑作『New Moon』と比べると、元Nightwishアネット・オルゾンとのフィーチャリング以外これと言って特に見所はなかった気がする。そんな彼らの約三年ぶりとなる6thアルバム『Songs From The North I, II & III』は、何を血迷ったのかCD三枚組トータル約二時間半、軽く映画越えしちゃう超特大ボリュームとなっている。



『Ⅰ』 ・・・まずは一枚目の『Songs From The North I』。幕開けを飾る#1”With You Came The Whole Of The World's Tears”は、まるでX JAPAN”Voiceless Screaming”を彷彿とさせる、寂寥感を煽る80年代のフォーク・ソング顔負けのしみったれたアルペジオから始まり、前作を踏襲したまるでオーロラの如くエメラルドグリーンに、いや瞳のように透き通ったエメラルドブルーに煌めくキーボード、デプレブラック流れのノイズ感というかモダンだが粗暴な轟音ヘヴィネスからはポストブラックとも取れるアプローチを垣間見せ、鬱屈かつ荒涼とした空間が支配する一種のドゥームゲイズが、フィンランドという名の極寒の地に蠢くカオティックな狂気を浮き彫りにする。一枚目のリード・トラックとなる#3”Rooms And Shadows”では、フロントマンであり"ニット帽おにいさん"ことミッコの寂寥感溢れるボーカル・メロディからは、フォーク・ミュージックや北欧民謡の名残を漂わせるし、アウトロのGソロではX JAPAN”THE LAST SONG”に匹敵する泣きメロっぷりを発揮。ex-KATATONIAのノーマン兄弟が加入した事でも知られる、バンドの中心人物であるギタリストJuha RaivioのサイドプロジェクトTrees of Eternityでお馴染みのAleahとフューチャリングした#4”Heartstrings Shattering”、ドイツ出身のSarah Elisabeth Wohlfahrtとフィーチャリングした#6”The Memory Of Light”と#7”Lost & Catatonic”などの女性ボーカルをフューチャーした楽曲は、氷上の女神を司った今作のフェミニンなアートワークを象徴するかのよう。そして、ケルティックな音色とストリングスが優美に氷上を舞い踊るイントロから、雪の結晶の如し繊細なメロディに魅了される”From Happiness To Dust”で、美しくも清らかなエンディングを迎える。

懐メロ ・・・この一枚目は、前作を踏襲したフォーキーなアプローチ、俄然アンビエントな音響空間を意識したより幅広いアレンジが施されたキーボード、LantlôsAlcestをはじめとしたフレンチ産ポスト・ブラック勢からの強い影響下にある轟音ヘヴィネス、そして昭和歌謡を経由したX JAPANばりの歪んだ泣きメロを全面にフューチャーした叙情性と極寒の地の厳しさや孤独感を露わにする暴虐性、その静と動のコントラストを強調した、要するにこれまでのSWSらしいゴシック・ドゥームの王道的な作風となっている。その持ち味とも呼べる静から動への転換がプログレ並にスムーズで、安直に「いつものSWS」とか言いながらも、音の細部には確かな進化を伺わせる。これはフィンランド映画の巨匠アキ・カウリスマキの映画に使われている音楽を聴いて思ったんだが、フィンランド人の音楽的嗜好って日本を含む東アジアの歌謡曲が持つ民謡的で情緒的なメロディに近い、極めて親和性が高いというか、少なくともこの『Ⅰ』の音には、このSWSもそのフィンランド人特有の"懐メロスキー"の継承者である事を証明する、と同時にスオミ人の知性と(気候とは裏腹に)心温かい情念が込められている。

『Ⅱ』 ・・・今時、メタルバンドがアコースティック路線に傾倒する例は決して珍しくない。この手のバンドで代表されるところでは、スウェーデンのKATATONIAやリヴァプールのANATHEMAがそうだ。その時代の流れに取り残されんとばかり、この『Ⅱ』の中でSWSはアコギやピアノ主体のフォーク・ミュージックを展開している。川のせせらぎと共に、真夜中の浜辺でただ独り佇むような悲しみの旋律を奏でるダークなピアノインストの#1”The Womb Of Winter”で幕を開け、アルペジオを駆使した優美でフォーキーなサウンドがフィンランドの雪景色のように純白の心を映し出すような#2”The Heart Of A Cold White Land”KATATONIAのヨナスきゅんや中期ANATHEMAのヴィンセントリスペクトなミッコのボーカル・メロディが俄然フォーキーに聴かせる”Away”、そしてフィンランドのSSWで知られるKaisa Valaとフューチャリングした表題曲の”Songs From The North”では、Kaisa『叙事詩カレワラ』に登場する『大気の処女イルマタル』となってフィン語で優しく歌い上げることで俄然民謡チックに聴かせ、この三部作のハイライトを飾るに相応しい一曲となっている。その後も、Alcestもビックリのリヴァーヴを効かせたデュリーミーな音響空間とトリップ・ホップ的なアレンジを施したオルタナ風のオープニングから、緯度"66°50´N,28°40´E"に位置する北国の幻想的な白夜の静けさを音(インスト)だけで描き出し、An Autumn for Crippled ChildrenHypomanie、そしてCold Body Radiationをはじめとしたダッチ産シューゲイザー・ブラック顔負けの吹雪くような美メロをフューチャーした#7”Autumn Fire”、そしてラストの”Before The Summer Dies”までの後半の流れは、決して「いつものSWS」ではない、言わば新機軸とも呼べるモダンなアプローチや音使いをもって情緒豊かに聴かせる。もはや「こいつらコッチ路線のがいい曲書くんじゃネーか?」ってくらい、モダンな要素と持ち前の懐メロ感を絶妙な具合にクロスオーバーさせている。

『Ⅲ』 ・・・一枚目の『Ⅰ』では「いつものSWS」を、二枚目の『Ⅱ』では「新しいSWS」を、そして三枚組の最終章に当たる三枚目の『Ⅲ』では、メロディを極力排除したフューネラル/デス・ドゥームメタルの王道を展開している。さっきまでの美メロ泣きメロの洪水とは打って変わって、アートワークの下等生物を見下すドSな女神に「もう許して...許してクレメンス・・・」と懺悔不可避な容赦ない破滅音楽っぷりを見せつけ、さっきまでの夢の世界から一転して惨憺たる絶望の淵へと追いやられる。曲の中にも静と動の緩急を織り交ぜるだけでなく、アルバム単位でも音の強弱やギャップを効かせた演出を織り交ぜた謎のスケール感を強調する。

大気の処女イルマタル ・・・やっぱり、この三枚組で最も面白いのは二枚目だ。隣国のスウェーデン人の音楽と比べると、どうしても不器用さが気になってしまうフィンランド人の音楽だが、この二枚目ではフィンランド人なりの器用さを垣間見せている。それこそ、今作のアートワークを冠した女神『大気の処女イルマタル』が身にまとった大気(Atmospheric)を体外に放出するかの如く、とにかく真珠が煌めくような音響空間に対する意識の高さが尋常じゃない。この二枚目で目指した理想像でもある、KATATONIA『Dead End Kings』をアコースティックに再構築したDethroned & Uncrownedとほぼ同じ作風とアレンジだが、Alcestリスペクトな音響/音像をはじめ民謡風のメロディだったり、フィンランド人の根幹にある民族的な土着性とフォーク/アコースティックなサウンドとの相性は抜群で、さすがにヨナスと比較するのはヨナスに失礼かもしれないが、ミッコのボーカル・メロディに関してもイモ臭さは程々によく練られているし、歌い手としてのポテンシャルを過去最高に発揮している。

臨界点 ・・・この手の界隈で比較対象にされるDraconianと同郷のAmorphisイェンス・ボグレンデイビッド・カスティロを起用した、いわゆる【勝利の方程式】を説き明かして今年2015年に勝ちに来た一方で、このSwallow the Sunはこの三枚組の中で、メロドゥームとしての王道路線で対抗すると共に、KATATONIAANATHEMAなどの先人たちにも決して引けを取らない、モダンでアコースティックな路線でも対等に勝負できることを証明した、どの方向性、どのジャンルにも一切の妥協を許さない攻めの姿勢に僕は敬意を表したい。失礼だが、フィンランド人だけでここまでの仕事ができるなんて思ってなかったし、新作が三枚組だと聞いた時は血迷ったなって全く期待してなかったから、いい意味で裏切られた。ある意味、未だ誰も超えたことがなかったスオミ人としての臨界点を超えたと言っていいかもしれない。正直スマンかった。
 
Songs From the North I & II & III
Swallow the Sun
Century Media (2015-11-13)
売り上げランキング: 6,741

Soilwork 『The Ride Majestic』

Artist Soilwork
Soilwork

Producer/Mixing/Mastering Jens Bogren

Jens Bogren
Recording/Engineer David Castillo
David Castillo

Album 『The Ride Majestic』
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Tracklist
01. The Ride Majestic
02. Alight In The Aftermath
03. Death In General
04. Enemies In Fidelity
05. Petrichor By Sulphur
06. The Phantom
07. The Ride Majestic (Aspire Angelic)
08. Whirl Of Pain
09. All Along Echoing Paths
10. Shining Lights
11. Father And Son, Watching The World Go Down

ビョーン「イェンス先生、復活したいです・・・」

イェンス「ならテメーら大人しく俺の言うこと聞いとけや」

ビョーン「は、はい・・・」

イェンス「ソイルよ、モダン(アメリカ)の時代は終わった!北欧魂を取り戻せ!」

ビョーン「うおおおおお!!ピロピロピロピロピロ♪ランランララランランラン♪」

勝利の方程式 ・・・いわゆる「イェンスと組んだ一作目は名作になる」というメタル界の迷信には、時として例外も存在する。厳密には、時としてイェンス・ボグレンは迷走したベテランの進路修正役としてその任務を果たしたり、時としてイェンス・ボグレンは落ち目バンドを蘇らせる"復活請負人"としての役割を担う事がある。元嫁が怪談作家の宍戸レイで知られる、フロントマンビョーン・スピード・ストリッド率いるこのSoilworkも例外ではなく、2007年作の7thアルバム『Sworn to a Great Divide』をリリースした時は、00年代以降のモダン・メタルコア/メロデスブームの終焉を告げる近年メタル界三代駄作の一つで、もはや「こいつらこれからどーすんの...」ってくらい、事実解散する可能性すら否定できない謎の絶望感すらあって、しかしその解散危機を回避する為にSoilworkが"復活請負人"として選んだ人物こそが、他でもないイェンス・ボグレンだ。イェンスとのなりそめは、世紀の駄作から約三年ぶりとなる2010年作の8thアルバムThe Panic Broadcastで、この時点ではまだミキシングエンジニアとしての関係だったが、二枚組の大作となった次作の9thアルバムThe Living Infiniteで、本格的にプロデューサーとして初タッグを組んだ結果、かつての栄光を失ったSoilwork『イェンスという名の電車』に乗って、見事メタルシーンに返り咲く事に成功するのである。実質的に、「イェンスと組んで3作目」となるSoilworkの10thアルバム『The Ride Majestic』は、いわゆる「イェンスと組んだ一作目は名作になる」というメタル界の迷信を只の迷信で終わらせるような、一時はどん底まで堕ちたバンドには到底思えないほど、「This is Melodeathッ!!」な傑作となっている。それもそのはず、彼らは遂にイェンスだけじゃ飽きたらず、MoonspellLeprousの新譜でもお馴染みのDavid Castilloをエンジニアとして迎えており、つまり今作は【Jens Bogren×David Castillo=勝利の方程式】が実現した、約束された傑作なのだ。

集大成 ・・・オープニングを飾る表題曲#1”The Ride Majestic”のストリングスを交えたメッロメロなイントロから、ビョーンのクリーン・ボイスが炸裂するサビメロや叙情的なGソロまで、俺たちがソイルに求めている要素が凝縮された楽曲で、ダークという名のブラストに乗ってカオティックに展開する#2”Alight In The Aftermath”、ここにきてボーカリストとしてのポテンシャルを限界突破していくビョーンのクリーン・ボイスが冴え渡る#3”Death In General”、そして今作のハイライトを飾る#4”Enemies In Fidelity”までの序盤だけでガッツポーズ不可避だ。しかしそれ以降も走るのなんの。中でもメロブラ然としたブルータリティ溢れる#6、Rolo Tomassiみたいなマスコア風のオシャンティな単音リフを擁した裏表題曲の#7、その勢い最後まで衰えるばかりか、まるで今の脂が乗った彼らのように増すばかりだ。それこそ、"メロデス"とかいうサブジャンルとしての彼ら以前に、"北欧メタル"として"北欧メタル"であるべき真の姿を取り戻すかのよう。なんだろう、イェンスから「とりあえず走れ」「とりあえず弾け」「とりあえず歌え」という3つのシンプルな指令があったんじゃあないかってくらい、いま最もメタル界隈でキテるエンジニアが一同に集結した、そして「イェンスと組んで3作目」の円熟からなる近年ソイルの集大成であり最高傑作だ。
 
ライド・マジェスティック
ソイルワーク
マーキー・インコーポレイティド (2015-08-26)
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